Our World Time

断腸の記  「京都で会いましょう」の巻

2008年06月24日 | Weblog



▼4年ぶりの新刊が、どれほど読者に迎えられているか、正直、ぼくは何も聞いていません。
 アマゾンを覗いてみると、予約は多かったけれど、その時期を過ぎると手応えがさほどない気もします。
 ミクシィなどに書き込んでくださったかたがたの話を拝見すると、書店によっては、まったく入荷させなかったり、冷淡な扱いのところもあるようです。


▼これが、全体のようすを表しているかどうかは、分かりません。
 発売から、まだわずかな日しか経っていませんから、これからもこういう感じなのかどうかも分かりません。

 ただ、もしも支えてくださるかたがたにとっても不本意な結果に終わることがあれば、それはすべてぼくの責任です。

 仮にそうなっても、作家として再生する歩みは止めません。
 この新刊「日中の興亡」が、ひとりの物書きとしての再生第一歩であることは、どのような結果になっても変わりません。


▼こうしたなか、いち早く、サイン会を開きたいと申し出てこられた書店があります。
 東京でも大阪でも神戸でもなく、京都です。

 京都は、ぼくが共同通信社京都支局の記者時代に住みはじめ、そのあと大阪支社・経済部に転勤したあとも、そのまま京都から通って、あわせて6年のあいだ若手記者として生活した、たいせつな街です。
 その京都から、声をかけていただいたことを、うれしく思っています。


▼出版元のPHP研究所のホームページにアップされた情報を抜粋すると、以下のようです。


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「日中の興亡」の発刊を記念して青山繁晴サイン会が京都で開催されます。
たくさんのご参加をお待ちしております。

■日 時 2008年7月13日(日)14:30~
■場 所 アバンティ・ブックセンター京都店 特設会場
     JR京都駅八条口から徒歩1分
■定 員 先着50名様限定
■受 付 6月23日(月)10:00~ 予約申し込み開始
     申し込み方法は下記1~2のいずれかにてお願いします。
     1.店頭でお買上の方に参加整理券を配布
     2.電話予約 075-671-8987
■問合せ アバンティ・ブックセンター京都店
     075-671-8987

※PHPホームページ
http://www.php.co.jp/bookstore/information.php#aoyama080623

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▼50人限定とありますが、実際は申し込みがある限りは、受け付けてくれるとのことです。


▼ぼくは書店でのサイン会は、これが初めてです。
 お出でになったかたとお会いするのが、こころから楽しみです。
 サインは、いつものように、ぼくの原則通りに、あなたのお名前を真ん中に書いて、その横にぼくの名を書きます。
 落款も押します。
 質問があれば(あまり時間はないでしょうが)受けますし、写真、動画その他もちろんOKです。がっちり握手を交わしましょう。

 実は、書店からは、独研(独立総合研究所)秘書室へ、次のような問い合わせが来ました。
 これが、なかなか面白いのです。
 あまり差し障りのないところを、公開しましょう。(書店には断っていないので、差し障りのないところだけです)
 Qが書店からの問い合わせ、Aが独研の秘書室の回答です。


Q 呼び方は先生でよろしいでしょうか。
A お任せいたします。

(ぼくの内心→
 ふひ。先生は基本的に恥ずかしいけど、まぁ近畿大学の客員教授だし、しかたないか)

Q 控え室で、お飲物はなにかご指定ありますでしょうか。
A 特にありません。

(ぼくの内心→
 ふむふむ。大先生のなかには、飲み物を細かく指定するひととか、いそうだなぁ)

Q 為書きは、してくださいますか?
A はい。承知いたしました。

(ぼくの内心→
 そうです、これはぼくがサインをするときの大原則です。本を読んでくださるかたが、いちばん大切だから)

Q 写真は、お客様と撮ることはOKですか?携帯の場合はいかがですか?
A カメラでも携帯でも撮影は全く問題ございません。

(ぼくの内心→
 携帯だと嫌がるひととか、いるのかなぁ。なかなか神経を使わねばならないひとが、本の著者には、いらっしゃるのかもしれない。書店はたいへんだ)

Q お飲物は、なにかご指定はありますか?また、避けるものがあればお教えください。
A 特にありません。

(ぼくの内心→
 これは控え室じゃなくて、サイン会場でのことですね。これも指定する先生がいらっしゃるのかな)


