Our World Time

下の写真は…

2007年03月24日 | Weblog

 …ドーハで、アメリカ大統領候補だったクラーク元NATO軍司令官(陸軍の退役大将)とぼくが、フリートーキングで長時間、議論しているところです。


 テーマは、イランに対するイスラエル空軍あるいはアメリカ空海軍の爆撃があるかどうか、その可能性について。
 クラーク将軍は驚くほどフランクに、ぼくがのけぞるような、びっくり内緒証言をしてくれました。
 写真はまさしく、ぼくがクラーク将軍の言葉に、のけぞっている一瞬のようです。
「ほら、ほんとうは、通説と違って、こうなんだよ」と将軍。
「ふえー、ほんとですか。ぼく自身も勘違いしていましたよ」と、ぼく。
 という、感じですね。


 クラークさんは、いまも軍部に影響力をもつ大物ながら、アメリカ民主党を支えているひとりです。
 ドーハの国際戦略会議では、メイン・セッションで議長役を務めていました。会議の表の主役のひとりでもありました。

 撮影は、独立総研の主任研究員J(シアトル育ちの、若き日本女性)です。
 クラークさんも、Jがぼくと繋いでくれた。
 おいJ、凄いぞ、この成長ぶり。



深く淡く生きる   07年の『番外編その1』

2007年03月24日 | Weblog



▼いま2007年3月24日の土曜、お昼の12時半、完全徹夜が明けて、会社(シンクタンクの独立総合研究所)の社長室にいる。

 きのう金曜の午後6時ごろから、この赤い椅子に座り続けているから、ざっと18時間半、この狭いところでほぼ同じ姿勢でいるわけだ。

 中東カタールで開かれた国際戦略会議に招かれて、首都ドーハへ向かったフライトが12時間、帰りはジェット気流に乗って9時間、いずれにせよ、それよりずっと長い時間、はるかに固まった姿勢でいるんだなぁ。

 夜明けごろ、ちょっと、心臓が口から飛び出しかけた。


▼政治記者の時代に、いちど心臓専門病院の集中治療室に担ぎ込まれたことがある。
 六本木にある、東大系の著名な病院だ。

 心臓が口から飛び出すような感覚に、あまりにも頻繁に襲われるので、烈しい政局取材のさなかに、どうにか短い時間をつくって病院に行ってみたら、そのまま歩行を禁じられ、車椅子に乗せられて、集中治療室に運ばれた。

 命にかかわるレベルの不整脈が現れているとのことだった。
 入院した。
 しかし心臓という器官そのものにも、血管にも、異常は何も見つからなかった。

 不整脈の原因は不明だったが、中堅どころの医師は「極端な過労で、起立性の不整脈が出たのでしょう。それ以上は分かりません。器官、血管に異常がないのは確かです。重大な不整脈なのかどうか、何とも言えませんが、このまま入院していても、特に打つ手はありません」と、言った。
 正直でクールな物言いが、印象的だった。

「とにかく過労を避けなさい、ということですか」と聞くと、そうですね、と興味なさそうに答えた。
 それはあなたの問題でしょ、ドクターの務めじゃない、そういうニュアンスかなと思った。

 すぐさま退院して、政局取材の前線に戻った。
 親しい若手代議士に会うと、「青ちゃん、入院してたって? 元気なあんたが一体どうしたの」と聞くので、ありのままに話すと、「あ、俺も、それやったよ、起立性の不整脈。それはね、心配ないよ」と微笑して答えてくれた。
 ぼくは、初任地の地方支局で、国立大医学部をまわって医事記事を書いていたことがある。そのころの知識からしても、そう心配ないと思っていた。
 いずれにしても仕事の最前線から引く気はなかったから、若手代議士に「そうですね」と応じて、すぐに政局の話に入った。

 医師は、退院するとき、山のような薬をくれた。
「副作用はありませんか」と聞くと、「ありません」と、これもクールで簡潔な答えが即、返ってきた。

 その薬を飲みつつ仕事をしていると妙に、頭の働きが鈍い。回転が落ちている感じがする。
 薬が残り少なくなり診察を受けるとき、医師に「ほんとうに副作用はないのですか。頭の動きが鈍ったような気がするのですが」と確認すると、医師はあっさりと「あ、それは作用です。副作用じゃない。きょうも薬を出しておきます」とだけ答えた。

 つまり、頭脳を含めて全身の働きを抑えて、心臓に負担をかけないようにする薬らしい。
 記者の仕事は、頭の回転が落ちれば、仕事にならない。おのれの頭の回転の遅さに落胆することの多いぼくだからこそ、そう思っていた。
 ぼくは、医師に「分かりました」と答え、礼を言って、診察室を出て、もう薬局が準備していた山のような薬を受けとり、薬代を払い、出口近くの大きめのゴミ箱に、すべて捨てた。

 ゴミ箱は一杯になったが、こぼれてはいないのを確かめて、ぼくは心臓専門病院を出て、再びその病院に行くことはなかった。


▼ひょっとしたら、いつ死ぬか、それは分からないなとは胸の奥で思いながら、それは誰でも同じだとも思いつつ、さらに烈しくなった記者の仕事に打ち込み、やがてペルー日本大使公邸人質事件に遭遇し、記者をやめて、三菱総合研究所に移った。

 シンクタンクの研究員という仕事が具体的に何をするのか、よくは知らなかった。
 三菱総研は、「あまりの忙しさにどんどんひとが辞めていく職場だよ」とは聞いていた。

 しかし、ぼくの政治記者生活は、夜中の2時半ごろに夜回り取材を終わり、3時半すぎに取材メモの整理や連絡を終えて、未明4時に帰宅、シャワーだけを浴びて朝5時45分には、朝回りの車に乗る生活だった。
 それよりも忙しい仕事はこの世にあり得ないから、三菱総研についての噂は、まったく気にしていなかった。

 三菱総研の仕事が軌道に乗り始めると、長いときは8日から10日間、帰宅できないで会社に泊まりっぱなしになった。
 自宅は、当時から都心にあり、三菱総研のある大手町からタクシーで15分もかからなかったが、帰れない。

 長いすスタイルのソファがあると研究員がみな帰らずに、その上で泊まるから、三菱総研には仮眠室はおろかソファもない。
 一睡もしないか、夜明けごろに、床に段ボールを敷いて「社内ホームレス」になり仮眠する。
 それが普通になった。
 風呂は、大手町から橋を渡って、神田にある銭湯へ行く。

 そうした朝に気がつくと、秘書役アシスタントを務めてくれていたHのハイヒールが目の前にあって、次には心配そうに覗きこむ優しい顔があって、目が醒めていくこともあった。

『記者時代は、三菱総研の研究員に比べると、ありとあらゆる意味で、まだ楽ちんだった』と気づくのに時間はかからなかった。
 第一、記者時代は、たとえば首相官邸記者クラブの共同通信ボックスは、常時10人以上の記者がいた。互いにカバーして、ちゃんと夏休みもとれた。
 記者クラブには、汚くても枕と毛布のあるソファがあり、記者クラブによっては仮眠ベッドもあった。午後早くのわずかな時間を縫って、交代で仮眠することもできた。

