Our World Time

その後の松葉マン  番外編

2007年10月13日 | Weblog



▼2007年10月12日金曜、数えてみると、今日で骨折から、もう25日目だ。
 病院では「全治3か月」、つまり90日ほどかかると言われているのだから、まだ歩くことができなくても、そりゃ当然なのかもしれない。

 ただね、今日はいくらかショックな日ではあった。


▼朝、いつものように秘書さんの助けを借りて、自宅から病院へ向かう準備をする。
 独研の秘書室が予約してくれていたタクシーが、「病院がナビにない」と言って、ぐるぐる回ってメーターもどんどん回したあげくに病院の前にたどり着けず、やや離れたところで降りるしかない。
 いつも同じタクシー会社に頼んでいるのだけどね。
 見るからにベテランの運転手さんなのだが、ナビに依存しきっていて、とてもプロの仕事とは言えない。

 このごろの日本に多い「職業人」です。
 ちょっと哀しいことに、もう、慣れた。

 病院へ、松葉杖を懸命に漕いで近づいていくと、まるで蹴るかのように正面からぶつかってくる中年男性や、邪魔者を見るように、あるいは、社会の異物をみるように、じろじろと全身をしつこく眺める、やはり中年男性たちや、こちらの様子はまったく意に介さず自転車のスピードをあげて向かってくる女性とか、歩道は、いつものように、そういう人々で満ちている。

 これも、もっと哀しいことに、もう慣れた。

 病院のあるビルに入り、背広を着たお年寄りの男性に目礼しつつ、エレベーターに乗ろうとする。
 背広の紳士のお年寄りは、高齢者には優先権があるだろうが、というような雰囲気で、驚いたことに松葉杖を手で払いのけるようにしつつ、すたすたと先にお乗りになる。
 たとえば農村では、まずないのだろうけど、これが東京という都市の光景です。

 ちょっと一瞬だけ驚いたけど、実は、もうこれも、慣れた。
 松葉杖を払いのけなくてもいいだろうけど、高齢者は確かに優先されなきゃいけないとも、思うし。


▼自宅から病院へ入るまでの、こうしたことは、骨折して松葉杖と車椅子の男になってから日々、味わっていることで、今さら、もうショックではありません。


▼ショックだったのは、病院で療法士さんが「ほんとうは、とても難しい場所を骨折しているので、元には戻らないと思います。最悪の場合は、結局は手術になるかもしれませんね」と言ったこと。

 ちょっとだけどね、言われたときは、確かにちいさなショックがあった。

 折れたのは、右足の小指から甲の下へ伸びている骨だ。
 ドクターと療法士さんの言われたことを合わせると、「小指につながる細い骨だから、いざとなると大きく折れやすい」、「青山さんは骨折から1日を置いて、治療にやってきたこともあって、折れた部分がかなり離れてしまっていて、しかも一方の部分が、足の裏のほうへ下がってしまっている」、「それがうまく、くっつくかどうかは分からない」…ということらしい。

 療法士さんは、今日も、いったんギプスを外し、足の裏から骨折部分をじんわりと、しかし強く押さえながら、折れた部分の位置を修正しようと努め、甲の上からも同じように押さえながら、なんとか修正しようと努めてくれる。

 療法士さんは「痛みますか?大丈夫ですか?」と聞いてくれる。
 大丈夫です、と答えながら、ほんとうは息が止まるほど、吐き気がするほど、痛い。
 ふだんは決して感じることのない種類の、なんとも言えない痛みだ。
 これが拷問の痛みなのかなぁ、というやつ。

 しかし、この痛さを口にして、療法士さんが手を緩めると、ぼくの骨はますます、うまく繋がらないかもしれないから、「大丈夫です」としか答えない。
 ギプスが再び嵌(は)められる頃には、治療の痛みはまぁ、一応は忘れている。
 ふひ。


