鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その6

2009-11-10 06:57:13 | Weblog
 ガソリンスタンドにいた方(店主とお客さん)に古写真を見てもらったところ、店主は、この写真は山の形からも見てもこのあたりから写したものであると言い、さらにこれと同じような写真を最近見たことがある、と言われました。

 「どちらでですか」

 とお聞きすると、「たしか、少し先のN・Kさんのお宅で見せてもらった」とのこと。

 お客さんの男性は、古写真を見て、「いやあ、自然はたいしたもんだ。昔も今も、山の形はまったく変わっていないんだから」と感嘆することしきり。

 店主に、

 「この道は少し曲がっていますが、これは昔からですか」

 と聞くと、

 「この道は変わっていないよ」

 つまり、微妙なカーブがガソリンスタンドのやや御坂峠寄りから始まっているのは、昔ながらだということでした。

 ということは、この古写真の撮影地点は、やはりガソリンスタンドよりやや御坂峠寄りのところ。カーブが始まっているところあたりから、通りの真ん中で、真っ直ぐに山裾に向かって延びている往還とその両側の河口村の家並みを撮影したことになる。

 そのことを確認できたので、店主の奥さんからN・Kさんのお宅がある場所を教えてもらい、道を戻って、その通り右手のN・Kさん宅の門を潜りました。

 玄関を開けて声を掛けると、若い男性が出てきました。N・Kさんのお孫さんでしょうか。用件を言い、古写真を見てもらって、

 「この写真は、明治15年、今から127年前にNさんのこの家の前あたりから撮影したものだと思われますが、この風景になにか見覚えがありますか」

 とお聞きしました。

 「ガソリンスタンドの方から、Nさんのところでこれと同じような写真を見せてもらったことがあるとお聞きしたんですが……」

 するとお祖母ちゃんと思われる方が顔を出されて、この写真そのものについては見覚えがないが、この写真はたしかに家の前あたりから写されたものだと言われました。

 また奥の部屋におられたN・Kさんと思われるお祖父さんも、奥の部屋から会話に加わり、その人たちの会話の中から、古い河口村の写真が富士河口湖役場の河口支所にあるということや、町の文化財課の学芸員であるSさんがそのことに詳しいかも知れない、といった情報を得ることができました。また昔ながらの古いお屋敷が残っていて、そこにはI・Mさんというおばあちゃんが住んでいるということも。

 古写真を見てもらっていて、私が気付いていなかったことに気付かされたのは、お祖母ちゃんの一言でした。それは、写真の中央、往還の右側、人家の前にある石垣でした。

 「これは道祖神で今も残っていますよ」

 よく見てみると、確かに石垣が5段ほどあって、その上に道祖神があるようだ。

 ここまで来る途中に、石垣の上に木の柵で囲まれ、ちいさな鳥居まである、屋根形の道祖神がありましたが、この古写真にその道祖神が写っていたのです。

 今はコンクリートのブロック塀などがあって、写真ほど目立ったものではありませんが、家並みのようすはまるっきり変わっていても、その道祖神だけはかつてのままにその位置に今でもちゃんと残っているのです。

 この道祖神の位置が確認されたということは、この古写真の撮影地点、つまり臼井秀三郎がカメラ器材を設置した場所は、ほぼこのN・Kさん宅の前あたりであることは確定的になります。

 古写真で言えば、この道祖神のある右手の家から4軒目あたりが、写真には写っていないけどもN・Kさんのお宅と思われ、このN・Kさんの家あたりから道はゆるくカーブを始めています。

 この写真を見ると、道祖神のあるあたりから道を隔てた反対側の家(道路左側)から手前3軒目の家の玄関口に、着物を着た男性とその子どもらしき人物が立っていて、臼井の方を見ているのがわかります。

 このお宅は、何という苗字の家であるかを確かめるために、N・Kさんの家をお礼を述べてお暇(いとま)した後、通りの反対側をやや戻ってみることにしました。


 続く


○参考文献
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』小山騰・写真師臼井秀三郎(平凡社)所収「ギルマールが収集した日本の写真」「ヘンリー・ギルマール」「『いなごの喰った年』(第五巻、翻訳)」「資料解説」など。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