 三菱総研の時代に、何度か、心臓が口から飛び出しそうになった。
 深く気にしたことはない。

 Hを含めて、三菱総研で出逢った仲間と一緒に、独立総合研究所を創建し、代表取締役社長・兼・首席研究員になった。
 資金繰りから人事まで、経営者としての仕事が、これまでの研究や、もの書きの仕事に加わり、たまにテレビやラジオにも顔を出し、講演は急カーブで増えていったから、忙しさというやつは、三菱総研時代の比ではなくなった。


▼しかし、心臓が口から飛び出しそうになるのは、ずっと減った。
 どういう訳か、ぼくの身体は一昨日よりきのう、きのうより今日、年々歳々、しっかりしていく。
 年齢はちゃんと重ねている。もともとカッコよくないが、ますますカッコよくなくなった。

 しかし、なぜか体力だけは増す。
 ごめんなさい、誇張か、それとも冗談に聞こえるでしょう。それでも事実だから、仕方がないのです。

 上体の筋力、それから、もともと陸上競技とアルペンスキーで鍛えてあった脚力も、明らかに過去、最大だ。
 仮眠するかわりに週に一度だけ、ジムに通って、プロのトレーナーと一緒に鍛錬している。
 正直、週に一度では効果があるとは夢にも思っていなかった。

 しかし身体は、まるでスポンジが柔らかく水を吸収するように、数少ないトレーニングの効果を吸い込み、上半身は肩回りを中心に、脚は、ふくらはぎを中心に眼にみえて、つまりプロのトレーナーが「こんなに歴然と変わりますかねぇ」と言うほどに、強化されている。
 筋力だけじゃない。

 たとえば、20代の頃は過敏で弱かった皮膚が、いまは砂漠だろうが大湿地帯だろうが、世界を歩いてどんな苛烈な環境の急変があっても、ほとんど変化をみせなくなった。いつも扱いやすい。メンテナンス・フリー。トヨタかホンダか、おまえは。
 おのれでも、不可思議としか言いようがない。

 もっともっと、もっと仕事をしろ、重くなる責任に耐えろ。おのれを、ただ公に捧げ尽くせ。
 天が、ぼくにそのように、身体を通じて告げている。 
身体をめぐる不思議について、ぼくなりのただ一つの解釈は、それだ。


▼だから、今朝、久しぶりに心臓が口から飛び出しそうになっても、気にはならなかった。
 今は、それも、おさまっている。

 ただね、肉体よりも、徒労感と空しさ、つまりは魂の疲労が、ね。

 3月22日木曜の夕刻、ドーハから東へざっと7000キロ、東京湾岸の自宅に帰り着いた。
 その途中、関西国際空港を経て、羽田空港に戻るまでに、ある報道番組から出演の依頼があった。
 北朝鮮について議論したいとのことだった。

 ドーハで開かれた国際戦略会議で、北朝鮮をめぐって、同盟国アメリカの政府高官らに「日本を裏切るのか」と詰め寄った。
 高官らは、真摯に答えてくれた。

 そのようすは、関西テレビの報道番組「ANCHOR」で、すこしだけ伝えることができた。
 しかし、全国のひとびとから「関西圏以外のわたしたちも知りたい」という声が、ぼくに驚くほどたくさん、寄せられていた。
 だから、同行していた独立総合研究所のS秘書室長にすぐ、「受けるよ」と答えた。その報道番組は、全国に流れている。

 実は、この週末に、国内の遠方へ出かける計画があった。フライトもホテルも予約していた。原稿は大量に抱えていくから休みではないけれど、珍しく私的な計画だった。

 その計画と、報道番組をどう両立させるか。
 木曜の深夜から金曜の未明にかけて、さんざ苦しんで調整した。私的な計画なので、あたりまえながら、秘書室長Sは巻き込むわけにいかない。

 未明に調整を終わり、総務省でおこなった講義の記録の手直しを再開した。
 初めての試みとして開かれた「内閣重要政策研修」での講義だ。各中央省庁の第一線から人材を集めて、あらためて政策の研修をする。
 たいせつな試みだと思うから、一語、一語ていねいに見なおしていく。もちろん無償の作業です。
 話し言葉のうえに、当日のぼくが不調だったこともあって、作業は予想をはるかに超えて困難で、もうすでに計30時間以上を費やしている。

海外出張から帰国した直後で、その海外出張は新しい緊張の連続だったし、帰国便の機中でも、ほとんど寝ないで、上記の作業をやっていたから、深きも深い泥のような疲労が体の奥から湧いている。


▼3月23日金曜の夜が明けてから50分ほど仮眠し、泥濘(でいねい)のなかを泳ぐように早朝、自宅を出発。
 横須賀に向かう。
 関係者の長い努力の末に、ようやく実現した、ひとつの約束があった。
 アメリカ第7艦隊の空母キティホークを、作戦行動へ出撃するまえに訪ねる約束だ。

 横須賀の駅前で、独立総合研究所の研究員、東京消防庁から独立総研への出向者、それに独立総研が招待した東大や東京海洋大の教授(海をめぐるプロフェッショナル)らと落ち合い、独立総研がチャーターしたマイクロバスで、アメリカ海軍基地へ。

 米海軍少佐らと空母内を回り、艦内の心臓部CDC(戦闘指揮センター)と艦外の司令部の双方でブリーフィングを受け、質疑応答をやる。

 日本は将来も核武装をせず、その代わりに、軽空母を含む海軍をはじめ「日本国民軍」を国民合意とわれらの民主主義にもとづいて誕生させ、あらゆる国の核基地を叩くことのできる確かな抑止力を持つべきだという、かねてからの持論を、あらためて確信する。

 そのあと、海上自衛隊の元佐世保総監らのご案内を受け、日本海海戦で勝利した戦艦「三笠」の記念艦を訪ね、帰国子女の多い独立総研の研究員らに近代史と、日本の矜恃(きょうじ、誇り)、さらに昭和の失敗の原因をすこしおしえて、日程を終え、横須賀中央駅に向かうマイクロバスに乗った。
 そのとき、秘書室長Sが「報道番組が急に、キャンセルになりました」。

 ぼくは、こうしたときに、なにも問い合わせはしない。

 最近もほかの局の、ほかの番組でドタキャンがあった。
 もっと他の番組でも、長時間かけて収録したコメントが、「番組の内容が急に差し変わった」とのことで使用されず、ぼくは、ああまたかと思ったが、苦労して日程を調整し、収録時間をひねり出した秘書室長Sが、静かな怒りに燃えていたことがあった。
 これも、ごく最近だ。

