Our World Time

このあとの10年 ★前半

2007年09月23日 | Weblog


※この書き込みは、全文が、制限文字数を大きく超えているため、前半と後半に分けてあります。
 これが前半です。ここから読んでいただければと思います。


▼9月21日の金曜、日本のテロリズム対策の現状を本音でフェアに分析し、課題をえぐりだすために、政府のいくつかの関係当局との合同協議に臨んだ。
 安全保障の実務者としての、またシンクタンク(独立総研)の社長・兼・首席研究員としての定例ミーティングだ。
 わたしがまだ三菱総研の研究員だったころから続いている。

 皮肉なことに、安倍さんが辞意を表明して国会が止まっていることも影響して、政府側がたっぷり時間を割くことができ、協議は充実していた。

 永遠に機密を保つことと、利害関係を生じさせないことを条件に、官と民がこうした国家安全保障をめぐる非公式協議を持つことができるようになったこと自体、日本国は深い部分で良くなっているところもあると、わたしは考えている。

 テロリストの側に情報を一切、与えないために、中身はもちろん書くことができない。
 ただ、そうした機密とは関係がない、すなわち機密ではない公然たる事実なのに、日本国民が充分に知らされているとは言えない問題をめぐって、当局者たちとのあいだで話題になったことを、広く一般のかたがたに向けて記しておきたい。

 たとえば北方領土のわたしたちの土地を、ロシア政府あるいはサハリン州政府が最近、個人のロシア人に積極的に売却している。
 このために仮に政府間交渉で、将来に、何かの進展があっても、領土返還は実際にはきわめて難しくなった。
 北方領土交渉は、行き詰まっているのではない。どんどん悪化しているのだ。

 たとえば竹島問題は、わたしたちの島が韓国に国際法上、違法に占領されているだけではなく、その事実をもとにして、日本のごく近海で韓国の漁船が不法操業を繰り返してカニなどの漁場を荒らしに荒らし、日本の漁民が生活を脅かされている。 

 たとえば尖閣諸島をめぐる問題は、わたしたちの海底資源を中国が実質的に盗掘しているという問題だけではない。
 中国船が海中音響技術(超音波)などを用いて、東シナ海だけではなく日本列島をかこむ日本の排他的経済水域(EEZ)のうち広大な海域のあちこちで、勝手に資源探索をおこなっている。
 さらには、そうした中国船が、アクション(直接行動)をとることがある。それは、日本が新しい自前資源であるメタンハイドレートを探索することを妨害するためのアクションだと、考えざるを得ない。

 当局者たちは、こうしたアクチュアルな(現在進行中の)問題を、実務家らしく淡々と指摘していた。
 わたしは、稚拙な物言いながら(謙遜ではありませぬ)、こう述べた。

「いずれも日本が国際社会でまっとうな国家主権を行使することを不法に阻まれている問題ですね。日本が敗戦から62年を経てなお、あるいは独立の回復(サンフランシスコ講和条約の発効)から55年を経てなお、国家主権を不完全にしか回復していないことを象徴しています。日本が国家主権を行使できない国として舐められている、この現状が続く限り、現場がどれほど苦労をしても、土地を奪われた北方領土の元島民のかたがたや、竹島近海からオホーツク海に至るまで、正当な漁業権を侵害されている漁民のかたがたの苦しみは終わらないし、日本が資源小国から資源大国に変わっていくチャンスも失われてしまいますね。この根っこのところを、しっかりと踏まえたい」
 最前線の、つわもの揃いの当局者たちは、官民の立場の違いを超えて、深く同意してくれた。

 安倍さんは、まさしくこの国家主権の回復にこそ、取り組もうとした。

 日本国は、小泉政権の時代に、中国や韓国の干渉に負けずに小泉純一郎首相が靖国神社に参拝し、中川昭一経産相が尖閣諸島周辺の海に初めて、たった2隻で、しかも外国船のチャーターとはいえ資源調査船を派遣して、国家主権のフェアな回復へ向けて目覚め始めたことを、アジアと世界に示した。

 小泉政権を受け継いだ安倍政権は、靖国神社への参拝をあいまいに見送り続けた事実があり、そこは、正しかったかどうかの問題は残るが、全体としては、国家主権の正当、公正な回復を目指した。
 あくまでも国際法にぴたりと沿った志向であり、タカ派などという言葉にすり替えられるべきことではない。

