Our World Time

ゆけ、松葉マン

2007年09月25日 | Weblog



▼9月24日月曜の夜になって、右足はさらに腫れ、痛みもいくぶん強まった。
 終日、氷を代えて、代えて、冷やしていたのに、これはおかしいなと、患部を指で、痛んでも丁寧に確認しているうち、こりゃ骨折だと確信した。

 大学時代にアルペン競技スキーに打ち込んで、骨折を4回経験しているけど、こんな足の甲の部分は、固い競技用スキー靴に完全に護られているから、折れるという発想がなかった。

 まいったな。
 25日は、朝9時に自宅を出て、大阪へ向かい、敬愛するフェアな財界人と久しぶりにお会いして昼食をともにし、そこから近畿大学へ向かって、経済学部で2コマ、3時間の講義、夜に関西テレビの報道局と打ち合わせをして、大阪に泊まり、26日の水曜に、関西テレビの報道番組「アンカー」に生出演の予定になっている。

 しかし、さすがに骨折となると、受傷から3日も4日も放っておけば、足が変形することにもなりかねない。
 すぐに独立総合研究所(独研)の秘書室に連絡をとって、事態を把握してもらい、25日火曜の夜明けを迎えた。

 夜明けとともに、『昼食会だけは延期せざるを得ないな。近大の講義とアンカーはそのまま遂行するぞ』と、こころに決め、朝7時を回るのを待って、秘書室に連絡、病院の手配をお願いした。


▼25日午前に、病院で診察を受けると、やはり骨折、それもレントゲン写真をみると、なんともはや、右足の指の1本がバックリというほかないほど、甲の下で、大きく折れている。

 せいぜい、亀裂骨折、つまり骨にひびが入る骨折だろうと思っていたから、すこし驚いた。
 これは、痛いわけだなぁ。
 ドクターは、「足の甲は、5本の指から、そのまま細い骨が甲の下に伸びていますから、折れやすいんですよ」。
 なるほどなぁ。…感心してる場合じゃない。

 ドクターがまず、足の甲に麻酔の注射を打つのだが、これが、ずいぶんと痛い。しかも、けっこう長く針を刺して、かなり大量の麻酔薬を入れているから時間がかかる。
 ぼくは、かなり我慢強いほうではあるのだけれど、思わず声が出そうになって、歯を食いしばった。

 やがて麻酔が効いてきて、久しぶりに足の痛みから解放されて、いい気分になっていたら、療法士が2人やってきて、足を固定具で締めるまえに、折れた骨を伸ばす作業に入った。
「麻酔はしてあっても、痛みますから、我慢してください」と、しきりに言う。
 大学時代の記憶から、覚悟はしていたけど、療法士の1人が右足にのしかかるようにして押さえているし、もう1人は、しきりに自分自身に気合いを入れている気配だ。

 うーむ、これは来そうだなと思ったら、たしかに、凄かったです。
 情報源を吐けと、拷問されるなら、こんな感じでしょう。もっとも吐きませんが。
 ふひ。

 若い療法士は、「すみません、時間がかかるんです、まだ我慢してください」と力んだ声で言いながら、折れて、割れて、下へさがってしまった骨を持ち上げて、元の位置に戻そうと苦心している気配だ。

 目がくらむように痛いが、なんとなく信頼できる感じで、声は低いうなり声ぐらいで止められた。

 そして、ようやく固定具を包帯で巻きあげる作業に移って、やれやれ。拷問、終了。


▼しかし終わると、次の深刻な問題が出てきた。
 ドクターも療法士も、「明日の朝に、もう一度レントゲンを撮って、正しく固定されつつあるかどうかを、確かめなきゃいけない」と言う。

 今夜は、大阪に泊まりなんです。
 それをやめて、きょう日帰りで講義をして、東京に帰り、明日また日帰りで関テレに出て、東京に帰るぅ?

 明日の朝の診察を受けるためには、それしかないけど、そもそも疲労で身体が凍りつくように体温が下がって、慌てて走って帰ろうとして、段差で転倒したんだから、そりゃ、きついよ。
 それに、この足で移動の時間と回数が倍になるのも、きつい。

 近大の講義さえ休講にすれば、楽になる。
 その誘惑が、ぼくにも、ぼくを囲む秘書ふたりにも、浮かぶ。
 しかし、楽しみにしてくれる学生もいることを考えるし、それに、1年分の講義を後期だけに詰め込んでいるから、休講すると、あとに響く。

 よし、日帰り。行ったり来たりの人間シャトル、と決めて、タクシーで空港へ向かう。


▼羽田空港に着いて、タクシーから松葉杖で歩き出したら、もう好奇の眼がどっと集まる。
 これなんだよねぇ、いちばん嫌なのは。、

 アメリカとヨーロッパ諸国だと、松葉杖や車いすのひとの周りには、むしろ暖かい空気が流れて、みんなが、さぁ助けようとスタンバイする感じなのだが、日本では、間違いなく好奇の眼が圧倒的に多い。

 ぼくの学生時代も、そうだった。スキーの試合で怪我をして、松葉杖で帰京しようとすると、急に、ありありと好奇の眼でみられる。
 きょう実感したのは、それが変わらないだけではなく、松葉杖で歩いている人間に対しても、多くの人が道を譲らず、ほとんど平気でぶつかってくる。

 いじわるな国だなぁ、日本は。
 かつて特派員としてペルーにいたとき、首都リマのオープン・カフェで、中南米が専門の先輩記者と気持ちのよい風に吹かれていると、先輩が「青ちゃん、要は日本はいじわるな国なんだよ。ちょっと頭を出すと、すぐ嫉妬するし、弱い者にはエバって、強い者にはヘコヘコするよね。いくらペルーが貧しくて、いまテロ事件の真っ最中でもさ、ラテン世界にいるとホッとするんだよ」と言った。

 その先輩記者の顔を、こうしたことがあるたび、思い出す。
 ぼくは、しっかりと愛国者だけれど、ときどき、どこを愛そうか迷うことがある。


▼それでも、何とか機中のひととなり、さぁ、いざ大阪へ。
 学生諸君に、先週の第1回講義で、いっしょに頑張ろう、頑張って根っこから考えよう、この祖国に国際社会のなかでフェアな主権を回復するために、と言った以上、いきなり第2週が休講ではね、みんなの志気に影響する。

 だから、いくぞ、松葉杖で身体を前へ、前へ飛ぶように、送り出して。


(伊丹空港からのタクシー車内から、発信)







明日9月25日の予定は…

2007年09月24日 | Weblog



▼あす9月25日火曜の予定は、足がどうであれ、つまり足をどれほど引きずってでも、そのまま実行します。

 関係者でもしも、このブログを読んでいるひとがいて、自分に関係する予定はどうなるのかなぁと思われて心配されていては申し訳ないので、書いておきます。


▼きょうは怪我の功名で休めましたね、という、こころ優しい書き込みもありましたが、外出の予定がすべてキャンセルになっただけで、原稿執筆などは逆に、予定を前倒ししてやることになりましたから、残念ながら、休みとは言えませんね。

 このごろは、ほぼ毎日、空港に行って飛行機に乗る生活ですが、そのとき航空会社のカードがいずれも、磁気異常を起こすことが多くて困り果てて、すべて作り直すことになりました。

 そのとき、ふだんは、ちゃんと見ることもないカードを、ちょっと見てみると、もうボコボコにゆがみ、すり減っていることに、びっくり。
 つまり、これだけ酷使しているわけで、おかしくなるのも当たり前だ。

 そういえば、ノートパソコンもどんどん壊れて、どうして俺のだけこんなに壊れるのかなぁと思わず呟いたら、独立総合研究所の主任研究員が「しゃちょう、そりゃ、当然ですよ。それだけハードユースをやっていたら壊れます。タクシーの中でも機中でも、ずっとキーを打ちっ放しじゃないですか」と言った。

 そのときは、なるほどと思っただけだったけど、こないだ航空会社のボロボロ・カードを見ていて、パソコンにせよカードにせよ、それを使っている生身の人間は壊れないのか、と思ってしまった。

 壊れないわけはないので、こころ優しい書き込みのひとがきっと、心配してくれているとおり、ぼくは休みたい。
 ま、土の下で、あるいは宇宙の塵に戻って、休むのもかもしれませぬ。
 ぼくを憎むひとも、大丈夫、そのうち、ぼくはいなくなるから。

 ただただ、天が決めることです。
 いつかは、静かに、天が休ませてくれる。



 武士道といふは、死ぬことと見つけたり。




苦しみを、いつかは超えて

2007年09月24日 | Weblog



▼足の怪我で、すべての予定をキャンセルしたおかげで、安倍さんの入院先での会見を録画ではなく生放送でみることができた。

 いつもなら、こうした場合、すこし周辺取材をしてから、どのような形であれ考えを述べるけれども、きょうは第一印象をすぐに書いておくことにします。


▼入院先で、しかも今のタイミングで記者会見するなら、こういう会見になるであろうと多くのひとが考えていたとおりの、予定調和のような会見内容という側面があった。
 それは、万(ばん)、やむを得ないと思う。

