Our World Time

たいせつな急告、ふたつ (前半)

2009年03月23日 | Weblog



▼みなさん、ぼくは今、岐阜は長良川のほとりでおこなわれた「国益を考える講演会」を終えて、宿泊先の部屋にいます。
 3月22日の日曜、夜の10時すぎです。

 ぼくが講演会場に着いたのが午後3時すぎ。
 元公安調査庁・調査第2部長の菅沼光弘さんが講演なさっている最中でした。そのあと元陸上自衛隊北部方面総監の志方俊之さんの講演へと続き、ぼくは控え室で、じっと考えていました。
 きょうの講演会には、ひとつ大きな悩みがあったからです。

 それは講演時間の短さです。
 ぼくの講演は、どんなに短くても1時間半、ふつうは2時間強、長いと4時間ですが、それでも講演のあとから「もっと時間が欲しかった」というEメールや手紙が、聴衆のかたがたから届きます。
 ぼくの話しぶりは下手くそですが、根っこをみんなと一緒に考えるために、政治、経済、外交、安全保障、社会、文化、教育、歴史といったことを包括的にお話ししようとするので、どうしてもある程度の時間は必要になるのです。

 ところが、きょうは50分しかありません。
 もちろん、その設定が悪いというのではありません。
 この講演会は、敗戦後の日本で初めて「国益」という国際社会の常識に真正面から向かいあうために、ボランティアの手で開かれる講演会です。
 初めての試みですから、たとえば時間に制約があったりするのは、当然のことです。

 そしてきょうは、ぼくのあとに前航空幕僚長の田母神俊雄さんの講演が予定されていて、みんな、それを楽しみにしておられるでしょうから、講演時間の延長もできるだけ避けたかった。
 じゃ、わずか50分間で、どうやって伝えるべきを伝えるのか。
 ほんとうに悩んで、2時間近くを過ごしました。

 あとで、ただ考えていないで、ほかの原稿を書きながら時間を生かせばよかったと反省しましたが、半面で、講演への集中力をぐっと高めていくためには、やむを得なかったとも思います。

 そのぼくの講演が始まったのが、午後5時。
 前のお二人もすこし延長なさったので、予定より時間が押して、始まりました。

 そして、ぼくもどうしても50分では終わりきらずに、舞台の袖に控えていらっしゃる田母神さんに手を合わせて許しをいただきつつ、そして主催者と聴衆にお詫びしつつ、15分ほどだけ延長し、講演をとにかく終えたら、自分でも驚くぐらいに全身が汗びっしょりでした。
 長良川で軽く泳いできたみたい、と言っても、誇張のようで誇張じゃないほどに汗でずぶ濡れです。
 このボランティアの手による講演会には、北海道から沖縄まで、さらに海外からも聴衆が集まり、会場には、中学生らしい姿から、ずいぶんと高齢のかたまで、ほんとうに世代を超えてさまざまなかたが真剣そのものの表情で集まっていました。
 正直、これが奮闘せずにいられるか、という気持ちでした。

 講演会は、どんな講演会でも実はそうです。全身全霊で、臨みます。
 聞きに来られたかたがたは、それぞれの二度とない一度切りの人生の時間を切り取って、ぼくの拙い話を聴こうとされているからです。

 それでもこれほどまでに汗みずくになるのは、すこし久しぶりかもしれません。

 そして講演が終わってすぐ、拙著のサイン会に並ばれているかたがたのところへ行き、まず名前をお聞きして、サインをいたし、固く握手をし、落款を押すときに、ぼくなりに懸命に、そのかたとのご縁が祖国のためになりますように、お名前を小さく呼びながら、気を込めます。

 その気を込める動作で、骨折中の腰の痛みがあまりに烈しくなり、いったん、控え室でうつ伏せになって短時間ながら腰を伸ばし、ふたたびサイン会に戻り、さらに長くなった列で辛抱強く待ってくださっていたかたがたにサインと握手をいたし、落款を押しつつ気を贈らせていただきました。