Q お花を、ご用意したく存じますが、アレルギー等、大丈夫でしょうか。
A アレルギーなどは特にございません。

(ぼくの内心→
 なるほどなぁ。細やかな心遣いですね、感心しました。ちなみにぼくはアレルギーは何もありません)


▼こんなにも丁寧な気配りをしてくださった書店の名前と住所、電話、ファックス番号をもう一度、掲げておきましょう。


店名・・・アバンティ・ブックセンター京都店
住所・・・601-8003 京都市南区東九条西山王町31 アバンティ6階
電話番号・・(075)671-8987  FAX・・(075)671-8989

 ここは、京都駅のほんとうに目の前です。南側の八条口からすぐです。地下からそのまま行けます。





断腸の記  「凄まじい話」の巻

2008年06月20日 | Weblog



▼おのれの仕事ぶりに、このごろ不満がつのって、胸の奥が悲しい。
 シンクタンクの社長として、講演やテレビ・ラジオで拙いなりに話す語り部として、大学の客員教授として、ひとりの物書きとして、みずからのどの仕事にも、あまりに未完成という自己評価を下して、暮夜、ひそかに唇を噛む思いでいる。
 朝に向けて、苦しみ抜くこともある。

 プロフェッショナルというものは、おのれだけに課した厳しい基準をどうにか満たしていると胸のうちで静かに感じることができて初めて、プロであることができる。

 未完成は、つらいことだけれども、命の豊かな余韻でもある。
 すべてのクラシック音楽のなかで、ぼくはシューベルトの交響楽「未完成」がいちばん好きだ。
 途中までの楽章があまりに美しく書きあがり、シューベルトがどうしても残りの楽章を完成させることができなかったという伝説の残る、この曲ほどに、みずみずしい響きはわたしたちの世にないと思ってしまうのだ。
 それは、未完成であることがむしろ生み出した、人智を超える清冽かもしれない。

 だが、おのれの仕事の未完成ぶりには、夜半に耐えがたくなることがある。
 特に今は、きょうリリースされる新著について、あともう少し時間があれば、という思いも募る。


▼もっとも、三菱総研の研究員だった時代に、凄まじい話を聞いた。
 当時のぼくも、多忙に多忙が重なって、本がなかなか出せないでいた。

 すると、三菱総研生え抜きのベテラン研究員が、こんな話を聞かせてくれた。
 三菱総研には、一時代を画した、たいへんに高名なエコノミストがいた。
 もう故人になられたから、この話もここに書くのだけど、テレビ出演も多く、一般のひとにもよく知られた日本を代表するエコノミストだった。仮にX(エックス)さんとしよう。
 著作もとても多く、何冊もベストセラーになった。と言うより本を出せば、たいていはベストセラーの仲間入りをした。

 ぼくが共同通信から三菱総研に移ったころには、もう高齢で第一線ではなかったが、まだしっかり在籍されていた。フロアが同じだったから、姿を拝見することもよくあった。

 ベテラン研究員は、若いころに、このXさんにアテンドする役割だった時代があったという。
 たとえば、Xさんが京都へ講演に行く。
 すると新幹線のなかで、この研究員が用意した雑誌や新聞をXさんが、さぁーと読み散らし、記事のいくつかにボールペンで丸を付ける。
 それらはXさんの書いた記事ではない。すべて他人の記事である。
 京都に着いて、Xさんが講演をしているあいだに、研究員は、この丸が付いた記事を切り取り、『きっと、こういう順番だろうナァ』と考える順にその記事を並べて、スクラップ台紙に貼り、クリップで仮ファイリングする。
 え? なんの順番かって?
 それらの記事をXさん著の本にするなら、こういう順にトピックを並べるだろうなという順番なのだ。
 Xさんは講演を終えて、帰京する新幹線に乗ると、そのファイルを見て「ここは、この順番に入れ替えて」と指示したり、すこし何かコメントを言ったりする。
 それはさして長い時間ではない。Mさんは、やがて寝てしまう。
 そのあいだ、研究員は記事の並べ替えをして、Xさんの一言二言のコメントを台紙の余白に書き込んだりする。
 東京駅に着くと研究員は、待機していたフリーライターに、そのファイルを渡す。
 フリーライターは、このファイルをもとに適当に、180ページから200ページ弱ぐらいまでの読みやすい本の原稿に仕立てて、研究員に戻す。文体は「Xさん風」にちゃんと、してある。
 研究員はそれをチェックして、ほとんどそのまま出版社の編集者に渡す。
 やがて出版社からゲラが出るから、研究員がチェックして、出版社に戻す。
 はい、これでXさんの新刊がまた書店に並び、好意的な書評も新聞に載り、かなり売れる。
 Xさんは、フリーライターの書いた原稿をチェックすることもなければ、ゲラに触れることもない。