 ぼくも、かつてマスメディアにいた。共同通信の記者を20年近く、務めていた。
 しかし、そのあいだただの一度も、取材のアポイントメントをドタキャンしたことはない。自分の都合がどう変わっても、それは関係がなかった。
 記事の内容を突然に変えて、せっかく取材させていただいた中身を葬ることも、一度もなかった。「これ要らないだろう」と言うデスクとぶつかることは、よくあったが、必ず取材相手を大切にした。
 そんなのは、ぼくだけじゃないだろうと思う。「字」の世界に生きる記者なら、たぶん、ごく当たり前のことだ。

 記者時代に、取材相手から「テレビは横暴だよ」と聞くことはあった。このごろは、なるほどね、このことか、と思うことはある。
 しかし決して、クレームは言わない。
 なぜか。
 ぼくだって、人生の一部を、マスメディアで過ごしたからだ。

 今のぼくは、安全保障と危機管理の実務家であって、批評家ではないから、ジャーナリストじゃない。マスメディアの人間ではない。
 作家ではあるけれど、ぼくは自分の今、書くものを、マスメディアと同じジャーナリズムだとは、まったく考えていない。

 しかしマスメディアにいたことがある以上は、それなりの責任を終生、負っていたい。
 記者出身の政治家で、今は立場が違うんだと、さかんにマスメディア批判をするひとが多いが、その生き方は、ぼくとは違う。
 記者を辞めたからといって、立場を豹変させない。

 それに、自分では取材相手に迷惑をかけたつもりがなくても、取材相手からすれば、記者時代のぼくに迷惑を受けたと思っているひとが、確実にいらっしゃる。
 その責任も、おのれが納得できる範囲においては終生、負う。
(犯罪を犯したり、公人として国民の利益に反して、ぼくの記事で指摘されたひとは別です。あくまでも、取材のアポなどの話)

 だから、テレビ横暴説を「なるほどな」と思う今日この頃であっても、ドタキャンにクレームは付けない。急に被害者になって、クレームを付ける立場に、自分を変えない。
 それが主義です。

 しかし、マイクロバスに揺られながら、今回だけは理由を聞こうと思った。
 ひとつには、ドーハでアメリカやイギリス、フランス、インド、中国、カタール、レバノン、イラク、イランの高官たちと、北朝鮮の何をどう話しあったのか、日本を孤立させようという朝鮮半島の策謀と闘うためのヒントをどう掴んだのか、それを聞きたいというひとの声が、たくさん寄せられていたからだ。 

 もうひとつには、北朝鮮をめぐる日本のマスメディアの報道ぶりが、このごろ、ほんとうの焦点をすっぽりと外しているからだ。

 もうひとつは、この報道番組のプロデューサーは元記者で、ぼくと記者時代に同じ時間を過ごし、ぼくとしては友情を感じているからだ。

 駅の混雑のなかで、プロデューサーと携帯電話で話すと「再開された六か国協議から、北朝鮮のキムゲグヮン外務次官が平壌に帰ってしまったから、おおごとかと思ったけど、マカオの29億円を返してもらえばまた戻ってくるだけのことらしいと、新聞から分かったのでね、北の話題はやめたよ」ということだった。

 なるほど、視点をそこに持っていっていたのであれば、確かに、六か国協議はどうせ再開される。協議が根本的に止まりそうな情況では、まったくない。アメリカと北朝鮮は、ヒル国務次官補の暴走によって、つるんでいる。それが変わらない限り、情況は変わらない。
 だから「分かった」と答えて、若き秘書室長S、それに独立総研・自然科学部の専門研究員Fと、混みあう電車に乗った。


▼ドーハで奮闘してくれた、Sよ。
 帰国してからも、お疲れさん。週末は、よく眠れ。バイオリニストでもあるきみは、練習にも行くのかな。

 やがて海洋の研究で東大の博士号をとる、Fよ。
 キティも三笠も、きみにとっては何ものにも代え難い経験になったはずだ。

 ほかの研究員が、いつのまにか姿を消していたのは、ちょっと寂しかった。

 電車のなかでも、懸命に自分を励まして、講演録の直しを続ける。
 ときどき、たまらずに眠りに落ち込むが、はっと目覚めて、モバイル・パソコンに向かう。


▼独立総合研究所に帰り着いて、講演録の直しを続ける。
 報道番組のために苦心して調整した、「国内の遠方ゆき」を一部でも、復活させようと思ったが、その調整の結果として、もう計画はかなり、ぐちゃぐちゃになっているし、講演録の直しを考えると、復活はできないと判断した。

 計画を全部やめて、社長室の赤い椅子に座り直して、講演録の直しに集中する。
 そこから18時間半、ようやく講演録の直しをめぐる作業は、後始末も含めて、終わった。

 しかし、直しのファイルを総務省に送ったあと、担当官と連絡がとれない。受け取りなどを確認できない。
 土曜になっているのだから、当然だ。
 ただ、年度末だから、ひょっとしてこの膨大な作業が無駄になるのではと、不安があり、こころに解放感はない。

 このごろは、身体の強靱さに比べて、こころが弱い。
 こころの疲れ、もっと自分に正直に言えば、魂の疲れについて、もう限界かなと思うことがないではない。

 足元では、シンクタンクの経営、とくに人事と労務に悩み、頑健で鳴るはずの胃が、珍しくもキリキリと痛むことが繰り返される。
 外では、強烈に理解して支えてくれる、少数のひとびとと、嫌がらせ、思い込み、無理解の多数のひとびとの違いが、ずいぶんと、はっきりしてきた感がある。

 それは、必ずしも不満ではない。
 ぼくの根幹のひとつは、国民主人公主義、われらの民主主義への信頼だから、おのれを批判する自由は完璧に擁護する。
 その批判が、自分にとっては嫌がらせ、思い込み、無理解にしかみえなくても、変わらない。
 それは解釈の問題だからだ。
 解釈によって、なんらかの言説をやめろと要求するのでは、民主主義を信頼する資格がない。

 それにね、なにかを変えていこうとするとき、すぐに理解が多数になるなんて、気持ちが悪い。
 生きているあいだじゅう、少数の理解しかなくとも、あたりまえだろう。

 ただ、事実関係が公平にみて違うときには、違いますよと、注意喚起はしたい。
 とは言っても、時間がなくて、その注意喚起もできないことが多いけど。
 このごろ、関西テレビの報道番組にぼくが出演していることについて、関テレは「あるある大事典」という捏造番組をつくったからという理由で、不信感をいわれるかたが、たまにいる。

 しかし現場のリアルな実感として、同じテレビ局でも、報道と、バラエティ番組をつくる制作とでは、本質が違う。
 バラエティ番組が噂でも、いや噂こそをどんどん流すことに対して、報道部門は、確認取材を重ねる、また具体的な根拠を常に求める。それが違う。

 それに早い話が、経費の使い方からして違う。
 ぼくのいた共同通信は、いかなる取材相手にも決して報酬、カネを渡してはならないという社是があったけど、テレビ局でも報道部には、それに近い清潔さがある。(ただし、同じではないことも正確に言っておきます)

