Our World Time

わたしのオキナワ・モナムール

2005年04月24日 | Weblog
 ウルトラ超過密の日程が、さらに加速しています。
 だけど、こんな地味サイトを訪ねてくれるひとにも、応えたい。
 そこで、1週間の備忘録をちょっとだけ、ふたたび書いておきます。


▼4月16日の土曜

 沖縄での講演から帰京したばかりだけど、きょうも講演のために、羽田から伊丹へ飛ぶ。
 これで今週は7日間のうち5日、飛行機に乗っている。
 来週も同じく、5日、空を飛ぶ。この2週だけで、飛行機に乗ること10回、うーん、さすがに身体はたいへんかも。他人事みたいだけど。

 しかし、この2週が異常なのではなく、このごろは大体こんなペースだ。
 かつては飛行機を見ただけで軽く吐き気がしたこともあったけど、最近はすっかり諦めもついて、ごく淡々と空港に現れ、雲海のうえへ上がり、機内でモバイル・パソコンを叩いている。

 そう、飛行機にたくさん乗るのはもはや避けがたいけど、せめて機内では、島や都市や山並みをぼんやり眺めていたいな。
 まぁ、それも無理、無理。このごろ、飛行機の中どころか、揺れるタクシーの車中でもモバイル・パソコンの小さな画面を見ながら原稿を書き、それでも締め切りを大幅に遅れる原稿がどんどん山積みになっている。

 さて、伊丹空港に着くと、迎えに来てくださったひと、独立総研の若き秘書室長(24歳、ニューヨーク育ちの女性)、それにぼくの3人でタクシーに乗り、神戸の奥座敷、有馬温泉へ。
 ここは、子供のころに家族で来ていたところだから、なんとも懐かしい。
 神戸より標高が高いから、桜が今ちょうど満開で、山の緑はみずみずしく、そして山の高みには白いこぶしの花が咲き乱れている。

 会場は、有馬温泉でも指折りの宿の「瑞苑」だ。
 すこしだけ休んでから、経営者のかたがたに、講演。
 ほとんどが社長さんなので、原油高の裏にあるものを中心に経済のことを冒頭でお話ししてから中韓の反日暴動の真実について、かなり時間を割いてお話しをし、最後に憲法のことを、聴講者のみなさんと一緒に考えた。

 講演のあと、温泉に浸かる時間が貴重な時間があった。
 ぼくは、ほんらいはお湯が大好きなので、懇親会が始まるまでの1時間半、ほとんどずっとお風呂にいた。
 こぶしの花を遠くに望みながらの露天の湯が素晴らしく、こころも体も、かりそめにではあるけれど、生き返った。

 夕刻から懇親会。
 講演では質問をお受けする時間がなかったので、誠心を尽くして、質問にお答えするよう努めた。
 瑞苑の料理はさすがに素晴らしく、地酒もたっぷりといただいた。
 帰国子女の秘書室長にとっては、こうして「にほんの国」に触れる機会は、とても大切だ。みんなと同じく浴衣姿で、いつものように気品をもちながらも楽しげにしている。それを見ていて、嬉しかった。

 部屋に帰ってから原稿を書こうとしたが、さすがにたまらず、しばし眠り込む。


▼4月17日の日曜

 午前3時ごろに目覚め、独立総研から会員に配信しているTCR(東京コンフィデンシャル・レポート)を執筆。
 しかし未完。

 夜が明けてから、みじかく朝湯に入る。
 午前7時過ぎには、もうきちんとスーツを着た秘書室長が部屋に着て、打ち合わせを兼ねながら一緒に朝食をとる。
 朝ご飯も、びっくりするぐらい、おいしかった。

 午前8時ごろに、ひとりで瑞苑を出発し、レンタカーを借りる。
 入院している義姉さん(兄の奥さん)を見舞いに、高速を飛ばす。
 義姉さんと久しぶりに顔を合わせ、手を握って元気な体温を感じ、付き添っている兄と充分に話し、病院を出て、母のところに、これもほんとうに久しぶりに立ち寄って、すこしだけ話した。
 内心では後ろ髪を引かれながら、またレンタカーで高速を走り、伊丹空港へ。

 空港で秘書室長と落ちあい、羽田へ飛ぶ。
 秘書室長の出張はここまで。
 羽田空港からひとりでタクシーに乗り、激しい疲れも感じたが、気持ちを励まし、スポーツ・ジムへ向かう。
 ジムでダンベルやバーベルを挙げ、ひさびさにトレーニング。
 ボディ・ケア(スポーツ・マッサージ)のあと、軽く泳ぐ。

 帰宅して、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の執筆と、電子メールを使った取材で徹夜する。
 レポートは未完。


▼4月18日の月曜

 朝、ふたたび羽田空港へ。
 主任研究員(26歳、シアトル育ちの女性)と空港で落ちあい、伊丹へ。
 伊丹からまず、大阪市内の定宿のホテルにチェックインして、プールで激しく泳ぐ。
 徹夜明けの心身をなんとか目覚めさせる。

 そして関西テレビへ。
 レギュラー出演している「2時ワクッ!」で、中国の反日暴動などについて話す。ベストを尽くすよう心がけた。

 出演後、やすまずに公共事業体へ。
 新年度の委託研究プロジェクトが、まず2本決まり、そのほかに小ぶりな研究プロジェクトも2本決まった。
 独立総研の創立から3年目の平成17年度も、滑り出しはまずまず順調かな。

 ホテルへ戻り、主任研究員と打ち合わせ。
 夕食は部屋で仕事をしながら、とも思ったけど、凄絶な奮闘の続いている、この若き主任研究員の激しいストレスを思い、ホテル近くの大阪らしいお店で軽く食事。

