Our World Time

一瞬で消えた

2005年01月29日 | Weblog
 みなさん、コンピューターで文字を書くということは、あいかわらず恐ろしいことがおきますね。

 いま、ぼくと独研のすべての社員・スタッフは、ふだんに増して強烈な多忙のなかにあります。
 ほとんど全ての研究プロジェクトが3月末、すなわち平成16年度末に、報告書の締め切りを迎えるからです。
 独研だけではなく、日本のシンクタンクにとっては、年明けから3月いっぱいまでは地獄の季節です。

 こうしたなかにあっても、いや、そうしたなかにあるからこそ、昨夜にこのブログに書き込んだのです。
 会社でまた徹夜しながら、いつものように、ひと言ひと言を選んで書きました。

 タイトルは「無償のぬくもり」。
そして書き込んだ瞬間にすべて、消えました。
 どこを探しても、なにも残っていません。

 消え去った中身は、意外かも知れませんが、ぼくと動物とのふれあいを書きました。
 それから、やっぱり晴れあがった1月28日金曜日の、朝から午前、午後、夜を通じて、どう生きたかを書きました。

 仕事の合間に、記憶のなかから、もう一度書き込もうとしたのですが、どうしてもできません。
 こうやって、原因不明のまま書き込みが消えたとき、ぼくは自然に「天か神さまが、何かの理由があって、止めたんだなぁ」と思うのですが、こんかいも、それは思います。

 でもね、まいった。


05年1月28日、きっと晴れる日の朝

2005年01月28日 | Weblog
 朝5時すぎ、ようやく自宅に帰ってきた。
 しかし自分でも意外なことに、まだ眠っていない。
 体内を風がぴゅーぴゅー吹くような感覚が、少しあって、おのれのやっていることが何もかも徒労のような感覚が、これも少しある。

 さぁ、一時間だけ眠って、また元気に起きて、つとめを果たさねば。
 きょうは晴れるのだろう、きっと。
 晴れた冬の日に、こころの奥が空しいと、ほんとに空しいんだよね。
 ふひ。


たとえば、こんな一日

2005年01月28日 | Weblog
 いまは、2005年1月28日の金曜日、未明1時58分です。

 2時間ほどまえ、永遠に去っていった2005年1月27日の木曜日を、さらり、ふりかえると、それは、なにげなく人生をぎゅっと固めたような日、と言うのはちょっと言い過ぎかな。

 27日の午前3時まえ。
 自宅の書斎で、原稿を書いていた。

 古巣の共同通信のために、よせばいいのに書き続けている連載記事です。
 その3本の記事と、それから、これもよせばいいのに記者時代から続けている、雑誌の連載記事2本、『この合計5本を書き終え、送り終えてから気持ちよく眠りたいな。短い睡眠時間だからこそ、そうしたいな』と、机、いやパソコンにかじりついていた。

 まず共同通信のために1本、2本と書き終わり、3本目も、ああ、これでもうすぐ完成だと思った瞬間、もうどうにも机を離れたくなり、あまり清潔とも言えないベッドに、倒れ込む。
 もうすぐ完成だ、起きればすぐ書けると思うから、よけいに起きられなくて、はっと気がつくと朝の6時45分。
 3時間と45分、ずっと「ほら、完璧な原稿ができあがったぞ」と自分に話している夢を見ていて、起きたら未完の原稿が待っている。

 この3本目の仕上げに思いのほか時間を費やしてから、『もう一度ちょっとだけベッドに倒れ込みたいな』という気持ちをどうにか抑え込んで、雑誌の連載記事2本を仕上げて、送り込む。

 やれやれと朝刊を読むと、もう講演へ出発する時間が迫っている。
 朝風呂に入って、全身を目覚めさせないと、講演を聴きに来られるひとびとに申し訳ない。

 そこで朝風呂に入ると、目覚めるどころか、お湯の中で例によって眠ってしまう。
 眠り続けたくて、どうにもならないほど眠っていたくて、しかし、どうにか風呂から上がり、身支度をして、独立総研の新しい主任研究員(ある政府機関から出向でやってきたナイスガイ)と待ち合わせている駅へ。

 ぼくが予定より数分遅れたせいで、ふたりともホームを疾走する羽目になった。
 人柄のよい彼に、申し訳なかった。

 列車の中で、2月2日からの海外出張の打ち合わせをしていると、あっという間に、川崎駅。
 タクシーに乗り、川崎市教育文化会館へ。
 ここで開かれている「第13回 全国救急隊員シンポジウム」で講演する。

 簡単な打ち合わせのあと、舞台へ。
 頭脳はすっかり目覚めている。体調も悪くない。しかし、ぼくとしては微妙に力を出し切れていない感じがある。
 最初のうち、舞台だけがまぶしく明るく照らされていて、客席は暗がりに沈んでいる。
 ぼくは聴衆の眼を見て、顔を見て、聴衆と一緒に考える講演をいつも目指しているので、聴いてくれている方々の顔が見えなかったのは、いくらか影響したかも知れない。

