Our World Time

おおみそか

2006年12月31日 | Weblog



▼きょう大晦日は、ひさしぶりに自宅の書斎で原稿を書いている。
 ことしは出張がさらに増えて、一日に飛行機に四回乗るのも、もはや当たり前に近いから、自宅にいることはかなり珍しい。

 自宅も、書斎という名の仕事場にいるばかりで、たとえばリビングにいる時間がない。
 夜明けまえに、たまにリビングの窓際に一分か二分ほど立ち、東京・湾岸の夜景の名残りをみる。それだけで、机に戻る。

 この大晦日は、すこしだけ違う。
 さきほどジムに行って、バーベルやダンベルを挙げ、フリーとブレストを泳いだ。
 そこから、テレビ局に行くこともなく、海外出張に向かうこともなく、ふたたび自宅に帰ってきて、リビングから滴るような夕陽と赤い富士を、ゆっくり眺めてから書斎に戻り、原稿を書き続けている。


▼大晦日から正月にかけて、世界は同時に動きをいくらか止める。天変地異や事故それに事件は、この頃なぜか年末年始に多い。それでも、政治と外交は動きを一瞬、止める。
 そのときに原稿を一気に書かないと、もう一年間ずっと原稿を書く時間はつくれない。本は出せない。
 それが、この過ぎゆく二〇〇六年によく分かった。骨身に染みた。
 だから、とにかくこの大晦日から正月にかけて、ひたすら書く。
 そう、こころに決めている。

 ぼくは、ひとりの物書きだ。
 そのことを見失ってしまったら、ぼくがぼくでなくなる。

 二〇〇六年も、そのまえの二〇〇五年も、いくつもの出版社から「本を出したい」というオファーがあり、それを自分の意志で受けたのに、ただの一冊も出せなかった。
 途中まで書いた原稿は、たくさんある。それをプロの端くれとして完成度を高めて、着地させる、すなわち完成させる時間がとれなかった。

 といっても、きょう大晦日はまだ、本の原稿には取りかかっていない。
 まずは、会員制レポート『東京コンフィデンシャル・レポート』の『年始特集』の原稿を書き込んでいる。
 このごろ驚くほどに増えた会員のかたがたが、配信を待っていてくれる、その熱意を間近に感じる。
 だから、そのレポートを何本か書き終えてからでないと、本の執筆に入るわけにはいかない。
 年始特集の配信は、一月四日に始まる。


▼ぼくにとっての二〇〇六年は、もしも一言でいうなら、苦しかった。
 その一言に尽きてしまう。

 不肖ながら社長・兼・首席研究員を務めているシンクタンクの独立総合研究所は、ことしも、研究本部の研究員たちや、総務部の社員たちの、献身という言葉がまさしくふさわしい清い努力で、しっかりとした貢献を地域社会と祖国に果たしたと思う。
 謙遜じゃなく、社長のぼくがとてもできないような努力を、みんなが重ねてくれた。

 政府機関や自治体から委託された、テロと危機から国民を護るための研究、あるいは企業から委託されたリスク管理や広報改革の研究、いずれの仕事も、研究員と総務部員のおかげで充実していた。
 独立総合研究所は、どこからの支援、補助も一切、受けない。ひも付きでない。
「だから三か月ともたずに潰れる。まず人件費が払えなくなるから」と、既成シンクタンクの幹部から言われたこともある。
 いやいや、黒字を続けつつ、創立五周年が近づいている。

 それから、たとえば今年四月にスタートした関西テレビの新しい報道番組「ANCHOR」では、水曜日にささやかなぼくのコーナーが誕生し、その水曜日は、まずまず視聴率もよかった。
 ぼくには関西テレビとなんの利害関係も、契約関係もない。
 だけれど、いつしか「ANCHOR」のスタッフのなかに『青山チーム』が育ち、その誠実な仕事ぶりのスタッフのために、今年の成果はうれしかった。

 だけども、それでも、正直におのれのことだけを語るならば、ぼくは今年、たいへんに苦しかった。
 世間から、あるいは周りから、どう見えていようとも、ぼく自身は、そうだった。