 主催者から、「懇親会の時間となりましたからサインを打ち切ってください」と声が掛かり、しかし、まさか列をそのままにはできませんから、サインは後日にお送りすることにしてそれぞれの住所を書いていただき、握手は、郵便で送れませんから、その場で全員のひとりづつと交わし、そして懇親会へ。

 懇親会では、懐かしいひととも会いました。
 ぼくが共同通信の政治部で防衛担当記者だったとき、防衛庁長官付の副官だった航空自衛官が、いまや将補(正しい国際基準では少将)となり航空自衛隊岐阜基地の基地司令となられていました。
 これは、うれしい。
 防衛記者時代に親しくつきあった多くの自衛官のなかでも、将軍にまで昇進したひとは数少ない。日本社会では知られていないけれども、自衛官の世界も厳しい世界です。

 おたがいに思わず大声をあげて再会の握手を交わし、そしてその基地司令がマイクの前で、みなさんへなされた挨拶が素晴らしかった。
 意を決して、きちんと踏み込んで、祖国のあり方の根幹にまで届く話をされた。

 基地司令は触れなかったけれど、北朝鮮が4月に弾道ミサイルを撃つのに備えて、岐阜基地の地対空ミサイル・パトリオットPAC3は、迎撃態勢を整えつつある。
 その静かな決意も、しっかり伝わってきました。

 そのあと懇親会では、次々にぼくの席までおみえになる参加者のかたがたと、握手し、写真におさまり、会話し、質問を受け、またサインもいたして、すべてが終わると、夜の10時になっていました。
 講演会場に着いてから、ざっと7時間ですね。

 ふだんなら、7時間でも10時間でも、なんということもありませんが、ほんとのところ今、骨折中の腰がけっこうな状態になっています。
 しかし、みなさんに急ぎ、読んでもらいたい知らせが、ふたつあります。
 そこで時折は、うつ伏せになって腰を伸ばしつつ、この書き込みを朝までには書き上げたいと思います。


▼まず、ぼくの新刊「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」(PHP出版)についてです。
 アマゾンですでに予約をくださったかたがたに、アマゾンから「発売中止」というEメールが突然、届いたとのことです。

 結論から、まず申しますと、これは事実無根です。
 アマゾンにアップされた発売予定日が、何度も繰り延べされたのは事実であり、なにより予約されたかたがたを長くお待たせし、気を揉ませもしたことに深く、深くお詫びします。
 同時に、アマゾンの関係者にもお詫びします。
 PHP出版にもお詫びします。

 しかし、発売中止はあくまで事実無根です。
 PHP出版から「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」が発売される予定は、いささかも変わっていません。揺らいでいません。

 上に掲げているのは、PHP出版が手配してくれた敏腕の表紙デザイナーの手になる、見事な表紙案です。
 まだ原案ですから、細部は変わるかもしれませんが、おおむねはこの表紙です。
 このデザインを基調にした表紙をもつ新刊が、必ず出版されることには、なんの変わりもありません。


▼さて、ぼくは、おのれの本を予約はしませんから、アマゾンから発信された実物のEメールを見ることができませんが、知らせてくださったかたによれば以下の文面だったということです。

『Amazon.co.jpからのお知らせ
いつもAmazon.co.jpをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。 お客様よりご注文いただきました以下の商品につきましてお知らせがございます。
「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」
担当部署での調査の結果、こちらの商品は発売中止となったことがわかりました。そのため誠に勝手ながら、こちらの商品はご注文からキャンセルさせていただきましたことをご了承ください』

 これは、ぼくにとっても寝耳に水でした。
 版元のPHP出版は、なにも変わらずに、ぼくの原稿を待ち続けていてくれています。

 ぼく自身も、むしろ腰を据えて、金融危機に端を発した世界同時不況のゆくえと、発足したばかりのオバマ政権のすくなくとも初期段階のほんとうの姿を、じっくりと見極めて、かつ、それに伴う中国や北朝鮮の新しい動きをよく把握し、そして150年ぶりの転換点にある日本の内外政について、主権者のひとりとして責任をもって提言をできるように熟成し、それをもとに、すでにPHPにいったん出してある300枚を超える原稿を改訂する作業を暮夜、あるいは未明に進めていました。