 ベテラン研究員は、自分の若い時代のこの仕事の話を、なぜぼくにしたか。

「あのXさんだって、こうやって本を次々、出していたんですよ。時間がないことでは、青山さんはXさんより苛酷な状況なんだから、そんなに文章にこだわったりしていては本など出せませんよ。同じやり方をしろとは言わないけど、ざらっと柱だけ書いて並べて、あとは出版社のライターに任せればいいんですよ。ノンフィクションの本は、コンセプトが大事なんだから。文章に凝るのは、青山さんが別途、純文学を書くときだけでいいじゃないですか」

 ベテラン研究員は繰り返し、こう話した。  
 もちろん、まったく皮肉とか、そういうものは混じっていなかった。本気で、そのように奨めていた。

 ぼくは内心ですこし呆れた。
 ただし、ひとさまの仕事ぶりは批判しない。そんなに、えらくない。
 しかし同時に、ぼくは決してそんなふうに本を書かない、生きている限り永遠に。
 そう思った。


▼たぶんXさんには、自分が物書きだという意識が、全くなかったのだろう。
 だからコンセプトを示せばよかったし、たとえば学者の論文にも、他人の論文を批評して、その積み重ねによって自分の論文として仕上げていく手法があるのだから、Xさんのようなやり方も、ひょっとしたら天が許すこともあるのかもしれない。
 その通り、Xさんは、いわば幸せな充実した仕事人生を、最後まで無事に終えられた。

 Xさんの手法は、盗用とか剽窃(ひょうせつ)にあたるとも、必ずしも思わない。
 他人の文章をそのまま引用することはなく、ライターの手によって違う文章に書き換えられているのだから。
 Xさんのバランスの良いコンセプトが、どしどし世に出てくるのは、Xさんファンにとって幸せだったのだろう。

 しかし、ぼくはまさしく物書きだ。
 夜半に、ひとつの句読点をどこに打つかが定めきれなくて、そのまま朝になることもあるし、すでに印刷されて世に出た文章のたとえば動詞ひとつが拙劣であったと気づいて、がっかりと腰が抜けるように落胆することもある。

 わずかな救いは、逆に、その落胆にある。
 そのときは『全力を出し切った。これ以上はもはや推敲できない』と思った文章が、何年か経つと、文章のリズムを変えたいところ、言葉の繋がりを正したいところ、直しどころばかりの文章に思える。一変する。
 すこし辛いけれど、それは、ぼくの文章力が伸びたことの証左かもしれない。まぁ、ひょっとしたらね、の話だけど。





▽みなさん、新刊にたくさんの予約が来ているらしいことに、驚き、深く感謝しています。
 新刊は、不充分ではあっても、これを物書きとして再生する一歩と、必ず致していきます。

 この書き込みは、いつものように機中と、タクシー車内で書きました。
 機中、たまたま山本潤子さん(元ハイファイセット)のナチュラルな哀愁を帯びた歌声をすこしだけ聴いて、断腸の思いが短いあいだながら、やわらぎました。
 歌はいいですよね、いつだって説明抜きだから。






断腸の記  「あぁ新刊」の巻

2008年06月04日 | Weblog



▼6月2日は、亡き父の命日だった。

 日々の朝(あした)に、硫黄島の英霊のかたがたへ、一杯の冷やした水に、いくつかの氷を浮かべて捧げる。
 器は、ちいさな模様の入ったガラスのコップだ。どこのうちの台所にもあるような、それを選んだ。
 英霊のほとんどは、ふつうの庶民だったから、そのようなコップを懐かしまれるのではないかと考えた。

 それとあわせて、沖縄の白梅(しらうめ)学徒看護隊の女生徒と先生へ、水を捧げる。
 器は、すこし沈んだ青色の陶器を選んだ。
 そして、亡き父と、ぼくの就職のめどが立っていなかったころ実家の庭で松の木の上に浮かんだ守護霊と思われる長身で髪の長い女性(結婚で増田姓となった春子さんという明治時代のご先祖らしい…)と、それから五百年ほど続いてきたという青山家のすべてのご先祖へと、水を捧げる。
 器は、ほんらいはお正月の屠蘇(とそ)に使うような、塗りのおちょこだ。

