Our World Time

さぁさぁ、新しい歩みです

2011年06月30日 | Weblog

▼ぼくが講演というものを始めたのは、共同通信を去って、三菱総研に移籍して、間もない頃です。
 ある日突然、「講演をしてほしい」という話が、三菱総研とは直接、関係のないところから持ち込まれ、当時の秘書役アシスタントの女性と「講演の依頼なんてのが来るんだね~」と呑気に会話したのを覚えています。
 まだテレビ番組にも顔を出していませんでした。

 それから13年ほど経ちます。今では、年間100回を超えるようなペースで講演しています。
 講演は、テレビやラジオと違って、みなさんの目を直接に見てお話しできるので、メディアでは誤解を招くから言えないことでも、どしどし言えます。

 しかし、講演の仲介を業者に頼んだことは、ただの一度もなく、また独研として営業したこともなく、ただただ自然にやってくる依頼に、可能な範囲内でお応えしてきただけです。
 今後も、仲介業者のかたに頼むことはありません。営業もしません。

(ときどき、業者を仲介させないと、講演を引き受けてくれないと誤解されるかた、企業、団体などがいらっしゃいますが、まったくそんなことはありません。
 業者のビジネスを邪魔するつもりは、ゆめ、ありませんが、info@dokken.co.jp にメールをくだされば、独研の総務部が検討します。仲介手数料がたいへんだろうにね、と独研・総務部員と話すことはあります。
 仲介業者を頼む方が楽ですというかた、あるいはビジネス上の付き合いからそうなっているというかた、また仲介業者を通す方が合理的というかたなどなど、そういうかたがたは、どうぞご自分の選択を大事になさってください。
 ただ、独研が、どこかの業者と特別な関係を持っているといったことは、一切、ありません。
 業者によっては、HPなどで「派遣できる講師」として、ぼくの名前を挙げているところも、決して少なくありませんが、それはすべて、業者のかたの、はっきり申せば勝手な記載です。「載せていいですか」と相談を受けたことすら、ただの一度もありません。
 講演依頼を受けるかどうかは常に、独研だけの、まさしく独立した判断です。業者のかたであれ、どこであれ、他の指図は受けません)


▼前述したように、業者の仲介は受けないし、営業もしませんが、講演会の自主開催はやろうと、先に決めました。
 そして、第1回の「独立講演会」をすでに開きましたが、それは東日本大震災のチャリティ講演会として、おこないました。
 ですから、第2回からが、通常の「独立講演会」になります。

 その日程や会場を決めることができました。
 独研の公式HPにもアップしましたが、ここにも記しておきます。


★第二回独立講演会の開催と、ご参加について

日時:8月7日(日)14時から

場所:OBP 円型ホール(大阪ビジネスパーク)

演題:「希望の夏」

応募方法:ファックス又は郵送

 記載要綱  氏名・参加人数・郵便番号・住所・電話・ファックス番号
 郵送先   大阪市西区江戸堀1-22-38 三洋ビル 4F
        株式会社アイス 宛
 ファックスあて先   06-6443-2452 株式会社アイス 宛

 申し込み締切日:7月9日必着


▼応募の受付やその他のロジスティックスは、独研の総務部では人員が足りないので、上記の「株式会社アイス」に委託します。
 独研では、受付はできないことを、どうぞご諒解ください。

 それから、締め切り日が近いです。
 申し訳ないですが、希望されるかたは、お早めに。

 この夏、広島への原爆投下の翌日、長崎への投下の2日前、そして敗戦の8日前に、みなさんとお会いしましょう。
 祖国の新しい希望を、一緒に考えましょう。



つとめを果たすことができて感謝しています

2011年06月27日 | Weblog
▼みなさん、今は6月26日の日曜日、夜7時を回ったところです。
 東北新幹線で帰京する車中です。
 すこしホッとしています。
 きょうの午後3時から被災地の宮城県・南三陸町で、町長の佐藤仁さんと再会し、みなさんから預かっていた義援金300万6,400円の目録を無事、お渡ししてきたからです。

