Our World Time

アメリカ、沖縄、朝まで生テレビ

2006年05月28日 | Weblog



▼5月26日の金曜日深夜、というか27日土曜日の未明1時20分から、ちょっと久しぶりにテレビ朝日系「朝まで生テレビ」に参加した。
 テーマは、在日米軍の再編が一応、決着したことをテコに、日本とアメリカの関係をあらためて深く議論しようということだった。

「朝生」が、こうした本格的な外交・安全保障の問題をやることそのものが久しぶりじゃないかと思う。
 プロ野球をどうするか、ITビジネスはどうなるか、テレビというメディアはどうなるか、そういうテーマが続いたからだろう。
 いま仮に挙げた3つのテーマは、いずれもホリエモン(堀江貴文被告)に関係するか、彼が触発したテーマだから、堀江さんというひとは、やはり日本社会にインパクトがあったんだなぁと思う。

 ぼくは堀江さんが近鉄バッファローズの買収工作で登場したときから、関西テレビの西日本ネット番組で批判的に語り、読売ウィークリーの連載コラムには「ホリエモンを幕末の志士のように表現するメディアや評論家が少なくないが、根本的な間違いだ」と記した。
 世の反応は、あまりなかった。
(関テレのその番組も、読売ウィークリーの連載コラムも、いまは終了している。もちろん、この終了は、ホリエモンさんの件とはまったく関係ない)

 やがて堀江さんは東京地検特捜部に逮捕され、彼をめぐる報道や論調は一変した。
 堀江さんの側近であった宮内亮治・前ライブドア取締役の初公判が開かれるなかで、朝生は、もともとは良く取りあげていた外交・安全保障のテーマに戻ったわけだ。
 ただし、「朝生」を仕切る田原総一朗さんは公平にみて、ホリエモンへの評価を逮捕前と逮捕後にあまり変えなかった珍しい論者だ。
 田原さんという、終生ジャーナリストであり続ける人は、新しいもの、新しいことにチャレンジする人間が大好きだし、検察をはじめとする国家権力に対して反権力を貫こうとする意志が変わらないからだろう。


▼そして、ぼく自身は、堀江さんの最初の登場のとき、世にもてはやされた絶頂期、逮捕されて世評が急落した現在、すべてを通じてホリエモンのような生き方のおかしさを、ぼくなりに指摘してきた。
 彼が、「カネですべては買える。愛すらも買えるよ」と主張していたのは確かな事実だし、彼がその主張を途中で「そんなことを言った覚えはない」と変えて、たとえば自民党に接近し総選挙に出たのも事実だからだ。
 その拝金主義も、主張を都合よく変節させる生き方も、ぼくは日本国民のひとりとして共感しない。

 ただ一方で、ぼくの講演では、次のような趣旨も指摘している。
「日本は、子々孫々のために開発すべき東シナ海の資源を、中国の盗掘に任せたまま、現在の自分たちの経済や産業のために、ただカネで中東の資源を買い続けてきた。それを考えれば、日本の政治家や財界人で、ホリエモンの拝金主義を批判できる資格のある人はいるだろうか」
「わたしたち日本国民にも、戦争に敗れたあと、目の前の自分たちの生活がうまく回っていけば良いという発想があったから、こうした政治や経済、エネルギー安全保障のあり方を許してきたのだ」
「いま東シナ海の現実を国際社会のルールに則って公正にとらえながら、この経緯こそを考え、国民国家として、わたしたちの尖閣諸島を中心とした海洋資源を、いまの自分たちのためよりも子々孫々のために、しっかりと取り戻していきたい」


▼話がそれた。

 この金曜深夜、土曜未明の「朝生」の番組タイトルは「日本はアメリカの属国か」という刺激的なものになっていた。
 そこには視聴者をとらえようとする「キャッチ」の意味合いがある。
「朝生」は1月5日に、この番組を開拓してきた日下雄一さんという名プロデューサーを、まだ59歳にしてガンで失った。
 ぼくは「朝生」に参加するようになって日の浅い新参者にすぎないから、日下さんとあまり付きあいは深くなかったが、まさしく栄誉ある戦死と言っていいと思う。
 裏方、縁の下の力持ちという役割に徹しながら、細い身体に、前のめりの信念と意志を詰め込んだ人だった。

 そして「朝生」は、新世代のプロデューサーやディレクターらのスタッフに受け継がれている。
 久しぶりに外交・安保を取りあげた今回の「朝生」には、20年にわたって賛否両論を浴びながら続いてきた、この報道討論番組に「新風を吹き込みたい」というスタッフの静かで強い意志が感じられて、そこはフレッシュで気持ちがよかった。

 とは言え、ぼくにとって、参加するのがなかなか大変な番組だ。
 まぁ、「朝生」という激突型の怒鳴り合い番組、いや討論番組に楽に参加できる人は、ほとんどいないだろうが、ぼくは子どもの頃に受けた家庭教育と正面からぶつかってしまうところがある。
 父と母からは「他人の言うことは、それが間違っていても、気に入らずとも、最後まで聞け。必ず、最後まで聞け。そのうえで、背筋を伸ばして、その間違いと戦え」という、武士道にも改革派キリスト教にも通底する教育を受けた。
 その教育はあくまで正しかったと、大人になったぼくは、おのれの意志で、そう考えている。

「朝生」に初参加したときも、その姿勢を変えずにいたら、なにも発言できないまま時間がどんどん過ぎていく。
 田原さんが、ぼくに安全保障をめぐる専門的な質問を振ったとき、一瞬だけ考えて、さぁ答えようとすると、その一瞬の間合いに頭を突き入れるように、隣に座っていたジャーナリスト(読売新聞社会部出身の著名なひと)が、その田原さんの振りも指名もまったく無視して、持論を語り始め、ぼくは内心では、思わず口をぽかんと開けてしまう思いだったことを覚えている。


▼いまも、姿勢を変えたのではない。

 しかし番組に参加する以上は、言うべき最低限のこと、視聴者と国民に伝えるべき最低限のことは、必ず発言し、伝えたい。
 視聴者からは、番組のあとに電子メールやネット上の書き込みをいただく。「もっと発言してほしい」という声が多いから、ぼくが世に発信するなら、その声には応えなければいけない。

 だから、いまは、今回の「朝生」出演も含めて、次のように心がけている。
 ほかの出演者の発言をできるだけ尊重すること、その発言に賛成すべきところ、反対すべきところのいずれも、公平に、なるべく正確に指摘すること、番組スタッフが準備した議論の方向や本筋、MC(メインキャスター)の仕切りを尊重し活かすこと、それから、おのれが国民にどうしても分かっていただきたい、伝えていきたいところは自分を鞭打ってでもしっかり発言すること、そのバランスを、どうにかとろうと、力を尽くして努力する。

 今回の「朝生」で、その困難なウェル・バランスがどの程度、実現できていたか。
 それは視聴者の眼と耳と心に、お任せします。

 ぼくはすべての、ほんとうにすべての仕事について、いのちの限りの力を尽くし、結果がどうなるかは、ただ天にお任せしている。
 テレビに関わるときも、それは同じだ。

 そのうえで、まぁ、ぼくの胸のうちの自己評価としては、今回の「朝生」も、まだまだまだまだ不充分で、おのれ自身に不満が強い。

 それでも、これからも、テレビ番組に限らず、すべての発言機会、発信する場で、原稿を寄稿する、本を書くという物書きとしての発信でも、このウェル・バランスを懸命にとるように努める。
 この地味なHPを含めて、ぼくの発信に関心を持ってくださるすべての人に、それを約束します。


    ………………………………………………………………………………………………


▼写真は、沖縄でぼくが撮影した、沖縄戦の舞台のひとつです。
 1945年6月18日、沖縄に上陸し圧倒的に優位に作戦を進めていたアメリカ軍は、この高台で沖縄戦の総司令官バックナー中将を失いました。
 司令官が最前線を視察していたときの、思いがけない戦死でした。
 日本側の証言や資料では、日本兵の狙撃による射殺です。
 しかしアメリカ軍は、砲撃によって砕かれた岩の破片にたまたま当たって戦死したと公表しました。

 旧帝国陸軍の将校であった紀野一義さんというかたが、1990年に沖縄を訪れたあと、「はるかなる沖縄」と題して次のような一文を発表しています。

(ここから、引用)
「…(承前)、すでに壊滅し、狂乱状態にあった日本軍は、喜屋武半島の地獄の戦場のまっ只中で、乱暴にもひめゆり学徒隊に解散命令を出したのである。どうしてこんな馬鹿げた命令を出したのか。自分の命にかえてもこのいたいけな少女達を助けようとする将校は一人もいなかったのか。私自身も工兵の将校で大勢の兵の命をあずかっていたから、こんな話を聞くと、歯がギリギリする」
「14才から17才までの少女たちをこき使い、負傷兵の手足を鋸で引き切る時、からだを押さえさせ、包帯交換で膿だらけにさせ、弾雨の中を水をくみに行かせ、あげくの果ては解散し、放り出し、しかも投降することを許さず、無惨な死へ追いやった者どもは、死して今いずこに有りや」
「米第十軍はヘルプという声を聞いたら絶対に撃つな、と命令したというではないか。第十軍指令官バックナー將軍が戦死した時、米軍はすぐにそれを公表しているではないか。それほど公明正大に戦っている米軍の布告を信じないで、少女たちや民間人を無惨に死に追いやった者どもは、死後もなお裁かるべきではないのか」
(引用ここまで)

 アメリカ軍は確かに、司令官の戦死を公表しています。
 しかし一方で、その死因については、狙撃の現場に居あわせた日本兵の証言があるのです。(石原昌家 「証言・沖縄戦 戦場の光景」 1989年)

(ここから、引用)
「…(1945年6月18日に)私は昼飯をすませると、壕内の空気が悪いので、出入口付近に来ました。奥行き2、30メートル、人口壕としてはよく整備された壕でした。外に出る時は鉄かぶとは必ずかぶる規則になっていたがただフラッと出てきたもんだから、そのとき鉄かぶとをかぶっていなかったので、林中蔚に叱られて、鉄かぶとを取って戻ってきたら、そこに小野一等兵が監視兵として偽装して立っていました」
「私が出ていくと、彼がすかさず指をさすのです。視たら、アメリカの兵が丘の上に3名立っているのです。彼が小声で 撃ってやろうか、というのです。すぐ近くなので、撃ちたくてむずむずしていました。私は 命令がなくては撃ってはいけないのですと言いました。 彼は 命令もクソもあるものか、偉そうなやつを撃とうとひとりごとを言って、撃ったらその人物に当たったのです」
「すると、若い将校らしき2人が抱き抱えて、道の下の方にとめてあったジープに乗せて、パーッといなくなったのです」
「私が戦後、大学生のとき、帰省の折、バックナー中將戦死の地に知人を案内したとき、その碑文に書かれている彼の戦死の日時が、あのときとピッタリ合うのを知って、震えてしまいました。まさに、あの日時、時刻も、昼、1、2時頃だったし、また、壕から見た丘も同じでした」
(引用ここまで)

 この証言は、ほんとうに生々しいものです。
 ただ、それだから真実だと断じるのは安易に過ぎます。
 悪意や作為のある証言だとは、決して思いません。この証言者の誠実さを感じます。しかし、記憶は自然に変化することもあり得ます。
 記憶を真実とするには、複数の証言、異なった立場からの証言を総合することが不可欠ですが、このバックナー中将の戦死については、証言が少なすぎるのです。

 だから真実は、基本的には不明と言わねばなりませんが、ぼく個人としては、次のように考えています。
 アメリカでは名将と語り継がれているバックナー中将が、名もなき日本の敗残兵に狙撃されて死んだのでは都合がよろしくなく、砲弾の砕いた岩がたまたま当たって戦死を遂げたことに、アメリカがおそらくは事実を作り替えたのでしょう。

 はっきりとは分かりませんが、ぼくの撮った写真で言うと、画面右の石の上にバックナー中将が立って戦線を見ているとき、画面奥の、いまは緑の美しいあたりのどこかに潜んでいた日本兵が、狙撃したのかも知れません。

 このバックナー中将の死の現場は、日本軍が、沖縄の高等女学校の少女をはじめとする非戦闘員を定見もないまま死に至らしめた現場近く、いや一帯の現場でもあります。
 ぼくが沖縄のことをライフワークの一つに据えるきっかけとなった、「白梅の塔」、すなわち沖縄ですら一時期はほぼ忘れ去られていた第二高等女学校生徒たちの慰霊碑と自決壕も、すぐそこにあります。
 旧日本軍の無惨な所業は、ぼくを含む日本本土に生まれ育った国民が、しっかりとこの身に引き受けて、史実から汲むべきをすべて汲み、現在と未来に活かしていかねばなりません。

 そしてまた、「白梅の塔」は、バックナー司令官を殺されたアメリカ軍が激昂して、あたり一帯で見境のない殲滅作戦、怒りに任せて民間人もすべて殺害する掃討作戦を行ったための悲劇でもあるのです。

 第二次世界大戦、太平洋戦争を軸にして、虚実も責任も混じり合っているのが、ほんとうの日米の関係です。

「朝生」でぼくがなにを発言したかは、この書き込みでは、再現しません。
 ただ、敗戦から61年を経て、わたしたち日本国民が、ほんもののフェアネス、公正さの精神のもと、戦争の歴史も真実と嘘、責任をとらえなおし、日本国が自立した理念を持ち、言うべきは言う対等のアメリカ合衆国の友人として生まれ変わろう、そのことを目標の一つに据えて、ひとりの愛国者として、また諸国がそれぞれの国を愛する地球に生きる世界人として、ぼくの残り少ない生を捧げたいと考えていることは、ここにお話ししておきたいと思います。





必死の時間のなかで、言いそこ間違えたり、のんきに忘れたり

2006年05月21日 | Weblog



▼いま5月21日の日曜午後、テレビ朝日系「サンデー・スクランブル」の生出演から帰ってきたばかりだ。
 もとはコメントだけの出演予定だったけど、ナマのスタジオ出演に変更になった。
 きのうの土曜は、大阪で「ぶったま」(関西テレビ)に生出演した。

 いずれも報道番組のカテゴリーには入らない情報番組だけど、拉致の問題などについては、シリアスに誠実に、つまり過度にセンセーショナルだったり面白おかしくだけには決してならないように扱ってくれているから、出演の要請があれば、なるべく受けるようにしている。

 テレ朝も関テレも、テレビ局のひとの話では、放送内容が真剣な議論になればなるほど視聴率も高くなるそうだ。
 凄いなぁ、と思う。
 情報番組とか報道番組とか、視聴者のかたは、そんなことにこだわらず、真剣に考えたいことがらは真剣な話を聞きたいといつも望んでいるということだから。


▼この2つの番組で、ぼくが視聴者、国民に伝えたのは、極めて簡潔に言えば、次のような趣旨だ。

「北朝鮮が日朝の秘密折衝で、拉致問題は終わったという姿勢を変え、新たに2人の拉致被害者を帰国させるという、事実上の打診を行っている」
「ただ、それには日本が呑むことのできない条件が付いている」