 こうやって日本が目覚め始めたからこそ、ロシアも韓国も中国も、日本の敗戦で得た既得権益を守ろうと焦り、北方領土や竹島、尖閣諸島周辺で新たな動きを強めているのだ。


▼その安倍政権が、若き宰相、安倍晋三首相の誤算をも要因として瓦解し、ほんらい国家主権の回復という目標を受け継いで発足すべきだった麻生政権が、麻生太郎さんの誤算も大きく影響して、どうやら発足しないらしいのは、まさしく痛恨事だ。

 安倍さんは、初めての戦後生まれの宰相であった。そのトライアル(試み)が失敗し、後継政権をつくることもならなかった影響は、あまりに大きいだろう。

 拉致問題に鈍感なのは、まだ誘拐されたままの同胞の運命に鈍感なだけではなく、この国家主権の回復という希求にも鈍感なのだ。
 最後のひとりまで取り返すことだけが拉致事件の解決であるのは、人道的に考えてそうなのではなく、たった一人の国民でも見捨てて解決とした瞬間に、この日本が国民国家でなくなるからだ。

 福田康夫さんを新首相に押し立てている主要なひとりである山崎拓さんは、こう述べた。
「核と拉致を分けるべきだ。なぜなら核は安全保障問題であり、拉致は人道問題だから」
 この地味ブログをわざわざ訪ねてくれたみなさんに、わたしは申したい。

 元防衛庁長官であり、元自民党副総裁であり、元自民党幹事長であり、防衛族の大物として知られる政治家が、これほどまでに基本的な間違いを言うのである。
 一方で、大学で、わたしがひとりの学生に「この山崎さんの発言を考えるために、聞きます。安全保障の最大の、究極の目的は何ですか」と聞くと、「国民を護ることです」と、ぴたり正解が返ってきた。

 そのとおり、国家安全保障の目的は、国民を護ることに尽きるから、日本国民が次から次へと誘拐されていった拉致問題は、まさしく安全保障問題である。

 山拓さんが「人道問題」と述べた言葉には、「可哀想な、気の毒な問題なんだから」といニュアンスがある。
 これは国際法の「人道」という定義も、はき違えている。
 ほんとうの人道とは、あらゆる人間の尊厳を護ることであり、気の毒といった問題じゃない。

 地球のひとびとはすべて、祖国を持って生きる権利があり、その祖国は国民の尊厳を護る。
 だから、安全保障問題と人道問題は、表裏一体であり、まったく分けることができない。

 つまり、防衛族の大物政治家よりも、若い一学生のほうが、本質をきちんと、とらえている。
 これを日本の絶望とみるのか、希望とみるのか。

 それを考えつつ、どうやら誕生直前らしい福田政権をみると、首班候補である福田さんが、2002年10月に拉致被害者のかたがた5人が帰国したとき、北朝鮮にいったん返そうとした外務省を支持し、そのまま祖国で生活することを主張した安倍さんと鋭く対立した事実は、消せない。
 すなわち、福田政権ならば、国家主権の問題に鈍感であるという政権の性格を、すでに内包している。

 麻生さんが拉致問題で強硬姿勢をみせていることを、総裁選の戦術だと論評しているメディアがあるが、公平にみて、そうではなく、国家主権の問題に敏感なのか、鈍感なのかという、きわめて基本的な姿勢の違いである。

 安倍政権が、国家主権の回復への試みにおいて挫折し、同じ根っこの志を掲げる後継政権の樹立もならないならば、このあと、どんなに少なくとも2年か3年、悪くすれば5年、さらには10年の長きにわたって、日本国が国際社会でまっとうにしてフェアな国家主権を回復しようとする試みは、封じられ続ける怖れがある。

 最悪の場合に10年ほどにわたって、国家主権の回復が遅れるならば、拉致被害者のかたがたの家族の多くが健在なうちに被害者を取り戻すことは、かなわない。
 竹島と北方の領土を回復し、そこに仕事(漁業)や生活の基盤を置いていた国民の権利を回復することも、かなわない。
 EEZの新資源を活用して、資源小国から脱し自前の資源を持つ新しい国とすることも、かなわない。