 佐藤町長は深々と頭を下げられ、たいへんに喜ばれました。
 町が、自在に使える復興資金をすこしでも多く求めていることは、現地で証言を聴くと、とてもはっきりしていますから、みなさんの志は直ちに生きると思います。


▼町長らとの会談を終えると、近くにいらっしゃった消防団員のかたがたが「青山さん、お願いがあるんです」と声をかけてこられました。
 聞くと、七夕の日に、みんなで復興への願いを込めて、短冊(たんざく)を書いている最中だから、ぼくにも一つ書いてほしいということでした。

 もちろん引き受けて、こう記しました。
「わたしたちはみな、南三陸町のみなさんの強さを信じています。全国民と連携して、復興、福興を。  青山繁晴 拝」

 きょう南三陸町に入って、最初に訪れたのは、「福興市」(ふっこういち)でした。「復興市」ではないのですね。
 単なる復興だけではなく、幸福を新しく興すという願いで、「福興」という言葉をつくり、フリーマーケットを始めたそうです。
 そこには、まさしく全国から駆けつけた農家やボランティア、ミュージシャンらさまざまなひとが、野菜をはじめ各地の産品を持ち寄っていて、その収益を義援金に当てるということでした。
 前に訪れたときには、想像できないような明るい笑顔も、その「福興市」にはありました。
 そこでぼくも、短冊の中にその言葉を使わせてもらいました。ちょっと嬉しかったからです。


▼町内の被災地を、海辺から内陸まで現状を把握するために、歩きました。
 地元選出の小野寺五典代議士が同行して、ありのままに説明してくれました。
 彼は自民党の代議士ですが、政党色は関係ありません。東京水産大学(現・東京海洋大学)の出身という珍しい衆院議員で、青山千春博士の大学の後輩に当たります。それがきっかけで知り合いましたが、にんげんとしての良心を持ったひとです。
 被災者と一緒に、雨に打たれ、汗と泥にまみれながら苦しみ抜いています。
 小野寺代議士をみていると、もはや既存の政党で政治家を分けるのではなく、ひとりひとりの個性と能力、そして良心を、有権者が見分けていく時代だと、実感します。
「政党よりも、その政治家そのものを見て、投票しませんか」という問題提起をこれまで述べてきましたが、大震災で、その考えをさらに深くしました。

 そして最後に、南三陸町役場の防災庁舎を訪れました。
 みなさんがご存じのように、遠藤未希さん(南三陸町役場の危機管理担当の職員)とその上司の三浦毅さんのおふたりが、みずからを犠牲にして町民に避難を呼びかける放送をなさった場所です。

 南三陸町の役場は、庁内の他の多くの建物と同じく根こそぎ、津波にさらわれて土台しか残っていない惨状なのですが、隣に建ててあった防災庁舎は、赤い鉄骨だけはかろうじて残りました。
 その鉄骨に、遠い海の沖合の漁具やら、あるいは町民が着ていた衣服まで、息を呑むほど大量で、想像を絶するほどさまざまな物が、絡まりついていました。
 その写真を、この個人ブログに以前、アップしましたね。

 その、絡まった物は驚くほどきれいに取り除かれていました。
 町長に聞くと、たいへんな努力があったことが分かりました。
 そして、手作りの祭壇が置かれ、お花や寄せ書きやお菓子、お酒、お水などが祀られていました。

 町長さんたちの話によると、いたずらをするひとや、「面白半分で防災庁舎の屋上に登ろうとする人」(佐藤町長)なども、訪れる人々のなかには、いるそうです。
 町長さんは「それが心配です。青山さんからも、みなさんに、よろしくお願いしますと伝えてください」と、おっしゃっていました。その通り、よろしくお願いします。

 写真は、現在の防災庁舎です。
 赤い鉄骨に絡まった物は取り除かれても、周りには、あらためて深いため息が出るほどの瓦礫があります。
 写真の鉄骨はどこから来たのか。防災庁舎の一部なのか、それとも、はるか遠くにあった建物の一部なのか。何が起きても不思議ではなかったのが、この震災なのです。





