Our World Time

ヨーロッパは明るい初夏、日本は梅雨をまえにした薄曇りでした

2005年05月30日 | Weblog
▼いま5月30日月曜日、午前0時40分です。
 きのう29日の日曜の午後、ぶじ帰国しました。

 4泊5日、うち機中2泊という超強行日程でデンマークとスウェーデンに出張してきたのですが、仕事をほぼ満足のできる水準で終えたあと、わずかな時間ながらコペンハーゲンの運河のそばで市民たちと一緒に日射しを浴びて、おいしいアスパラ・サラダを食べる時間もありました。


▼成田空港から、スポーツ・ジムへ直行して、バーベルやダンベルを使いトレーナーの指導付きでいつもの日曜日と同じく少し鍛えてから、スポーツ・マッサージを受けました。
 疲労が激しかったけど、これですこし生き返りました。

 あすはまた大阪へ飛んで、関西テレビに出演です。
 公共事業体との新しい協議もあります。


▼出張中のようすは、いずれまとめてアップします。
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白夜の夜明け

2005年05月26日 | Weblog
▼デンマークの首都、コペンハーゲンに入りました。
 いま現地時間の5月26日木曜日、午前3時35分。
 ホテルの窓から、太陽が完全には沈みきらない白夜のうす青い空が、遠く地平線にみえています。
 足もとの街は暗く、寝静まっています。

▼25日の未明3時まで、独立総合研究所で仕事をして、3時すぎに帰宅。
 原稿の執筆を続けながら、荷物をパッキングし、徹夜のままシャワーを浴びて、8時20分ごろに自宅を出発。
 成田へ向かう車のなかでも、空港のラウンジでも、書きっぱなしに原稿をモバイル・パソコンで書き続け、飛行機に搭乗する1分前に、独立総研から会員に配信しているTCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の第231号を、無事に送信できました。

 ホッとするまもなく、機内でも再び、原稿を執筆。
 溜まりに溜まっているマイレージを活用してファースト・クラスに乗っているのに、ほとんど寝ることなく、原稿を書き続けます。
 いつものように、フライト・アテンダントに「みなさん、おやすみになっているのに、ほんとうに大変ですね」と本気で同情されちゃいました。

 しかし原稿を書きながらではあっても映画を4本、ちらちら眺め、シャンパンからリキュールまでどんどん呑み、食事も4回ぐらいして、フランクフルトに着くまでに原稿5本を完成。


▼同行の、独立総研の若き、戦う主任研究員(26歳、女性、シアトル育ち)と一緒にフランクフルトに着いて、スカンジナビア航空に乗り継ごうとすると、これが突然、キャンセル(飛行中止)になっています。
 日本以外の国では、必ずあるいつものトラブルがさっそく発生です。

 3時間ほどあとの便に、なんとか席を確保して、ラウンジで原稿を書くうちに、日本時間は夜中を過ぎて未明の時間に入り、さすがに睡魔がどっと登場です。
 ファースト・クラスのフルフラットのシートでは、ほとんど寝ないで、あまりきれいじゃない空港の小さな椅子で、苦しい仮眠とはね。まぁ実際、ご苦労な話です。


▼コペンハーゲン行きの小さな飛行機に乗ってからは、原稿を書きつつも、隣席の主任研究員とジョークで笑い転げているうちに、ひさしぶりのデンマークへ到着です。

 ホテルは、アイゼンハワー大統領や昭和天皇、ビートルズやローリングストーンズも泊まった有名なホテルです。
 北欧らしい不思議な澄んだ感覚のインテリアの部屋で、すこし休んだあと、また起き出して、いまも原稿を書いています。


▼白夜の夜が明ける神秘の時間になってきました。
 わずかな茜の色と、柔らかなベージュの色が地平線に勢いを増しています。

 さぁ、原稿を仕上げて、朝風呂に入って、主任研究員と朝ご飯を元気に食べて、最初のヒヤリング調査へ出かけます。



 
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そのうち、どーんと更新します。

2005年05月24日 | Weblog
▼いま大分市内のホテル19階にいます。
 5月24日火曜日の午前3時40分。

 窓の外の街は寝静まっていて、遠くに港の灯りがみえます。
 高い階だけど、窓がすこしだけ開くようになっていて、外気を感じるのがうれしい。

 きのう23日の月曜に、この大分で講演をしました。
 大分県の経営者協会のお招きです。
 去年の9月に、ほんらいは講演するはずで、当日、羽田空港に向かうと台風で飛行機が飛ばない。それでも、とにかく向かうべきだと考えて新幹線に乗り換え、風雨を突いて福岡に着き、そこから在来線で大分に向かったけど、列車もストップ。
 それじゃレンタカーで向かおうと、どこかの駅前で探し回ったけど、どこのレンタカー屋さんも車がない。
 ようやく一台だけあるところを見つけて、乗り込もうとすると、講演先の経営者協会から「台風がまっすぐ大分に向かっているので、聴衆がみな帰らねばなりません。講演は中止です」と連絡があり、そのまま空しく東京に帰ったのです。