▼病院のあと、独立総合研究所(独研)の業務で、沖縄への出張について、ちょっと調整に悩んだりしながら、会員制の「東京コンフィデンシャル・レポート」の執筆を急ぐ。
 ここ数日間、ずっと書いていて、まだ完成しない第348号を、ようやく仕上げて、独研の総務部から全会員へ、配信する。
 やれやれ。

 レポートが終わると、ジムへ急ぐ。
 今週末もまた出張で、週1回、日曜ごとに、どうにか通い続けてきたジムへ行くことができないから、今日の金曜日に行っておきたい。

 ジムでは、まず信頼するトレーナーからボディ・ケア、つまりスポーツ・マッサージを受ける。
 右足を折ったまま、ほぼ毎日、全国へ出張して、講演や、大学の授業、テレビ出演を続けているから、左足の負担がだんだん深刻になっていて、左膝と左腰に痛みが出始めている。

 両足の膝は、大学時代にアルペン競技スキーでひどく痛めて、長く入院していた。
 大学に戻ってからも、それから共同通信に入社してからも、たとえば駅のホームで電車を待っていると、両膝が、内側ではなく外側へ曲がってしまうなんてあり得ないはずなのに、そんな感じに膝が崩れ、ホームから落ちそうになって冷や汗をかいたり、後遺症にずっと苦しんだ。

 それを、痛みは痛みとしてそのまま耐えながら足の筋力を鍛えて、克服した。
 医師には、後遺症は一生涯、残るのじゃないかと言われながら、膝を守るのではなく、足全体を鍛え直すことで、克服した。
 ほんとうに丈夫な膝に戻り、痛みも完全に消えていた。

 ところが、その克服した痛みが、左膝に復活してしまっている。
 記憶の底にしまっていた、あの痛みが、左膝を襲い始めている。
 うわわ。

 スポーツ・マッサージを受けているうちに、そのマッサージ技術が優れているだけに、せっかく克服した膝の問題が、思わぬ骨折と、骨折を押した出張の連続のために、再び現れてしまっていることに、はっきり気づいた。

 それも、ショックだった。

 そして膝だけではなく、腰も、足首も、松葉杖を支える手首や、手の指の付け根も、すべて痛んでいることが、よく分かって、これも多少はショックかな。


▼スポーツ・マッサージのあと、優秀なトレーナーが工夫して作ってくれた特別メニューで、トレーニングに入る。

 アルペン競技スキーは、怪我の多いスポーツだ。
 その、ささやかな経験からしても、骨折して、消極的な守りに入ったら、おしまいだ。
 守りに入らず、ギブスをしたままでも合理的な筋力トレーニングをおこなうことが、ほんとうの回復につながる。
 これは、どんなスポーツでも、スポーツをやるのが好きなひとなら常識の話で、別にぼくが特に頑張っているのでは、ありませぬ。


(写真は、そのトレーナーが、ぼくの携帯電話で撮ってくれました。
 骨折した足に力が入らないように、足首で交差して上に挙げてしまい、そのうえで、バーベルを挙げています)


 バーベルを挙げ、ダンベルを上げて下ろし、マシンを使って背筋に負荷をかけ、ボールを使って腹筋を鍛え、そして骨折した右足も、ゴムベルトで縛ったうえで最低限度の負荷をかけて、折れた部分が繋がったときに早く力を取り戻すように、しておく。

 つらいメニューを、どうにか最後までやり遂げて、バスルームへ。
 右足をビニール袋でくるんで、サーカスのように上げたまま、髪も身体も洗い、浴槽にもつかり、冷水にも入り、そのうちに、ショックは和(やわ)らいでいった。

 元には戻らない、と言われたことは、まだ頭の中にあるし、左の膝に、忘れていたはずの痛みはある。
 骨折した右足は、痛みだけじゃなく、まだ腫れもあまり引かない。

 それでもね、おのれを信じるだけだ。
 回復にいちばん必要な、栄養の確保が、今のぼくには、ままならないのが気にはなるけど、全治3か月じゃなく、もうすこし早く治したいな。

