Our World Time

いつかは

2005年06月24日 | Weblog


▼きょうという日を、正直に表現すると、人間というものはここまで疲れるものか、疲れ果てると、ここまでどうしようもない状態になるのか、それを知ったと言うほかない。

 とにかく、あまりにも疲れていて、横になってもなにも楽にならず、身の置きどころがない。
 横になっていても辛いだけで体調は良くならないし、休んでいては、仕事が前進せずにおのれが困るだけなので、机に這いあがって、急ぎの原稿を書こうとすると、またモバイル・パソコンが突然に再起動してしまい、エラーチェックを始めてしまうトラブルが頻発する。

 それでも、さして気にせず、なんとかなるだろうとパソコンのエラーチェックが終わるのを待っている。
 もうすこし苛(いら)ついてもいいのに、これも実はむしろ疲れのせいで気力がないのかも知れない。


▼と、思っていると、モバイル・パソコンが完全にブラックアウトしてしまい、いくらやっても二度と起動しなくなってしまった。
 さぁ、これは大変だ。

 デッドラインの締め切りが来ている、週刊誌の連載原稿が送れない。
 記者時代から、それも共同通信の東京本社へ上がるまえの地方支局時代から続けている連載だから、もう20年を超えている。

 匿名原稿なので、こうした仕事はもう整理したい。
 週刊誌の編集者になんども「もう他のひとに代わってもらいたい」と話したが、いつも、「他の人では、こんな原稿は出てきません。なんとかお願いします」という答えだ。
 もちろん無理に切ってしまおうとすれば、それで終わる仕事なのだが、僭越ではあっても確かに他の人ではこういう原稿にならないだろうと思うので、編集者と読者のことを考えて、続けてきた。

 もう、やめなさいという天の声かなぁとは思ったが、とりあえず、そんなことを言っている場合じゃない。
 このままでは、週刊誌に穴が開いてしまう。空白のページになるわけではないけど、連載が前触れなく中断することになる。

 このとき、ぼくは都心からかなり離れたところにいたから、独研の本社に戻って他のパソコンを使うのでは、間に合わない。
 編集者に電話をしておいてから、インターネット・カフェを探す。
 幸いに、見つかったけど、そこのデスクトップ・パソコンには、PCMCAカードの差し込みスロットルがない。
 モバイル・パソコンの原稿ファイルは、このカードでバックアップしているので、これでは、せっかくほぼ書きあげていた原稿のデータが取り出せない。

 やむを得ず、まったく頭から書き直す。
 疲労で身体がぐらぐらしているが、休んでいる場合じゃない。

 1時間半ほどで、ようやく書きあげて、送信し、どうにか間に合ったようだ。
 壊れたモバイル・パソコンのようにブラックアウトしてしまいたいぐらい、なんとも表現できないぐらいに疲れた、ぼくが、残った。


▼モバイル・パソコンが壊れてしまうと、自宅へ帰ると、なにも仕事ができないから、帰るわけに行かなくなり、深夜に独研の本社へ戻る。
 こんな状態で会社へ帰るなんて、自分でも信じられない。

 このモバイル・パソコンは前から不安定になり、いつかブラックアウトするぞと警戒していた。
 修理に出すと、その間に仕事ができないし、凄まじいハード・ユースだからもう寿命かも知れないので、買い換えようと考えた。
 しかし独研の経理担当者が、あまり嬉しそうな顔をしなかったので、つい遠慮してしまった。

 ぼくはワンマン社長にみえて、実は調和型だ。
 こういうやり方も、そろそろ限界なのかも知れない。
 自分がブラックアウトしてしまうまえに、もうすこし、自分の都合を優先させてもいいのかも知れないね。