「その条件とは、『アメリカが去年9月から遂行している金融制裁(北朝鮮が偽ドル札、偽円札を真札に換え、麻薬・覚醒剤、偽タバコなどで上げた収益も正当な収益に見せかけるというマネー・ロンダリング、資金清浄を行っている銀行口座を、アメリカが封鎖する)を止めるか、緩和するように、日本がアメリカに働きかけてくれ、それも単に働きかけるだけではなくアメリカから何らかの確約を引き出せ、また、この2人の帰国で拉致問題は完全に終わりだ』という条件となっている」
「日本は、これを受け容れていない」

「そして、わたし個人は、1人でも帰国を諦めたら、見捨てたら、日本はもはや国民国家と言えないという立場から、新たな帰国をこのような条件付きで打診してきた北朝鮮を許すべきではないと考えている。拉致の被害者は、政府認定でも16人、救う会の認定では23人、特定失踪者問題調査会は100名以上、わたしが知る治安当局の本音は、救う会に近い数字、いずれにせよ、すでに帰国した被害者5人、プラスこの新しい2人の計7人という数字とは、ほど遠いのだ」

「だから、わたし個人の意見は揺るがないが、胸のなかでは血が流れる。その新たな2人が誰なのか、少なくともわたしは非力にして知らないが、ご本人の帰国がかない、家族もついに失われた肉親と会うことができる、その可能性を思うと、『いや、わたしは反対ですから』と言うだけでは、済まない」

「だからこそ、この、あくまで水面下の動きを、今の時点で、視聴者、国民に伝えたい。国民が、決めねばならないときが来るかも知れないからだ」

 実際の番組では、これに加えて、ぼくがどのようにこの動きを知ったのかについて、情報源が絶対に、永遠に分からないように徹底的に注意しながら述べ、、北朝鮮はなぜ、こうした姿勢転換を日朝の秘密折衝で匂わせるようになったのか、その経緯について述べ、スウェーデンのパーション首相がどんな役割を果たしているか、について述べ、朝鮮総連と民団の和解、テポドン2号の発射実験の準備といった直近の動きとはどう関わるか…などなどについても述べている。


▼番組で、ぼくが発言できる時間は、びっくりするほど短い。
 たとえば、きょうの「サンデー・スクランブル」では、拉致問題を取りあげるコーナーが始まり、まずは元北朝鮮工作員の安明進さんらが語るVTRの放送が終わって、スタジオでぼくのナマの発言を求められるようになると間もなく、「1分30秒」という残り時間が記された紙が、AD(アシスタント・ディレクター)からぼくやMC(メイン・キャスター、司会者)に示された。

 それを見ながら、ほんの一言、二言を述べると、もうその紙が「30秒」という紙に差し替えられ、あっという間に、フロア・ディレクターが両手で大きなバツ印を作って、『時間切れ』というサインが強く示された。

 これが特別なケースじゃなくて、どの番組でも当然のこととして、ある。


▼だから意を尽くして述べることは、まさしく簡単じゃない。

 時間がこうして極端に制限されるなかでも、ぼくが強調しているのは、ひとつには、「拉致被害者の家族のかたもこうしたテレビ番組をご覧になっているから、いい加減なことは申せない」ということだ。

 もうひとつは、「新たな2人の帰国打診がもしも、この先に単なる水面下の秘められた動きにとどまらず表面化した場合を考えると、わたし個人の意見としては、これまでのような条件付きでは反対だが、2人の被害者が帰ってくるかも知れないことは被害者ご本人にとっても、家族にとってもあまりに重いことであり、もしも表面化した場合には、国民みんなが自分の問題として、どうか、考えてください」ということだ。


▼ただ、これだけ時間が限られていると、慌てるわけじゃないけど、小さな間違いはたまに出てしまう。
 5月20日土曜日の関西テレビ「ぶったま」で、「北朝鮮が新たな2人の帰国を実質的に打診」ということを関係者から聞いた時期を「先週」と述べた。
 これは、言い間違えた。
「先々週」が正しかった。

 テレビを通じて世に発信する以上は、いかなる事情があっても、拉致問題のような重大な問題について、どんな小さな間違いがあってもいけない。

 厳しく、自省しています。


▼さて、この日曜日、「サンデー・スクランブル」の生出演が終わったあと、週1回、とても大切にしている『鍛錬』をキャンセルした。
 スポーツ・ジムで、バーベルやダンベルを挙げ、プールで泳いで鍛えて、それからトレーナーにボディ・ケア(スポーツマッサージ)を施してもらうという、今のぼくを支える時間の一つだ。

 だけども、きょうは迷った末に、キャンセルした。
 かつてダイビングで鼓膜を破った右耳が、疲労がたまっていることの影響で何かに感染して痛むことも、ある。
 だけども、それならプールだけをやめればいいことだ。

 いま、新しいノンフィクションの本の仕上げにかかっている。
 きのうの土曜日、関西テレビの「ぶったま」に生出演したあと、関西であえて自由な時間を過ごしたから、なにかを犠牲にしないと、きっと本は完成しない。
 そう考えて、ジムの予定をすべてキャンセルした。

 そういうわけで今、必死の思いで、原稿を書いています。
 株式会社組織のシンクタンク経営から講義・講演、テレビ・ラジオ、そしてノンフィクション、フィクション両サイドの物書き。
 これだけいろんな仕事を同時進行させていると、時間がない、時間が極端に制限されるのは、テレビ出演中だけのことじゃない。
 なかでも、毎日、毎日いちばん時間が制限されてしまうのは、原稿を書く時間だ。

 だけども、ぼくはあくまでも原点が物書きであり、原点というだけじゃなく現職の作家なのだから、人生の時間制限と戦って、戦って、書くしかない。

 とはいえ、週に1度のボディ・ケアがなかったので、うーむ、首筋がおもーい。


※写真は、「ぶったま」の本番まえです。

 まだMCのおふたり(大平サブローさんと魚住りえさん)もスタジオに入っていない段階で、フロアディレクター(立っている人)とぼくらが打ち合わせをしている…ようにみえますが、実は、この元気なフロアディレクターが昨年末にタクシーのなかに財布を忘れて大変でした、という話をしてるのです。

 生放送の本番直前の緊張のなか、こんな話になったのは、ぼくがスタジオに持って入っているモバイル・パソコンをいつもスタジオに置き忘れて帰ってしまって、という余談をしたから、であります。
 フロアディレクターも、レギュラー出演者のかた(ぼくの向かって右の方に座っている、関西の有名コメンテイター・山健さん)も、「そのパソコン、きっと機密情報が入っているでしょう?それを、のんきに忘れるんですか」と呆れ、ぼくは「はい、実はタクシーのなかにも、しょっちゅう忘れてきてしまって」と、本番前にそれこそ、のんきな雑談が続いたのでありました。





われら、同時代人

2006年05月19日 | Weblog



▼いま2006年、平成18年の5月18日木曜日の夜、22時57分。
 きょうの日も、まもなく去っていき、永遠に帰らない。
 生きとし生ける者、みな同じだ。

 ぼくらの国では、世代、というものがよく強調される。
「自分が30歳代であることに、こだわって、世代というものにこだわって、小説を書く」と強調している作家もいる。

 ぼくは、それが文学者の精神だとは思えない。
 世代など、つまらない。
 世代の違い?
 そんなものに、こだわるのではなくて、われらはみな、世代の違いを超えて同じ時代を生きる同時代人だ。


▼頭で考えたことじゃない。

 たとえば遠く津軽で講演したときのこと、最初は、腕を組んで怖い、硬い顔で眼をつぶり、こんな若造の話なんか聞けるか、という感じだった高齢のかたが、何人も何人も、まずは腕を解き、次にはうっすらと眼を開き、やがて柔らかな笑顔を見せて、眼がすっきりと開いて、輝く。
 そんな光景を、ぼくのつたない講演でも、見た。