 ことしに入って、その講演をやり直しましょうと連絡があったら、なんと関西テレビの「2時ワクッ」という番組にレギュラー出演している月曜日。
 困ったなぁと思ったけど、「何よりもご縁が大切です。こういう負の連鎖みたいなものを、一度断ち切って良いご縁にするためにも、番組をあえてお休みして、講演をお受けします」と返事をしました。


▼だから、「2時ワクッ」のスタッフと、視聴者には、ほんとうに申し訳なかったけど、講演を無事に行うことができました。

▼このごろは、いつもの超絶多忙に加えて、耳痛にちょっと苦しんでいて、このブログも、更新できないでいます。
 しかし大丈夫です。
 25日の水曜から、デンマークとスウェーデンに出張します。

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ささやかな人生で、おそらくは転機になる11日間(その1)

2005年05月05日 | Weblog
▼2005年、平成17年4月24日の日曜日

 午前4時ごろだったか、そのすこし前だったか。
 自宅の書斎で徹夜をし、「東京コンフィデンシャル・レポート」(独立総研から配信している会員制のレポート)を執筆しているとき疲れが激しくなり、いったん電灯を消して机の脇にあるベッドに仮眠をとるために潜り込むと、部屋に誰かがいる。
 正確に言うと、誰かの魂が明らかに部屋のなかに来ている。
 恐ろしくて、顔をふとんに潜り込ませる。
 このごろ何度も沖縄に行っているから、沖縄戦で亡くなったひとかなぁ。
 いや、もっと最近の人の感じもするな。
 そう思いつつ、顔を出せない。

 しかし、その人も去ることがなく、とうとう仮眠を諦めて、霊気が満ちているなかで起きあがり電灯をつけ、仕事を再開するが、執筆は進まない。

 やがてシャワーを浴びて、東京駅へ。
 上越新幹線に乗り、新潟へ向かう。
 独立総研の上席研究員が同行。
 いつも飛行機だから新幹線は新鮮な感じがして、できれば窓の外を流れる景色をぼんやり見ていたい。
 もともとは、それが好きだから。

 しかし、そういうわけにもいかず、モバイル・パソコンの小さな画面とにらめっこ。
 東京コンフィデンシャル・レポートの配信がこのごろ滞っているので、その執筆を続ける。

 新潟駅に着くと、新潟県庁の人が出迎えてくれる。
 タクシーで、新潟の県と市町村が共催する「国民保護フォーラム」の会場へ。
 日本の長い歴史のなかでも、初めての画期的な法体系と言っていい「国民保護法制」が昨年の9月から施行されているのだけど、まだまだ国民の関心は高くない。

 それに、この法律は、おかみ(中央政府)がやることを地方が待っていればいいのではなくて、地域の住民をテロリズムや有事から護るマニュアルを、地域、すなわち市町村がみずから作らねばならない(だからこそ、画期的なのだ)。
 それを考えても、こうしたフォーラムはとても大切だ。

 政府(総務省)の「国民保護室長」が講演したあと、ぼくが演台にあがる。
 まっすぐ真ん中からこの国と世界をみて、そして利害関係のない立場から、政府にとって耳の痛いことも含め、いつものように、たましいを込めてお話をする。
 どうやったら、わたしたちの国民国家がテロリズムに強い国になれるのか、みなが理念を感じられる国になれるのか、敗戦後60年間、わたしたちがそれなりに育ててきた「日本の民主主義」をどう根っこへ進めるのか、力を振り絞って聴衆にお話しした。

 話し終わったあと、質問を受ける。
「拉致問題の解決が暗礁に乗り上げている。打つ手がないようにみえるが、どうしたらいいのか」という切実な質問が出た。
 ここ新潟は、今ではみなが知っているように、拉致事件がなんども起きている現場だ。

「打つ手がないのではなく、打つべき手を打っていませんね。もっともいけないのは、船舶油濁防止法の改正です」と、ぼくは話を切り出した。
 会場には「おや、あの法改正はよいことのはずでは…」という雰囲気が漂う。

「この法改正によって、船が座礁して海を汚したときなどに備えて保険に入っていない船が日本に入港できなくなるから、北朝鮮の船も入れない、だから制裁と同じだと政府の高官も与党の幹部も言い、メディアもそう伝えましたね」
「そんなことはありません。逆さまです。保険に入りさえすれば、逆に堂々と入港できるようになります。現に、万景峰号も保険に入る構えです」
「制裁でもないものを、制裁かのように装って、そのために本物の経済制裁はすっかり遠のいてしまいました。もうこんな日本であっては、いけません。家族会がずっと求めているように、経済制裁をこそ発動すべきであって、それをしないで、打つ手がないなどと言えないでしょう」

「それに、拉致された、わたしたちと同じ日本国民は、いわゆる安否不明者の十人だけではありません。百人を超えているのは確実だと思われます。まず、小泉さんが、わたしたち日本は、最後の一人が帰るまで決して拉致問題が解決したとは言わない、最後の最後の一人まで必ず取り返すということを宣言して、それから、まともな経済制裁を発動すべきです」
 おおむね、こう答えた。

 講演会のあと、信濃川が目の前に広がる一室で、総務省、新潟県庁の幹部の人びとと懇談する。
 県と市町村の取り組みは、これから本格化する。志をもって奮闘してほしい。独立総研は利益を度外視して協力します。そう、伝えた。