 ぼく自身も、関テレとなんらの契約関係もない。
 毎週水曜日に、テレビにしては長めの時間をいただいて、ぼくの解説コーナーを放送しているけど、契約関係はない。あくまでも、ただの一出演者だ。

 報道番組を含めた出演者には、え、こんなに権力批判をしているひとが、というようなひとでも、実は権力に楯突いたりは絶対にしない芸能プロに属して、出演交渉から、庶民からみて高額のギャラの受け取りまでを託しているひともいる。
 ぼくは決して、芸能プロ、あるいはテレビ制作のプロダクションには属さない。出演交渉は、ない。ギャラも、いわゆる文化人枠のそれで、芸能プロと結んで受けとるひとのそれとは、けた違いに、かけ離れている。

 制作部門のつくった「あるある大事典」の捏造は、いくつもの点で、永久に許されざる行為だ。
 ひとの健康をめぐって、むしろ人びとの健康への関心を利用して、幼稚な嘘の捏造データを、公共の電波で垂れ流したのは、人間、生活者への罪だ。
 こうした愚行によって、テレビメディアへの国家権力の介入を大きく広げつつあるのも、マスメディアの問題にとどまらず、国民の知る権利を侵害している。

 それから危機管理の専門家としての視点からも、あまりに稚拙な対応が目立つ。
 捏造であることが分かったあと、関テレによる中間報告と、外部の人を入れた調査委員会の報告が大きく食い違ったことは、その罪を隠蔽しようとしたとみられかねない。
 外部の人を入れた調査委も、関テレ自身の委託であるのに、みかけからすると「捏造の事例を、わざと限定しようとした関テレ」と、「それを打ち破った外部の調査委」の食い違いにみえてしまう。
 危機管理の教科書に「悪いサンプル」と載ってしまうような、間違いだ。

 その間違いが、関テレにマイナスになるだけならまだしも、メディア介入に野心的な菅義偉総務大臣は、さっそく、そこに突っ込んで「関テレが隠蔽しようとした」という趣旨のコメントを出している。
 関西テレビはマスメディアなのだから、危機管理が稚拙だと、自社に被害を与えるだけではなく、国民のための知る権利を介入から護ることにもダメージを与えてしまう。

 しかし、同じ関テレの報道部の記者たちは、志のある奴が多い。
 ぼくは共同通信を去ってから、もう9年ほど、関西テレビ報道部の若手記者からベテラン記者まで、無償ベースで選挙報道のあり方についてアドバイスし、ぼくなりに鍛えてきた。
 先ほど述べたように契約関係がないのに、なぜそれをするか。
 関テレは、東京のネット局以外では日本最大の民放であり、報道部には、地方の心意気とともに気骨ある報道をやりたいという雰囲気が満ちているからだ。

 硫黄島にぼくが入ったのも、清潔な志を持つ若手記者Sさんが、防衛庁(当時)に「戦後の日本人として現地をみたい」と申し入れて即、はねつけられ、ぼくに相談したのが最初のきっかけだ。
 ぼくはS記者のおかげで、英霊と出逢った。故郷に帰れないでいる英霊のかたがたと逢った。
 S記者がいなければ、ぼくは「硫黄島は立ち入り禁止」と掲げる防衛庁と、果たしてあんなに困難な交渉を始めるきっかけがあったかどうか。

 ぼくよりいくつ年下だろうが、そんなことは関係ない。防衛庁との交渉はすべて、こちらでやった。それも関係がない。
 S記者が最初のきっかけをくれた恩は終生、忘れない。
 その恩だけでも、関テレが制作の恥ずべき行為で、報道までどれほど色目でみられようとも、それを口実にしたアンフェアな中傷が現に、ぼくに向けられていても、ぼくは関テレの報道番組には出演します。


       * * * * *


▽さて、みなさん、きっとぼくの非力のせいで、ドーハの成果を、全国のテレビ視聴者には今のところ伝えられないことを、お詫びします。

 ドーハでなにがあったか、それを詳細に知っていただけるのは、クローズドの会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポート)の会員のかたがただけになる。
 しかし、もともとオープンなテレビ番組では、諸国の関係者の実名をはじめいろいろな制約があるし、それから、このブログで、先にお約束したとおり、簡潔にではあるけれどいずれお伝えします。



さあ、どうでしたか。

2007年03月21日 | Weblog



▼中東カタールの首都ドーハからの、生中継は、どうにか無事に終わりました。
 いまドーハ時間の3月21日夕刻5時10分。日本時間の夜11時10分です。

 帰国するカタール航空機が飛び立つ空港へ向かうまで、あと3時間ちょっと。
 ほんとうは休みたいところだけど、出発までに送らねばならない「自動車販売連合会(自販連)総会での講演録の校正」を必死でやっています。

 生中継した関西テレビの報道番組「ANCHOR」への感想が、きょうに限って今のところ、ほとんど何もこないのが、寂しいな。
 どうしてかなー。
 分かりにくかったかな、見苦しかったかなと、ちょっと心配です。

 あ、催促するようで、申し訳ない。


▼ぼくなりに、懸命にやりました。
 いつもより、話せる時間が半分になっていたので、どうやって、いちばん大切なことを伝えようか、そればかりを考えていました。

 カタールでの、さまざまな、そしてそれなりに意味のあることは、また帰国後に「深く淡く生きる 07年の3」として、書き込みます。


※写真は、まさしく生中継中の光景です。カタール国営テレビの庭を借りています。うしろの衛星パラボラアンテナを使って、6500キロを越えて、日本に送られました。
 独立総合研究所の秘書室長Sが、撮ってくれました。


深く淡く生きる   07年の2

2007年03月20日 | Weblog



▼カタールの首都ドーハに入って3日目の2007年3月19日月曜の朝、1時間半しか寝ていない眠気を、朝風呂でどうにか飛ばして、アメリカ政府高官との朝食ミーティングへ。

 独立総合研究所(独研)の主任研究員Jと、秘書室長Sが同席。
 この季節のドーハは、ベストシーズンで朝は爽やかだ。
 その気持ちのいい空気のなかで、ぼくとの再会をこころから喜んでくれているアメリカ政府高官に、ちょっと気の毒ではあったけど、「同盟国アメリカは、北朝鮮にすり寄って、日本を裏切るのか」と、真っ直ぐに聞いた。

「北への金融制裁で封鎖した違法資金の全部を、北の独裁者に渡すと、ヒル国務次官補が言明した。これはショッキングなニュースだ。同胞を、その独裁者に誘拐・拉致されている日本国民にとっては、受け入れがたいアメリカの変化だ」とも告げた。

 するとアメリカ政府高官は「青山さんに同意する。同感だ」とストレートに答え、「ヒルはどうかしている。ヒルを含む国務省全体が、どうかしている」と国務省主導で北朝鮮との妥協が進んでいることを正面から内部批判して、「クレイジーだ」とまで言い切った。

