Our World Time

人が動いていりゃ、いい

2006年09月25日 | Weblog


▼9月24日の日曜日、徹夜明けの心身を、自宅の風呂でどうにか目覚めさせて、テレビ朝日に向かう。

 テレビを視るひとは、出演者の事情や都合とは一切関係なく、ベストのものを視たいだろうから、テレビ出演が本業ではないぼくであっても、自分の本業で徹夜しようが何をしようが、ぶざまな様子はいけないと思う。
 だから、ほんとうはプールに行って心身を目覚めさせたいけど、きょうは、どうにも無理だった。プールに入るには、疲れが重すぎる。自宅の風呂へ入って、顔をバシバシ叩くぐらいが精一杯だった。

 それでも、テレ朝に着く頃には、ぼろぼろの何かの生き物ではなく、一応は人間に戻っていた。

 スタジオで出番を待っていると、前のコーナーが延びて、もともと短い時間がさらに短くなる。
 それは、やむを得ないことだから、出る以上は、それに合わせてとっさに工夫するしかない。それが嫌なら、出ちゃいけない。

 ぼくが解説するコーナーになり、レギュラー出演者の方たちとのトークが始まると、いつものように時間があっという間に減っていく。
 画面には、もちろん映らないけど、フロアディレクターがどんどん、あと「1分30秒」、あと「45秒」、そして「しめて!」あるいは「まとめて!」と指示の紙を出す。
 これを、さほど気にしない感じの出演者は、案外に多い。
 気にしないというより、こだわらないと言った方が正確だ。
 とくにテレビ局の記者だった人とか、もともとテレビの世界で育った人ほど、そういうことが多い。

 しかし、ぼくは気にする。
 指示の紙だけじゃなく、スタッフの顔に「ここが延びると、あとが困る」という感じの焦りの表情が浮かぶのまで、よおく見てしまう。

 そこで、懸命に話をまとめて、トークを終えようとすると、MC(メイン・キャスター)が、まさしくフロアディレクターたちの指示にこだわらずに、新しい質問をすることが、実はとても多い。
 それはMCがテレビというものをよく知っているからこそ、「ここは、視聴者がきっと関心を持って視ている」と判断するからだろう。

 きょうも、「どうにか時間内にポイントだけは話し終えた」とぼくがホッとして、フロアディレクターたちのあいだにもそんな空気が流れて、「次へ」つまり「次のコーナーの前振りを」という意味の指示がMCに向けて出された、その瞬間に、MCの局アナが「安倍さんの訪中は、いつごろですか」と質問された。

 ぼくは「10月に行くでしょう。日本経団連の御手洗会長が、実は準備のためにもう訪中しましたし」と短く答えた。
 MCの局アナは「ええーっ。10月って、この10月ですかっ」と叫び、ぼくは「そうです」と答えて、このコーナーは終わった。

 CMに入り、ぼくがやれやれと席を立とうとすると、出演者の一人が「さっきの、訪朝ですか」と聞く。
 ぼくが驚いて、「訪朝? とんでもない。安倍さんは訪朝はしませんよ。訪中です」と答えると、MCの局アナが訪中は? と聞いたのか、訪朝は? と聞いたのか、その場でひとしきり議論になってしまう。

 ぼくの耳には、はっきりと「訪中は?」と聞こえていた。
「訪朝は? と聞こえたよ」というのは、結局、テリー伊藤さん一人だったし、MCの局アナご自身も「私は、訪中と言いましたよね」と言っておられたから、まぁ心配はないのだけれど、ぼくは念のため「次のコーナーの冒頭で、さきほどのは、訪中の話であって訪朝ではありませんと言ってくれませんか」と頼んでみた。

 しかし、それは番組の構成上、難しいようだった。
 テレビは常に、時間との戦い、それも、いつも予定よりもさらに削られてしまう時間との戦いだ。
 それはいいのだけれど、時には、こんな怖いことも起きるわけだ。
 それに、きょうのようなケースだと、仮に出演者、スタッフが全員、「確かに、訪中は? という質問だった」と確信していても、視聴者のかたのなかで「訪朝は? という質問だった」と受け止める人が出てしまうことがある。

 ぼくがとっさに、「ええ、中国訪問は10月にもあるでしょう」というように答えれば良かったなと、テレ朝からの帰り道に考えた。
 訪中と訪朝、その音が紛らわしいことを意識しておきたい。

 日本のテレビ番組をいつもマークしている、北朝鮮の工作員たちや、あるいは中国の諜報員のあいだで、「あれは訪中なのか、訪朝なのか」と調べていたりしてね。
 ふは。


▼安倍新首相は今とのところ、ぼくの知る限りでは、北朝鮮を訪問するつもりはない。
 しかし中国の訪問については、水面下で、周到な準備を重ねている。
 もちろん、頭(こうべ)を垂れて訪中するようなことは安倍さんはしないだろうから、準備が実って訪中となるには、中国側のフェアな姿勢も必要だ。


▼テレ朝から、自宅に戻って、原稿を書いていると、スカパーTVで韓国映画の「私の頭の中の消しゴム」をやっている。

 ぼくは実は、たいへんに映画が好きだ。
 とにかく、映画の中で人が動いているのさえ映っていれば、うれしい、それだけでいいので、原稿を書きながら同時に、映画をちらちら見ていることが多い。

 この映画はかなり話題になった。
 視るのは、初めてだった。
 ネタバレになってはいけないから、ストーリーは書かないけど、ぼくはもしも愛したひとが、そのような病気になれば生涯、介護するから、そして、多くのひとがそうだろうから、描き方がオーバーアクションのような気がした。

 それでも、ぼくの胸には、わりあいに印象的な映像だった。
 ネットでちょこっと見たら、日本の映画ファンが辛辣にして、きちんと当たっているキビシイ批評を下していて、正しいなぁと感心した。
 それはそれとして、また放送していたら、原稿を書きながら、ちらちらとは、ただし途中まで、視るだろうな。
 そんな映画だった。


一度きりの日々

2006年09月24日 | Weblog



▼いったいどこまでいくのやら、と胸のうちで呟くような、密にして密な日程が続く。
 世の人はみな忙しいから、おのれだけが忙しいとは、ゆめ思わないけれど、早い話が、たとえば散髪に行く時間がない。
 空港で、10分でヘア・カット!という看板に目がいくけど、駆け込みたくなるけど、その10分がないんだなぁ。


▼日本の秋のはじまり、長月と呼ばれるこの9月半ばの今週、18日の月曜は、世間は休日なので、原稿の執筆にかなり専念した。
 ただ、残念ながら、体調が最悪に近くて、あまり進まない。
 長月の名は、夜長月から来たとも言われるから、原稿を書くには適した季節なのだろう。仮眠する代わりにジムへ行って体を造って、体調を回復させて、書きたい、書きたい。


▼明けて19日の火曜日、早朝にブレア首相の側近と、都内のホテルで朝食。
 この彼は、前日に独研(独立総合研究所)の若き主任研究員J(28歳、女性、シアトルで少女時代を過ごした帰国子女)と皇居や靖国神社をまわってから、ぼくにさまざまな意味深い質問をぶつけてきた。

 このひとはタイについて、やがて何かが起きるだろうと予言していて、まさしくこの朝食の十数時間後にクーデターが起きた。そしてタクシン首相は、ロンドンに亡命した。
 つまり大英帝国は、クーデターが起きることを知っていて、受け皿も用意していたわけだ。

 このブレア首相側近とのご縁は、ぼくの造った人脈ではなくて、若き主任研究員Jが造った新しい人脈だ。
 やるじゃないか、独研で人が育っているなぁと、内心で、嬉しくなる。
 嬉しいというか、ホッとする感じがする。ぼくはいつか、独研の社長のイスを次世代に渡し、物書きに戻りたいからだ。

 いや、いまも兼務の物書きだけどね、独研という新しい型のシンクタンク、どこからもいかなる支援も補助も受けないインデペンデントなシンクタンクをこの国に定着させて、ひとに譲って、兼務を外し、たくさんの時間を原稿に費やすようになって、原稿をどんどん本にして、みんなのところへ届けたいのです。