 そのうち、会場の係のひとが気づいてくれたのだろう、客席もふつうに明るくなり、力をふり絞るように聴衆に語りかけた。
 だけど、ぼくの自己評価としては、きょうは合格点を出せない。

 扶桑社のスタッフが、会場の外で「日本国民が決断する日」を即売しているとのこと、事前に独研の秘書室からそれを聞いていたのに、聴衆に伝えるべきを伝えようとすることに集中しすぎて、すっかり忘れていた。
 講演のなかで、「時間がなくて語りきれないところは、できれば本を読んでください。会場の外にあります」とひとこと触れるだけで、売れ行きが変わる。
 あのろくに売れなかった本を、今さら売りたいと思っているのじゃない。
 せっかくやってきた扶桑社のスタッフの努力には、すこしでもこたえたい。

 講演のあと、意見交換会(懇親会)が開かれるホテルに移り、その会が始まるまでホテルの一室で、「東京コンフィデンシャル・レポート」の会員に配信するメッセージを書く。
 途中、扶桑社のスタッフの努力を無にしていないか、何とも気になり、連絡をとる。

 案の定、ほとんど売れていないと聞き、一計を案じて意見交換会(懇親会)の会場で、もう一度本を並べてもらえるよう、独研の秘書室を通じて主催者と交渉する。
「売らんかな、のひとだな」と思われかねない、誤解されかねないけど、扶桑社のスタッフを手ぶらで帰すわけに、どうしてもいかない。

 夕刻から開かれた意見交換会では、アチェから帰ったばかりのドクター(世界的に高名な医学博士)が、参加者のあいだを回って、ぼくへの質問を集めてくださったり、嬉しい心遣いをたくさんいただいた。
「日本国民が決断する日」も、二ケタの参加者の方々が買い求めてくれて、一冊一冊に、きもちを込めてサインした。
 これで扶桑社のスタッフも少しは報われる、と思ったけど、残念ながらスタッフはあまり嬉しそうではなかった。満足した様子はなかった。
 あれ?と思ったけど、そりゃ当然かも知れない。
 重い本を、たくさん川崎まで運んできて、これっぽっちでは確かに不満でしょう。

 本もね、書くだけでいいのなら、どんなにか気が楽なのに。
 正直、本を出していない頃は、書くだけじゃ駄目で作者も売れ行きを気にしなきゃいけないとは思わなかった。
 そういう甘い作者だから、この本も売れないのだろうなぁ。

 ナイスガイの主任研究員と二人で、電車に乗る。
 また車内で打ち合わせをしていると、あっという間に都内へ到着。
 体の芯が疲れ果てていたし、秘書室長から「特に急ぎの連絡はありません」と聞いていたから、そのまま帰宅するつもりだったけど、やはり会社のみんなはぼくの顔を見れば何か話したいこともあるだろうと、独研へ。

 独研で、2月2日からの中国、韓国への出張に関して打ち合わせる。
 研究員や総務部員だけではなく、ぼく自身が日本や中韓の政府関係者に電話して交渉せねばならない点が、いくつも見つかる。
 やはり帰社した意味は大きかった。

 打ち合わせたあと、パソコンに向かって仕事をしていると、思いがけない電子メールが到着。
 どう考えたらいいのか、なんど読み返しても、よく分からない。
 つまりは、ぼくがひとの気持ちを分かっていない。

 とにかく仕事を続けるしかないので、仕事を続ける。
 続けながら、携帯電話で、あるひとの相談事を聞く。
 話の流れでぼくの話になったので、ここまでハードな生活がいつまでも続くはずはなく、そのうちぼくが天に帰ることで自然な終わりを迎えると思っていることを、ありのままに話す。

 最後まで居残って頑張ってくれていた秘書室長が、午前1時すぎに帰り、独研に一人になる。
 さて、翌朝も早いから、このまま会社にいるか。
 それとも、短い時間でもスイッチをオフにするために自宅へ帰るか。

 それをこれから決めるところです。
 そして、こうやって一日を振り返ると、ぼくが愚かであることが身に沁みて分かる。
 未明は、時間の使い方が下手くそで、朝と午前は、もはややめるべき仕事に費やし、午後は、講演で言うべきひと言「どうぞ、できれば本を読んでください」を忘れていて言わず、夕刻は、そのために苦労をして結局はあまり出版社スタッフを喜ばせることもできず、夜は、ひとの気持ちがわかってはいないことに気づかされ、深夜から未明は、ふたたび時間の使い方が下手くそ。

 もちろん謙遜ではないのです。

 愚かさをいつかは克服して、世にもっと寄与できるときが来るのだろうか。
 

   

愚かな、寝こけ男

2005年01月23日 | Weblog
【1月21日 金曜】

▼木曜からほぼ徹夜になったあと、金曜の朝に、日本の重要施設を護る政府機関へ行き、たいせつな協議に臨む。
 短時間だったが、大きな課題がひとつ基本的に解決した。

 独研の若き主任研究員が同行。彼女の働きには、内心で頭が下がる。
 しかし、もっともっと鍛えてやらにゃー。
 ぼくが死んだら、もう誰もこんなには彼女を鍛えないだろうから、今のうちに、ね。