 独研の本社でただひとり、夜が深まり、やがて朝が来る。
 いま2005年6月24日金曜の未明3時51分。

 会社にひとりいるとき、ぼくはときどき、誇りと、気持ちのよい責任を感じる。
 このオフィスも、朝になったら集まってくるスタッフも、この会社のすべては、誰の力も借りずにぼくが立ち上げた。
 ふーん、ちょっとだけ頑張ったじゃないか、なかなかラッキーじゃないか、天に感謝しろと、自分に呟くときも、たまにないではない。

 疲れがいつか、去っていく日もあるだろう。
 前へ、前へ。


▼きょうの写真は、サンフランシスコへ出張したとき、画面に映っているノート・パソコン(VAIO)が壊れてしまって、困り果てたホテルの部屋の中です。
 このあと、街へ出て、日本語が使えるパソコンを探し回りました。
 ホテルのビジネス・センターには、英語しか使えないパソコンだけだった。
 それでは、日本語の原稿が送れない。

 もう二度とこんな苦しい時間を過ごさないようにと、この写真を撮ったのにね。
 だけどまぁ、きょうは国内だったから、この時よりは、はるかにマシな状況ではありました。



始まりの一つ

2005年06月20日 | Weblog

▼きょう6月20日月曜に放送の『TVタックル』は、久しぶりにスタジオ出演します。
 よろしければ、見てください。

 ぼくがテレビにちょこっとだけ顔を出すようになってから、まだ数年ですが、始まりの一つはこの番組でした。


▼きょうの写真は、5月に出張したコペンハーゲンにて、運河をゆく船から撮りました。
 頭をこすりそうな低い橋の下をくぐると、短い夏の光の始まった、穏やかな市民の生活があります。
 北欧はいつ行っても、人の世の不公平が身にしみるほどに、美しい。



異変の真相

2005年06月15日 | Weblog


▼2005年6月14日の火曜日、朝8時すぎに大阪の定宿ホテルから、タクシーで伊丹空港へ向かう。出張に同行している独立総研の若き主任研究員が隣にいる。
 揺れる車中では、休んでいた方がいいとも思ったが、モバイル・パソコンで仕事の電子メールを打つ。
 しかし、このところパソコンがきわめて不安定で、突然の原因不明のシャットダウンを繰り返し、手間ばかりかかる。ハード・ディスクから異音がするのが、たいへんに気がかりだ。

 いくら持ち歩くのがモバイルとはいえ、このパソコンは凄絶と言っても誇張じゃないようなハード・ユースに耐えているのだから、寿命が早く来るのはやむを得ないだろうナァ。

 羽田へのフライトは、当初の予定より3時間くりあげた。東京逓信病院で専門医の予約診察を受けるためだ。
 機中では、総務省の自治大学校の出している研究誌『自治フォーラム』に掲載する解説記事の再校ゲラ直しに取りかかる。
『国民保護の先進国、その最前線に学ぶ』という、かなりのボリュームのある署名記事だ。

 国民保護法は去年の9月に施行されて、いま全国の自治体が重大テロなどに備えるマニュアル作成に入っている。
 その実務に直接、役立ててもらうための記事なので、事実や分析のひとつひとつをもう一度洗いながら、ゲラに手を入れていく。
 独立総研がアメリカやヨーロッパ諸国の政府、そしてニューヨーク市当局やNY近郊のウェストチェスター郡といった海外の自治体と連携してテロ対策や住民保護を研究してきた具体的な成果に基づいているから、きっと日本の自治体と地域住民にも、ささやかながら役立ってほしい。

 再校のゲラは、ふつうあまり直さない。ところが、修正箇所がどんどん出てくる。これは飛行機を降りたらすぐに編集部に送らないと大変だろうと考え、一心不乱に作業する。

 かつては、せめて機中では雲や海や街を楽しんで、眼も遠くを見て休ませていたのにナァと、ちらり考えるが、直しのいっぱい入った再校ゲラを受け取るひとたちのことを思うと、それどころじゃない。とにかく集中する。
 機体が羽田の滑走路にどすんと降りて、ターミナルビルへ近づくころ、ちょうど終わりました。
 やんれやれ。
 こころが1ミリだけ、ほっとする。


