▼9月24日の日曜日、徹夜明けの心身を、自宅の風呂でどうにか目覚めさせて、テレビ朝日に向かう。
テレビを視るひとは、出演者の事情や都合とは一切関係なく、ベストのものを視たいだろうから、テレビ出演が本業ではないぼくであっても、自分の本業で徹夜しようが何をしようが、ぶざまな様子はいけないと思う。
だから、ほんとうはプールに行って心身を目覚めさせたいけど、きょうは、どうにも無理だった。プールに入るには、疲れが重すぎる。自宅の風呂へ入って、顔をバシバシ叩くぐらいが精一杯だった。
それでも、テレ朝に着く頃には、ぼろぼろの何かの生き物ではなく、一応は人間に戻っていた。
スタジオで出番を待っていると、前のコーナーが延びて、もともと短い時間がさらに短くなる。
それは、やむを得ないことだから、出る以上は、それに合わせてとっさに工夫するしかない。それが嫌なら、出ちゃいけない。
ぼくが解説するコーナーになり、レギュラー出演者の方たちとのトークが始まると、いつものように時間があっという間に減っていく。
画面には、もちろん映らないけど、フロアディレクターがどんどん、あと「1分30秒」、あと「45秒」、そして「しめて!」あるいは「まとめて!」と指示の紙を出す。
これを、さほど気にしない感じの出演者は、案外に多い。
気にしないというより、こだわらないと言った方が正確だ。
とくにテレビ局の記者だった人とか、もともとテレビの世界で育った人ほど、そういうことが多い。
しかし、ぼくは気にする。
指示の紙だけじゃなく、スタッフの顔に「ここが延びると、あとが困る」という感じの焦りの表情が浮かぶのまで、よおく見てしまう。
そこで、懸命に話をまとめて、トークを終えようとすると、MC(メイン・キャスター)が、まさしくフロアディレクターたちの指示にこだわらずに、新しい質問をすることが、実はとても多い。
それはMCがテレビというものをよく知っているからこそ、「ここは、視聴者がきっと関心を持って視ている」と判断するからだろう。
きょうも、「どうにか時間内にポイントだけは話し終えた」とぼくがホッとして、フロアディレクターたちのあいだにもそんな空気が流れて、「次へ」つまり「次のコーナーの前振りを」という意味の指示がMCに向けて出された、その瞬間に、MCの局アナが「安倍さんの訪中は、いつごろですか」と質問された。
ぼくは「10月に行くでしょう。日本経団連の御手洗会長が、実は準備のためにもう訪中しましたし」と短く答えた。
MCの局アナは「ええーっ。10月って、この10月ですかっ」と叫び、ぼくは「そうです」と答えて、このコーナーは終わった。
CMに入り、ぼくがやれやれと席を立とうとすると、出演者の一人が「さっきの、訪朝ですか」と聞く。
ぼくが驚いて、「訪朝? とんでもない。安倍さんは訪朝はしませんよ。訪中です」と答えると、MCの局アナが訪中は? と聞いたのか、訪朝は? と聞いたのか、その場でひとしきり議論になってしまう。
ぼくの耳には、はっきりと「訪中は?」と聞こえていた。
「訪朝は? と聞こえたよ」というのは、結局、テリー伊藤さん一人だったし、MCの局アナご自身も「私は、訪中と言いましたよね」と言っておられたから、まぁ心配はないのだけれど、ぼくは念のため「次のコーナーの冒頭で、さきほどのは、訪中の話であって訪朝ではありませんと言ってくれませんか」と頼んでみた。
しかし、それは番組の構成上、難しいようだった。
テレビは常に、時間との戦い、それも、いつも予定よりもさらに削られてしまう時間との戦いだ。
それはいいのだけれど、時には、こんな怖いことも起きるわけだ。
それに、きょうのようなケースだと、仮に出演者、スタッフが全員、「確かに、訪中は? という質問だった」と確信していても、視聴者のかたのなかで「訪朝は? という質問だった」と受け止める人が出てしまうことがある。
ぼくがとっさに、「ええ、中国訪問は10月にもあるでしょう」というように答えれば良かったなと、テレ朝からの帰り道に考えた。
訪中と訪朝、その音が紛らわしいことを意識しておきたい。
日本のテレビ番組をいつもマークしている、北朝鮮の工作員たちや、あるいは中国の諜報員のあいだで、「あれは訪中なのか、訪朝なのか」と調べていたりしてね。
ふは。
▼安倍新首相は今とのところ、ぼくの知る限りでは、北朝鮮を訪問するつもりはない。
しかし中国の訪問については、水面下で、周到な準備を重ねている。
もちろん、頭(こうべ)を垂れて訪中するようなことは安倍さんはしないだろうから、準備が実って訪中となるには、中国側のフェアな姿勢も必要だ。
▼テレ朝から、自宅に戻って、原稿を書いていると、スカパーTVで韓国映画の「私の頭の中の消しゴム」をやっている。
ぼくは実は、たいへんに映画が好きだ。
とにかく、映画の中で人が動いているのさえ映っていれば、うれしい、それだけでいいので、原稿を書きながら同時に、映画をちらちら見ていることが多い。
この映画はかなり話題になった。
視るのは、初めてだった。
ネタバレになってはいけないから、ストーリーは書かないけど、ぼくはもしも愛したひとが、そのような病気になれば生涯、介護するから、そして、多くのひとがそうだろうから、描き方がオーバーアクションのような気がした。
それでも、ぼくの胸には、わりあいに印象的な映像だった。
ネットでちょこっと見たら、日本の映画ファンが辛辣にして、きちんと当たっているキビシイ批評を下していて、正しいなぁと感心した。
それはそれとして、また放送していたら、原稿を書きながら、ちらちらとは、ただし途中まで、視るだろうな。
そんな映画だった。