 なぜだろう。
 たとえばテレビ番組については、今すぐすべての出演をやめたいと、誰にも言えない叫びを胸の奥で何度も聞いた。

 一切の最終責任は、ぼく自身にある。
 ただ、日本社会に深く根づいている権威主義、それと巧妙な『権力と反権力の癒着』に、苦しい思いを、内心では重ねることになった。
 それは、ふだんいちばん身近にいる独研の若き秘書室長にも、言えなかった。

 官僚であった時代もなく、大学の先生でもなく、もちろん国会議員でもない。
 それでいて評論家という肩書きは、あくまでも、お断りしている。
 もちろんタレントではない。
 テレビに顔を出す人のうち実に多くの人、え、この人が、と視聴者が知ったなら思うだろう人でも世話になっている、すなわち属している芸能プロ、興行会社には一切、関わりをもたない。
 そして「ヒモ付きでないシンクタンク」、つまり旧財閥や銀行、大証券会社の裏打ちがなく、権威主義からすると、あってはならないシンクタンク、その社長という立場でいる男。

 そんな男は、たとえば日本のマスメディアからすれば奇妙なだけの存在であり、ほんらい、この日本では発言権がない。


▼胸のうちで、わずかに救いを感じる時は、あった。

 マスメディアでいえば、硫黄島を訪ねて映画とは違う真実に触れ、それを関西テレビ「ANCHOR」で伝えようとしたときに、ぼくの力不足があっても、その真実そのものは、しっかりと視聴者が受け止めてくれた。

 硫黄島に行くまえ、鳥取県米子の近郊で、新たに拉致被害者と認定された松本京子さんのお母さんとお兄さんにお会いしたときも、やはり関テレ「ANCHOR」を通じて、視聴者、国民が真正面から受け止めてくれた。

 それから、意外にも官のなかで、ぼくのちいさな志、独立総合研究所の掲げる旗、理念を、おどろくほど正確に、フェアに理解するひとびとが現れている。

 それでも、この国の権威主義の壁は厚い。
 権力と反権力の癒着も、眼には見えないだけに、手のつけようがないほどに分厚い。
 マスメディア、官僚機構、そこにだけあるのじゃない。たとえば権威主義は、決して少なくはないひとびとの意識に、無意識といえるほどに根深く、息づいている。


▼そのなかで二〇〇七年、何をするか。
 まずは、書くべき原稿を書く。
 それっきゃ、ない。

 残りの命を、非力なりに、公に捧げ尽くして、死す。
 それだけは、もはや迷いがない。

 ぼくの世代は、大学紛争も高校紛争も先輩世代で終わってしまい、何もなかった世代だ。
 そのためか、ぼくは学生時代、迷いに迷った。キャンパスにいながら、今すぐ学生という立場を去って、牧場で働くべきではないかと迷った。牧場の仕事になんの興味もないのに、それだからこそ、そこで働くべきではないかと迷った。
 たまたま記者となって、世の中の「事実」と自然にぶつかって、次第に迷いがなくなっていった。
 あまりに、つたない歩みではあるけれど(…謙遜ではありませぬ)、その歩みがあって、命を何に捧げるか、その思いが定まったことは、確かだ。
 それは抽象的な、適当な話ではなく、具体的な仕事として、定まっている。
 ならば原点の仕事をしっかり、やんなきゃ。


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*だから、自宅で机に向かっている、最近になかった大晦日は、悪くありません。
 みなさん、この地味なホームページに一年間よくアクセスしてくださり、ほんとうにありがとうございました。
 こころから、良いお年をと、願います。

 写真は、硫黄島からの帰り、小型ジェット機から撮った、夕陽の雲海です。
 ぼくの人生を変えた島からの帰り、それにどこかふさわしい、凄まじい光景でした。




硫黄島守備隊ご遺族の、しゅういちさんへ

2006年12月14日 | Weblog



 いただいた書き込みを一読し、いてもたってもいられない気持ちで、これを、したためています。
 硫黄島で、わたしたち現在と未来の日本国民のためにこそ戦われ、ただひとつの命を砕かれ、そして遺骨と魂魄になられた今もなお故郷に帰れずにいる、そのひとの、あなたはお孫さんなのですね。

