Our World Time

ちいさなお知らせ

2005年03月29日 | Weblog
▼もしも、ぼくのサイン本を希望されるかたは、大阪の伊丹空港の書店にあります。

 ぼくは今、毎週月曜日に関西テレビの番組出演のため、大阪に入っているのですが、先週はそれに加えて、週半ばにも、在阪の公共事業体から委託された研究プロジェクトで『報告会』を開くために、大阪へ行きました。
 その報告会を無事に終えて、帰京するため、伊丹空港に着いたとき、同行の主任研究員が言いました。「社長の本が売り上げベスト5に入っていた書店が、ここにありますよ。覗いていきますか?」

 そのとき、ほんとうに珍しいことに、飛行機の出発まですこしだけ時間があったのです。
 ふつうは、空港に着くとまっすぐANAのラウンジに入って、5分か10分か原稿を書くと搭乗し、出発…というわけで、とてもとても書店に寄っている余裕はありません。
 だけど、このときだけは、ちょっと大袈裟に言えば奇跡的に時間があった。

 おおー、ぼくの売れない本がベスト5とは、こりゃ、うれしいな、というわけで、その書店に行ってみました。
 すると『日本国民が決断する日』(扶桑社)が平積みになっています。
 東京の書店では、平積みどころか、もう出版社に返本してしまって置いてない書店もあるようですから、ちょっと感激して、書店のかたにお話をして、置いていただいている本すべてに、きもちを込めてサインさせていただきました。
 ぜんぶで、12冊から15冊ぐらいはあったかなぁ。

 当たり前のことながら、あるだけしかないので、もしも万一、ご希望のかたがいらっしゃったらお早めにどうぞ。

▼「スカイブック」という名の本屋さんです。
 場所は、伊丹空港の「中央ブロック」1階。
 営業時間は6:30~20:30、電話は06-6856-6647です。
 大阪や伊丹空港に行けないかたも、電話すれば郵送で買えるかもしれませんね。



日曜夜、どっけん(独立総研/独立総合研究所)の本社オフィスにて

2005年03月27日 | Weblog
 みなさん、書き込みが途絶えているにもかかわらず、いつもこの地味サイトを尋ねてくれてありがとう。
 きっと、みなさんがもう想像されているとおり、年度末のそのまさに最終段階で、シンクタンク(株式会社 独立総合研究所)の社長として、また首席研究員としての仕事が狂瀾怒涛の忙しさです。

 年度末が終わると、社内では、ゴールデンウィークに向けて長期休暇を準備する研究員、あるいは検査入院で身体を調べ、そして身体を休める研究員などなど、メンテナンスに入るひとが増えます。
 だけど、ぼくは休みません。

 年度が変わったら変わったで、新規の研究プロジェクトを準備したり、クライアント(研究の発注元、つまり政府、自治体、そして民間企業です)に説明したり、独立総研の忙しさは、基本的にあまり変わらない。
 それに、ぼくはシンクタンクの経営だけではなく、たくさんの講演依頼、出版社との約束を実行できないでいる、数多い出版企画の原稿、そしてテレビ・ラジオもちょこっと、つまりは、年度と関係のない仕事が沢山ありますから、とーぜん、休みはないのです。

 かっこつけるつもりは、さらさらないけど、もはや天命に生きるだけだと思いを定めているので、休みがないからと言っても、そうがっかりもしないんです。

 それでも、年度が替われば、このブログにすこし書き込んだりはできると思います。
 もうちょっと、待ってください。

 いま3月27日、日曜の夜、主な研究員もみな独立総研に出社して、報告書の完成を急いでいます。


黒ビールのみたいな、アイスクリームたべたいな。

2005年03月12日 | Weblog
▼いやはや、シンクタンクにとって年度末はキツイ。
 独研の社員は、入れ替わり立ち替わりで泊まり込んで、受託プロジェクトの報告書づくりに精を出してる。
 あるいは、研究会や委員会や報告会の準備に、追い込みで、一生懸命だ。