 これらの水はいずれも、硫黄島の英霊への水と違って、かすかにぬるい温度の水にしている。
 父は、冷たい水が苦手だったような記憶がある。
 ほかのかたも、硫黄の噴き出る熱い島で苦しみに抜いた英霊とはまた違い、冷水よりも、あたたかみのある水がよいような気がするからだ。
 しかし、夏の季節に入っていくと、常温の範囲内で冷水に変えていく。
 このごろの暑い夏となれば、女生徒も先生も、父とご先祖さまも、ぬるい水ではいやだろうから。

 いくつかの水を捧げ、それから、この国を私心なく支えているかたがたのために祈り、最後に、ぼくの残りの命を天命に捧げることをあらためて毎朝、強く誓い、自宅を出ていく。

 出て行くとき必ず、ぼくの盟友から贈られたお守りを身体に付けている。
 エネルギー企業に勤める、この盟友はある日突然、「青山さんを誰かが陥れようとしている」と言い、大阪で会ったときに、このお守りをくれた。
 それを何気なく、タクシーのなかで首から下着のうちへ入れ、胸へ下げると、お守りがかぁっと熱くなった。
 ぼくは驚いた。
 お守りは、正真正銘、紙と布だけで出来ている。
 熱くなるはずがない。
 しかしお守りが当たっている部分の胸が、すこし火傷するのじゃないかと思うほど、熱さを感じていた。イメージの、幻の熱さじゃない。物理的な熱さだ。
 ぼくはお守りを手にとって確かめた。
 間違いなく、紙と布だけで、何の仕掛けもない。そして手の中でも、かぁっと熱い。
 そして、しばらく時間が経つと、すぅと冷えていき、紙と布の自然な温度に戻った。

 これを盟友に話すと、彼はいささかも驚かないのだ。
 あなたを陥れようとした誰かの何かと闘って、熱くなり、そして鎮まったのだという意味のことを、さらりと言った。


▼さて、父の命日だった6月2日月曜日は、朝から外務省や海上保安庁をまわって、旧知の高官たちと議論した。
 そのあと、お昼の12時40分に独立総合研究所(独研)から、迎えの車に乗った。
 はるばる東富士にある企業の研修所へ向かう。
 そこで講演するためだ。

 この講演会はことしで2回目、少人数だけれど全国のさまざまな企業の「幹部になったばかりの気合いの入ったみなさん」と一緒に、われらの祖国のこれからを考えるのは、話し甲斐がある。

 だから、ほんらいは車の中で、自由に発想をめぐらせて、わずか1時間20分の講演時間をどう活かすかを考えたい。

 しかし、そんなことは言っていられなかった。
 言っていられない火急の事情があった。
 車中のぼくの膝の上には、とても大切なものが載っている。
 隣の席にいる独研・秘書室のT秘書も、緊張の表情だ。


▼大切なもの、それは、新刊書の最終校のゲラだ。
 6月2日月曜の昼過ぎに、PHP研究所の出版部門から独研に届けられた。

 今回の出版は、ぼくにとって実に4年ぶりなのだけど、この4年間に膨れあがった仕事の種類と量のために、原稿が遅れに遅れ、その当然の結果として推敲、校正の時間が極端に限られることになった。
 全責任は、ぼくにある。


▼初校のゲラが、PHPからぼくの手に渡ったのが、5月21日水曜の深夜だった。
 その時点で200ページを超えていたゲラのすべてに赤を入れて(つまり赤字で直しをを入れて)PHPへ戻さねばならない「絶対期限」が、5月30日の金曜のお昼。
 なんと8日間と半日しかない。

 しかも、その8日半も、独研社長としての仕事や公務、それから講演、近畿大学での講義、TV出演などなどを一部でも休むことはしないから、ゲラそのものには全く、触れないままの日が続く。

 ゲラ直しのための下準備、すなわち情報メモや資料の確認は、不充分ながらある程度は、やれた。
 しかし赤入れそのものはゼロのまま、週が明け、金曜日がどんどんと迫ってきた。
 そこでついに判断して、独研の秘書室や研究本部・社会科学部と協議して、5月29日木曜のアポイントメントふたつだけは、後日にずらした。
 アポイントメントのあった相手のかたがたも公務なので、とてもとても心苦しかった。
 しかし今さら出版を遅らせるなんて、出版社への迷惑、それから6月中の出版を約束した読者を考えると、絶対にできないから、やむを得ない。