 安倍さんの国民に詫びるこころ、内閣と国会に詫びる気持ち、それから、おそらくは拉致被害者とその家族への責任感もあって、一議員としては課題に取り組みつづける決心を述べたことは、伝わるひとには伝わったと、思いたい。


▼そのうえで、いくつかを記したい。

▽まず辞任の「最大の理由」を健康問題とし、辞意を表明した会見で、ただの一言も健康に触れなかったことについては「現職の総理が、健康問題に触れるべきではないと思った」と述べ、しかし触れるべきであったと陳謝した。

 現職の総理で病気になったひとは、もちろん何人もいる。
 いずれもまず、入院などの加療を受けて、その経過を受けて退陣するか、あるいは病院で死去した。
 入院も、国民にわかる加療もなく、一切、健康問題に触れずに、別の問題を挙げて辞任会見をおこない、そののちに入院した総理はいない。
 さらに、その入院中に「実は、健康問題が辞任の最大の理由だった」と言葉を翻した総理大臣も初めてだ。

 安倍さんが、それだけ心身がおかしくなっていたんだ、という見方をするひともいるだろう。

 だが実際の安倍さんは、入院先の慶応病院の病室で、政治家ではない身近なひとには、「戦後レジュームからの転換は、1対99の戦いだった」という心境を、憔悴したようすで話した事実がある。

 安倍さんは、最後に、いわば、いちばん当たり障りのない「健康問題」を理由に挙げることによって、みずからが直面した「戦後レジュームからの転換、すなわち日本がフェアな国家主権を回復することを進めようとして、直面することになった孤立と孤独」を歴史の裏へ封印してしまった。

 わたしは、それを残念には、思う。
 ただ、安倍さんが保身のために、そうしたとは決して思わない。

 以下は、推測である。

 ひとつには、安倍さんは、拉致被害者とその家族のために代議士であることを続ける以上は、辞任をめぐる謎や混乱については「健康問題でした」とすることによって収束させ、みずからが引き起こした混乱劇に終止符を打つしかないと考えたのではないか。

 もうひとつには、安倍さんは、麻生さんがクーデターを起こそうとしていたとの嘘をはじめ、おなじ自民党内に疑心暗鬼の状況を生み出したことについて、安倍さんらしく本心から申し訳なく思い、誰もが、すくなくとも表面上は納得したように振る舞うしかない「健康問題」ですべてを説明しようとも、考えたのではないか。

 以上は、前述したように、ただの推測であるが、これがいくらかは当たっているとしても、「それこそが安倍の弱さだ」と非難するひともいるだろう。

 その非難に当たっている面があってもなお、わたしは、安倍さんが仮にこう考えたとするなら、理解はする。
 たとえばアメリカやヨーロッパの政治と社会でも、高官たちが「家族と一緒にいたいから」といった、その社会では誰もが反論できない理由を掲げて、ほんとうの辞任理由は明かさずに去っていくことがあるし、それは例外的には大統領や首相クラスでも起きている。
 安倍さんだけが例外だとみることは、やや違う。

 わたしは、きのうの出雲の講演で申したように、安倍さんが、戦後の首相として初めて、この祖国のフェアな主権回復に取り組み、その壁の厚さに孤立して異様な形で辞任したからこそ、壁の厚さと巨大さをよく知り、これからに活かすようでありたいと、今あらためて思う。


▽次に、麻生さん、与謝野さんとの関係について、安倍さんが「クーデター説は、そのような事実は全くない」と述べ、安倍さんが、麻生に騙されたという言葉を発したという説についても、しっかり否定したことは、当然であり、ありのままにおっしゃったと思う。
 いずれも事実でなく、卑劣な情報の操作と偽造が、政治家(複数)によって行われたことは、わたしもこれまで指摘してきたとおりだ。

 そのうえで、安倍さんが、麻生さんについて、辞意表明後の混乱の「収束」について頑張ってくれたという認識を二度にわたって強調し、一方で、辞意を表明する前のことについては「麻生幹事長もよく支えてくれました」と一度だけ、淡々と述べたことに、わたしはいささか着目せざるを得なかった。

 解釈の違いはあり得る。
 安倍さんの病院会見は、これからも代議士として政治生活を続けるひとのそれらしく、きわめて政治的な言葉、あるいは日本的な配慮たっぷりの言葉遣いであったから、さまざまな解釈はあり得る。
 簡単に言うと、あまり露骨には言わないけど、分かるひとは分かってくださいね、という会見でもあった。
「予定調和」に加えて、その一面もあった。

 安倍さんの現在の麻生さんへの感謝、それは間違いなく本心だろう。
 ただ、それは、辞意表明後の混乱の収束や、『北朝鮮への強硬路線の継続』という日本の選択がしっかりとあることを、総裁選の健闘を通じて、国民に示してくれたことへの感謝だということも、安倍さんのこの入院中会見で、あくまでも周辺取材のない第一印象としては、わたしに伝わってきた。

 辞意表明に至るまでの道のりでは、安倍さんの、恐ろしい孤独と孤立があったことを、安倍さんは、それが無意識なのか意識してなのかは、すくなくとも現時点では分からないが示唆していることを感じた。

 いずれも、先の長い書き込みで、わたしのささやかな分析として書いたことと、わたしは矛盾をみることがなかった。
 さきほど記したように、解釈の違いはあり得るから、別の見方も、もちろんあるだろう。それは、この部分以外のことについても、同じだ。


▽テロ特措法の問題について、安倍さんは冒頭発言で「特措法の延長によって」海上自衛隊の給油活動を継続したかったことを明言し、それをブッシュ大統領などに約束したことを示唆した。

 新法については、一言も触れなかった。

 このことも、先の長い書き込みの分析と、一致しているように、わたしは考えた。
 今夕の安倍さんのような短い会見で、しかも、政治的配慮に満ちて丸められた言葉のなかから、おのれの分析にとって都合のよい言葉だけを拾うことは絶対にやってはいけない。
 安倍さんの今夕の会見のすべての言葉を通じて、すくなくとも矛盾はないとだけ、わたしは考えた。


▽もうひとつ、小沢さんとの党首会談が、テロ特措法の延長のために(新法のためにではなく)、やる会談であり、その会談ではテロ特措法延長の代わりに、首を差し出す(首相を辞める)ことを用意していたことを、ここは安倍さんはちょっとびっくりするぐらい、強く示唆した。

 これは、先の長い書き込みに記したように、麻生執行部が、そんな小沢さんと談合会談などやればテロ特措法延長の代わりに首相の首を差し出すことになってしまうと懸念して、そのセットに不熱心だったことについて、その懸念が正しかったことを物語る。
 懸念が正しかったからこそ、その当時の安倍さんと麻生さんや与謝野さんとに、食い違いとコミュニケーション・ギャップが生まれてしまったのだった。


▼さて、安倍さんはこうして、一応の説明も完成させ、体調が戻れば、いつかは政治に戻ってくる。

 会見を、おそらくは食い入るようにご覧になっていたであろう、拉致被害者の家族のかたがたは、安倍さんの別人のように生気を失った姿に衝撃を受けつつ、これからも頑張るというニュアンスに、いくらかの安堵もされただろうと、そう祈る。

 拉致被害者の、有本恵子ちゃんのお父さんは、このごろ安倍さんがテレビに出るたび、涙しておられた。
 きょうは、どんなであっただろうかと、胸をえぐられる。
 恵子ちゃんは、わたしと同じ幼稚園の出身だ。
 それもあって、わたしなりに懸命に関わっているが、この有本恵子ちゃんの事件を初めて、まともに取り上げてくれたのが、安倍晋太郎さんの秘書だった当時の安倍晋三さんだった。

 安倍晋三さんがいなかったならば、恵子は闇の彼方に閉じこめられたままだったと、ご両親が思うのはまったくその通りであり、その安倍さんが総理になったときの期待はどれほどであったか。

 安倍さんが、そのことを忘れていることは、まったくないだろう。
 だからこそ、きょうの苦しい会見もやったし、きょうの会見を、クーデターの明快な否定も含めて完遂したのであり、それは、安倍さんと麻生さんらが再び、連帯できるよう信頼関係が回復したことを物語っていると思う。

 そこに、麻生さんの総裁選での驚くべき健闘、なんと200票近くを集めるという結果をあわせて思えば、まだまだ決して絶望ではない。

 生放送で眼にした安倍さんの憔悴した表情にも、胸に浮かぶ有本さんご夫妻のようすにも、深く苦しみながらも、わたしは、そう思っている。




からだ、というやつ

2007年09月24日 | Weblog



 きょう未明3時ごろ、自宅前の道路で珍しく、すってんころりん転んで、両足にけがを負ってしまった。
 とくに右足は、あまり軽くないけがだ。

 すると、それまでできていたことが直ちに、ほとんど困難になった。
 歩くとか階段を駆けあがるといったことは当たり前ながら、たとえば机に向かってパソコンで原稿を書くことも、たいへんに難しくなった。
 足の血流が変わるのか、痛みが倍加して、精神が持たない。

 思いは自然に、きょうの夕刻に入院先で記者会見をするという、安倍さんのことに向かった。
 心身の不調のなかで孤独と孤立を深め、それでもなお、海外で首脳会談をいくつもこなし、入院するまえに辞任会見をおこない、記者の質問にも答え切った。

 身体に問題が生じると、ひとの正常な活動をこれほど簡単に、ストレートに阻むことを考えると、世に山ほどの批判があって、その批判は正しくて、これから歴史の上でも、代表質問の直前に辞任したという異常事態の責任から、安倍さんは永遠に逃げられないけれども、こころの底から、よく奮闘されました、ほんとうにお疲れさまでしたと、胸のうちで言わないではいられない。

 きのう出雲で講演したとき、安倍さんの辞任について、「わたしたちのこの祖国が、国家主権をフェアに回復しようとする時、その壁がいかに厚いか、それを学んだということを、この政治的な悲劇から、せめて汲みとりたいですね」と聴衆のかたがたに語りかけた。

 ぼくの稚拙な話で、どこまで伝わったのか、それは正直、自信がない。
 ただ、出雲の大きなホールに集まってくれた聴衆は、びっくりするほど若い世代から、年配の世代まで、とても幅広く集まってくださった。
 それは、うれしかった。
 ぼくは、若いひとが聴いてくれるのもうれしいし、80歳、90歳、それ以上のかたが耳を傾けてくださるのも、すごくうれしい。
 この祖国を、同時代人として背負うのに、性別も、仕事の違いも、貧富の違いも、年代の区別もないからだ。
 ずっとまえに定年を迎えて、もう仕事はしていない…そんなの、関係ないです。



 珍しく転んだのは、身体が異様に寒くて、体温が下がって、がたがた震えるように凍りつく感じだったので、急いで帰ろうと、変な走り方で走ったからだった。
 この、夜もそう涼しくはない、残暑のなかでね。
 出雲で講演するために前日入りしたホテルの一室でも、同じように体温が下がって凍りついた。
 そこで湯をためて入ってみたけど、変わらないのには、ちょっとだけ驚いた。

 まぁ、おおむねは、なんてことはない。
 足も、なんとか明日の出張までには、歩けるように、します。
 かつて学生時代に競技スキーに夢中になって、足のけがには、慣れていることは慣れているから。

 天から命を預かっているときだけ、せいいっぱい、仕事をする。
 命をお返しするときには、さらり、お返しする。
 それだけです。

 この地味ブログをわざわざ訪ねてくれるひとに、すこし心配させるかも知れないけれど、ここは、ぼくの個人ブログなので、こういうありのままのつぶやきを許してください。




このあとの10年 ★前半

2007年09月23日 | Weblog


※この書き込みは、全文が、制限文字数を大きく超えているため、前半と後半に分けてあります。
 これが前半です。ここから読んでいただければと思います。


▼9月21日の金曜、日本のテロリズム対策の現状を本音でフェアに分析し、課題をえぐりだすために、政府のいくつかの関係当局との合同協議に臨んだ。
 安全保障の実務者としての、またシンクタンク(独立総研)の社長・兼・首席研究員としての定例ミーティングだ。
 わたしがまだ三菱総研の研究員だったころから続いている。

 皮肉なことに、安倍さんが辞意を表明して国会が止まっていることも影響して、政府側がたっぷり時間を割くことができ、協議は充実していた。

 永遠に機密を保つことと、利害関係を生じさせないことを条件に、官と民がこうした国家安全保障をめぐる非公式協議を持つことができるようになったこと自体、日本国は深い部分で良くなっているところもあると、わたしは考えている。

 テロリストの側に情報を一切、与えないために、中身はもちろん書くことができない。
 ただ、そうした機密とは関係がない、すなわち機密ではない公然たる事実なのに、日本国民が充分に知らされているとは言えない問題をめぐって、当局者たちとのあいだで話題になったことを、広く一般のかたがたに向けて記しておきたい。

 たとえば北方領土のわたしたちの土地を、ロシア政府あるいはサハリン州政府が最近、個人のロシア人に積極的に売却している。
 このために仮に政府間交渉で、将来に、何かの進展があっても、領土返還は実際にはきわめて難しくなった。
 北方領土交渉は、行き詰まっているのではない。どんどん悪化しているのだ。

 たとえば竹島問題は、わたしたちの島が韓国に国際法上、違法に占領されているだけではなく、その事実をもとにして、日本のごく近海で韓国の漁船が不法操業を繰り返してカニなどの漁場を荒らしに荒らし、日本の漁民が生活を脅かされている。 

 たとえば尖閣諸島をめぐる問題は、わたしたちの海底資源を中国が実質的に盗掘しているという問題だけではない。
 中国船が海中音響技術(超音波)などを用いて、東シナ海だけではなく日本列島をかこむ日本の排他的経済水域(EEZ)のうち広大な海域のあちこちで、勝手に資源探索をおこなっている。
 さらには、そうした中国船が、アクション(直接行動)をとることがある。それは、日本が新しい自前資源であるメタンハイドレートを探索することを妨害するためのアクションだと、考えざるを得ない。

 当局者たちは、こうしたアクチュアルな(現在進行中の)問題を、実務家らしく淡々と指摘していた。
 わたしは、稚拙な物言いながら(謙遜ではありませぬ)、こう述べた。

「いずれも日本が国際社会でまっとうな国家主権を行使することを不法に阻まれている問題ですね。日本が敗戦から62年を経てなお、あるいは独立の回復(サンフランシスコ講和条約の発効)から55年を経てなお、国家主権を不完全にしか回復していないことを象徴しています。日本が国家主権を行使できない国として舐められている、この現状が続く限り、現場がどれほど苦労をしても、土地を奪われた北方領土の元島民のかたがたや、竹島近海からオホーツク海に至るまで、正当な漁業権を侵害されている漁民のかたがたの苦しみは終わらないし、日本が資源小国から資源大国に変わっていくチャンスも失われてしまいますね。この根っこのところを、しっかりと踏まえたい」
 最前線の、つわもの揃いの当局者たちは、官民の立場の違いを超えて、深く同意してくれた。

 安倍さんは、まさしくこの国家主権の回復にこそ、取り組もうとした。

 日本国は、小泉政権の時代に、中国や韓国の干渉に負けずに小泉純一郎首相が靖国神社に参拝し、中川昭一経産相が尖閣諸島周辺の海に初めて、たった2隻で、しかも外国船のチャーターとはいえ資源調査船を派遣して、国家主権のフェアな回復へ向けて目覚め始めたことを、アジアと世界に示した。

 小泉政権を受け継いだ安倍政権は、靖国神社への参拝をあいまいに見送り続けた事実があり、そこは、正しかったかどうかの問題は残るが、全体としては、国家主権の正当、公正な回復を目指した。
 あくまでも国際法にぴたりと沿った志向であり、タカ派などという言葉にすり替えられるべきことではない。

 こうやって日本が目覚め始めたからこそ、ロシアも韓国も中国も、日本の敗戦で得た既得権益を守ろうと焦り、北方領土や竹島、尖閣諸島周辺で新たな動きを強めているのだ。


▼その安倍政権が、若き宰相、安倍晋三首相の誤算をも要因として瓦解し、ほんらい国家主権の回復という目標を受け継いで発足すべきだった麻生政権が、麻生太郎さんの誤算も大きく影響して、どうやら発足しないらしいのは、まさしく痛恨事だ。

 安倍さんは、初めての戦後生まれの宰相であった。そのトライアル(試み)が失敗し、後継政権をつくることもならなかった影響は、あまりに大きいだろう。

 拉致問題に鈍感なのは、まだ誘拐されたままの同胞の運命に鈍感なだけではなく、この国家主権の回復という希求にも鈍感なのだ。
 最後のひとりまで取り返すことだけが拉致事件の解決であるのは、人道的に考えてそうなのではなく、たった一人の国民でも見捨てて解決とした瞬間に、この日本が国民国家でなくなるからだ。

 福田康夫さんを新首相に押し立てている主要なひとりである山崎拓さんは、こう述べた。
「核と拉致を分けるべきだ。なぜなら核は安全保障問題であり、拉致は人道問題だから」
 この地味ブログをわざわざ訪ねてくれたみなさんに、わたしは申したい。

 元防衛庁長官であり、元自民党副総裁であり、元自民党幹事長であり、防衛族の大物として知られる政治家が、これほどまでに基本的な間違いを言うのである。
 一方で、大学で、わたしがひとりの学生に「この山崎さんの発言を考えるために、聞きます。安全保障の最大の、究極の目的は何ですか」と聞くと、「国民を護ることです」と、ぴたり正解が返ってきた。

 そのとおり、国家安全保障の目的は、国民を護ることに尽きるから、日本国民が次から次へと誘拐されていった拉致問題は、まさしく安全保障問題である。

 山拓さんが「人道問題」と述べた言葉には、「可哀想な、気の毒な問題なんだから」といニュアンスがある。
 これは国際法の「人道」という定義も、はき違えている。
 ほんとうの人道とは、あらゆる人間の尊厳を護ることであり、気の毒といった問題じゃない。

 地球のひとびとはすべて、祖国を持って生きる権利があり、その祖国は国民の尊厳を護る。
 だから、安全保障問題と人道問題は、表裏一体であり、まったく分けることができない。

 つまり、防衛族の大物政治家よりも、若い一学生のほうが、本質をきちんと、とらえている。
 これを日本の絶望とみるのか、希望とみるのか。

 それを考えつつ、どうやら誕生直前らしい福田政権をみると、首班候補である福田さんが、2002年10月に拉致被害者のかたがた5人が帰国したとき、北朝鮮にいったん返そうとした外務省を支持し、そのまま祖国で生活することを主張した安倍さんと鋭く対立した事実は、消せない。
 すなわち、福田政権ならば、国家主権の問題に鈍感であるという政権の性格を、すでに内包している。

 麻生さんが拉致問題で強硬姿勢をみせていることを、総裁選の戦術だと論評しているメディアがあるが、公平にみて、そうではなく、国家主権の問題に敏感なのか、鈍感なのかという、きわめて基本的な姿勢の違いである。

 安倍政権が、国家主権の回復への試みにおいて挫折し、同じ根っこの志を掲げる後継政権の樹立もならないならば、このあと、どんなに少なくとも2年か3年、悪くすれば5年、さらには10年の長きにわたって、日本国が国際社会でまっとうにしてフェアな国家主権を回復しようとする試みは、封じられ続ける怖れがある。

 最悪の場合に10年ほどにわたって、国家主権の回復が遅れるならば、拉致被害者のかたがたの家族の多くが健在なうちに被害者を取り戻すことは、かなわない。
 竹島と北方の領土を回復し、そこに仕事(漁業)や生活の基盤を置いていた国民の権利を回復することも、かなわない。
 EEZの新資源を活用して、資源小国から脱し自前の資源を持つ新しい国とすることも、かなわない。

 国家主義がどうとか、タカ派、ハト派がどうとかといった話じゃなく、わたしたちのリアルな生存権の問題だ。

 では絶望か。
 いや、そうではない。
 このことは後で、もう一度、考える。
 そのまえに、なぜ安倍政権は後継政権をつくることがなかったのか、その誤算について触れておきたい。


▼まず、病気こそが、安倍さんの突然の辞任のほんとうの原因、主因だったという説がある。
 しかし、これは、政権運営に失敗したとしても、わたしたちの宰相であった安倍さんに、あまりに失礼だと思う。(麻生さん、与謝野さんとの関係については後述します)

 病気が主因ならば、安倍さんはまず病院に入院し、そこに麻生幹事長や与謝野馨官房長官らを呼んで、最終的な辞意を告げ、後任選びに着手してくれるよう求めたはずだ。
(そして、そうであれば麻生政権への流れが生まれた可能性もある)

 安倍さんは、そうではなく自ら選んで、辞任会見を行って、そこでなぜ辞めるかを説明した。
 テロ特措法による海上自衛隊の給油活動を、中断なく延長したかったことを強調し、そのために小沢一郎民主党代表との会談を願ったが実現しなかったことを、辞任の理由として明言した。

 会見で、安倍さんはこう語った。
「シドニーにおきまして、テロとの戦い、国際社会から期待されているこの活動を、そして高い評価をされているこの活動を、中断することがあってはならない、なんとしても継続をしていかなければならないと、このように申しあげました。国際社会への貢献、これは私が申し上げている、主張する外交の中核でございます。この政策は何としてもやり遂げていく責任が私にはある、この思いの中で、私は、中断しないために全力を尽くしていく、職を賭していく、というお話をいたしました。そして、私は、職に決してしがみつくものでもない、と申し上げたわけであります」

 安倍さんは、みずからの「職を賭して、給油活動の中断なき継続という国際貢献を実現する」という発信、宰相の重い発言に、殉じたのである。

 もちろん体調が悪かったことは間違いない。
 安倍さんは、ずいぶんと昔から、お腹がゆるくて、それがこのごろ悪化はしていた。
 参院選のあとインドを訪問したとき、首脳会談を控えて何度も何度もトイレに駆け込む姿を、少なからぬ同行者がそれを目撃し、ショックを受けている。
 立っていること自体が辛そうだったと証言している、側近もいる。

 しかし、それでもなお安倍さんは、首脳会談は立派にこなした。
 インドのしたたかなマンモハン・シン首相に、ポスト京都議定書をめぐって、総論賛成・各論反対で逃げられはしたが、それは安倍さんが体調の悪い宰相だったからではない。
 各論について、インドの経済発展と、CO2削減を両立させるための有効な提案を準備できていなかったという日本外交の構造的な問題だ。

 お腹の不調だけではなく、精神的に追い詰められていたから政権を投げ出したという説も、しきりに溢れている。
 事実、精神的に追い詰められていたという証言は、信頼できる側近のなかにも複数ある。
 安倍さんが精神神経科のドクターの診察を受けていた事実は今のところ聞かないから、安倍さんの心の中の問題であり、推察になってしまうが、精神的にも万全ではなかった可能性があるとは確かに言えるだろう。

 安倍さんがよく相談していたことが間違いない側近は、インドを訪れたあたりから、特に、顔に表情が乏しくなって黙り込むことが多くなったと述べている。

 しかし、それでもなお、安倍さんは前述したようにシン首相との首脳会談などを終え、帰国後に内閣改造と党人事をおこなってから、今度はシドニーに行き、ブッシュ米大統領やハワード豪首相との首脳会談をちゃんとこなし、そこで「中断なく給油活動を続ける」と約束したのだ。

 そして帰国後、安倍さんは小沢代表との会談がセットできず、テロ特措法の延長がもはや最終的に無理であり、給油がいったん中断することを意味する新法で臨むしかない現実に直面し、みずからの意志で、針のむしろの辞任会見をおこなった。

 わたしは共同通信の政治記者だったとき、複数の総理から、官邸の会見室で、ライトやフラッシュを浴びながら世界と日本国民に向けて会見をおこなう、想像を絶するプレッシャーを聞かされた。

 なかには、「青山君、あの腹の据わった大平さんですら、一閣僚ではなく内閣総理大臣になって、官邸の記者会見室に初めて入るその瞬間、身体が動かなくなって、つまり会見室に入れなくなって、しばらく立ち尽くしたそうだよ。わたしもね、就任会見の時に突然、その話を思い出して、冷や汗が出たよ。まぁ、それを聞いていたからこそ、会見室には入れたがね」と静養先の別荘で話してくれた総理もいた。

 安倍さんは、心身の不調があってなお、それに耐えて、ただでさえプレッシャーに潰されそうな総理会見を、まさしく針のむしろのなかで完遂した。
 冒頭発言を述べるだけではなく、つまり言いっぱなしにするのではなく、記者との一問一答にもきちんと応じた。
 質問は10問に及んだが、いずれも最後まで丁寧に、誠実に、答えきった。

 安倍さんはこれを終えた翌日に入院したのであり、すくなくとも内閣総理大臣、安倍晋三さん、ご本人は、病気が辞任の主因ではなく、海上自衛隊の給油継続をめぐっての辞任であることを、言葉だけではなく身をもって示された。

 それにもかかわらず病気を主因として、いいだろううか。
 代表質問を前にして辞任という前代未聞の辞め方であるから、これが無責任であるという指摘は、後世にわたって長く続くだろう。
 その指摘は、正しい。安倍さんは、まことにまことに残念ながら、その責任から歴史の上においても逃げることはできない。

 しかし、辞め方ではなく、辞任そのものの理由については、総理みずからが入院に逃げ込まないで、国民に説明したのだから、それを第一とするのが、いずれにせよわれらの民主主義の正当な手続きで総理大臣を選んでいる以上は、もっともフェアだし、客観的な態度だと考える。


▼次に、麻生さんらとの関係だ。

 まず「安倍総理が、麻生に騙されたと漏らした」という説が流された。
 しかし、わたしの知る限り、安倍さんはこのような言葉遣いをしない。

 安倍晋三さんは、うわべではなく、ほんとうに、こころ優しい人だ。
 誰かに不満や怒りを持つことがあっても、それで「あいつに騙された」などと言ったりしない。
 わぁと怒鳴ることも、ない。
 表情を曇らせ、言葉が少なくなり、誰かの行動に不満や怒りを内心で感じていることを、周りに気取(けど)らせるだけだ。

 余談だが、ほんとうは激情家で、周りをぴりぴりさせる福田さんとは対照的である。

 その安倍さんが、麻生さんらの人事、すなわち主要閣僚人事ではなく、党の人事に不満を示唆し、麻生さんと連携していた与謝野官房長官の、閣僚ではない細かい人事にも不満を、前述したような所作で示していたことは、安倍さんの信任が厚かった身近なひとびとが語っている。

 問題は、この不満の示唆を「総理が、麻生に騙されたと、周辺に言った」という作り話に置き換えた政治家がいるということだ。
 その発端について、安倍さんの側近はわたしに「官邸関係者のなかに、総理は麻生さんに騙されたと思ってらっしゃる感じなんです、と政治家に言ってしまったひとがいる」と語ったが、正直、それが事実かどうか確認できない。

 これによれば、官邸のなかのある人物(1人)が、「騙されたと思ってらっしゃる感じ」という、かなり不用意な発言をして、それを聞いた政治家が、脚色して「騙されたと言っている」に変えて、流したということになる。

 しかし、わたしには確証が掴めなかったから、テレビなどで触れたことはない。

 安倍さんの不満については、官邸や党本部のなかで実際は早い段階からかなり語られていたから、その空気のなかで不用意な発言があったのかもしれないな、とは考えなくもないが、これも政治家が「ちょっと脚色はしたが、その元になる証言はあったんだ」と強弁するための偽情報の可能性があり、これからもテレビなどでは述べるつもりはない。

 一方で、参院選の敗北のとき、いち早く続投をただひとり進言してくれた麻生さんを頼む気持ちが強かっただけに、麻生さんとのその後のコミュニケーション・ギャップは、安倍さんにはきつかったと思わざるを得ない。

 それを検証するために、ちょっと遡(さかのぼ)りたい。

(後半に続く)

このあとの10年 ★後半

2007年09月23日 | Weblog
※前半から続く。
 読んでいただくひとは、恐縮ながら、必ず前半から読んでください。


▼安倍さんは、かつては麻生さんと縁が薄かった。しかし安倍さんが総理になってから抱いていた、麻生さんへの新しい、深い信頼をわたしが直接に感じたのは、5月29日のことだった。
 松岡利勝農水相が自害した、その翌日である。

 松岡さんの遺骸を乗せた車を、首相官邸の正門で迎え、手をあわせて冥福を祈り、ご家族に深く頭を下げて弔意を示した安倍さんは、官邸のなかに戻ってきた。

 昼食をともにしながら、わたしに、安倍さんは、主として拉致問題解決への熱い思いを語った。
 ブッシュ大統領に首脳会談で直接、「日本国民が拉致されたまま、テロ支援国家の指定を外すなら、それは日本国民にとっては裏切りになる」と強い言葉で述べたという。

 わたしは、その明確な言葉を高く評価し、そのあと硫黄島を語り、海上自衛隊基地の滑走路を引きはがして、わたしたちの英霊の遺骨を取り戻してくださいとお願いし、安倍さんは「きっとやろう」と言ってくれた。

 そして別れ際に突然、安倍さんは「青山さん、きのうのことでね(…つまり松岡さんの自害のあと)、誰がいちばん最初に電話してきてくれたと思う?」と聞いた。

 誰かな?
 麻生さん、という名前もよぎったが、ドイツで外相会合に出席している最中だったから、別の名前を考えようとした。

 すると、安倍さんは「麻生さんなんだよ。わざわざドイツから、真っ先に電話をくれてね」と言い、「励ましてくれたんだ」と続けた。
 その安倍さんの眼は、まるで子どものように、うれしそうに輝いた。

わたしはふと、「あ、安倍さんは、いざとなったら辞めることを考えている」と思った。
 政治とカネに絡んで現職閣僚が首を吊るという、あまりに異様な事態に加えて、そのときすでに年金の保険料の記録が消失した問題が大きくなっていた。

 そして「万一の辞任のときには、麻生さんに譲るつもりなんだな」とも思った。
 そこで「総理、麻生さんが志を共通するひとだということは、よく分かります。わたしたちと同じように、拉致被害者の最後の一人まで取り返すことこそが解決だとおっしゃっています。ただ、安倍内閣は史上初めて、国民に明確に憲法改正を訴えて、国民投票法も成立させました。その凍結が解ける3年後までは、安倍内閣を維持する責任があると思います」と述べた。

 その瞬間、その瞬間だけ、安倍さんは眼の色を消した。
 それまで喜怒哀楽を、はっきりと眼に表していたのに、突然、消した。
 そして無言だった。

 わたしは、これは目先のことは別として、長期の政権を維持することには自信が持てなくなっているのじゃないか、と思った。
 だからこそ、麻生さんの真っ先の励ましがうれしかったのだろうと思った。

 それ以上は、わたしは何も言わなかった。

 このちょうど2か月あとの7月29日午後、参院選の投票がまだ行われているなかで、メディアの出口調査によって自民党が30議席台にとどまることが、はっきりしてきたとき、森喜朗、青木幹雄、中川秀直の3氏が協議し、安倍さんの辞任やむなしとして総裁選を通じて福田政権をつくる方向をすでに基本的には決し、古賀誠さんや山崎拓さんと連絡をとった。

 これを古賀派のルートから麻生さんが素早くキャッチして、直ちに行動を起こし、首相公邸に駆けつけて、安倍さんに「福田さんは、拉致被害者5人を北へ返そうと言った人だ。福田政権をつくらせちゃ駄目だ。あなたは続投するべきだ」という趣旨で説得した。

 ここまでの麻生さんの動きは、見事だったと言っていい。
 党内の他派閥の内部から情報を収集する能力、迷いのない決断と行動力で、まさしく安倍さんを支えて、安倍・麻生体制の基礎をあっという間につくった。

 ところが、そのあとの麻生さんに、遺憾ながらいくつかの誤算が生じた。

 ひとつには、森さんらの憤怒を甘くみたと言わざるを得ない。
 安倍さんは、恩義を忘れないひとだから、自分の辞任へ動いた森さんであってなお、自分を育ててくれた人物として敬意は払っていた。
 側近たちは「森さんらがいったん、安倍退陣で動き出したことを、怨んではいないようだった」と語る。
 安倍さんらしいといえば、まことに安倍さんらしい。

 だから森さんの周辺が、この時点からすでに「麻生に気を許し過ぎちゃ駄目だ。政権を乗っ取られてしまうぞ」と安倍さんに吹き込んでいったとき、まったく聞き耳を持たないというよりは、次第に、そうかもしれないという表情も、かすかにではあるが、みせるようになったという。

 麻生さんは、しっかりと安倍さんと手を組んでいるつもりだっただろうが、裏側では、安倍さんの麻生さんを見る眼に変化を起こさせるための動きが進んでいた。
「そうだねぇ、麻生に気をつけろと、町村派の誰が安倍総理に吹き込んでいようと、麻生さんは意に介さなかった。麻生さんの明るい、おおらかな性格という長所のためでもあり、わりあい油断しやすい短所のせいでもある」と、町村派内で福田さんと距離を置く議員は話している。

 次の誤算は、まさしくこれである。
 麻生さんは、安倍さんにゆっくりと疑心暗鬼の思いがきざし、、そのために尋常ではない深い孤独感に苛(さいな)まれはじめていることに、あまり気づいていなかったようだ。

 安倍側近のひとりは言う。「安倍さんが麻生さんをちらりと見る目つきとかね、ああ、なんだか今までとは違うなぁと思ったけど、麻生さんは気にしている様子がなかった」

 安倍さんはそうしたなかでインドを含むアジア歴訪の旅に出て、麻生さんとは電話連絡だけになった。そして、内閣改造、党人事に向けた準備が進んでいった。

 前述したように、このインドで心身の調子はずいぶんと悪化した。
 日本にいた麻生さんにも、その様子はかなり伝わっていたようだ。
 このあたりでは、麻生さんの情報収集はちゃんと行われていた。

 だからこそ麻生さんは、その安倍さんの心身の不調を知るにつれ、人事に積極的に、てきぱきと意見を述べるようになった。メモの作成もあった。
 総裁派閥の町村派のなかでは、思想として福田さんに遠く、麻生さんに近かった議員をも含めて、これで麻生さんへの不信感が一気に高まってしまった。

 このあたりが第三の誤算だ。
 安倍さんの万一を考えるなら、町村派の議員たちをむしろ真っ先に、全体として味方に付けておくべきであり、不信感を広げてしまったのは、まったく逆のことであった。
 もともと町村派のなかで、福田さんがそう人望があったのではなく、町村さん自身も安倍さんが辞任した直後には出馬を考えていたから、町村派には、さまざまな選択肢があった。その中に「麻生支持」という要素を、麻生さんはつくっておくべきだった。