 朝食会を終えて独研に出社すると、シンクタンクの経営実務がどっと、当然ながら押し寄せる。
 そのさなかに、広島の会社経営者に2時間たっぷり、ロシア政府がサハリン2の開発に不当に介入した問題の根っこなどについて、レクチャーさせていただいた。

 このかたは、独研が配信している会員制レポートの会員なんだけど、「1か月に1度、青山さんと1対1で、すべての問題について話を聴きたい」と強く希望された。
 時間的には、当然ながらずいぶんと困難もあって、独研の社内には「社長、無理ですよ」という意見も少なからずあった。
 しかし、このかたが、中年と呼ばれる年齢になって、しかも会社の経営者として成功されながら、一から勉強し直したいとおっしゃる、その青春のような熱意に、ぼくは深く動かされて定期レクチャーをお受けした。

 その定期レクのあと、歯医者さんの定期検診に行くはずだったけど、会員制レポートの執筆と配信が遅れている。
 検診はキャンセルして、レポートのための取材と執筆を急いだ。

 夕刻には羽田に向かって、そこから大阪へ。
 夜更けまで、関西テレビの報道部と、翌水曜日の報道番組『ANCHOR』の『青山のニュースDEズバリ!』コーナーで何をどう話すか、どんな映像を用意してもらうかについて、打ち合わせる。

 ホテルに入って、夜明けに向けて、会員制レポートの執筆に戻る。
 ところが安倍新政権の人事、いや正確に言えば猟官運動をめぐって、ふだんあまり付きあいのない政治家のひとも含めて、想像を絶する電話質問の来襲に苦しめられる。
 ぼくなんぞに聞いてもらっても、まったくなんの意味もないです。当たり前ながら、なんらの謙遜でもない。


▼9月20日の水曜は、朝7時15分ごろから、RKB毎日放送ラジオ(福岡)の『ニュースの見方・目からウロコ』のコーナーに、電話でレギュラー生出演。
 安倍外交に秘められた、対中、対北朝鮮の戦略について話す。
 徹夜明けの眠気に、まぁまぁ邪魔されずに、お話しはできた気がする。

 午後、関テレ『ANCHOR』にレギュラー生出演する。
 体調が最悪で、これを視聴者に見せるわけにいかないから、いつものように、局入りのまえにホテルのプールで泳ぎ、悪いなかでも、どうにか体調を整える。

 おのれの躯を励まし、立て直し、生放送が始まった。
 ここでも安倍外交について話をし、終わるとすぐに伊丹から羽田へ飛び、テレビ朝日系『TVタックル』のためのコメント収録へ向かう。
 コメント撮りでも、疲れが話に出ないように、秘かに自分を叱咤し続ける。

 深夜に自宅へ戻り、原稿に戻る。
 しかし、あいかわらず異常な電話質問の来襲に苦しむ。


▼9月21日の木曜は、独研秘書室が努力してくれて、すべてのアポイントメントを外し、自宅で原稿を書き続ける。
 ただ、電子メールと電話による取材のあいまに、細々と原稿を書いているに近い。

 会員制レポートを仕上げて、独研に送り込み、会員へ配信してから、自宅近くのスポーツジムに新しく併設されたハリ治療院へ。
 長く苦しんでいる左肘痛に、ハリを打ち込んでもらう。
 さて、効けばいいけどな。キーボードを大量に打つから、肘痛もなかなか治らない。

 この治療師は、もとはスポーツジムのトレーナーだった。
 いまは頭をそり上げて、東洋医学のマジシャンだ。
「ぼくがトレーナーを辞めたのは、2年ほど前なんですけど、このまえテレビで青山さんを見ていて、トレーナーとしてジムで青山さんを見ていた2年前と比べて、躯が絞られているなぁと感心したんですよ。筋肉量が凄く増えて、筋肉の形が上半身もはっきりしてきた」と言ってくれたので、ちょっとびっくりしながら、こころのなかで喜ぶ。

 そういえば、少なくとも太ってはいないのに、体重が増えているなぁ。
 治療師は、「体脂肪が減って、筋肉量が増えているからです」と断言する。
 たった週に1回のジムなのに、効果はあるもんだなぁと、ジムとの縁に感謝する。


▼9月22日の金曜、激しい疲労のなか、這うように独研へ出社する。
 午前、独研へ研修に来ている陸上自衛隊の高級将校(佐官)ふたりに、論文の指導をする。
 かれらはいま、高級幹部学校(AGS)に属していて、論文を書きあげたら、部隊や幕(司令部)に戻っていく。

 日本の何をどう護るのか、民主主義下の戦力としての理念と哲学を明示すると同時に、現実をリアルに改革できる論文になるように、すなわち実際に読まれる論文になるように、ぼくなりに意を尽くして、お話しした。

 独研にこのごろ新しく台頭している、期待の『サーティーズ組』、30歳代のひとりである男性研究員Hが同席した。
 実に的確な発言をするので、彼の人柄の良さも相まって、内心で嬉しくなる。
 佐官ふたりの誠実な希求心も、すがすがしく思う。
 みんな、私心を超えて、やろうね。子々孫々のためにこそ。

 そのあと、独研の仕事の中核のひとつ、ある『研究会』の平成18年度の第1回を開く。
 国民を重大テロから護るために、政府のすべての関係機関と、民間のなかで公共的な仕事をするひとびとに集まってもらって、官と民の垣根を外して、熱く議論する場だ。

 ぼくが三菱総研の研究員だったときからスタートさせて、すでに8年目に入っている。
 仕事としては赤字ベースだけど、決して絶やさない灯火として、続けていきたい。

 激論の2時間のあと、出席者の有志との懇親会へ。
 政府からも民間からも、意欲のある人が残ってくれて、おいしい中華を食べながら、さらに突っ込んで議論する。

 ぼくは途中から食べるのをやめて呑むだけになりながら、つまり、もともとは大酒呑みなので、酒だけになってしまいながら、疲労の黒い海に沈み込みそうな自分を励まし、励まし、意味のある議論になるように、工夫しながら話す。

 そこから東京駅へ向かい、新幹線の最終列車に乗り、大阪へ。
 独研の自然科学部長が同行する。
 彼女も、専門のメタンハイドレート(日本の新しい海底資源)の探査がとても忙しくなっている。

 車中でモバイルパソコンを開き、執筆。
 新大阪に着く直前にうとうとし、到着すると、動けない。
 悪夢からもがいて起き出す、あの感じのように、無理に躯を励まして動かし、ようやくに降りる。

 ホテルに入って、1時間半ほど仮眠をして、朝まで情報収集と原稿。
 電話質問の来襲は、まだまだ、続いている。


▼明けて9月23日の土曜は、まず朝に関西テレビの情報番組『ぶったま』に生出演する。
 土曜日に寛いでいるだろう視聴者に、安倍外交の姿が伝わるようにと願いつつ、お話しする。

 終わると、すぐに伊丹から羽田へ飛んで、まっすぐテレビ朝日に入り、『TVタックル』のスタジオ収録に加わる。
 9月25日の月曜に、スペシャルとして放送される。ぼくはその第2部への参加だ。

 政治記者時代に、日本の改革へ志をともにしていた民主党の参院議員、簗瀬進さんと久しぶりに会う。
 簗瀬さんとは、小泉政権への評価、靖国参拝への考え方などをめぐって思いの違うところもあるけど、なにより生き生きとされていて、ひとりの長い友だちとして、内心で嬉しかった。


▼きょう9月24日の日曜は、テレ朝の『サンデー・スクランブル』に生出演する。
 もう朝の5時50分になっちゃった。
 そりゃ、ぼくだって、徹夜明けじゃない元気な顔でテレビ局に行きたいけどね…。

 過密、という段階も超えてしまった気もするぼくを、かろうじて支えているのは、えらそうな言い方に聞こえたら申し訳ないけど、志だ。
 それと、この躯、なかでも下半身じゃないかなと思う。