 ホテルへ戻り、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の執筆、取材や、そのほかの締め切りが来ている、あるいは過ぎている原稿の執筆、それにコラムを連載している「花泉」(華道の機関誌)のゲラ直し。
 レポートは未完。


▼4月19日の火曜

 朝、主任研究員とともに大阪駅から特急「サンダーバード」に乗り、3時間10分ほどをかけて富山へ。
 富山県の立山連峰は、アルペン競技スキーヤーだった学生時代に、夏合宿で毎年、訪れていた。
 雪渓を登る登山家の列のすぐ横で、ぼくらは長いスキー板をかつぎ、曲がらないスキー靴で1時間以上もかけて登り、数分で滑り降りてくる。
 その繰り返しだ。
 登山家たちと、それから雷鳥が、ぼくらを眺めていたのを想い出す。

 だけど富山の駅から、富山市の中心部に降り立つのは初めてだ。
 歩いて県庁に入り、たいせつな知己のひとりである知事と会う。
 国民保護法制への取り組みなどについて、打ち合わせる。
 主任研究員の話しぶりがとてもしっかりしていて、また成長を感じる。

 県庁から富山空港へ。
 レストランで、富山名物を次から次へと食べて、あぁ完全に食べ過ぎ。

 飛行機は狭くて混んでいて、疲れがどっと噴き出す。
 羽田から、自宅ではなくお台場のホテルに入り、その一室で「TVタックル」のコメントを収録。

 収録のあと、自宅へ。
 TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の執筆、取材と、そのほかの原稿の執筆。
 レポートは未完。
 取材はかなり進んだのだから、早く配信したいのだけど、やはり水準をもっと高めたくて、まだ未完にしている。
 会員のかたがたには、お待たせして申し訳ない思いが、込みあげる。


▼4月20日の水曜

 古巣の共同通信のために未だに連載している原稿をはじめ、もうどうにも締め切りを延ばせない原稿などの取材を急ぐ。
 そしてTCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の執筆、取材。
 まだレポートは未完。

 夕刻、記者時代からのおつきあいの元外務事務次官、そして元航空自衛隊幕僚長と会食。
 中韓の反日暴動をどう見るかについて、突っ込んだ話をする。独立総研の上席研究員が同席。
 きょうは飛行機に乗らないで済んだ。

▼4月21日の木曜

 絶対に締め切りを延ばせない原稿を5本、完成させて送ってから、新橋発の快速に飛び乗り、千葉へ向かう。独立総研の、きょうは秘書室長でも主任研究員でもなく、総務部の経理室員が同行。
 どの社員にも、こうした機会が必要だ。

 千葉の駅近くで開かれた、千葉県証券協議会・総会で記念講演。
 この講演は、おのれでもまずまず満足できる出来だった。

 千葉からまっすぐ羽田へ。羽田からは、ふたたび沖縄へ講演のために向かう。
 沖縄の今回の講演主催者から「青山社長は時間がないでしょうから、千葉から羽田空港へのタクシー代を負担します」という連絡が来ていると、同行の経理室員から何度も聞いたけど、きっとタクシー代は高い。
 ひょっとしたら、沖縄のかたは千葉駅前から羽田空港への遠さをご存じないのではと思い、タクシーに乗らず、羽田行きのリムジン・バスに乗る。

 このバスが、考えてみれば当然ながら、まっすぐ羽田へは向かわずに、あちこちの駅を回ってはお客さんを拾っていく。
 羽田に着くまでに、ずいぶんと時間がかかり、やっぱり主催者の言葉に甘えるべきだったかなぁと思うが、それでも自分で払うならともかく、人に支払ってもらうタクシー代のメーターがどんどん上がっていくのは、やっぱり耐え難かったなと思い直す。
 だけど独立総研の社内には、きっと異論が多いだろう。これだけ時間がない状態にあるのだから。

 経理室員とは、羽田で別れ、ひとりで深夜に沖縄着。
 夜遅くにもかかわらず、主催者の沖縄タイムス社(沖縄の地元新聞)から出迎えの車が来てくださっていて正直、助かった。

 ホテルにチェックインして、部屋へ向かうエレベーターのドアが開いたら、そこになぜか関西テレビの女性スタッフが立っている。
 お互いにびっくり。
 目がくりっとして、南国の顔立ちをしている人だから、思わず「里帰り?」と聞いてしまったが、そうじゃなく、「新婚さんいらっしゃい」のロケに来ているとのこと。

 部屋に入ると、もう零時近い。
 窓の下に、離島に行く船が着く港が、暗く静まっている。
 すぐに眠りたかったけど、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の執筆、取材。
 レポートは未完。


▼4月22日の金曜

 ぎりぎりまで原稿を書いてから、正午、講演へ。
 講演の始まる直前に、独立総研の上席研究員が東京から合流する。

聴いてくださるかたがたは、沖縄の政治・経済界を代表する人がほとんどだ。
 沖縄電力の役員、沖縄最大のスーパー「サンエー」の社長、沖縄タイムスの社長・役員、琉球放送の社長などなど。内閣府や外務省の出先機関のかたがたや、若手のひとたちも加えて、嬉しいことに、狭くはない会場の席はすべて埋まっている。
 共同通信の那覇支局長も来てくださった。

 実は、先週の沖縄講演と、聴講者は半分ぐらい重なっているとのこと。
 そのために、新しい話をしたいのと、同時に、初めてのかたにも分かりやすくしたいのと、その思いが重なって、ぼくの内心ではなかなか簡単ではない講演だった。
 講演のあと、みなさんはずいぶんと喜んでくださって、それに深く、深く感謝しつつ、ぼく自身の自己評価としては及第点ではない。
 たいへんに心残りだ。

 講演のあと、2週連続で、ぼくのつたない話を聞いてくださった沖縄電力のN副社長とお茶を飲む。
 Nさんは、先週が初対面のわけだけど、ぼくは勝手に何か運命的な出逢いを感じていた。
 もともと、沖縄に思い入れの強いぼくだけど、こんな出逢いはあるようで、なかったことだ。

 お茶を飲みながら、意外な話を聞く。
 Nさんは、地元の最大企業の役員でありながら、FMラジオでディスクジョッキーをしていて、ビルボードのヒット曲をかける1時間番組を持っているとのこと。
 さすが、OKINAWA!