※神戸で開いたチャリティ講演会の収支は、以下の通りです。

【収入】

▼講演の受講料

・第1部講演(3時間)の受講料として振り込まれたもの=371人
 185万5,000円
・第2部講演(3時間)の受講料として振り込まれたもの=288人
 144万0,000円
・当日、現金で支払われた受講料=23人
 11万5,000円

▼募金

・会場に設置した募金箱への募金
 42万5,201円
・振り込まれた募金
 34万9,210円

▼青山繁晴著の書籍の売り上げ

・120冊
 18万0,000円

▼以上を銀行口座に仮保管していたための利息

・39円

▼合計

・436万4,450円


【支出】

▼受講料の返金(当日に不参加だったかたに返金)=2人

・1万0,000円

▼会場の設定、受付業務などを委託した「株式会社アイス」への支払い

・105万0,000円

▼旅費

・東京の独立総合研究所と神戸の講演会場間(青山繁晴、青山千春博士、研究員)
 14万5,170円

▼書籍の売り上げのなかの出版社(PHP)の取り分

・15万1,200円

▼南三陸町の口座への振り込み手数料

・1,680円


【差し引き、義援金として南三陸町の口座に振り込み】

・300万6,400円


【支出はあったが、計上しなかったもの】

▼東京の独立総合研究所と南三陸町の役場などの間の旅費(目録の手渡しのための旅費を含む)

▼仙台における宿泊費

 以上の支出は、今回の義援金贈呈の企画・実行に必要な経費であり、独研(独立総合研究所)の総務部から青山繁晴(独研社長)に提出された原案には計上されていました。
 しかし、青山繁晴の判断として「支出として計上するのは、講演会開催のための直接経費に限定したい」という理由から、支出から外し、独研の負担としました。



(以上、日曜日に新幹線の車中で書き起こした書き込みを、帰京後に完成させました。6月27日月曜夕刻、記)

東へ

2011年06月26日 | Weblog
▼今、ふたたび東北新幹線の車中にあって、被災地へ向かっています。
 きょうは原子力災害の福島県ではなく、宮城県の南三陸町に入ります。

 先日、神戸で行った東日本大震災チャリティ講演会(独立講演会の記念すべき第1回でもありました…)で、集まった義援金を、南三陸町の佐藤仁町長に直接、手渡すためです。
 現金は、町の口座に振り込み、佐藤町長には、ぼくが記した目録をお渡しします。

 きょう、夜明けのころに、目録に毛筆で「義援金 参百万六千四百円」と記したときは、いささかの感慨がありました。
 みなみなさまの志のおかげで、300万円を超える義援金をお渡しできます。
(すべての収支を、このブログでもあらためて公開します)


▼きのうの土曜日は、独研(独立総合研究所)が発行している会員制レポートに個人の資格で加わってくださっているみなさんと「懇話会」を開き、夜10時まえぐらいだったかな?、その頃に帰宅して、ソファで知らぬうちにすこしだけ仮眠したあと、徹夜で「インディペンデント・クラブ」の会員証に、会員のかたがたのお名前を手書きで入れていきました。
 インディペンデント・クラブは、7月1日から初めて活動を開始します。
 独研の総務部長代理でもある青山千春博士の発案で、300人の会員の会員証すべてに、ぼくがお会員の名前を記すことにしたのです。

 それを終えて今朝、ひとりでロータス(という公道を走れるレーシング・カー)を運転して東京駅に向かうときは、ごく元気でした。運転するのは、うれしいですからね。
 しかし駐車場に停めて、東京駅に歩いて行くとき、思いのほか深い疲れも感じました。