▼午前11時半ごろに、電車でひとり、四谷駅前へ。
 きょうは市ヶ谷の防衛庁で、上級幹部研修の講師を務める。
 講義は2時間のこともあるけど、きょうは4時間。
 いつも受講生(防衛庁で幹部に新任されたひとたち)から「もっと時間が欲しかった」との要望がたくさん出るということで、防衛庁が4時間を確保してくれた。

 それはいいのだけど、こんな時に限って、ああ徹夜明け。
 講義を始めるのは午後1時15分。
 午後零時50分に四谷駅前に、防衛庁の迎えの車が来る。
 その車が来るまでに、まだ1時間20分あるなぁ。
 さて、どうするか。

 講義のためには、すっきりした心身になりたいからサウナでもあれば入りたいところだ。
 けど、四谷駅前にはとてもありそうにない。
 諦めて、信号を渡り、消防庁の外郭団体が経営するホテルへ。
 ここで何度か講演したことがある。
 ロビーで、Air-Hを使いモバイル・パソコンをネットにつないで、仕事。

 うーん、この疲れぶりで、4時間かぁ。
 大丈夫かな。
 ぼくはいつも声と思いを振り絞って、ありったけの力で講義をする。
 それを徹夜明けに4時間続けるのは、ちときついぞと、さすがにいくらか心配だ。

 パソコンを打ちながら、いつのまにか首をがっくり垂れて、ロビーの座りにくい椅子で寝こけていた。
 ハッと気がつくと、まさしく零時50分。
 なぜかいつも体内時計が、ほぼ正確に起こしてくれる。
 うれしいような、助かるような、迷惑なような。
 はは。

 重い身体を引きずるように、信号を渡り、駅前へ。
 防衛庁・大臣官房秘書課の若い女性職員と、きょうの講義に同行する独研の総務部員の姿が眼に入る。
 あぁ、期待いっぱいで待っていてくれる。
 その様子を見て、ぼくは、しっかりと気合いを自分に入れ直した。
 講義はふつう、どの講師も1時間だ。
 ぼくには4時間を用意してくれた。
 たいへんといえばたいへんだし、ぼくや独研の利益には別段ならないけれど、光栄なことです、うれしいことです。
 がんばんべー。


▼そして4時間、立ちっぱなしで講義をし、まだ時間が足りずに、15分間延長した。
 講義を始めてしまえば、徹夜明けもくそもなかった。
 伝えたかったこと、防衛庁のひとびとに感じとって欲しいことが、いくらかは分かってもらえたかも知れない。


▼午後6時15分ごろに、独立総研へ戻る。
 主要メンバーでミーティング。
 政府機関から1/20付けで出向してきたAさんにとっては、初ミーティングだ。
 彼を信頼して、主任研究員に任命する。

 ミーティングで、いま遂行中の研究プロジェクトを総じて点検してみて、独研の仕事がどれほど充実し、拡大しているかを、正直、あらためて実感した。
 仕事の発注元も、政府機関、自治体、公共事業体、企業と、バランスよく広がっている。
 そして、担っている責任は、ほんとうに重くなっている。

 みんな、がんばろうね、と内心で、あらためて思いつつ、研究員や総務部員と打ち合わせる。


▼ミーティングが終わると、午後9時近い。
 みんな食事もしないまま仕事に戻る。
 しかし、それではあまりに社員・スタッフが心配なので、会社に残っていた全員を連れて、食事に出る。
 気がつくと金曜日だから、どこも超満員で店が見つからない。
 だけど幸いに、ちゃんこ鍋やさんの席が空いたので、そこへ。
 7人でわいわいと食べて、ちょっと呑み、また独研へ戻る。

 ぼくは不覚にも、机に向かったまま、眠りこけてしまう。
 はっと目が覚めて、ほとんど一瞬だけ、パソコンに向かっては、また寝こけ、という愚かなことを繰り返しているうちに、社員・スタッフは三々五々帰り、最後まで残って頑張っていた若き秘書室長(ごくろうさんっ!)も帰り、午前1時まえには、ひとりになる。

 夜明けが近づくころ、社長室の仮眠ベッドに潜り込む。
 明けて土曜日に目が覚めると、ブラインドの隙間から、冬の空が青かった。

 われ、ただ一粒の麦にてあらん。
 神さま、ぼくは、はっきり言って愚かです。
 でも、どうか最後まで、仕事だけは続けさせてください。





これが2005年モデルだっち

2005年01月21日 | Weblog
【1月20日 木曜】

▼未明

 古巣の共同通信のための連載原稿3本を、自宅で書きあげ、送信。
 共同通信を辞めてもう7年を超えたけど、いまだに原稿を書いている。
 それも…共同の社員と同じ原稿料で、ね。

 独立総研の社員・スタッフはみな、「もう、やめましょう。まったく時間がないんですよっ」と反対している。
 だけど、ぼくは共同通信に育ててもらった。
 その、ささやかな恩返しです。
 共同通信の編集者が求める限りは…と言いたいけど、そこまでは正直、保証できない。
 物理的に完全に不可能になる怖れはあるから。

 この3本を送ってから、やはり独立総研の社員・スタッフがこぞって「もうやめましょう」と反対している連載原稿2本を書こうかと思ったけど、早朝のテレビ出演をさすがに考えて、寝ました。
 この原稿は、共同通信の記者だったころから、ある雑誌に書き続けている名前のでない連載原稿だ。
 なんと、もう20年ぐらい続いちゃってるんじゃないかナァ。

 せめて、この連載だけは打ち切りたいんだけど、編集者の人柄が良く、「読者のためにお願いします」の言葉に、どうしてもノーとは言い切れない。


▼朝8:20ごろ

 テレビ朝日へ局入り。
 8:50ごろ-9:30ごろ テレビ朝日「スーパーモーニング」に生出演。ワシントンDCで会った人びとの話を踏まえて、ぼくなりに視聴者と国民へ向けて、つたなくもお話しをした。

 10時まえ、独立総研に帰社して、秘書室や研究本部と急ぎの打ち合わせをしたり、メールチェックをしながら、未明に書かずに寝た原稿2本を、必死に書く。出発時刻が迫る!

 11:40分ごろ ジャスト・オン・タイムでぎりぎりに書きあげて送信し、タクシーに飛び乗る。

 12時まえ-14すぎ 北川石松・元環境庁長官、北川知克代議士、環境省幹部らと昼食会。昨年秋に、北川代議士の会合で講演したお礼という趣旨。84歳の石松さんの、鮮明な頭の働き、そして国と国民を思う気魄に感嘆した。
 独立総研から2人が同席。


▼14:10ごろ、独立総研へ帰社。

 社長室で、月刊・文藝春秋の記者の取材。次に、入社志願者との面接。
 そして政府機関の幹部3人の訪問を受ける。
 独立総研は、本日付で、この政府機関からの出向者(研修者)を受け入れる。
 政府、そして純然たる民間シンクタンクとしての独研、いずれにとっても画期的だ。
 祖国と、この出向者と、独立総研の、現在と将来に寄与するよう社長として力を尽くしたい。

 続いて、独立総研の契約している公認会計士事務所と、独立総研第4期決算について打ち合わせ。
 無借金経営なので、とてもシンプルで公明正大な決算だが、それでも経営上の課題は多いから大切な打ち合わせだ。
 しかし途中で、出発時刻になり、中座。


▼17:30ごろ 帝国ホテル入り。

 17:45-19:25 「第101回 新春全国経営者大会」で、戦うジャーナリストの櫻井よしこさん、毅然たるエコノミストの久水宏之さんと3人で、「岐路に立つ世界と日本」というテーマでパネル・ディスカッション。

 終了後、この大会に来られた、全国の中堅・中小企業経営者の方々との懇親会に出席。
 たくさんの名刺をいただき、たくさんの熱い思いを聞かせてもらった。
 パネル・ディスカッションに勇気づけられたとの言葉が多く、こころから嬉しく、幸福に思った。

 ひとりの経営者の方が、「一つだけ質問があります」
 当然ながら、こうおっしゃる受講者のかたは多いので、さてどんな問題についてかな、と耳を傾けると、「青山さんの楽しみは何ですか」

 ははは。
「私生活はもう、ないんです」とありのままに答えると、おおきく頷かれて、「やっぱり」
 うはは。


▼21時すぎ、帰社。

 政府からの出向者、自然科学部長、主任研究員、秘書室長、総務部経理と5人も、遅くまで残って仕事を続けてくれる。
 最後に秘書室長が帰宅してから、ぼくひとり残り、情報収集、メール交信、電話などを続け、午前2時ごろから、ブッシュ大統領の2期目の就任演説を生放送で聴く。

 この演説を感動をもって聴いた人は、世界に、そしてアメリカに、いったい何人いただろうか。
 ちなみに、残念ながらぼくは、ちと胸が冷えた。


▼きょうの一日は、未明の原稿執筆と送信、早朝のテレビ、急ぎの原稿執筆と送信、昼の会食、午後にうち続いた来客、調整、打ち合わせ、そして夕刻の講演(正確には今日はパネル・ディスカッション)、夜の懇親会、深夜から未明の情報収集とメール交信、とまぁ、フル・メニューの一日だった。

 ぼくは『05年は、こういう感じだろうな』と、すでに覚悟している。
 だから、ほとんどストレスを感じないで、こなしていくことはできた。
 テレビ出演をはじめ、まだまだ下手くそで、努力と工夫が必要な仕事も多いが、どうにか日程はちゃんとこなすことはできた。

 すなわち、きょうの感じが2005年モデルですね。
 ここになんとか、小説新作の執筆を潜りこませなきゃ。

 神さまか、天か、すべてを見ていらっしゃる。
 神さまか天かが、ぼくを迎えに来られるときまで、ただ深く、ただ淡く、生きてゆきます。


ニッポン

2005年01月19日 | Weblog
 いま佐賀駅近くのホテルにいます。
 1月19日水曜の午前3時40分、清潔で穏やかなニッポンの町並みが見えています。

 16日の日曜午後、成田に着き、独研の若い秘書室長(24歳のニューヨーク育ちの女性)の出迎えをうけて、ちょっとホッとして、夕方に帰宅すると、そのままほぼ徹夜仕事。
 翌日の月曜朝に、またまた飛行機に乗って大阪へ向かい、関西テレビに入って打ち合わせのあと、生番組に出演。
 報道番組なら、たぶん帰国直後でも大丈夫なんだけど、この番組はちょっと柔らかい番組なので、リズムがなかなかうまく取れず、あとで、ひとりで反省しきり。