 明日は、早朝から和歌山へ出張だ。
 昨日は、広島で講演して、エネルギー業界のかたが中心の聴衆のなかを、片足ケンケンで回りながら、一緒に祖国のことを考え、最後には、時間を延長していただいて、硫黄島のことを語り、一杯の水を捧げてくださるようお願いした。
 世代を超え、性別を超え、立場を超え、真剣に聞いてくれるひとが多いのが、ぼくの救いです。





※この「その後の松葉マン」は、あくまで番外編です。
 この『骨折りの日々』は、時系列できちんと書き残してみたい。
 だから、「その後の松葉マン 2」を、別途いずれ書き込みます。




テレビ番組のなかの『時間』と『礼節』  その限りなき難しさ

2007年10月07日 | Weblog



▼10月7日・日曜の朝、フジテレビ「報道2001」の後半に生出演した。
 高村外相と、韓国の与野党の議員ふたりを国際中継でつないで議論し、そこに、ぼくも加わる形だった。

 時間がほとんどなくなった頃に、韓国の野党ハンナラ党の議員が「拉致問題にこだわるなら日本は孤立する」と発言した。
 あっ、これはいけない、と発言しようとしたが、その部分では、ぼくの発言時間はなかった。

 黒岩キャスターが、次の部分、すなわちテロ特措法がテーマになる部分の時間を確保しようと苦労していることが、よーく伝わってきていたし、CM入りを押しのけて、無理に発言することが、どうしてもできなかった。

 CMのあいだに、「拉致にこだわって日本が孤立するというのは違うと、できれば、言いたいんです。CMが明けて、次のテーマに入るときの冒頭か、あるいは、それが終わってから発言できませんか」と黒岩キャスターに聞いてみたが、黒岩さんは「申し訳ない。もう違う話題ですから」という答えだった。

 番組をコントロールするメイン・キャスターとして、これは、まさしくやむを得ないと思う。
 問題は、ぼくが、時間がないなら、ないで、韓国の議員の発言の途中に被せるように言うべきだったか、そうではないかに、ある。


▼テレビ番組に関わるとき、いつも「時間がないなかで、どう、視聴者に伝えるべきを伝えるか」という課題と、「ほかの出演者に対する礼節を、どう確保するか」という課題がある。

 今回の場面では、キャスターの様子から「このコーナーでは、諸事情によって、もう青山さんに振る時間はなくなってしまった」という感じはしっかり受け止めていたから、韓国の議員への礼節を犠牲にしてでも、「いや、それは違う」と被せて言うべきだったのではないか、問題が、拉致被害者のかたがたに関わることだったのだから、ということを今、考え込んでいる。

 正直、この番組が、秩序ある報道番組ではなく、たとえば「怒鳴りあいはお互いさま」が暗黙の了解事項のTVタックルだったら、間違いなく被せて発言していた。
 それから、相手が国際中継で繋いだ外国の議員でなく、日本の国会議員であれば、被せていただろう。
 外国の議員に対して、礼節をあくまでも重んじるのは、国民のひとりとして日本国の名誉を守ることに直結している。簡単には、礼節の規(のり)を、超えられない。


▼CMのあいだに、ぼくが「発言できませんか」と黒岩キャスターに打診しているとき、高村外相が「わたしがちゃんと、包括的解決こそが大事だと発言したから、いいんじゃないか」という趣旨を、ざっくばらんに言ってくれた。

 それは、その通りだと思う。
 高村さんは、表向きは非常に慎重な物の言い方をしながら、その実、けっこう強硬なことも言う。
 今朝の報道2001でも、どちらかと言えば、そうだったと思う。

 番組自体、あくまでも中心は、『日本の現職の外相と、韓国の与野党の有力議員との直接的な議論』にあったと思うから、高村さんの発言で良しとする考え方もあるだろう。

 ただ、番組の視聴者にとっては、そして何より拉致被害者や、拉致被害者の家族のかたがたにとって、やはり「拉致にこだわると日本は孤立する」という韓国の国会議員に対する明確な反論は、必要だったと思う。
 また、現職の外相にそのようなストレートな物言いを期待するのは、国際社会の外交の常識と、やや違う。

