Our World Time

JOKE その2

2007年04月26日 | Weblog



▽ああ、そうか、そういう真面目な誤解があるのかと思ったので、写真をもう一枚アップしておきます。

 この写真は、ほんとうの会見場に入り込んで、撮ったのじゃありません。
 ぼくの左右にアメリカの(でっかい)高校生が二人映っているように、ペンタゴンの入り口・手続き所にある、冗談写真の撮影用スポットです。

 それを含めての、ジョークですから。

 二人はまるでSP(警護官)のように大きくて、ぼくを護るかのように「気を付け」の姿勢をとっていますが、ただの一般見学の、冗談好きの、日本人もジョークを言ったりするのかなぁと興味津々の、アメリカの高校生です。

 アメリカは、ほかの国と違ってホワイトハウスであれ国防総省であれ、一般国民の見学を受け入れています。
 アメリカ国民でなくても、身元さえはっきりしていれば、まったく問題ありません。
 9.11後に、とくにホワイトハウスでは、ずいぶんと違ってしまいましたが、基本的には見学を受け入れます。
 戦争ばかりしている国ですが、こういうところは、さすがですね。

 シリアスな仕事や議論のために来ている訪問者も、一般の見学のひとたちも、ペンタゴンでは、いちばん最初の入り口は同じです。
 ぼくと独研の社員は、もちろん厳しい議論のために来ているのですが、議論の相手になる高官の執務室への迎えが来るのを待つあいだに、こうした一般見学の高校生と話をし、そして彼らと一緒に、ジョークを言って冗談写真も撮りっこして、笑いあっていたのです。

 ぼくらがしっかりお相手をしたので、すくなくとも、彼ら高校生は嬉しそうで、愉しそうだったですよ。
 日本人も堅いばかりじゃないなと記憶してくれるかも知れませんね。

 このあと、議論をした高官たちは、もちろんまったく、こんなことは知らないし、知っても、議論の中身に影響するはずがありません。
 もし知れば、いつも怖いことばかり言うアオヤマも、案外にジョークをやるんだと思うことはあるでしょうけど。

 アメリカ合衆国大統領その人と、大統領の家族のまえで、プレスリーまがいのサングラスを掛けて、はしゃいでいた小泉さんとは、まるでケースが違います。


▽ここまで説明してしまったら、もうジョークにはなりませんね。
 つまり、下の写真も、これでジョークではなくなっちゃったけど、誤解の書き込みをされたひとが「12歳」と名乗っている?ようなので、お応えしておきます。

 ぼくは基本的に、ブログへの書き込みに誤解があっても、ひとつひとつお応えはしませんが、もしも、ほんとうに12歳だったらと思い、今回だけはお応えしました。

 あと、ここは、まさしくぼくの個人ブログ、私的ブログです。
 ジョークも、ほんとうはあって良いのじゃないかなぁ。
 まぁ、かなしいかな、それももう許されない立場になっているのかも知れませんね。
 別にエラくなったとか、そういうことを言っているのではなく、北朝鮮などを厳しく批判しているのですからね。


▽ただ、当たり前ですが、この高校生たちとのジョークと、執務室でのアメリカ国防総省の高官たちとの議論はまったく別物です。

 ほかの誤解は、まるまる残ってもよいけど、この誤解だけは、もしあるのなら、それはいけません。

 ぼくと独研の社員は、誰から頼まれたのでもなく、なにか裏の利害があるのでもなく、まったく無償の行為としてペンタゴンと交渉し、高官たちとの議論も実現しましたが、誇りある日本国民として、それを実行しているのであって、議論は、しっかりと行いました。
 アメリカが言われたくないことも、正面から、申しました。
 安心してください。




JOKE

2007年04月26日 | Weblog



▽世界の危機のなかで、こんなジョーク写真で、もうしわけない。

 この写真を、ぼくに同行した独研(独立総合研究所)の若き秘書室長Sが撮ってくれたのは、確かに、ほんもののペンタゴン(アメリカ国防総省)の中です。
 だけどね、記者会見しているようにみえるのは、完全に、冗談です。


▽イラクとアフガンに苦しむ国防総省で、もっとも「良心派」というべき高官と議論するためにペンタゴンを訪れ、執務室から秘書官が迎えに来てくれるのを待つ、そのあいだに、ちょっとだけリラックスタイム…でした。

 いまアメリカ東部時間の4月26日、未明4時すぎ。
 今夜も、会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポートを執筆しています。
 ワシントンDCはずっと、天気予報も覆して、好天つづきです。







