素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

雨あがる。

2010年04月27日 | 日記
 今22:10。新しく始まった番組の中で気に入っている『絶対零度』を見終わって2階に上がり「雨はどうかな?」とカーテンを開けるときれいな月が飛び込んで来た。夕方からの強風をともなった雨はいつのまにか止んでいたのだ。明日が満月。風はまだ残っていて、雲が月の前を次々と通り過ぎる。季節違いだが、百人一首にある

 秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の かげのさやけさ  を連想する。

 月のことはハプニングで、『チームバチスタ2』を捨てて(基本的には録画して後で見ることはしない)2階に上がったのは、昨日から少し考えていることを書き留めておきたかったのである。50歳代の新任さんの話の最後に少人数授業の話が少し話題になった。

 彼女の学校では算数に加えて、今年から国語も少人数が実施されるようになった。ということである。彼女にとって従来から持っていた“学級”という単位で学習する機会が減り違和感を感じるというのである。

 私が最後に勤務した中学でも、1年生で数学、2年生で英語を少人数授業でしていた。1年生の担任になった時、自分のクラスの生徒でありながら半数の生徒は授業で接することができないということを初めて経験した。

 体育の場合、男女別で授業があるので、男の担任であればクラスの女子については授業中の様子はわからない。よく半分しか授業で接していないからと言っていたが、その気持ちが33年目にして初めてわかった。生徒や保護者側の心理にも微妙なものが有り、非常に気を使った。

 少人数授業や個人選択授業の導入で、従来当たり前のように考えてきた“学級”を単位にした授業がなしくずしに崩されていって良いのだろうか?という疑問を持った。そのことを久しぶりに思い出したのである。 

 本棚から 柳 治男著『〈学級〉の歴史学~自明視された空間を疑う~』を取り出す。以前読み始めてそのままツン読になっていたものだ。最後までじっくり読みたくなった。「“学級”とは何か」を深く考える必要があるのではないか、そのことを抜きにして場当たり的な改革をした結果、現場に大きな混乱と戸惑いを与えたような気がする。

 “本書の目的”というページから抜粋する。 現代の学校について、これまで「子どもの自由を奪った」、「ゆとりがない」、「偏差値教育が原因だ」という議論や、逆に「今の教育は自由放任すぎる」、「道徳教育をしっかりやらないから子どもが荒れる」、「心の教育が不十分だ」などという、すぐに犯人や原因を求める議論が行なわれてきた。しかし、本書では、このような「悪い教育」を探し出す作業をするのではない。

 もっと広く、「そもそも学校とはどのような組織としてできあがったのか」を問うことを課題としている。なぜなら、自明視されてまったく問われることがなくなってしまった学級制が、どのように現代の学校の中に入り込んできたのかを明らかにする必要があるからである。この作業を通じて、学校にとっての学級制、さらには児童・生徒にとっての「学級」の意味を明らかにしたいのである。

 そのさい視野を学校のみに限定せずに、現代を特徴づける組織や営業形態とも比較しながら、検討を進めるのが有効である。今までの学校論は、あまりにも学校のみに視野を限定し、教育の世界で問題の犯人を探し、教育の世界で解決法を探るという方針に拘泥しすぎたのではないだろうか。むしろ、学校以外の、あるいは教育以外の人間の活動をも視野に入れながら、学校や「学級」という組織を考えた方が、問題をより客観的に理解できると思われる。

 「こんなクラス最低や」と言って、クラスに入ろうとしない生徒を目の前にしている時はとても悠長に考えている余裕はなかった。ただ、クラス分けに対する拒否の姿勢が一過性ではなく、1年間引き継ぎ続ける生徒が多くなったという思いを強くして退職した。このことも含め、本書を元にちょっと考えてみようと思いたった。

目次は、第1章 「学級」を疑う

    第2章 「クラス」の誕生と分業される教師

    第3章 義務教育制度の実現

    第4章 学校組織の矛盾

    第5章 日本の学校はいかに機能したか

    第6章 学校病理の解明

    終 章 変わる学級制ー共同体幻想からの脱却



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする