▼2007年10月12日金曜、数えてみると、今日で骨折から、もう25日目だ。
病院では「全治3か月」、つまり90日ほどかかると言われているのだから、まだ歩くことができなくても、そりゃ当然なのかもしれない。
ただね、今日はいくらかショックな日ではあった。
▼朝、いつものように秘書さんの助けを借りて、自宅から病院へ向かう準備をする。
独研の秘書室が予約してくれていたタクシーが、「病院がナビにない」と言って、ぐるぐる回ってメーターもどんどん回したあげくに病院の前にたどり着けず、やや離れたところで降りるしかない。
いつも同じタクシー会社に頼んでいるのだけどね。
見るからにベテランの運転手さんなのだが、ナビに依存しきっていて、とてもプロの仕事とは言えない。
このごろの日本に多い「職業人」です。
ちょっと哀しいことに、もう、慣れた。
病院へ、松葉杖を懸命に漕いで近づいていくと、まるで蹴るかのように正面からぶつかってくる中年男性や、邪魔者を見るように、あるいは、社会の異物をみるように、じろじろと全身をしつこく眺める、やはり中年男性たちや、こちらの様子はまったく意に介さず自転車のスピードをあげて向かってくる女性とか、歩道は、いつものように、そういう人々で満ちている。
これも、もっと哀しいことに、もう慣れた。
病院のあるビルに入り、背広を着たお年寄りの男性に目礼しつつ、エレベーターに乗ろうとする。
背広の紳士のお年寄りは、高齢者には優先権があるだろうが、というような雰囲気で、驚いたことに松葉杖を手で払いのけるようにしつつ、すたすたと先にお乗りになる。
たとえば農村では、まずないのだろうけど、これが東京という都市の光景です。
ちょっと一瞬だけ驚いたけど、実は、もうこれも、慣れた。
松葉杖を払いのけなくてもいいだろうけど、高齢者は確かに優先されなきゃいけないとも、思うし。
▼自宅から病院へ入るまでの、こうしたことは、骨折して松葉杖と車椅子の男になってから日々、味わっていることで、今さら、もうショックではありません。
▼ショックだったのは、病院で療法士さんが「ほんとうは、とても難しい場所を骨折しているので、元には戻らないと思います。最悪の場合は、結局は手術になるかもしれませんね」と言ったこと。
ちょっとだけどね、言われたときは、確かにちいさなショックがあった。
折れたのは、右足の小指から甲の下へ伸びている骨だ。
ドクターと療法士さんの言われたことを合わせると、「小指につながる細い骨だから、いざとなると大きく折れやすい」、「青山さんは骨折から1日を置いて、治療にやってきたこともあって、折れた部分がかなり離れてしまっていて、しかも一方の部分が、足の裏のほうへ下がってしまっている」、「それがうまく、くっつくかどうかは分からない」…ということらしい。
療法士さんは、今日も、いったんギプスを外し、足の裏から骨折部分をじんわりと、しかし強く押さえながら、折れた部分の位置を修正しようと努め、甲の上からも同じように押さえながら、なんとか修正しようと努めてくれる。
療法士さんは「痛みますか?大丈夫ですか?」と聞いてくれる。
大丈夫です、と答えながら、ほんとうは息が止まるほど、吐き気がするほど、痛い。
ふだんは決して感じることのない種類の、なんとも言えない痛みだ。
これが拷問の痛みなのかなぁ、というやつ。
しかし、この痛さを口にして、療法士さんが手を緩めると、ぼくの骨はますます、うまく繋がらないかもしれないから、「大丈夫です」としか答えない。
ギプスが再び嵌(は)められる頃には、治療の痛みはまぁ、一応は忘れている。
ふひ。
▼病院のあと、独立総合研究所(独研)の業務で、沖縄への出張について、ちょっと調整に悩んだりしながら、会員制の「東京コンフィデンシャル・レポート」の執筆を急ぐ。
ここ数日間、ずっと書いていて、まだ完成しない第348号を、ようやく仕上げて、独研の総務部から全会員へ、配信する。
やれやれ。
レポートが終わると、ジムへ急ぐ。