 それでも、これで空けられた時間は、5月29日木曜の午前中、たったそれだけ。
 この日の午後には、防衛省の幹部研修での講義が入っていて、講義や講演の予定は動かさないので、ゲラ直しの作業がまだほとんど進まないまま、午後早くには、防衛省へ向かった。
 防衛省でまず、アポイントメントがあった高官と、危機管理などをめぐって協議をする。
 そのあと、講義をおこなう棟に向かう。

 講義のまえに、かつて独研で研修を受けた、陸上自衛隊の誠実な大佐(一佐)があいさつに来る。
 彼は、独研に通って、幹部高級課程(AGS)の戦略論文を作成する指導を、ぼくや社会科学部の研究員から受けて、立派な論文を発表した。
 ところがそのあと病に一時期、倒れ、今では無事に快復した。律儀なこの男は、その快復のあいさつにわざわざやって来てくれたのだ。

 気を遣わなくていいのに、彼の地元の名酒まで抱えてきた。
 ぼくとしては本心から、気を遣ってほしくなかったが、彼の気持ちに応えるために、深く感謝して受けとった。
 そして彼に、「あなたのような高潔な人柄の人間が、これからの自衛隊には必要だ。病を最後まで完全に克服して、将軍になれ」と励ました。

 そのあと講義室に入り、新しく幹部になる人たちに全身全霊で講義をした。
 ゲラ直しが気になってはいたが、どうしても伝えねばならないことが伝え切れていないから、時間を延長して話す。
 それでも硫黄島のことが話せなかったから、「学生長」に「有志で集まろう。そこで硫黄島のことを話し、それから乾杯し、呑みながら何でも質問を受けよう」と提案した。


▼講義が終わると、自宅へまっすぐに向かう。
 しかし自宅に帰ると、すでに夕刻の6時すぎ。
 この自宅へ、出版社からゲラを取りに来るのが、翌5月30日金曜の午前11時半だから、17時間半しかない。
 200ページを超えるゲラに、その時間内で赤を入れるのだから、当然、食事の時間はとれない。赤を入れながら、バナナでも食べましょう。
 ぼくが総理番記者だったころ、当時の中曽根康弘総理がよく言っていた。「青山くん、バナナさえ食べておけば大丈夫なんだ」と。
 それからお風呂もない。睡眠は、もとよりゼロだ。

 一方で、まさかトイレは行かないわけには、いきません。
 ふひ。
 あと節目、節目で2分から5分ぐらいの休みも入れないと、頭がもたない。
 それに、ふだん情報を交換しているひとびとから電話などもかかるし、すぐに対応せねばならないメールも次から次へと来るから、実際にゲラ直しに使える時間は、そうだなぁ、ほんとうは10時間ぐらいか。
 すなわち1時間に20ページ以上、単純計算で言うと、2分間に1枚ぐらい仕上げないと、間に合わない。

 そんなの、無理じゃん。
 絶望感にも、とらわれる。
 しかし、すぐ『時間は伸び縮みする。ぎゅっと集中して凄く進むときと、立ち止まって考えるときと、いろいろあるから、一概に、出来ないとは言えない。気を強く持てば、やれる、やれる』と気を取り直し、そのあとまた絶望感に襲われ、また楽観的になるという山と谷を繰り返しながら、とにかく作業していく。


▼そして夜がおとずれ、朝が来て、約束の5月31日金曜の午前11時半ごろになり、バイク便の会社から電話が来た。
 まだ終わっていない。ぎゃあ。
 と思ったら、バイク便の会社のひとが「前の荷物が遅れて、そちらへの到着がすこし遅くなります」。
 あー、天の助けだ。

 このどたばたの挙げ句、5月31日の午後早くに、とにもかくにも赤を入れた初校は、出版社の手に渡った。


▼ぼくは放心するヒマもなく、すぐシャワーを浴びて羽田空港に向かう。
 大阪で、公共事業体の幹部との協議が待っていた。大阪で泊まる。

 翌5月31日土曜は、朝早くにホテルを出て、関西テレビへ。
 情報番組「ぶったま」の「ニュース二十面相」コーナーに参加(生出演)する。

 番組が終わると、すぐに伊丹空港から帰京。
 急ぎのメールなどを大量に処理しつつ、夕刻、散髪屋さんに行く。いつどうやって髪を切ってもらったのか、まったく分からないほど最初から寝こけていた。
 帰宅してから、脳みそに栄養を送りたくて、オールナイトの映画を近所へ見に行く。死と生の問題をあつかった『Bucket List』(邦題・最高の人生の見つけ方)。
 ジャック・ニコルソンをはじめ怪優たちの演技は素晴らしかったけど、映画としてはまぁまぁかな。