▼直しの完成した再校ゲラを、独立総研の主任研究員に託し、ぼくは真っ直ぐに逓信病院へ。
 実務的でいて名医の余裕が漂うドクターは、ぼくの両手のひらを診て、「わ!」と驚きの声をあげたので、ぼくも驚いた。

「これは痛いでしょう」とおっしゃる。
 実は、わりあいに痛みには鈍感(ただし痒みには弱い。意志弱く、ぼりぼりとかいてしまう…)なのだけど、そう言われれば確かに、とても痛い。痛くて、かゆいィ。

 ドクターの診たてた病名は、異汗性水疱(湿疹)。いかんせい・すいほう。
 先日に述べたように、ぼくはかつて医学記者でもあったけど、こんな病名は聞いたことがない。
 と言っても、にんげん世界にはまさしく万病が存在するので、聞いたことのない病気があってあたりまえなのだが、ふだん病気にはあまり縁がない自分が、こんな聞かない病名のやまいにとらわれるのは、ちょっと意外だった。


▼この病気は、発汗異常症のひとつで、激しいストレスが原因で起きたり、人によっては金属アレルギー、場合によっては細菌感染や薬害で起きることもある。
 正常に発汗できなくなって、手のひらや足の裏のように皮の厚い部分に水疱をつくって、そのなかに汗が閉じ込められて膨らむ。
 それが痛みと痒みを、盛大に生む。

 ドクターによると、ぼくの場合は、金属アレルギー、細菌感染、薬害などで発病した可能性はなく、「ストレスの急激な激化に、もともとあった深い疲労が重なって、一気に発病したと考えられる」そうだ。
 もちろん、人さまにうつるようなことは全くない。


▼ストレスの激化は、自分でも分かっていた。
 その理由も、おおむね分かる。
 しごと、せいかつ、そのなかにある具体的なことがいくつか。
 そして外部からの中傷もいくらか増えている。中傷は、世に発信している以上は避けられないので、無視できないおのれが悪い。

 ストレスが強まっているのは知りつつ、ほんらいはストレスに強い体質なので、放っておいた。
 そのまま無茶な徹夜も続けてきた。
 そして、とうとう身体が耐えられなくなったようだ。


▼ドクターは「仕事を制限してストレス軽減に努めても、ふつうはまだまだ悪化するんです。もし仕事をいまのまま続けるなら、おそらく凄まじく悪化して、かなり長く入院することになりますよ。手のひら全体が腫れあがって、何も持てなくなり、もちろんパソコンも打てなくなることも充分にあり得ます」と強く言う。

 「仕事を今、制限すると、仕事がもっと山積みになって、よけいにストレスが強くなります。困りましたね」と答えると、ドクターは1週間に1度は通うこと、悪化しても医師のせいだと思わないこと(医師を代えないこと)などを示したうえで、「思い切って強い薬を使いましょう」と塗り薬や飲み薬を処方してくれた。
 手は、2種類の薬を塗り込んで薄い手袋をして、パソコンを打つことになった。


▼たくさんの薬を受けとり、病院を出て、飯田橋の川縁を歩き、神楽坂へ。
 共同通信の政治記者時代に、この近くに棲んでいたので、ほんのりと懐かしい。
 知る人ぞ知る、お蕎麦の名店で、ひるごはん。
 ささやかに自分をリラックスさせる。

 仕事の制限をすこしでもやれないか、飯田橋から水道橋へかけての葉桜をみながら考えて、華道の機関誌「花泉」でのコラム連載をしばらく休載することを決意する。
 これまで、どれほど忙しくても、どの原稿も休んだことがなかったけど、どうにもやむを得ない。
「花泉」のコラムは、何か月か休んだあとでも、話のつながりが分からなくなるようなことは読者に起きないだろうから、編集長や読者にはほんとうに申し訳ないけど、我慢していただくことにした。