 あなたから、穏やかにして真っ直ぐな、書き込みをいただき、ぼくの胸に、もうひとつ硫黄島をめぐる出来事が刻まれた思いです。

 関西テレビの報道番組「アンカー」では、まことにまずい語りしか述べることができなくて、あなたのおじいさんをはじめ、わたしたちのために戦い、逝かれたみなさまがたの気持ちを、わずかしか代弁することができなくて、こころから、申し訳なく、今夜も煩悶してしまいます。

 ただ、ぼくは、硫黄島を訪れて、このまことに、まことに小さな人生ながら、もっともっと私を捨てて、公に尽くそうと、あらためて思い直すことができました。

 硫黄島では、背広の襟に関西テレビの録音マイクが付けられていることもほとんど忘れて、あなたのおじいさんをはじめとするみなさまがたに、「この硫黄島に招いてくださって、受け入れてくださって、ありがとうございます」と、何度も何度も、感謝を申しました。

 その声は、放送では流れませんでしたが、ひょっとしたら、あなたのおじいさんと戦友のかたがたは、聞き届けてくださったかも知れません。

 番組のあのコーナーの最後あたりで申しましたように、硫黄島が立ち入り禁止であること自体が、わたしたち戦後日本の誤りです。
 一日も早く、約1万3000人もの未回収の遺骨が、国費でひとり残らず収容され、魂が懐かしい故郷へ帰ることができますよう、そして一日も早く、しゅういちさんを含む遺族のかたが、自由に、しかも国費で島を訪れることができるように、さらに、現在の日本の子どもたちや、ぼくら働き盛りの国民や、あの戦争を生き抜いてこられた高齢者のかたがたがみなみな、あの尊い島を訪れることができるよう、ささやかなりの力を尽くしてまいります。

 硫黄島から帰って、朝夕に、「責務を果たします。どうぞ安らかでいてください」と、硫黄島で戦死されたかたのすべてに、非力ながら祈りを捧げています。

 そして、しゅういちさん、あなたの書き込みでなぜか気がついて、今夜からは、硫黄島の戦死されたかたがた、すべてへの気持ちとして、冷たく気持ちのいいお水も、ほんとうにすこしですが、捧げています。

 ぼくは、亡き父らに、毎朝毎夜、お水を捧げてきたのですが、そのお隣に、硫黄島の戦死のかたがたのためのお水を新たに置かせていただいています。

 終わりに、この、とりとめもない書き込みを読んでくれる、すべてのひとのために、あなたの書き込みを、ここに再掲させてください。
 それと、硫黄島でぼくが撮った写真を一枚、アップしておきます。

 島で、もっとも激しく硫黄が噴き出しているあたりから、砲弾の穴が無数に空いた、監視台代わりの巨岩を望んでいます。
 後ろ姿は、硫黄島に赴任している若い海上自衛官です。

 この海上自衛官は、もう一人の海上自衛官、それに東京の防衛庁からこの日のためにやってきた内局の中堅幹部と三人で、いわば監視チームをつくって車に乗り、ぼくと関西テレビ・カメラクルーの車の後から、ぴったりと、ついてきていました。立ち入り禁止の島ですからね。
 それが、一緒に、地熱で汗のしたたる壕のなかへ入ったり、行動を共にし、わたしも彼らに語りかけ問いかけているうちに、魂が急速にうち解けあって、あなたのおじいさんをはじめ戦士が何のためにこそ戦ったのかを、こころを通わせて共に考えるようになりました。

 このことも、あなたのおじいさんら戦士に、感謝いたします。


 青山繁晴 拝   2006年、平成18年12月14日木曜 未明3時28分



【以下、しゅういちさんの書き込み、再掲】

硫黄島 (しゅういち)
2006-12-14 01:16:47

 12日のスーパーニュースアンカー拝見しました。
 私の祖父は硫黄島で戦死し、今でも硫黄島で眠っています。
 番組を見て、祖父がどのような場所で戦ったのか、どのような場所で亡くなったのかわかりました。
 青山さん、泣いて下さってありがとうございます、祖父や戦友の言葉を代弁して下さって、ありがとうございます。
 涙して下さる方がおられた事で戦死した方の心も安らいだのではないでしょうか。
 例え遺族であっても慰霊祭以外では上陸が出来ないと聞いておりますので、取材はたいへんだったと思います、本当にありがとうございました。
 祖父に代わってお礼申し上げます。