 そして新潟駅から、新幹線に乗る。
 車中では再び、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)の執筆を続ける。続けるが、沿線を流れる夜の闇に誘われるように、かなりの時間を眠ってしまった。
 帰宅すると、深い疲れを感じるが、なんとか執筆を続ける。
 未明まで粘る。しかし、レポートは未完。


▼4月25日の月曜日

 朝、身体を引きずるように、いつものように羽田から伊丹へ。
 大阪に着くと、まっすぐ定宿のホテルへ。

 関西テレビ『2時ワクッ』の出演に備えて、ホテルのプールで泳いで心身を目覚めさせなきゃ。
 その準備をしているとき、テレビの臨時ニュースでJR西日本の通勤快速が尼崎で事故を起こしたと知る。
 まだ一報の段階だったが、記者時代の経験からして、これは大変な事故だろうと直感する。

 この事故の特番で、『2時ワクッ』の放送がなくなるかも知れないけど、『2時ワクッ』は生番組だから、このニュースを取りあげる形で番組が放送される可能性もある。
 関テレからは特に連絡がないので、そのままプールへ行く。

 事故のことを考えながら、激しく泳いで、しっかりと心身を目覚めさせて部屋へ帰ると、同行の独立総研の若き秘書室長Sちゃんが携帯電話を手に、「社長、事故の特番で、2時ワクッは放送中止になりました」
 これは、やむを得ない。

 この日は、S秘書室長に加えて、独立総研の総務部秘書室に4月に入社したばかりの新しい社員(秘書のAちゃん)も、勉強のために同行している。
 彼女は、独立総合研究所では初めての高卒の採用だ。
 独立総研は、研究本部の研究員は大学院の修士以上ないし、それと同等の学歴・研究歴が必要だけど、総務部の部員は、学歴も年齢も不問で公募している。
 二十歳の彼女は、ぼくのテレビでのコメントを見て、それから本にも目を通して、自ら考えて応募してきた。
 仕事の能力としては、まだまだ足りないところが多いけど、その志、熱意、人柄の正直さを買って、しばらくアルバイトとして働いてもらって様子を見たうえで、4月に晴れて正社員として採用した。

 そのA秘書にとっては生まれて初めての出張で、ピキーンと緊張している感じで張り切っている。
 そのときにちょうど、テレビが中止になるのは残念だけど、それでも学べることはたくさんある。

 大阪の公共事業体の幹部と会う約束があることもあり、予定通りに大阪に宿泊する。
 この幹部を公共事業体の本社に訪ねて、S秘書室長、A秘書、ぼくの3人で会い、対テロ防護の研究プロジェクトについて、ひとつ大切な申し入れをした。
 そのあとホテルに戻り、電子メールを使って、TCR(東京コンフィデンシャル・レポート)のための取材のやり直し。

 そうしていると、同じホテルの別な部屋に入っているS秘書室長から沈んだ声で電話があり、「社長、河本事務所の福崎さんが亡くなったそうです」
 あまりの驚きで声が出ない。

 河本事務所というのは、兵庫12区選出の河本三郎代議士の事務所のことだ。
 ぼくは政治記者時代に、河本派を担当した。
 担当が終わったあと、河本敏夫・元通産相と仕事を超えた、こころの通い合いがあった。
 と言っても、河本さんは総理候補だった超大物で、ぼくは一介の政治記者、それも若手記者。年齢も、はるかに違う。違うどころじゃない。世代が二世代か三世代、違う。
 それでも、ぼくは『河本敏夫さんは、その長い政治生活で、利害関係なく率直に話し合えたのは、ぼくぐらいじゃなかったろうか』と勝手に、僭越にも、思っている。
 ほんとうに僭越で申し訳ないです。
 だけど、河本敏夫さんが故人になった今だから、正直に話せるのです。

 河本三郎さんは、その三男で、後継者だ。
 ぼくと、やはり仕事を超えた親交がある。
 福崎さん、福崎富明さんは、河本敏夫さんの時代はいちばん若手の秘書だった。いまは河本三郎事務所のまさしく中核の秘書になっている。
 それでもまだ、49歳だ。

 ぼくは「福ちゃん」と呼んで、一緒にスキーに行ったり、カラオケで盛りあがったり、公私を問わず、ほんとうに気持ちを通じ合わせた友だちだった。単に友だちと言うより、かけがえのない盟友だった。

 このごろ、ぼくのあまりの忙しさで連絡を取らずにいた。
 4月13日水曜日の夜に、自民党・高村派(旧河本派)のパーティがあり、ぼくも顔を出した。いつもは実務をとり仕切る福ちゃんの姿がないので、変だな、地元にいるのかなと思っていた。
 パーティからの帰り際、ある代議士の秘書の一人が、ぼくに「福崎さんの入院、知ってますか」と話しかけてきた。
 まったく知らなかった。
 聞けば、病気一つしなかった福ちゃんが、突然に肺ガンを告知され、1月に手術をしたとのこと。
 しかし、転移はなく、手術は成功で、痩せてもいないという。

 翌日、すぐに河本事務所に「お見舞いに行きたいので」と問い合わせたが、「今はまだ面会できないんです。そのうち、落ち着いて面会可能になったら、すぐに連絡しますから。青山さんから問い合わせがあったこと、福崎には伝えておきます」とのことだった。