 この話題が出るまで爽やかだった高官の表情は、みるみる曇って苦しげになり、「朝メシがまずくなるなぁ」とユーモラスな顔をつくって、ほかの話題に移りたそうだった。
 それが分かりつつも、ぼくは心を鬼にして、「こんなことをするなら、アジアと世界にとってもたいせつな日米関係は間違いなくおかしくなる。安倍政権の官房長官らは、核廃棄の進展のためには金融制裁の全面解除は良いことだという公式ステイトメントを出しているが、こころある日本国民はそうは思っていない」と畳みかけた。

 さらに北朝鮮について掘りさげて議論したあと、おたがいの家族の話題まで久しぶりにゆっくりと話して、高官と別れ、ぼくは関西テレビのクルーとドーハ市内のロケに出る。
 出るまえに、何人かのアメリカ、中国などの外交関係者らとあいさつを交わした。


▼ロケは、市内のスーク(市場)が中心。
 関テレの新人女性アナウンサーのYさんが一緒だ。たいへんに長身で、ハイヒールを履いて180センチぐらいかな?
 Yさんがスークで、アバーヤ(ムスリムの女性が着る黒衣)を着てみるところも、楽しく撮った。とてもお似合いでした。

 ドーハのスークは、乾いた明るさがあって、雰囲気がなんとも言えず、いい。
 中東諸国のさまざまなスークを訪れたけど、想像以上に、お国によって個性がある。
 ぼくらはあまり、中東をひとくくりで考えないほうがいいと思う。
 いや、経験に基づいて、もっと正直に言えば、中東をひとくくりにしてしまう見方が、まさしく間違っている。それが、世界と中東がなかなか折り合えない、ひとつの原因だ。

 ロケのあいだ、同行している独研のS秘書室長は、ぼくをアテンドする本来任務もこなしながら、ずっと、ひっきりなしに携帯電話で「関テレの伝送、中継ラインを確保する」という、本来の任務ではない、苦しい交渉を続けている。
 わが社員ながら、見ていて、内心で頭が下がる思いだった。

 それでもラチがあかないので、とうとう、国際会議場にいる独研の主任研究員Jも、各国の要人と会う本来任務を中断して、関テレのための交渉に加わる。

 ロケはすこし早めに終えて、ホテルと国際会議場へ戻る。
 ぼくは、インドのキーパーソンと極秘裏に会う。
 インドの政策形成を担う、この人は「中国の核ミサイルはインドの主要都市に照準を合わせている。インドの核開発・核実験の目的は、この中国に対抗するためだ」と明言した。
 ぼくは、その言い切りぶりに驚きながら「パキスタンへの対抗は、目的じゃないのか」と聞く。
「パキスタンは小国だ。それにアメリカにコントロールされている。どうでもよい。われわれの核は、中国に対抗するためにある」と再び、明言する。

 ぼくは「中国の核ミサイルは、日本の主要都市にも照準を合わせている。中国とフェアに向かい合うために、またアジアにアンフェアな覇権が生まれないために、中国のひとびとにとっても幸福があるように、日本とインドの戦略的関係を構築することが必要だ」と語りかけ、彼は深く同意しつつ「日本にはこれまで、その視点が欠けていた。外務省の官僚に任せていては駄目だ。インドの外務省に任せていても、同じく駄目だ。官僚の行動と発想を超えて、インドと日本の新しい関係をつくろう」と語ってくれた。

 彼に「日本がもし、北朝鮮と中国の核に対抗するために、核武装するとしたら、どう考えるか」と聞くと、彼は即座に、「核は平和をつくる。日本が北朝鮮や中国に侵されたくないなら、日本は核武装すべきだ」と答えた。

 日本は、民衆を大量殺戮する核兵器を持たず、一方で、どこの核基地をも叩ける通常兵器を完備した国民軍を誕生させるべきだという、ぼくの持論はもちろん変わらない。
 だけども、インドのキーパーソンから、こうした明瞭な意見を聴いたことは、フェアにみなさんに示しておきたい。
 このキーパーソンは、ここまで明言してくれたのだから、具体的に誰であるか、誰と会ったかは、永遠に明かしません。


▼この頃になって、関西テレビの画像や音声の伝送、中継の手段が確保できていない問題が、奇跡的に、まさしくミラクルとして、急転、解決した。
 独研の秘書室長Sと、主任研究員J、このふたりの献身と、豊かな人脈、タフな交渉力が奇跡を生み出した。
 ぼくが独研の社長だから言っているのではありません。関テレのスタッフも含めて、誰もが認める公平な事実だと思う。


▼そのあと、アメリカの国防次官補代理に就任するジェームズ・クラッドさんと、関西テレビのカメラの前で、インタビュー収録を行った。
 名前と顔を出してのインタビューだったが、ぼくは「若いひとを中心に、日本国民のなかに日米の同盟関係に疑問も出ている。アジアへの対応を誤らないでほしい」と強く訴えた。

 このクラッドさんは、ペンタゴンの、いやアメリカ合衆国全体の、まさしく良心とも言うべきひとだ。
 収録した関テレのスタッフたちは、ジャーナリストだから権力に対して常に批判的な立場に立つが、このクラッドさんの誠実な話しぶり、真摯な内容、柔らかで偉ぶらない人柄を絶賛していた。

 クラッドさんは、ぼくのたいせつな、魂の友だちのひとり。だから嬉しかった。


▼そのあと、いったんホテルの部屋に戻って、仕事、仕事。
 夜8時から、国際戦略会議のオープニング・レセショプションに出席。
 カタール、イギリス、アメリカなどの要人と、うち解けて会話する。
 そしてイラクの要人とも会った。
 ぼくが「わたしもイラクへ行きました」と言うと、「ああ、そうですか」という感じだったのだが、いつ行ったかを何げなく言うと、彼は仰天し、「あの危険な時期に行ったのかぁ。信じられない」と目を見開いて、態度が一変した。
 うん、確かに怖かったですよ、イラクは。地獄とは、地面の下にあるのではなく、地面の上のイラクにあると考えましたね。
 そう思ったけど、もちろん口には出さなかった。

 会場を回るにつれ、一緒にいる独研の主任研究員Jがどれほど努力を積み重ねて、各国の要人と独自の人脈を築いてきたかが、よく分かり、内心で、たいへんに喜ぶ。
 ぼくは期待している人材には厳しい。徹底して、厳しい。期待していない人材には、ほとんど何も文句を言わない。
 Jは、期待していたから、この世でぼくにいちばん叱られてきたひとだと思う。
 その鍛錬が、こうやって目の前で成果を結ぶ。うーん、こりゃ、信じがたいほどうれしいよ。

 長時間のレセプションのあと、いったん部屋へ戻ると、無意識のうちに30分ほど泥のように寝込む。
 はっと目覚めて、深夜零時、大急ぎでホテルのロビーに行く。

 首相補佐官(国家安全保障担当)の小池百合子さんが、ちょうど到着。
 ロビーの隅で、明日の会議にどう臨むか、簡潔に打ち合わせをし、ぼくの願いを伝える。
 日本で初めての国家安全保障担当の首相補佐官、そしてアラビア語も英語もできる女性、小池さん、いろいろな辛いこともあるようだし、批判や中傷も聞くが、世界が注目している。
 明日の会議のような大舞台には、きっと強いひとだ。