 月曜夕方から深夜は、大阪で公共事業体の幹部と協議や会食、翌火曜日の朝に、新幹線と特急を乗り継いで、九州の佐賀へ。
 佐賀県庁と内閣、総務省、佐賀新聞社が開いた「国民保護フォーラム」で、じぶんの気力を奮い立たせて講演し、そのあと若い実力派知事の古川さん、内閣参事官でファイトマンの大庭さん、佐賀新聞論説委員長で謙虚な人柄の富吉さんと、公開討論会に臨みました。

 夜には、佐賀県庁、佐賀新聞社、内閣、総務省のひとびとと会食し、深夜にホテルへ戻って無意識にちょっと眠り込み、むしろ疲れから自然に目が覚めました。

 移動の飛行機の中、タクシーや公用車の車中、新幹線、特急の中はすべて、原稿の執筆です。

 変なことを言うようだけど、こんな激しい生活は、ぼくはやむを得ないとしても、ほかの誰にも送ってほしくないなぁ。
 だけど、げんきです。

 きょうの水曜日は、佐賀県にある原子力発電所を視察したあと、ちょこっと葉隠城(佐賀城趾)に立ち寄って、夜に帰京します。
 この立ち寄り、そりゃ、うれしいですよ、うん。
 山本常朝さん(あの「葉隠聞書」の語り手)、待っててくだされ。

 木曜の朝には、テレビ朝日系列の「スーパーモーニング」に出る予定ですから、もしよければ、みなさん、どうぞ。
 今回の海外出張の最後の訪問地、ワシントンDCでのことを、すこしだけは話せると思います。
 それから、海外出張で感じたことを、来週発売の「ヨミウリ・ウィークリー」の連載コラムに書きました。


こんかいも空港からタクシーに乗ったとき、どこかホッとしている自分を発見したのです

2005年01月14日 | Weblog
▼これを言うと、いくらか誤解されるかも知れないけど、アメリカに来るとホッとします。
 もちろん、日本に帰ったときがいちばんホッとするのだけど、海外出張の途上でいくつかの国々を回っているとき、入国した瞬間に肩の力が抜ける感じがして寛ぐのは、世界がいくら広くても、アメリカだけです。

 アメリカ合衆国には、ほかのどこにもない、オープンな空気がある。
 アメリカの送った兵士が、イラクの地で子供にいたるまで虐殺している現実も、他方にはあるから、この開放的な空気もアメリカ本土だけであって、世界には戦争を振りまいているとも言える。
 それでもなお、アメリカに入ると、ホッとする。


▼ひとつには、言葉もあると思います。
 イギリスで聞く、ほんらいの英語、女王陛下の英語よりも、そして非英語圏で聞く抑揚のない聞き取りにくい英語より、アメリカで話される英語が聞きやすい。

 この英語の話は、言うまでもなくまったく個人的な話です。
 ぼくは海外に留学したことも、英語圏に駐在したことも住んだこともないまま、仕事で英語を使っています。
 それを可能にしているのは、生まれつきの『耳』だと思う。

 医学的というか物理的な耳は、ダイビングで鼓膜を破ったり、小説『平成』を仕上げるときに無意識に耳をつついて再び鼓膜を破ったり、めちゃくちゃだけど、音を聞く感性という意味での耳は、とくに人間の発する音声について敏感に聞き分ける性質を持っているようです。

 その耳がいちばん馴染んだ英語は、日本語にもっとも遠い英語でした。
 たとえばBOXという英語をイギリスで発音するときと、アメリカで発音するときを比べると、前者のほうが後者よりはるかに日本語に近い。
 近いということは、せっかく外国語を知るのに、意味がそれだけ減ってしまう感じがしたのですね。

 ぼくの通った中学・高校はキリスト教のミッション・スクールで、英語の教師はヨーロッパ人の神父さんが中心でした。
 だから習っていた英語は、イギリスのクイーンズ・イングリッシュでした。
 それを高校生の終わりぐらいに、意識的に自分の発音をアメリカ英語、すなわち米語に統一したのです。

▼その米語が、イラクではぼくの命を救ってくれました。
 どう救ってくれたかは、拙著(日本国民が決断する日)を読んでくれた人なら、知っていますよね。


▼戦争さえしていなければ、世界一つきあいやすいアメリカ。
 でもいつも戦争をしているアメリカ。

 ぼくは16日にワシントンDCから帰国しますが、そのあと、アメリカを考える特番に参加するかも知れません。
 おおげさかも知れないけど、アメリカとは不思議なご縁だなぁ、と思わないでもないですね。