 このへんも、僭越ながら、気が合う理由なのかなぁ。
 そのあと、Nさんの部下に案内していただいて、独立総研の上席研究員とともに那覇市内で民俗衣装の店などを短時間ながら訪ねる。
 夕刻から、Nさんや、Nさんの友人と会食。
 なんと21年ものという沖縄の古酒を、たくさん、たくさん飲み干す。二次会まで、たっぷり話し込む。

 Nさんから、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の法人会員になっていただくということを聞き、とても嬉しく思う。
 ながぁい、付き合いになりそうだし、信頼には、より深い信頼で応えたいと思う。

 Nさんは、先週のぼくの講演を聴いたあと、「白梅の塔」についてあれこれ、ご自分で調べられたそうだ。
「青山さんの話を聞くまで、正直、白梅の塔についてよく知りませんでした」とおっしゃった。
 沖縄での講演で、ぼくが白梅の塔に触れるたび、聴講者からちょっとポカンとするような反応があるわけが初めてわかった。

 沖縄戦で犠牲になった女生徒たちの慰霊塔は、ほかにも例えば「ひめゆりの塔」があり、こちらは二度も映画化されたために有名だ。
 映画化され、訪れる人がたくさんいるからといって、青春も人生も希望もすべて奪われた女生徒の悲惨が変わるわけじゃない。
 だけど、それにしても白梅の塔は、いつ訪れても人影がなく、ひっそりと静まっている。
 白梅の塔とたまたま出逢ったぼくの使命として、これからもお参りを続けていきたい。

(※白梅の塔については、この一つ前の書き込みをご覧ください) 


▼4月23日の土曜

 始発便で沖縄を発ち、羽田へ。
 テレビ朝日に直行して、「サンデー・スクランブル」のコメント収録。
 テーマは、中国の反日暴動。

 帰宅して、締め切りのデッドラインが来ている連載コラム(宮崎日日新聞の「論風」)を書きあげ、送稿。
 これもテーマは中国だ。

 そのあと、アウディ・クワトロ80を運転して情報源のひとりのところへ向かう途中、ちょっと理由があって、首都高速を途中で降り、新宿の病院へ。
 駐車場のない病院で、すぐに診察は終わるだろうと車を病院前の路上に停めて、院内へ。
 ところが予想外に時間がかかり、1時間後に出てくると、クワトロがない。
 やられました。レッカー移動されている。ずいぶんと長年、車に乗っているけどレッカー移動されたのはこれが初めてだ。
 新宿警察へ行き、約3万円なりを払って、クワトロを返してもらう。

 このごろ車の運転に謙虚でないところがあって、そんな自分を知りつつ変えられないで、なんとなく何かがある予感がしていた。
 この3万円は、支払うべき授業料としては、高くない。
 明らかに、正しい判断を見失っていた。軽率に路上駐車をした自分を、戻ってきたクワトロを運転しながら深く恥じた。
 ちょっと不謹慎な言い方だけど、クワトロの全身に厄払いをしたような、すっきりした気配を感じた。
 
 帰宅後、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の取材、執筆を続けて、徹夜になる。
 この週末に完成させて、週明けには必ず配信したい。
 それに加えて、デッドラインの締め切りを超えつつある原稿が、びっくりするほどうず高く積みあがっている。

 あす、いや正確にはきょうの日曜日は、日帰りで新潟で講演だ。
 こりゃ、新幹線のなかはずっとモバイル・パソコンだなぁ。


(2005年、平成17年4月24日・日曜日、午前6時すぎ記)

青い海の夜想

2005年04月16日 | Weblog
 ホームページに書き込む時間が、どうにも作れないのだけれど、こんな地味なサイトにアクセスしてくれるひともいるので、それにはどうにかしてお応えしたいのです。
 そこで、ただのメモみたいな書き込みになっちゃいますが、すこしだけ。

▼4月4日の月曜

 朝、自宅を出て、羽田空港へ。
 まさか、このまま自宅に1週間まるごと帰れなくなるとは夢にも思わずに…。

 大阪に到着してテレビ出演。

▽マスメディアをめぐる、ぼくの何でもない前の書き込みに、思いがけないほど強い気持ちのこもった電子メールや、掲示板への書き込みや、ブログへのコメントをいただいた。
 それへのお答えは、もうすこし時間ができてからにします。
 ただ、いただいたメール、書き込み、ブログの強い支えには、ちょっとびっくりしつつ胸の奥が熱くなりました。こころから、ありがとう。

▼4月5日の火曜

 午後に帰京、独立総研へ。
 TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の取材と執筆で、徹夜になり、帰宅できず。
 レポートは未完。

▼4月6日の水曜

 朝、ふたりの主任研究員とともに、防衛庁の技術研究本部へ。
 ある政府機関から委託されている研究プロジェクトで、ヒヤリング。
 終了後、ぼくだけはそのまま防衛庁にとどまり、午前と午後、会うべき幹部たちに会う。

 そのあと独立総研へ戻り、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の取材と執筆を続行。ふたたび徹夜になり、帰宅できず。
 レポートは未完。

