素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

ツアーの土産は、ひまわり畑の写真

2024年07月27日 | 日記
 妻と長女がたびパルの日帰りバスツアーに出かけた。佐用町の南光ひまわり園を見て、岡山で白桃狩りをして帰るというものだ。南光町のひまわり園には一度訪れたことがある。私の磯部の実家の周りでもそうだが40年ほど前から休耕田が目立ち始めた。減反は国の農業施策の柱であった。休耕田を有効活用しようという取り組みが各地で始まったが、南光町のひまわりもその先駆け的存在だった。

 1990年に第1回ひまわり祭が開催され、メディアでも取り上げられるようになり認知度は高まっていった。私が訪れたのは2009(平成21)年だった。8月9日に台風9号の影響で豪雨に襲われ千種川の氾濫で佐用町一帯に甚大な被害がもたらされたが、ちょうどその1週間前に行った。ニュースで濁流の流れる国道179号線など様変わりした様子を見て衝撃を受け記憶に刻まれた。

 当時の新聞は次のように伝えている。
 
 ▼兵庫県佐用町内の24時間雨量は、観測史上最多(当時)の326・5ミリを記録した。住民は「バケツをひっくり返したような雨だった」と後に振り返った。  ▼河川からあふれた濁流は山あいのまちをのみ込み、約1800戸の家屋が浸水。町内だけで死者18人、行方不明者2人(ともに特別失踪宣告が認められ、法律上は死亡)に上った。  ▼濁流は、高齢化や人口減少など地域がもともと抱えていた課題を浮かび上がらせた。人口わずか2万人足らずの町では、財源や人材の確保は思うに任せず、復興は困難を極めた。  ▼さらに町が発令した避難勧告のタイミングを巡り、遺族は町長らを提訴した。避難所へ向かう途中、2家族5人が増水した用水路に流され犠牲になったことに対し、遺族らは町の責任を厳しく追及した。   ▼避難勧告の遅れについて、町が設置した災害検証委員会は「発令の基準があったにもかかわらず、過去の経験則や現場からの報告を重視した」と指摘した。  ▼一方で訴訟では、町による勧告のタイミングと遭難との因果関係は認められないとして、遺族らの請求を棄却した判決が確定した。
(神戸新聞)
 
 今年は山形県をはじめ東北地方で大きな被害が出ているが、梅雨末期の豪雨災害はこの兵庫県佐用町での豪雨災害以降増大してきたように感じる。

 「土産はひまわり畑の写真で充分」という私の希望通りに写真を送って来た。15年前のことに思いを馳せながら感慨深いものがあった。
 
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