ワシントンDCに移りました

2005年01月13日 | Weblog
▼パリから1月11日夜、再びユーロスターに乗り、深夜にいったんロンドンに戻り着いてから、12日の朝、そのロンドンを発ち、大西洋を越えて12日午後遅くにワシントンDCに入りました。
 いまは、米国東部時間の1月13日午前3時半ごろです。
 ワシントンDCは、どことなくいつもより静かな雰囲気です。
 大統領選のあとの虚脱感なのか、大統領就任式を直前に控えた静けさなのか。
 まぁ、ほんとうはそうではなく、ウィンターホリディの季節が終わったばかりということがあるのでしょう。

 うーんとね、ちょっと今日は「疲れたナァ」という話なので、読みたくないかたは以下は読まないでくださいね。

 海外出張は、諸国の当局者たちとの、神経戦もふくめた渡り合い、討議も疲れますが、こうやって短期に次から次へと国を移るのがいちばん疲れます。
 大量の荷物をまとめては、ほどき、まとめては、ほどき。
 時間通りにきっちり間に合って動かねばならないストレスも、どんどん積み重なります。

 そして異常なまでに、無意味なまでに厳しいわりに無神経な抜け穴も多い、つまりはアホらしい重警備の空港での、首を振りたくなる煩わしさ、やたら長い時間がかかるホテルのチェックアウト・チェックイン、これらのすべてが日本のようにスムーズにはいきません。
 係官、スタッフ、乗客、そのほとんどの人々が、日本では考えられないような愚かな所作を、しかも無反省に、尊大にいつまでも、どこでも繰り返します。

 世界を回れば回るほど、それがアメリカやイギリス、フランスのように世界でもっとも進んでいると自負している諸国であればあるほど、まともににんげんが動くのは日本だけだということが、骨身にしみて分かります。

 当然ながら、もう慣れていますし、それだからと言って海外の諸国と、その人々を軽んじたり嫌いになったりはまったくしないし、良いところ、素晴らしいところを吸収しています。
 それでも、疲労は、隠しようもなく溜まるんですね。
 つかれるんダバァ、どこの言葉か、こんな言葉があるかどうかも知らないけど。

 時差も次から次へと変わります。
 もう時差を意識しない身体になってはいるけど、奥深いところでは、身体はたいへんだと思います。

 せめて機内ではぐったりしていたいんだけど、これがねぇ、そうはいきません。

 たとえば今回の、ロンドン・ヒースロー空港からワシントン・ダレス空港までの7時間半ぐらいのあいだ、食事のときもずっとモバイル・パソコンに向かい合い、書いた原稿が5本、長文のゲラ直しが1本、重大な事柄をめぐる長文メールが1本、そして離陸と着陸のときのパソコンを使えない時間は、資料と書籍を読みます。

 あぁ、のんびりと酒を飲み、メシを食って、知らん顔で窓の外を眺めていたいな。


▼パリでは、信じられないような幸運に恵まれて、フランスの政府当局者、軍幹部、そして企業と、これまでにないヒヤリング、討論ができました。
 国家安全保障のあり方、日仏関係のあり方、フランスと中国の関係のあり方をめぐって激しく本音でディベートをやり、話は、先の大戦の戦争責任まで及びました。

 親日家で知られるシラク大統領が行きつけの有名な日本料理店で、フランス側との昼食会もやりました。
 会話はたいへんに「おいしかった」のだけど、料理は、え、これがパリでいちばんオイシイと言われる日本料理? と思ってしまう程度のレベルでした。

 シラクさん、ほんとうに日本が分かっているのかな?

 夜、ユーロスターに乗るまでのわずかな時間に、オペラ座の近くで、ひょっとしたら独研に参加するかも知れない人材と、同行の主任研究員と3人で、牡蠣などを食べ白ワインを飲みました。
 ユーロスターの発車時刻が迫るなか、あわただしかったけど、おいしかった、愉しかった。


▼わたしたちの仕事が幸運に恵まれるということは、独研の利益ということではなく、天が(そして神さまが)わたしたちに仕事を命じているということです。

 だから疲れても疲れても、前へ進んで、いつかそのうち前のめりに倒れるだけですね。


 武士道といふは死ぬことと見つけたり(葉隠)。

 誠にまことに汝らに告ぐ。一粒の麦、地に墜ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし(ヨハネ伝)。



パリへ

2005年01月11日 | Weblog
 いまはフランス時間の1月11日未明2時(日本時間朝10時)です。
 ロンドンからユーロスター(国際列車)の最終に乗り、ドーヴァー海峡の海底トンネル経由で、深夜のパリに着きました。
 大晦日までパリにいたので、なんだか、いつものパリよりもぐっと親しみを感じます。

 ロンドンでは10日、英国に駐在する日本の外交関係者と会ったり、英国外務省の実務者と会ったり、テロリズムの克服や国民保護に向けて、なかなか充実したヒヤリングができました。

 英国に住んでいるKちゃんが、ぼくと独研・主任研究員のヒヤリングに同行して、勉強をしました。
 日本の外交関係者は地位がとても高く、また英国の外務省では機密事項をめぐる大切な協議でしたから、客観的にみて、ほかでは得られるはずもない貴重な勉強の機会になっただろうなと思います。