 ただ、これ以外にお休みできる仕事は、どうしても見つけられない。
 古巣の共同通信のための連載記事などもあるけど、もしもぼくが休載してしまえば、どう困り果てるかが分かるだけに、言い出すことはできない。
 シンクタンクである独立総研の経営をめぐる仕事は、どれも絶対にカットできない。


▼神楽坂には、かつてテリー伊藤さんと対談した場所(古い日本家屋の貸席)がある。
 そのあたりをすこしだけ散策し、毘沙門天で祈りを捧げる。
 七福神のひとりである毘沙門天は、すべてのことを聞き漏らさない知恵者(多聞天)であり、戦いの神さまでもある。

 ぼくは、生涯一戦士、生涯一士でありたい。

 そのあと、独立総研の本社へ。
 きょうは真っ直ぐに自宅へ帰って、そこで原稿を書こうかとも思ったけど、「社長の病気」となれば元気な顔を社員に見せておきたかった。
 会社のなかには、仕事だからもちろんストレスの原因の一つもある。

 だけど、連帯、共生、そして志がある。


▼アップした写真は、2003年1月3日(日本時間)に海外出張で真冬のシベリアを超えてゆくときに撮りました。
 凍土の地平線から昇る朝陽です。
 お正月に休まずに、ヨーロッパ諸国とアメリカへ出てゆくときの機窓ですね。

 そして今は、6月15日水曜日の朝5時17分。
 独立総研の社長室の窓に、梅雨空の夜明けが訪れています。
 薬を塗り込んだ両手に手袋をして、パソコンを打っています。ちょい打ちにくいなぁ。けど、慣れると思う。

 仕事机のうえのテレビからは、不可思議なニュースが流れている。
 韓国の金大中大統領(当時)が平壌を訪れてから5周年ということで、平壌で韓国の大代表団もにこやかに加わって大々的な祝賀行事をやる映像がみえる。
 しかし、首脳は相互訪問が大原則なのに、北朝鮮の独裁者はソウルを訪れないままだ。
 その不合理や非礼はまるで置き去りにしたまま共に祝賀となるのは、まともな神経ではいささかおかしく見える。

 脱走兵として北朝鮮の独裁にみずから協力してきたジェンキンス軍曹の帰郷の映像も、流れている。
 曽我ひとみさんは、日本人の財産と言えるほど素晴らしいひとだ。
 ふたりの娘さんに、「洗脳」が解けている様子がうかがえるのも、うれしい。
 しかし一切を美談にしていいのだろうか。
 

 なにかを見て見ぬふりの祝賀や美談もまた、テロ国家の存続を許している。



6月13日の月曜日、ホテルの窓から街の明かりをみながら

2005年06月13日 | Weblog
▼いま出張で、大阪にいます。
 関西テレビ「2時ワクッ」に出演するためと、テロ対策をめぐる公共事業体との協議が2件、それからテレビ局の若手司法記者、独立総研の若き主任研究員、そしてぼくの3人でのフリー・トーキング(ただし仕事関連)と盛りだくさん。


▼原因不明の痛がゆい手足の指の吹き出ものは、絶好調だ。
 絶好調というのはもちろん、「痛みさん」や、「痒みさん」の側のことですね。
 やられるぼくの側は、われながら、なかなか良く耐えているべ、と思う。

 病院が週末で休みだし、休み明けも出張で病院に行けないから、自分でいろいろ調べてみたけど、ヘルペスや帯状疱疹とはまったく違う症状であることは確認した。
 ぼくは、共同通信の支局記者時代に大学医学部をまわり、医学記事を書いていたこともあるから、ある程度は医事が分かるけど、ヘルペスや帯状疱疹など代表的な皮膚の病とは、考えられない。

 先週の木曜日に診てもらった皮膚科医が、「虫に刺されたか食べ物経由で、なにかの毒が入ったのでは…」という診断したのは、正しいのかもしれない。

 それにしては処方してくれた薬がまったく効かないし、痛みも痒みも症状が凄まじいけど、疲労と最近のストレスで、毒がよく効いているワケかな?