▼4月7日の木曜

 独立総研・社長としての雑務などを、まずまずこなしつつ、古巣の共同通信のための原稿などを書いて送稿しつつ、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の取材と執筆を続行。
 またまた徹夜になり、帰宅できず。
 それでもレポートは未完。

 独立総研から会員に配信しているTCR(東京コンフィデンシャル・レポート)は、当事者に直接聞いた第一次情報を盛り込むのはもちろんだけど、裏付け取材も、分析も、予測も、そして文章もベストの水準と自分で思えるところまで高めないと、会費を支払って購読されている会員には、とても送れない。

 だけど、こんなに苦闘になってしまった号も初めてだ。

▼4月8日の金曜

 まえまえから『この日の昼』と決めてあった、独立総研のお花見をひとまず中止し、お花見のあとの昼食会もレストランの予約をキャンセルし、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の取材と執筆を続行。

 夕刻、苦吟し抜いていた224号(小泉政権の行方についてのレポート)をようやくにして脱稿・完成させ、全会員へ配信。

 そのあと、もはや遅い時間になっていたけど、独立総研の社員たちと千鳥ヶ淵の夜桜を見にいく。
 帰国子女が多いので、社員にとっては「にほん」に触れる良い機会だ。
 幸いにちょうど満開で、掛け値なしに素晴らしかった。

 この千鳥ヶ淵の桜を舞台にして、ぼくのほんとうの処女小説「夜想交叉路」を書いた。
「文學界新人賞」の最終候補に残ったけど、山田詠美さんら審査員の強い拒絶にあって落選し、印刷もされなかった小説ですね。

 夜桜をさっと見たあと、みんなで軽く呑み、ふたたび独立総研へ帰る。
 講演のレジュメづくりや、「ヨミウリ・ウィークリー」の連載コラム執筆で、やっぱり帰宅できず。嗚呼(ああ)…。

▼4月9日の土曜

 夜遅く、ようやく帰宅する。
 独立総研から自宅までは、車で15分くらいの近さなんだけど、とにかく帰れなかったナァ。
 帰宅しても、原稿の執筆で、また徹夜になってしまった。

▼4月10日の日曜

 午後になり、すこし昼寝をすると、もう起きあがれない感じになり、ベッドの上で苦しんでしまった。
 なんとか起き出して、自宅からスポーツ・ジムへ。
 無茶かなと思ったけど、フル・メニューでバーベルやダンベルを挙げ、腹筋や背筋の運動をやり、さらにプールで泳ぐ。

 帰宅すると、身体が生き返っている。
 無理しても行って良かったなと思いつつ、原稿でまた徹夜になってしまった。

▼4月11日の月曜

 朝、自宅から羽田空港へ。
 大阪に着くと、まずプールで泳いで全身を目覚めさせてから、テレビに出演。

 中国の反日暴動などについて、ぼくなりにお話しした。
 自己評価としては、納得できない出来だったけど、その部分(数分間)の視聴率がポンと高くなっていて、みんなの関心の強さを感じた。それは嬉しかった。
 視聴者は、ちゃんと見てくれている。
 局のスタッフも、いつも通り、とてもまじめに奮闘してくれている。

▼4月12日の火曜

 午後、帰京し、独立総研へ。
 今週は、このまま帰宅できないなんてことを繰り返したくないナァ。

 社長の実務、雑務のほか、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の次の号(225号)の取材と執筆。
 帰ろう、帰ろうとしつつ、夜が明ける。
 朝になってから帰宅。

▼4月13日の水曜

 自宅近くで、たいせつな情報源と会い、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)225号の取材と執筆。
 レポートは未完。

 夕刻、東京プリンスホテルへ行き、独立総研の社員のうち3人と共に、政治記者だった時代に担当していた自民党のある派閥のパーティに出席。
 武部勤幹事長らと、亀井静香さんらの挨拶が、郵政民営化をめぐって真正面から食い違っている。
 何人かの議員から「まさか解散はないよね」と問いかけられる。

 終了後、社員と共に独立総研へ帰る。
 TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)225号の取材を続行しつつ、古巣の共同通信のための連載原稿などを書き、また徹夜。

▼4月14日の木曜

 朝5時ごろに、ようやく帰宅。
 沖縄へ出張なので、朝7時には迎えの車が着てしまう。
 朝6時ごろから仮眠、目が覚めたら7時10分。10分で出張の用意と身支度をして、車に飛び乗り、羽田へ。

 独立総研の秘書室長とふたりで沖縄へ。
 那覇に着くと、昼ごはんにソーキそば(琉球そば)や沖縄名物の「海ぶどう」や「島らっきょう」を食べて、オリオン・ビールの生を飲んだ。
 それは、とても幸せだった。
 だけど観光などはせず、昼食のあとホテルに籠もって、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の取材と執筆を続行。
 レポートは未完。

 夕刻から、沖縄県庁の国民保護担当のひとびとと会食。
 7月に那覇で行われる「国民保護フォーラム」で講演するので、その打ち合わせがほんらいの目的だった。
 しかし話は、沖縄にとって自衛隊とは何か、沖縄にとって尖閣紛争とは、反日暴動とは何か、沖縄にとって米軍再編とは何か、そして沖縄にとって戦争と平和とは何か…などなど、戦後日本の歩みの根っこにかかわる話が尽きず、ついに6時間たっぷりと話し込んだ。
 想像をしないほど中身の濃い、深い意味のある会合になった。

 日付が替わってから、ホテルへ戻る。
マッサージを頼んで受けているうちに寝込む。

▼4月15日の金曜 その1

 朝、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)225号の取材と執筆を続行。
 まだ未完。

 昼から午後2時過ぎまで、沖縄県経営者協会が主催する講演会で、「この国の主人公が自立する」と題して講演。
 中韓の反日暴動から、ライブドア、憲法までを、ぼくなりに力を振り絞って話した。