 みなで打ち合わせをして、方針や路線を修正したり、確認したり、ぼくの考えをみなに伝えたり。

 ぼくは、そうした仕事に加えて、原稿の山と、テレビほんの少々と、それから社長業どっさり。
 今夜は、独研で徹夜です。

 独研が迎えた新しいメンバーふたり、29歳(男性)の研究員(主任研究員候補)、そして20歳(女性)の総務部員見習い、このふたりが奮闘していることが、このごろのぼくの心をいちばん明るくさせる。

 それにしても、のどが渇いたなぁ。


いつでも待っている

2005年03月05日 | Weblog
▼春弥生の東京に大雪が降った3月4日の金曜日、未明から朝にかけて自宅で、独研(株式会社 独立総合研究所)が配信している会員制レポート『東京コンフィデンシャル・レポート』の第221号と222号を書く。
 文章と内容に精査すべき点、練り直す点がまだいくつもあり、未完のまま、独研へ向かう。

▼独研の社長室から、ビルのあいだを横なぐりに降る雪の光景を見ていると、出張で訪れたばかりの青森の雪と重なる。
 青森県・六ヶ所村で農業改革にとりくむひとびとを思う。

 まず、先日に入社試験を行ったオーストラリア国立大学・博士課程に在学中のFさん(29歳の男性)と、独研の取締役や秘書室長らの同席のもとで面談し、正社員としての入社を決定する。
 研究本部の社会科学部に属することになる。
 あたらしい仲間を迎えることを、胸のうちで、ほんとうに嬉しく思った。

 これまで、かなり多くの志願者のかた(研究本部・研究員の志願者)に接してきた。
 まず書類審査を行い、それをパスしたかたに、筆記試験(一般常識、英語)と面接試験を行う。
 アメリカやイギリスの大学院に属するか、卒業されたかたがほとんどで、なかにはすでに日本の大学で教えているかたも居た。

 しかし、残念ながら、これまでひとりも採用できないできた。
 まず、英語力が足りない。
 総務部ならともかく、研究本部に属するには、足りない。

 独研の研究員は、入社するとすぐに、たとえばアメリカ国防総省に電話して高官に直接、微妙にして重大な問題で議論できる英語力が欠かせない。つまり、英語力については、まったく誤魔化しがきかない。
 アメリカやイギリスの大学院で修士号や博士号を得ていても、こうした実務的に高度な英語力となると、まるで別問題だ。

 たとえば、わたしはアメリカの大学院を出るのだから、と根拠なく自分を誇っても意味がない。
 どなたも、指導教授から誉めちぎるような推薦文を得ているけれど、それは、残念ながら根拠にはならない。そりゃ、いいことしか書かないからね。
 面接を、途中で英語に切り替えて、その最初の二言、三言の答えで、ああ、この人の英語力では独研の研究員は無理だなぁと分かってしまう。そういうことばかりだった。

 それから、独研のめざす祖国と世界への貢献について、確かで、しかも熱い志が必要だ。
 シンクタンクの調査・研究は、学者の世界と違って必ずチームで行うから、チームワークを楽しくやれる人柄も、絶対に欠かせない。 

 これまで独研の研究員はすべて、オリジナル・メンバー、すなわちぼくが三菱総研の研究員だったころにリサーチ・アシスタントになってくれた慶大やロンドン大学大学院の学生が、そのまま独研の研究員となり、その縦横のつながり・人脈から採用してきた。

 それでは当然、足りないので、公募しているわけだけど、何度、面接しても採用できる人材が見つからずに、ずいぶんと困っていた。
 だから、ようやくFさんのように、正社員の研究員としての採用を決断できる人材と出逢えたことは、たいへんにうれしい。
 ただFさんも、まだ独研の担っている責務、仕事をこなすには課題も多く、人材として、きちんとした土台があるに過ぎない。
 人生の大きなチャンスとして、力を尽くして、自分を磨いてほしい。

 彼は、入社が決定後すぐに、独研がいま走らせている研究プロジェクトの資料読みを始めてもらった。
 独研は、性別や年齢にかかわらず、研究員や総務部員はファースト・ネームの呼び捨てと決まっているので、ぼくはすぐに、彼をファースト・ネームで呼び、なんのために資料読みから入るかについて簡潔にアドバイスした。


▼そのあと、膨大な数で届いている電子メールのうち、どうしてもすぐに返信が必要なものだけに返信を打ち、日比谷の高層ビルの最上階にある中華料理店へ。
 独研を出るのが予定より遅くなったけど、すぐ近くだから、大雪のなかでも約束の正午に間に合った。

 この中華料理店は、ぼくが外交担当の政治記者だったとき、外務省の高官たちと時々、昼食などをとりながら話した場所だ。久しぶりで、すこしだけ懐かしい。
 窓のそとに、雪の皇居が美しく広がっている。
 きょうは、ある会員誌のインタビューを、昼食をとりつつ受ける。

 実力部隊を持つ政府機関から、独研に出向している主任研究員、それに独研の取締役が同席する。

 政府に対する厳しい注文もまじえて、日本のエネルギー政策について、お話しした。


▼そこから、あえて、ぼくひとりになり、実力部隊を持つ政府機関へ行く。
 信頼関係のある最高幹部と、二人だけで会う。
 いま国民のために何をすべきか、胸をひらいて話しあう。


▼独研へ戻ると、政府機関での会話を踏まえて、主任研究員や秘書室長と簡潔に打ち合わせたあと、今度は、総務部員に応募してきたひとの面接に臨む。
 大学の学部を卒業見込みの女性、22歳だ。
 書類審査で、志望理由の内容がかなり評価できたから、きょうの筆記試験と面接試験にお出でいただいた。

 研究本部ではなく、総務部への応募なので、面接試験を途中で英語に切り替えることはしなかった。
 このかたは、子供のころにモスクワにいたので、ロシア語が日常会話ならできるとのこと。
 一週間程度で結果をお知らせすることを告げて、試験終了。

 そのあと、一週間ほど前に試験を行った総務部員の応募者、 I さんと面談する。
 20歳の女性の I さんは、芸術系の高校を卒業している。
 高校時代は、油絵を描いていたとのこと。

 仕事上の能力は、ありのままに言って独研の総務部で働くには、まだとても足りないことを率直に告げ、そのうえで「あなたが独研に応募した志、そのありかたを、ぼくは評価している。それに、あなたの清潔な生き方、自立をめざす生き方にも共感する。そこで、いまは正社員として採用するのは、とても無理だけど、あなたさえ良ければ、まずはアルバイトとして採用し、様子をみることにしたい」と提案した。

 I さんは緊張した面持ちで、イエスを言い、アルバイトとしての採用が決まった。
 アルバイト生でも、ぼくらのあたらしい仲間だ。
 こころを込めて、歓迎の握手をした。そして、こころのなかで「必死で、ほんとうに必死で、がんばれよ」と呼びかける。

 I さんは、独研のメンバーで初めての高卒だ。
 独研は、リサーチ・アシスタントも大学院以上が基本だから、彼女にとって未体験のハードな環境だろうし、器用なタイプとも思わない。
 だけども、きみにはきっと根性がある。
 自分を客観的に見ることのできる、こころの眼もある。
 独研の新しい力となれるよう、とにかく最初から全力で仕事に取り組んでほしいなと、 I さんに社長としてのメッセージを伝えた。


▼いずれにしても、独研にあたらしい仲間をふたり迎えることのできた日となり、ぼくは、何やらすごく嬉しい。
 気がつくと、雪もやんでいる。

 独研は、とてつもなく忙しい会社だし、無借金経営だから規模が小さいまま、巨大な責任だけを背負っている。
 だけど、それだけに、ひとりひとりが歯車じゃなくて、かけがえのない役割を担っている。