 それでも安倍さんは、幹事長に予定通りに麻生さんを起用し、麻生さんの進言も容れて、官房長官は与謝野さんとし、防衛、外務、厚生労働といった主要閣僚は安倍さんがみずから決め、安倍改造内閣、麻生執行部の自民党が無事にスタートした。
 8月下旬である。

 旧安倍派にいた古参代議士は、わたしに言った。
「そのためにむしろ、麻生さんは致命的に油断したね。安倍は、拉致強硬派の親友たちを、閣僚や首相補佐官には起用できなくとも、党でしっかり処遇して、味方がしっかりといてくれる態勢を望んでいることに、あまり気づかずに、とにかく世間や党内から友だちとみられている人間を、どんどん外していった。安倍のお父さんの代から、晋三さんと長年つきあってきたわれわれからすれば、麻生さんが乗っ取ったようにみえるし、晋三さん自身も、急速に不安感を強めていったことに、麻生さんは気づいていなかったな」

 麻生さんにすれば、友だちをもはや安倍さんの身辺に置かないことが、むしろ安倍改造内閣を強化すると、思慮したのだろう。
 だからクーデター説など、まったく間違っている。
 一方で、安倍さんの極めて信頼する身近な議員からも「これじゃ、麻生さんに乗っ取られたとしか言えない。こんな、みんな、みんな外してしまって、安倍総理は孤立感を深めている」という電話が、わたしにも頻繁にかかるようになった。


▼そして麻生さんの誤算は、中曽根さんという存在を軽くみたことにもある。

 中曽根さんは、安倍政権が人気を失っていった、その過程で逆に「安倍さんは、小泉さんより偉い。小泉さんは、郵政民営化というシングル・イッシューをやっただけだが、安倍さんは戦後政治の見直しをやっている。まさしく保守本流だ」と絶讃し、安倍さんはこれをたいへんに喜んだ。

 やがて安倍さんは、携帯電話で中曽根さんに電話し、アドバイスを仰ぐようになった。
 わたしが官邸の安倍さん側近に電話し、「総理は最近、中曽根さんとばかり電話で話してるでしょう。どうしたんですか」と聞くと、この冷静なひとが珍しく慌てた。
 その後、数日を経て、「安倍総理は、中曽根さんを、最後の心の友だと言っている」という話が、この側近からあった。

 中曽根さんは、インド洋の海上自衛隊の活動中断は、日米同盟を壊しかねない重大事態だとアドバイスした。
 これが安倍さんの「職を賭して」という唐突な発言のベースになったと、わたしはインテリジェンスを総合して考えている。
 また、ブッシュ大統領らに「中断なき継続」を約束する背景にもなったと考えている。

 このことは前にも触れたが、この中曽根さんの思考は、冷戦時代のそれである。
 このアジアでも冷戦構造は、ついにして壊れつつある。
 北朝鮮がアメリカと接近して、冷戦時代のボスであった中国の影響力を削ごうとしているのが、その最先端だ。
 アメリカの要求にはいつだって満額回答をせねばならないという冷戦時代の発想では、むしろ新しい日米関係を築くのに邪魔になる。
 だから安倍さんが、中曽根さんの意を容れて「職を賭して」と発言したのは、遺憾ながら大きな誤りだった。

 麻生さんが、この中曽根さんの動きを充分に、あるいは完全に知っていたのかどうか、今のところわたしには分からない。
 ただ前述したように、麻生さんの党内の情報収集能力は秀逸だから、まったく知らなかったということは、ないようだ。
 そして、麻生さんは、すでに冷戦時代の発想を脱していることを、外相当時に「自由と繁栄の弧」という優れた戦略構想を打ち出したことで、証明している。
 だから、麻生さんはまさしく麻生さんらしく、おおらかに、この中曽根さんの安倍さんへの耳打ちを無視、あるいは軽視したのではないかと考えている。

 だから麻生さん、そして与謝野さんにとっては、海上自衛隊の活動継続は、テロ特措法の延長であるべきと限らず、新法によっても良かった。
 延長なら、小沢さんと談合せねばならず、そのような会談をセットするなら、安倍さんが代わりに首を差し出す話にもなってしまう。
 新法なら、短期間の活動中断は出るが、参院で否決されたあと衆議院の再議決で堂々と活動を再開できる。

 この考えは、ごく真っ当である。
 真っ当だからこそ、麻生執行部は、小沢さんとの談合会談を積極的にセットしようとは、しなかった。
 セットしようとしたのは、どうせ物別れになる公式会談だけ、それを一度だけ申し入れた。
 小沢さんが「会談の申し入れはなかった」と述べたのは、この経緯を指している。

 心身が弱り、麻生さんにも、松岡さんの自死の時や、参院選大敗の時のような、万全の信頼を寄せられず、そのために急速に孤立を深め、中曽根さんを「最後の心の友」として頼っていた安倍さんには、小沢さんとの会談がぎりぎりと真剣には模索されないこと、だからテロ特措法の延長は無理であると確定してしまうことが、不満であり、怒りを含んだ絶望となり、急に新法の路線で代表質問に答えられないということも重なって、代表質問直前の辞意表明という、麻生さんや与謝野さんには理解不能な行動になってしまった。

 辞意表明の直後、麻生さんも与謝野さんも「病気主因説」を会見で明言した。
 これを見ていた、関西テレビの若手アナウンサーが「病気が原因、ということにしてしまいたいみたいですね」と言い、わたしも、そのときはそうかな、と思った。(ただし、放送の中ではない。放送前のスタジオ外で、雑談のなかで出たアナウンサーの発言だから、放送はされていない)

 今は違う。
 麻生さんも、与謝野さんも、そうとでも思わねば、安倍さんの行動を実際に理解できなかったのだろう。

 ここまでは、すべて情報に基づく議論だが、ここでひとつだけ、まったくの推測を書いておきたい。
 推測だからテレビでは述べないが、この個人ブログでは、書いておきたい。

 なぜ入院中の安倍総理に代わる首相臨時代理を置かないか。
 わたしは、それは安倍さんの最後のこだわり、すなわち辞任を病気のせいにしたくないという思いのためではないかと、これは勝手に推し量っている。
 そして、その思いを、麻生さんと与謝野さんが今は理解して、しっかり受け止めることが可能になり、そのために、いわば安倍さんと麻生さんらのウェル・コミュニケーション、相互理解が復活しているのではないかとも、推察している。

 首相臨時代理を置かないこと、そのものには、わたしは危機管理の専門家の端くれとして異論はある。
 しかし同時に、やがて、国家主権の回復を再び掲げる政権を樹立するためには、この理解回復が、素晴らしいベースになることも、深く祈っている。


▼経緯の分析の最後に、麻生さんの最後の誤算にも触れねばならない。(以下は、再び、情報に基づく議論です)
 それは、小泉さんの動きをめぐる誤算だ。

 小泉さんについては、麻生さんはちゃんと注目していたと思われる。
 だからこそ、総裁選の日程を短くしようとした。
 これが誤算であり、この焦りが党内の反発を掻きたて、代議士会で小泉チルドレンから麻生幹事長が公然と批判される直接的な原因になった。

 そして小泉さんは、短期勝負とみたからこそ、あっという間に決断した。
 それは、平沼さんの無条件復党、すなわち郵政民営化反対のままの復党をさせない福田さんへの全面支持であり、もはや拉致問題は一顧だにしない決断であった。
 平沼さんの無条件復党へ動いていた麻生さんは、その一点だけで、小泉さんを福田さんの庇護者にしてしまい、それが町村派を福田支持でまとめ、最大派閥の町村派が素早く固まったために、勝ち馬に乗る派閥が相次いでしまった。

 郵政民営化の造反組、反対者の復党は、麻生さんだけが志向したのではなく、安倍さん自身も志向した。
 だから小泉さんにとって、安倍さんが後継者であった時代はとっくに終わっていた。したがって、小泉・安倍・麻生と続く後継政権をつくる意志は、もはやカケラもなかったのである。
 麻生さんは、残念ながら、その小泉さんを完全には読み切っていなかった。


▼こうやって今日、9月23日の総裁選で、福田政権が実質的な産声をあげる。
 これによって、国家主権の回復への試みは、いったん確実に頓挫するだろう。

 しかし絶望ではない。
 まず麻生さんの総裁選での健闘によって、拉致問題にちゃんと光があたり、日本国民に国家主権の問題について違う選択肢があることを、深い部分で伝えることができた。
 クーデター説のような愚かな情報操作についても、麻生さんはきわめて冷静に対処し、国を率いる危機対処能力の素質を持つことを証明した。

 あとは今日、麻生さんが少しでも多くの票を取り、明日につなげることを祈るばかりだ。
 ほんとうは、安倍さんが両院議員総会に現れ、麻生さんに投票すると明言してくれることを夢想した。