 講演後、「別の機会に、もっと話を聞きたい」と近づいてこられた婦人団体のかた、あるいは電力会社の幹部らとすこし話して再会を約してから、個人タクシーで摩文仁の丘へ向かう。運転手さんは女性だ。

 沖縄戦のもっとも悲惨な戦場の一つとなった摩文仁の丘は、沖縄へ来るたびに訪れている。
 きょうは、ニューヨーク育ちの秘書室長(24歳、女性)に沖縄戦の現場と、青い海を見せるためもあった。

 沖縄のひとびとが断崖から身を投げた摩文仁の丘の、その向こうの海は、あまりにも美しかった。
 海と断崖へむかって、何度もなんども手を合わせて祈る。
 ここに建立されている「平和の礎(いしじ)」(碑の一種)には、命を奪われた日本国民や日本兵の名前だけではなく、敵であったアメリカ兵やイギリス兵の名も一緒に刻まれている。
 世界を見てきたぼくも、こんな敵味方を超え、兵士と民間人の区別も超えて、慰霊の名を刻んだ碑は、この摩文仁のほかに見たことはない。
 世界中の人にみせたい、平和祈念公園だと思う。

 摩文仁を去り、近くで軽く食事をしてから、個人タクシーで空港へ向かう。
 あらかじめ女性運転手さんに「空港へ向かう途中、白梅の塔へお参りしますから」と頼んであった。

 近くには「ひめゆりの塔」もある。
 白梅の塔、ひめゆりの塔のいずれも、日本軍兵士の看護に駆り出され、爆死したり自決したりした高等女学校の女性徒たちの慰霊碑だ。
 ひめゆりの塔は二度にわたって映画化されたこともあり、訪れる人が絶えないけど、白梅の塔は、犠牲者の近親者や友だち以外には、ほとんど訪れる人がない。
 ひめゆりの塔は観光客や修学旅行生でいっぱいだけど、白梅の塔は、いつもひっそり静まっている。

 ぼくが初めて沖縄を訪ねたのは、共同通信に入社してまもないころ、26歳ぐらいの新人記者だったときだ。
 きょうと同じく個人タクシーに乗ると、ぼくが若い記者だと知った運転手さん(このひとは男性)が、この白梅の塔へ連れてきてくれた。
 ぼくは、ひめゆりの塔は事前によく知っていたけど、白梅の塔は、その存在を何も知らなかった。

 運転手さんは、塔の裏手へ回り、塔の下部の扉を開いた。
 そこには、女学生たちの頭蓋骨や腕や足の骨が、白く、うずたかく積まれていた。
 塔の横には、この沖縄第二高等女学校の女性徒たちが自決した壕が、黒く深く開いていて、そこへ入って写真を撮ると、はっきりと女学生とわかる顔がいくつも写り込んだ。

 それ以来、白梅の塔を忘れたことはない。

 去年のこと、やはり講演のために沖縄を訪れて、ひさしぶりに、この白梅の塔へお参りした。
 雨の降る、冷たい、暗い日だった。
 塔の横手に、納骨堂が新設され、ぼくの目撃したお骨はすべてそこへ移され、あの扉はもう埋められていた。
 だけども、自決の壕は、そのまま残っていた。
 一歩、二歩と石の階段を、暗い底へくだろうとするのだけど、どうしても恐ろしくて、降りることが去年は、できなかった。
 二歩だけ降りたところで、手を合わせ、ふと気づくと、ただ一輪の白百合が首を伸ばすように壕の入り口近くに咲いていた。

 タクシーに戻り、出発するとき、その白百合を遠く見ると、首を折るように、花が急にうつむいているのが、はっきりと目に焼きついた。

 きょうは、晴れた日だった。
 去年の雨の日と同じく、誰も訪れている人はいない。
 塔や納骨堂に手を合わせていると、抑えようもなく涙が噴きこぼれた。

 同行している秘書室長と、自決の壕へ向かった。
 去年に白百合が咲いていた、入り口近くの場所に、きょうは花のない百合の茎が伸びていた。
 あの白百合だと、ぼくは確信し、すこし手を触れた。

 きょうも正直、恐ろしかったけど、日射しのあることに勇気づけられて、階段を一歩、二歩と下り始めた。
 階段の一歩目から、強烈な霊気に満ちている。
 降り始めて、女性徒たちの魂のために、このまま降りることがよいのか、降りないことがよいのか、おのれの魂と、それから満ちている霊気に、懸命に問いかけた。
 そして、ぼくは意を決して、降りていった。

 卒塔婆が一本だけ置かれた暗い底で、祈りを捧げて、ふり返り、光の射しこむ壕の入り口を仰ぐと、若き女性秘書室長が入り口からすこしだけ離れて眼を閉じ、一心に祈っているのが見えた。

 それでよい、とぼくは思った。
 ミドル・ティーンで命を失った女性徒たちだ。
 成人した女性、生きて人生を歩んでいる女性をみると、きっと嫉妬を感じるだろう。
壕に入らず、謙虚に入り口の近くで控えて、祈っていてほしい。
 ぼくは秘書室長に、その思いを何も語っていなかったけれど、彼女は、思いやりの深い性格のまま、自然にそうしていた。

 そして、その女生徒たちの嫉妬は、おかしな言い方だろうけど、正しい嫉妬だと思う。
 嫉妬して当然だと思うからだ。
 ぼくは、非力ながら、その想いを受け止めたいと思っている。
 受け止めて、ぼくが私心を去って世に尽くすための、力のひとつ、支えのひとつにさせていただきたいと思っている。