 だから、そのうち退院するものとばかり思っていたし、退院する前にぜひ、見舞いに行きたいと思っていただけだから、まさか訃報に接するとは、夢にも思わなかった。

 そして、ぼくは、あぁと思い当たった。
 S秘書室長によると、24日の午前0時47分に、福ちゃんは息を引き取った。
 ぼくの自宅の書斎に、霊気が満ちていたときだ。
 福ちゃん、あなただったのか、ぼくを訪ねてきたのは。

 やがて福ちゃんのお通夜と告別式の日どりの連絡があり、S秘書室長とA秘書に、ぼくの部屋へ来てもらって、なんとか参列できないか検討する。
 いまのぼくの過密日程からすると、福ちゃんのふるさと、兵庫県龍野市でおこなわれる通夜や告別式に参列するのは、まるでサーカスのような日程の工夫が必要だ。

 午前10時から告別式のある27日は、海上自衛隊の幹部学校での一年に一回の「講話」を行う日だから、どうにも無理だ。
 しかし26日のお通夜なら、文字通りに夜に行われるから参列可能だろう。ただ、この日の昼間には東京で講演があるから、ちょっと辛い、行ったり来たりが必要にはなる。

 3人であれこれ工夫をして、ようやくスケジュールを決め、河本事務所にも連絡する。
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ささやかな人生で、おそらくは転機になる11日間(その2)

2005年05月05日 | Weblog
▼4月26日の火曜日

 朝、ホテルを出て、伊丹から羽田へ飛び、タクシーで麹町へ。
『労使トップフォーラム特別セミナー』で講演。
 冒頭に、きのう起きたばかりのJR西日本の事故について、すこしだけ触れ「置き石はなかったと思う」と話した。
 この時点ではまだ、新聞各紙も「置き石が脱線原因の一つになった可能性がある」と書き、JR西日本の「レール上の白い破砕痕は、置き石とみられる」という会見内容を実質的に肯定していた。

「この段階で、置き石はなかったと申しあげるのは、冒険かも知れません。しかし、なかったと思います」と、ぼくは言った。

「あの事故を起こした通勤快速の、わずか3分前に、なにごともなく特急が通過していますね。ということは、その3分の間に、誰かが置き石をしたことになります。だけども、置き石というものは、小さな石ならむしろ日常茶飯事のように置かれていて、それぐらいでは脱線しません。しかも、事故現場の周りは、電車の突っ込んでいったマンションをはじめ町工場や住宅が集まっていて、すなわち人目が多い場所です」

「つまりは、午前9時過ぎという白昼に、人目の多い場所で、大きな障害物を、特急と快速のあいだのたった3分間で、誰かが素早く手品のように置いて、目撃もされずに去ったことになります。こんなことは、ほぼあり得ません」

「JR西日本は、記者会見で、ほかのことはすべて、まだ分からない、現時点では分からないと言いながら、可能性の極めて少ない置き石だけは、その可能性が強いと言い切りました。置き石がほんとうだったかどうかは、いずれ結論が出るでしょう。その結論が何かは、今はまだ言い切れません。しかし事故直後のいまでも、すでに言えることは、JR西日本が明らかに、姿なき『置き石犯人』に責任を転嫁しようとしていることです」

「これが人の道、正義にもとることはもちろんです。そして、きょうの受講者のかたがたは企業の幹部のかたも多いから、もう一つを言っておきましょう。JR西日本の、あの愚かな記者会見は、危機管理から言っても、まったくの間違いです。記者会見は、危機の続きではなく、危機回復の第一歩です。その第一歩で、このような責任転嫁をしたことは、必ずあとで問題になり、かえってJR西日本という巨大企業を追いつめるでしょう。みずから首を絞めているのです」

「ぼくがいま言っていることが正しいかどうか、やがてみなさんは検証できます」
「怒りが込みあげてきて、この話だけで講演が終わってしまいそうですから、もうこの件はやめておきますが、余談をすれば、取材記者にも注文がありますね。なぜ記者会見で、冷静に、そんな3分間の手品のような置き石はあり得ないだろうと質問できなかったのか。なぜ、置き石があり得るかのように記事を書いて、それが新聞紙面に載っているのか。事件事故の取材という、メディアの取材力にとってもっとも基本になる力が衰えているのを感じます」

 ぼくは、胸のうちで、ほんとうに怒りに震えていた。

 このあと、ふだんの講演内容に戻り、午後2時45分ごろに終了。
 大急ぎで、タクシーに乗ろうとすると、外は突然の激しい雨だ。
 雨足で白く閉ざされたような東京を走って、東京駅へ。
 新幹線に飛び乗り、また西へとって返す。
 あえて同行者は付けなかった。
 大阪を過ぎ、姫路駅で降り、日が暮れたなかをタクシーで兵庫県龍野市のお寺へ。
 年配のタクシーの運転手さんは、なにも確かめずに走り、道に迷って、暗い田んぼのなかで立ち往生。それでいて、通行人に聞くこともしない。うろうろとタクシーを走らせるだけだ。
 この国の働くひとの無責任、プロフェッショナリズムの喪失は、なにもJR西日本だけじゃない。
 事故を起こした高見運転士が若いから、「最近の若い人の働きぶりは…」という声も聞くが、いいえ、違います。
 世代の問題じゃない。年配のひと、中年のひと、若いひと、世代を問わず、日本の働き手からプロフェッショナリズムが失われつつあるのです。