 みんな、地獄の果てまで、ぼくと一緒にやろう。しずかに、強く、柔らかく、戦おう。

 このブログをたまたま眼にして、わたしも俺もやりたいと思ったひとは、独研の公式ホームページを見て、まずは必要書類を送ってください。
 ぼくは、いつでも待っている。



いのちの表現

2005年03月04日 | Weblog
▼2005年、平成17年の2月28日、月曜日。
 朝の飛行機で大阪入りする。

 2月25日の金曜日深夜、正確には2月26日土曜日未明の『朝まで生テレビ』に(あたりまえながら徹夜で)出演してからこっち、ほとんど睡眠時間が取れないままだから、ほんとうに眠い。
 せめて飛行機やタクシーのなかでは眠りたかったけど、書くべき原稿が遅れに遅れているから、おのれを叱咤激励して、モバイル・パソコンを膝のうえで開いて、執筆する。

 そして、そのまま関西テレビ『2時ワクッ!』に生出演。
 司会の山本浩之アナウンサーに、番組のオープニングでいきなり「青山さん、しんどそうな顔をしてますね」と言われてしまった。

 それでも、番組は、おそらく視聴者にとっても楽しく進行したのじゃないかなと思う。
 それは、山本アナ、それに藤本景子アナのコンビのみごとなプロフェッショナリズムのおかげも大きいし、出演者がみな、このごろ本心から和気あいあいなのも大きい。
 ぼくは、自分のつとめとして、時のニュースについて、この国の主人公(主権者、有権者)が、うわべだけではなく自然に「根っこ」を考える、ささやかなきっかけになるよう、お話しすることに徹した。

 TV局から真っ直ぐ、定宿のホテルに入り、原稿に取り組んで、3月1日火曜日の朝5時過ぎまで取り組み続けたけど、呆れたことに、ほとんどろくに書けずに終わった。
 こんなに忙しい年度末の時期に、こんなにひどい絶不調の夜があるのでは、とてもプロとは言えないや。


▼というわけで、あいかわらずほとんど寝ないまま、伊丹空港へ。
 よく「いつ寝るんですか」と聞かれるけど、ほんとに、いつ寝るんだろうね。
 一瞬だけウトウトしたり、そんなことの小さな積み重ねで、なんとか睡眠を取っているようだけど、猫じゃあるまいし、いつまでこんなことが続くやら。
 それでも、躰は、しっかりと耐えてはいる。

伊丹空港から、青森県の三沢空港へ飛ぶ。
 機中では再び、原稿の執筆。
 いつも行き来する空路に比べて、かなり狭い飛行機だったけど、あまり揺れなかったこともあって、快適だった。
 雪に覆われた佐渡島が、手にとるように見え、曽我ひとみさんの暮らしを思った。

 三沢空港は、民間、自衛隊、米軍の3者が使っている空港だ。
 電子偵察機や戦闘機がしきりに、離発着する。JAL機の離発着より、ずっと頻繁だ。
 航空自衛隊より、特にアメリカ海軍、アメリカ空軍の動きが活発にみえる。
 具体的な根拠はないが、専門家としての勘からは、おそらく通常より激しい動きをしている。

 もちろん、ロシアの動きを監視するより、北朝鮮の関連だろう。
 アメリカが北朝鮮に何かが起きつつあると疑っている、ないしは起きつつあることを知っている気配を感じた。

 この三沢空港のレストランで1時間ほど待ち、東京からいらっしゃる高名な女性評論家(ノンフィクション作家)らと合流した。
 そしてマイクロバスに乗り、青森県・六ヶ所村の核燃サイクル施設へ向かう。


▼マイクロバスのなかで、独研(独立総合研究所)から配信している会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポート)の仕上げにかかる。
 原稿ができあがったら、Air-H(パソコン用の携帯接続ギア)を使ってモバイル・パソコンをネットに繋いで、独研に送信し、独研の総務部から全国の会員へ一斉配信する。
 このごろ配信が滞っているから、どうしても配信したい。

 マイクロバスが核燃サイクル施設に着けば、すぐに視察や意見交換会が始まるから、チャンスはほぼ一瞬、バスが施設に着く直前しかない。
 バスが施設に着くまえは、野山を走っているのだから、Air-Hは繋がらない。
 施設に入れば、おそらくAir-Hは繋がるけど、バスを降りたら、もう繋いでいるひまはない。