 個人タクシーの女性運転手さんは「誰か、親戚の方がいらっしゃるんですか」とぼくに聞いた。
「いえ、係累は誰も沖縄にはいないんです。初めて沖縄に来たときに、偶然にここへ連れてきてもらって」と答えたが、運転手さんは『なぜ、わざわざここへ?』という感じで、すこし首をひねっていた。

▽ぼくは、もともと沖縄が心の底から好きだ。
 南の島の風や空は、おおくのひとがそうであるように大好きだけど、沖縄の悲惨な戦史との出逢いは、ぼくの運命の一つだと、勝手に思わせてもらっているのです。

 そして、不思議なご縁はやっぱりあるようだ。
 去年も沖縄から講演の依頼が2度あったけど、ことしの4月から7月にかけては、なんと4回も沖縄で講演する。

 ぼくはスキューバ・ライセンスを持つダイバーでもあるので、7月の講演のときには、久しぶりに潜りたいとも思っている。4回のうち1回は、沖縄本島ではなく石垣島だし。
 沖縄の海は、ずいぶんと環境破壊もされたけど、それでもダイバーにとって世界でもっとも美しい海であることには変わりない。

 それにしても、アメリカ軍だけではなく日本軍にも追われた沖縄のひとびとが身投げをした、あの断崖の向こうの海は、あまりにも美しかった。

▼4月15日の金曜 その2

 夜遅く、沖縄から羽田に帰着、珍しくまっすぐ自宅へ。
 あすの朝はまた、羽田に向かい、今度は神戸での講演へ向かう。

 摩文仁の丘で拾ってきた小石を、亡き父の遺髪を祀って水を捧げている小さな場所に置き、一緒に祈りを捧げた。

 ほんの15分ほどだけホームページに書き込むつもりが、摩文仁と白梅の塔に触れていたら、もう午前5時に近い。
 さあ、すこし寝なきゃ。
 あの女生徒たちのためにも、すこしでも眠って、力を回復させて、また元気に羽田へ向かわなきゃ。
 講演を待ってくれている人たちは、それがどの地方であれ、どうやってわたしたちの平和を創るのか、どうやってわたしたちの真の独立と、自立と、自由と民主主義を育むのかを、ぼくに問うために待っていてくれるのだから。


すこし、哀しい、すこしだけ

2005年04月05日 | Weblog
 ときどき、あることなんです。
 よいこととも、思わない。
 だけれど、徒労感に襲われてしまう。
 戦意を維持するのが、ちょっと、たいへんになる。

 ぼくは独立総研の社長室で執務するとき、なるべくドアを開けている。
 ひとりで閉じこもって仕事をするタイプじゃないし、なにより、社員・スタッフの気持ちのためにそれがいいと思うから。

 だけど、こういうときはドアが閉まっているほうが、すこしだけ気が楽だったりする。
 独立総研の社員・スタッフはみな、まさしく志を持って、きょうも奮闘してくれている。身内への社交辞令なんぞでは、ありませぬ。

 けれども、ぼくの担っている『発信する』という役割については、もちろん主としてぼくの非力のせいだけど、日本のアンシャン・レジューム(旧体制)は、ありのままに言って手応えが乏しい。反応がほとんど変わらない。

 それでもたとえば、独立総研から配信している「東京コンフィデンシャル・レポート」(TCR)の会員が少しづつ、ほんとうに、少しづつながら増えていったり、かすかな変化はある。

 春の夜、そのTCRの第224号と225号を仕上げるあいまに、最近のことを点描してみたい。


▼3月25日 金曜

 午前、経団連会館で、エネルギー・インフラをテロから護る研究プロジェクトの、年度末の報告会を開く。
 ぼくが三菱総研の時代に開始した、もう実質的に5年ほど継続しているプロジェクト。独立総研にとっても根幹を支えるプロジェクトのひとつだ。
 全国からエネルギー関係者を集めて、ことしの成果を話しあった。

 そのほかに、やはり年度末を迎えた研究プロジェクトの報告書締め切りが3件いちどきに、この日に来た。
 みなで力を振り絞るように、仕上げを急ぐ。

 そんななかではあるけれど、夕方から夜にかけて京都大学の学生たちが、ぼくへのヒヤリングのためにやってきた。
 独立総研の社長室で予定時間を超えて、この国や世界のあり方から、にんげんの生き方まで、たくさんお話をした。
 こういう情熱のある若い人たちに対して、時間とエネルギーをたくさん割くのは、とうぜんです。


▼3月27日 日曜

 年度末を乗り切るために、日曜の独立総研に、みんなで集まって、徹夜作業。


▼3月28日 月曜

 徹夜のまま、大阪へ。
 視聴者に、あまり、ぼけた顔も見せられないので、まずはプールで泳いで全身を目覚めさせる。
 そのあと、在阪のテレビ局へ。
 レギュラーで参加している、午後の番組に生出演。

 出演のあと、やすむ暇もなく、巨大な公共事業体へ。
 新しいテロ対策について、打ち合わせ。
 そのあと、エネルギー関係者との会食へ。2次会も付きあう。


▼3月29日 火曜

 東京に戻り、年度末のいろいろな仕上げに追われる。
 夜、独立総研・研究本部・自然科学部の研究員志願者と面接。
 人柄が良く、専門能力も期待できる。
 期待できる人材だと、ぼくの質問は厳しくなる。


▼3月30日 水曜

 午後、霞ヶ関で、ある政府機関から委託された重要プロジェクトの会議を開く。

 夕刻から主任研究員とともに、イギリスの駐日大使館で開かれた、大使・公使らとの花見パーティに出席。
 終わり間際に、EUに勤める英国人と激しい議論になる。
「竹島をみても、尖閣をみても、戦後の日本は揉め事ばかりを引き起こしてきた」と言い募る、この若いEU官僚に、真っ向から反論したが互いにカケラも合意できずに終わった。