 呆れながら、ぼくが通行人に聞き、お寺へ電話し、地元をなにも知らない乗客なのに道を探して、ようやくに到着。

 薄暗い通路の向こうに、お通夜がセットされた寺の境内がみえる。
 あれが、わが友のお通夜だとは、まだ信じられない。

 受付を済ませると、福ちゃんにそっくりのお父さんがいらっしゃった。
 息子の葬儀の喪主になるのは、年を召されたお父さんにとっては、どれほど辛いことだろうか。
 ぼくは深々と頭を下げ、読経の座のなかに入った。
 河本三郎代議士と、福ちゃんの若い奥さんのむこうに、お棺が横たわっている。
 代議士に「顔を見てやってくれ」と言われて、お棺に近づき、福ちゃんに会う。
 穏やかな表情だったが、ぼくは、ああ福ちゃんはもうここにはいない、抜け殻だ、魂は別のところにいる、と感じた。
 福ちゃん、あの夜、俺のところに来て、なにを言いたかったんだ。

 読経が終わり、奥さんに挨拶をしていると、奥さんが福ちゃんの最後に書き残したメモを見せてくれる。
 奥さんが差し入れた本のカバーの裏に書いてある。
 素晴らしい字で、「病気になったことを契機に、命の大切さ、愛の大切さを知った。病気にならなければ、あのまま漫然と仕事をし、毎日を過ごしていただろう」と書かれていた。
 福ちゃんの澄んだ心の眼を、ありありと感じて、ぼくは頭を垂れていた。

 お寺の隣にある福ちゃんの生家に向かいながら、「実は、福ちゃんが魂になって会いに来たようです」と奥さんに話す。
 そして「福ちゃんは、ぼくにとって、生まれる前から知っているような人だったんです」と話した。

 そう、生前の福ちゃんに一度も言ったことはないが、福ちゃんは、ぼくにとってそういう人だった。
 生まれる前から知っているから、なんとも言えない懐かしい感じのする人だった。

 福ちゃんの生家で、ひさしぶりに旧河本派の秘書の人びとと会う。
 こうしたとき、お料理に手を付けるのが礼儀だから、箸を付けるが、お腹がすいているのに一口しか食べられない。
 秘書さんたちから、福ちゃんの短くて激しい闘病生活の一部始終を聞く。
実は手術後の早い段階から、奥さんと一緒に「余命は3か月」と告知されていたのだという。
 福ちゃん、なぜ、生きている間に、ぼくに連絡してこなかった。
 ぼくのあまりの忙しさに、きっと遠慮したんだろう。
 遠慮するなよ、友だちじゃないか。

 タクシーで姫路駅へ戻り、新幹線で大阪へ。
 もう東京に戻る便はない。
 大阪の定宿のホテルに入り、朝を迎えた。
 窓の外の高速道路を、車が走るのを見ていると、福ちゃんがもう大阪へ来たり、車を運転したり、そういうことが何もかもできないんだと、胸に迫ってくる。


▼4月27日の水曜日

 朝早く、再びホテルを出て、伊丹から羽田へ飛ぶ。
 独立総研に出社し、社長としての雑務。
 そのあと、東京・目黒にある海上自衛隊の幹部学校へ。
 独立総研の上席研究員と専門研究員が同行。
 日本海海戦に勝った東郷平八郎元帥の書が掲げられた学校長室で、しばし懇談したあと、ともに昼食をとる。

 そのあと、海上自衛隊の幕僚課程などに在籍する学生(海上自衛官)たち、幹部学校の幹部たち、それに韓国海軍からの留学生ふたり、インド海軍からの留学生ひとりのまえで「講話」をおこなう。
 講話とは、一般的に言えば講義のことだ。
 わたしたちの民主主義のための海軍力について、3時間ほど、休まずに、ぼくなりに懸命に話した。

 独立総研に帰り、PHP出版の若手編集者と話したあと、急ぎの原稿を執筆、送稿する。
 自宅にたいへんに帰りたかったけど、会社の社長室に泊まり込む。会社の経営は、人事から財務、営業、決算とすべてを把握して動かさねばならないし、なんのヒモも付いていない、無借金の独立総研は、前へ前へと積極的に進まねば倒れてしまう。
 独立総研は、文字通りの独立性、自主性を保つためにこそ、株式会社でいる。
 幸いに、創立3年目にして早くも黒字転換する決算見通しとなっているが、油断は禁物だ。
 決算見通しは、もはや過去のこと、考えるべきは、来期(05年7月から06年6月まで)なのだ。

 戦う若き主任研究員のJちゃんも、研究本部で泊まり込んでいる。


▼4月28日の木曜日

 朝、講義に備えて、会社近くのサウナへ行き、わずかな時間だけ湯に浸かる。
 そして防衛庁へ。
 きょうは防衛庁に入庁した国家公務員Ⅰ種(いわゆるキャリア組)と、国家公務員Ⅱ種の文民職員に対する、初任研修の最終日だ。
 ぼくは、最終日の最終講義として、講義する。
 2時間半、きょうもぼくなりに(非力なりに)力を振り絞って、お話しした。

