Our World Time

冬の花火

2007年11月29日 | Weblog



▼3日前の月曜日の朝、突然に鼻血が噴き出し、延々と止まらない。

 ぼくは子どもの頃から、どちらかといえば鼻血が出やすいので、あまり気にしない。
 だけど、この朝のように、まったく突然に、つまり何かにぶつけたり、鼻を触ったり、顔をごしごしやり過ぎたり、そういうことが一切ないのに、ただ朝刊に目を通していただけなのに、こうやって大出血になることは珍しいから、だんだん少しづつ驚く気持ちになった。

 座ったまま身動きがとれず、いくらか勢いが止まったのをみて、すばやくベッドに横になって、あごを高くし、頭を下げる。
 やれやれ、これで止まるだろうと思った。
 ところが止まらない。

 文藝春秋から数年前に出版された、おのれの小説「平成」のなかで、昭和天皇が吐血、下血で苦しまれるのと合わせるかのように、主人公の記者の鼻血が止まらなくなるシーンがあるのを、ぼんやり思い浮かべていた。

 やむを得ず、横になったまま携帯電話で独立総合研究所(独研)の秘書室に電話をし、骨折している右足のリハビリのために病院に行く予定を、キャンセルした。
 これで、40分ほど、横になっている時間を稼ぐことができた。

 しかし、そのあとには国際赤十字のアジア責任者がマレーシアから独研を訪れ、ぼくと独研の研究員から日本の現況をヒヤリングをしたいという予定が入っていた。
 遠来の客だし、近くだろうと遠くだろうと関係なく来客に迷惑はかけられないから、鼻を押さえながら、身支度をして、独研へ。


▼ヒヤリングが終わると、内閣の原子力委員会の原子力防護専門部会へ。
 公開の場で、ラジオアイソトープ(病院の検査やガン治療など、あるいは工場での検査などで使われる放射性同位元素/放射性核種)を、いかにテロリズムの新しい脅威から護るかを、専門委員として議論した。

 議論しつつ、ほんとうは貧血気味。ふひ。


▼おととい火曜の早朝、今度は朝の入浴中に、凄まじい勢いで血が噴き出す。
 暖まったためなんだろう。

 この朝は、深く信頼する司法関係者と、ふたりだけで朝食をとる大切な約束があったから、祈るように「止まってくれ」と、おのれの身体と天にむかって、お願いする。

 止まりはしないけど、まぁ、どうにか、奇跡的に動けるようになって、車に乗る。
 約束の時間よりずっと早く着いて、やれやれ。

 モバイルパソコンをテーブルに載せて原稿を書いていると、彼が現れる。
 この人も超多忙のひとで、そう簡単には会えない。貴重な時間だ。
 額を寄せ合うように、防衛汚職について話す。情報を交換し、意見を述べあう。
 ときどき彼の眼が、鋭く光る。

 この何もかも見抜くような光る眼でも、ぼくのフシギな貧血は分からないだろうナァと、ふと思う。


▼独研へ戻って、シンクタンク社長としての業務をいくらかこなし、昼には、羽田空港から飛行機に乗って大阪へ。
 機中で血が噴き出す場合に備えて、ネクタイを外しておく。

 伊丹空港から真っすぐ、近畿大学経済学部へ。
 いつものように国際関係論を、ふたコマ、合計3時間、学生たちと対話しながら講義する。

 講義前に、大学の広報のひとがやってきて、広報誌とCS放送のために写真を撮影したいとおっしゃる。
 もちろんOKですと答えつつ、ふだんはジーパンで講義するのに、きょうは背広を着たままなのに気づく。
 鼻血に意識がいっていて、着替えるのを忘れていた。空港でネクタイを外しているときも、忘れていた。

 この日は出席者がいつもよりなぜか少なめで、寂しい気も少ししたけど、逆に、きょう出席している学生たちは、まさしくコアな、志の高い学生たちという気もした。
 ふらふらしている頭を、内心で懸命に立て直し、立て直しつつ講義し、学生たちに話しかけ、問いかけた。
 社会人として授業を登録し受講してくださっている牧師の大山明さんが、赤ちゃんが生まれて間もないのに、この日も熱心に聴講してくださった。魂の奥で、深く感謝する。