▼無理をおして出演した「2時ワクッ」だけど、きょうは例の若貴兄弟の諍いの話が中心で、あまり「必要」のない出演だったかもしれない。

 若乃花の奥さんが、ぼくの家庭教師の生徒さんのいとこで、彼女が少女のころ、ご両親をはじめ家族と一緒にフィールドアスレチックで遊んだこともあり、話したいことも少しあった。
(彼女の実像は、すばらしく可愛いのに自意識過剰でなく、ほんとうに良い人です)

 それとは別に、二子山部屋の騒動のほんとうの理由について、かなり考えていることがあって、独立総研の社員たちにはミーティングで話した。

 だけど、きょうの番組ではこの話題のために芸能記者もお出でになっていたし、ほかのパネラーが話したそうだったから、ほとんど黙るようにしていた。

 こうした、ぼくの姿勢が適切なのかどうかは、正直よく分からない。
 ただ、独立総研のなかでは研究本部にも総務部にも、「そうした芸能の話題のときには、社長は発言しないでください」という意見が圧倒的に多い。

 ぼくを身近で支えてくれている彼らの意見は、やはり聞くべきだと思う。
 それから、いくら国技の相撲とはいえ、兄弟のうちわの問題や親子ゲンカをここまで追うべきだろうかとも思うので、きょうはやはり、この話題についてはほぼ黙していてよかったのではないかな。

 テレビやメディアのあり方、というような大上段の話よりまず、ぼく自身の人生観として、他人のプライバシーは決して侵さずに来た、というより大切に護ってきたのだから。



 

土曜の朝に

2005年06月11日 | Weblog
▼手と足の指先を中心にした、痛痒い吹き出物が、おそろしく悪化している。
 ドクターからもらった薬は、まったく効かない。

 このキーボードを打つ指先も、信じられないことに黒く変色して、痛くて痒い。


▼きのうも宇都宮で講演だった。
 雨の中を会場まで来てくださったかたがたには、気力を振り絞って講演し、そのあとの懇親会でも和気あいあいとお話しした。

 帰京する新幹線のなかでは、両手足の吹き出物と、それから全身に広がっている痛痒さに、内心で身をよじりながら、それでも疲労から居眠りをしていた。

 幸い、顔には一切、吹き出物は出ていないので、聴衆のかたがたはなにも気がついていないと思う。


▼それにしても原因はなになのか。
 ドクターは、虫さされか食あたりと言ったけど、とてもとても、そんな生易しいものには思えない。

 週末になったけど、原稿の山と、それからテレビのコメント撮りがある。
 うーむ。

 まぁね、こういう時期があって、また良い時期がある。


 

暗い夜空の底は、青く澄んでいる

2005年06月10日 | Weblog


▼ここ数日、ちょっと思いがけない身体の変調に苦しんでいる。
 手の指や首筋に、痛くて痒い吹き出物のようなもの、といっても見た目はさほど目立たないけど、本人にとっては、なかなかに神経をかき乱される痛がゆさのあるものが、出ている。
 耳痛が治りきらないうちに、新しい厄介ものが現れて、ちとつらい。

 パソコンのキーボードを打つ指先に、いちばん集中的にできている。
 たまらないので、びっしり詰まって動かせないはずのスケジュールを無理にこじ開けて、独立総研・本社の近くの病院に行ってみた。
 原因は不明とのこと、ずいぶん苦しいのではないですかとドクターに同情されながら薬を処方してもらい、飲んだり塗ったりしているのだけど、まるで効かない。

