あまりにも当たり前のことだけど、ひとは誰も、欠点と長所をもつ。
ぼくも、もちろんそうだ。ただ、ふつうは、親なら子の欠点と長所をよく分かっていることが多いだろう。
ぼくには、申し訳ないことに、親もよく知らない重大な欠点がある。
ひとつは、信じがたいまでに怠け者であること。
もうひとつは、自分を信じることが、とても不充分であること。
ぼくが怠け者ということは、たとえば独研の秘書室にはときどき、話したりする。
秘書室が、ぼくの日程をつくってくれているから。
どの秘書も「まさか」という顔になる。
そりゃ、わかるよ、親だって、よく知らないんだから。
だけど、ほんとうは、たいへんにひどい怠け者なんです。まったく謙遜じゃない。神さまとぼく自身だけが知り尽くしている、事実です。
自分を信じることが不充分で苦しんでいるということは、もっと誰も、そう思ってくれない。
むしろ、自信家に見えているんだろう。
いや、違うのです。
もっと自分を信じることができていれば、とつい、悔いてしまうことも多い日々です。
では、ぼくの長所は何だろう。
もともとは根っから明るい性格であること。
そりゃそうなんだけど、自分の怠惰にがっかりし、自分を信じることが不充分であることに苦しめられると、その明るさも、内心では陰るのです。
いまは9月27日の未明4時38分。
出張先の大阪のホテルでひとり、独立総研が配信している会員制レポートを書いている。
窓の外は暗い。
秋が夜明けを暗くしている。
ぼくは45歳で共同通信の記者を辞めたとき、これからは余生だと決めた。
なにより、わたくしごころ(私心)を脱した人生を送りたかったから。
私心を去る努力だけは、ちょっとだけは、してきたと思う。
だけど私心を去りつつ隠居したのではなくて、たとえば、会員制レポートを財布を開いて会費を払って取ってくれるかたがた、たとえば、独研に命を捧げてくれている若い総務部員や研究員たち、たとえば、内心でハラハラしながら何も心配してないふりをしてくれる老いた母、たとえば、会ったこともないけど、ぼくを信じて支持してくれるひとびと、こういうひとたちに応えるために、独立総研を維持し、たまにテレビやラジオにすこしだけは顔を出し、それから、ぼくはあくまでも物書きだから魂をこめて文章を書く。
そのためにこそ、私心を去るのだから、怠け者であり続けたり、自分を信じることが不充分だったりしてはいけない、絶対にいけない。
そのとおりなんだけど、このごろ特に、自分を信じることがますます不充分だ。
どうすればいいのか。
若き秘書室長、Sちゃん、24歳は、「社長には、もっとくつろぐ時間や、くつろげるひとが必要なんです」という意味のことを、ぼくに言ってくれる。
ありがたいけど、なにせ余生だからね、何もなくて当然なんだ。
さて、どうするかなぁ。
そりゃ決まってるさ。
まえへ、まえへ、前のめりに泥のなかで死ぬために、戦の一字です。
それにしても、ぼくに生きて欲しいと願うひともいるけど、会ったこともないのに早く野垂れ死にしろと願うひとも、きっと世の中には多い。
前者も少なくないけど、後者はたぶん、びっくりするほど多い。
無言電話から匿名メールまで、やってくる。そのひとつひとつには、それなりの理由もあるのだろうけど、その背後にある、その人たち自身もはっきりとは自覚していないだろう底知れぬ悪意、誰もが人間としてこころの底に抱えてしまっている悪意を感じることがある。
それは客観的に考えて、ぼくがぼくだからということよりも、人の世ではそれがふつうなんだろうと思う。
なぜなら、ぼく自身だって、ふと気づけば、会ったこともない誰かに悪意を抱いていることがあるからだ。無言電話も匿名メールもしないけれど、悪意を抱いていることは、神さまから見れば同じことだ。
そうだからこそ、なにか仕事をして死にたいと思うのなら、私心を去ることがもっとも大切なのだ。
ひとに死ねと願うのは、どんなに飾りがついていても、それは私心だ。
私心に私心で対抗しては、人の世は、どこまでも腐ってしまう。
おまえよ、青山繁晴よ、私心を去れ。
命の、ほんらいの目的に集中せよ。
怠惰も、自己不信も、それを超克する狭き門へは、その道だけがつながっている。
「汝ら、力を尽くして狭き門より入れ(いれ)。滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより入る者多し。命に至る門は狭く、その道は狭く、これを見い出す者は少なし」(マタイによる福音書)