 日の暮れた近畿大学キャンパスから、学生たちに見送られて、関西テレビへ向かう。
 ほんとうは、ホテルに立ち寄って休みたかったけれど、講義を少し延ばしたこともあって時間がない。

 関西テレビでは、翌日の報道番組「アンカー」の「青山のニュースDEズバリ」コーナーのために打ち合わせ。
 これが、つらい。
 ぼくから、ほんとうにたくさん話す。ちょっとした講演並みに、ぎっしり情報を詰め込んで、話す。しかし、なかなか打ち合わせはまとまらない。
 いつもそうだから、鼻血が止まらなくて体調がよくないと、打ち合わせの最初に断ったのだけど、いつもと同じだった。

 ただし、やむを得ない。
 視聴者に対する責任から、ディレクターをはじめスタッフの全員が、一生懸命によい番組にしようと頭をひねっているのだから、その志を汲みとらなきゃ。
 とはいえ、実は、わたしゃもう、ふらふらのふらーんだ。

 そのあと、ようやくにホテルに入り、深夜1時から、信頼するマッサージ師さんに揉んでもらう。
 骨折を左足と勘違いされたらしく、右足の骨折部分を揉まれて、飛びあがる。
 しかし、これもやむを得ない。
 ギプスをしているときは良かったけど、ギプスが外れて目印がなくなった今、思わず勘違いすることもあるだろう。
 このマッサージ師さんは、いつもぼくの身体を良く理解して誠実に揉んでくれる。
 揉んでもらっているうちに、鼻血が噴き出さないか、実は心配だったけど、幸いそれはなかった。


▼そして、きのうの水曜日。
 まだ止まらない。
 早朝に、RKB毎日放送のラジオ番組の「ニュースの見方」に、いつものように電話で生出演する。
 ラジオ局やリスナーにはもちろん分からないけど、タオルとティッシュを手元に置いて、万一に備えつつ、言葉を選びながら防衛汚職について話す。
 一応、無事に終わった。

 さぁ、しかし夕刻の関西テレビは、無事に終わるかどうか。
 テレビの生放送中に、噴き出ちゃったりしたら、報道番組がホラー映画になる。
 なんてね、もちろん、おおげさな話だけど、内心ではかなり心配している。

 午後4時過ぎから、関西テレビ・報道局で、キャスター陣や室井祐月さん、それにディレクターと打ち合わせ。
 ぼくのコーナーを一緒にやってくれる村西利恵アナには、「ひょっとしたら生放送中に鼻血が出るかも知れないので」と伝えておく。
 賢い利恵ちゃんは、さりげなく、備える雰囲気になってくれる。

 生放送が始まる前までに、前防衛次官の守屋さんが逮捕されたという一報が入る。
 2週間前の、この番組で、11月28日ごろに収賄で逮捕されるとあえて明言したことが、頭をよぎる。
 胸のうちで、この情報をもたらし、確認し、テレビ番組での発言を許してくれたひとびとに深く感謝する。