(しゅういち)
2006-12-14 01:18:42

 失礼、番組は13日でした。



魂の硫黄島へ  (深く淡く生きる その番外編)

2006年12月07日 | Weblog



▼きのう12月5日火曜に、パリから帰国。
 パリの滞在は、5日間だけ。
 そりゃ、きついよ、正直。
 ちょっと自分じゃないみたいな、体調だ。

 帰国の機中の11時間ほど、成田から都心へ向かうバスの1時間半、それからバスターミナルから自宅へのタクシー20分、その全部を通じてほとんど眠らずに、会員制レポートを書き続け、自宅に着くと荷物もほどかずに仕上げて、夕方5時半ごろ、会員へ配信、はいしんっ。

 やれやれ、しっかりと仕上げたレポートを配信できて、うれしいな。

 そのまま休まず、独研(独立総合研究所)に出社し、大阪から来た関西テレビのスタッフと、翌日の報道番組について、かなりの時間をかけて打ち合わせ。

 終わると、シンクタンク・独研の社長として、社内の打ち合わせや、情報の収集などなど。

 夜9時になり、日テレへ。
 9時半ごろから、報道番組の解説コーナーの収録。

 ぐったり疲れて深夜に、ふたたび帰宅。
 荷物を整理し、すこし情報を整理していると、もう午前4時まえ。
 さすがに朦朧としてきたので、じぶんをリラックスさせて、仮眠。


▼3時間後の、12月6日水曜の朝7時ごろ、電話で起きる。
 ふらふらで起きたから、時計やら何やら、いろんなものをひっくり返す。

 電話は、福岡のRKB毎日放送から。
 ああ、そうだ、電話を使ったレギュラー出演だ。

 朦朧がとけない頭を、懸命に澄ませて…あんまり澄んでないけどさ、生放送に電話で出演へ。
 リスナーにも、キャスターにも、ぼくの睡眠不足は関係ない。
 ラジオから聞こえる声、それだけがすべてだ。

 コマーシャルのあいだに、水をごくごく飲んで、むせかえりながら、どうにか声をまともにして、出演する。

 終わると、ぐしゃっと顔を洗い、羽田空港へ。
 大阪へ飛ぶ。
 わぇー、また飛行機の中だよ。

 伊丹空港に着くと、タクシー車内で原稿を書きながら、定宿のホテルに入り、電話とメールで情報収集。
 そして関テレと電話で打ち合わせをし、その打ち合わせで気づいたことについて、もう一度、情報収集をしてから、プールですこしだけ泳ぎ、無理にでも身体を目覚めさせて、関テレへ。

 報道番組『ANCHOR』に出演、『青山のニュースDEズバリ!』のコーナーでは、パリで知った驚きの事実を話す。
 内心では、ふらふら、ぐにゃぐにゃ、ぼろぼろの状態。
 しかし、それは視聴者にも他の出演者にも、関係ない。
 ラジオもテレビも、それは、おんなじだ。

 だから番組全体を通じて、一生懸命に話した。
 それでも、じぶんでは、またしても不満いっぱい。
 一緒に出ている室井祐月さんが「とっても、分かりやすかったよ」と言ってくれたので、すこしだけ、ホッとした…けど、伊丹空港で軽く食事をする頃から、やっぱり下手くそな放送だったなぁと、また、こころのうちで、どっしゃーんと落ち込む。

 夜に帰京、自宅へ。
 あすは硫黄島へのロケ取材なので、早く寝たいのだけど、原稿が山盛りで眠れない。

 うーむ。
 ぼくはどうなっちゃうんだろ、と思わず考えるほど、きついや。

 いや、硫黄島で命の最後の一滴まで、後生のぼくらのために戦ったひとびとのことを、すこしでも思うなら、おまえよ、まさか、じぶんのことは思うなよ。


▼このブログで始めている「深く 淡く 生きる」の書き込みは、10月半ばからの日々をすこしづつ振り返っていく。
 だから、まだまだ現在には届かない。

 しかし、あと6時間ほどで、硫黄島へ出発する今夜は、どうしても今のことを、簡単にでも書きたかった。
 なぜ、だろう。



深く 淡く 生きる   (その2)

