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こころの遺言

2007年09月06日 | Weblog



 この祖国の最終責任者は、いったい誰なのか。
 内閣総理大臣、安倍晋三なのか、今上陛下なのか。

 いや違う、それは、このわたしたち自身だ。
 日本国は、ほんものの国民国家であり、われら国民のものであり、わたしたちこそが、日本国の主人公だ。

 日本国の主人公が、わたしたちであることはすなわち、日本国の最終責任者もまた、わたしたちである。

 それが、われらの誇りであり、そのためにこそ、ひとりひとりがまず、自立しようと試みて、個々人の自立のうえに、62年前に戦いに敗れて外国軍に占領された祖国の、ほんとうの独立を創るのではないだろうか。





 なぜ、テレビをはじめとする日本のマスメディアのなかでは、いつも悪いのは自分以外の誰かであり、たとえば安倍晋三であり、この宰相が倒れたならば、次の宰相であり、いつまで経っても、自分は、安全圏なのか。

 北朝鮮、この人類史上最悪というべきテロ国家に、誘拐されたままの、われらと同じ庶民、同胞(はらから)を取り返すのは、誰なのか。
「返してもらう」のではなく「取り返す」のは、この、わたしたち以外に誰がいるのか。

 わたしたち主人公が、宰相であれ大臣であれ、おのれの責任において代理人を選び、その代理人を、おのれの意志によって動かす、その民主主義にこそ、わたしたちは生きている。
 昭和天皇も、今上天皇も、静かな海のように深い決意をもって、その日本国の民主主義の揺るぎなき象徴であろうとされた、そして、されている。
 そう、御胸のうちを拝察する。

 わたしは、テレビであれラジオであれ、不思議なご縁があって席を同じくした、どなたも、ゆめ批判しない。
 個人攻撃は、決してしない。
 その個人を批判したり、非難したり、冗談じゃない、そのようなことを致すために、メディアに関わっているのではありませぬ。

 ただただ、こころの遺言として、呼びかけている。
 わたしたち自身で、やりましょう、と。
 その姿勢を、子々孫々に伝えるためにこそ、発言しましょう、と。





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 このブログは、戦うシンクタンクである独立総合研究所の公式サイトではなく、あくまでもひとりの男が個人的に呟くブログです。
 プライベートな吐露を許してください。

 ぼくは、かつて共同通信の政治部に属していたころ、記者を天職だと思っていた。
 ペルー日本大使公邸人質事件と遭遇して、その記者を45歳で辞めるとき、『以下、余生なり』と胸のうちで、定めた。

 こないだの日曜日、長野県の佐久で講演し、講演のまえに昼食会があった。
 サーブされた料理は、地元で育まれた野菜をみごとに活かしてあって、まるで強靱な志が、やわらかな味に化身したような、素晴らしい料理だった。

 そのフレンチ・レストランの、とても若い経営者のかたから揮毫(きごう)を求められた。
 用意された色紙に、ぼくは、いつものように「深く淡く生きる」と右側に書き、真ん中にいちばん大きく、そのかたのお名前を、こころのなかの敬意を込めて書き、左側に、おのれの名前をすこし小さめに書いた。

 すると、「この淡く、とは、どういう意味ですか」と問われた。
 それは、命を天に預けっぱなしにすることであり、利害得失のためには生きないことであり、そしてすべてを諦めたうえで、なんの努力も実らないとあらかじめ諦めたうえで、天に戻るまで、力を尽くして、生きることであり…。

 それは、言えなかった。
「自分の命を考えない、ということです」という言葉だけ、思わず、吐いてしまった。
 言ってしまってすぐ、あ、このレストラン経営者のかたに、それを求めていると誤解されてはいけないと、内心ですこし慌てた。

 他者にまさか求めるのではなく、あくまでも、おのれの拙(つたな)い、ひとつの生き方のメッセージとしてお書きしました、そう言いたかったけれども、うまく言えなかった。
 それでも、このかたは、どことなく分かってくれたようだった。

 中学から高校にかけて、アンドレ・ジイドの小説を読みふけった。
 フランス語は読めないから、何人かの翻訳者の努力を借りて、過去にない文学世界を創ろうと苦闘した孤独なジイドの世界に触れた。

 ジイドの中編小説、「狭き門」には、「汝ら、力を尽くして、その狭き門より入れ」という聖書の句が掲げてある。
「入れ」は「いれ」と読むのだと、考えている。

 なんじら、ちからをつくして、その狭き門より、いれ。

 この小説の主人公アリサは、恋人のジェロームを、自分の妹のジュリエットが秘かに愛しているのを知り、ジェロームの元を去って、尼僧となり、早世する。
 アリサが亡くなったあと、ある書斎で、ジェロームとジュリエットが会い、ジェロームはジュリエットの気持ちに気づかないまま、アリサを恋うて偲ぶ思いを、自分のその思いに陶酔するように言い募る。

 お金持ちと結婚して、すこし太ったジュリエットは、ソファに深く身体を沈めて、じっとそれを聴いている。
 書斎は陽が陰り、ジェロームの横顔も、ジュリエットの沈んだ身体も、やがて暗い夜の始まりに、覆われていく。

 ぼくは、大人になっても、その暗い書斎の光景を、ときどき、ふと思い浮かべた。  
 狭き門とは、何か。

 この小説は、宗教小説でもあるから、まず直截(ちょくせつ)には、個人の愛欲を去って神の栄光のために生きる、その出家を指している。

 けれども、ジイドは、さらりと普遍化している。
 たとえば、エロス(欲望としての愛)とアガペ(聖なる愛)との対峙であり、あるいは、愛の問題すらも超えて、ひとが、おのれだけのためではなく他のために生きるとは何かを、問うている。

 ぼくは、母が武家の出であるとともにクリスチャン(プロテスタント)であるから、母と牧師によって幼児洗礼を受け、キリスト教、特にプロテスタントに、浅くはない親しみがある。
 しかし、ぼくは主イエスだけではなく、アッラーも仏陀も天照大神も、その他の神仏も敬愛する気持ちを変えられないから、クリスチャンになる資格はない。
 みずからの意志によって成人洗礼は受けないから、今後も、クリスチャンではない。
(その幼児洗礼を授かった、神戸の日本キリスト改革派教会の附属幼稚園が、拉致被害者の有本恵子ちゃんやぼくが通った幼稚園です)

 だから「狭き門」を宗教小説ではなく、普遍的な問いを持つ、永遠の小説として読んだ。
 あの暗い書斎でのジェロームのようには、生きたくない気持ち、アリサを、なぜか身近に敬う気持ち、ジュリエットを、愛(いと)おしく思う気持ち、それは、ティーンエイジャーだった当時と、今も、まったく変わらない。

 だから個人の批判は、今までも、これからも、決して致しませぬ。
 マスメディアで縁あって同席するかたがたに対して、だけではない。

 たとえば、何人かの与党政治家、北朝鮮と連絡を取りあって、拉致被害者のうち、たったひとりかふたりの被害者を「返してもらう」ことで日朝国交正常化なるものを進めようと画策している政治家を、テレビの報道生番組のなかで激しく追及することがあっても、それは、その政治家個人を責めているのではありません。

 われら国民の生き方、ぼく自身も含めた、この祖国の主人公であり最終責任者である、われらの生き方を、まことにささやかながら、こころの遺言として問うているのです。





 そしてね、すこし、疲れました。