 だから、やはり、ぼくに「それは違う」と被せて発言する、いわば義務はあったと思う。
 これを書きながら、考えていて、そう思った。

 テレビの生放送は、時間がなくなれば切れてしまうのだから、時間を無視することはやっぱりできない。
 しかし礼節については、大目標のために、犠牲にすべき時はあるようだ。
 それを、ぼくはあらためて謙虚に学ばねばいけないと思う。

 ちょっと待ってくれ、それは嘘だと、叫べなかったのは、無念です。
 拉致被害者のかたがた、家族会のかたがた、視聴者のみなさん、こころから申し訳ない。

 礼節こそ、人間が人間として生きるすべてだと、幼いころから、父母に教わり教わりして育った。
 それをテレビの世界では曲げねばならないことも、また、ぼくにとっては無念だけど、みずからの意志でテレビに、ほんの少しだけではあっても関わっている以上は、曲げねばならない場面もある。
 それを今朝、学びました。


▼それから、「拉致にこだわると日本は孤立する」と強調したのが、韓国の与党議員よりも、むしろ野党ハンナラ党の議員だったことも、印象的だった。

 際限のない太陽政策をとっている与党のなかに、むしろ冷静な意見があり、太陽政策を(一定の範囲内ではあっても、それなりに)批判しているはずの野党のなかに、自国の拉致被害者をも忘れたかのような極論がある。

 12月の大統領選挙では、今のところはハンナラ党がやや優勢かと、いわれている。
 もしもハンナラ党が勝利した場合、新大統領が朴槿恵(パククネ)さんならば、親北路線の修正はある程度は、期待できた。しかし、朴さんはすでに党内の大統領候補選びに敗れた
 大統領候補となった李明博(イ・ミョンバク)さんは、ほんとうは非常に深い部分で親北であり、北と利害関係もあるという情報はある。
 それが実感されるような、あるいはその情報を立証するような、ハンナラ党議員の発言だった。(報道2001に出演した、この議員は、李明博さんの有力ブレーンとして知られている)

 それも、あらためて学ぶことができた。


▼スタジオですれ違った三宅久之さんが、ぼくの右足のギブスを見ながら、「おお、青山さん。あなたの重体説をハマコーさんが言ってたよ」とおっしゃった。

 はは。

 ぼくの骨折がテロによるものだという説も、案外に広く、流れていたりするけれど、この地味ブログに来てくれる人ならご存じの通り、テロなどではなく、ただぼくが勝手に転んだだけ、ぼくが悪いだけの話です。

 いろんなひとに、迷惑や心配をかけて、申し訳なく思っています。
 怪我をしてから、あすの月曜で2週間、松葉杖と車いすで、北海道は帯広から、九州は阿蘇・熊本まで講演に回りつつ、五体満足なときには学べなかったことを、たくさん学びました。

 それはまた、「その後の松葉マン 2」として書き込みます。
 ぼく自身にとっても、おそらくは二度とない(二度あっては困る)、貴重な体験の日々ですから。


▼そして、あらためて、今朝の番組のこと。

 同じ拉致被害者を、日本よりもたくさん抱えたままの隣国がこうであることを学び、そうしたなかで、最後のひとりまで、わたしたちの同胞(はらから)を取り戻すのは、おのれなりの原則、たとえば礼節にしても、かなぐり捨てねばならない闘いであることを、あのCMに入ってしまった一瞬から、学びました。

 拉致被害者と、被害者の家族のかたがたと、視聴者にもう一度、ぼくの役割を果たせなかったことにお詫びをし、これからのさらなる努力を、ぼくの立場や考えに賛成のひとだけはなく反対のひとに対しても、誓います。