▼ぼくがひとりの社会人になったのは、26歳のときだった。
 慶大の文学部を中退し、早大の政経学部を卒業し、そのあいだにはアルペンスキー競技に下手くそなのに打ち込んで両足に大怪我をし、出口のみえない入院生活を送った時期もあった。
 だから勉強もしていないのに、大学院にも行っていないのに、ひとよりも社会に出るのが遅かった。

 入院していたとき、忘れがたい同室のひとびとがいた。
 柔道の朝げいこで下半身が生涯の不随となってしまったばかりの新婚早々の夫や、その夫をひっそりと訪ねてくる新婚の妻、交通事故で首が取れそうになり、頭蓋骨のてっぺんに穴を空けて、その頭を、背中から回した金属フレームから釣り下げて生きている大学生。
 そんなひとたちと、24歳のころのぼくは夏の日に、病室の窓のはるか彼方にみえる打ちあげ花火をみていた。
 あの頃のみんな、いまは、どうして生きていますか。

 ぼくはその後、ようやく病院を脱出したけど、駅のホームで電車を待っていると、両の膝が、外側に曲がる。
 足の膝は、皿の外側に曲がるはずがない。内側にしか曲がらない仕組みになっている。しかし、その皿が、アルペンスキー競技中の大転倒で痛めつけられていたから、左右の足の膝が外側に折れて崩れていく実感に襲われる。
 そのために、退院後も、ホームから線路へ転がり落ちそうになったりしていた。

 いまのぼくは、その下半身で支えられている。
 両足は、ジムのマシーンで100キロの重しを楽に上に持ち上げ、下に押し下げ、マシーンの横に付いているプロのトレーナーが嬉しそうに、そのぼくの大腿筋に触る。

 ぼくが努力して、こう回復したのじゃない。
 ジムだって、仮眠をとるのを諦めて無理にどうにか駆け込むだけだから、週にたった1回のペースでしか行っていない。
 スキーの板というのは、ハンドルもアクセルもブレーキもない。それを時速100キロの遠心力に耐えて下半身の筋力と柔らかさだけでコントロールしようとするから、大怪我もするけど、根っこから鍛えてくれもする。

 そのスキー板が造ってくれた基礎のおかげで、いまのぼくの腰の力や脚力がある。
 たまたまスキーに縁をつくってくれた、天に感謝している。



▽写真は、沖縄電力から独研へ出向していた秘書R(当時)が、最後の大阪出張への同行のとき、関西テレビの社員食堂で撮ってくれました。
 大阪は、おいしい街です。社員食堂のごはんも、充分においしい。

 ぼくはふだん、ほとんどジーパンにTシャツです。飛行機や新幹線での移動も、こういう格好が多いですね。



来てください めぐり会いましょう

2006年09月14日 | Weblog



▼みなさん、きょうは一つ聞いてください。
 ぼくが社長(兼・首席研究員)を務めている株式会社・独立総合研究所(独研)で、総務部秘書室に勤務する正社員を求めています。

 独研には、大きく分けて、総務部と、研究本部があります。
 後者の研究本部は、さらに社会科学部と自然科学部に分かれていて、独研の主要業務である調査・研究を行います。
 前者の総務部は、秘書室と経理室があります。

 研究本部では、基本的にいつでも、志のある人材を募集しています。
 総務部も原則は同じですが、研究本部に比べると必要な定数がずっと少ないですから、空き(欠員)があるときしか、実質的には、採用できません。

 きょう、社長のぼくが、この個人HPにあえて書き込んでいるのは、その総務部秘書室に今、1人の欠員があり、新たな人材を急ぎ、必要としているからです。


▼独研は、規模の小さなシンクタンクですが、仕事の質としては、僭越ながら、とても高いものを目指しているので、たぶん日本でももっとも入社が難しい会社の一つではないかなと思います。

 たとえば、研究本部に応募していただくためには、英語力について『TOEIC900点以上ないしそれに準ずる英語力』が必要です。
 現実に、独研で今、働いている研究員は、TOEICで言えば900点台の半ば以上、すなわち満点に近い英語力を持つひとが、大半を占めています。

 主任研究員の一人は、まだ28歳の女性ですが、アメリカの国防総省や国務省の高官と電話で自在に議論していますし、同時通訳もほぼ完璧にこなします。
 彼女はシアトル育ちですから、それも大きいのですが、それだけではありません。帰国子女というだけでは、アメリカ政府の高官と対等に議論できたりしませんからね。
 やはり、日常的な深い努力と、安全保障の実務に直接、携わっていることが大きいと思います。


▼話が少しそれましたが、秘書室員は、英語力の有無を応募条件にしていません。
 もしも英語力が一定以上あれば、おそらく採用について有利にはなると思いますが、あくまでも基本は『人間性』、人柄です。

 研究本部の研究員も、実は、人間性をもっとも重視して採用選考を行っているのですが、仕事の性格からして、英語力に不安があると、応募していただくことも難しくなります。

 しかし、秘書室員はそうではありません。
 ご自分の『人間力』に自信のあるかたは、どしどし応募してください。


▼もしも、考えてみようというかたがいらっしゃったら、まずは独研の公式HPhttp://www.dokken.co.jp/にアクセスして、そこから採用情報のページに進んでいただき、総務部員の応募条件を確認していただいてから、定められた手続きで応募してください。

 きょうは例外的に、このぼくの個人HP上で、独研の採用についてお話ししました。
 このことは、事前に、独研の秘書室長に話してあります。
 そして総務部としては「応募は、あくまでも独研の公式HPに定めてある手続き、すなわち応募票の提出で行ってください」とのことです。

 すなわち、この個人HP上では、これ以上のことはお話しできません。
 独研の公式HPにアクセスしていただいて、問い合わせなども、そこに明記してあるアクセス方法で、お願いしますね。

 では、ぼくらと天命を共にしようというかたが、来てくださることを、志を同じくするぼくらと、めぐり会えることを、心待ちにしています。



ショック

2006年09月13日 | Weblog


▼あの9.11の惨劇から5周年を迎えた2006年9月11日の月曜、ぼくは、どうしていたか。
 実力部隊を持つ政府機関と、公共交通機関が連携してひらいた『テロを防ぐための連絡会議』に招かれていた。

 会議では、9.11のテロのさなかにニューヨーク市警(NYPD)の警察官が撮影した未公表のスライドが大きく映され、NYPDに出向していた日本の警察官が、救助のようすを語った。

 その言葉のうち、「ワールドトレードセンター・ビルの100階の高さから飛び降りる人は、下から見上げていると、誰もみな、自殺のために飛び降りるのではなく、助かりたいと思って飛び降りているとしか見えませんでした」、「その高さから飛び降りた人間がどうなるか、分かりますか。こっぱみじんです」という言葉が胸に深く響いた。

 そして、日本政府の生物化学テロの専門家と、東京メトロ(旧営団地下鉄)でサリン事件に遭遇した保安責任者がそれぞれ短く、講演した。

 そのあとに、ぼくが1時間20分ほど、講演した。
 この連絡会議で、いちばん長い講演として設定されていた。

 ぼくは力を尽くして、語りかけ、問いかけた。
 アメリカのイラク戦争によってむしろテロの危険は増大し、なかでも日本の交通機関こそが襲われる可能性が水面下で高まっていることを明らかにしていった。
 話すうちに、5年前のあの時刻が近づいてくる。

 新幹線、地下鉄、山手線、都バス、はとバスなどなど、とにかく首都の公共交通機関すべてから集まった、数多い担当者たちに、「政府任せにせず、自分の頭で考えよう。ほんとうの脅威は何か、ほんとうの備えは何か」と訴えた。

 会場には、数多くの警察官もいた。
 警察官には「いざテロの現場にぶつかったら、上司の指示を待つだけではなく、やはり自分の頭で考えて行動しよう。そのためには何を備えて、鍛える必要があるのか」と語りかけた。