 去年の12月1日から、三つの病をくぐり抜けて、最後に四つ目の病の腸閉塞で入院中に、大震災が発生し、そのまま3か月、走り続けてきました。
 病は、さしたる努力もなく克服しましたが、体力は依然、元には戻っていません。
 ぼくを死の淵から二度、救ってくれた、町の名医さん(開業医)は「青山さん、それは病気のせいじゃなく、大腸癌を切ったときの全身麻酔のせいです。全身の機能をいったん全停止しましたからね、ふつうは休んでいないと、倒れます。きっと、何をしていても、ごろりと寝転びたくなるでしょう」とおっしゃいました。
 さすがの名医、その通りです。

 東京駅に渡る横断歩道の上で、けさ、ゴロ寝したくなったぐらいですから。
 ふひ。


▼神戸のチャリティ講演会では、想像を超えて「参加したい」という申し出をいただきました。その数の多さに正直、すこし驚きました。
 そこで、みなさんの志に応えるためと、すこしでも沢山の義援金を南三陸町の被災者にお渡ししたいという気持ちから、6時間の講演をいたしました。
 当初の予定では3時間の講演でした。
 これでも短くはありませんが、さらに講演会を第1部の3時間と、第2部の3時間のダブルにして参加できるかたを2倍にし、ぼくは実質的に6時間ぶっ通しでやるということになりました。

 6時間、立ちっぱなしで講演しっぱなし、というのは、いくら何でも初めてだったので、講演終了後は、ほんのすこしですが膝が笑いかけていました。喉はもちろん、潰れました。
 それでも、被災の大きさに比べれば、300万円はきっと、わずかな足しにしかなりません。
 しかし、ほんとうは講演会を8時間、10時間やってでも、参加を申し込まれたかたがた全員と、お会いしたかったです。
 体力が戻っていなくても、その気持ちはほんとうです。
 みなさんは、みんなは、ひとりひとり、素晴らしいです。


▼よくご承知のように、南三陸町では、結婚式を控えていた遠藤未希さんと、町役場でその上司であった三浦毅さんのおふたりが、みずからの危険を顧みず、最後の最後まで「津波が来ます。逃げてください」と町民に呼びかける放送を続けて、ふたりとも津波にさらわれました。

 それはそのまま、たとえば沖縄の白梅学徒看護隊の少女たちと、硫黄島の英霊のかたがたの姿に重なります。
 沖縄は、3日前の6月23日に、66回目の沖縄戦終結の日を迎えました。
 やがて、66回目の敗戦記念日もやって来ます。

 慰霊の祈りとともに、すべての、まっすぐ真ん中の愛国者の御魂(みたま)とともに、わたしたちのたった一つの祖国の新生を期したいと思います。

 新幹線の窓から、緑なす日本の山々と田畑がみえています。
 福島原子力災害の地の山と田畑にも、町民と村民に戻ってもらわねばなりません。




こころよりの感謝

2011年06月24日 | Weblog
 みなみなさま、ぼくの義母にして青山千春博士の母、横川和子さんを見送る通夜、告別式に、ご参列、供花、弔電を、ありがとうございました。

 義母の棺と祭壇は、思いがけないほどの沢山の供花に包まれ、おだやかな花の香りが満ち、そのなかを義母が生前、演奏したジャズの名曲が流れました。
 義母の残した録音のうち、クラシックよりも、スイングする明るいジャズのなかから何曲かを、義母のふたりの孫、つまりぼくの息子たちが一生懸命に選びました。

 義母の亡くなった旦那さま、すなわちぼくの義父、青山千春博士の父である横川秀男さん(トランペッター)と一緒のセッションも含まれていました。
 ぼくが旧姓・横川千春と出逢ったときは、この横川秀男さんが急死なさった直後でしたから、会ったことはないのです。
 それでも、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝レオ」の主題歌に残された高らかなトランペットの音は、ぼくも子供の頃から馴染んで育ちました。音でずっとお目にかかっていたわけですね。

 ぼくが横川千春という人を初めて知ったのは、産経新聞の「人間広場」という当時の連載コラムの記事でした。
 帝国海軍の軍楽隊だったお父さまから、海の素晴らしさを聞かされて育ち、日本で初めての女性船長を目指すようになったという記事でした。東京水産大学(現・東京海洋大学)の航海科の学生でした。