 津軽だけじゃない。
 高齢化が、大都市よりもずっと早く進んでいる小さな町村で講演するとき、いくども経験してきた。

 おなじ講演で、若い人は最初から首筋と背中を伸ばし、期待で眼が輝いている。
 その姿も大好きだし、高齢のひとの眼が、生き生きと輝くのも、大好きだ。

 ぼくの講演に来てくれる若い人には、十代もいる。二十代はもちろん、たくさんいる。
 高齢のひとには、七十代はかなり多いし、八十代もふつうにいらっしゃる。
 年の差が60歳以上、最高では70歳前後も開いている、こうした世代の違う聴衆に接するたび、ぼくの胸の奥には「われら同時代人、一緒に、おなじ世の祖国と世界を、ささやかなりに非力になりに、変えていきましょう」という思いが湧きあがる。


▼きょうの朝は、成果なく終わった徹夜が明けて、雨のなかを都内の講演会場へ。
 朝9時から12時までの3時間、一気に語るハードな講演の予定になっている。

 会場に向かうタクシーは、道を何度、説明しても呑み込んでくれず、間違った道へ入ろうとして急激に進路を変えたり、ストレスが溜まる。
 ほんとうは東京のタクシーの運転手さんなら誰でも知っているはずの、有名な行き先なのに、ていねいに説明しても、分かったふりで道順をろくに呑み込まないまま、不安定な運転をする。

 講演が始まるまでに、どうしても編集者に送っておきたい原稿があるので、不規則に揺れるタクシーのなかでモバイル・パソコンを使って原稿を、懸命に書いている。
 だから、プロの運転手さん、ふつうのプロとしての仕事をして欲しいなぁ。


▼ストレス・タクシーはようやく、講演会場に着き、高い料金を払い、車を降りる。
 独研(独立総合研究所)の研究員3人と、講演の主催者のかたがた4人ほどが迎えてくれる。
 情けないストレス・タクシーへの怒りを何とか頭の隅に追いやって、迎えに感謝し、一緒に控え室へ向かう。

 控え室に入るとすぐにモバイル・パソコンを開き、原稿の仕上げにかかる。
 講演が始まるまで、あと10分もない。

 講演の主催者の側から、首脳陣が控え室に挨拶にみえる。
 ありがたいことに、ぼくが原稿の執筆と送稿をどれほど急いでいるかを、ぼくが何も言わないのに理解され、さらりと挨拶だけで、ぼくに執筆を続けさせてくれた。

 それでも、もう無理だ、間に合わない、タクシーのなかで道を説明するのに忙しくて執筆が進まなかったのが誤算だったなぁ、もう無理だなぁと思いつつ、必死で書く。

 そして講演が始まる1分半まえに、奇跡的に書き終わり、講演の30秒まえに送稿し終わった。
 うわー、よかった。
 ストレス・タクシーへの怒りは、もう忘れている。


▼すぐに、主催者側のかたがた、それに独研の研究員3人の大勢で、講演会場に向かう。
 会場に入り、たくさん集まってくださった聴衆をみると、ぼくの心身に自然な集中力が、無理なく一気に高まる。

 講演は、12時15分ぐらいまで、3時間15分続いた。
 途中、聴衆のかたがたが一度、頭を整理できるように、10分ほどの休憩をとった。
 だけども、ぼくは集中心が途切れないように、椅子にも座らず、講演中と同じく立ったままでいる。
 休憩でも席を離れない少数の聴衆のために、マイクを切って、肩の凝らない余談を話す。
 これも愉しい。


▼徹夜明けの影響はありありとあって、言い間違いを繰り返す。
 それでも、聴衆に伝えたいことを、ある程度は言えたかなぁと思いつつ、講演を終えて、主催者側の首脳陣との昼食会へ。

 ぼくにとっては、講演の続きのようなもので、主催者のかたがたの的確な質問に、考え考え、答えていく。
 昼食は、コックさんのプロらしい心づくしが感じられて、うれしかった。
 講演の主催者は、この超高層ビルの最上階にある特別室を用意してくださった。間近に立つ東京タワーの展望室が、目線より下にみえている。小雨に煙る東京が、晴れた日とはまた違う、印象深い都市の光景をみせてくれた。

 昼食会場から、防衛庁へ。
 信頼する幹部と、きもちの通う議論を、すこし交わした。


▼防衛庁から独研へ戻り、ネクタイだけはせめて外して、秘書室や研究本部と打ち合わせていると、午後4時まえ、秘書室長が「TVタックルのクルーがいらっしゃいました」

 え、午後5時からと思っていた。
 ちょい大急ぎでネクタイを締め直し、クルーに社長室に入ってもらい、いつものコメント撮りを受ける。

 今週のテーマは、北朝鮮と拉致問題に絞られていた。
 いつも1分とか2分とか、それぐらいしか放送はされないが、1時間たっぷり、インタビューに答える。
 ぼくのコメントを直接、引用するだけではなく、番組中に流れるVTRの流れや方向性、さらには具体的内容を決めるために、番組のディレクターがインタビューしていることが分かっているので、気を抜かずに、ぼくなりに懸命に答える。

 コメント撮りが終わると、急いで、耳鼻科へ。
 いま極端に疲労が蓄積しているために、ぼくの自慢の免疫力がぐんと低下してしまって、プールで右耳がなにかに感染したらしい。
 痛みが、強い。
 耳たぶが固くこわばり、顔の右側全体が重苦しく、実は講演中も、昼食会でも、防衛庁でも、右耳はよく聞こえなかった。

 耳鼻科の治療は、ほんと、ちょっと苦しいですね。
 鼻と耳の奥深くに細い棒を入れて、薬剤を吹きつけたり、通りをよくしたり。

 ぼくは記者時代の夏休みに、海外で、ダイバーのライセンスを取得した。
 一度だけ、水中でエア抜きに失敗して、その一度の失敗で、右耳の鼓膜を破った。
 ふだんは、ほとんど影響がない。右耳も、よく聞こえる。
 だけども、あまりに疲労すると、こうやって感染したり、いろいろな辛いことが起きる。
 つまりは右耳は、ぼくのファイナル・アラームなのかなぁ。


▼耳鼻科から独研へ戻ると、会社に泊まり込み態勢で奮闘している研究員、それにぼくをほんとうに支えてくれている秘書たちが、今夜も出前か何かで食事を取ろうとしているのが気になって、みんなも、ぼくもたいへんに忙しいなかではあったけど、独研の近くのタイ料理屋へ、ささやかながら、ご馳走しに出発!

 店では、秘書室長が素早く予約してくれていた席に座り、みんなで生ビールを飲み、アジアの麺を楽しむ。
 酒飲みのぼくは、耳鼻科医にアルコールを禁じられているけど生ビールをとって、ひとくち、ふたくち呑む。
 一発で耳が痛み、こりゃ、さすがに無理だと諦めて、東京消防庁から独研に出向中の研究員「ヒデ」にジョッキを譲る。

 そして、みんなで独研に戻り、仕事を再開。
 秘書室は、ぼくの複雑そのものの日程の調整を続け、研究本部(社会科学部と自然科学部)の研究員たちは、研究プロジェクトと、それから「国民保護」をめぐる自治体との協議の準備に取り組む。
 ぼくにはシンクタンク社長としての経営課題が、文字通りに山積している。
 無借金で、どこからも一切援助を受けず、シンクタンクを経営するのも、ああー、簡単じゃないし、作家であること、講演・講義をすること、テレビ・ラジオに関わること、それらの同時進行と両立は、まぁなかなかのものだ。

 ぼくは実は、先ほどから、まるでロボットの充電が切れるように、元気を失っている。
 ちょっとだけでも、仮眠しようかなぁ。
 仮眠で元気を取り戻して、会員へ配信する「東京コンフィデンシャル・レポート」を完成度高く、仕上げたい。