 国家主義がどうとか、タカ派、ハト派がどうとかといった話じゃなく、わたしたちのリアルな生存権の問題だ。

 では絶望か。
 いや、そうではない。
 このことは後で、もう一度、考える。
 そのまえに、なぜ安倍政権は後継政権をつくることがなかったのか、その誤算について触れておきたい。


▼まず、病気こそが、安倍さんの突然の辞任のほんとうの原因、主因だったという説がある。
 しかし、これは、政権運営に失敗したとしても、わたしたちの宰相であった安倍さんに、あまりに失礼だと思う。(麻生さん、与謝野さんとの関係については後述します)

 病気が主因ならば、安倍さんはまず病院に入院し、そこに麻生幹事長や与謝野馨官房長官らを呼んで、最終的な辞意を告げ、後任選びに着手してくれるよう求めたはずだ。
(そして、そうであれば麻生政権への流れが生まれた可能性もある)

 安倍さんは、そうではなく自ら選んで、辞任会見を行って、そこでなぜ辞めるかを説明した。
 テロ特措法による海上自衛隊の給油活動を、中断なく延長したかったことを強調し、そのために小沢一郎民主党代表との会談を願ったが実現しなかったことを、辞任の理由として明言した。

 会見で、安倍さんはこう語った。
「シドニーにおきまして、テロとの戦い、国際社会から期待されているこの活動を、そして高い評価をされているこの活動を、中断することがあってはならない、なんとしても継続をしていかなければならないと、このように申しあげました。国際社会への貢献、これは私が申し上げている、主張する外交の中核でございます。この政策は何としてもやり遂げていく責任が私にはある、この思いの中で、私は、中断しないために全力を尽くしていく、職を賭していく、というお話をいたしました。そして、私は、職に決してしがみつくものでもない、と申し上げたわけであります」

 安倍さんは、みずからの「職を賭して、給油活動の中断なき継続という国際貢献を実現する」という発信、宰相の重い発言に、殉じたのである。

 もちろん体調が悪かったことは間違いない。
 安倍さんは、ずいぶんと昔から、お腹がゆるくて、それがこのごろ悪化はしていた。
 参院選のあとインドを訪問したとき、首脳会談を控えて何度も何度もトイレに駆け込む姿を、少なからぬ同行者がそれを目撃し、ショックを受けている。
 立っていること自体が辛そうだったと証言している、側近もいる。

 しかし、それでもなお安倍さんは、首脳会談は立派にこなした。
 インドのしたたかなマンモハン・シン首相に、ポスト京都議定書をめぐって、総論賛成・各論反対で逃げられはしたが、それは安倍さんが体調の悪い宰相だったからではない。
 各論について、インドの経済発展と、CO2削減を両立させるための有効な提案を準備できていなかったという日本外交の構造的な問題だ。

 お腹の不調だけではなく、精神的に追い詰められていたから政権を投げ出したという説も、しきりに溢れている。
 事実、精神的に追い詰められていたという証言は、信頼できる側近のなかにも複数ある。
 安倍さんが精神神経科のドクターの診察を受けていた事実は今のところ聞かないから、安倍さんの心の中の問題であり、推察になってしまうが、精神的にも万全ではなかった可能性があるとは確かに言えるだろう。

 安倍さんがよく相談していたことが間違いない側近は、インドを訪れたあたりから、特に、顔に表情が乏しくなって黙り込むことが多くなったと述べている。

 しかし、それでもなお、安倍さんは前述したようにシン首相との首脳会談などを終え、帰国後に内閣改造と党人事をおこなってから、今度はシドニーに行き、ブッシュ米大統領やハワード豪首相との首脳会談をちゃんとこなし、そこで「中断なく給油活動を続ける」と約束したのだ。

 そして帰国後、安倍さんは小沢代表との会談がセットできず、テロ特措法の延長がもはや最終的に無理であり、給油がいったん中断することを意味する新法で臨むしかない現実に直面し、みずからの意志で、針のむしろの辞任会見をおこなった。

 わたしは共同通信の政治記者だったとき、複数の総理から、官邸の会見室で、ライトやフラッシュを浴びながら世界と日本国民に向けて会見をおこなう、想像を絶するプレッシャーを聞かされた。