 同時に、記者時代から12年のあいだ、その歩みを見てきた守屋さんに、『にんげんは哀しいものですね』と、心の奥で、話しかけた。

 守屋さん、あなたが防衛庁の花形ポストである防衛政策課長に就いて、頭角を現したとき、共同通信政治部の防衛庁担当記者だったぼくは、あなたに会い、ノーパンしゃぶしゃぶ店に通っている大蔵官僚と飲み歩いていることを注意した。
 あなたは、そのあと、そうしたことには慎重になったようだけど、その一方で、そのすぐ後に宮崎元信容疑者とのゴルフを始めたようだ。
 あなたは、国会の証人喚問で「ストレスを解消したかった」と述べたけど、ぼくは、それが真実とは思っていない。
 あなたはきっと、むしろ業者にちやほやされることが嬉しくて、ゴルフ場に通ったのだろう。
 そうではありませんか、守屋さん。
 大蔵官僚と飲み歩いているときは、絶大な権力を持つ大蔵官僚が誘ってくれることが自慢で、その大蔵官僚を神様のように扱う銀行のMOF担(大蔵省担当者)に自分もちやほやされることが嬉しかったのだろう。
 根っこは同じだ。
 なんて哀しい、人の心根だろうか。
 そして、ぼくはあなただけが例外だとは思わない。
 ひとは、おおくのひとが、ぼく自身をも含めて、同じようなこころの弱さを持っている。
 その心の弱さを、捜査機関のような権力に指摘されない限りは気づかないのか、それとも、みずから気づいて、こころの弱さも欲望も天に預けて、おのれは私心を脱して、ただただ天命を遂行するのか、それがひとの名誉と恥辱を永遠に分ける。


▼祐月ちゃんが、生放送本番前の打ち合わせでディレクターに「守屋逮捕に、どのような感想を?」と聞かれて、「ああ、(2週間前の)放送が当たったぁと、あたしは思ったよ」と言ってくれた。
 ぼくは何も言わなかったけど、うれしかった。
 事件記者の経験のある人なら、情報管理のハードな特捜事件で、逮捕日を事前に特定することの言葉でいいようのないような難しさは分かる。
 だけども祐月ちゃんは、そうした経験がなくとも、すなおに分かってくれた。

 生放送は、ホラー映画になることなく、無事に終わった。
 ぼくはいつものように、あそこはああ言うべきだった、なんて自分は下手なんだろうと、自分に落胆するが、利恵ちゃんは「体調が悪いとは思えませんでしたよ」と、これもさらり、言ってくれる。

 ぼくがコーナーの中で、やはり体調もあるのか、大事なことをひとつ、触れ忘れていたのを、メイン・キャスターの山本浩之アナ、通称ヤマヒロさんがきっちり質問してくれて、おかげで答えることができた。

 みんなのおかげで、まずまずの内容で、コーナーのオンエアができました。


▼ホテルに帰ってから、同行している独研の若き秘書室長Sと、軽く食事に出る。
 大阪の街並みは、色づいた銀杏がネオンや街灯に照らされて美しい。
 びっこを引きながらも、松葉杖なしで歩けるのが、すこし嬉しい。

 途中、宝くじ売り場に立ち寄って、去年の年末宝くじを見てもらう。
 案内役の男性は、「おやおや、夏のジャンボ宝くじかな」と呆れたように言う。
 いえいえ、それどころか去年の年末ジャンボです。宝くじを買っても、見てもらう時間がない。
 きょうは、ようやくギリギリに見てもらえて良かった。

 100枚、3万円分ほどを見てもらって、もちろん高額当選はなし。
 1枚だけ、3千円があって、にっこり。
 そりゃ大赤字の結果だけどさ、いいんじゃない? 縁起がいいよ。

 食事の前に、お初天神に寄って、お参りする。
 若き秘書室長Sは、ニューヨーク育ちの帰国子女なので、こういう日本の文化を勉強のために、祖国の理解のために見せてやりたい。
 なにかを懸命に祈っている彼女の姿が、清冽だ。

 そのあと、ガラス張りの店で軽く食事をしていると、道行く人が、ぼくに手を振ったり、ガラス越しに笑いかけたり。
『アンカー、いつも見てるよ』、そんな口のかっこうをしてくれる人もいる。
 ありがとう、みなさん。

 このかたがたが、ぼくの向かいで食事している若き秘書室長Sをちらりと、ご覧になる。
 あはは。なにか誤解するひともいるのかも知れないけど、まったく気にならない。
 天が、すべてを見ているのだから、身を正しくしていればよい。