 その頃のぼくは、早稲田大学政経学部の学生で、アルペンスキー競技で両膝の皿を割り、山には入れない代わりに、先に中退していた慶應義塾大学の友だちらと、慶応OBの加山雄三さんの、海をテーマにしたコンサートを企画していました。
「こりゃ、その東京水産大学の航海科のクラスメートたちと一緒にチケットを買ってくれるんじゃないか」と考えて、連絡先を探したのでした。

 葬儀で喪主を務めたぼくは、最後のあいさつで、「おとうさま、おかあさまが、千春を立派な科学者に育てあげられました。これからも、祖国のために、ふたりは、ささやかなりに奮闘していきます」と述べました。



 みなさん、あらためまして、ありがとうございました。


あす6月22日のアンカー

2011年06月21日 | Weblog
 いま義母の通夜会場の桐ヶ谷斎場(東京・西五反田)にいます。
 お通夜が始まるまで、あと2時間ほどあります。

 あす6月22日の水曜は、告別式です。
 毎週水曜は、関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」の生放送に参加する日ですが、ぼくが告別式の喪主を務めますから、大阪には行けません。
 一方で、夕刻までには告別式はすべて終わります。

 そこで、青山千春博士(逝去された横川和子さんの一人娘)ともよく相談し、東京の関テレのスタジオから、「青山のニュースDEズバリ」のコーナーだけ、ナマでお届けすることにしました。
 番組の最初には居ませんが、ぼくが現れないわけではないので、よろしければ視てください。


 そして、みなみなさま、こころ優しい弔意を、ありがとうございました。

逝去のお知らせ その後

2011年06月17日 | Weblog
 通夜と告別式の日時、場所について、すくなからずお問い合わせをいただいています。
 哀悼を表されるお気持ちを、故人のために、こころからありがたく思います。
 ただ、決して無理をなさって参列されることのなきよう、伏してお願い申しあげます。



(以下とほぼ同じ内容が、独研の公式HPにも掲載されます)

訃報

 2011年6月16日月曜午前8時ちょうど、独立総合研究所・代表取締役社長の青山繁晴の義母、取締役自然科学部長(兼・総務部長代理)の青山千春博士の母である横川和子(よこかわ・かずこ、元NHK交響楽団ピアニスト))が心不全のため、東京都杉並区の浴風会病院にて死去いたしました。
 1924年、大正13年12月26日生まれの86歳。
 東京都豊島区出身。

 通夜は6月21日火曜午後6時から、告別式は6月22日水曜午前10時から、いずれも東京都品川区西五反田5の32の20桐ヶ谷斎場にて。
 喪主は青山繁晴(あおやま・しげはる)が務めます。 





*嘘をつくことは考えもしないほどに正直で、謙虚な人柄のままに、清廉な生き方、暮らしぶりを最期まで貫きました。

 夫(青山千春博士の父)の横川秀男さんもNHK交響楽団に属し、戦前は帝国海軍軍楽隊として重巡洋艦「足柄」に乗艦していたトランペッターでありました。
「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝レオ」のテーマ曲の高らかなトランペットの音を残した夫と共に、演奏活動を展開し、NHKラジオでの子供番組で生演奏を行い、優しい音色で好評を博しました。

 青山千春博士は一人娘として、よく看病を尽くし、何度も何度も生命の危機から救い出したのでしたが、最期は医師団にとっても思いがけなく狭心症によるとみられる心停止に至りました。

 わたしも共同通信の記者時代に、一緒にシンガポールに旅行したのが、いちばんの思い出です。なぜなら、横川秀男さんの魂は、青山千春博士によると、帝国海軍の戦友たちの眠るシンガポールにあるからです。

