鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その5

2009-11-09 06:43:06 | Weblog
 「富士健康センター前」バス停を過ぎて間もなく、「←延喜式内名神大社 河口浅間神社 0.1km」「河口湖役場河口出張所 0.1km」などと記された案内標示が見えてきました。

 ここにも浅間神社があるのです。今まで浅間神社は数多く見てきました。富士山周辺の浅間神社は大きく、村山・富士宮・須走など、巨大な杉を神木とした神社は迫力がありました。富士山周辺の大社の場合、それは登山道の入口部分にありました。

 今回は、古写真の撮影地点を比定することが目的だったので、河口浅間神社に立ち寄ることはしないで、道を直進しました。

 河口浅間神社の入口には、「式内大社 浅間神社」と刻まれた石柱が立っています。

 「河口局前」バス停を過ぎたところで、道を振り返って見ると、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』のP15下の写真、「河口村の風景」によく似た風景がありました。沿道に植えられた樹木は大きくなっていますが、奥の山の形やその稜線の重なり具合はほとんど同じです。

 この古写真は、河口村の鎌倉街道の路上から、御坂峠方面を写したものであったのです。

 さらに撮影地点を絞るべく、背後を振り返りつつ、道を進みました。ポイントは、古写真の上部、中央やや右側奥の山と、その手前の山の重なり具合。奥の山の稜線が右側に下っていき、その稜線が手前の山の稜線の上にわずかに見えているところです。この微妙な重なり具合のところをさがしていくのです。

 道筋左手に、石垣の上に木の柵で囲われた道祖神がありました。先ほど「ヤマザキ ショップ」の前で見た道祖神と同じ形で、屋根形のある道祖神でした。違うのは、先ほどのは溶岩のような岩の上にあったのが、これは石垣の上にあるということと、木の柵で囲まれているということ。鳥居もあります。

 奥の山の稜線の右側がわずかに手前の山の稜線の上にのぞいているのが見える地点に至ったのは、ガソリンスタンド(道路右手)の前あたりでした。しかし、道はこれより少し手前からややカーブしており、古写真のそれとは異なっています。古写真の場合、道は奥の山すその方へ真っ直ぐに延びているのです。

 ということは、もし道筋がかつてとは異なっていないとするならば、このガソリンスタンドよりも少し戻ったところ、カーブが始まるところが撮影地点ということになります。右側(御坂峠に向かって)にこんもりとした屋敷林があり、これが山の稜線の微妙な重なりを見えにくくしています。この屋敷林は古写真には見られない。

 古写真の河口村は、いたって整然としています。ほとんどは2階建てで、屋根もすべて板葺き。板葺きの屋根には、屋根をおさえるための石が載せられています。道の両側には用水路があり、路面両側には、茣蓙(ござ)が敷いてあります。茣蓙については、私は最初は石が敷いてあるのかと思っていましたが、よく見てみるとこれは茣蓙。その敷きつめられた茣蓙の上に、ところどころ白い布か何かのようなものが広げてあります。

 この写真を臼井秀三郎が撮ったのは。明治15年(1882年)7月14日のお昼頃。夏の盛りの暑い時間帯。その時間帯で、村人は茣蓙や白い布か何かのものを日干ししていることになります。真ん中の人が通る道を空けて、その両側にはずっと茣蓙が敷かれているようすを、ギルマール一行や臼井秀三郎はもの珍しく思って、写真に撮った(撮らせた)と思われます。写真手前右側には、塵取りの箱のようなものも置いてあります。

 この日干しされている茣蓙は何に使ったものなのか。白い布か何かのように見えるものは何に使ったものなのか。これらは、この河口村の当時の生業(なりわい)と密接な関係のあるものに違いない。

 この古写真の風景についてたずねるべく、ガソリンスタンドに店主らしき人とお客さんらしき人がいるのを見かけたので、まずそのガソリンスタンドに立ち寄ってみることにしました。もちろん、手には河口村の写った古写真を持っています。

 このガソリンスタンドで聞いたことから、次々と、「手づる」がつながっていき、思いがけぬ出会いが生まれ、またその古写真に含まれている新たな細かい情報を手に入れることができました。

 これには正直、たいへん興奮を覚えました。


 続く


○参考文献
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』小山騰・写真師臼井秀三郎(平凡社)


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