2006年12月01日 | Weblog



▼みなさん、べつに神出鬼没を気どるのじゃないけど、きょうはパリにいます。

 北朝鮮をどうするか、そのことをめぐってヨーロッパのある国に水面下深くの動きがあるらしいことを知り、直接に当事者に確かめるという、ぼくなりの方法論にしたがって、ここヨーロッパに入りました。

 晩秋のパリは、おおきな落ち葉が舗道に落ちるなか、クリスマスの飾りつけが始まったばかりです。
 11月30日の朝、6時45分に自宅を出て、現地時刻の午後5時半ごろだったかなぁ、パリのホテルに入りました。

 といっても休む間もなく、ホテルをあとにしてオペラ座の近くで、ある高官と会い、お魚料理を食べながら、北朝鮮のこと、フランスの大統領選挙のこと、日本の核武装論議のこと、靖国参拝のこと、安倍政権のこれからのこと、そしてやっぱり北朝鮮のことを議論して、情報を交換して、深夜まで話しつづけました。

 ホテルに帰ると、たくさんの連絡事項をこなしてから、45分だけ仮眠して、独立総合研究所から配信している会員制レポート「東京コンフィデンシャル・レポート」第301号の仕上げにかかり、完成して、会員への配信が終わったのは、パリ時間の朝8時半をすぎていました。

 自宅の近くから成田空港へ向かう、揺れるバスの中、空港ラウンジでの待ち時間、そして12時間ほどの機中と、ずっと、このレポートを書き続けたあとに、仕上げのための徹夜でしたから、さすがに疲れが深いし、いくらか腰も痛いなぁ。

 だけども、会員になってくれている法人、個人のみなさんに、ほんとうにこころ深く感謝しているので、こうやって仕上げに手間ひまをかけたレポートをお送りできるのは、凄く、ほんとうに、うれしい。
 レポートが配信できていないと、ぞれがずっと頭に引っかかって苦しい。
 会費を払ってくださった会員は、当然、今かな明日かなと毎日、待たれると思うから。
 だから、きょうのように無事、配信できると、たいへんにホッとする。
 うれしいな。

 それにしても、このレポートも300号を超えました。
 まずは500号を早く達成できる、つまりは会員にしっかりと沢山、届く。そのようにしたいです。


▼さぁ、これから、せめてお風呂に入って、体をしゃっきりさせてから、ちょっとは散歩でもしたいな。

 パリのようすをハンディなムービーカメラで撮って、関西テレビの報道番組『ANCHOR』の、ささやかな小コーナー『青山のニュースDEズバリ!』で、みなさんにお見せしようとも思っているのです。

 そのためには、こうやってホテルの部屋に籠もりっぱなしじゃ、どうにもならないですからね。


▼まえに『深く淡く生きる その1』と題した書き込みをアップしました。
 ぼくの日常を、すこし淡々と、ありのままに記してみたいと思ったのです。

 きょうは、その2回目をアップします。
 すこしづつ、すこしづつ、日を遡って記憶をたどり、アップします。
 その書き込みは、「ですます調」じゃなくて、ふつうの文章で書いていきます。



※きょうの写真は、珍しくぼく以外のかたが撮影された写真です。
 11月24日に、伝統ある「安全保障研究センター」(民主党の旧民社党系・議員が中心の勉強会)で講演しました。
 そのとき、江田五月さん(元科学技術庁長官)の秘書のかたが撮ってくれたのでしょう。
 江田さんのホームページにアップされているのを、お借りしました。(当然ながら、版権その他は江田さんにあります)