 読者のかたに、こうしたEメールが届いたことを最初に知ったのは、3月18日水曜日に関西テレビの報道番組「アンカー」に参加(生出演)して、帰京する直前の空港でした。
 モバイルパソコンを開いてみると、読者のかたから、心配の気持ちいっぱいの問い合わせが発信されていたのです。

 すぐにその場で、PHP出版の担当編集者のかたに、問い合わせるEメールを打ち、帰京して、仕事をしながらEメールを待つのですが、返信が届きません。 
 正直に申して、すこしだけですが、不安になりました。

 もっと正直に言うと、読者や、世話をかけっぱなしの編集者のことに加えて、おのれがすでに書いた300枚を超える原稿の運命も、頭に浮かびました。
『ほかの出版社に持ち込んでも、きっと出版してくれる。いや、そんな信義違反は決してできない。信義違反はやらない。もう表紙のデザインも基本的に作ってもらっている。もしも、ほんとうにPHP出版が出版中止を決めたのならば、このまま、あの大量の原稿を捨てるほかないのだ。しかし、それにしても変だ。300枚の原稿を預けているぼくに、なんの話もなく、出版をいきなり中止するだろうか』という考えが、脳味噌のなかを、かなりの猛速で走りました。

 こうなれば返信メールを待っている場合じゃない、直接、聞こう。
 そう思って、担当編集者(女性の若手編集者)に電話をかけたその瞬間、パソコンに返信メールが入りました。
 思わず、電話を切って、そのメールを読むと「アマゾンの都合で、これ以上、発売予定日の変更ができないから、いったんアップを中断するだけで、出版の予定になにも変わりはありません。最終的な出版日が決まれば、またアマゾンにも、ほかのネット書店などにもアップします。ご心配なく」という趣旨でした。
(個人から個人へのアドレスに送られたEメールなので、文章をそのまま引用はできません。あくまで趣旨としては、こういうことです)

 読んですぐ、電話をかけ直すと、いつもと変わらない明るい声で女性編集者が出て、「あくまでもアマゾンさんのご都合です。出版することになにも変わりはありません。原稿の最終完成をお待ちしていますよ」という趣旨で話してくれました。

 ぼくは彼女に、あらためて世話をかけすぎていることをお詫びし、そして感謝しました。
 そして、ここで、アマゾンに予約してくれた全ての読者、予約はしていないけど期待や関心を持っていてくださる全てのかたに、もう一度、深くお詫びし、感謝を申します。
 それから、アマゾンと、ほかの全てのネット書店などの関係者に、お詫びします。


▼実は、このところのぼくの胸にずっとあるのは、かつて、長いつきあいの知人との会話です。
 独自の理念を持ってベンチャー企業を経営している彼に、ぼくは尋ねました。

「ぼくの本をもっと出せという声が、前よりずっと強くなっています。今のほかの仕事をそのまま続けながらも、もっと本を量産しようと思えば、できなくはない。著名人のなかには、ゴーストライターに実際は書いてもらっている人もいるけど、ぼくはそんなことはまさか、死んでもやらない。そうじゃなくて、口述筆記の手配を出版社に頼んで自分でしゃべり、その起こし原稿に手を入れることは最小限にして、ほぼそのまま出版したり、あるいは講演録に最小限の手を入れるだけで出版したり、それ以外にも、とにかく、今ほど文章にこだわるのをやめて、たとえば、句読点をどこに打つかだけで一夜が明けてしまったりすることをやめて、、これは文学じゃなくてノンフィクションなんだから事実そのものが大事だと自分に言い聞かせ、文章のある程度のアラには目をつぶって、出版するという手もあります。そうやって、ノンフィクションではなくフィクション、純文学を書く時間も作って、そのときには、もちろん文章にも徹底的にこだわる、というやり方もあります。どう思いますか」