 そして、具体的に「何が真の脅威か」、「何が真の備えか」を明かしていった。それは、残念ながら、ここには記せない。


▼このたいせつな会議で、ぼくがショックを受けた重大な事実がある。

 それは、ある利用客の極めて多い公共交通機関から来た保安責任者の講演で分かった。
 その講演では、駅や電車の現場にいる社員たちに渡している「基本動作を呑み込むためのカード」が示された。
 その誠実な努力は評価したい。

 ところが、肝心のカードのなかに、致命的とも言うべき間違いがある。

 プロのテロリストなら決してやらない行動が、「テロリストはこうします」と書かれて列挙されていた。
 駅や電車の係員が、このカードを努力して覚え込めば、むしろ決して、爆弾をはじめとする不審物を発見できないだろう。

 ぼくは講演まえに、控え室で、信頼する政府高官に聞いた。
「カードに見過ごせない間違いがあります。講演で、指摘していいですか」
 この高官は「いや…、やはり公共交通機関の保安責任者としてのメンツもあるでしょうから…」と答えた。

 ぼくはすこし考え、「講演の流れをみながら、講演のなかで決めます」と応えた。
 そして講演の後半で、腹を決めて、この重大な間違いをはっきりと指摘し、「サリン事件というテロから11年を経て、まだこのような基本的な間違いがある。公共交通機関だけではなく、政府機関も、その間違いに気づいていない。わたしたち(独立総合研究所)のように、テロ対策のノウハウを実務を通じて蓄積しているところと連携が必要不可欠だと、実は痛感しました」と率直に語った。

 講演のあと、ぼくが政府高官に「あれで良かったですね」と語りかけると、高官は頷いた。
 頷いたあとに、「さて、どれくらい(公共交通機関から)、反応がありますかね」とつぶやいた。


▼その翌日の9月12日には、関西テレビ・報道部の依頼で、映画の試写会に出かけた。
 映画「プラトーン」や「JFK」で有名なオリバー・ストーン監督が9.11テロを描いた「ワールドトレードセンター」の試写会だ。
 映画のでき映えは素晴らしかった。
 しかし同時に、「ムスリム(イスラーム教徒)にとっては挑戦的な映画としか思えないだろう」と感じた。

 たとえば、キリストのみしか神として認めない色合いが、くっきりとある。
 オリバー・ストーン監督にしては、かなり地味な、抑制された造りになっているのだが、その実、強烈な、一方的なメッセージを奥に秘めている。
 ムスリムならば、それに気づくひとが多いだろう。


▼いまは9月13日水曜の、未明3時まえだ。
 きょうは、新宿でこのオリバー・ストーン監督に英語でインタビューし、そのまま大阪へ飛んで、関西テレビの報道番組「ANCHOR」の「青山のニュースDEズバリ!」のコーナーで、このインタビュー映像を流す。
 そして、日本はテロに襲われるのか、襲われるとしたら、わたしたちは何をすればいいのかについて、語る予定だ。



 写真は、その関テレの報道部で、ある日の本番まえ。
(後ろ姿で立っているのが、ぼくです)。
 この奥に、広いスタジオがあります。なんとなく、好きな、やりやすいスタジオです。

 

秋の始まりの週末

2006年09月09日 | Weblog



▼きょう9月9日の土曜は、夕刻から、久しぶりにテレビ朝日系「TVタックル」のスタジオ収録がある。
 放送は18日の月曜、テーマは「安倍新政権の本質研究」だ。

 あす9月10日の日曜は、テレビ朝日系「サンデー・スクランブル」に生出演する。
 こちらのテーマは、「9.11から5年経った日本と世界」、それに「総裁選」だ。

 あさって9月11日の月曜は、朝に、ニッポン放送の森永卓郎さんのラジオ番組に、電話で生出演する。
 テーマは、「9.11から5年を経て、日本のテロ対策の現状は?」。


▼独研(独立総合研究所)の若き秘書室長は「大丈夫ですか?週末がずっと、テレビ出演で潰れていますけれど…」と心配してくれたけど、もともと週末も原稿執筆があって休みじゃないから、心身は大丈夫。

 ただ、どうしても原稿の進捗に影響はあるし、きょう土曜日は、親戚の結婚式に出席できなくなり、急遽、代理を立てた。
 それでも、このブログをやっていてよく分かるのだけど、テレビ番組には関心のあるひとが、やはり多い。
 それは、テレビから情報を吸収している国民が多いということを意味するのだから、ほんのささやかにでも、その情報の質を良くすることには、できれば寄与したい。


▼この10日ほどは、身体の不調が激しい。
 休みが1日もない生活が、満9年に近づいているから、それは、そろそろ限界なのかな、とも思う。
 と言っても、いま休めば、シンクタンク・独研の歩みにストレートに影響するだけじゃなく、原稿の仕上がりをほんとうに辛抱強く待ってくれている編集者を、裏切ることにもなる。

 やるっきゃないね。
 さ、ジムに行って、バーベルとダンベルを挙げて、泳いで、心身をすっきりさせて、テレビ朝日に向かいましょう。



▽写真は、帯広に講演に行ったときです。
 講演会のあと、懇親会のまえに十勝ワインの工場に案内していただいて、のんべのぼくは、ワインの樽に思わず抱きつきました。

 携帯電話で撮ってくれたのは、同行した秘書のR(女性)。
 Rは、きのう9月8日の金曜が、独研の送別会でした。
 沖縄電力から1年間の出向(研修)で来ていて、サウジやパキスタンへの出張同行も含め、たくさんの豊かな経験を積んでぶじ、出向(研修)を終えて、元気に沖縄に帰っていきました。
 がんばれ、R、沖縄で泡盛とワインを飲んで、がんばれ。



 

ご出産を祝しつつ

2006年09月06日 | Weblog



▼きょう9月6日の水曜は、朝のラジオ番組レギュラー出演も、夕刻のテレビ番組レギュラー出演も、紀子さまのご出産の話題一色になった。

 もっとも、ラジオ番組(RKB毎日放送)へのレギュラー電話出演では、ぼくのほうから、この話題を選んだ。
 紀子さまが男子を産まれても、皇位継承が、皇室典範第1条の定める「男系男子」でいいかどうかという問題は、数十年ほど先送りになるだけであり、この際、国民にいちばん大切な情報を提供すべきだと思ったからだ。

 その情報とは、「女性天皇と女系天皇の根本的な違い」だ。
 ぼくは、これまでもメディアで発言しているとおり、『女性天皇は認めるべきであり、女系天皇は決して認めるべきではない』という立場に立つ。

 そのうえで、女系、男系という言葉をこの際、やめて、母系、父系という言葉に代えるべきだと思う。
 政府も、メディアもそうしてほしいと願う。

 なぜなら、母系の天皇即位を認めれば、その祖先はどんどん数が増えるのに対して、父系ならば、祖先が父、そのまえも父、そのまえのまえも父と、ただひとりをたどることが出来るーこの事実が、国民に分かりやすくなるからだ。

 だから日本の皇室だけが、世界でただ一つ、一系統をたどることが出来る。
 日本における皇室の意義が、権力をふるうことにあるのではなく文化の継承にあったことと、ぴたり一致する、尊い智恵だと、ぼくは考える。


▼今夕の関西テレビ「ANCHOR」は、午後4時からスタートと放送が早まる。
 いつものぼくのコーナー「青山のニュースDEズバリ!」は、局の判断でお休み、その代わり、女系天皇を認めるべきだとの立場の大学教授らと議論する予定になっている。

 ぼくは、皇室は、わたしたち日本の主人公、主権者の財産であるとも、いつも述べている。
 その財産を、もっともよい形で護れるよう、わたしたちの子々孫々に手渡していけるよう、こうした議論でも、ベストは尽くしたい。


     (紀子さまのご出産直後に、大阪へ向け出発する9月6日朝に)

寝言

2006年09月04日 | Weblog



▼独立総合研究所(独研)の若き秘書室長が、一生懸命に工夫して日程を調整してくれたおかげで、きょう9月4日の月曜は、どこへも動かないで、原稿を書いている。

 あまりに動きの激しい日々だから、山のような原稿と格闘していても、飛行機に乗ったり車に揺られたりの移動がないだけで、いくらかは、ホッとする。


▼といっても、仕上げ段階に入っているノンフィクション新刊本の執筆には、なかなかたどり着けない。
 まず、独研の社業は動いているから、いろいろな連絡に電話や電子メールでリアルタイムで応えなきゃいけない。