 それからぼくは再び部屋に戻り、こうやって、すさまじい眠気と闘いながら、仕事を続けている。

 まもなく、また夜明けがめぐってくる。
 ちょっと、ひとはだが恋しい。



深く淡く生きる   07年の1

2007年03月19日 | Weblog



▼中東カタールの首都ドーハに、現地時間の3月17日土曜の深夜に到着。気流の関係なのか、ヨーロッパへ行くより長いフライトだった。
 日本時間では18日日曜の朝になっている。

 このごろ海外出張を、独立総合研究所(独研)の主任研究員に任せて、ぼくは出ないことも多いから、タイムラグ(時差)を感じる体になってしまってる。
 ぼくひとりで諸国を駆け回っていた頃は、時差など何も感じず、どこでもいつでも眠れた。いまは、日本時間に体が引っ張られて、眠りに入りにくかったりする。

 もっとも、その頃より仕事がさらに増えているから、眠る時間はどうせ、ない。
 ホテルの部屋で1時間半ほど眠って、パソコンに向かって仕事をする。
 ぼくのノート・パソコンは出発直前に、壊れてしまったから、若き秘書室長のSが用意してくれていた予備のパソコンだ。

 ぼくのノート・パソコンはいつも、ぼくが倒れる先の身代わりのように、ばったりと倒れる、いや壊れる。
 すさまじいハードユースだから無理もないが、タイミングがね、悪すぎるよなぁ。
 しかし用意の良かったSに感謝。今いちばん身近にぼくを見ている人だから、ぼくの前にパソコンが壊れることも、よく分かっていたらしい。


▼ホテルの部屋で仕事をしていると、現地時間の18日日曜の昼を過ぎる。
 午後2時すぎまでには、世界でもっとも存在感のあるニュース専門テレビ局であり、中東で初めて「報道の自由」を掲げた『アル・ジャッジーラTV』に入ってなければいけない。
 有名なアフムド・シェイク編集長にインタビューする約束になっているからだ。日本の視聴者に届ける、大事なコンテンツ(中身)のひとつだ。
 ところが、同行している関テレ(関西テレビ)のクルーから何の連絡もない。

 ちょっと心配していると、関テレがロケからようやく帰ってくる。
 ところが、この現地から日本へ水曜日に生中継する許可を取ろうと、カタール政府と交渉しているだけで時間がとられ、遅くなってしまったとのこと。
 ぼくの懸念していたことが、現実になった。

 コーディネーターを雇って交渉をしてもらっている、とのことだったけど、中東の恐ろしさを知らないのじゃないかなと心配していた。
 コーディネーターといったって、よほどいいコネクションをたどって雇わないと、大半は、なんらかの問題がある。
 関テレの雇った女性コーディネーターは案の定、自分が楽をすること、それなのに自分が褒めてもらうこと、そして言い訳をすることばかりに関心があるようなひとで、アル・ジャッジーラTV局に向かう運転も、どこへ行ってしまうのか分からないような困った運転だ。

 ようやくアル・ジャッジーラTV局に着くと、セキュリティ・チェックで引っかかり、コーディネーター女史は「カメラは持ち込めないと思う」と言い出す。
 おいおい、それじゃ編集長にインタビューをしても、視聴者に届かないじゃないか。

 これは、ぼく自身が交渉するしかないな、きょうはインタビューに当然ながら集中したかったけど、それは諦めて、交渉込みでやるしかないなと、胸の内で決める。
 コーディネーター女史が当てにならず、関テレのスタッフは英語が不得意となると、インタビュアーのぼく自身が切り開いてインタビューを実現するしかない。

 セキュリティ・チェックをどうにかくぐり抜けて、構内に入る。
 応対に出てきたアル・ジャッジーラTVのスタッフに「編集長とアポイントメントがある」と強調して、関テレのムービー・カメラは回しっぱなしのまま、中へ、どんどん入る。

 シェイク編集長の部屋に突撃して、インタビューを開始。
 シェイク編集長は「え?撮るの?」と言う。あんた、テレビ局の編集長だろうが。

 ちょっと嫌がっている編集長に、マイクまで付けさせてもらって、インタビューの収録を始める。
 イラクのこと、イランのこと、イスラエルのこと、もちろんアメリカのこと、そして六か国協議で苦しい立場に立つ日本のこと。
 予定時間を大幅に超えて、たっぷり話す。シェイク編集長は、百戦錬磨でしたたかな、アラブの代弁者だった。

 そのシェイク編集長に、アル・ジャッジーラTV局の内部を撮影させてくれと、頼む。
 コーディネータ女史は、「関テレの依頼は急だったし、テレビ局内部の撮影許可なんて、ふつうは下りない」と下手な英語で言い張り、関テレのカメラマンに「許可がないんだから、撮影をやめなさい」と叫んでいる。
 あなたはいったい、何を、コーディネイトしているのかな?

 シェイク編集長に「許可がないのだけど、このまま局内を撮影させてくれ」と頼むと、編集長は困惑しつつ、姿を消す。
 さぁ、誰かに交渉しに行ってくれたのか、それともインタビューが終わったから姿を消したのか、判断がつかない。
 とにかく居座ることにして、カメラは回しっぱなしにしてもらっていると、シェイク編集長が「国際担当」という人物を連れて、戻ってくれた。
「この男を案内役に、どうぞ局内を撮影してください」とシェイク編集長。やれやれ。

 この人物は話せば話すほど好意的になり、こちらの希望するところは全て、撮影させてくれた。
 報道の自由という観念そのものがなかった中東から、とにもかくにも「報道の自由」を掲げて世界へ発信するアル・ジャッジーラTVのニュースルーム(CNNと同じくキャスターらが生放送で発信する現場)からパラボラアンテナの集積基地まで、撮りに撮った。

 この「国際担当」のひとと別れを告げたあとも、関テレのカメラマンが建物の外観などを撮っているので、ぼくは慌てて「もうやめて、早く撤収しましょう」と大きな声を出す。
 セキュリティがひょっこり現れて、「撮影は許可証がないと禁止だ。テープを出せ」と言うことも充分にあり得るからだ。
 中東に限らず、日本のような自由のない世界では、仕事を七分目で終えてさっさと撤収することが肝心だと、経験からしていつも考えている。


▼アル・ジャッジーラTVでの取材は無事に、やや奇跡的に終わったが、肝心の日本への伝送、中継の許可が下りていない。伝送や中継の手段そのものも、なんら確保されていない。
 うーむ、これまで体験したことのない、びっくりの現状だ。

 コーディネーター女史が全く当てにならないことがカンペキに判明したので、なんと、ぼくと独研の若き秘書室長Sが、関テレのディレクターと一緒に、アル・ジャッジーラTVのエンジニアに協力してくれるよう交渉する。