 だから、必死で執筆を続ける。
 青森は記録的な大雪のさなかで、マイクロバスはかなり激しく揺れる。
 そのなかで、ちいちゃなモバイル・パソコンに向かっているから、ときどき気持ちが悪くなりそうになるけど、気持ちが悪くなっているヒマもない。気にしてる場合じゃない。吐き気は自然に引っ込む。

 まさしくバスが施設に着く直前に、原稿(北朝鮮をめぐるレポート)が、自分でも納得できる仕上がりになり、バスが施設のゲートを入るときにネットに繋いで、奇跡的に原稿送了。
 ほっとして、すこし嬉しく思ったけど、嬉しく思っているヒマもなく、視察へ。

 核燃サイクル施設を訪れるのは、去年の5月以来だ。
 いまは雪に埋もれている施設は、従業員のモラル高く、ウラン試験の真っ最中だった。
 IAEA(国際原子力機関)の査察などについても、突っ込んだ質問をする。

 ぼくは日本の核武装には、あくまでも反対する。
 しかし、中国やアメリカ、インド、パキスタンをはじめ少なからぬ国が公然と核兵器を製造しながら、日本に対しては、ここまでやるかというほど厳重にIAEAが「原子燃料を核兵器製造に転用しないよう」監視している現場を見ると、にんげん社会の滑稽なまでの矛盾を感じないではいられない。

 なぜ中国が良くて、アメリカが良くて、日本はいけないのか。
 まともな説明ができるはずはない。
 たとえば中国は一党独裁の国家であり、いまの日本は、あくまでも公平にみて中国よりはるかに民主主義が確立されている国だ。
 こういう矛盾が正当かのように国際社会も日本政府も装っているから、ぼくのような「日本の核武装を否認する」立場の論者も、内心でげんなりする。

 それでも日本核武装論と厳しく対峙する姿勢は、ぼくが生きている限り変えない。
 しかし、先の戦争の血であがなって民主主義を確立した日本を、まるで『ならず者国家』のように監視するIAEAは、ありのままに言えば偽善である。
 IAEAは最近、さすがに日本に対する監視をすこし緩めたが、六ヶ所村のような現地を訪れてみると、いやいや、依然として馬鹿馬鹿しいまでの『危険国家』扱いの監視ぶりだ。 
 キミたち、ほかの国でほかの仕事があるだろう。それを、やりたまえ。


▼視察や意見交換を終わり、夜には、地元の農家のひとびとらと懇談する。
 ぼくは、この人々をこころから敬愛しているから、地酒を交わす盃もすすみ、またまた大酒を呑んでしまった。
 ぼくの呑んだ分だけでも、一升は軽く超えている。
 一緒に行動している高名な女性評論家らも、楽しげになさっていた。

 しんしんと、と言うより激しく雪が降りつのるなかを夜遅く、三沢市内の宿に入り、さすがに寝込んでしまう。


▼それでも翌3月2日水曜の朝、いや未明の4時まえに起き出して、原稿を書き続ける。
 返信が滞っている電子メールに、いくつか返事を書く。大半のひとには、返信を出せないままだ。こころが痛む。
 やがて朝陽に外の雪が明るく輝きはじめた。

 意外にも、二日酔いは、気配もない。
 こないだ長野の講演先で、一升半ちかくを呑んだときも二日酔いがちらりとも起きなかった。
 なぜかな。気合いが入っているのかな。そのわりに、仕事の実はあがってないぞ、おまえ。

 青森空港へマイクロバスで向かう途中、凍った沼のほとりで、シジミが満載の名物ラーメンを食べ、沼の氷のうえ、つまり水のうえを散歩する。
 核燃サイクル施設に技術協力で来ているフランス人が近寄ってきて、フランス語なまりの英語で「ぼくらはもう、水のうえにいるのかい」と聞いてくる。
 ぼくは、自分でも嬉しげに「そうそう」と答え、「たぶん安全だよ、たぶんね」と、このフランス人をすこしだけ、からかう。
 原発大国フランスから来たこのひとは、おっかなびっくり足元を見ながら、それでも嬉しそうに歩いている。

