鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その2

2009-11-05 06:57:12 | Weblog
 舗装されていない、林道のような道をしばらく行きますが、沿道の樹相は檜峯神社へ至る参道の沿道の樹相とは大きく異なります。檜峯神社参道の沿道の場合は、水源涵養林でありまた檜峯神社の社有地ということもあって、深山の中を歩いているかと思うほどに深閑としていましたし、また深い森が広がっていました。

 しかし、この御坂みちの林道のようなところは、治山工事が行われ、またどこからかモータの大きなうなり音が聞こえてきて、「峠道文化の森」に入っているわりには、落ち着きがなく閑静でもありません。

 工事用の車両も入っているようです。

 「峠道文化の森入口」の標柱から10分ほどその林道のような道を歩くと、「工事中につき通行止」「工事中 工事名黒岳東治山工事 峡東林務環境事務所」と書かれた看板が現れました。

 先ほどの看板にも「山梨県 甲府林務事務所」とありましたが、「林務事務所」とか「林務環境事務所」といった名称は、今まで余り見かけたことがない名称でした。

 どういう役所の管轄下にある事務所なのだろう。

 「通行止」で行き止まりかと思いきや、「←御坂峠」と記された道標が左手にありました。その指示に従って、左手の道へ入っていくと、まもなく沢(これが小川沢でしょう)を手すりのある簡単な橋で越え、右折して山の斜面の道へと入っていきました。

 先ほどまで聞こえていたモーターのような大きなうなり音は、いつのまにか聞こえなくなっています。あれは、もしかしたら沢の水を集めて発電する小さな発電所のようなものかも知れない。

 周囲は開け、周囲の朝日に照らされた山稜が見渡せます。

 コースを外れないように張られたロープがあるものの、ようやく峠道らしい雰囲気が出てきました。「→御坂峠」「←藤野木」の案内板もあります。峠道は枯れ葉に覆われ、その枯れ葉から苔むした石や同じく苔むした倒木がところどころに露出しています。

 「←御坂峠 50分 藤野木 50分→」という案内板が現れたのは6:37。藤野木バス停付近を出発して40分ほどが経過しています。ここが御坂峠と藤野木のちょうど中間あたりということになる。ということは、藤野木宿から御坂峠(峠頂)までは、およそ2時間弱の行程ということになります。河口村までの下りもおおよそ同じくらいの時間がかかるとすれば、藤野木宿~河口村までは、休憩や昼食時間などもいれておよそ5時間前後ということになるでしょう。

 左手には、「歴史文化公園『御坂路』 行者平→ 御坂町・御坂町教育委員会」と書かれ案内標示も立っていました。

 「行者平」は、すぐにありましたが、斜面ながらやや平らで広くなった場所。「この地は昔、役(えん)の行者が修業した…跡です」と記された古い案内板が立っており、また古い2体の石像も、その跡を示すかのように苔むして残っていました。この平地は、おそらく修験道の行者の修業地であるのでしょう。幕末頃まで、その修験道の修業地として機能していた場所であるのかも知れません。こういう場所は、丹沢山中やその周辺地域でも見かけたことがあります。

 そこを過ぎると、峠道はいよいよ傾斜を増していき、ようやく古い峠道としての雰囲気が濃くなってきました。

 しかし、早朝ということもあって、歩いている人は一人もいません。


 続く


○参考文献
・『樋口一葉と甲州』(山梨県立文学館)
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』小山騰・写真師臼井秀三郎(平凡社)


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