▼5月26日の金曜日深夜、というか27日土曜日の未明1時20分から、ちょっと久しぶりにテレビ朝日系「朝まで生テレビ」に参加した。
テーマは、在日米軍の再編が一応、決着したことをテコに、日本とアメリカの関係をあらためて深く議論しようということだった。
「朝生」が、こうした本格的な外交・安全保障の問題をやることそのものが久しぶりじゃないかと思う。
プロ野球をどうするか、ITビジネスはどうなるか、テレビというメディアはどうなるか、そういうテーマが続いたからだろう。
いま仮に挙げた3つのテーマは、いずれもホリエモン(堀江貴文被告)に関係するか、彼が触発したテーマだから、堀江さんというひとは、やはり日本社会にインパクトがあったんだなぁと思う。
ぼくは堀江さんが近鉄バッファローズの買収工作で登場したときから、関西テレビの西日本ネット番組で批判的に語り、読売ウィークリーの連載コラムには「ホリエモンを幕末の志士のように表現するメディアや評論家が少なくないが、根本的な間違いだ」と記した。
世の反応は、あまりなかった。
(関テレのその番組も、読売ウィークリーの連載コラムも、いまは終了している。もちろん、この終了は、ホリエモンさんの件とはまったく関係ない)
やがて堀江さんは東京地検特捜部に逮捕され、彼をめぐる報道や論調は一変した。
堀江さんの側近であった宮内亮治・前ライブドア取締役の初公判が開かれるなかで、朝生は、もともとは良く取りあげていた外交・安全保障のテーマに戻ったわけだ。
ただし、「朝生」を仕切る田原総一朗さんは公平にみて、ホリエモンへの評価を逮捕前と逮捕後にあまり変えなかった珍しい論者だ。
田原さんという、終生ジャーナリストであり続ける人は、新しいもの、新しいことにチャレンジする人間が大好きだし、検察をはじめとする国家権力に対して反権力を貫こうとする意志が変わらないからだろう。
▼そして、ぼく自身は、堀江さんの最初の登場のとき、世にもてはやされた絶頂期、逮捕されて世評が急落した現在、すべてを通じてホリエモンのような生き方のおかしさを、ぼくなりに指摘してきた。
彼が、「カネですべては買える。愛すらも買えるよ」と主張していたのは確かな事実だし、彼がその主張を途中で「そんなことを言った覚えはない」と変えて、たとえば自民党に接近し総選挙に出たのも事実だからだ。
その拝金主義も、主張を都合よく変節させる生き方も、ぼくは日本国民のひとりとして共感しない。
ただ一方で、ぼくの講演では、次のような趣旨も指摘している。
「日本は、子々孫々のために開発すべき東シナ海の資源を、中国の盗掘に任せたまま、現在の自分たちの経済や産業のために、ただカネで中東の資源を買い続けてきた。それを考えれば、日本の政治家や財界人で、ホリエモンの拝金主義を批判できる資格のある人はいるだろうか」
「わたしたち日本国民にも、戦争に敗れたあと、目の前の自分たちの生活がうまく回っていけば良いという発想があったから、こうした政治や経済、エネルギー安全保障のあり方を許してきたのだ」
「いま東シナ海の現実を国際社会のルールに則って公正にとらえながら、この経緯こそを考え、国民国家として、わたしたちの尖閣諸島を中心とした海洋資源を、いまの自分たちのためよりも子々孫々のために、しっかりと取り戻していきたい」
▼話がそれた。
この金曜深夜、土曜未明の「朝生」の番組タイトルは「日本はアメリカの属国か」という刺激的なものになっていた。
そこには視聴者をとらえようとする「キャッチ」の意味合いがある。
「朝生」は1月5日に、この番組を開拓してきた日下雄一さんという名プロデューサーを、まだ59歳にしてガンで失った。
ぼくは「朝生」に参加するようになって日の浅い新参者にすぎないから、日下さんとあまり付きあいは深くなかったが、まさしく栄誉ある戦死と言っていいと思う。
裏方、縁の下の力持ちという役割に徹しながら、細い身体に、前のめりの信念と意志を詰め込んだ人だった。
そして「朝生」は、新世代のプロデューサーやディレクターらのスタッフに受け継がれている。
久しぶりに外交・安保を取りあげた今回の「朝生」には、20年にわたって賛否両論を浴びながら続いてきた、この報道討論番組に「新風を吹き込みたい」というスタッフの静かで強い意志が感じられて、そこはフレッシュで気持ちがよかった。
とは言え、ぼくにとって、参加するのがなかなか大変な番組だ。