 そのあと、沼に近い日帰り温泉に、みんなで行く。
 雲の切れまに澄んだ青空がのぞくなか、露天風呂の周りにつもった雪を、ぼくは躰中にこすりつけて、湯に飛びこむ。
 思いきり冷やされた血が一気に温められて、カッと燃えるように、血が流れる。
 それを何度も繰り返した。
 からだの血流がすみずみまで蘇って、生き返る思いだ。
 頭のうえを、三沢から発信した戦闘機が、縦列編隊で飛んでいく。

 空港に着くまで、マイクロバスのなかで評論家のかたや、電力会社のひとから、「小泉首相のあとは誰?」、「ライブドアとフジテレビはどっちが勝つの?」という質問を含めて、いろいろなことを尋ねられ、ぼくなりに、できるだけ詳しくお答えする。
 天候が凄まじい吹雪に変わるのを、車中から見ている。

 空港に着いたけど、飛行機はやっぱり大雪で1時間半ほど遅れる。
 まぁ、飛ぶだけいいよ。
 ことしの青森、東北はほんとうに大雪が大変だ。これからも心配だ。

 機中では、ふたたび原稿の執筆。
 書きながら、さすがにうつらうつらしたり、ハッと起きて書いたり、新聞に目を通したり。
 夜8時ごろ、羽田に降りる直前、ぼくの棲むあたりにある観覧車の明かりが夜空に輝くのがよく見えた。 

 このごろ、独研の社外、社内ともに、試練が多い。
 経営者として、すべて受け止め、すべて知らん顔でもいなければならない。
 なんのために独研を経営するか。
 たとえば坂本龍馬ならきっと、分かってくれる。
 龍馬は、日本の開国・維新、すなわち驚天動地の改革を進める組織として「亀山社中」を同志と興した。
 亀山社中は、政治結社ではなく、日本初の民間会社だった。
 なぜ会社だったか。
 自立するために、自分の食い扶持は自分で稼ごうとしたからだ。

 ぼくは、こころのなかで、敬愛する坂本龍馬や中岡慎太郎、高杉晋作と向かいあい、独研の見えない青い旗を、捧げ持っている。


★高名な女性評論家のかたに、独研の創立の意味などを、詳しく尋ねられた。
 僭越かもしれないが、かなり共感もしていただいた気がする。

 この評論家のかたは、ぼくから「原点は、あくまで文学なんです」という言葉を聞くと、呆れ果てて大きな声を出され、「文学なんて、すっぱりやめなさい。独研の経営と、テレビに集中しなさいよ」とアドバイスをくださった。

 本気でアドバイスをくださったことに深く感謝しつつ、もちろん、ぼくの原点が文学であることは変わらない。
 書きかけのまま時間不足で凍結している短編小説を、ことし前半に、活字にしたい。

 そしてきのう、3月3日の木曜日、所用で池袋の雑踏を歩いていて、そして狭い地下の一隅にいて、ふと気づいた。
 ぼくの原点を正確に言うなら、文学と言うより、芸術だ。芸術としての文学だ。
 芸術と言ってしまうと、ふつうなら、文学と言うよりさらに曖昧になる。
 だけど、そうじゃない。
 つまり、『説明としての文学』ではなく、『自由ないのちの表現としての文学』なのだ、ぼくの目指している、あるいは立脚しているのは。

 だから小説だけではなく、独研から配信している会員制レポートも、月刊誌『VOICE』、『花泉』や週刊誌『ヨミウリ・ウィークリー』に連載しているノンフィクション記事も、すべて、もっと自由に書けばいい。いのちの自由な発露として、書けばいい。

 そのことに気づいた。
 あの評論家のかたが、「なぜ、文学なんてくだらないものに、こだわっているの」と問いかけてくださったおかげだと思う。
 評論家のかたは、純文学という分野はすでに終わった表現形式ではないかという問題意識もお持ちなのだろうと思う。

 ぼくは、評論家のかたにマイクロバスのなかで答えた。
「ふつうの神経で、ふつうの仕事もするにんげんが、新しい文学を書くことを実現したいのです」