その後の松葉マン 1

2007年10月01日 | Weblog



▼いま、9月29日土曜の朝8時55分。
 羽田から、北海道は帯広に向かう機中にいる。
 十勝平野を目指す機内は、満席だ。

 足を骨折してから、きょうで6日目、まだたったの6日しか経っていないのかと正直、がっかりする。
 精も魂も、尽き果てた。
 ほとんどの予定を予定通りに遂行しているのだけど、移動に次ぐ移動の日々を松葉杖でこなすには、ふだんの倍ではきかないほど体力を消耗する。
 身体上の困難だけじゃなく、心の体力も意外なほどに費やす。
 ふだんの日程そのものが、おのれ自身でもたまに『凄絶なスケジュールだなぁ』と思うのだから、いくら体力があっても、こりゃ、もたないや。

 その胸の内は内として、たとえばきょうの帯広の催しでも、沢山のひとが努力に努力を重ねて準備し、沢山のひとが待っていることを思えば、この先も、予定は変えずに、こなしていく。

▼10月2日の火曜は、ほんらいは近畿大学経済学部の第3週の講義だけれど、近大の客員教授に就任する前から決まっていた講演が都内であるから、休講になる。
 骨折した翌日の9月25日火曜に、病院で、第2週目の講義を休講にするかどうか悩んだときには、ぼくの頭からも秘書の頭からも、この3週目のことが抜け落ちていた。

 9月25日は、学生たちの志気に関わるからと考えて、いちばん痛む時期だったけど、それを押して大阪へ行き、2週目の授業をやっておいて良かったと今、こころから思う。
 休講の誘惑に負けていれば、開講から早くも2週目と3週目が連続で休講になってしまって、ほんとうに学生たちの志気に影響するところだった。

▼飛行機の窓の外は、夏と秋が入り交じるように、ぽっかり雲と筋雲がともに浮かんでいる。
 どんな雲でもいい、あんなふうに、もう浮かんでいたいな。ちらりとは、そう思う。
 ほんの、ちらり。


▼雲をみながら、あらためて、怪我をした9月24日の未明3時ごろを、すこし考えた。
 自宅から、広い道路一本を挟んだ仕事部屋へ、移ろうとしていた。
 東京は、異様な残暑で夜もまだ暑く、Tシャツ一枚にサンダルだった。

 ところが、長い横断歩道を渡っている最中に突然、全身が寒さでがたがたと、ほんとうに音を立てるかのように震えだした。
 このごろ、たまに、ある。
 突然、体温が急激に下がり、周りの状況と関係なく、凍えそうになる。
 きっと疲労のせいなのだろう。

 とにかく凍えてしまうから、急いで走り出した。
 ふだんは脚力が、ぼくの体力を支えている。
 しかし、なんとも妙な走り方になった。小刻みのような、慌てたような。
 そして道路の中間分離帯を越えるとき、段差に足を取られた。
 最初に右足が、ひねられながら段差の下に落ちて、鋭く痛んで、それを戻そうとして今度は、左足もひねり、両足の痛みに耐えながらそのまま分離帯を越えて、向かい側の歩道に着いたとき、両手を突いて倒れ込んだ。

 この9月24日月曜は祝日で、幸いにして講演のように絶対に変えられない予定は入っていなかった。
 ほかの、ずらすことのできる予定はすべてずらせて、終日、自宅で原稿を書きながら、冷蔵庫で氷をつくっては冷やし、つくっては冷やしを続けた。
 最初は、両足を下に降ろすだけで、特に右足の痛みが激しく増して、原稿を書く根気を維持するのも、なかなかに困難だったけど、足がコチコチに冷えていくにしたがって、原稿は書けるようになった。

 ところが、夜中になって、氷を代えるときに見ると、右足のすべての指、甲、足首まで、ぱんぱんに腫れあがっている。
 それに痛みも、氷がちょっと解けだすと、うわぁーっという感じで襲ってくる。

 これは調べなきゃと、覚悟を決めて、右足の痛い部位を指で押していくと、まさしく凹むところがある。
 こりゃ折れているなぁと、そのとき初めて思った。

 ひとは得意分野で失敗をする。
 ぼくも、いちばん自信のある足で、こうやって失敗した。
 ただただ自分が悪いだけだから、どんな予定にも影響はさせたくない。影響が避けられないにしても、最小限にしたい、そう、心に決めています。