 それから、締め切りを過ぎている「講演録のゲラ直し」2本をやらねばならないし、そのあとは、独研から配信している会員制レポート「東京コンフィデンシャル・レポート」の執筆だ。
 それが終わってようやく、新刊本の原稿に戻れるから、結局はいつもと同じく夜を徹しての執筆になるのだけど、それでも、執筆開始時間がまだ「深夜」の段階で、いつもの「未明」あるいは「明け方近く」よりは、ましだ。


▼講演録のゲラ直しは、ちょっと苦手な仕事で時間がかかってしまう。

 しかし、ぼく本人の了解や確認なしに、講演内容をネット上にアップしてしまう講演主催者も多いから、それよりはずっといい。
 講演内容の公開はかまわないけど、筆記したひとや、講演要旨をまとめたひとが誤解したままネット上にアップされることも珍しくない。
 だから、きちんとゲラを送ってくださった主催者には、きちんと全文をチェックし、分かりやすく修正して、お返ししたい。

 「東京コンフィデンシャル・レポート」は、独研の柱の業務のひとつだし、なによりも会員が配信を待っていてくださることを考えると、いつも最優先に書きたい気持ちがある。
 取材はもう、何本分も終わっているから、こうしたときに文章にしたい。


▼きょうの午後2時ごろだったか、あまりの疲労に、机の脇のちいさなベッドに横になっていると、すこし眠り込み、悪夢に苦しんで、「なんて愚かなんだ」と叫び、その叫び声で眼が醒めた。
 眼は醒めたのだけど、深い、際限もなく深い、疲労と、どっと噴き出た体調不良で、身体が動かない。
 真っ黒な泥のなかから這い出るように、ようやくベッドから降りて、ふたたび机に向かう。

 それにしても、短い悪夢のなかで、ある身近な人の所業に苦しみ抜いて、とうとう夢のなかから転がり落ちて、実際に口に出して「なんて愚かなんだ」と叫んでしまった。

 夢のなかでは、その身近な人に叫んだのだけど、眼が醒めてからは、おのれ自身に叫んだように感じている。
 なんだか世間からは順調にみえているのかも知れないけど、実際のぼくの感覚は、英語で言うSTRUGGLE、そのものだ。
 STRUGGLE、泥のなかを這っていくように、もがきながら戦うことを意味する。意味するだけじゃなく、語尾のGGLEあたりに、すごく生々しい語感がある。

 きょうのように、ひとりになると、いつも、どこでも、ぼくは自分の弱さと愚かさに向き合っている。



 写真は、石垣島の沖合の激しいスコールを、携帯電話で撮りました。


テレビ発言の難しさ

2006年09月04日 | Weblog



▼日本テレビの「今日の出来事」に出演したとき、大画面の薄型テレビの話題で、ぼくは「車の買い換えを諦めて、本気で、こっちにしようかと考えています」と述べた。

 すると、友だちから「あのラリー・カーを売るのか。信じられない、とんでもない」と聞かれた。
 無理もない。
 まさしく、そう発言しているもんね。
 しかし、ほんとうは「車の買い換え」ではなく、「車の買い足し」だ。

 ぼくの乗っているドイツ生まれのラリー・カーは、一般道を走るには、まったく適さない。ほんとうは公道を走るのではなく、ラリー競技に勝つことが目的の車だからだ。
 輸入元のヤナセによると、日本にはわずかに30台だけ輸入されて、現存するのはもう、ぼくの乗るたった1台だそうだ。

 これは手放さないけど、競技用のエンジンは神経質だから、常にトラブルとの戦いだ。
 運転するときは、いつも五感を澄ませて、トラブルが起きるまえに兆候を掴み、早めに対処するようにしている。
 それでもある朝、突然にトラブルが起きていて、出かけるはずが出かけられないということも起きる。
 それに、こうまで忙しくなると、兆候は掴んでいたのに「対処」はできない、ということが増えた。

 そこで、もう1台を買って、ラリー・カーの突然のトラブルがあっても無事に出かけることができるようにしておこうかと検討していた。

 それを諦めて、大型画面の薄型テレビを買おうかなと考えている。
 ありのままに言って、ぼくは、たとえば講演料もテレビ出演料もすべて独立総合研究所(独研)に納めていて、手にするのは独研からの役員報酬だけだから、両方同時は、ちと、きびしい。


▼それが正確なところなのだけど、あの話題のとき、番組では「トーク全体で50秒」と決められていた。
 ぼくがこんな詳しい私的なことを、もさもさと話していたら、それだけで50秒なんて飛んでしまい、アナウンサーからの振りも、メイン・キャスターからの振りも、みな潰れて、番組進行がめちゃくちゃになる。

 また仮に、「車の買い足しを諦めて…」とだけ述べると、視聴者にはよく意味が分からないという心配が強い。

 そこで、本番前にひとりで考えて、「車の買い換えを諦めて…」という一言に凝縮することにした。
 車の買い換えなのか、車の買い足しなのか、それはあくまでぼくの私的なことだ。ぼくは「テレビ受像器が鮮明な大型画面を持つことは、ひとびとが情報を摂取するうえで有益だろう。ハードが進化すれば、ソフトやコンテンツも進化する、それがにんげんの技術の歴史だ」と考えているから、この公的な部分が伝わればよいと判断した。

 ただし、『大画面の薄型テレビを買うつもりがない』、あるいは『車をとにかく買うことの検討と、テレビの購入が関係ない』なら、ぼくは、あのようには決して発言しない。
 実際に、新型テレビを買うつもりがあり、そのために車の購入を諦めようとしているから、発言した。


▼テレビでの発言は、ここに難しさがある。
 時間が、信じがたいほど制約されていて、しかも発した言葉は、二度と修正できない。いや修正できないだけじゃなく、あとから補う、足す、これもできない。

 後者のほうは、テレビに関わる前から、誰でもそうであるようにぼくにも想像できていたけど、前者のほうは、実際に番組に出てみると、まさしく想像を超えていた。

 これからも、テレビにささやかに関わる以上は、その難しさにじっくり取り組みたい。
 なぜなら、その難しさは、視聴者には関係がないからだ。
 視聴者はあくまでも、テレビが発する画像と音声がすべてで、その裏事情まで考える義務は一切ない。
 だから、ぼくのようにテレビ出演が本業じゃない人間でも、懸命に、ベストを尽くして、難しさに取り組みたい。


▼ぼくの本業は、シンクタンクの社長のほかに、物書きであることだ。
 文章は、修正が効くときもある。あとから補い、足すことができるときも、ある。
 だから文章を書くことが簡単、ということは全くないけれど、文章というもののメリットの一つではあるのだろう。

 このブログも、ときどき、実は折に触れて文章を直している。
 よく読んでいただくと、大半の書き込みが、当初に書き込んだときとはすこし、あるいは沢山、変わっている。

 ちなみに、この一つ前の書き込み、それから、もう一つ前の書き込みも、加筆し、修正した。
 特に、もう一つ前の書き込みは、タイトルも手直しをし、中身の文章はずいぶんと時間をかけて、大幅に加筆した。



☆みなさん、できれば、読み直してくださいね。

 写真は、講演で訪れた北の大地・帯広の、十勝ワインとなる葡萄です。
 この書き込みから2つ前の書き込みに、講演のことが書いてあります。

行ったり来たりで、生放送   (※すこし加筆しました)