 日本に生まれてカナダやアメリカで育った彼女は、イギリスの大学に在学していて、去年の夏にみずから望んで独研にインターン(研修生)としてやってきました。

 せっかくの夏休みを、給与のでないインターンとして独研で勉強する姿勢に、まずぼくは感嘆したのです。
 このKちゃんは、ぶじに大学を卒業し、英国の大学院に進みますが、大学院で実際に学ぶのをしばらく延期して日本に戻り、独研でこの春から研究員として働くことが決まっています。

 独研は、日本の慣行とはほとんど関係なく柔軟な人事体制をとっているので、こういう働き方が可能です。
 ただし、Kちゃんはインターンをしているあいだに、その人柄、能力、志がどれも高く評価できる水準だと確認できたから、採用します。
 口だけではだめ、能力だけでもだめ、みんなとチームワークをつくりながら、創造的な能力を発揮できるひとを迎え入れています。

 独研は、まだ創立2年9か月の若い会社で、小さなシンクタンクだけど、その背負っている責任は信じられないぐらい重い。
 そしてシンクタンクの実力とは、人材の質に尽きます。
 だから人事には、とても厳しい、かつ徹底的に公平な姿勢で臨んでいます。

 さて、ぼくはユーロスターに乗るのは初めてでした。
 子供のころから飛行機が好きということもあり、ロンドンーパリ間もこれまでは飛行機を利用してきたのですが、手荷物検査と金属探知検査をやる列車であるユーロスターのテロ対策を実体験するために、今回はユーロスターにしてみたのです。

 あるネットTV局から依頼されて、独研の主任研究員とぼくで、小型のムービーカメラも回しました。
 帰国後にもしも番組に活かされるようなら、またみなさんにお知らせします。

 ホテルの部屋の窓から、エッフェル塔が見えています。
 パリは、世界のどの都市とも似ていない。
 ほかのどこにもない美しさと、奥行きが限りなく深い魅力を湛えています。
 世界中で、このパリに対抗できるのは、日本の京都だけだと、ぼくはずっと以前から考えているのです。

 だからパリも凄いけど、ほんとに、京都も凄い。
 そして、こころから尊重できる街だけど、ひとがそう付き合いやすいわけでもないところも、似てるよね。

 世界でいちばん付き合いやすいのは、そりゃ、アメリカ人です。
 戦争をしてない時のアメリカ人ほど、やりやすい、話しやすい、付き合いやすい人はいない。
 でも、いつも戦争してるんだよね。


いまロンドン、1月9日の午前4時半です。

2005年01月09日 | Weblog
 英国時間8日の夕刻に、無事イギリスへ入りました。
 機中であまりに眠らなかったので、ホテルでそのまま寝ちゃいたかったけど、風呂で身体を目覚めさせて、会食へ。
 同行している若き主任研究員(ロンドン大学大学院の出身)がセットしてくれた、とても意義ある会食です。

 イギリスは、実は人口が日本の半分ほどしかない国です。
 日本の人口の倍がアメリカ、そして半分がイギリスなのです。
 それなのに英国に入ると、なんとも言えない毅然とした雰囲気、確固たる存在感をびりびりと感じます。
 そして本質的な生活の豊かさですね。

 会食におじゃました、英国人の博士のお宅もそうだけど、とにかく家のなかが広々と美しい。
 イギリスは日本よりもさらに小さな島国ですが、徹底的に、しかも余裕たっぷりに棲みこなしている。

 ロンドンのような都会だけではなく、農村部もそうなのです。
 いや、農村部のほうが上のくらい。
 コッツウォルズのように世界に名を知られた美しき農村部もあります。
 しかも農村部を、いくら列車や車で走っても、日本のような立て看板はただの一つも見つかりません。
 風景と自然そのものを、自分たちの豊かさとして、しっかり守り続けている。

 これから人口の減る日本が、英国に学ぶべきは、まだ
まだ多いのです。
 そして、つまりは日本は、人口が減るからといって悲観することは、ありません。



あたらしい年のシベリアの空から

2005年01月09日 | Weblog
 みなさん、いま日本時間の05年1月8日土曜の午後6時33分、西シベリアの上空です。
 成田を飛び立ってから、7時間近くが過ぎました。
 ロンドンまで、あと5時間半ぐらいでしょう。

 ぼくが海外出張に出るとき、まず東へ、太平洋を越えてアメリカを目指すか、それとも西へ、シベリアを越えてヨーロッパを目指すか、ほとんどの旅はそのどちらかから始まります。

 今回のようにシベリアの上空1万メートルを飛ぶときには、愉しみが一つあって、それは真っ白な大地をうねる大河の脇に、小さな小屋のようなものを見つけることです。
 目を凝らしていると、小屋を出入りする人影まで見えてきそうで、それがちょっとたのしい。

 もちろん見えません。
 なにせ10キロ、先ですから。
 小屋にみえるのも、どうやら巨大軍事施設らしいのです。
 いつもモバイル・パソコンの小さな文字を、揺れるタクシーのなかで見ている眼にとっては、素晴らしい息抜きです。