まぁ、「朝生」という激突型の怒鳴り合い番組、いや討論番組に楽に参加できる人は、ほとんどいないだろうが、ぼくは子どもの頃に受けた家庭教育と正面からぶつかってしまうところがある。
父と母からは「他人の言うことは、それが間違っていても、気に入らずとも、最後まで聞け。必ず、最後まで聞け。そのうえで、背筋を伸ばして、その間違いと戦え」という、武士道にも改革派キリスト教にも通底する教育を受けた。
その教育はあくまで正しかったと、大人になったぼくは、おのれの意志で、そう考えている。
「朝生」に初参加したときも、その姿勢を変えずにいたら、なにも発言できないまま時間がどんどん過ぎていく。
田原さんが、ぼくに安全保障をめぐる専門的な質問を振ったとき、一瞬だけ考えて、さぁ答えようとすると、その一瞬の間合いに頭を突き入れるように、隣に座っていたジャーナリスト(読売新聞社会部出身の著名なひと)が、その田原さんの振りも指名もまったく無視して、持論を語り始め、ぼくは内心では、思わず口をぽかんと開けてしまう思いだったことを覚えている。
▼いまも、姿勢を変えたのではない。
しかし番組に参加する以上は、言うべき最低限のこと、視聴者と国民に伝えるべき最低限のことは、必ず発言し、伝えたい。
視聴者からは、番組のあとに電子メールやネット上の書き込みをいただく。「もっと発言してほしい」という声が多いから、ぼくが世に発信するなら、その声には応えなければいけない。
だから、いまは、今回の「朝生」出演も含めて、次のように心がけている。
ほかの出演者の発言をできるだけ尊重すること、その発言に賛成すべきところ、反対すべきところのいずれも、公平に、なるべく正確に指摘すること、番組スタッフが準備した議論の方向や本筋、MC(メインキャスター)の仕切りを尊重し活かすこと、それから、おのれが国民にどうしても分かっていただきたい、伝えていきたいところは自分を鞭打ってでもしっかり発言すること、そのバランスを、どうにかとろうと、力を尽くして努力する。
今回の「朝生」で、その困難なウェル・バランスがどの程度、実現できていたか。
それは視聴者の眼と耳と心に、お任せします。
ぼくはすべての、ほんとうにすべての仕事について、いのちの限りの力を尽くし、結果がどうなるかは、ただ天にお任せしている。
テレビに関わるときも、それは同じだ。
そのうえで、まぁ、ぼくの胸のうちの自己評価としては、今回の「朝生」も、まだまだまだまだ不充分で、おのれ自身に不満が強い。
それでも、これからも、テレビ番組に限らず、すべての発言機会、発信する場で、原稿を寄稿する、本を書くという物書きとしての発信でも、このウェル・バランスを懸命にとるように努める。
この地味なHPを含めて、ぼくの発信に関心を持ってくださるすべての人に、それを約束します。
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▼写真は、沖縄でぼくが撮影した、沖縄戦の舞台のひとつです。
1945年6月18日、沖縄に上陸し圧倒的に優位に作戦を進めていたアメリカ軍は、この高台で沖縄戦の総司令官バックナー中将を失いました。
司令官が最前線を視察していたときの、思いがけない戦死でした。
日本側の証言や資料では、日本兵の狙撃による射殺です。
しかしアメリカ軍は、砲撃によって砕かれた岩の破片にたまたま当たって戦死したと公表しました。
旧帝国陸軍の将校であった紀野一義さんというかたが、1990年に沖縄を訪れたあと、「はるかなる沖縄」と題して次のような一文を発表しています。
(ここから、引用)
「…(承前)、すでに壊滅し、狂乱状態にあった日本軍は、喜屋武半島の地獄の戦場のまっ只中で、乱暴にもひめゆり学徒隊に解散命令を出したのである。どうしてこんな馬鹿げた命令を出したのか。自分の命にかえてもこのいたいけな少女達を助けようとする将校は一人もいなかったのか。私自身も工兵の将校で大勢の兵の命をあずかっていたから、こんな話を聞くと、歯がギリギリする」
「14才から17才までの少女たちをこき使い、負傷兵の手足を鋸で引き切る時、からだを押さえさせ、包帯交換で膿だらけにさせ、弾雨の中を水をくみに行かせ、あげくの果ては解散し、放り出し、しかも投降することを許さず、無惨な死へ追いやった者どもは、死して今いずこに有りや」