 もちろん、それはかなわず、安倍さんは黙って、病室で不在者投票を済ませた。
 しかし、安倍さんが辞意表明によって憑き物が落ちて、麻生さんと志を共有する信頼関係に戻っている、あるいは戻りつつあることを、ほのかに感じる。
 安倍さん、麻生さん、それぞれの誤算によって生まれた、誤解、それが溶ける時機が来ていることを、かすかに感じる。

 安倍さんの辞意表明の主因は、まさしく、あまりに深い孤立、孤独であった。
 国家主権のフェアな回復、それを安倍さんは「戦後レジュームからの脱却」と呼んだ。
 それを進めようとする時に立ち現れる、巨大な壁、その壁を打ち破ろうとしたときに直面した孤独と孤立は、あえて申せば、貴重な孤独でもあった。

 わたしたちの祖国が主権をほんとうに回復するのは、これほどまでに厳しい道のりであることを、志を同じくする者は、政治家であれ市民であれ、それは関係なく、この安倍さんの孤立による挫折でむしろ学んだのだ。

 これからの10年、このあとの10年だからこそ、国家主権の公正な回復という根っこの志を共有できるひとびとは分裂せず、連帯する、団結する、それが、たいせつではないだろうか。



 青山繁晴 拝
 講演まえの出雲にて 徹夜明けの朝 2007年9月23日午前8時45分






耐え続ける、みんなと一緒に耐えつづける

2007年09月13日 | Weblog



▼きのう安倍さんの辞任会見をみていて、耐え続けることの、たいせつさを思った。
 一度、ひとに誓ったら、一度、理念を掲げたら、一度、責任を担ったら、命は天に預けて、成否も天に預けて、おのれは、どこまでも耐え続けたい。

 世の生活者はみな、それぞれの、それぞれなりの重荷に耐え、そのなかで生きる歓びを見いだしていくのだから。


▼宰相の辞任をめぐる真実を把握するのも、ぼくの務めの一つだ。
 辞任会見の最中も、安倍さんにごく近い政治家、官僚たちや、現職の閣僚、与党の幹部たち、あるいは反安倍の政治家や官僚、与党幹部、さらには「いつでも何でも知っている」といわれる公安関係者に至るまで、携帯電話を使って、話を聴き、情報を集めつつ、ぼくは胸のなかでふと、耐え続ける、耐えて耐えて耐え遂げる、そのたいせつさを思った。

 耐えることを辞めた安倍さんを、とやかくは言わない。
 人それぞれの生き方があり、宰相といえどもひとりの人間であり、また、去る者の背に悪罵を投げつけないのは、わたしたちの尊い文化の一つだと思うから。

 しかし、ささやかな、おのれの生き方としては、命を天にお返しする、その瞬間まで耐え遂げたいと、いま思う。




▼9月12日水曜の午後は、大阪の定宿ホテルにいた。
 いつもの関西テレビの報道番組『ANCHOR』のレギュラー・コーナー『青山のニュースDEズバリ』を準備していた。

 今週は、安倍さんがシドニーの記者会見で「給油継続に職を賭ける」と発言したことを取りあげ、その発言は間違いだと述べることにしていた。

 なぜ間違いか。
 安倍さんは実は、この発言を、中曽根康弘・元首相と相談のうえ、事前に用意して、おこなった。
 国内インテリジェンスなどによれば、中曽根さんが「日米同盟は、日本の生命線であり、インド洋上の海上自衛隊の給油を、内閣を賭して、守るべきだ。給油の一時中断も、いけない。小沢君は、権力ほしさに日米同盟を壊そうとしている。安倍君は、職を賭すことによって、身をもって、アメリカに、日本政府がここまで同盟関係を大切にしているというメッセージを送れ」という趣旨でアドバイスし、安倍さんは、これを受け入れたという。

 ぼくも、日米同盟が日本の生命線の一つであることは同意する。
 しかし中曽根さんの考えには同意しない。
 日米同盟だけが生命線ではない。あくまでも一つであり、そこがいちばん大切なのだ。
 アメリカが北朝鮮と急接近し、テロ支援国家の指定解除から、朝鮮戦争の終結、米朝国交正常化へ進んでいく。
 これを大きな眼でみれば、このアジアでもついに冷戦が終わることを意味する。

 ヨーロッパの冷戦は、実に20年近くも前に終わった。
 1989年にベルリンの壁が壊され、90年に東西ドイツが統一し、91年にはソ連邦が崩壊した。
 ところが、アジアでは中国という共産党独裁国家、北朝鮮という共産主義テロ国家が温存され、朝鮮半島の南北の分断はむしろ固定化されている。

 そのアジアでも、いよいよ冷戦が終わるから、これまでの仲良しグループが解体され、アメリカが北朝鮮と組んで、北朝鮮を属国と見なしてきた中国に、その喉元から中長期的に圧力をかけるようなことが、起きつつあるのだ。

 日米同盟だけが、それだけが日本の生命線だという発想は、この潮流に気づかないことであり、日本国だけが、もはやありもしない冷戦構造の中に取り残される、いや、みずからを取り残すことに、つながっていくだろう。

 そして日本国民は、安倍さんの真意をやがて知るにつれ、「なんだ、アメリカが絡めば、たかが給油するかしないかだけで、日本の総理大臣の首がかかってしまうのか」と多くのひとが考え、日米同盟を嫌悪し、同盟の弱体化にむしろ、つながるだろう。

 だから、中曽根さんのアドバイスは、間違っており、それを真に受けた安倍さんの「給油を中断させないことに、職を賭す」とした発言も間違っている。

 また、安倍さんが職を賭してでも護るべきなのは、拉致問題をめぐる北朝鮮との交渉のなかで、「過去の清算」について間違った清算をさせない、その姿勢だ。

 すなわち戦後の南北の分断まで日本のせいにして、日本国民の税から「戦後補償」なるものをさせないこと、誘拐されたままの有本恵子ちゃんや横田めぐみちゃんと、戦中の慰安婦とを同列視させないことだ。


▼そのような解説をする準備に集中し、テレビはつけてはいたが、集中するために音声は消していた。

 そこへ関テレ報道局のディレクターから「青山さん、ニュース速報を見ましたか」と電話がかかってきた。
 見ていない、と答えるとほぼ同時に、モバイル・パソコンに電子メールが届いた。
 安倍さんの最側近と言うべき政治家から「茫然自失だ」というメールが届いた。

 そのあとは、準備していた内容はすべて棄てて、辞任表明の真相を探ることに切り替えて、携帯電話とメールのやり取りに、集中した。

 すると関テレから、独立総合研究所の秘書室長を通じて連絡があり、ふだん4時55分から始まる『ANCHOR』は、ネット局のフジテレビの『スーパーニュース』の特番に取って代わられて放送中止、6時17分からのローカル放送部分だけがいつも通りに放送されるから、そこに出演してほしいと要請された。

 それを了承して、ローカル部分だろうが何だろうが関係ない、視てくれるひとがいる以上は、最高の情報を集めようと、携帯電話とメールの嵐に戻り、そのなかで、独立総研から配信している『東京コンフィデンシャル・レポート』の会員への責任を果たすために、速報レポートを次々に完成させて、独研へ送り、独研の総務部から全国の会員へ、配信されていった。

 このレポートが無事に配信されていると、ぼくは胸のなかが落ち着き、仕事全般にいい影響が出る。
 レポートの会員は、会費を負担していただいて、つまり血を出してでもぼくを支えてくださるひとびとだ。



▼生放送に備えて、関テレの局に入ってからも、情報収集とレポート執筆は続き、報道局のど真ん中にいるぼくの携帯電話に、現職閣僚から電話がかかり、総裁選にどう臨むかを話しあったり、あるいは総理の執務室、その間近にいるひとから電話がかかり、「健康問題を辞任の理由にするのは、嘘だ」という明言があったり、なんだか凄まじい状況だった。

 しかし助かったのは、関西テレビの報道局のひとびとには礼節があることだ。
 ぼくが携帯電話を手で覆って話し始めると、聞き耳を立てるのではなく、すっと席を立って、遠ざかってくれた。



▼生放送に入り、ぼくは冒頭、岡安キャスターから「まずは第一報で何を思いましたか」と問われ、「安倍総理がほんとうは、このごろ中曽根さんと頻繁に電話で進退をめぐって話しあっていて、それは知っていたから、不穏なものは感じていました。しかし、まさか、このタイミングとは思いませんでした。所信表明演説を行った総理が、その演説に対する代表質問の直前に辞めることなど、あり得ないことですから。だから、中曽根さんのアドバイスにとどまらず、よほどの異常なことがあったと考えました」と答えた。

 そのあと、その「よほどの異常なこと」の中身について、話していった。
 その中身は、ぼくの放送を文字などでアップしてくださる大変な努力を重ねているひとびとがいらっしゃるので、それにお任せします。