2006年09月03日 | Weblog



▼9月最初の週末は、土曜の午後に軽井沢に急行し、日曜の朝に軽井沢からフルスピードで帰京し、昼のテレビ番組に生出演する週末になった。

 番組はテレビ朝日の「サンデー・スクランブル」。
 放送されている地域はそう広くないようだけど、活気のある、視聴率も高い番組だ。

 ぼくは、東京のオリンピック招致について、それから、食糧安全保障ともかかわるマグロ水産資源の減少について、考えをすこし話した。

 オリンピックのところで、別のコメンテイターのかたが「東京生まれで東京育ちだけど関心ない」とおっしゃり、ぼくは「選手村の予定地の近くに住んでいるので(渋滞の悪化などで)迷惑もあるのですが、ぼくは、東京が国内の五輪候補地に決まってから東京の街が新鮮にみえます。意義はあると思う」という趣旨のことを述べた。

 するとMC(メインキャスター)のひとり、長野智子さんが「選手村の場所はどこですか」と何気なく聞かれたので、ぼくは苦笑して、しばらく口ごもった。

 東京都はもちろん選手村の予定地を公表しているけど、ぼくは今、セキュリティの観点から治安当局の要請もあり自宅の場所を詳しくは公表できないから、ストレートにぼくの口からは言いにくい。

 長野智子さんは、勘よく、「あ、なにか、言っちゃいけないんですか」と戸惑って、ぼくの顔を見た。
 ぼくは、「まぁ臨海部です。お台場を含む臨海部」とだけ、あえて曖昧に答えた。
 番組の終わったあとで「あれは、選手村の場所を知らないかのように視聴者に誤解されたと思う」と、ある人から指摘された。

 それは、まさしく誤解だけど、まぁ、こんなことがあるのも生放送だ。
 ぼくはスタジオの緊張感は好きなので、テレビ放送のなかでは生放送がいちばん好きだ。
 受けなくてよい誤解を受けることがあっても、それもまた、ありのままの人生です。


▼ただ、この日曜は、テレビをとるか、あらかじめ決まっていた予定をとるか、ちょっと悩んだ。

 9月2日の土曜。
「フィナンシャル・ジャパン」誌に連載しているコラム「超経済外交のススメ」のゲラに赤を入れて(つまり修正して)から、愛車のラリー・カーを駆って、軽井沢へ。

 翌日の9月3日の日曜には、1年に1回の行事がある。
 これは、なかなか他にない行事じゃないかなと思う。

 東京は日比谷にある、ちいさな、清潔で料理のおいしい呑み場所に、国会議員も官僚も弁護士も巨大企業役員も、肩書きを外して、自然に集まってくる。
 この店の女性オーナーが背筋の伸びた骨のある人で、客がエラソーにしていたりすると、大物閣僚でも叩き出して、出入り禁止にしてしまう。

 この女性オーナーの軽井沢の山荘に、みなが集まって、まず前夜にバーベキュー・パーティをやり、翌日に、本番の行事がある。

 ところが、9月1日金曜の夜になって、サンデー・スクランブルからの出演要請があった。
 独研の幹部に意見を聴くと、「行事は諦めて、出演したほうがいいと思います」という返事。
 その意見を容れ、かつ、この行事に誘ってくれたかたがたの好意に応えるためには、前夜祭だけに出て、とって返して、番組に出るしかない。
 それには、わがラリー・カーと人馬一体で、行ったり来たりをやるしかない。

 土曜日、午後2時45分に東京・湾岸を出発し、軽井沢でもいちばん奥まったエリアの北軽井沢に、2時間10分で到着。
 高速を走っているときは、とても高かった気温が、北軽井沢に近づくにつれ、17度まで下がり、自然の風を入れて走る。
 もともと「雪と氷のモンテカルロ・ラリー」に勝つためだけにつくられた車だから、高温多湿の環境の日本の夏には苦しむ車だ。
 頑張るエンジンが取り込む風が、冷たいのは、いいなぁと、うれしくなる。

 北軽井沢に着くと、すぐ前夜祭に参加して、そのあと小さなペンションに泊まり、翌朝の午前7時15分、北軽井沢を出発。

 いまごろは本番の行事が盛りあがっているだろうなぁと羨ましく想像しつつ、ラリー・カーのポテンシャル(潜在能力)を引き出して、帰京を急ぐ。
 往路とまったく同じ2時間10分で、東京・湾岸に帰着。
 うーむ。モンテカルロ・ラリーで2連覇した、この車らしいかな。ナビゲーターなしでも、渋滞の状況が往路と復路でずいぶんと違っていても、いちおう、ぴたりだね。

 シャワーを浴び、着替えて、すぐにテレビ朝日へ。
 MC(メイン・キャスター)と打ち合わせをする時間もなく、生放送の本番が始まった。

 ぼくなりにベストは尽くした。
 いつもそうだけど、きわめて限られた時間で、必要なことをすべて語るのは難しい。
 というより、物理的に困難な面が、たいへんに、ある。

 視聴者の方からはいつも、「あれに触れて欲しかった」、「これに触れるべきだった」という真剣な意見をいただく。
 テレビの側の事情は事情として、視聴者が「視る立場」から、そうした意見を持たれるのは、ぼく自身も多くの時間は視る立場なのだから、よく分かります。
 テレビ出演が本業じゃないからこそ、よく分かる。

 そこで、ぼくなりに、不充分ながら工夫はする。
 その一つは、ほかの番組に出る機会に、語り漏らしたところを、なるべく語るようにしている。

 マグロ水産資源の減少については、きょうのサンデー・スクランブルでは、気仙沼でマグロ遠洋漁業に従事しているひとびと、それから水産庁の良心派から聴いた事実をもとに、日本の漁民の声を主体にお話しをした。
 先日のロシアの漁船銃撃でも分かったように、この国は海洋国家であるにもかかわらず、水産で生きる人々の声が無視されがちだからだ。

 このマグロをめぐるテーマは、環境保護をめぐる問題を含めてトータルに、別な番組で取り組みたいと思う。
 できれば、関西テレビの「スーパーニュース・アンカー」のぼくのコーナーで。



南から北まで、わたしたちの祖国   (※大きく加筆しました)

2006年09月02日 | Weblog



▼みんながたぶん、もう知っているように、ぼくは文章を書くことには、どうしても完璧主義になる。
 だからブログも途中まで書いていて、なかなか仕上げられずに、アップもできないことが多い。

 それでは、せっかく来てくれる人に申し訳ないから、なるべく短くてもアップはするようにしていきたいなと、きょう土曜日に思っています。


▼さて、ノンフィクションの新刊本を執筆する最終段階に入っていて、ほんとうは原稿書きに集中したいところだけど、われながら激しい、としか言いようのない日程が続いてる。

 たとえば、ここ10日ほどを、ちょこっと振り返ると…


▼8月22日の火曜は、朝、羽田から空路、関西地方のある県を訪れた。
 県庁で若手改革派の知事に会い、エネルギーをテーマにフランクに語りあい、県庁のエネルギー関係の勉強会に出席し、その県から特急で大雨の大阪に入る。

 夜に関西テレビで、翌日放送の報道番組「アンカー」のなかのコーナー「青山のニュースDEズバリ!」についてディレクターたちと、いつものように熱く議論。
 未明に、定宿、と言うよりもはや「大阪の家」のように馴染んでいるホテルに入る。
 明け方まで原稿。


▼8月23日の水曜は、朝7時すぎから大阪の定宿ホテルで、RKB毎日放送(福岡)のラジオ番組のなかのコーナー「目からウロコ」に電話でレギュラー生出演。

 午後にはホテルのプールで泳いで心身をすっきりさせてから、関西テレビに入り、午後4時55分から「アンカー」に生出演。
 きょうの「青山のニュースDEズバリ!」では、北朝鮮の核実験がもしあれば、それが日本をどう変えるかについて話した。

 深夜に帰京。
 自宅で、明け方まで原稿。
 疲れと眠気で、椅子の上でぐらぐらしながらの執筆だから、もはや執筆とは言えないぐらい効率が悪い。


▼8月24日の木曜は、朝6時40分の便で羽田を発ち、沖縄の那覇に入った。
 沖縄の公共事業体と、エネルギー開発やテロ対策について協議し、その午後には、空路で宮古島に入った。