 なかには、「青山君、あの腹の据わった大平さんですら、一閣僚ではなく内閣総理大臣になって、官邸の記者会見室に初めて入るその瞬間、身体が動かなくなって、つまり会見室に入れなくなって、しばらく立ち尽くしたそうだよ。わたしもね、就任会見の時に突然、その話を思い出して、冷や汗が出たよ。まぁ、それを聞いていたからこそ、会見室には入れたがね」と静養先の別荘で話してくれた総理もいた。

 安倍さんは、心身の不調があってなお、それに耐えて、ただでさえプレッシャーに潰されそうな総理会見を、まさしく針のむしろのなかで完遂した。
 冒頭発言を述べるだけではなく、つまり言いっぱなしにするのではなく、記者との一問一答にもきちんと応じた。
 質問は10問に及んだが、いずれも最後まで丁寧に、誠実に、答えきった。

 安倍さんはこれを終えた翌日に入院したのであり、すくなくとも内閣総理大臣、安倍晋三さん、ご本人は、病気が辞任の主因ではなく、海上自衛隊の給油継続をめぐっての辞任であることを、言葉だけではなく身をもって示された。

 それにもかかわらず病気を主因として、いいだろううか。
 代表質問を前にして辞任という前代未聞の辞め方であるから、これが無責任であるという指摘は、後世にわたって長く続くだろう。
 その指摘は、正しい。安倍さんは、まことにまことに残念ながら、その責任から歴史の上においても逃げることはできない。

 しかし、辞め方ではなく、辞任そのものの理由については、総理みずからが入院に逃げ込まないで、国民に説明したのだから、それを第一とするのが、いずれにせよわれらの民主主義の正当な手続きで総理大臣を選んでいる以上は、もっともフェアだし、客観的な態度だと考える。


▼次に、麻生さんらとの関係だ。

 まず「安倍総理が、麻生に騙されたと漏らした」という説が流された。
 しかし、わたしの知る限り、安倍さんはこのような言葉遣いをしない。

 安倍晋三さんは、うわべではなく、ほんとうに、こころ優しい人だ。
 誰かに不満や怒りを持つことがあっても、それで「あいつに騙された」などと言ったりしない。
 わぁと怒鳴ることも、ない。
 表情を曇らせ、言葉が少なくなり、誰かの行動に不満や怒りを内心で感じていることを、周りに気取(けど)らせるだけだ。

 余談だが、ほんとうは激情家で、周りをぴりぴりさせる福田さんとは対照的である。

 その安倍さんが、麻生さんらの人事、すなわち主要閣僚人事ではなく、党の人事に不満を示唆し、麻生さんと連携していた与謝野官房長官の、閣僚ではない細かい人事にも不満を、前述したような所作で示していたことは、安倍さんの信任が厚かった身近なひとびとが語っている。

 問題は、この不満の示唆を「総理が、麻生に騙されたと、周辺に言った」という作り話に置き換えた政治家がいるということだ。
 その発端について、安倍さんの側近はわたしに「官邸関係者のなかに、総理は麻生さんに騙されたと思ってらっしゃる感じなんです、と政治家に言ってしまったひとがいる」と語ったが、正直、それが事実かどうか確認できない。

 これによれば、官邸のなかのある人物(1人)が、「騙されたと思ってらっしゃる感じ」という、かなり不用意な発言をして、それを聞いた政治家が、脚色して「騙されたと言っている」に変えて、流したということになる。

 しかし、わたしには確証が掴めなかったから、テレビなどで触れたことはない。

 安倍さんの不満については、官邸や党本部のなかで実際は早い段階からかなり語られていたから、その空気のなかで不用意な発言があったのかもしれないな、とは考えなくもないが、これも政治家が「ちょっと脚色はしたが、その元になる証言はあったんだ」と強弁するための偽情報の可能性があり、これからもテレビなどでは述べるつもりはない。

 一方で、参院選の敗北のとき、いち早く続投をただひとり進言してくれた麻生さんを頼む気持ちが強かっただけに、麻生さんとのその後のコミュニケーション・ギャップは、安倍さんにはきつかったと思わざるを得ない。

 それを検証するために、ちょっと遡(さかのぼ)りたい。

(後半に続く)