▼今週は、明日もまた、大阪へ入り、土曜日に関西テレビの「ぶったま」に生出演する。
 いつもは飛行機だけど、耳鼻科ドクターに禁じられたので、新幹線の往復だ。
 その次の週は、久しぶりに「朝まで生テレビ」に参加する。

 疲れ切った顔で出演するのは、あまり嬉しくないけど、タレントじゃないのだから見かけはともあれ、中身では、ぼくなりに一生懸命に、奮闘したい。


※写真は、関西テレビの報道番組「ANCHOR」の本番直前に、報道局の一隅で、手書きのフリップを書いているところです。
 書き終わると、ぼくを担当してくれているスタッフの「よっちゃん」に渡します。

 これは今週5月17日水曜日の放送で、「ANCHOR」のなかのコーナー「青山のニュースDEズバリ!」で視聴者のみなさんにお見せしたフリップです。
 フリップには、「常識を変えよう」と書きました。

 反日を強める韓国と中国と付きあうためには、ぼくら日本国民の思い込みというか常識を、変えて、臨みましょうという話をしました。





おん・えあ

2006年05月15日 | Weblog



▼5月15日月曜日の夜、今夜は、たいせつな人との会食があり、それが終わってから、録画で「TVタックル」を見た。
(TVタックルは、2時間収録して、そのうち40数分だけ放送される)

 収録の当日に、スタジオへ同行した独研(独立総合研究所)の研究員が、一緒に今夜の放送を見ていた。
 そして「あれ? 社長の発言、ほとんどカットされていますね」と言った。
(※ 社長とは、ぼくのことです。不肖ながら、ぼくは株式会社 独立総合研究所の代表取締役社長です)

 その通りだけど、しかし、これまでも述べてきたように、文句はない。
 誰かひとりの発言に、みなが従ったという、編集じゃないから。
 実際の収録で発言がとても、とても少なかった人も、番組上は、バランスよく発言したという編集になっている。
 それはテレビ局の編集権の範囲内だ。


▼このブログで、収録から帰った当日に、次のように記した。

~今日の収録に関しては、収録の最後のほうで、教育基本法の改正について大竹さんが疑問を呈した。
 ぼくは「今の改正案は、政府が国会に提出した。だけど、ほんとうは、ぼくら国民がまさしく決めることであり、国民の直接の代表である議員立法で出し直すべきだと思う。国民みずからの議論がもっと必要だから。ただ、現在の教育基本法は、そのままにしておけない。なぜなら、憲法とペアだから。教育基本法は憲法と同じく1947年に施行された。憲法を国民みずからの手で考え直してみようという機運にようやく到達しそうになっている今、教育基本法を放ってはおけない」ということを、もう少し詳しく、しかし言葉にさんざん詰まりながら、話した~


▼この部分と、あと靖国参拝をめぐる部分、これは放送で残ってほしいなとブログで記した。
 特に、教育基本法の改正については、そうだった。
 スタジオ収録に同行した研究員も、今夜の放送で、教育基本法の改正をめぐるVTRが流れ始めたとき、「ああ、社長の発言はこれから放送されますよ。教育のところは、ほとんどが社長の発言でしたからね」と言った。

 しかし、教育基本法の改正をめぐる発言は、大半がカットされた。
 放送では、大竹さんの発言を受けて、ぼくは「ちょっと待って」と言ったまま黙っていて、最後のたけしさんの発言になったような編集になっているけれど、ほんとうは、たけしさんの発言のまえに上記のように述べた。

 ぼくが、上にあるように「教育基本法は憲法と同じく1947年に施行された」と述べたのを受けて、たけしさんは「おれも1947年の生まれだけど」と話し始めたのだった。

 また、靖国参拝をめぐっては、100パーセント完全にカットされた。

 いずれも、やむを得ない。
 まったくもって、やむを得ない。
 もう一度言うが、これは、テレビ局の編集権の範囲内だ。
 放送時間は、40数分しかないのだし。

 日テレの「太田光の私が総理になったら…」では、太田さんの明確な主張に対して、出演者みんなが賛成したかのように誤解されそうな編集になっていたから、あえて、この放送に対してだけは異を唱えた。

 ぼくの友だちのひとりの、著名なエコノミストは、「テレビは生放送以外、出演しない。収録後に編集される番組には一切、出演しない」という原則を貫いている。
 今夜あらためて、その原則は正しいなぁと胸のうちで感じた。

 だけども、TVタックルは、よく頑張っている番組だと思うから、そして、毎週2000万人から3000万人の視聴者がチャンネルを合わせるのも、やっぱり番組が頑張ってると視聴者が知っているからだと思うから、生放送でなくとも、編集で発言がほとんど消されても、ぼくは今後もできる限り協力していくつもりだ。

 エコノミストはいつも、「青山さん、番組をもっともっと選びなさいよ」、「生放送以外は、出ちゃ駄目だよ」と、二つのアドバイスをぼくに言う。
 この人を、ぼくは信頼している。

 だけども、アドバイスのうち後者は、恐縮ながら、いまのところは聞くことができないなぁ。
 スタジオで収録して、放送では編集される番組であっても、あるいはスタジオよりもっと長く2時間を超えて収録し放送では1分しか使われないコメント撮りであっても、その番組が頑張っているなら、ぼくは、ごくごくささやかながら、これからも、協力します。







降りていくエレベーターのなかで、ふと

2006年05月09日 | Weblog



▼5月8日の月曜日、連休が明けてただちに、シンクタンクを経営するうえでの、なかなかに重い課題に向きあうことになった。
 ちょっと苦しんでいるところを、秘書さんが、とてもさりげなく励ましてくれた。

 
▼ぼくが不肖ながら社長(兼・首席研究員)をつとめる独研(独立総合研究所)は、よく、ぼくの個人事務所と勘違いされる。
 全くそうではなく、れっきとした株式会社のシンクタンクだ。

 ただ、株式会社であるのは、自立のためであって、利益を追求するためじゃない。
 ほかの株式会社が利益を追求していることには、そのまま、身体を張った経済活動として深く敬意を表しつつ、独研は、ささやかながら違う道を歩みつづける。

 かつて幕末に坂本龍馬のつくった「亀山社中」は、日本初の民間会社と評価していいと思うけど、あくまでも主たる目的は、利益追求よりも世の変革だった。
 史上初の会社であったのは、藩の殿さまや幕府の援助を受けずに自分の食い扶持は自分で稼いで、自立して、だからこそ変革を進めることができるという思想のためだと、ぼくは考えている。
 独研が株式会社であるのは、基本的に、これと同じ思想に立つ。

 NPOやNGOとなる道も、採らない。
 NPO、NGOの活動も、深い敬意とともに尊重するけど、独研は、国家から税法上の特別扱いを受けずに、ふつうに税金を払う道を選ぶ。


▼しかし、いかなる支援も受けず、また無借金経営を貫き、志だけで結ばれた社員・スタッフの支えるシンクタンクが、銀行や証券会社や政府や、そういう大きな力に支援された他のシンクタンクと対等に渡りあって、存続し発展していくのは実際ため息が出るほど、たいへんは、たいへんです。


▼だけど、今(5月9日火曜日の未明4時すぎ)、書きとめたいのはそのことじゃない。

 経営上の課題に、ちょっと悩みながら、ゆうべの夜9時すぎ、独研の若き研究員に見送られて会社を出てエレベーターに乗ったとき、ふと、「ぼくは、悩まなくてもいいことに悩んでいるんだ」と気づいた。