今週末もまた出張で、週1回、日曜ごとに、どうにか通い続けてきたジムへ行くことができないから、今日の金曜日に行っておきたい。
ジムでは、まず信頼するトレーナーからボディ・ケア、つまりスポーツ・マッサージを受ける。
右足を折ったまま、ほぼ毎日、全国へ出張して、講演や、大学の授業、テレビ出演を続けているから、左足の負担がだんだん深刻になっていて、左膝と左腰に痛みが出始めている。
両足の膝は、大学時代にアルペン競技スキーでひどく痛めて、長く入院していた。
大学に戻ってからも、それから共同通信に入社してからも、たとえば駅のホームで電車を待っていると、両膝が、内側ではなく外側へ曲がってしまうなんてあり得ないはずなのに、そんな感じに膝が崩れ、ホームから落ちそうになって冷や汗をかいたり、後遺症にずっと苦しんだ。
それを、痛みは痛みとしてそのまま耐えながら足の筋力を鍛えて、克服した。
医師には、後遺症は一生涯、残るのじゃないかと言われながら、膝を守るのではなく、足全体を鍛え直すことで、克服した。
ほんとうに丈夫な膝に戻り、痛みも完全に消えていた。
ところが、その克服した痛みが、左膝に復活してしまっている。
記憶の底にしまっていた、あの痛みが、左膝を襲い始めている。
うわわ。
スポーツ・マッサージを受けているうちに、そのマッサージ技術が優れているだけに、せっかく克服した膝の問題が、思わぬ骨折と、骨折を押した出張の連続のために、再び現れてしまっていることに、はっきり気づいた。
それも、ショックだった。
そして膝だけではなく、腰も、足首も、松葉杖を支える手首や、手の指の付け根も、すべて痛んでいることが、よく分かって、これも多少はショックかな。
▼スポーツ・マッサージのあと、優秀なトレーナーが工夫して作ってくれた特別メニューで、トレーニングに入る。
アルペン競技スキーは、怪我の多いスポーツだ。
その、ささやかな経験からしても、骨折して、消極的な守りに入ったら、おしまいだ。
守りに入らず、ギブスをしたままでも合理的な筋力トレーニングをおこなうことが、ほんとうの回復につながる。
これは、どんなスポーツでも、スポーツをやるのが好きなひとなら常識の話で、別にぼくが特に頑張っているのでは、ありませぬ。
(写真は、そのトレーナーが、ぼくの携帯電話で撮ってくれました。
骨折した足に力が入らないように、足首で交差して上に挙げてしまい、そのうえで、バーベルを挙げています)
バーベルを挙げ、ダンベルを上げて下ろし、マシンを使って背筋に負荷をかけ、ボールを使って腹筋を鍛え、そして骨折した右足も、ゴムベルトで縛ったうえで最低限度の負荷をかけて、折れた部分が繋がったときに早く力を取り戻すように、しておく。
つらいメニューを、どうにか最後までやり遂げて、バスルームへ。
右足をビニール袋でくるんで、サーカスのように上げたまま、髪も身体も洗い、浴槽にもつかり、冷水にも入り、そのうちに、ショックは和(やわ)らいでいった。
元には戻らない、と言われたことは、まだ頭の中にあるし、左の膝に、忘れていたはずの痛みはある。
骨折した右足は、痛みだけじゃなく、まだ腫れもあまり引かない。
それでもね、おのれを信じるだけだ。
回復にいちばん必要な、栄養の確保が、今のぼくには、ままならないのが気にはなるけど、全治3か月じゃなく、もうすこし早く治したいな。
明日は、早朝から和歌山へ出張だ。
昨日は、広島で講演して、エネルギー業界のかたが中心の聴衆のなかを、片足ケンケンで回りながら、一緒に祖国のことを考え、最後には、時間を延長していただいて、硫黄島のことを語り、一杯の水を捧げてくださるようお願いした。
世代を超え、性別を超え、立場を超え、真剣に聞いてくれるひとが多いのが、ぼくの救いです。
※この「その後の松葉マン」は、あくまで番外編です。
この『骨折りの日々』は、時系列できちんと書き残してみたい。
だから、「その後の松葉マン 2」を、別途いずれ書き込みます。