 講演は、朝でした。
 ぼくが、まだけっこう若手の記者だった時代に取材していた議員が、国会のさなかに、たくさん集まってくれて、内心で「へぇー」と思い、実はちょっとアガりました。
 江田さん、中野寛成さん(前衆院副議長)、玉置一弥さん(前代議士)、高木義明さん(民主党国対委員長)、中井洽さん(元法相)、柳田稔さん(参院議員)などなど、みな政治記者のときに、未熟な記者だったぼくに親しく付きあってくれた人ばかりです。
 じっと耳を傾けられ、そのあとは積極的に質問してくださいました。

 中野さんたちは、「この会は、まぁ民主党右派の集まりでね。党の安全保障政策にすこし疑問を感じることも多いけど、このごろは安全保障に関して、あまりに錯綜してたくさんの重大事が起きる。それをいっぺん、整理して考えるには、青山さんに聞くのがいいと、そう考えてね、お呼びしたんですよ」とおっしゃった。

 ありがとうございました。ぼくは、恥ずかしかったです。


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(深く淡く生きる  その2)

▼2006年、平成18年10月16日 月曜

 夜7時から、英国大使館で、独研(独立総合研究所)と信頼関係のあるリード書記官の送別レセプションに出席。
 英国大使館はいつ来ても、たたずまいが、深い。
 なんて言うのか、精神性がある。

 イギリスに留学していた専門研究員のMが同行。
 独研に来てまだ日が浅い彼女だけど、元気よく沢山のひとと、自然な英語で会話を楽しんでいて、うれしく思う。

 旧知のイギリス海軍大佐と、1週間まえに核実験をおこなった北朝鮮に対する臨検の話をしているとき、思慮深い彼が、「青山さん、日本は敗戦のあと、アメリカに言われるまま、海の安全保障を、海上自衛隊と海上保安庁に分けているでしょう。こりゃ、良くないな。わが国のように、海の護りは海軍が一元的にやるべきです」と言う。

 うーむ、これはちょっと正直、虚を突かれたなぁ。
 考えてみるに値する言葉だなと、印象に残った。
 いつか、海上保安庁の信頼するひとに意見を聴いてみようと、思った。


▼10月17日 火曜

 午後いちばんに、独研の本社で、新しく顧問になってくれた年上の、信頼しているかたと、独研の役割を、もうすこし広く理解してもらうための改善策について協議。
 こころから頼もしく思った。

 午後の便で、羽田を発ち、大阪へ。
 夕刻から、公共事業体の幹部ふたり、そして女性の中堅幹部と会食。
 独研からも複数の人が出て、同席。
 テロ対策から人事の話まで、会話は弾んだ。

 ぼくはこのごろ、人と会うのを、すこしだけ避けたいなと思うことが、たまに、ある。
 人と会い続けるのが使命の記者出身で、それに、子どもの頃から人なつこいほうだったのに、こりゃ、何だろう、よっぽど疲れているのかな。
 だけども、今夜は、さほど疲れを感じず、ゆったりと会話を愉しんだ。
 この公共事業体とは、記者時代から20年ほども変わらず、おつきあいしている。

 いったん、つきあったなら、長い。それは確かに、そうなんです。

 夜遅くなってから、関西テレビに入り、あす生放送の報道番組『ANCHOR』の『青山のニュースDEズバリ!』コーナーのための打ち合わせ。
 この打ち合わせは、正直、たいへんだ。
 何をテーマに放送するか、そのテーマだったら焦点をどこに絞るか。
 そうしたことについて、ぼくから毎回、提案し、番組スタッフが自由に意見を言い、ときにバトルになる。
 議論が4時間を超えたときもある。

 東京でかなり疲弊して大阪に入り、あるいは北海道から沖縄まで、地方で非力な力を出し切って仕事をしてから大阪に入り、こうやって、すでに遅い時間から、この打ち合わせを始めて、日付が代わり未明になることも珍しくはない。
 そりゃ、正直、つらい。

 だけども、スタッフの熱意、それから視聴者のことを、ぼくなりに懸命に考えて、毎回欠かさずベストは尽くしている。


▼10月18日 水曜

 朝7時15分ごろから、定宿の大阪市内のホテルで電話の受話器を握り、福岡のRKB毎日放送のラジオ番組『スタミナラジオ』の『ニュースの見方 目からウロコ』コーナーに生出演。
地元の人気キャスターの中西さんの問いかけに、視聴者の問いかけが込められている感じがある。
 つたないなりに、それに応えるつもりで話す。