「米第十軍はヘルプという声を聞いたら絶対に撃つな、と命令したというではないか。第十軍指令官バックナー將軍が戦死した時、米軍はすぐにそれを公表しているではないか。それほど公明正大に戦っている米軍の布告を信じないで、少女たちや民間人を無惨に死に追いやった者どもは、死後もなお裁かるべきではないのか」
(引用ここまで)
アメリカ軍は確かに、司令官の戦死を公表しています。
しかし一方で、その死因については、狙撃の現場に居あわせた日本兵の証言があるのです。(石原昌家 「証言・沖縄戦 戦場の光景」 1989年)
(ここから、引用)
「…(1945年6月18日に)私は昼飯をすませると、壕内の空気が悪いので、出入口付近に来ました。奥行き2、30メートル、人口壕としてはよく整備された壕でした。外に出る時は鉄かぶとは必ずかぶる規則になっていたがただフラッと出てきたもんだから、そのとき鉄かぶとをかぶっていなかったので、林中蔚に叱られて、鉄かぶとを取って戻ってきたら、そこに小野一等兵が監視兵として偽装して立っていました」
「私が出ていくと、彼がすかさず指をさすのです。視たら、アメリカの兵が丘の上に3名立っているのです。彼が小声で 撃ってやろうか、というのです。すぐ近くなので、撃ちたくてむずむずしていました。私は 命令がなくては撃ってはいけないのですと言いました。 彼は 命令もクソもあるものか、偉そうなやつを撃とうとひとりごとを言って、撃ったらその人物に当たったのです」
「すると、若い将校らしき2人が抱き抱えて、道の下の方にとめてあったジープに乗せて、パーッといなくなったのです」
「私が戦後、大学生のとき、帰省の折、バックナー中將戦死の地に知人を案内したとき、その碑文に書かれている彼の戦死の日時が、あのときとピッタリ合うのを知って、震えてしまいました。まさに、あの日時、時刻も、昼、1、2時頃だったし、また、壕から見た丘も同じでした」
(引用ここまで)
この証言は、ほんとうに生々しいものです。
ただ、それだから真実だと断じるのは安易に過ぎます。
悪意や作為のある証言だとは、決して思いません。この証言者の誠実さを感じます。しかし、記憶は自然に変化することもあり得ます。
記憶を真実とするには、複数の証言、異なった立場からの証言を総合することが不可欠ですが、このバックナー中将の戦死については、証言が少なすぎるのです。
だから真実は、基本的には不明と言わねばなりませんが、ぼく個人としては、次のように考えています。
アメリカでは名将と語り継がれているバックナー中将が、名もなき日本の敗残兵に狙撃されて死んだのでは都合がよろしくなく、砲弾の砕いた岩がたまたま当たって戦死を遂げたことに、アメリカがおそらくは事実を作り替えたのでしょう。
はっきりとは分かりませんが、ぼくの撮った写真で言うと、画面右の石の上にバックナー中将が立って戦線を見ているとき、画面奥の、いまは緑の美しいあたりのどこかに潜んでいた日本兵が、狙撃したのかも知れません。
このバックナー中将の死の現場は、日本軍が、沖縄の高等女学校の少女をはじめとする非戦闘員を定見もないまま死に至らしめた現場近く、いや一帯の現場でもあります。
ぼくが沖縄のことをライフワークの一つに据えるきっかけとなった、「白梅の塔」、すなわち沖縄ですら一時期はほぼ忘れ去られていた第二高等女学校生徒たちの慰霊碑と自決壕も、すぐそこにあります。
旧日本軍の無惨な所業は、ぼくを含む日本本土に生まれ育った国民が、しっかりとこの身に引き受けて、史実から汲むべきをすべて汲み、現在と未来に活かしていかねばなりません。
そしてまた、「白梅の塔」は、バックナー司令官を殺されたアメリカ軍が激昂して、あたり一帯で見境のない殲滅作戦、怒りに任せて民間人もすべて殺害する掃討作戦を行ったための悲劇でもあるのです。
第二次世界大戦、太平洋戦争を軸にして、虚実も責任も混じり合っているのが、ほんとうの日米の関係です。
「朝生」でぼくがなにを発言したかは、この書き込みでは、再現しません。
ただ、敗戦から61年を経て、わたしたち日本国民が、ほんもののフェアネス、公正さの精神のもと、戦争の歴史も真実と嘘、責任をとらえなおし、日本国が自立した理念を持ち、言うべきは言う対等のアメリカ合衆国の友人として生まれ変わろう、そのことを目標の一つに据えて、ひとりの愛国者として、また諸国がそれぞれの国を愛する地球に生きる世界人として、ぼくの残り少ない生を捧げたいと考えていることは、ここにお話ししておきたいと思います。