 講義のあと、防衛庁の幹部ふたり、独立総研の主任研究員ふたり、専門研究員ひとり、それに総務部秘書室の新人、A秘書とともに、昼食会。

 そのあと、ひとりで新宿へ。
 情報源と久しぶりに会い、そのあと、完全にひとりになって東京コンフィデンシャル・レポートを執筆。しかし、いまだ未完。

 夕刻、独立総研へ戻る。
 みなで会社を出て、近くの店へ。『新人歓迎会・兼・年度末の打ち上げ会』を開く。
 OB、OGからも参加してくれた。
 独立総研の専門研究員を経て、NHK記者と、外資系投資会社員へと巣立ってしまったふたり、それに総務部秘書室を家庭の都合で最近退職したYさんの3人だ。
 久しぶりに顔をみて、とてもうれしかった。

 ただ、主任研究員や研究員、専門研究員で参加しなかったひともいて、それは、寂しかった。ちょっと自分でも意外なほど、寂しく思った。
 これぐらいで寂しく思うことは、ない。
 なのにどうしてか。
 それを、おのれの胸のうちに問うてみる。
 独立総合研究所、独立総研、独研というところは、やはり最前線の砦であり、最後の拠り所でもあって、すごく大切に思っているんだろうな。

 シンクタンク、それも一切、ひも付きじゃなく借金も1円もない、文字通りに『独立』のシンクタンクの社長、それに物書き、テレビ・ラジオ・講演・講義をするひと、これらを一度にやっていくのは、正直、心身ともになかなか困難だ。

 一度切りの命を、ことごとく捧げてもなお、なにも理解されないような、志が伝わらないような…徒労感がさぁと風のようによぎることがある。
 それを、食い止め、建て直してくれるのは、独研なんだろう。

 そして、それは社長であるぼくだけのことじゃない。
 僭越ながら、こんな会社、ほかにない。縁があって独研に集まり一緒に働く仲間、みんなにも同じだと思う。

 講演会で、ときどき独研のことをお話しする。
「独立総合研究所は、株式会社ですが、それは自主性、独立性を保つためであり、営利を追求するためではありません。経産省のある局長さんが、ぼくに、それは商法の趣旨と違いますねとおっしゃったことがあり、ぼくも、ちらりと『間違っているのかな』と迷ったとき、偶然に高知へ出張しました」

「高知県警本部でテロ対策をめぐる協議をしたあと、すこし時間があったので、隣の高知城へ行ったのです。幕末の志士に関する展示がありました。ぼくは高校生の時から幕末が好きで、坂本龍馬や中岡慎太郎のことはなんでも知っているつもりで、ぼんやり見て回っていました」

「そのとき、龍馬のつくった『亀山社中』の資料のまえで、足が止まりました。亀山社中は、日本最初の民間会社です。しかし会社であったのは、あくまでも自分の食い扶持(ぶち)は自分で稼ぎ、自主性、独立性を保つためで、目指すのは日本の改革でした」

「ああ、ぼくらの独研と同じだ。ぼくは、そう思いました。しっかりと自立しつつ、日本のほんとうの独立と改革に、ささやかにでも寄与するのが株式会社・独立総合研究所だと、思いました」

 亀山社中のことは、高校生の頃から好きだった。
 だけども今、独研を経営しつつあって、亀山社中がなにに取り組んでいたか、その先進性を初めてほんとうに理解したと思う。
 独研も、みずからをみずからで養って自立し、祖国の改革にいささかなりとも寄与するだけだ。ぼくは高知城の畳のうえで、そう考えた。

 この日の飲み会で、ぼくはきっと雄弁だった。記者時代の経験も含めて、みなに一生懸命に話してもいただろう。
 だけど、その雄弁は、ちょっと寂しいことの裏返しでもあった。
 そして、それだけじゃない。
 みなに、OB、OGをも含めて、独研で働く意味をもう一度みんなで、考えてほしかったからでもあった。


▼4月29日の金曜日 昭和天皇の誕生日
          (この日が『みどりの日』って、いったい何のことだ)

 この日は、『朝まで生テレビ』に出て、闘わねばならない日だから、自宅へ帰って朝を迎えたかったけど、やっぱり独立総研で朝を迎える。
 それでも、祝日であるおかげで、午前中に自宅へ戻り、近くのジムへ出かける。
 ダンベル、バーベルを挙げ、プールで泳ぎ、心身を例によって無理にでも目覚めさせて、夜にいったんテレビ朝日指定のホテルへ入った。
 そこから午前0時20分ごろ、テレビ朝日へ。

 今回の『朝生』は「反日暴動と、日中新時代』がテーマだったから、予想通りに、中国から日本の大学に就職しているひとたちも、パネラーとして参加されていた。
 8割は、日本国民の感情にあえて沿わせる話をされながら、残り2割の肝心なところで、するりと話をかわす、そらせる、実は中国にとって都合のよい話に変えてある、という議論も、なんどか繰り返された。
 ぼくは以前よりは、蛮勇をどうにか無理にでも絞り出して、人の意見にいくらかは反論するようにはなっているけど、まったく不充分で、出演を引き受けた以上は果たさねばならない責任を、果たしていないと思う。