 秘書室長Sと、独研のこれから、近未来の希望について熱心に話しあう。
 彼女の志と覚悟は、いつもながら、素晴らしい。こころのなかで感嘆する。

 がんばれ、日本の女性たち。
 わたしたちの祖国はもともと、天照大神、アマテラスオオミカミの国です。


▼きょうの木曜は、未明3時に起きて、原稿を書いている。
 昼には、次の出張先の福井県へ向かう。

 まだ鼻血は止まってはいない。
 だけど、こういう小さな不安を抱えているほうが、むしろ緊張感があっていいのかも知れない。

 さまざまなプレッシャーが、この2年半ほど、大きくのしかかっていて、この頃はぼくには珍しく眠れない夜も続いてきた。
 鼻血は、その結果なのだろうし、骨折も、思えば残暑のひどい暑かった夜に、寒くて寒くて、疲労からか身体が悪寒でガタガタと音を立てるように震えだして、慌てて早く家に入ろうと、変な走り方で走ったための転倒だった。

 だけども、不安やプレッシャーがあったほうが、自分の脇を締め、果たすべき任務、天命を果たし、誇りと名誉のある死をいつか迎えられることに繋がるのかも知れない。 





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▽写真は、ぼくの地元の東京湾岸から携帯電話でとった、花火です。
 11月の半ばでした。
 海に浮かべた小舟から、大輪の花火が打ちあがり、水面にはビルの明かりが映っています。

 この頃の東京は、秋という季節を失い、残暑からいきなり初冬になります。
 だから、この花火も秋じゃなく、もはや冬の花火として眺めました。

 たくさんのひとが花火を好きなのは、いつも言われることではあるけれど、やはり命に似ているからでしょう。





三本足か、二本足か

2007年11月21日 | Weblog



▼11月20日の火曜日は、朝いちばんに病院へ。
 骨が折れている右足のレントゲンを撮り、ギプスを外すかどうか、松葉杖を病院にお返しするかどうか、それを判断する日だ。

 そうした日は、もうこれが3度目になる。
 これまでは2度、「むしろ、もっとしっかり固定しましょう」というドクターの判断が出て、ギプスも松葉杖もそのままになった。

 ドクターはそのたびに、「青山さん、折れた場所がとても難しい場所で、ふつうなら、まだまだギプスを取ろうかどうしようか、なんて、検討すらしないんですよ」とおっしゃり、療法士さんは「青山さんとほとんど同じ場所を骨折した人で、年齢もまだ30歳代前半なのに、3年間、くっつかないままの人が通院してきてますよ。青山さんが折ったのは、9月24日。まだ2か月じゃないですか」と話す。

 そうですか、そうでしょうね。
 ただね、松葉杖の3本足で、ほぼ毎日のように出張するひとは、あまりいないでしょう。
 その毎日は、ほんとうに心身が疲れ果てるのです。


▼身体の負担には、もう慣れました。

 慣れないのは、空港や駅で直面する、日本の人々のぞっとする冷たさです。
 松葉杖で懸命に身体を運んでいるときに、正面から平然とぶつかってくるひとは、もう当たり前で、数えきれない。それどころかエレベーターにご自分が乗るために、松葉杖を払いのけるひともいる。
 逆に、手助けをしてくれるひとは、見事なまでに、ただの1人もいない。

 空港で、遠くを歩いていた西洋人のビジネスマンが走ってきて、「何かわたしにできることは」と聞いてくれたことはある。
 しかし、日本国民は、みごとに皆無。

 ぼくの古い友だちが、「そうなのかぁ。しかし、なかには例外はいるよね」と聞いた。
 ぼくだって、そう思いたい。この祖国を愛して生きてきたのだから。
 だけども、1人の例外もなかった。


▼空港や駅だけじゃない。
 身体を腐らせないために、松葉杖で、それなりに一生懸命にスポーツ・ジムへ行くと、日本人のジム会員は、ドアに近づくぼくを追い抜いて、自分のためにドアを開け、そしてそのままドアがバァンと閉まるに任せて、さっさと自分のトレーニングに向かい、松葉杖の人間にはまったく無関心でいる。
 これも、ただ1人の例外もなかった。
 信じがたいですか?
 ぼくも信じがたいです。
 しかし、ただの1人も、ドアを開けて待っていてくれたひとはいなかった。
 みなさん、ほんとうに自分の人生だけに、それだけのために忙しいのですね。

