Our World Time

さらり、きりっと、シミュレーション

2006年03月30日 | Weblog



▼去りゆく平成17年度、その年度末まであとわずか4日になった平成18年3月28日の水曜日、大阪へ向かいました。大阪は、すこし久しぶりです。

 ぼくが社長・兼・首席研究員を、不肖ながらつとめるシンクタンクの独研(株式会社 独立総合研究所)が、平成17年度に受託した研究プロジェクトはすべて、大滝が落ちるように終了します。
『最終報告書』をひとつ残らず、仕上げて、プロジェクトの委託元の政府機関や自治体、民間企業に渡すのです。
 委託元はどこも、独研の専門能力や志、国内と海外にもつ人脈を信頼して、研究を委託してくれました。その信頼には、かならず応えねばなりません。

 それに、独研の研究プロジェクトは、政府の政策に直接、影響を及ぼすものです。
 たとえばテロリズムをはじめ現代の脅威からどうやって国民を護るかの施策を、現実に変えていきます。改めていきます。
 それから、自治体がどうやって危機に立ち向かうか、企業が危機に負けずに社会への貢献をどうやって続けるか、そうしたことについて具体的な提案をおこないます。
 だから、形だけ整った報告書を出すということは一切やりません。

 そうした仕上げに残された時間は、この水曜日の時点であと、4日。
 一方で、新しい春の4月がどんどん近づきます。
 春には、社会のあちこちで、たくさんの人が新しい試みをはじめます。
 そのなかにはテレビ局の新番組もあります。
 大阪の関西テレビがスタートさせる報道番組『ANCHOR』に、ぼくもささやかに参加します。

 このANCHOR(フルネームは、スーパーニュースアンカー)は、在阪局では初めて夕方5時から7時までを打ち抜く、力のこもった大型の報道番組です。
 新しい試みですから、「シミュレーション」が行われることになりました。

 ふつうなら「リハーサル」と呼ぶところでしょうが、関テレからの連絡は「シミュレーションをやります」でした。それが、とても自然なのです。きっと「本気印」のニュース番組だからでしょう。
 そこに意気を感じて、この年度末の狂瀾怒涛のなか、大阪へ向かうことにしました。


▼水曜日の午後、タクシーで羽田空港に向かいながら、車中では大部のプロジェクト報告書をすみずみまで点検する作業です。
 揺れる車中で細かい文字を見過ぎたのでしょう、すこし気持ち悪くもなりながら、機中でも続けます。
 ときどき、どうしようもない眠気につかまえられて、また、はっと目を覚まします。

 機が高度をどんどん下げて、伊丹空港への着陸態勢に入ったとき、突然にエンジンが唸(うな)りをあげて機首を大きく上に向け、不自然な再上昇を始めました。

 数え切れないほど、羽田から伊丹へ飛んできましたが、こんなことは初めてです。
 着陸をふいに途中でやめたこと、機長からのアナウンスがないこと、それを考えると何か緊急事態のようです。
 飛行機が好きで、いつも新幹線ではなく飛行機を利用するのですが、こんなときばかりは新幹線を使う人の気持ちが分かります。
 機は、どこにも降りられないような雰囲気を漂わせながら、迷走するように見慣れないあたりを飛び続けます。
 ふと、これで死ぬのかなぁ、と考えます。
 いつも、ぼくなりの死生観とともに生きています。
 だから、ここで生が断ち切られても、天の意志として受容します。

 それでも、すべての人と同じように、残される会社、残されるひとびとのことが頭に浮かびます。
 深く考えたわけじゃありません。窓の外から視線を外して、読みかけの新聞を読み始めました。飛行機に命を預けて乗っている立場では、じたばたしても意味がないですから。
 目を見開いて青ざめて窓の外を見つめている乗客もいます。その心のうちはよく分かります。
 エンジンが急に、唸る音を高くしたり、また急に、まるでエンジンがないみたいに静かになったり、感じようによっては不安定なようすにも思えます。
 あとになれば大げさな話にみえても、そのときはみんな、それなりに必死の思いもちらりとは、込みあげますよね。