 彼は、じっとぼくの顔をみて、ちょっと驚くぐらい長考して、こう答えました。
「オレも、青山ちゃんの本をたくさん読みたいからね。そうそう、そのように、やり方を変えてくれと、今、言おうかと思ったよ。しかし、やめた。あんたは、今の通りのやり方で行け。出す本が遅くなっても、なにがなんでも、あんたが納得できるまで磨いて磨いて磨き抜いてから、本を出したほうがいいと思う」

 だからといって、本の出版が遅れる言い訳にはなりません。
 しかし、遅れたことにも、遅れたなりの意味はあります。
 その意味が、おのれのことにとどまるのではなくて、貴重な自腹を切って本を買ってくれて、もっと貴重な、ただ一度の人生の時間を使って、その本を読んでくれる全てのひとにとっての意味、意義になるように、そこには揺るぎない決意を込めて、この「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」も完成を目指します。


(後半に続く)

たいせつな急告、ふたつ (後半)

2009年03月23日 | Weblog
(※上は、新刊の表紙デザイン原案の、全体です。裏表紙まで含めると、こんな感じです)


(承前)

▼さぁ、もうひとつの急告は、今度の水曜日、あさっての3月25日に放送する関西テレビの報道番組「アンカー」の「青山のニュースDEズバリ」のコーナーについてです。

 ぼくはその日、腰椎横突起(ようつい・おうとっき)という腰の骨5本の骨折にともなうコルセット作りを、病院で行うために、生放送のスタジオには出向けません。
 病院は、独研(独立総合研究所)の本社から至近距離の病院で、ドクターに信頼がおけて、しかも待ち時間が一定の範囲内におさまりそうな病院でなければ、ぼくの仕事の現状からして通院ができないので、つまりは、特定のひとつの病院しかありません。
 その病院のコルセットやギプスを作る技師は、毎週水曜にしか来ないのです。

 そのために3月25日水曜のスタジオには行けないのですが、できれば、なるべく多くの人に視ていただきたいのです。

 こんなお願いは、ふだんは決してしません。
 ぼくはビジネスでテレビに顔を出しているのではないので、できれば宣伝めいたことはしないようにしています。
 これまで、同じ関西テレビの土曜日の情報番組「ぶったま」に、チベットのひとびとと連帯する大樹玄承師(書写山圓教寺)をお迎えするときにだけ、こうやって事前に「みなさん、みてください」とお願いしました。
 そのとき、ほんとうに沢山のかたが視てくださり、大樹師の番組参加をほかの報道番組に断られたあとでもありましたから、たいへんにうれしく思いました。
 あらためてお礼を申します。

 そして、今回も、同じようにできれば視てくださいと、お願いします。
 それは、なぜか。

 この個人ブログで前にすこし触れましたが、硫黄島で、わたしたちのためだけに戦って亡くなった先達を閉じ込めたままの滑走路を引き剥がして、遺骨を取り戻すことを、この麻生政権下の防衛省と厚労省が決めました。
 それをめぐるロケーションの映像を、放送します。

 まず一つのロケーションは、3月1日の日曜に、硫黄島の戦いを率いた栗林忠道・帝国陸軍中将のお墓のある菩提寺(ぼだいじ)で、おこなわれました。
 長野県は松代町の、明徳寺です。

(栗林中将は、硫黄島の戦いの最期に、大本営にあてて、有名な訣別電報を打ちました。
 それには辞世が添えられていて、「矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」の一節があります。
 その電報を受け取った大本営は、大将に昇進させました。しかし同時に大本営は、「悲しき」の言葉に、充分な弾薬もないまま玉砕せねばならない戦いの実状への批判を感じとったのか、「散るぞ口惜し」と勝手に改竄(かいざん)しました。
 今上陛下は、平成6年に硫黄島を訪ねられたとき、「島は悲しき」と詠まれました。
 栗林中将の無念と、それを真っ直ぐに受け止められた今上陛下のお気持ちを胸に刻むために、ぼくはふだん原則として、栗林忠道中将とお呼びしています。
 このことは、栗林家の現在のご当主でいらっしゃる、教育家の栗林直高さんにも、お伝えしてあります)