 残念ながら、このブログをこれ以上書いている時間が、もはや1分もありません。

 放送をいつも無償の努力として起こしてくださる、みなさんをはじめ、みんなみんな、ほんとうにありがとう。
 ぼくはきっと、耐えきってみせます。




 あおやま しげはる 2007年9月13日木曜 早朝 東京の自宅にて



生を耐える

2007年09月11日 | Weblog



 耐えるとは、なんのために耐えるのだろうか。

 あんまり謎かけのようなことを、個人的な呟きのこのブログであっても、書いてはいけないよなぁと思いつつ。

 ぼくは、なんのために耐え、みなさんも、なんのために耐えるのでしょうか。

 暮夜にひとり、そう思わずにはいられない。
 この世でそれぞれに耐え続ける同時代人にも思いを馳せて、こう書かずにはいられない。





「あったかいお茶をゆっくり飲む」
 二十歳のひとの書き込みに、なるほどなぁ、いい考えだなぁと、こころから想う。
 実際に効果もきっとあるでしょう。
 こういうことを、さらり書ける二十歳がいる。
 ぼく個人のことよりも、それは、わたしたちの二千年国家の希望に、きっとなる。

「汝ら、その狭き門より入れ(いれ)」
 このイエスの言葉の意味を、ぼくと一緒にあらためて考えてくれる、たいせつな友だちもいる。
 思わぬ病と戦いつつ、そうやって考えてくれる友だち、あなたのもとにこそ、愛がある。





こころの遺言

2007年09月06日 | Weblog



 この祖国の最終責任者は、いったい誰なのか。
 内閣総理大臣、安倍晋三なのか、今上陛下なのか。

 いや違う、それは、このわたしたち自身だ。
 日本国は、ほんものの国民国家であり、われら国民のものであり、わたしたちこそが、日本国の主人公だ。

 日本国の主人公が、わたしたちであることはすなわち、日本国の最終責任者もまた、わたしたちである。

 それが、われらの誇りであり、そのためにこそ、ひとりひとりがまず、自立しようと試みて、個々人の自立のうえに、62年前に戦いに敗れて外国軍に占領された祖国の、ほんとうの独立を創るのではないだろうか。





 なぜ、テレビをはじめとする日本のマスメディアのなかでは、いつも悪いのは自分以外の誰かであり、たとえば安倍晋三であり、この宰相が倒れたならば、次の宰相であり、いつまで経っても、自分は、安全圏なのか。

 北朝鮮、この人類史上最悪というべきテロ国家に、誘拐されたままの、われらと同じ庶民、同胞(はらから)を取り返すのは、誰なのか。
「返してもらう」のではなく「取り返す」のは、この、わたしたち以外に誰がいるのか。

 わたしたち主人公が、宰相であれ大臣であれ、おのれの責任において代理人を選び、その代理人を、おのれの意志によって動かす、その民主主義にこそ、わたしたちは生きている。
 昭和天皇も、今上天皇も、静かな海のように深い決意をもって、その日本国の民主主義の揺るぎなき象徴であろうとされた、そして、されている。
 そう、御胸のうちを拝察する。

 わたしは、テレビであれラジオであれ、不思議なご縁があって席を同じくした、どなたも、ゆめ批判しない。
 個人攻撃は、決してしない。
 その個人を批判したり、非難したり、冗談じゃない、そのようなことを致すために、メディアに関わっているのではありませぬ。

 ただただ、こころの遺言として、呼びかけている。
 わたしたち自身で、やりましょう、と。
 その姿勢を、子々孫々に伝えるためにこそ、発言しましょう、と。





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 このブログは、戦うシンクタンクである独立総合研究所の公式サイトではなく、あくまでもひとりの男が個人的に呟くブログです。
 プライベートな吐露を許してください。

 ぼくは、かつて共同通信の政治部に属していたころ、記者を天職だと思っていた。
 ペルー日本大使公邸人質事件と遭遇して、その記者を45歳で辞めるとき、『以下、余生なり』と胸のうちで、定めた。

 こないだの日曜日、長野県の佐久で講演し、講演のまえに昼食会があった。
 サーブされた料理は、地元で育まれた野菜をみごとに活かしてあって、まるで強靱な志が、やわらかな味に化身したような、素晴らしい料理だった。

 そのフレンチ・レストランの、とても若い経営者のかたから揮毫(きごう)を求められた。
 用意された色紙に、ぼくは、いつものように「深く淡く生きる」と右側に書き、真ん中にいちばん大きく、そのかたのお名前を、こころのなかの敬意を込めて書き、左側に、おのれの名前をすこし小さめに書いた。

 すると、「この淡く、とは、どういう意味ですか」と問われた。
 それは、命を天に預けっぱなしにすることであり、利害得失のためには生きないことであり、そしてすべてを諦めたうえで、なんの努力も実らないとあらかじめ諦めたうえで、天に戻るまで、力を尽くして、生きることであり…。

 それは、言えなかった。
「自分の命を考えない、ということです」という言葉だけ、思わず、吐いてしまった。
 言ってしまってすぐ、あ、このレストラン経営者のかたに、それを求めていると誤解されてはいけないと、内心ですこし慌てた。

 他者にまさか求めるのではなく、あくまでも、おのれの拙(つたな)い、ひとつの生き方のメッセージとしてお書きしました、そう言いたかったけれども、うまく言えなかった。
 それでも、このかたは、どことなく分かってくれたようだった。

 中学から高校にかけて、アンドレ・ジイドの小説を読みふけった。
 フランス語は読めないから、何人かの翻訳者の努力を借りて、過去にない文学世界を創ろうと苦闘した孤独なジイドの世界に触れた。

 ジイドの中編小説、「狭き門」には、「汝ら、力を尽くして、その狭き門より入れ」という聖書の句が掲げてある。
「入れ」は「いれ」と読むのだと、考えている。

 なんじら、ちからをつくして、その狭き門より、いれ。

 この小説の主人公アリサは、恋人のジェロームを、自分の妹のジュリエットが秘かに愛しているのを知り、ジェロームの元を去って、尼僧となり、早世する。
 アリサが亡くなったあと、ある書斎で、ジェロームとジュリエットが会い、ジェロームはジュリエットの気持ちに気づかないまま、アリサを恋うて偲ぶ思いを、自分のその思いに陶酔するように言い募る。

 お金持ちと結婚して、すこし太ったジュリエットは、ソファに深く身体を沈めて、じっとそれを聴いている。
 書斎は陽が陰り、ジェロームの横顔も、ジュリエットの沈んだ身体も、やがて暗い夜の始まりに、覆われていく。

 ぼくは、大人になっても、その暗い書斎の光景を、ときどき、ふと思い浮かべた。  
 狭き門とは、何か。

 この小説は、宗教小説でもあるから、まず直截(ちょくせつ)には、個人の愛欲を去って神の栄光のために生きる、その出家を指している。

 けれども、ジイドは、さらりと普遍化している。
 たとえば、エロス(欲望としての愛)とアガペ(聖なる愛)との対峙であり、あるいは、愛の問題すらも超えて、ひとが、おのれだけのためではなく他のために生きるとは何かを、問うている。

 ぼくは、母が武家の出であるとともにクリスチャン(プロテスタント)であるから、母と牧師によって幼児洗礼を受け、キリスト教、特にプロテスタントに、浅くはない親しみがある。
 しかし、ぼくは主イエスだけではなく、アッラーも仏陀も天照大神も、その他の神仏も敬愛する気持ちを変えられないから、クリスチャンになる資格はない。
 みずからの意志によって成人洗礼は受けないから、今後も、クリスチャンではない。
(その幼児洗礼を授かった、神戸の日本キリスト改革派教会の附属幼稚園が、拉致被害者の有本恵子ちゃんやぼくが通った幼稚園です)

 だから「狭き門」を宗教小説ではなく、普遍的な問いを持つ、永遠の小説として読んだ。
 あの暗い書斎でのジェロームのようには、生きたくない気持ち、アリサを、なぜか身近に敬う気持ち、ジュリエットを、愛(いと)おしく思う気持ち、それは、ティーンエイジャーだった当時と、今も、まったく変わらない。

 だから個人の批判は、今までも、これからも、決して致しませぬ。
 マスメディアで縁あって同席するかたがたに対して、だけではない。

 たとえば、何人かの与党政治家、北朝鮮と連絡を取りあって、拉致被害者のうち、たったひとりかふたりの被害者を「返してもらう」ことで日朝国交正常化なるものを進めようと画策している政治家を、テレビの報道生番組のなかで激しく追及することがあっても、それは、その政治家個人を責めているのではありません。

 われら国民の生き方、ぼく自身も含めた、この祖国の主人公であり最終責任者である、われらの生き方を、まことにささやかながら、こころの遺言として問うているのです。





 そしてね、すこし、疲れました。