                              青山繁晴 拝 出張先の新幹線車中にて
                              2011年6月17日金曜午後5時 記


 写真は、4月7日の木曜に、浴風会病院の広大な庭で、お義母さんに桜を観てもらったときの一枚です。

 母と娘が一緒に映る、最期の写真になってしまいました。
 そのときには、まさかそんなことは考えもしませんでした。
 青山千春博士は、きのう6月16日の朝、まだ温かいお母さんの手を取って、さすって、さすって、「もう一度、ピアノを弾こうねって、言っていたのにね。ごめんね、ごめんね」と話しかけ続けていました。

 ごめんね、なんて、ことはありませぬ。
 もう心停止しているはずのお母さんの目尻から、不思議な涙がなんすじも、流れました。

 うしろにいるぼくには、娘への深い感謝の涙にみえました。 

逝去のお知らせ

2011年06月16日 | Weblog
 今朝6月16日木曜、午前8時ちょうど、株式会社 独立総合研究所取締役・自然科学部長(兼・総務部長代理)の青山千春博士の母、ならびに株式会社 独立総合研究所代表取締役社長の青山繁晴の義母である横川和子さん(元NHK交響楽団ピアニスト)が心不全のため、東京都杉並区の浴風会病院にて逝去されました。86歳。

 正直にして清廉な、こころ優しい人柄でありました。
 亡き夫(青山千春博士の父)、横川秀男さん(戦前は帝国海軍軍楽隊、戦後はNHK交響楽団のトランペッター)と共に、演奏活動を行い、NHKの音楽番組の生放送などでも活躍されました。
 最期まで、正直者の生涯を貫かれました。
 なお、青山千春は一人娘です。

 葬儀などは未定です。

きょうは実は父の命日です

2011年06月02日 | Weblog
▼いま6月2日木曜の夕闇迫る4時25分です。
 菅政権への内閣不信任案の採決をおこなった衆院本会議が終わって、しばらく経った段階です。

 ぼくが政治記者だった時代から、時代の色を映したさまざまな政局があったけれど、これほどまでに愚劣な、半端な、数百の政治家がこぞって、おのれの保身だけに走った政局はないでしょう。


▼さて、本題です。
 独研(独立総合研究所)の総務部によれば、インディペンデント・クラブ(The Independent Club / IDC)は会員の募集を開始した昨日から今日6月2日の朝にかけて、即、満員になってしまったとのことです。

 みなさんのお気持ちに、もっと応えたいです。
 しかし独研の事務処理のキャパシティからして、当面、第一次募集はこれにて終了です。
 いつ第二次募集ができるかは、これからじっくり考えていくことになります。

 まずは、関心を持っていただいたすべての同志たち、ありがとうございました。
 取り急ぎ、深い気持ちで、お礼のこころをお届けします。


▼きょうが命日の父は、それなりの長い伝統を持つ繊維会社の現役社長のまま、入院中に思いがけない医療過誤で、窒息死を遂げました。
 ぼくは三人兄弟の末っ子で、だから「おまえは家督を継げない。ひとりで生きろ」と父からも母からも繰り返し、告げられながら育ちました。
 それがぼくの、ささやかな自立心の根っこを造ってくれたと、考えています。

 生前の父とは、世の改革のありかたをめぐって何度も、衝突もしました。
 死に目に逢えずに、あれから24年にもなるのに、父をまだ諦めきれない。
 どれほど無念の死だったでしょうか。

 ぼくは共同通信の東京本社・政治部にあがって、まだ2か月、初めて政治部の筆頭デスクからポケットベルを鳴らされ(当時まだ、携帯電話はなかったですからね)、勢い込んで公衆電話から本社に電話したら、いきなり「青山くん、お父さんが亡くなったよ」。
 ぼくが声を出せないでいると、忙しい筆頭デスクは、「だから、お父さんが亡くなったという連絡を、今したからね」とおっしゃり、ぼくは「分かりました」とだけ、ようやく応えました。