春のワシントンDCから

2007年04月21日 | Weblog



▼みなさん、いまワシントンDCにいます。
 4月21日土曜の未明4時40分、泥のような眠気を押して、原稿を書いているところです。


▼4月19日木曜の早朝に、東京の自宅を出て、成田から12時間強のフライトで太平洋とアメリカ大陸を越え、アメリカ東部時間19日の午前11時ごろに、ワシントン・ダレス空港に着きました。
 独立総合研究所の主任研究員Jと一緒です。
 あとから、独研の秘書室長Sも加わります。

 着くと直ちに、ホワイトハウスにほど近いホテルのカフェで、アメリカ在住のインド関係者と会い、昼食を共にしながら日本とインドの連携強化について議論し、協議しました。
 飛行機の機内でほとんど眠らなかったから、とても、きつかった。けれど、どうにか大丈夫。アメリカでのスーパー・ハード・スケジュールの始まりです。


▼到着の翌日、20日金曜日には、朝早くにホテルを出発、ニューヨークに入り、アメリカの経済首都ニューヨークに本拠を置くエコノミストたちと議論をし、なんと日帰りで政治首都のここワシントンDCに帰ってきました。
 あーあ。かつての出張では、NYを日帰りなんて考えられなかったけどなぁ。
 NYらしいバーでの一杯も、仕事が終わったあとのブロードウェイのミュージカルも、すべて消えて、夜の中をワシントンDCに戻りました。


▼週明け、月曜日には、シカゴへ飛びますが、これも日帰りでワシントンDCに戻ってきます。
 そのあとワシントンDCに、しばらく滞在します。
 今回のメインテーマのひとつである、アメリカ国防総省の高官たちとの本音の議論などをこなしていきます。


▼だから、4月25日水曜の「ANCHOR」はお休みで、もちろん「青山のニュースDEズバリ」のコーナーもお休みです。
 ANCHORの放送が始まってから、休みをいただくのは初めてです。
 視聴者には申しわけなく思います。

 日本とアメリカ東海岸には、半日を超える時差があります。つまり昼夜がちょうど逆転するだけの時差があります。
 だからANCHORの放送が水曜日にあって、今回のように翌日の木曜にすぐアメリカ東海岸へ出発しても、翌週の水曜の放送に間に合わせるには、翌週の月曜日にはワシントンDCを出発せねばなりません。
 月曜に出発して、成田に到着するときには、日本時間は火曜の午後3時半すぎになっていますからね。
 火曜出発、水曜到着では、実際の生放送には間に合いません。
 しかも、そのあいだに土日がありますから、アメリカの政府高官らと会えるのが、到着した直後の金曜の午後と、それから月曜の朝一番だけ、という悲惨なことになります。
 アメリカ政府の高官らは、凄絶な過密スケジュールで文字通りに世界中を飛び回っていますから、そもそもこれではスケジュールを合わせて会うこともできません。

 だからどうしても、水曜の放送を1回だけは、お休みせねばなりません。
 ごめんなさい。
 連休中の5月2日水曜の放送には、復帰します。
 アメリカで、日本のためになにを掴んだか、それもお話しできるだろうと思います。


▽写真は、ワシントンDCからニューヨークに向かう、高速鉄道AMTRACK(アムトラック)の車中です。
 向かいに座っている、独研の主任研究員Jが、携帯電話で撮ってくれました。

 ぼくは、疲れと眠気でぐったりして、身体が脱力しています。ちょっとだらしのない写真でごめんなさい。
 しかし今、気づいたのですが、ぼくの表情にはJ主任研究員に対する信頼感が浮かんでいるみたいですね。

 Jはシアトルで少女時代を過ごし、慶大からロンドン大学を経て、三菱総研に現れ、ぼくとの信頼関係ができて、独研の創立からの社員となりました。
 NYで高校卒業までを過ごし、慶大から三菱総研に現れた、いまの独研秘書室長Sと、よく似たご縁ですね。
 ともに、まだたいへんに若い女性です。

 JもSも、独研の歩みとぴたり歩を合わせて、驚くほどに成長しました。
 たまに深刻な失敗、それに年中行事として細かい失敗もしますが、その根本的な成長を信頼しています。
 なぜなら、JにもSにも、光が内部から照らしているような、祖国と世界への志があり、その志を実現していけるだけの、地道な努力があります。

 独研が創立されてから加わってきた研究員たちとの、同士としての連帯も、みていて惚れ惚れします。
 これは、あとから加わった研究員(男性が多い)の、度量の大きさ、気持ちのよい連携ぶりも非常に大きいですね。
 ついでに言えば、ぼくは当然ながら、女性、男性を仕事のうえで区別しません。


▼さぁ、原稿に戻ります。
 会員に向けて発信している「東京コンフィデンシャル・レポート」の原稿です。
 ここアメリカにいるあいだに、たくさん発信すると、決めています。