 効かないので、ははぁと思いあたる。
 ぼくは、わりあい、『人や世の中が思うように動いてくれない』という考え方をしない。
 理屈でそう考えないというより、実際にほとんどそう感じない、思わない。

 それでも、なにもかも徒労に思えることがあり、そのストレスに、身体が反応することがある。
 今回も、そうじゃないかな。
 耳痛も、根っこはやはりストレスのようだし。


▼最近、ひょんなことから、実はかつて(おそらく三菱総研の時代に)決して軽くはない肺炎にかかり、それを病院に行かず、と言うより病気に気づかず、自力で治していた事実が分かった。
 CTスキャン検査で分かったのですね。

 それで思いだした。
 記者時代に、これも軽くはない十二指腸潰瘍を患い、「病気に気づかないまま、自力で治していますね」と、当時は受けていた健康診断で指摘された。

 いずれも、肺に、十二指腸に、その痕跡がはっきり残り、たとえばレントゲン写真ではかなり濃い影として表れる。

 つまり、ぼくだって実は病気する。
 独立総研の社員たちからは、不死身のように思われているけど、おそらくは疲労から肺炎になり、ストレスから十二指腸潰瘍を患った。
 父と母のくれた遺伝子、そして赤ちゃんのころの母乳のおかげで、その病気を自らの免疫力で治してしまう力は確かに幸運にも持っているけど、一方で病気にはなっているわけだ。

 いまの痛がゆい全身症状は、『十二指腸潰瘍や肺炎に次ぐ病気に、このままではなってしまうぞ』という警告かもしれない。
 そのときも、体内の免疫力で克服できるのかどうか。
 それは、天か神さまだけがご存じだ。


▼こうしたなか、今週は毎日、講演が続いている。
 それも講演のあとに、懇親会が付いている講演だ。

 こういう懇親会のとき、ぼくは食べ物はなるべく口にしない。
 ぼくの講演はいつも精魂を傾けてお話しする代わり、時間が足りなくなって、ほとんど質問をお受けできない。
 そこで、懇親会の時に、どんどん質問していただく。

 聴衆のかたは、安くはない参加費を払って講演会に来られるのだから、懇親会では当然、まずは食事される。
 それは、まったく自然なことだ。
 そして、ぼくのところへ、志のある人は質問に来られる。

 そこで、ぼくがもぐもぐ口を動かしていては、相手に失礼だし、答え方だって不充分になる。
 ぼくが食事を取らないことを心配して、参加者のかたや、あるいは同行している独立総研の社員たちが食べ物を持ってきてくれるけど、そういうわけで、ほとんど食べない。

 飲み物は、いくらか飲みつつであっても、失礼ではないし、答えも充分にできる。
 だから、空きっ腹にアルコールだけ、入れていることになる。

 講演会と懇親会が終わると、責任をいくらかは果たした安心感と、この空腹のアルコールがすこし影響して、どっと疲れが出る。
 疲れが出ても、独立総研や自宅に戻ると、大量の原稿執筆が待っている。

 この積み重ねも、今のちょっとした全身症状の原因かもしれないと思う。
 しかし、ぼくは今の日々を、余生だと考えている。
 45歳で、天職とも思えた記者の仕事をみずから辞するとき、これからは余生だと思い定めた。

 武士道といふは死ぬことと見つけたり。(葉隠)

 だから、こうした全身症状が出ることがあっても、もっともっと仕事のペースをあげていきたい。
 ぼくは、10代の終わりから20代の前半にかけて、おのれの道が分からず、迷いぬいて、ずいぶんと悔いのある時間を費やした。
 だから、この余生では、悔いだけは残さない。

 これからも、講演のお申し出は、基本的にぜんぶ受けるし、書くべき原稿はきっと最後にはぜんぶ書く。
 ぜーんぶ、書く。
 戦うシンクタンク、株式会社・独立総研は、創立3年目で黒字転換を果たしたけど、もっと基盤をしっかりと固めて、祖国への貢献度も高めて、いつか松明(たいまつ)を次の社長へ引き継ぐ。