 3月1日の日曜、こう申せば、気づく人は気づくかもしれませんね。
 2月27日の金曜に、腰の骨を5本折ってから、まだ翌々日でした。
 出張で訪れていた長野県内で、2時間だけ空き時間があり、スキー用具をレンタルしてスキー場で滑った最後に、ジャンプ台でジャンプして墜落しました。
(テロに遭ったのじゃないかと、いまだに心配のEメールもいただきますから、この、ぼくが悪いだけの顛末などは、またあらためてアップします)

 その金曜の午後5時ごろから、うつ伏せでぴくりとも動けず、目もくらむ痛みとともに、呼吸も困難な情況に陥り、生死の境目にいるような自分を感じてから、土曜の夜明け前に、ようやく救急隊に来てもらい、病院に緊急入院しました。

 その土曜の午後には、当日の夜に面会予定だった仕事の関係者に、病院に来てもらって、うつ伏せで面談。
 そして日曜の午前に、ドクターの了解を半ば無理矢理にもらって、退院。
 スキー事故に詳しいドクターは「あのジャンプ台では過去に2ケタのスキーヤーが半身不随になっています。青山さんは、その心配はない。それだけでもたいへんな幸運だから、青山さんの思うようにやって良いかもと思いますよ」と、柔らかに微笑しつつ、言ってくれました。

 その日曜の午後3時半に、車椅子で、長野県の「栗林大将を偲ぶ会」(会の名前は、栗林大将となっています)の幹事のかたがたと、予定通り待ち合わせをしました。
 日曜に、栗林中将の墓前に、硫黄島の滑走路の引き剥がし決定を報告することになっていたからです。

 偲ぶ会のみなさんに、あまり怪我のことを言い過ぎては心配なさるので、ごく簡単に伝えて、偲ぶ会が出してくださった迎えの車に乗りました。
 栗林中将のお墓がある明徳寺までは、片道1時間半ぐらいかかります。

 その車のなかで、正直、眼の前が赤くなったり黒くなったりするほど苦しみ抜きました。
 それでも何とか無言で耐えて、車がついにお寺へ着きました。
 お寺には、偲ぶ会や、それから栗林家の現在の当主、栗林直高さんが集まってくださっていて、そのもようを広くみんなに知ってもらうために 関西テレビのロケ隊も来てくれていました。

 関テレにも、事前には何も伝えませんでした。
 伝えると必ず、「ロケを中止しましょうか」という配慮をしてくれるから。
 しかし中止などできません。
 偲ぶ会や栗林直高さんが集まってくださり、たいせつな報告を行うのですから、ぼくが勝手に起こしたスキー事故のせいで、やめることなどできません。

 車の中から、よたよたと現れたぼくを見て、関テレのスタッフは仰天し、すぐ懸命に手を貸してくれました。
 集まってくださった偲ぶ会と、栗林直高さんは、車中からの「偲ぶ会」幹事からの電話で、もう事実をご存じでした。
 ほんとうに心配そうな眼で、しかし、ぼくなりの志をしっかり理解されている眼で、ぼくを見守ってくださいました。

 車から、そろりそろりと、長い時間をかけて墓に近づきました。
 しかし、墓はすこし高くなっていて、どう痛みをこらえても、上がれません。
 そこで跪(ひざまづ)き、栗林中将に、このような姿で現れたことへのお詫びを申しあげ、それから滑走路の引き剥がし決定を報告させていただきました。

 そのあと、集まってくださったみなさんに、滑走路の引き剥がしがどのように行われ、わたしたちの先達の遺骨をどのように取り返す計画になっているかを、必死の思いでお話ししました。

 それから、偲ぶ会のみなさんと、栗橋直高さん、それから志をもって参加してくれた信越放送の生田明子アナと、予定されていた懇親会に、そのまま最後まで参加しました。
 生田アナは、昨年に明徳寺で行われた栗林中将の63回忌法要で司会をしてくださった、美しいひとです。
 生田アナは、栗林直高さんと信頼関係を築いておられて、信越放送で栗林中将を見直す放送を先駆的になさったプロフェッショナルでもあります。