 あ、それから、このブログの読者のみなさんに約束した「深く淡く生きる」の後編で、ドーハでの様子をさらに綴ること、それも必ず実行します。
 待っていてください。

 それと、近畿大学でのぼくの講義のシラバス(概要)が近畿大学のホームページにアップされています。
 誰でも、ご覧になれます。
 近大ホームから、経済学部のページに飛び、そこから「シラバス検索」を開きます。
 開いたら、「経済学部で検索」を選択し、「最終更新日」を条件に検索します。すると、トップにぼくのシラバスが出てきます。



ひとつ、おしらせ

2007年04月11日 | Weblog



▼いまの仕事に加えて、大学ですこし教える仕事が加わることになりました。

 そのうちに、お知らせしようと思っていたら、それよりも早くに大学のHPで気づかれたひとがいて、ミクシィのコミュニティに書き込まれているのには、驚きました。
 意欲的ですねー。あなたは真っ先にぜひ、受講してください。


▼この4月1日付で、近畿大学・経済学部・総合経済政策学科の客員教授となりました。
 前期は、準備が間に合わなかったので、後期から毎週火曜日に「国際関係論」を講義します。
 授業は、3、4年生を対象に、ふたコマです。
 9月半ばから、始まります。


▼まだ、わりと最近のことなのですが、まったく前触れなく突然に、大学側から「多忙は承知してるのですが、うちで教えてくれませんか」というお申し出がありました。
 わかい世代に、祖国と世界を語るのは、ぼくのささやかな責任のひとつだと、ふだんから考えていますから、お受けしました。

 ぼくは学生時代、スキーのアルペン競技で両足に大けがをして、かなり長く入院しました。それが、近畿大学の医学部付属病院です。
 亡き父が、病院長と親交があったのです。父は、ぼくが両足の自由を失って、将来が変わることを心配していました。
 近大病院の努力もあって、ぼくの足にはいま、後遺症もありません。

 その近大から、急にお話があるというのは、不思議なご縁でもあります。


▼またいずれ、もうすこし詳しく、お伝えします。
 写真は、近畿大学の経済学部棟です。大学の公式HPからお借りしました。



いのちの、ともしびの、影が、あわく、ふかく、ゆれる

2007年04月03日 | Weblog
 どんなに重い責任を背負っていても、それを果たしているただ中にあっても、ひとは、ふと死に近づくことがあると思う。

 中学と高校の同級生だった友がかつて、自死した。

 高校一年の頃だったか、いっしょに8ミリ映画を創った。
 ぼくの作は、おそらく地上最低の失敗作だった。
 そして彼の作は、シナリオでは意味のない無言劇なのに、映像にしてみると、世界の底がまるごと描かれているようだった。びっくりした。映像と画像の天才がここにいると思った。
 フランスの性格俳優、ジャン・ポール・ベルモンドに顔が似ていて、高校生なのにもう恋人が部屋に泊まりに来ていた。それにも、びっくりした。

 彼はまずは絵描きになることを選び、東京芸術大学の油絵科に、予備校に通わずありのままの才能だけで一発で受かった。四浪、五浪もあたりまえという当時の芸大の油絵科が現役合格の新入生を迎えるのは、何十年ぶりということだった。
 誰も予想しない合格を、彼もぼくも、誇りに思い、喜んだ。

 彼は一回目の個展は、早くに開いた。
 二回目の個展は、案内状も出し終えて開く直前に突然、みずから中止し、そのまま絵を描かなくなった。
 宝石のデザイナーをしながら、おそらくは二十年ほども苦しみ続けて、いや苦しみに毅然と耐え続けて、そして、ふと、最愛のひとびとを残して、高いところから飛び降り、顔の骨を折って、逝った。

 ぼくは、弁護士になっている級友と、ふたり、焼き場で、骨を拾わせてもらった。
 喉の骨はあったようにも思ったが、絵描きの指の骨は、みつからなかった。

 彼が、責任を放棄したと言えば、それは、たしかに、放棄した。
 だけれども、ぼくはいま思う。
 彼と、死なないで仕事をそれなりにしているぼくらと、その違いは、ほんとうは紙一重じゃないだろうか。

 死のそばに近づく、その時は、あっけなく、なんの前触れもなく、訪れる。
 そこから生の世界に戻るかどうかは、ただの紙一枚の、薄紙一枚の、違いなのだろう。
 もしも戻らなくても、誰の、せいでもない。

 友よ、みんな、ひとりぼっちなのだろうか。
 死せる友よ、生ける友よ、ぼくらはみんなひとりぼっちか。

 うん、ひとりぼっちと見切ったほうが、仕事をしやすいぞ。わたくしごころなく、いられるから。

 おまえよ、水のない河を渡れ。
 乾ききった石ころばかりが、ごろりごろり果てなくつづく白い河を、永遠にひとりきりで、渡ってゆけ。