 翌6月1日の日曜は、首都圏で放送されている人気番組「サンデー・スクランブル」(テレビ朝日)に参加(生出演)し、四川大地震への自衛隊機派遣の見送りについて話す。
 帰宅後、またすぐに溜まっている急ぎのメールを処理し、自宅近くのジムへ。
 バーベルやダンベルを重く感じる。トレーナー(まだ21歳の女性だけど、しっかり信念があるトレーナー)の励ましのおかげで、ようやく、いつものメニューをこなす。

 こうやって過ごしながら、頭は実は、新刊書のことでいっぱい。
 赤入れが、あまりにも不充分だ。

 そこで思い切って、出版社の編集者(この人も若い女性だけど、きちんと信念がある)にメールを送り、最後の最後に、数時間でも、もう一度、内容を確認する時間がないだろうかと相談した。

 彼女はすぐに返事をくれた。
「明日の月曜は東京にいますか。いらっしゃるのなら、最終校のゲラを送ります。そして午後7時までに必ず返してください。それで終わり、もう二度と延長はありません」という趣旨の返事をくれた。
 ぼくは勇気百倍、その確認に向けて、精神の統一を始めた。それから明日の月曜に、すこしでもゲラ最終直しの時間がとれるよう、独研社長としての仕事を加速させた。
 月曜は午後、東京にいなくなるけど、夕刻に東京に帰ってくる。
 その往復の車中でゲラ直しができるぞっ。

 実はこの日曜日には、生まれて初めて座禅をするために、都内のお寺を訪ねることになっていたのだけど、それはお寺に恐縮しつつ延期した。


▼そして、運命の(おおげさながら)6月2日月曜となった。
 奇しくも、亡き父の命日だ。

 前述したように、午前中は外務省や海上保安庁での仕事で終わった。
 昼の12時40分に車に乗り込み、揺れる車の中で、最終校のゲラ直しを始めた。
 ほんとうは、車の中では頭をゆっくりと遊ばせたい。
 その気持ちを一番知っているのは、隣に付いている秘書さんだ。

 車は、雨の中を1時間半ほど東名高速などを疾走して、東富士の研修所に着いた。
 いろんな企業から集まっている受講者は、ゲラも何も関係ないのだから、全身全霊で講義する。
 この講演も1時間20分しかなく、伝えるべきを伝えきれなくて、すこし延長して話し、そしてやっぱり硫黄島の話ができなかったから、「有志で再び集まりましょう。その場で無償で話をさせていただきます」と約束して、車に飛び乗る。

 外に降りしきる雨も記憶にないほど、再び1時間半ほどの車中でゲラ直しに集中し、車は午後6時半ごろに出版社に着いた。
 まだ最後のページに到達していない。
 この最終校のゲラは、最初の直しによってページがかなり増え、230ページを超えている。

 編集者に無理にお願いして、出版社の一隅をお借りし、作業を続け、午後8時半ごろ、一応は最後のページに達した。

 ぼくとしては、まだまだ推敲が不充分だけど、もはやこれまで、これ以上みなさんを待たせるわけにいかないと、編集者に最敬礼して、最終校のゲラを渡した。


▼これで新刊書という列車は、発車です。
 そして、この発車は、ぼくの作家としての再生の始まりの発車です。
 このあと、いろいろな出版社とのまだ果たせていない約束を果たして、ノンフィクションも、そして文学も、新しい作品を必ず、世に問うていきます。


▼そして、みなさん。
 新刊のタイトル、発売予定日、予定価格をお伝えします。


日中の興亡
Japan and China to Rise or Fall


発売日:6月20日(※おおむね、この2日後に書店店頭に並びます)
予価:本体1500円(税込1575円)
出版元:PHP研究所

 表紙のデザインも、今回はぼくが初めて原案をつくり、デザイナーにアジャストしていただきました。
 書店では既に予約を受けつけています。もしも、よろしければどうぞ。
 機会があれば、魂を込めて、つたないサインをさせていただきます。