 桜は、ほとんど咲いていない。
 胸のうちも、身体も、寒かった。


▼4月1日 金曜

 朝、アメリカから来た国防関係者と、防衛庁へ。
 彼とはワシントンDCで、まだ一度会っただけだ。

 防衛庁の幹部たちと、新しい時代へ向けての会談を持つ。
 独立総研の主任研究員が同席。
 防衛庁の幹部たちが、どうやらこの主任研究員(26歳の女性)を通訳か何かと勘違いしてる気配があった。そこで、彼女へ発言するように振ると、みごとな戦略性に富む発言をして、みていて気持ちがよかった。
 ほんとうに成長したなぁ。

 昼、この国防関係者、主任研究員とぼくの3人で、汐留の雲に近いような高さにある(つまり超高層ビルのトップ・フロアにある)日本レストランで、おいしい昼食。
 アメリカ人らしい率直さと正直さと、そして厳しい戦略を持ったこの国防関係者はぼくに、「中国の潜水艦は、ほんとうはなぜ、日本の領海を侵したんだい」と聞いてくる。
「中国は、いよいよ東シナ海の日中中間線の日本側で、海底資源を奪取に動こうとしているから、そのまえに、アメリカ海軍と海上自衛隊の反応をみようとしている」と答えた。

 内心で、日本のほんとうの友達はやはりアメリカしかないなぁ、と思わざるを得なかった。
 まず、いつも率直な、本音の話ができる。
 ぼくの話す英語が「米語」だというせいもあるだろうが、やはり、自由な魂が互いの根っこにあることが大きい。

 この国防関係者は、「青山さんと独立総研のことを調べてみたよ」とも、あっさり言い放った。
「日本の役人には、青山さんを危険人物だと言う人もいたけどね」と笑い、「結論として、たいへんに信頼できるのが青山さんであり、独立総研だと分かったから、やってきたんだ」と続けた。
「調べてみたよ」といったときの彼の眼は、それまでの柔和な眼の色とは一変して、笑いがなく、はっとするほどシビアな色を放っていた。
 もちろん諜報機関も使っているわけだが、それを隠さない。
 そのあたりも、ある意味で、わかりやすい。


 こういうとき、ぼくはいつも、学生時代に競技スキー(アルペン種目)に打ち込んでいたときのことを思いだしてしまう。
 カナダで滑ると、リフトに乗っていても、隣のカナダ人はあまりフレンドリーではなく、リフトでは退屈だった。
 アメリカで滑ると、リフトで隣り合わせたアメリカ人はいつもフレンドリーで楽しかった。
 地獄のイラクで、虐殺作戦に従事するアメリカ人を見たぼくでも、このアメリカ人の親しみやすさは、胸の中から去らない。  

 午後、敬愛する元財務相と会う。
 独立総研の若き秘書室長(24歳の女性)が同席。
 原油価格の高騰から、郵政民営化の動きまで、ぼくも驚くような裏話を聞く。
 もう政界を引退されている、このひとの鋭い分析力や、日本の改革への志に、内心で感嘆した。


▼4月2日 土曜

 年度末の過酷なスケジュールでたまった疲労が、さらに深まっていることを感じつつ、朝、飛騨の高山へ向かう。
 独立総研の上席研究員が同行。

 午後、飛騨のホテルで開かれた「春期経営セミナー」で講演。
 ぼくの疲労が深かろうが浅かろうが、会場へ足を運んでくださった聴衆とは一切、関係がない。
 だから、力を振り絞って2時間強、お話しした。

 終わってすぐ、やすまずに、本にサインをし、並んで待ってくださる希望者のかたがたに手渡す。
 そして、そのまま懇親会へ。
 3次会まできっちりお付き合いして、部屋ですこし眠る。


▼4月3日 日曜

 せっかく飛騨まで来たのだから、山や町並みを見たかったけど、朝にかるく湯に入っただけで特急電車に乗る。
 名古屋で新幹線に乗り換え、東京駅へ。
 正直、そのまま帰って休みたい気もしたけど、約束通りに新宿へ。

 疲れた身体に、日曜の新宿の雑踏はなかなか辛い。
 かきわけるように、デパートのなかの和食屋さんへ。

 ぼくは学生時代に、恵泉女学園短期大学スキー部のコーチをしていた。
 このスキー部が創部されるときに、部の立ち上げを含めて手伝った。
 そのスキー部の何代目かのキャプテンが、だんな様と子どもたちを残して、若くしてクモ膜下出血で突然、逝ってしまった。
 その偲ぶ会に出席する。

 悲しい会ではあるけれど、OGたちがみな、なぜか年をとらず若くて、きれいなお母さんたちになっているのは、うれしかった。
 逝ってしまった元キャプテンや、それから会を主宰した初代キャプテンの人徳だろう、ずいぶんとたくさんのOGが集まってくれた。

 ほんのちょっとだけ会費を寄付し、それから持参したぼくの本2冊にサインをして、じゃんけんで勝ったひとにささやかに贈りました。
 みなが本気でサイン本を欲しがってくれたので、すくなからず驚いた。


▼4月4日 月曜

 疲労がまったく抜けないなかを、朝、大阪へ。
 大阪へ着くと、先週の月曜と同じく、まずプールで激しく泳いで、眠気と疲労を振り払う。
 そして在阪のテレビ局へ。
 レギュラーで参加している番組に、生出演。

 実はこの出演が、徒労感のひとつのきっかけに、なっちゃった。
 この番組は、楽しみに見ていただいてる視聴者も増えているし、スタッフはみな努力家で気持ちのいい頑張りやさんだ。プロデューサーの冷静な判断も的確だと思う。

