鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.5月取材旅行「両国~お茶の水~四谷」 その最終回

2010-05-27 06:22:04 | Weblog
 飯田橋駅の「親水公園」は、新緑の美しい樹木が繁り、また蛇行する人工のせせらぎがあって、そこにいくつかの木造の橋が架かっており、なかなか風情がありました。こういうスペースが駅のそばにあるというのは、ある意味でぜいたくことで、「都会のオアシス」という言葉を久し振りに思い出しました。せせらぎにカメラを向けている外国人もいます。せせらぎの長さはおよそ230m。かつてここには牛込揚場があって、米・味噌・醤油・酒・材木などが高瀬船などによって運ばれ、陸揚げされていました。

 この飯田橋駅があるあたりには、かつて飯田濠がありました(そこに神楽河岸があったのです)が、昭和47年(1972年)、地元の反対を押し切って開発事業が進められ、埋め立てられました。道路脇にある石垣は江戸時代のもの。

 左折して牛込橋を渡りましたが、この橋の真ん中で振り返ると、北へと真っ直ぐに「神楽坂通り」が延びています。

 渡って左手に「千代田区町名由来板 富士見二丁目」。また牛込御門(牛込見附)跡もありました。「牛込橋」は、この「牛込見附」の一部をなす橋で、現千代田区側を「番町方」、現新宿区側を「牛込方」と言いました。

 この「牛込見附」は、田安門から始まる上州道(川越街道)が通る道筋にあり、やはりここにも「枡形(ますがた)」があったわけですが、その跡がかなりしっかりと残っています。

 渡って、すぐに右折します。

 左側は富士見二丁目で、右側は外堀となる。

 この「江戸城外堀跡」として国指定史跡となっています。「外堀跡」は、石垣・堀・土手・見附けで構成されていますが、その石垣で築かれた土手の上を歩くことになります。左に東京逓信病院や法政大学のキャンパスなどを見て、そして右手には樹木越しにお堀や中央線を行き交う電車を見ながら歩いていく遊歩道ですが、「都心の中にこのような遊歩道が……」と思うほど、貴重で魅力的なウォーキングコースでした。

 「新見附」交差点を、右手に「新見附橋」を見て直進。

 市ヶ谷御門があったところには石垣石は残っていますが、「枡桝」は現存していません。

 東京メトロ南北線市ヶ谷駅構内には「江戸歴史散歩コーナー」というのがあるということで、地下鉄入口を下りていき探してみましたが、どうも改札を入らないと見ることができないようで、今回は割愛。また後日、機会があったら寄ってみることに。

 出口へと上がり、「靖国通り」を渡って市ヶ谷駅前を左折。みずほ銀行を過ぎて右折しましたが、この道は、ジョルジュ・ビゴーの旧宅があったところを確認するために前回の取材旅行で歩いたところ。左手の「ルノアール」が入っているビルのあたりが、ビゴーの旧宅(の一つ)の跡地でした。

 この道をしばらく進んで、右手に入り、ふたたび外堀の土手の上を歩いて、四ツ谷駅に着いたのが14:59。この四ツ谷駅前は「番町六丁目」となり、上智大学のビルなどが見える。

 ここから新宿方面へ延びる広い通りが「新宿通り」で、かつての「甲州街道」。その「四ツ谷見附橋」を渡って、JR四ッ谷駅の赤坂口へと向かいました。


 終わり


○参考文献
・『江戸東京の神田川』坂田正次(論創社)
・『江戸城を歩く』黒田涼(祥伝社新書/祥伝社)


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