 それと、中国のかたがたと、こうした公開の場で議論するときには分かっていなければならない点がある。それをよく事前に考えないまま、ぼくは番組に出ていたと思う。

 ぼくは中国にもずいぶんと行っている。30回を、大きく超えている。
 そのほとんどが仕事として、それも当局者、軍関係者、学者、シンクタンク幹部らと議論をする仕事のために、行っている。
 番組でも触れた朱福来さん(米軍の駐ユーゴ中国大使館への誤爆で、実の娘とその夫を失った学者)をはじめ、中国に友だちも少なくない。
 すなわち、中国の人と、たくさん議論をしてきているけど、やはりアメリカ人と比べるならば議論の機会が少ない。
 それも影響して、中国の人と議論するときに、とくにテレビ番組のような公開の場では、アメリカ人と違って特別な心構えが必要なことがわかっていなかったと思う。

 アメリカ人は、中国の人とは対照的に、8割は、正面からこちらと衝突しながら、残り2割では、なんとか妥協と合意をつくれないか探るし、それも本音で探るという気がする。
 ちょっと甘い評価ではあるけれど、おおむねは、そうだと思う。

 それにアメリカ人は、わたしたちの広島と長崎に原子爆弾を落として、あるいは東京を焼き払って、女性や子供や老人を殺害した国の人であるから、こちらも議論のときに遠慮しない。
 しかし、中国に対しては、とにもかくにもこちらが侵略した側だから、どうしても遠慮があったと思う。

 番組で、中国のかたが発言されたなかには、どなたがどうとは決して申さないが、非常に巧みに日本国民の耳に馴染みやすい装いを施していながら、その実、深い誤解を日本国民に与えるものが少なからず、あった。
 それを、きちんと正すことがなかったのは、ほかのパネラーがどうこうは関係なく、ぼく自身の責任として、役割を果たしていなかったと思う。

 やれやれ、それにしても『朝生』は、辛い番組です。


▼4月30日の土曜日

 早朝5時過ぎ、テレビ朝日からいったんホテルへ戻り、2時間ほど仮眠してから、帰宅する。
 東京コンフィデンシャル・レポートのための取材を、電子メールを使って、やり直す。
 夕刻、アウディ・クワトロ80を運転し、情報源のところへ出向く。
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ささやかな人生で、おそらくは転機になる11日間(その3)

2005年05月05日 | Weblog
▼5月1日の日曜日

 自宅で、東京コンフィデンシャル・レポートのための再取材を、継続。
 夕刻、自宅近くのジムへ行き、バーベル、ダンベルを挙げ、プールで泳ぐ。
帰宅後、再取材の続行など。
 あすの朝に、JR西日本の事故現場へ行くので徹夜はせず、午前3時ごろに仮眠する。
と言っても、5時半には起きねばならないけど。


▼5月2日の月曜日

 朝6時、自宅を出て、羽田へ。
 伊丹空港で、関西テレビのディレクターと落ちあい、尼崎の事故現場へ。
 独立総研の上席研究員が同行する。

 車両が1両を除いて撤去されていたり、事故から1週間がちょうど過ぎた現場は、様変わりもしている。
 だけど、ディレクターによると、今日までは警察のロープが周辺広くに張られていて、これほど近くに現場へ接近できなかったとのこと。
 かえってよく現場を見ることのできる状況らしい。
 ぼくにとっては、サツ回り記者だった時代から、ずいぶんと久しぶりの列車事故取材となる。

 午前8時半ごろには、現場に着き、まず、ゆうべのうちに用意しておいた花束を捧げて、犠牲者のために祈った。
 現場を見なければ、分からないことは数多くあった。
 たとえば、マンション駐車場の天井は意外に低く、隣に今もあった車両の高さからして、よほど異常な状態、つまり転覆状態でなければ駐車場にすっぽりと一両目が入ったりしないことが一目瞭然だ。
 そのすぐ手前に、高さ2.5メートルの部分が大きく破壊された電柱が、ある。

 3分のあいだに置ける程度の置き石などで起きるような事故ではないことは、あまりにも雄弁に、現場が語っている。
 この現場を見た、JR西日本のプロたちが、それに気づかないはずはない。
 それでいて、あのような記者会見を行う鉄道会社とはいったい何だろう。空恐ろしくなる。
 おそらくは、現場の声がほとんど上層部に届かないのだ。現場を無視する官僚体質の鉄道会社ほど、恐ろしいものはない。

 取材中に、事故の起きた午前9時18分がやってくる。
 テレビ番組では言わないけど、現場には、まだ霊気が満ちみちていた。
 立ち去りがたく、たっぷり1時間半ほど取材する。

 そのあと、いったん大阪の定宿のホテルへ。
 ホテルのプールで泳ぎ、極端な睡眠不足の心身をあらためて目覚めさせて、関西テレビへ。

 きょうの『2時ワクッ』は、ニュースをめぐる議論のために50分近い『尺』(テレビ用語で、放送の実時間のこと)をとってくれていたから、かなり、しっかりと話すことができた。
 たとえば、こう発言した。