このあとの10年 ★後半

2007年09月23日 | Weblog
※前半から続く。
 読んでいただくひとは、恐縮ながら、必ず前半から読んでください。


▼安倍さんは、かつては麻生さんと縁が薄かった。しかし安倍さんが総理になってから抱いていた、麻生さんへの新しい、深い信頼をわたしが直接に感じたのは、5月29日のことだった。
 松岡利勝農水相が自害した、その翌日である。

 松岡さんの遺骸を乗せた車を、首相官邸の正門で迎え、手をあわせて冥福を祈り、ご家族に深く頭を下げて弔意を示した安倍さんは、官邸のなかに戻ってきた。

 昼食をともにしながら、わたしに、安倍さんは、主として拉致問題解決への熱い思いを語った。
 ブッシュ大統領に首脳会談で直接、「日本国民が拉致されたまま、テロ支援国家の指定を外すなら、それは日本国民にとっては裏切りになる」と強い言葉で述べたという。

 わたしは、その明確な言葉を高く評価し、そのあと硫黄島を語り、海上自衛隊基地の滑走路を引きはがして、わたしたちの英霊の遺骨を取り戻してくださいとお願いし、安倍さんは「きっとやろう」と言ってくれた。

 そして別れ際に突然、安倍さんは「青山さん、きのうのことでね(…つまり松岡さんの自害のあと)、誰がいちばん最初に電話してきてくれたと思う?」と聞いた。

 誰かな?
 麻生さん、という名前もよぎったが、ドイツで外相会合に出席している最中だったから、別の名前を考えようとした。

 すると、安倍さんは「麻生さんなんだよ。わざわざドイツから、真っ先に電話をくれてね」と言い、「励ましてくれたんだ」と続けた。
 その安倍さんの眼は、まるで子どものように、うれしそうに輝いた。

わたしはふと、「あ、安倍さんは、いざとなったら辞めることを考えている」と思った。
 政治とカネに絡んで現職閣僚が首を吊るという、あまりに異様な事態に加えて、そのときすでに年金の保険料の記録が消失した問題が大きくなっていた。

 そして「万一の辞任のときには、麻生さんに譲るつもりなんだな」とも思った。
 そこで「総理、麻生さんが志を共通するひとだということは、よく分かります。わたしたちと同じように、拉致被害者の最後の一人まで取り返すことこそが解決だとおっしゃっています。ただ、安倍内閣は史上初めて、国民に明確に憲法改正を訴えて、国民投票法も成立させました。その凍結が解ける3年後までは、安倍内閣を維持する責任があると思います」と述べた。

 その瞬間、その瞬間だけ、安倍さんは眼の色を消した。
 それまで喜怒哀楽を、はっきりと眼に表していたのに、突然、消した。
 そして無言だった。

 わたしは、これは目先のことは別として、長期の政権を維持することには自信が持てなくなっているのじゃないか、と思った。
 だからこそ、麻生さんの真っ先の励ましがうれしかったのだろうと思った。

 それ以上は、わたしは何も言わなかった。

 このちょうど2か月あとの7月29日午後、参院選の投票がまだ行われているなかで、メディアの出口調査によって自民党が30議席台にとどまることが、はっきりしてきたとき、森喜朗、青木幹雄、中川秀直の3氏が協議し、安倍さんの辞任やむなしとして総裁選を通じて福田政権をつくる方向をすでに基本的には決し、古賀誠さんや山崎拓さんと連絡をとった。

 これを古賀派のルートから麻生さんが素早くキャッチして、直ちに行動を起こし、首相公邸に駆けつけて、安倍さんに「福田さんは、拉致被害者5人を北へ返そうと言った人だ。福田政権をつくらせちゃ駄目だ。あなたは続投するべきだ」という趣旨で説得した。

 ここまでの麻生さんの動きは、見事だったと言っていい。
 党内の他派閥の内部から情報を収集する能力、迷いのない決断と行動力で、まさしく安倍さんを支えて、安倍・麻生体制の基礎をあっという間につくった。

 ところが、そのあとの麻生さんに、遺憾ながらいくつかの誤算が生じた。

 ひとつには、森さんらの憤怒を甘くみたと言わざるを得ない。
 安倍さんは、恩義を忘れないひとだから、自分の辞任へ動いた森さんであってなお、自分を育ててくれた人物として敬意は払っていた。
 側近たちは「森さんらがいったん、安倍退陣で動き出したことを、怨んではいないようだった」と語る。
 安倍さんらしいといえば、まことに安倍さんらしい。