 小雨の公衆電話ボックスを、きのうのことのように覚えています。

 父は、生涯ただの一度もぼくを叱ったことはなく、厳しい母とふたりで、ぼくを造ってくれた。
 新幹線で家に帰ると、父はもう、知らない父になって寝かされていた。
 ぼくは父の髪を切って、白い紙に包みました。

 その髪は今も、ぼくの書斎に祀られ、硫黄島の英霊や白梅学徒看護隊の少女たちに捧げる水と一緒に居ます。
 お父さん、ごめんなさい、引き留めて。
 そのうち、お父さんと一緒に、天に戻るから、そのときまでつきあってね、いつもそう胸の中で話しかけます。

 父も、自動車が大好きでした。
 優れた経営者だったけれど、繊維工場をふたつ廃して、時代に先駆けるように自動車教習所をふたつ開設したのは、経営感覚だけではなく、車が好きだったことも実はあると、ぼくは勝手に解釈しています。

 ぼくが小学校4年のとき、車の運転を初めて教えてくれたのは、父でした。
 今も、運転しているとき、父が護ってくれている気配を、驚くほどありありと感じるのです。



お~い、みなさんっ

2011年06月01日 | Weblog
▼希望への願いを込めて、インディペンデント・クラブ(The Independent Club / IDC)を創立しました。
 きょう6月1日から募集を開始します。

 独研(独立総合研究所)の公式HPの、インディペンデント・クラブのページを見てください。
 インディペンデント・クラブで、ぼくと会いましょう。そして、みずから考えるきっかけにしてください。


▼ぼくはその後、阪神淡路大震災を超克した神戸で、東日本大震災のチャリティ講演会を「独立講演会」(独研の自主開催の講演シリーズ)の第1回として開き、6時間連続で、みなさんにお話しし、福岡県の小郡市では、台風の通り過ぎるなか、薬局店主のかたが個人で志して主催された講演会で4時間20分、お話しし、翌日に台風と一緒に仲よく北上して、大嵐のなか、福島原子力災害でもっとも痛切な被害を受けているとも言える福島県・飯舘村に入って、村長や畜産農家のかたと、「これからどうする」ついて話し合い…という日々を送っています。

 思えば、去年12月1日の水曜日、尿管結石の痛みを激しく発症し、関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」の生放送本番で、プロデューサーが痛み止めの座薬をカメラの後ろで手に握って控えていたときから始まり、そのあとは、医師の診断によれば講演先の福知山で感染したとみられる重症肺炎によって42度や41度の熱を夜ごとに発していたのを無視していたために多臓器不全の半歩手前まで行って死にかけ、その直後には、大腸癌を全身麻酔の手術で取り、それを1週間足らずで退院して講演会などの約束を果たしたために、重い腸閉塞を発病して再び死の寸前まで行き、その腸閉塞で入院中に、東日本大震災が発生し、そのままずっと走り続けてきました。

 正直、生きているのが不思議です。


▼しかし、この6月は、滞っていた原稿をがんがん書いていきます。
 独研が発行している、11年の歴史を持つ会員制レポート、東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)をはじめ、扶桑社から発刊が決まっている「ぼくらの祖国」の全面改稿の完成、そして経済誌に連載していた「超経済外交のススメ」というコラムを改稿のうえ、やはり扶桑社から出す予定もあります。
 7月になれば、さらに原子力をめぐる新刊を、PHPから出す企画も進め、そしてそして、8年以上あたためてきた小説の新作も完成させます。

 生きているうちに書かないと、死ねば、この脳みそと共に、文章に書き残す前のさまざまな体験も、練ってきたコンセプトも、みな消えてしまいます。

 物書きとしてのぼくは、実際に書かれたものだけがすべてです。
 構想はいくらあっても、本になってみなさんの目前に現れないと、ひとかけらの値打ちもありません。
 おのれを励まし、みんなに励まされ、たとえば「ぼくらの祖国は、いつ出るのですか」と講演先で声をかけられることで励まされ、書きます!

 6月のぼくは、June Bride (6月の幸福な花嫁)ならぬ June Writer (6月の幸福な書き手)です。