 正午ごろ、ホテルの部屋に関テレのディレクターから、いつものように、きょうの番組内容について確認の電話。
 ちょっと前にメールで送られてきた進行台本をみながら、打ち合わせる。
 進行台本は、ゆうべの長時間の議論を踏まえてつくられている。
 プロのスタッフが、じっくりと練って書いてくれている。
 きちんと努力して、工夫を凝らして、話題を整理し、進行台本に仕上げてくれているのが、よく伝わる。

 それでも、ぼくの思いとはまだズレがあることも珍しくはない。
 電話にかじりつくように、じぶんの声を励まして、議論をする。

 ゆうべの打ち合わせが終わって、未明にホテルへ帰ってきて、それで眠るのじゃない。
 ほとんど朝まで、原稿の執筆と情報の収集。
 だから、この昼の電話が終わると、心身がぐったり疲れているのを、当たり前だけどね、感じる。
 電話のあと、その電話の中身を受けて、みずからの情報をもう一度、客観的な眼で確認する。関テレへの出発時刻が迫ってくる。

 このまま『ANCHOR』に出ると、心配した視聴者からメールをいただくことになるので、必ず、ホテルのプールに行き、10分か15分だけブレストとフリーを泳ぐ。
 泳ぎながら、なんと寝ていたりするけど(実話です。しょっちゅうです)、それでも体の細胞を生き返らせる効果は、いくらか、ある。

 ただ、ずっと以前だったら、こうやって泳ぐと、全身の細胞が生き生きと呼吸するのが、ありあり分かった。
 このごろは、そこまでいかない。
 プールの水で、おのれの心身を励ますのも、もはや限界かな。
 それに以前は1時間近くも、たっぷり泳いでいた。どうにかして、その時間をつくった。
 いまは10分とか15分だもんなぁ、躯も生き返るヒマがないや。
 
 水のなかには生と、死がある。
 生命は、水のなかから生まれたから。
 水に差し込む光を、スイム・ゴーグル越しにみながら、死のときまでは、こうやって、ごくささやかに命の力を最期の一滴まで、ただ尽くせば、それでよいと、思い直す。

 プールから出て、髪を洗ってヒゲを剃り、関テレ入り。
 メインキャスターのヤマヒロさん(大阪一の人気を誇る男性アナ)、村西利恵ちゃん(清楚な女子アナ)、それから番組でぼくの隣にいらっしゃる直感鋭い作家の室井祐月さんらと、全体の打ち合わせを終え、生放送の5分ほど前に、報道スタジオに入る。
 報道スタジオの緊張感は、好きだ。

 午後4時55分、生放送、開始。
『青山のニュースDEズバリ!』は、かなりの視聴者にみていただいているけど、じぶんで満足できた仕上がりになったことは、ただの一回もない。
 いつもいつも、本音で、本心から、あとで悩む。
 もっと分かりやすく、問題の根っこを伝えたいのに、いつも後悔が残る。
 あ、あ、あぁーと、内心で、ひとり叫ぶ。
 おのれの愚かさを、ほんきで呪う。
 せっかく視てくれた視聴者にちゃんと伝わっていないだろうと、胸のうちで、身悶えしてしまう。

 だいたい、テレビ番組と講演は、いつも終わってから、苦しい、哀しい。
 じぶんが、あまりに下手くそだから。

 おのれの仕事のうち、あとで「これはプロの仕事だね」と、ささやかなりに満足できるのは、文章を書く仕事だけ。
 しかし、それも何年か過ぎて、たまたま読み返したりすると、じぶんの非力に不満が爆発して、本を思わず、バシッと閉じてしまうことがある。
 なぜこうまで未熟なのか。

 伊丹から夜を飛び、羽田を経て、もう深夜の時間帯に自宅へ戻る。
 生放送の自分の下手くそぶりを責めているので、きっと眠ったら悪夢かなんか見る。
 ただね、幸か不幸か、原稿書きで眠る時間がない。
 ははは。
 ふひ。


(その3に続く)