 もちろん、悩むからには、それなりの抜き差しならない理由はある。
 だけども、ぼくが命を天の意志に委ねると決心している以上は、ほとんどの悩みは、実は悩む必要のないことだ。

 悩むなら、自分のことでも、会社経営のことでもなく、世を悩め。
 私心は去れ。おのれは思うな。
 シンクタンクの経営は、悩むのではなく、さらりと、そしてどんどんと前へ前へ、フェアに、やることをやればいい。

 おまえよ、悩むなら、ただ世のために悩め。




※写真は、パキスタンの都市ラーワルピンディのマーケット入り口あたりを、携帯で撮りました。
 ここから北へ10キロの首都イスラマバード(イスラームの都市、という意味)は人工都市だけど、ラーワルピンディは、ありのままの自然な街です。
 この豊かな野菜のまえを通って、マーケットの奥に入っていくと、山羊の生首を大量に並べて売っています。
 日本でこの首を見ると、ひっくり返るだろうけど、イスラーム世界で見ると、ひとびとの大切な栄養源として、ごく自然です。

 イスラーム世界には、凄絶な貧しさもあるけど、思わず拍手してしまうような、たくましさもある。
 日本という、隅から隅まで完璧であろうとする社会にいると見失ってしまうようなおおらかさを思い出させてくれる、それも、きれい事でなく思い出させてくれるところが、ぼくは好きです。







あの夕陽

2006年05月07日 | Weblog



 ぼくは書きたい。
 書きたい、書きたい。

 書きかけの小説の第2作、書きかけのノンフィクション新作、そしてコンセプトを深めている、子どもたちへの本。



 写真は、2月に、独研(独立総合研究所)の研究員2人と中東諸国を回ったときに撮りました。
 パキスタンの首都イスラマバードを望む山の上に登り、その帰途の夕陽です。


 

たっくると花桃

2006年05月06日 | Weblog



▼いま、テレビ朝日系「TVタックル」のスタジオ収録から、帰宅したばかり。

 今回は、タックル国際会議ということで、中国、韓国、アメリカ、カナダ、ロシア、そしてイランのジャーナリストや大学教授ら外国のかた7人が参加し、日本側は、三宅さん、ハマコーさん、桝添さんに、ぼくの4人。
 これにレギュラー陣のたけしさん、阿川さん、大竹さんの3人が加わるから全部でなんと、14人。

 2時間のスタジオ収録で、これは黙っていてはいけないという場面では、必死の思いで発言したつもりだ。
 だけど、放送されるのは45分間ほど。
 そして、この人数の多さだから、いつもの通り、ぼくの発言がどれだけ放送されるか、まるで、わかりません。

 ただし、日テレの「太田光の私が総理になったら」の一件のときに書いたとおり、これはあくまでもテレビ局の編集権の範囲内だから、仮にぼくの発言が使われなくとも文句は一切、ない。

 かといって、使われるように「工夫」するということも、あえて今回も、しなかった。
 ぼくはテレビタレントではなく、視聴者、国民に伝えるべきと信じることを伝えようと努める、その本来の目的に徹する立場だと思うから。
 その代わり、ここは黙っていてはいけないというところだけ、懸命に自分を励まして発言した。

 それでも、他の出演者には「あおやまの野郎、しゃべりすぎだ」という印象になったようだ。
 ぼくは、この番組に慣れるまでずいぶんと時間がかかり、ほかの常連出演者のかたがたには、ぼくは『ろくに発言できない男』のはず、というイメージがまだ強いからだろうなぁ。


▼しかし、実は、ぼくはまだ全然、この番組に慣れていない。

 ぼくの少年時代に受けた家庭教育は、とても輪郭のはっきりした教育だった。
 たとえば、人と話すときについては「相手の話をしっかりと、充分に聞いてから、発言すべきことだけを発言しなさい」という原則を身体に叩き込まれた。
 タックルで、そのようにしていると、何も口を開かずに帰ることになって、番組のスタッフから、視聴者のなかの数少ないぼくの理解者のかたがたまで、みなを落胆させることになってしまう。

 だから、懸命に自分を励ますことになるのだけど、無理に励ますものだから、きっと顔が怖い、言葉遣いもへたくそ、言い間違えたり、言い淀んだり、ひどいだろうと思う。
 まったく謙遜じゃないのです。


▼そもそも、ぼくはテレビ番組に顔を出すと、いつも、いつも自己嫌悪に陥る。
 たった今も、そうです。

 この連休は、かなりテレビ番組に忙殺されたけど、関西テレビの「スーパーニュース・アンカー」から、このタックルまで、すべて出演後に自己嫌悪です。
 出演じゃなくて、コメント撮りだけでも、しっかり、そのあとに自己嫌悪を味わってしまう。
 正直、すこし辛い。


▼その意味で、番組スタッフから視聴者のかたがたにまで、ほんとうに、本心から、いつも申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

 今日の収録に関しては、収録の最後のほうで、教育基本法の改正について大竹さんが疑問を呈した。
 ぼくは「今の改正案は、政府が国会に提出した。だけど、ほんとうは、ぼくら国民がまさしく決めることであり、国民の直接の代表である議員立法で出し直すべきだと思う。国民みずからの議論がもっと必要だから。ただ、現在の教育基本法は、そのままにしておけない。なぜなら、憲法とペアだから。教育基本法は憲法と同じく1947年に施行された。憲法を国民みずからの手で考え直してみようという機運にようやく到達しそうになっている今、教育基本法を放ってはおけない」ということを、もう少し詳しく、しかし言葉にさんざん詰まりながら、話した。

 あと、靖国参拝をめぐって、中韓だけじゃなく、アメリカ、カナダ、ロシアまでそろって「参拝をとにかく、やめりゃいいんだよ」という話の流れになり、そのまま議論が終わってしまいそうだったから、ぼくなりに懸命に反論した。
 しかし、これもまるで言葉足らず、舌足らず。へたくそ。

 この二つの場面は、本音を言えば放送してほしいけど、話し方がへたくそなんだから、どのようにカットされても、文句は言えません。

(このスタジオ収録は、5月15日月曜の放送です。
 その前の8日は、コメントが放送されます)



※写真は、桃の花です。
 いま咲き乱れている地元では、『花桃』と呼んでいるそうです。
 最近に、ぼくの携帯で撮りました。
 携帯で撮っても、こんなに凄絶な、そして柔らかな美しさです。

 桃の花がこんなだとは、ぼくは知らなかった。
 遅い桜の開花を見るつもりで出かけて、偶然に、桃の花に出逢いました。
 桜と花桃が相次いで咲く国が、この日本です。

 わたしたちの柔らかな、それでいて、きりり毅然と美しい祖国を取り戻し、再興し、伝統に立脚しつつ、国民国家としての哲学を、この国の主人公であるわたしたち自らが新しく創造し、世界へアジアへ発信する。
 それが、ぼくらの子々孫々への、新しい教育理念だと信じます。




にくたい

2006年05月06日 | Weblog



▼2006年5月5日、げんきな男の子の端午の節句は、残念ながらどーんと体調が落ち込んだ。
 小説新作を書くパソコン画面に向かいながら、気がつくと、椅子の上で、首をがっくり垂れて、うとうとしている。
 一日の時間が午後から夕方に移るころ、もうたまらず、ベッドで仮眠すると、それが苦しい。

 ほんものじゃない、かりそめの眠りに、やすらぐどころか苦しみながら、いつものように半分起きて時計をみている。
 仮眠する代わりに無理にでもジムに行って鍛錬して、それで体調を取り戻すようにして、この頃はそれで肉体を支えている。
 だから、ジムに行こう、行こうと思いつつ、そのジムがクローズしてしまう時刻が近づいているのを、仮眠のなかで見ている。