 もっとも、その機中でも、こうやってモバイル・パソコンを起動してキーを叩いているわけですが…。

 このフライトでは、かなりのショックを受けたことが、あります。
 シベリアの大地が白くない。
 もちろん一面、雪に覆われてはいます。
 だけど、いつもの冬のように白くない。草木の色が、まだ大地に残って、黒っぽい。
 きっと雪が例年のように深くないのでしょう。

 実は、昨年末にパリへ向かったときも、こうやって白くないシベリアを見ました。
 首を傾げましたが、まぁ年が明けて1月になれば、きっと白くなると思ったけれども、変わっていない。
 わたしたちの地球の異変は、こんなにも広大にひろがっているのでしょうか。

 いやぁ、みなさん。
 ここまで書いたら、シベリアの地平線の雲海のなかから、信じがたいほどに巨大な朝陽が、にじむように真紅に昇りはじめました。
 地球の偉大な丸さ、太陽の核融合の凄まじい赤が、瞳からぼくの体内に染みこんできます。
 この眼もくらむような大自然に挑んできたのも、また人類です。
 地球上の生き物でただひとつ、自然をわずかにでも変えてきた、それが人類の戦記です。

 その戦記を、閉じることはしない。
 しかし、もはや新しい章を、書き起こすときです。
 それが人類のためであるだけではなく、この地平線、雲海、太陽のすべての恵みは、ひとり人類のものだけではなく、生きとし生けるもの、すべてに平等に与えられているからです。

 ぼくらは、個人の生活でも、社会の生活でも、国際社会の生活でも、そして生き物すべてのなかの生活でも、みずからのことだけを考えて生きる時代は、去ったのでしょう。
 他とともに生きる、それが希望です。

 朝陽は、赤くあかく姿を現したあと、いったん、墨色にのびる雲に隠れ、それから眼のくらむ金色にかわって、ふたたび昇りはじめました。
 すべては光のなせるわざ、命も美も、すべて光の子であることを実感します。


みなさん、明けましておめでとうございます。

2005年01月08日 | Weblog
 いまは2005年1月8日土曜日の午前10時半ごろ、成田空港のラウンジにいます。
 ひろい窓に、水色の冬の空が広がっています。

 ことし最初の海外出張の始まりです。
 ことし初めて、とはいえ、昨年の大晦日にフランスからこの成田に帰り、そのまま「朝まで生テレビ・元旦スペシャル」に参加したばかりですから、成田を行ったり来たり、という感じが少しありますね。

 こんかいは、まずロンドンに入り、ユーロスター(列車)でパリに行き、またロンドンに戻って、そこからワシントンDCに飛び、帰国します。
 三菱総研のころは、一か月ほど海外へ行きっぱなしだったりしたのですが、いまはすこしだけテレビがあったり、たくさん講演があったりで、短い旅しかできません。
 むちゃらくちゃらなハードスケジュールで、当局者たちに会い、テロリズムへの取り組みや国民保護などについて意見を交換して、あっという間に、16日には帰ってきます。

 さて、これを機に、なんとかこのサイトへの書き込みを再開したいと思います。
 サイトを移転してから、まったく稼働していませんでした。たくさんのかたから、ご心配や問い合わせをいただき、こころから、ありがとうございました。

 まえのように、たっぷりと書き込むことはもう難しいのですが、たとえ一言でも、続けていきたく思います。
 プロフィールをはじめサイト全般についても、書き直しや、見直しを少しづつ進めていこうと考えています。

 ところで、このサイトの表表紙になっているマネの絵を、昨年末にパリのオルセー美術館で眺めてきました。
 それを狙ってオルセーに行ったのではなく、まったくの偶然です。
 そもそも、マネの絵を使ってみたのも、さして意味はないのです。
 しかしオルセーで不思議な縁を感じましたので、このまま掲げてみようかと思っています。

 ご承知のように、マネは、『草上の昼食』を19世紀半ばのパリで発表し、ごうごうたる非難を受けました。着衣の男性2人の横で、裸婦が立て膝をついている絵ですね。
 この絵を、ただ1人支持してくれたのが、作家エミール・ゾラです。
 ゾラは、この絵と同じくマネが集中非難を浴びた絵、パリの娼婦を描いた『オランピア』も、ただひとり支持しました。
 そこでマネは、ゾラを描き、その絵のなかのゾラの向こうには、浮世絵と並んで、ちいさく『オランピア』があります。

 ぼくはマネのタッチも、そのファイティング・スピリットも好きです。
 子供のころから、画集のなかのマネに馴染んできました。
 ドガや、モネと並んで大好きでした。
 そして、実際の『草上の昼食』をみて、おどろきました。
 その裸婦の眼が、どこから絵を眺めても、視線がついてくる、視線が合うのです。
 いたずら心もあるマネは、きっと計算して描いたのでしょう。
 たのしいですね。

 そして、同じ絵を見ているフランス人たちは、絵の前を行ったり来たり、目玉も行ったり来たりの日本人を、きっと怪しんだと思います。