 だから森さんの周辺が、この時点からすでに「麻生に気を許し過ぎちゃ駄目だ。政権を乗っ取られてしまうぞ」と安倍さんに吹き込んでいったとき、まったく聞き耳を持たないというよりは、次第に、そうかもしれないという表情も、かすかにではあるが、みせるようになったという。

 麻生さんは、しっかりと安倍さんと手を組んでいるつもりだっただろうが、裏側では、安倍さんの麻生さんを見る眼に変化を起こさせるための動きが進んでいた。
「そうだねぇ、麻生に気をつけろと、町村派の誰が安倍総理に吹き込んでいようと、麻生さんは意に介さなかった。麻生さんの明るい、おおらかな性格という長所のためでもあり、わりあい油断しやすい短所のせいでもある」と、町村派内で福田さんと距離を置く議員は話している。

 次の誤算は、まさしくこれである。
 麻生さんは、安倍さんにゆっくりと疑心暗鬼の思いがきざし、、そのために尋常ではない深い孤独感に苛(さいな)まれはじめていることに、あまり気づいていなかったようだ。

 安倍側近のひとりは言う。「安倍さんが麻生さんをちらりと見る目つきとかね、ああ、なんだか今までとは違うなぁと思ったけど、麻生さんは気にしている様子がなかった」

 安倍さんはそうしたなかでインドを含むアジア歴訪の旅に出て、麻生さんとは電話連絡だけになった。そして、内閣改造、党人事に向けた準備が進んでいった。

 前述したように、このインドで心身の調子はずいぶんと悪化した。
 日本にいた麻生さんにも、その様子はかなり伝わっていたようだ。
 このあたりでは、麻生さんの情報収集はちゃんと行われていた。

 だからこそ麻生さんは、その安倍さんの心身の不調を知るにつれ、人事に積極的に、てきぱきと意見を述べるようになった。メモの作成もあった。
 総裁派閥の町村派のなかでは、思想として福田さんに遠く、麻生さんに近かった議員をも含めて、これで麻生さんへの不信感が一気に高まってしまった。

 このあたりが第三の誤算だ。
 安倍さんの万一を考えるなら、町村派の議員たちをむしろ真っ先に、全体として味方に付けておくべきであり、不信感を広げてしまったのは、まったく逆のことであった。
 もともと町村派のなかで、福田さんがそう人望があったのではなく、町村さん自身も安倍さんが辞任した直後には出馬を考えていたから、町村派には、さまざまな選択肢があった。その中に「麻生支持」という要素を、麻生さんはつくっておくべきだった。

 それでも安倍さんは、幹事長に予定通りに麻生さんを起用し、麻生さんの進言も容れて、官房長官は与謝野さんとし、防衛、外務、厚生労働といった主要閣僚は安倍さんがみずから決め、安倍改造内閣、麻生執行部の自民党が無事にスタートした。
 8月下旬である。

 旧安倍派にいた古参代議士は、わたしに言った。
「そのためにむしろ、麻生さんは致命的に油断したね。安倍は、拉致強硬派の親友たちを、閣僚や首相補佐官には起用できなくとも、党でしっかり処遇して、味方がしっかりといてくれる態勢を望んでいることに、あまり気づかずに、とにかく世間や党内から友だちとみられている人間を、どんどん外していった。安倍のお父さんの代から、晋三さんと長年つきあってきたわれわれからすれば、麻生さんが乗っ取ったようにみえるし、晋三さん自身も、急速に不安感を強めていったことに、麻生さんは気づいていなかったな」

 麻生さんにすれば、友だちをもはや安倍さんの身辺に置かないことが、むしろ安倍改造内閣を強化すると、思慮したのだろう。
 だからクーデター説など、まったく間違っている。
 一方で、安倍さんの極めて信頼する身近な議員からも「これじゃ、麻生さんに乗っ取られたとしか言えない。こんな、みんな、みんな外してしまって、安倍総理は孤立感を深めている」という電話が、わたしにも頻繁にかかるようになった。


▼そして麻生さんの誤算は、中曽根さんという存在を軽くみたことにもある。

 中曽根さんは、安倍政権が人気を失っていった、その過程で逆に「安倍さんは、小泉さんより偉い。小泉さんは、郵政民営化というシングル・イッシューをやっただけだが、安倍さんは戦後政治の見直しをやっている。まさしく保守本流だ」と絶讃し、安倍さんはこれをたいへんに喜んだ。