 きょうは世は休日、ジムは休日には早じまいしてしまう。
 ああ、もう無理だ、ジムにも行けない、行けないと、この不調を乗り越えられないと思いながら、どうにも身体が動かない。
 全身疲労という粘る網に、身体が捕らえられていて、そのまま泥のなかに沈められている実感だ。


▼それでも、もうほんとうのぎりぎりの時間に、這い出るようにベッドを脱出して、車庫へ降り、アウディ・クワトロ80のエンジンをかける。
 雪と氷のモンテカルロ・ラリーで2連覇した、18年前のエンジンは、げんきに咆吼する。
 そのエンジン音にも励まされて、このステアもクラッチも重いラリーカーをドライブし、ジムへ到着。

 もうクローズの時間も迫っているから、身体をあたためてやる時間もない。
 ごく簡単にストレッチをしただけで、ダンベルとバーベルに挑む。

 疲れているのは脳と内臓であって筋肉じゃないから、ダンベルもバーベルも挙がると思っていたら、これが違う。
 どうなるかと思うほど苦しい。

 ベンチプレスでバーベルを挙げているとき、ついに胸の上に落としそうになる。落とせば胸は潰れる。潰れなくても、あまり無事では済まないだろう。
 トレーナーが付いてくれているので、とっさに手を添えてくれて、あやうく持ちこたえる。
 それなのに手を貸してくれることが嫌で、内心で『手を出さないでくれ』と叫びつつ、同時に『ありがとう』と心の奥で呟きつつ、どうにも筋肉が動かない。

 苦しい汗のなかで、にんげんの肉体って、面白いなぁと、考えている。

 筋肉が疲れているはずはない。
 ほんのちょっとしか鍛錬はしていないんだから。
 かつて競技スキーをしていたとき、あるいは高校生、中学生のとき長距離走をしていた、ささやかな体験から、筋肉の疲れがどんなものかは多少、知っている。
 今の疲れは、それとはまったく違う。
 内臓と脳の疲れから来る、全身の疲労だ。
 それなのに、いつもは挙がるバーベルが、挙がらない。

 トレーナーはあっさりと「ああ、お疲れですね。いいことですよ、そういうときに(ジムへ)来るのは」と言う。
 その言葉に答える余裕は、ぼくにない。
 頭の中で、トレーナーが口にした「お疲れ」は筋肉のことじゃないとわかる。
『ああ、そうなのか。トレーナーにも、全身疲労だとわかるんだ。つまり身体の科学からすると、全身が疲れていると、それが筋肉の疲れでなくても、筋肉が力を出せなくなるんだ』と考えている。


▼どうにか、いつもの筋力メニューを終えて、プールへ。
 もう時間がないこと、そして全身の疲労から、調整程度にしか泳げない。

 ところが、水が軽い。
 調子の悪いときには、あんなに重く感じる水が、なぜか軽い。

 ブレストからフリーに切り替えて、すこしアップして泳ぐと、苦手な右腕が、よく遠くへ伸びて新しい水を掴んでいる。
 また内心で「おもしろいなぁ、にんげんの身体は」と思う。

 泳ぐたび、水は違う。
 肉体の、ちょっとした違いで、水はがらりと変わる。
 生命は水から生まれたから、なのかなぁ。

 今のぼくの肉体は、瞬発力はあっても持久力がないから、泳ぎはすぐに乱れはじめる。
 乱れに耐えられず、泳ぎを短く打ち切った。
 それでもプールから上がるときは、水中ロケットが打ち上がるように一動作で、ぴょんと上がる。
 水の抵抗をあっさりと振り切って、一瞬でプールサイドに立っている。
 これができるうちは、まだ鍛錬すれば実る可能性はあるよね。


▼写真は、高速道路から撮った、日本アルプスの残雪です。
 携帯電話のカメラをいっぱいにズームして撮ったから、すっかりぼけているけど、ぼくには胸に迫るものがある画像だ。

 ことしの冬は雪が多かったから、きっと夏スキーもいつもの年より雪がある。
 かつては、こういう夏山の雪渓で、コンクリートのように硬くなったスプーンカット(スプーンで一面にえぐっていったような残雪)を、激しい振動にかろうじて耐えながら競技用のスキーで滑っていた。
 へたくそだったけど、一生懸命ではあった。

 あの頃につくった下半身が、今もぼくを支えている。
 だけど、椅子の上と飛行機のシートにあまりにも長く座っている生活だから、このごろ股関節がびっくりするほど固くなっている。
 さぁ、どうにかしなくちゃ。
 どうにかするなら、それは鍛錬するしかない。
 きっと、その新しい鍛錬と、小説新作の完成は、同時進行になるよ。

 天よ、おのれを捨てて、世界に、ほんのささやかに寄与する、創造の力を、ぼくに。
 創造に耐える力を、この肉体に。




あたらしい朝に

2006年05月04日 | Weblog



▼さて、世は連休の真っ最中だ。
 今のぼくに、休みというものはない。
 それでも、世のひとびとが休みというだけで、気持ちはぐっと寛ぐ。
 羨ましいという気持ちは感じない。休みもないのにリラックスした、いい気持ちになる。
 自分でも、不思議だけど。

 共同通信の記者だった時代も、たいへんに忙しかった。
 学生時代に、記者生活の忙しさは想像していたけど、いざ記者になってみると想像を絶した。
 それでも記者時代には、みなが交代で休みを取ることができていた。

 新米の事件記者のとき、大学の医学部の不正を追うために、構内の非常階段で連日、張り込んでいたことがある。
 夏の始まりの明るい日射しのなかで、夏休みを交代で取るためのシフト表をポケットから何度も取り出しては、しげしげと眺めていたおのれを、なぜかいつまでも覚えている。

 ぼくは「25歳まで」という共同通信の新卒採用の年齢制限を超える26歳ながら、どうにか中央突破で入社して3か月ほど。
 同期で当然、最年長の、27歳直前だった。同期は全員、地方支局に散らばっている。あちこちの支局から、同期が何度も、ぼくの赴任先へ遊びに来ていた頃だ。

 地方支局はデスクから新米記者まで、みながカバーし合って休みを取る。
 ぼくはシフト表をデスクから受けとると、自分が休みの日を、ていねいに黄色く塗った。
 その黄色の日が何日も続いているシフト表、つまり社会人最初の夏休みカレンダーを眺めて、ほくほくと嬉しかった。
 あの日々は二度と帰らないけど、あの感じ、きもちよく胸に残っている。

 その夏休みにぼくは、当時はまだブームじゃなかった沖縄行きを選び、知られざる戦跡の「白梅の塔」を縁あって訪ねる。
 沖縄戦のさなかに自決した沖縄第二高等女学校の女生徒たち、その真っ白な遺骨、そしてありありと、そこにいる霊と出逢うことになる。
 その日から、沖縄のことは、ぼくの生涯のテーマの一つだ。


▼大学医学部の非常階段で張り込んでいた夏の日から、18年ほどが過ぎたころ、ぼくは東京本社の政治部記者としてペルーの「日本大使公邸人質事件」の取材に特派され、帰国した直後に、記者を辞める決心をした。
 そして三菱グループのシンクタンク、三菱総合研究所(三菱総研)に移り、研究員になった。
 その時点でぼくは、自分と交代できる人のいない立場に変わった。
 つまり、休みを取ることはできなくなった。

 三菱総研に移ることが決まったときは、当然、休みは増えると予想して、楽しみにしていた。
 記者以上に忙しい仕事がこの世にあるとは思えなかったから。

 たとえば政治記者だったとき、夜中の1時半ごろまで、政治家や官僚の自宅で「夜回り取材」をして、それから共同通信の本社に上がり、帰宅は未明の3時や4時になった。
 居間のソファーで少し、うとうとすると、もうシャワーを浴び、遅くとも朝6時には「朝駆け取材」に出た。
 朝に強いタイプの政治家の自宅へ行き、ほかの社の記者が少ないうちに独自の取材をするためだった。