 おいおい、ぼくらは番組のコンテンツ(中身)を充実させるのが役割で、伝送とか中継の技術的なことは何も知らないし、こりゃ困った話だ。

 アル・ジャッジーラTVのエンジニアは、親切に応対してくれたが、アル・ジャッジーラの局としては協力できないとのこと。
 代わりに「カタールTV」を紹介するというが、その紹介うんぬんのややこしい交渉と、面識も何もないカタールTVの側との交渉も、実質的に独研のS秘書室長と、ぼくが担うことになってしまった。

 S秘書室長は、肝心の国際戦略会議でのぼくの役割をサポートする本来業務をこなしつつ、話がなかなか伝わらない相手と、電話で交渉を続ける。
 彼女の疲労と困惑が、ぼくに肌で伝わってくる。

 その最中に、カタールに駐在している、ある日本政府の関係者と会って、食事をともにする。
 誠実なひとであったが、「雑務に圧迫されて、情報収集(インテリジェンス)は何もできていない」と言う。
「アル・ジャッジーラTVは、イスラーム過激派の影響下にある」とも言うので、その根拠を聞くと、実は情報は何もない。

 ぼくは疲れてもいたし、人柄がよい相手だし、どうしようと思ったけど、心を励まして「インテリジェンスをやらないでは、日本国民に負託されて、この地にいる意味がない。雑務は理由にならない。同じような雑務を抱えつつ、ぼくも驚かせるほどのインテリジェンスを遂行しているひと(日本政府の関係者)が、この中東に複数いますよ。残り任期に、せめて、もう一度、新しい努力をされてはいかがですか」と問いかける。

 そして「アル・ジャッジーラTVはむしろ商売上手なビジネス集団だ。反米的でアラブ民族主義に傾いた報道をすれば、視聴者が増えて儲かるのは当たり前であって、その報道ぶりだからイスラーム過激派に資金を提供しているとか、逆に資金をもらっているとか決めつけることはできない。社員のなかに、過激派のシンパなどが、そりゃいるかも知れないが、組織としてどうか、とは別の問題でしょう。組織としてのアル・ジャッジーラTVが過激派と関係を持つなんて、リスクの高すぎることをやるとは、具体的な根拠のない限りは、思えない」と話した。

 食事は、まぁ、ずいぶんとマズイ、冷えきった味のイラン料理の店で、支払いだけは立派な金額だった。
 インテリジェンスをやっているひとであれば、現地人の行く、おいしい店を必ず知っている。このひとは、この店すら「ほとんど来たことがない」とのことで、食事は現地の情報源と接触するのではなく、家族と一緒にいつも家庭で食べていたんだなぁということが、分かる。

 そんな生き方も、ある。
 だけど、生涯にまたとないかも知れない中東赴任の機会だし、なにより国民に負託されているのだから、家族との食事も大切にしつつ、現地のさまざまな立場のひとびとと交流し、情報を手にしてほしい。
 人柄の良い人と書いたのは、もちろん社交辞令ではなく、ほんとうにそうだから、ぼくは惜しむ。リカバリーを、こころから期待している。
 まだ会って2回目のぼくに意見されるのは、きっと不快な体験だろう。それを、どうか活かしてほしいな。


▼ホテルへ帰ると、どっと疲れが噴き出す。
 秘書室長Sも、思わぬ専門外の仕事に疲れ切っているだろうに、それを顔に出さずに耐えて奮闘している。
 がんばれ、きみのような志ある次世代に灯火を渡すために、ぼくは命を削ってる。
 きみのような、ひとたちが、いる限り、ぼくらのこの祖国は大丈夫だ。

 とりあえず1時間半ほど仮眠をする。
 ベッドがふかふかで快適なのが、救いだなぁ。
 だけども、なにやら哀しみでいっぱいの夢をみて、うなされるように目を覚ました。
 どうして、ぼくは、こんなに、悲しいのだろう。

 ともあれ、さぁ、また夜明けに向けて、仕事だ。
 明日の朝は、アメリカ政府のなかで最も信頼している高官と朝食ミーティングが入っている。
 北朝鮮にすり寄って、日本を裏切るのかと、彼の胸に聞いてみよう。



 この地味なサイトに来てくれるひとのために、なにか写真をアップしたいけど、きょうのぼくは「テレビ局の中継基地を確保する交渉」などという、まったく知らない世界の仕事にいきなり直面して、ちょっとね、写真を撮る余裕はなかったです。
 ごめんなさい。

 …と書いたところで、このひとつ前の書き込みにいただいたメッセージ、「チンシャ猫」さんと「さくら」さんのメッセージをいま読んで、ちょっと涙が出ました。
 ありがとう、ああ、ほんとに励まされます。

 だから思い直して、ホテルの部屋のテラスに出て、一枚、撮りました。
 なんだか前と似た写真で、やっぱりごめんなさい。

 だけど、ペルシャ湾に面した砂漠の地、ドーハらしい夜明けの色は感じてもらえると思います。
 ペルシャ湾は、意外なほど水がきれいです。エメラルド色に澄んでいる。そして、この季節の夜明けは、これも意外なほど、穏やかに、もやっていることが多い。強い太陽が出てくるには、すこし時間があるのです。

 いま現地時間の3月19日月曜の早朝、5時45分です。



希望について

2007年03月18日 | Weblog



▼いま、日本時間で2007年3月17日土曜日の午後9時15分、中東カタールの首都ドーハに向かう機中にいます。
 ヒマラヤ山脈の北を飛び、モンゴルを越えていこうとするあたりです。
 きょうのフライトも、地平線のオレンジと紅(くれない)の色が胸に残りました。もう地平線は、無限の闇に沈んでいます。

 ドーハでは、国際戦略会議に出席します。
 このグローバルな戦略会議は、ことしが2回目の開催です。

 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデンなど欧米諸国、中国、インド、バングラデシュなどアジア諸国、イラクやイラン、それにイスラエルとパレスティナを含む中東諸国、アルジェリア、南アフリカなどアフリカ諸国…文字通りに世界中から、政府高官や軍人、学者、シンクタンクの研究者らが集まって、イラク戦争後の中東をどうするかを中心に、議論します。

 日本からは、首相補佐官(国家安全保障担当)の小池百合子さん、独立総合研究所(独研)社長としてのぼく、独研の主任研究員 J らが、カタール政府からの公式招待で参加します。
 ぼくとJ主任研究員は、去年の第1回会議も参加しました。小池さんは、初参加です。

 このような会議は、トラックⅡ(ツー)と呼ばれます。
 トラックⅠ(ワン)は、たとえば、サミットをはじめ諸国の首脳が集まるような会議です。
 トラックⅡの会議は、実務者が官民の壁を越えて広く集まって、トラックⅠの会議の中身を事前に詰めていったり、下支えをしたり、トラックⅠよりもっと本音むき出しで激論を交わしたりするのが役割です。

 シンクタンクの独立総合研究所が何をしているのか、いまだに「分からない」という人も多いから、たとえばこの国際戦略会議に正式に招かれて、日本とアジアの立場をまっすぐ真ん中から、利害関係なく主張している役割を考えていただくと、すこし分かってもらえるかな?