 ただね、たまぁに、がっくりくる。
 この日は、テレビ局が放送前にやる街角のアンケートで「関心ナンバー・ワン」になったのは、ローマ法王(正確には教皇)が亡くなったことだった。
 しかし、ぼくを含めた出演者との打ち合わせで、ディレクターが言ったのは「ローマ法王の話は、まぁ短めに」。
 つまり、『この番組の主な視聴層である主婦はローマ法王のことなんか、そう関心はないでしょう』ということなのか。

 しかし、現に、主婦のかたがいっぱい加わっている街角アンケートで、ライブドア騒ぎも抑えて堂々の1位になっている。
 視聴者の関心のあり方を、そんなふうに、決めつけていいのかなぁ。

 このディレクターとの打ち合わせでは、ほかの出演者(お笑いタレントのかたが多い)は、あまり聞いていないことが多い。
 テレビ出演が本業の人びとだから、それはそれでよいと思う。
 ご自分のペースをちゃんと掴んでいる、プロ中のプロの人びとなのだから。

 ぼくは、テレビが本業じゃないので、このうち合わせをあくまでも真剣に聞く。
 それに、ぼくは見かけとは違うのかも知れないけど、ワンマンタイプではなく協調型なので、ディレクターの要望は、あくまでも尊重する。

 本番が始まって、ローマ法王の話題になったとき、ぼくの頭にはしたがって「時間を短く」ということが、しっかりインプットされている。
 ぼくは、フロア・ディレクターの様子やカンペ(指示を書いた紙)もよく見る。
 スタジオは明らかに「ローマ法王なんて、短めに」という雰囲気のままだ。

 メイン・キャスターのベテラン・アナ(関西では一番人気の、ほんとに素晴らしいアナ)は、「青山さん、ローマ法王と知り合いで?」という振り。
 もちろんジョーク。
 実際には、サン・ピエトロ広場でヨハネ・パウロ2世の祝福を受けたことがあるのと、出張に出かけたついでに、ポーランドでレンタカーを運転してこの法王の故郷の村を訪ねたことがある。

 その話を短くしたあとに、「ひとつだけ、話させてください」とひと言、はさんで、次のようなことを話した。

「このローマ法王は、冷戦を壊した人のひとりで、世界平和に貢献した人ですね。日本だと、こういう人は故郷のことよりも世界を考えた人、という風に考えがちです。だけど、実際のヨハネ・パウロ2世は、むしろ故郷、祖国ポーランドの愛国者であることに、こだわった人でした。だから法王になった直後に、まずポーランドを訪ねてワレサ議長に会った。だから、ワレサ議長は自主管理労組の『連帯』をつくることができて、その運動がポーランドの社会主義体制を壊して、それが東ヨーロッパ全体の社会主義を壊すきっかけになって、そうやって社会主義が終わって冷戦も終わったんです。日本では愛国者というと、まるで右翼みたいな受け止め方をされるけど、ほんとうは自分の故郷や原点をあくまでも大事にして、愛国者であることが世界の平和をつくるんです」

 出演者から、ああ、なるほど、という反応もあった。
 だけど、ぼくの頭には『早く話をおわらせなきゃ』という思いが、こびりついてる。
 上に書いたことは、実際におおむね言えたと思うけど、話というのは話者(わしゃ)の心中の微妙な思いが、びっくりするほど大きく増幅されて視聴者に敏感に伝わるものだと思う。
 だから、視聴者に説得力があったのか、伝えるべきを伝えられたのか、ぼくには自分の話っぷりに納得できない思い、もどかしい思いが残った。

 主婦はローマ法王に関心がないなんて、その思い込みは間違っていると思う。
 視聴者は主婦であれ誰であれ、むしろ、ちゃんとした話を聞きたいと願っているひとも多いと、ぼくは感じる。
 だけどマスメディア、特にテレビは、どうやら、あまりそう思っていない。
 その厚い壁を突き破るのは、ぼくの能力の問題とは限らない。
 ぼくが、元は中央省庁の官僚だったり、いま大学の教授だったりすれば、つまり既存の権威がくっついていれば、もうすこしマスメディアも耳を傾けてくれるだろう。

 だけども、元官僚でもなく大学教授でもなく、独立総研という文字通りに既存権威から離れて創立した新しいシンクタンクの社長なんです。
 だから、権威が好きな日本のマスメディアはほんとうは、ぼくの話なんぞ聞く耳をあまり持っていない。

 独立総研は、まちがいなく、これからもやっていける。
 このシンクタンクに調査・研究を委託してくるクライアント、すなわち政府機関や自治体や企業は、その新しい値打ちを評価して発注してくるのだから。
 だけど、発信者としてのぼくは、さぁ、このガチガチの権威主義で塗り固められた日本のメディアで、どこまでやっていけるのか。

 不安というのではない。
 もう勝手にすれば、というような徒労感が、ときどき襲ってくる。


★この夜、テレビ出演を終えて泊まった大阪の定宿のホテルで、短編小説の執筆について新しい着想があった。
 もう3年近く前から呻吟して、脱稿していない小説だ。
 疲労感が深かろうが、徒労感がたまにあろうが、ま、要は関係ない。
 残された生を、せいいっぱい私心を捨てる努力をしつつ、ただ生きて、死ぬだけだから。

 支えてくれるひとも、ひとたちも、いる。
 でもね、ごめんね、正直に言わせてくれ。
 いや、言わせてください。
 もの凄い孤独感が、ぼくを、ほんとうは、襲う。

 みんな、がんばれ。
 ぼくは、このへんで、さようなら。
 そう、言いたくなる。

 もちろん、言いたくなるのと、ほんとに言っちゃうのとは、違う。
 言わないよ。



 ふひ。