 やがて安倍さんは、携帯電話で中曽根さんに電話し、アドバイスを仰ぐようになった。
 わたしが官邸の安倍さん側近に電話し、「総理は最近、中曽根さんとばかり電話で話してるでしょう。どうしたんですか」と聞くと、この冷静なひとが珍しく慌てた。
 その後、数日を経て、「安倍総理は、中曽根さんを、最後の心の友だと言っている」という話が、この側近からあった。

 中曽根さんは、インド洋の海上自衛隊の活動中断は、日米同盟を壊しかねない重大事態だとアドバイスした。
 これが安倍さんの「職を賭して」という唐突な発言のベースになったと、わたしはインテリジェンスを総合して考えている。
 また、ブッシュ大統領らに「中断なき継続」を約束する背景にもなったと考えている。

 このことは前にも触れたが、この中曽根さんの思考は、冷戦時代のそれである。
 このアジアでも冷戦構造は、ついにして壊れつつある。
 北朝鮮がアメリカと接近して、冷戦時代のボスであった中国の影響力を削ごうとしているのが、その最先端だ。
 アメリカの要求にはいつだって満額回答をせねばならないという冷戦時代の発想では、むしろ新しい日米関係を築くのに邪魔になる。
 だから安倍さんが、中曽根さんの意を容れて「職を賭して」と発言したのは、遺憾ながら大きな誤りだった。

 麻生さんが、この中曽根さんの動きを充分に、あるいは完全に知っていたのかどうか、今のところわたしには分からない。
 ただ前述したように、麻生さんの党内の情報収集能力は秀逸だから、まったく知らなかったということは、ないようだ。
 そして、麻生さんは、すでに冷戦時代の発想を脱していることを、外相当時に「自由と繁栄の弧」という優れた戦略構想を打ち出したことで、証明している。
 だから、麻生さんはまさしく麻生さんらしく、おおらかに、この中曽根さんの安倍さんへの耳打ちを無視、あるいは軽視したのではないかと考えている。

 だから麻生さん、そして与謝野さんにとっては、海上自衛隊の活動継続は、テロ特措法の延長であるべきと限らず、新法によっても良かった。
 延長なら、小沢さんと談合せねばならず、そのような会談をセットするなら、安倍さんが代わりに首を差し出す話にもなってしまう。
 新法なら、短期間の活動中断は出るが、参院で否決されたあと衆議院の再議決で堂々と活動を再開できる。

 この考えは、ごく真っ当である。
 真っ当だからこそ、麻生執行部は、小沢さんとの談合会談を積極的にセットしようとは、しなかった。
 セットしようとしたのは、どうせ物別れになる公式会談だけ、それを一度だけ申し入れた。
 小沢さんが「会談の申し入れはなかった」と述べたのは、この経緯を指している。

 心身が弱り、麻生さんにも、松岡さんの自死の時や、参院選大敗の時のような、万全の信頼を寄せられず、そのために急速に孤立を深め、中曽根さんを「最後の心の友」として頼っていた安倍さんには、小沢さんとの会談がぎりぎりと真剣には模索されないこと、だからテロ特措法の延長は無理であると確定してしまうことが、不満であり、怒りを含んだ絶望となり、急に新法の路線で代表質問に答えられないということも重なって、代表質問直前の辞意表明という、麻生さんや与謝野さんには理解不能な行動になってしまった。

 辞意表明の直後、麻生さんも与謝野さんも「病気主因説」を会見で明言した。
 これを見ていた、関西テレビの若手アナウンサーが「病気が原因、ということにしてしまいたいみたいですね」と言い、わたしも、そのときはそうかな、と思った。(ただし、放送の中ではない。放送前のスタジオ外で、雑談のなかで出たアナウンサーの発言だから、放送はされていない)

 今は違う。
 麻生さんも、与謝野さんも、そうとでも思わねば、安倍さんの行動を実際に理解できなかったのだろう。

 ここまでは、すべて情報に基づく議論だが、ここでひとつだけ、まったくの推測を書いておきたい。
 推測だからテレビでは述べないが、この個人ブログでは、書いておきたい。