 沖縄県庁の幹部や、政府(内閣)の中堅幹部らと島内を回り、伝統の「宮古上布」(みやこじょうふ)の織り元などを訪ねたあと、夕刻から「国民保護フォーラム」の打ち合わせ。
 このフォーラムは、沖縄県が主催し、政府(内閣と総務省)が後援している。
 平成16年9月から施行している国民保護法を考えるフォーラムだ。

 夜、宮古島市の中央公民館で開かれたフォーラムの本番で、内閣の中堅幹部、県庁の幹部がそれぞれ講演したあと、ぼくの「特別講演」が始まった。

「住民の安全保障をみずから担う、その希望について」と題して、沖縄戦の悲劇や東京大空襲の惨劇をふりかえりながら、ぼくなりに懸命に語り、集まってくれた住民のかたがたに問いかけ、一緒に考えた。

 夜遅くに懇親会に出て、宮古島のホテル泊。
 ホテルには、ダイバーが多い。
 実は、ぼくもスキューバ・ダイビングのライセンスを持つダイバーだから、ちょっとだけ羨ましい。

 記者時代は、どれほど忙しくても、たとえば首相官邸記者クラブも外務省記者クラブも共同通信は10人以上の記者を配置していたから、交代で夏休みはとれた。
 だから、けっこう世界中の海に潜ったのだけれど、共同通信を辞めて三菱総研に移ってからは、独立総合研究所の今も含めて、8年3か月、ただの1日も休んでいない。
 夏休みどころか、年末年始も、毎週の週末も、まったく休んでいない。

 忙しさそのものが加速していることもあるけど、記者時代と違って、代わりになる人がいないことが、いちばん大きい。
 ただ、それは裏返せば、組織の歯車であることが、なくなったことだから、ふだんは『休んでないっ』という感じでネガティヴに考えたりはしない。

 でもね、こうやって美しい南の海を前にして、ダイバーの姿をみると、久しぶりに潜りたいなぁとは思う。
 ぼくは特に、海のなかで断崖絶壁の上に浮かび、漂うのが好きだ。
 地上では絶対にできないことが、海のなかでは、ライセンスと経験さえあれば、誰でもできるのです。

 ダイビングをしていたころの記憶をちょこっと、頭に浮かべながら、ホテルの部屋で明け方まで原稿。


▼8月25日の金曜は、碧い沖縄の海を越えるローカル空路で、宮古島から石垣島へ。
 やはり沖縄県幹部や内閣の中堅幹部らと島内を回り、この石垣島と西表島にしかない八重山椰子の高い樹に手を触れて、しあわせだった。

 夜、立派な造りの石垣市民会館で「国民保護フォーラム」が開かれ、再び特別講演。

 県幹部は事前に、「石垣島では金曜は、みな飲みに行ってしまう日だから、何人来てくれるか。ひょっとしたら50人とか60人とか…」と、たいへんに気を揉んでいたけど、とんでもない、大入り満員。
 立ち見の人もたくさん、いらっしゃった。
 石垣と、周辺の島々から集まってくださったひとびとに、胸の奥から感謝した。

 夜遅くに、ふたたび懇親会。
 宮古島では参加できなかった沖縄県の若手職員もみな参加して、うれしかった。

 それに、フォーラムは、宮古でも石垣でもたくさんの人を集めて盛況だった。
 開催の準備に苦労してきた県のひとびとがみなホッとして楽しそうだったから、それも凄く、内心で嬉しかった。

 一連の日程はずっと、独立総合研究所(独研)から、総務部秘書室の秘書や、研究本部の自然科学部長が同行している。

 未明に、石垣島のホテルに入り、明け方まで原稿。


▼8月26日の土曜は、県の職員2人と、石垣島から船で周りの島を訪ねた。

 ぼくは沖縄と浅くはない縁があるけれど、石垣島は初めてだった。
 石垣から、船で少し足を伸ばしてエメラルドの海を渡り、黒島と、それから西表島へも足を延ばした。
 船中では、あっというまに眠り込んで、どうにか体力を回復する。

 この島々は、緑の濃い夏の牧場のなかに、大きなお墓が点在している。
 古い、琉球の伝統そのままの亀甲墓(きっこうぼ)、つまり巨大な亀の甲に似た天井を持つ、ちゃんとした家のようなお墓もあるし、その亀甲墓の上に、ヤマト(本土)風の墓石が乗っかっているスタイルの墓もある。

 いずれにしても、日本最南端の強烈な陽射しと、草を食む牛、深い草叢のなかからわっと飛び出してくる虫たちまで生々しい命と、大きなお墓が、なんの区別もなく共にある。

 死と生が共存している島々だ。
 そこも、ぼくには浅くない縁を感じられる。
 ぼくの選んだ生き方も、死生観を根っこに据える生きかただから。
 いつも死と生が共にある日々をこそ、送りたい。

 黒島そして西表島から、船で石垣島へ戻り、そこからまず空路で那覇へ飛ぶ。
 イルカによく似た小ぶりな飛行機が勢いよく滑走をはじめると、石垣空港の滑走路のすぐ横にも、亀甲墓が並んでいることに気づいた。
 まるで生きる者の、にぎやかな行き来を楽しんで眺めているようた。

 そして、この飛行機も、ほんとうは死と生が共存している乗り物なんだと、あらためて実感する。
 ぼくは今、人生の半ばを飛行機のなかで過ごしているような錯覚がするほど、空路の移動が多い。

 上空よりも着陸寸前の低い空で、ダウンバースト、つまり飛行物体を地面に叩きつけるように上から下へ吹く猛烈な突風を感じたりするときに、ああ、この飛行機は実は死と生の隙間を飛んでいるんだなと感じる。

 那覇から、今度は短くはない空路で羽田へ。
 自宅に戻ったのは、もう未明だった。
 明け方まで原稿。
 いつものように椅子の上で、ぐらぐらと眠気や疲労のなかを泳ぐような執筆だから、ペースはまったくもってあがらない。


▼そして翌8月27日の日曜は、いきなり北海道の帯広へ。
 朝6時50分に自宅を出て、羽田から飛ぶ。
 肉体には、南の島で強烈な紫外線を浴び続けたための、なんとも言えない深い疲労が染みこんでいる。
 その身体を、宮古島や石垣島とは14度ぐらい気温の違う北の大地へ一気に運ぶ。

 この日も、講演する。
 講演もテレビも、ぼく個人のものではなく、独立総合研究所(独研)のたいせつな発信だ。

 帯広の自衛隊・地方協力本部(旧地方連絡部)が創立50周年を迎えて記念式典を開き、そこに招かれて「特別講演」を行う。

 講演のまえに控え室に入ってきた本部長(陸上自衛隊一佐、国際社会からすると大佐)をみて、びっくり。
 ぼくが共同通信政治部の記者として防衛庁記者クラブにいたとき、内局の広報にいた懐かしのひとだ。
 防衛庁近くの焼鳥屋さんで、ずいぶんと激しく議論した仲だから、嬉しくて、懐かしくて、思いきり強く握手した。

 講演が終わると、十勝ワインの工場などを短時間ながら訪ねる。
 十勝ワインは、ここ北海道・池田町の町長がリーダーシップをとって産みだし、地域を生まれ変わらせた有名なワインだ。
 ぼくも学生時代に、当時の女ともだちが新宿で並んで買ってきてくれたのを、おいしく呑んだ記憶がある。

 そこから、懇親会へ向かう。

 この出張には、沖縄電力から出向(研修生としての出向)で独研に来ている秘書・兼・研究員のRが同行していた。
 沖縄育ちのRは、独研に来て初めて、大きな河もみて、新幹線にも乗った。
 イギリスとカナダに留学していて、語学力もある彼女だけど、日本を知らなかったとも言える。

 独研でみんなに好かれたRは、8月いっぱいで出向が任期満了となる。
 最後に、北の大地へ連れて行けて、これも嬉しかった。

 Rは、懇親会のバーベキューパーティのあと、懇親会をセットしてくれた方々に「こんなに巨大なカニが食卓に並んでいるのを、見たことがありませんでした」と実感のこもったお礼メールを送ったそうだ。