 このジムはフランス系ホテルのなかにあるから、ときどき西洋人の宿泊客がトレーニングにやってくる。
 こうしたひとは、自分のトレーニングを中断して、松葉杖の見知らぬ人間のところに走ってきて、きもちのよい微笑とともに、しっかりとドアを開けてくれる。


▼実は、身体としては、こうしたことにもすっかり慣れた。

 空港でも駅でも、ジムでも、ふつうに2本足で歩いているひとびとを松葉杖で追い抜いて、はるかに置き去りにする高速で、飛ぶように松葉杖を使うようになった。
 ドアは、松葉杖を握る手のうち片手を外してさっと開け、そこに松葉杖の1本をガッと噛ませてドアをしっかり固定し、一瞬のうちにドアの向こうへ身体を送り込む。

 たまに近づいてくださる西洋人には、丁寧に会釈をして、しかし助けは一切借りず、自力でどこへでも、すっ飛んでいく。階段も、3本足で飛び上がり、3本足で飛び降りる。
 そのようにしたから、身体的、物理的には、もうOK。
 スポーツ・ジムのトレーナーは、ぼくの両腕と、胸、そして折れていない左足に新しい筋肉がどんどんつくことに、目を丸くして驚いていた。

 だけども、こころがどんどん傷ついていくのが、もう耐えられない。
 この祖国のどこを愛したらいいのか、それが分からなくなることに、もう耐えられない。

 いちばん辛いのは、物理的にぶつかられたり、松葉杖を払われたり、目の前でドアを閉められたりすることじゃない。
 その冷たい視線だ。
 ただ松葉杖をついて、3本足で歩いているだけで、異生物のように眺める、その凍るような目つきだ。

 そして、そのなかでも、深くこころが沈むのは、日本の子どもたちがその冷たい視線を投げ、親と一緒に、異生物を眺めている、その光景だ。


▼だからね、この11月20日は、どうあってもギプスを外してもらい、松葉杖を病院に置いていこうと、秘かに決めていた。

 レントゲン撮影が終わり、画像をみたドクターは「おお、順調です。ここのところに、しっかりと仮骨(かこつ)ができている」と明るい声で言う。
 画像には、まだ、ぱっくり大きく開いた骨折部分と、そのクレバスの根っこのところに、もわもわと綿のように仮骨ができているのが映っていた。
 ドクターは嬉しい声で、「じゃあ今日から、ギプスは外して、別の装具をつけて、それから松葉杖を1本にしましょう。良かったですね」とおっしゃった。

 ぼくは即座に、「いえ、1本も松葉杖は使いません。松葉杖は、今日、お返しします」と答えた。
 杖が1本になっても、ギプスを外した右足を加えると、つまりはまだ、3本足じゃん。


▼…ドクターも療法士さんも、最初は目を丸くしていたけれど、やがて許してくれた。
 ぼくは、ほぼ2か月ぶりに、2本足に戻って、病院から羽田空港へ向かった。
 大阪の近畿大学経済学部で、日本国の現在と未来そのものである学生たちに、国際関係論を講ずるために。
 国際社会でわれら、どう生きるか、それを通じて、祖国を論じるために。

 足は少々痛むけど、それよりも、歩き方というやつを身体が忘れているのに、驚いた。
 療法士さんから「歩けなくて、きっと、びっくりしますよ」と予言されていたとおりだ。
 やがて、ギプスの代わりに靴の中に入れた装具が固くて足を柔らかく蹴り出すことができないせいもあると、そう気づいた。


▼ぼくは3本足の時代に、この目で見たことを忘れない。
 この祖国で、ずっとずっと不当に傷つけられている、ハンディを背負ったかたがたに、ぼくが生きている限り、思いを致すために。

 そして、この祖国が忘れ果てたものを、取り戻すために。



▽写真は、独立総合研究所の若き研究員たちと訪れた、北海道の洞爺湖半にて。
 来夏の洞爺湖サミットに備えて、テロリズムを阻むための案を練る出張でした。

 ああ、北の空に吼える、わが懐かしの松葉杖っ。