 なぜ入院中の安倍総理に代わる首相臨時代理を置かないか。
 わたしは、それは安倍さんの最後のこだわり、すなわち辞任を病気のせいにしたくないという思いのためではないかと、これは勝手に推し量っている。
 そして、その思いを、麻生さんと与謝野さんが今は理解して、しっかり受け止めることが可能になり、そのために、いわば安倍さんと麻生さんらのウェル・コミュニケーション、相互理解が復活しているのではないかとも、推察している。

 首相臨時代理を置かないこと、そのものには、わたしは危機管理の専門家の端くれとして異論はある。
 しかし同時に、やがて、国家主権の回復を再び掲げる政権を樹立するためには、この理解回復が、素晴らしいベースになることも、深く祈っている。


▼経緯の分析の最後に、麻生さんの最後の誤算にも触れねばならない。(以下は、再び、情報に基づく議論です)
 それは、小泉さんの動きをめぐる誤算だ。

 小泉さんについては、麻生さんはちゃんと注目していたと思われる。
 だからこそ、総裁選の日程を短くしようとした。
 これが誤算であり、この焦りが党内の反発を掻きたて、代議士会で小泉チルドレンから麻生幹事長が公然と批判される直接的な原因になった。

 そして小泉さんは、短期勝負とみたからこそ、あっという間に決断した。
 それは、平沼さんの無条件復党、すなわち郵政民営化反対のままの復党をさせない福田さんへの全面支持であり、もはや拉致問題は一顧だにしない決断であった。
 平沼さんの無条件復党へ動いていた麻生さんは、その一点だけで、小泉さんを福田さんの庇護者にしてしまい、それが町村派を福田支持でまとめ、最大派閥の町村派が素早く固まったために、勝ち馬に乗る派閥が相次いでしまった。

 郵政民営化の造反組、反対者の復党は、麻生さんだけが志向したのではなく、安倍さん自身も志向した。
 だから小泉さんにとって、安倍さんが後継者であった時代はとっくに終わっていた。したがって、小泉・安倍・麻生と続く後継政権をつくる意志は、もはやカケラもなかったのである。
 麻生さんは、残念ながら、その小泉さんを完全には読み切っていなかった。


▼こうやって今日、9月23日の総裁選で、福田政権が実質的な産声をあげる。
 これによって、国家主権の回復への試みは、いったん確実に頓挫するだろう。

 しかし絶望ではない。
 まず麻生さんの総裁選での健闘によって、拉致問題にちゃんと光があたり、日本国民に国家主権の問題について違う選択肢があることを、深い部分で伝えることができた。
 クーデター説のような愚かな情報操作についても、麻生さんはきわめて冷静に対処し、国を率いる危機対処能力の素質を持つことを証明した。

 あとは今日、麻生さんが少しでも多くの票を取り、明日につなげることを祈るばかりだ。
 ほんとうは、安倍さんが両院議員総会に現れ、麻生さんに投票すると明言してくれることを夢想した。

 もちろん、それはかなわず、安倍さんは黙って、病室で不在者投票を済ませた。
 しかし、安倍さんが辞意表明によって憑き物が落ちて、麻生さんと志を共有する信頼関係に戻っている、あるいは戻りつつあることを、ほのかに感じる。
 安倍さん、麻生さん、それぞれの誤算によって生まれた、誤解、それが溶ける時機が来ていることを、かすかに感じる。

 安倍さんの辞意表明の主因は、まさしく、あまりに深い孤立、孤独であった。
 国家主権のフェアな回復、それを安倍さんは「戦後レジュームからの脱却」と呼んだ。
 それを進めようとする時に立ち現れる、巨大な壁、その壁を打ち破ろうとしたときに直面した孤独と孤立は、あえて申せば、貴重な孤独でもあった。

 わたしたちの祖国が主権をほんとうに回復するのは、これほどまでに厳しい道のりであることを、志を同じくする者は、政治家であれ市民であれ、それは関係なく、この安倍さんの孤立による挫折でむしろ学んだのだ。

 これからの10年、このあとの10年だからこそ、国家主権の公正な回復という根っこの志を共有できるひとびとは分裂せず、連帯する、団結する、それが、たいせつではないだろうか。



 青山繁晴 拝
 講演まえの出雲にて 徹夜明けの朝 2007年9月23日午前8時45分