「民営化したから、事故が起きたのではないかという議論も一部に出ていますが、現場を見ると、それが違うと分かります。むしろ、民営化したのに、国鉄の体質を残しているから起きた事故です」
「JR西日本は、民営化のほんとうの意味が分かっていないとも言える。民営化したから、儲けなきゃとだけ考えて、安全については、おかみ(政府)に言われない限り、なにもしないでいいと考えてきたのではないでしょうか」
「事故の起きた福知山線は、かつてはのんびりした単線だったのが、東西線と連結して通勤線になり、レールも付け替えてカーブが厳しくなった。周りは市街化し、事故現場のマンションをはじめマンションや民家、町工場に取り囲まれた。こんなに大きな環境の変化があったのに、脱線防止ガード(レールの内側にセットする、単純な構造のガード)すら付けていない。国交省の基準では、付けなくていい場所だから、ということでしょうね。しかし現場を見ると、東京の、ある私鉄にそっくりな沿線だと分かる」
「それは、京浜急行です。京急の沿線も、マンションや民家、町工場が線路に迫っているところが多い。そして全線、脱線防止ガードが付けられています。こんな環境で脱線事故が起きれば、マンションなどに車両が突っ込む事故になって、会社が潰れてしまうと考えているからです。おかみの基準や指示と関係なく、民間会社の経営判断として、脱線防止ガードを完備している。さらに、この京急は、JR西日本を上回る過密ダイヤなんですよ。人口も、もっと多いですから。だから過密ダイヤが、事故の主因ではない。JR西日本が、ダイヤやレール(カーブ)、沿線の変化に合う安全対策を、おかみに言われない限りはやらない会社だから起きた事故だと、考えるべきでしょう」

 生放送が終わると、そのまま伊丹空港へ。
 いつもは大阪泊だけど、きょうは東京で大切な勉強会がある。
 羽田から、都心へ。
 尊敬するジャーナリストが主宰する勉強会の会場に入る。
 独立総研のJ主任研究員もやってくる。彼女にとって、貴重な勉強のチャンスのひとつだ。
 著名な外交官がゲストでこられて、中国問題を中心に話しあった。
 ぼくと考え方が基本的に同じであることに、驚いた。
 反日デモについても、「発端は中国の政府と共産党がつくり、反政府の色合いが出たので慌てて弾圧した」という認識を、このきわめて地位の高い外交官は、はっきり示されていた。

 すこし違いがあったのは、東アジア共同体(EAC)構想をめぐることだけだった。
 ぼくは、この東アジア共同体構想は、「大中華」構想になってしまう、すなわち中国に日米同盟の弱体化も含めて利用されると考えているから、反対している。
 著名な外交官は、中国がこの構想を利用してアメリカを外し、中国の勢力圏を伸ばそうとしていることは、その通りだとしつつも、日本としては推進せざるを得ない、なるべくアメリカも加えつつ推進するという考え方だった。

 いずれにしても、予想以上に共感できる、共鳴するゲストだった。
 ぼくにとっては、自分で積み上げてきた考え方、議論が、片寄っていないことを客観的に確認できる感があった。

 勉強会のあと場所を変えて、これも有名な金融アナリスト、ぼくの古巣の共同通信の経済記者、テレビ朝日のディレクターふたり、それに独立総研の若き主任研究員Jちゃんと、すこし懇談する。

 深夜、J主任研究員とともに、独立総研に戻る。
 午前2時近くに、J主任研究員に「社長、会社に泊まるのは今日は避けましょう」と強く促されて、一緒に独立総研を出る。
 タクシーを拾い、J主任研究員を彼女の自宅前で降ろし、ぼくも自宅へ。
 このタクシーの運転手さんは、東京のタクシーには珍しく道もよく知っているプロだったので、ちょっとホッとする。


▼5月3日の火曜日 憲法記念日

 自宅の書斎で原稿を書きながら、なんども、机の脇のベッドで眠る。
 ずいぶんと心身の疲れを軽くした気もするし、まったく疲れがとれていない気もする。
 まぁね、外へ出ないだけで、休みではないから。

 なんどか仮眠を重ねるうちに、ちょっと気がついた、というか気になりだしたのは、ぼくは机に向かって、つまりパソコンに向かって原稿を書いているとき、実は息をほとんど止めるように、息を詰めて、書いているのではないかなということだ。
 これでは、プロの物書きとしては、この先やっていけないよ。
 リラックスしつつ、ぐいと集中して、集中しつつ、らく~にリラックスして、重いものも軽いものも書けるようにならないと。
 書くことは、スポーツと似てるな。呼吸を止めないことが、たいせつなんだ。

 このブログへの、久しぶりの書き込みも着手する。
 そのまえに、ブログにいただいている書き込み(コメント)にすべて返事を書いた。
 気になっていたので、ちょっと、うれしい。


▼5月4日の水曜日

 前日と同じように過ごす。
 原稿が進んでいないので、前日よりは、疲労感が強まってしまった。
 あすは端午の節句。
 これまでの自省を活かして、もっともっともっと、みんなのために、国民国家としての祖国のために、足で歩いてきた世界のために、私心を捨てて尽くせる、男子になりたい。
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