▼そうした講演のあとの懇親会で、よく質問されるのは、「いま日本はどうしたらいいのですか」ということだ。

 今夜アップした写真は、去年の12月下旬にパリを訪れたときに撮った、夜のエッフェル塔です。
 セーヌ川の船上から、暗い夜空を撮影したのだけど、デジタルデータに定着した写真は、ごらんのように深い明るい青色になった。
 このホームページ画面では、すこし見にくいだろうけど、よく見てください、塔の上から光が発出されている。

 不思議の世界のような、それでいて鋭い一条の光が、セーヌ川のうえの夜空を射抜いている。

 わたしたちが目を凝らせば、暗い夜空のその底は、青く澄んでいることがわかる。
 そこを灯台の明かりのように貫く光が、ただ一条だけ、照らしていることも、きっとわかる。
 わたしたちの祖国も、きっと同じです。



 

葉隠 その1

2005年06月06日 | Weblog
 佐賀県立図書館で、山本常朝さん自筆の「日誌」を見せてもらう。
 佐賀県庁と図書館のひとびとの、こころあたたかな好意で、貴重な新発見をじかに見せてくださった。
 常朝さんが、山本家の末裔のために、武家を維持するには何が必要かなどを記している。
 おのれの死を前にした、覚悟の墨跡(ぼくせき)だ。

「葉隠」は、常朝さんが書いたのではなく、その語りを記録した書だから、まさか自筆の書が別にあると思わなかった。
 ぼくの両手が感激を語っています。

(もっとも葉隠そのものも、奇書として焼かれてしまったから、写本しか残っていない)

葉隠 その2

2005年06月06日 | Weblog
「葉隠」の山本常朝さんの庵があった場所。
 ここを訪ねてきた後輩の武士に、常朝さんが語って聞かせた話が、葉隠となって結実した。

 しかし、みごとに何も残っていない。
 ただ竹藪を風が渡るだけ。

葉隠 その3

2005年06月06日 | Weblog
 その場所をみる、わたし。
 なにもないから、かえって印象が深かった。
 なにもないから、なんだか嬉しかったと言ってもいい。

 ただ風が渡るだけの無のなかに、葉隠の精神がどれほどまでに、ほんものであるかが自ずから顕れているように思った。

葉隠の里

2005年06月06日 | Weblog
▼5月5日からこっちの毎日の記録を、まとめてアップしようとしているのですが、どうしてもまだ時間がとれません。

 生まれて初めてMRI検査を受けたり、北欧へ出張したり、たくさんのことがありました。
 いずれ必ずアップします。

▼今夜は、「写真をささやかにアップしていく」ことを、すこしだけ続けます。
 ことし1月に、佐賀市で開かれた『国民保護フォーラム』(佐賀県庁、内閣、総務省の共催)で講演しました。

 そのとき、佐賀県庁の人びとが、ぼくが『葉隠』に関心が深いことをよく知っておられて、山本常朝さん(佐賀藩の家老。このひとが隠居先で語ったことが葉隠としてまとめられた)の寓居跡や、常朝さん直筆の貴重な文書が保存されている図書館などに案内してくださいました。

 上の3枚は、そのときの写真です。
 1月ですから、分厚いコートを着ていて、ちょっと季節はずれですが、そこは勘弁してください。


予告です

2005年06月01日 | Weblog
 この地味なサイトに、すこしづつ画像をアップしていきます。

 まずは予告篇みたいなもので、帰ってきたばかりのコペンハーゲンでの写真です。
 4泊5日、うち2泊は機中の凄まじいデンマーク&スウェーデン出張でしたが、一瞬のようなオフタイムに、街で借りられる自転車に乗って、古城の残る公園を走りました。

 この、あまりにも美しい北欧の公園は、海に面しています。
 その海辺に、あのアンデルセンの人魚姫がいます。