某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

機銃掃射

2014-08-02 23:24:30 | 怖い経験
 8月にはやはり戦争の記憶がよみがえる。中でも機銃掃射で狙われたのが、今でも思い出すとゾッとする怖い経験だ。しかも2度あった。中学2年と3年の時だ。最初は昭和20年の3月、列車で熊本に行く途中久留米のあたりの山の中で、米戦闘機の攻撃を受けた。列車は停車し私達は一斉に線路わきの林に逃げ込んだ。間をおかず車両に弾が雨のように射こまれた。逃げる乗客の姿が見えたのであろう、今度は林に射ち込んで来た。こっちは太めの木の幹にへばりついて爆音の反対側に身をずらすだけ。人間のものとは思えないような凄い声(悲鳴)が聞こえるがそっちを見る余裕もない。機関車はトンネルの中に入っていたので、艦載機の攻撃が済んでしばらくすると列車は走り出したが、無残な車両の中で恐怖心はいつまでもおさまらなかった。
 二度目は同じ年の6月頃、常磐線が不通になって中学から線路沿いに歩いて帰る途中、飛行場を攻撃する艦載機に狙われた。線路わきの土手にへばりついて震えていた。動けば見つかる、狙われたら終わりだ。しかし、身を隠すところもない。幸い一人だった。もし集団だったら、どうしても見つかるだろうから一巻の終りだったろう。戦闘機はまっすぐ私に向かって射ちながら飛んできた。何度も何度も。実は私の真後が飛行場で、そこを狙っていたのだが、「見つかった、もう駄目だ」と何度思ったことか。制空権はとっくに米軍に奪われていたから、アメリカのパイロットは遊び半分の練習気分だったのだろうが、こっちは半分死んだような気分だった。あの飛行場「いわき飛行場」には戦後原子力発電所ができ、それが大震災で爆発した。私がへばりついていた土手のあたりはまだだれも住めない。列車も通っていない。
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8月の思い出

2014-08-02 01:47:33 | ちょっと面白い話
 8月になるとどなたも何か特別な思いをされると思う。私にも沢山ある。今日はそのうちの近親者についての話を書こう。
 一人は家内の父。若く(57?)して亡くなったが独立独歩の男。八王子の商店主。隣組の集まりでもすぐ「この戦争は負けだ、早く家財を疎開しておかないと丸焼けになるぞ」などと言うので、近隣の人々の愛国心を逆なでし、警察に通報されて度々留置所に入れられた。敗戦直前の8月1日に八王子は大空襲。親父は例によって留置所に入れられていたが、解放された。さすがに、留置所で焼き殺すわけにはゆかなかったのだろう。避難民でごったがえす多摩川の橋上で家族6人とばったり出会い、思わず「馬鹿野郎!」と怒鳴ったと言う。家内は長女で小6だったが、2歳の妹を背負って火の粉を払いはらい夢中で逃げたと言う。間もなく敗戦。近所の人々が手のひらを返したようにお世辞を言って来るのが家内は何より嫌だったと言う。
 もう一人は母方の叔父。会津の破天荒な農民。闇物資販売ということで、これも度々留置所に入れられた。とうとう拘留中に赤紙がきて留置所から出征。入営式?の時「自動車の運転を出来る奴はいないか」と言うので、即座に「はい!」と手を挙げた(実は出来ない。オート三輪を使っていたから運転出来ると思ったそうだ。全然違うのに)。営庭で一晩必死に練習して、翌日から運転手。毎日部隊長を乗せて走っていた。機銃掃射をあびて、逃げ回った部隊長が溝に落ちて泥んこになった。「隊長閣下も度胸がねえな」と笑ったと言うから気のあう二人だったのだろう。訓練なしで楽だったという。やがて敗戦。トラックに食料、毛布、ガソリンなどを山と積んで、隊長と二人一目散に逃げ帰った。「ちょっと泥棒、ちょっと非国民」と笑っていた。
 何でも器用にこなす大好きな叔父だったが、昔この話を聞いた時は(中学生だった)叔父が悪人に見えた。でも、ちょっと悪で魅力たっぷりな男、と今では思っている。
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