 南国のひとの眼が個性的で美しく、きりりとしたウチナンチュー(沖縄生まれの沖縄育ち)女性、R、那覇に帰っても、きみらしく毅然と柔らかく、頑張れ。
 独研のみんなが、しっかり応援しているぞ、いつまでも。

 日帰りで深夜、帰京。
 南と北の疲れが、どっと押し寄せる。
 原稿を書くためにパソコンの前に座るが、椅子の上でぐらぐらした末に、無意識のままベッドに倒れ込んでいた。たぶん、それが午前4時ごろかな。


▼翌8月28日の月曜から、日本テレビの「今日の出来事」に生出演が始まった。
 木曜までの4日連続だ。

 月曜は、やっと東京にいられる貴重な日だから、昼間、シンクタンク・独研の社長として経営課題に取り組むためのたいせつなアポイントメントなどをこなす。
 独研は、創立から5年目に入っている。
 社員・スタッフは、出向者を含めて23人。
 黒字経営を続けている。
 誰にも、どこにも遠慮せずに発言するためには、このまま、誰からも、どこからも支援を受けずに、自分たちで食っていけることが絶対不可欠だ。
 だから黒字経営を、みなで実現している。

 夜10時頃に局入り。
 この番組は、コンパクトなニュース番組なので、ゲストのコメントは2回、それぞれ「40秒きっかり」、「50秒きっかり」と決まっている。
 コメントが長くなって番組全体の構成が変わることは、許されない。

 こういう感じの出演は初めてだったけど、原稿は作らない、原稿を読まない、生の自然な言葉で視聴者のかたに伝えるというぼくなりのスタイルは守った。

 初日の月曜は、目の前にある大きなアナログ時計(視聴者には見えず、出演者にだけ見える位置にある時計)をどう見ればいいかも分からず、フロア・ディレクターが指で残りの秒数を指示する動きも、他の局とは感じが違っていて、よく分からず、ちょっとばかし緊張した。
 局から、未明に帰宅。
 明け方まで原稿。
 ただし、いつもと同じ「椅子の上でぐらぐら」。こんなことをやっていては、いつまでも新刊は出せないと、ひとりの書斎で、思いは苦しい。


▼8月29日の火曜は、昼間、独研・社会科学部の研究員らと、実力部隊を持つ政府機関などを回る。
 テロ対策を、踏み込んで協議する。

 政府機関のうち、代表的な機関の一つに入るとき、受付役の警備員が確認もせず「あちらへ、こちらへ」とデタラメなことを言うために、ぼくと独研の研究員たちは間違ったフロアへ行ったり、閉ざされたドアの前で待ちぼうけをしたり。
 ぼくは、あえて怒りを爆発させ、政府の幹部に「時間の無駄だし、非礼ではないか。なぜ受付の体制をきちんとさせないのか」と詰め寄った。

 これが初めてのことなら、ぼくは怒りはしない。
 この政府機関は、まさしく日本政府の顔であり、中枢なのだが、いつも受付がいい加減なのだ。
 日本の官庁が、民間からの来客に対していかに非礼であるかを象徴しているし、民間人の来訪に対していつもこうであることが想像できるから、腹を決めて、大声で怒った。

 民間会社が官庁を叱るなど、想像もできない経験なのだろう。
 政府高官たちは、ポカンとしている。
 この高官たちは、受付の業務について直接の管理責任はない。
 それを百も承知で、胸のうちで『ごめんなさいね、しかし、言わなきゃいけない』と呟きつつ、ぼくは、さらにおのれを励まして、高官たちに詰め寄った。

 民主国家である日本の主人公は、あくまでも民間の国民だ。
 官尊民卑の勘違いは、正さねばならない。
 シンクタンクである独研は、政府と連携すべきは連携して、常に仕事をしているが、断じて『出入り業者』ではない。
 私利のためじゃなく、祖国とアジアと世界のために仕事をしている。
 たいへんに僭越な物言いに聞こえても、ここだけは、あいまいな言い方はしたくない。

 政府の高官たちは、その場で、独研の主任研究員と一緒に事実関係を調べた。
 そして、ぼくが信頼している若手の幹部が、確かにいい加減な受付業務であったと認めて詫び、誠実に改善を約束してくれたから、ぼくは矛をおさめて、テロ対策の協議に入った。

 協議のあと、独研に戻り、秘書室や研究本部と打ち合わせ。
 夕刻6時には、大阪の関西テレビからスタッフが来社。
 ぼくは、いつもは火曜の夜に大阪入りして、水曜の「アンカー」(報道番組)でのぼくのコーナーのために議論と打ち合わせをする。
 だけど、今週は日本テレビの「今日の出来事」に出演するから、夜には東京にいなきゃいけない。
 そこで、大阪から関テレのスタッフのほうが、やってきてくれたわけだ。

 こころのなかで「お疲れさま」と頭を下げながら、たっぷり2時間、議論する。
 大阪での議論と打ち合わせは、4時間を超えたこともある。
 あす水曜の本番では、紀子さまのご出産が近づくことを契機に日本の天皇制を考えることを決めた。
 スタッフは、「まだ、よく分からないところがある」と不安そうだったけど、「大丈夫ですよ」と送り出す。

 夜10時過ぎに、日テレに入る。

 この日は、メインキャスターの小栗泉さんが「青山さん、どうでしょうか」と振った瞬間から、目の前のアナログ大時計を見て、時間を自分で計りながら話すようにしたから、まずまず、きちんと話せたかもしれない。
 局から、未明に帰宅。
 明け方まで、「ぐらぐら執筆」…。


▼8月30日の水曜は、早朝に自宅でRKB毎日放送(福岡)のラジオ番組に電話出演したあと、羽田から大阪へ飛ぶ。
 まず、公共事業体とエネルギー開発について協議したあと、夕刻から関西テレビに入り、「アンカー」にレギュラー出演。
 「青山のニュースDEズバリ!」のコーナーでは、日本の天皇制は、柔らかな本質を持ち、世界に通用する日本の個性であることの大切さを語り、わたしたち国民のかけがえのない財産であることを語った。

 終わると、すぐに羽田へ戻り、そこから日本テレビへ飛び込む。
「今日の出来事」出演の3日目を、どうにかこなして、未明に帰宅。
 明け方まで「ぐらぐら執筆」。


▼8月31日の木曜は、沖縄電力から出向(研修)で独研に来ていた秘書・兼・研究員のRが、1年の出向期間を終える日だ。

 夕刻に、沖縄電力・東京支社の送別会(激励会)に顔を出し、こころを込めて感謝のあいさつをした。
 フェアな人柄のRは、ただの一度も「沖縄電力では、こうしていた」とは言わず、独研の独自の仕事スタイルから、よく学んでくれた。
 ぼくは、それを一つの例として、Rの人柄と、勘のよい仕事ぶりに感嘆していることを語り、沖縄電力の謙虚な人柄の支社長に「よくぞ、こんな社員を育ててこられましたね」と語りかけた。
 本音です。

 そこから真っ直ぐにジムへ行き、バーベル、ダンベルを挙げプールで泳いで心身をすっきりさせてから、夜10時まえ、日本テレビへ。

 「今日の出来事」の最後の出演を無事、どうにか終える。
 どうにか終えたけど、愚かなぼくは、最終日ということで無意識に緊張して、2度ほど噛んでしまった。

 メイン・キャスターで、かつての記者仲間でもある小栗泉さんや、ディレクター、それに独研の若き秘書室長とぼくの4人で、軽く飲んで、打ち上げ。
 未明に帰宅。
 明け方まで「ぐらぐら執筆」。


▼さて、この「今日の出来事」のホームページに、ぼくと小栗さんのトークがアップされています。
「トークの泉」というコーナーを開いてみてください。
 一定期間しかアップされないようだから、興味のあるかたは、どうぞお早めに。


※写真は、石垣島の西に浮かぶ小島、黒島で撮った伝統の民家です。
 素晴らしい明るさと美しさでしょう?
 わたしたち日本国民は、このかけがえのない琉球文化も、護っていきたいですね。