 もう、いずれも亡くなってしまった梶山静六さん(元法務大臣、元官房長官)の住んでいた九段の衆院議員宿舎や、河本敏夫さん(元通産大臣、総理大臣の候補でもあった)の住んでいた三田の高級マンションなどが、その朝駆け取材の回り先だった。

 ところが三菱総研に移ると、このわずかな時間の帰宅もできない日々が続いた。
 床に段ボールを敷いて、ごろ寝で仮眠をとり、朝に出勤してきた秘書役アシスタントの足音で目が覚めるという凄まじい日々になった。
 この秘書役アシスタントの見つけてくれた銭湯に行き、風呂を出るとまた三菱総研に戻っていた。

 そして、三菱総研の時代の仲間と一緒に、現在の独立総合研究所(独研)を創立したあとは、さらに究極の忙しさになった。
 テレビ出演なども始まり、仕事がいちだんと多様になったし、社長に就任したから、「交代する人のいない立場」がもっと、はっきりしたからだ。

 つまり、共同通信を辞めてから、1日も休んでいない。
 平成9年12月31日付で、共同通信を依願退社し、翌日の平成10年1月1日付で三菱総研に入ってから今日までの、8年と4か月強、1日も休まないままで来た。
 代わりのいない立場にいるだけではなく、物書きであることも大きい。
 いつも原稿の締め切りを抱えているから、会社に出ない日はあっても、仕事をしない日はない。

 これを辛い、つらいと思っていたら、やってこれなかった。
 辛いと思ったことは、あまりない。
 休みは取れなくなっても、記者時代よりストレスは減ったから。
 なぜストレスが減ったか。
 上司というものが、いなくなったからだ。

 記者のときは、常に上にデスクや部長がいて、助けてもらうことも多かったけれど、がちっと束縛されてもいた。
 三菱総研に移ると、上は役員会だけだった。
 判断はほとんどすべて自分でできる立場になり、束縛はぐんと減った。

 独研の社長になると、束縛する人はゼロになった。

 この変化は、体験してみるまで、その意味の大きさが分からなかった。
 ぼくにとっては、休みがないことよりも、束縛のないほうが、ずっと大切なリラクゼーションのようだ。


▼ぼくに休みはなくとも、世は連休中だから、シンクタンクを経営する仕事は本来、減るはずだ。
 調査・研究プロジェクトを独研に発注する政府や自治体、企業はいずれも、お休みなのだから。

 そこで、この連休中に、本をまるまる1冊、それに純文学の小説の新作を、書く約束になっている。
 このほかに、書く約束をした本がもう1冊、書かないままになっているから、できればそれに着手もしたい。
 さらに、初めて子供たちに向けた本を書くことも考えている。

 大人向けの本2冊と小説新作はいずれも、出版社のひととすでに交わした約束がある。
 その約束を実行することも、たいへんに大切なうえに、講演会で会う読者のかたに「次の本はまだですか」「待っているんですけど」とよく尋ねられることは、きっと、もっと大切だ。

 シンクタンクの社長と、物書きを両立させるのは正直、ずいぶんと難しい。
 だけど、おのれで選んだ生き方だから、どうしても両立させたい。


▼連休の前半は、テレビ出演が予想外に忙しかった。
 フジテレビの「報道2001」やテレビ朝日の「サンデー・スクランブル」の生出演、テレ朝の「TVタックル」や「ワイド・スクランブル」、「スーパーJチャンネル」のコメント収録が続き、きのうは大阪で関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」の生出演だった。

 出演時間が短かったり、コメントの放送はあっという間でも、テレビは、事前に準備したり、情報を集めたり、番組スタッフと打ち合わせたり、想像をはるかに超えて手間はかかるから、連休前半はテレビに消えましたというのが実感だ。
 後半も、TVタックルのスタジオ収録が控えてはいるけど、すこし落ち着くだろうから、原稿を書きたい、書きたい!


▼日本テレビのバラエティ番組「太田光の私が総理になったら」をめぐっては、ほんとうに多くの反響をいただいた。
 ぼくへの批判、ぼくの背中を叩いて激励してくれること、それから番組への疑問や批判、さまざまに寄せられた。

 どれか一つが正しいと決めるつもりは、ない。
 ただ、報道番組ではなくバラエティ番組ではあっても、太田さんの主張が明確であればあるほど、その主張がぼくらゲストにそのまま受け容れられたような誤解を視聴者のなかに、仮に一部であっても生んだことは、やはり良くない。
 それだけは、この視聴者からの反響を通じて、はっきりしたと思う。

 それに、テレビ番組というものに、こんなに関心を持ってもらっていること、それもはっきりした。
 ネット時代にあっても、いやネット時代だからこそ、テレビにしっかりと関心を持ってもらっている、その事実はテレビマンには貴重だと思うし、ぼくも単に横っちょからわずかにテレビに関わっている立場であっても、責任をあらためて噛みしめたい。


▼この地味なサイトにもらったコメントや、ちょっと覗かせてもらった2チャンネルの書き込みには、思わず頷いてしまうものや、「よおく見てるなぁ」と内心で感嘆してしまうものも少なくなかった。

 たとえば、「青山さんのブログにはなぜ、ひらがなが多いの?」なんて、書き込みが2チャンネルに一瞬、出ていた。
 よく気がついてくれたなぁ、とぼくは思った。
 この書き込み自体は、いくらか否定的に、いや疑問を込めて、書いてあったのかも知れないけど、ぼくは、ひらがなこそが日本語だと思っている。

 漢字は、文字通りに漢の国、すなわち中国から来たものだけど、ひらがなは、その漢字から日本民族が柔らかな智恵で生み出した、わたしたちだけのものだ。
 そして文化こそが祖国だと、ぼくは信じているから、ふつうの基準よりも、ひらがなを多用することにしている。

 それに、同じ言葉を同じ一文のなかで、ひらがなにしたり漢字にしたり、あえて不統一もやる。
 文脈から、そうするのはもちろん、それだけではなく見た感じが硬すぎると、柔らかさを出すために、漢字をひらがなに変える。
 わたしたちの日本文化には、素晴らしい柔らかさがあるからだ。

 視聴者や読者の、こころの眼の多様さ、おもしろさ、それをぼくはあらためて実感している。
 みなさん、ありがとう。
 みなさんに、連休後半も、いいお休みがありますように。


※写真は、独研の社長室で、ささやかな色紙にサインしているところです。
 気持ちを込めて書いているとき、秘書さんが「社長が一生懸命に書いている姿を、見てほしいと思って」と急に撮ってくれたのです。

 字を書くことは、好きです。
 へたくそだけど、書道家にもなりたいと思うくらいです。

 坂本龍馬がどれほど自由自在な精神を持ち、その精神によってこそ世直しに取り組んだことは、龍馬さんの遺した手紙の字からわかります。
 ふつうの基準からすると、うまいどころか、とんでもない字ですが、見る者を惹きつけます。

 独研の社長室には、小さな盾が飾ってあります。海上自衛隊の自衛艦隊司令部で講演したときに、司令官からいただきました。
 盾には、帝国海軍の山本五十六・連合艦隊司令長官の遺した「常在戦場」の字が彫り込んであります。
 何気ない字です。うまい字でもありません。しかし、この山本長官の字も、ひとめで、その精神の自由がわかる字です。

 字には、魂にどんな背骨が通っているか、どれほどの自由を抱いているか、それが浮き彫りになる気がします。



 いまは2006年5月4日の早朝4時半ちょうど。
 さぁ、新しい朝です。