▼当初の予定では、帰国が来週3月21日の水曜でした。
 だから、毎週水曜にレギュラー出演している関西テレビの報道番組「ANCHOR」の特報コーナー『青山のニュースDEズバリ!』は、ぎりぎりの出演になりそうだ、もしも飛行機が遅れたらヤバイね、という話をしていました。

 すると、なんと思いがけず、関テレ報道部がドーハに乗り込んで現地から生中継で『青山のニュースDEズバリ!』をやりたいという申し出が、プロデューサーからありました。

 この積極姿勢には、ちょっとびっくり。
 関テレは、制作セクションがつくったバラエティ番組「あるある大事典」のデータ捏造事件で、意気消沈しているけど、報道セクションがこうやって、前へ踏み出す姿勢で踏ん張ろうとしているのは、ぼくは評価します。
「あるある」の捏造は、絶対に許されない、テレビ界の驕りだと思います。
 自分たちの誇りや仕事も、視聴者の立場や気持ちも、何もかも踏みにじった、決して忘れることのできない恥ずべきスキャンダルです。

 しかし、あくまでもバラエティ番組の制作現場で起きたこと。報道の現場は、ぼくの知る限り、まったく違います。

 ぼくは元政治記者として国政選挙のたびに、関テレ報道部の記者たちに、「裏選対」の回り方をはじめ取材のやり方をアドバイスして、志のある、私心や虚栄のためではなく民衆のために戦う記者が育つよう、利害関係は一切なく手助けをしてきました。
 育てると言えば僭越だけど、ぼくが政治記者時代に命をすり減らしてでも身につけようとした取材ノウハウを、すべて伝えようと試みてきました。

 だから報道部の人たちには、同じ関テレの起こしたスキャンダルを謙虚に受け止め、深く自省しつつ、報道の誇りをもって、関テレの名誉回復のためにも頑張ってほしかったので、このプロデューサーの申し出を、受けました。

 となると、独立総合研究所も、主任研究員の J のほかに人を出す必要が生まれて、今回は若き秘書室長の S も同行しています。
 J はシアトル 、S はニューヨークで育った帰国子女なので、早口の英語が飛び交う国際会議では充分に力を発揮してくれます。

 3月21日水曜(祝日)の関西テレビの報道番組『ANCHOR』は、午後5時から5時半にかけて、「青山のニュースDEズバリ!」の特別編としてドーハから生中継があります。
 もしよかったら、ちらりと見てみてください。





▼さっき、この機中で眠ろうとしたのだけど、オレンジと紅の地平線をみていて、なんとも言えない寂しさが胸に湧いて、こうやって暗い機中で音を立てないようにしつつパソコンに打ち込んでいます。

 けさは、関テレの「ぶったま」という柔らかめの番組に生出演して、わたしたちの祖国がこれから向き合わねばならない孤立、ほんとうの自立と独立を勝ちとるためにこそ通過せねばならない名誉ある孤立について、ぼくなりに懸命に話しました。

 生放送のあと、たまたま視聴者の反応を少しだけ、聞くことができて「分かりやすかった」と言ってもらって、ちょっとだけ、ほっとしました。
 こんな話をどこまで分かってもらえるか、心配していたから。

 ぼくは、テレビ出演と講演のあとには、必ず、落ち込みます。
 同行している独立総合研究所の社員が驚くほど、がっくり落ち込む。
 おのれの話しぶりに、まったく満足できない。下手で下手で、たまらない。本心そのものです。テレビ出演や講演が終わると、「あそこが不充分だった」、「あそこが説明不足だった」と悔いがどっと押し寄せます。

 けさの生出演のあとも、関西国際空港に向かう車中で、落ち込んでいました。
 空港で、たまたま視聴者の反応を知って、いくぶん救われたけど、自分の仕事に満足できない気持ちは、変わりません。

 地平線をみていて、なんとも言えず寂しかったのは、そのせいもあるのかなぁ。

 ぼくが、自分の仕事で、それなりに納得できるときがあるのは、文章だけ。
 その文章も、何年かあとに読むと、穴があったら入りたい気持ちになるのですが、書いた直後は、けっこう納得していたりする。

 それもあって、ひとりの物書き専業になって、どこか遠くで原稿だけ書いて、たいせつな祖国に送って、ごく身近なひととだけ暮らして、ひっそり死にたい気持ちがあります。

 だけども、やはり祖国から遠ざかってはいけないと思う。
 だから、国家戦略のアナリストの仕事も、力を尽くして続けなきゃいけないし、祖国と世界のための戦略家であろうとする限りは、マスメディアであれ講演であれ、広くみんなに分かってもらおうとする努力も続けなきゃいけないと思う。

 ただね、思い込みによる中傷、山のようで壁のようでいて、ごく気軽に繰り返される感じもある無理解、日本に巣くう「権威主義」、「権力と反権力の巧妙な癒着」との徒労感の深まる闘い、それやこれやで、疲れることは疲れます。
 疲れても、いつか天か神さまが、ぼくを永遠に休ませてくれる。こどもの頃、死ぬことが心の底から怖かった。いまも怖いけど、ああ、いつかは休めるのだから、とも思える。


▼さてさて、カタール航空機は、ときに大きく揺れながらも着実に、ドーハに近づいていきます。

 世界中から戦略家が集まってくる会議、しっかりと力を尽くして、ぼくの下手な話でも理解してくれる視聴者、下手な講演でも背筋を伸ばして聞いてくれた聴講者、それから例えばミクシィのコミュニティに集まってくださっているみなさん、びっくりするぐらい増えたことは増えた理解者のかたがたに、応えたいと思います。

 空の上に浮かんで書いているせいか、胸の奥の本音を言いすぎたかも知れません。
 みんなは寂しくないよ。うまく言えないけど、みんなは、寂しくない。

 それから、ぼくは、希望を忘れません。
 ありがとう、みんな。

 希望は、理由があって、根拠があって、目的があって、持つものじゃない。
 希望は、ただそこに生と死があるから、持つものだ。



(※ 写真は、ドーハの国際会議場のテラスから眺めた、ペルシャ湾へのヨットハーバーです。天然ガスで潤うカタールは、こうやって美しいヨットハーバーもあるけれど、このペルシャ湾は地獄のイラクにも続いています。…無事に、ドーハに入りました。ドーハ時間3月18日午前10時48分、日本時間午後4時48分、記)


★みなさん、急ぎのお知らせ

2007年03月10日 | Weblog




▼ぼくの講演がインターネットで、リアルタイムで流れます。
  主催は、ITに積極的に取り組む和歌山県庁です。
  http://www.big-u.jp/ に、よければアクセスしてみてください。

▼3月10日の土曜、午後1時からです。
  あ、もう10日の午前零時過ぎだ。直前のお知らせになって申し訳ない。