 懇親会は、遺骨を取り返せるという朗報で盛りあがり、ぼくの骨折は忘れて手を握り、ぼくと抱き合うひとも、当然ながら出てきて、ぼくはなんだか胸の中で泣き笑いでした。

 そこからまた、宿泊先のホテルまで1時間半かかる車の中の地獄が、頭の中を繰り返し、よぎっていました。
 しかし、関西テレビのロケ隊クルー、ディレクターの落合さん、ADのしおちゃん、カメラマンの松田さんの心遣いで、大きめのロケバスで送ってもらえることになり、うつ伏せで移動できて、これにほんとうに救われた!
 しかも苦しい移動中ずっと、しおちゃんが優しさいっぱいで話しかけてくれて、ぼくは何とか気が紛れ、発狂せずに、宿泊先まで戻れました。

 実はここまで書いてきて、ぼくは何度も、ぼくの手帳や独研・秘書室作成の日程メモを再確認しました。
 夜明け前に救急病院に運ばれた、その当日に、うつ伏せとはいえ病室で人と面談し、その翌日には、退院して、往復3時間をかけて墓参し、懇親会にも出る。
 こんなことが、あるはずはない。
 現実とは思えなくて、何度も確認したのですが、事実です。

 ぼくの怪我の実際からすると、ふつうなら、今も入院していると思います。
 きっと、硫黄島の戦士たちへの感謝の気持ち、それだけが、奇跡のようにぼくを動かしていたのだと思います。

 それから9日後の3月10日火曜には、防衛省に出向き、増田好平防衛次官と対談して、滑走路の引き剥がしの具体的なお話を聞きました。
 これも関テレのロケ隊によって収録されています。

 滑走路の引き剥がしは、滑走路を管轄する防衛省と、遺骨収集を担う厚労省との縦割りがあり、ほんらいは増田防衛次官としては話しにくいことが山ほどあるのですが、増田さんは、ずいぶんと踏み込んで、覚悟を感じさせる話をしてくれました。
 インタビュアーのぼくは、まだまだ烈しい痛みのなかにあり、口も回らず、ひどいものでした。
 しかし増田さんはあっさり、「別にふだんと変わらないよ」と、言ってくれました。


▼この先は、まさしく3月25日放送の番組を視ていただければと思います。
 ただ、ひとつお断りしておかねばならないのは、こうしたロケの映像を、ぼく自身は全く見ていませんし、その編集がどのように行われているかも、全く関与していません。

 ぼくは番組を仕切っているのではなく、あくまでも一出演者に過ぎないからです。

 それは、ことし1月7日に放送された、3人のキーパーソンの政治家、民主党の総理候補のひとりの前原さん、麻生首相側近の鴻池さん、非麻生の立場を鮮明にしつつあった世耕さんという3人へのインタビューと同じです。

 実際に放送された編集ぶりに、ぼく自身は必ずしも得心していませんが、それは、あくまでもテレビ局の編集権に属します。
 今回の、硫黄島をめぐる放送も、どのように編集されるか事前には何も教えてもらっていません。
 ぼくとしては、みんなの高い志がありのままに伝わるように祈るばかりです。

 実は、硫黄島の放送をめぐっては、いちばん最初の硫黄島訪問、その次の栗林中将の法要、そして今回のいずれも、ディレクターの決して小さくない反対に直面しました。
 半ば以上、強引に押し切る形で、ロケや放送にこぎ着けました。

 今後も、ぼくとしては、あまりに当然ながら、この硫黄島をめぐる事実を追っていきたいと思いますが、それができるかどうかは、ただただ、沢山のかたが視てくださるかにかかっています。

 どうかお願いです。
 まさかぼくのためではなく、誰のためでもなく、硫黄島でわたしたちを護ろうと戦いきって、それなのに長く忘れられ、放置され、悪者あつかいされてきた先達のために、視てください。
 君が代に歌われているさざれ石ゆかりの長良川のほとりから、文字通りに伏して、お願いします。
 あぁ、もう夜明けです。