 これは、伊丹空港の真上に雷雲がやってきて、着陸を続けると危険があるかも知れないと管制から「着陸中止」の緊急指示があったためでした。
 しかしANAの機長は、しっかりした腕を持った人でした。
 滑走路にタイヤが着く、まさしくその寸前まで、上下左右に大きく機体が揺さぶられるという厳しい条件のなか、最後には、みごとに着陸しました。

 さて、生きていれば何事もなかったのと同じ、雷雨のなか、伊丹から再びタクシーに乗り、車中ではまた報告書チェックです。

 タクシーで、まず、深く信頼する経済人のところへ行き、新年度の研究プロジェクトの最初の相談を軽くやりました。
 そこからホテルへは歩く。
 夕陽の水の都は、春の雷雨があがったあとで、すがすがしかったのです。歩くのも愉しかった。
 いつもの部屋に入ると、大量の電子メールと格闘しつつ、夜の打ち合わせに備えます。

 夜、関西テレビの会議室で、あすの「シミュレーション」に備えて打ち合わせをし、そのあと独研の同行者と2人で、遅い食事をとりました。
 目のまえの鉄板でコックさんが、肉や野菜を焼いてくれるスタイルの店です。
 この日のコックさんは、26歳の女性、Mさん。
 あっさりした話し方や雰囲気が爽やかで、料理も嬉しくなるほどおいしかった。
 このMさんは、関西テレビの『2時ワクッ』をいつも見てくれていたそうです。
 新しい報道番組は、出勤時間と重なるそうですが、録画をして見てくれるとのこと。
 なんだか明日のシミュレーションに向けて、幸先がいい感じ。

 ホテルに入ると、また原稿、原稿。
 あー、すべてを忘れて、がぁーと眠ってみたい。


▼明けて、3月29日の水曜日。
 まず早朝7時15分から、RKB毎日放送ラジオ(福岡)に電話で生出演です。
 寝てないから声がしゃがれていて、番組スタッフやリスナーに申し訳ない感じがします。
 きょうは「次の首相は誰か、新首相を選ぶときの争点は何か」について話しました。

 ぼくは、秋の自民党総裁選の争点は、実はただ1つに絞られていると考えています。
 中国です。
 膨張する中国に、今ここでフェアに毅然と、国際社会のルール通りに接することができるかどうか。
 それが、現在のわたしたちよりも、次の世代、そのまた次の世代の日本の運命を決します。
 その選択を今やるのが、わたしたちの責任です。
 このことは、外交だけにとどまらず、経済も政治でも同じです。


▼正午、ホテルの中のプールへ。
 眠気と疲労で、やっぱり持久力がない。
 それでも、全身が目を覚ますぐらいには泳いで、早めにプールから上がり、浴室へ。
 ふとラウンジで血圧を測ってみると、126~81。20歳代前半の血圧だとのこと。こういう体質に生まれさせてくれた両親に、感謝。

 そして、局へ向かうまえに、会うべき人、ぼくと独研のたいせつな味方の人と会いました。
 こころが通じ合うから話は充実しつつ簡潔に終わって、予定より早く関テレ入り。

 メインキャスターの大阪でいちばんの人気アナ、山本浩之、ヤマヒロさん、それからフレッシュな村西利恵アナをはじめ番組スタッフと綿密に打ち合わせてから、報道スタジオへ。

 このスタジオは、ぼくが生まれて初めてテレビ番組というものに、本格的に参加したスタジオなのです。
 選挙番組でした。
 フロアディレクターが指で数えるカウントの意味すら、よく分かっていませんでした。
 その時の関テレのスタッフがそれを聞いたら耳を疑っただろうぐらいに、テレビ番組というものを知りませんでした。

 それでも、ただ伝えるべき中身に徹して、解説し、問いかけ、話しました。
 いまも同じですから、このスタジオは、ぼくとテレビの関わりの原点ですね。
 そこへ帰ってきたのは、すこし嬉しかったのです。

 新報道番組ANCHORは、さらりといい感じのオープニングで始まり、やがて『青山のニュースDEズバリ!』という、ぼくの解説コーナーになります。

 ニュースの現場らしい、いい感じの緊張感が漂っていて、ああ、これはいい番組になりそうだなぁと思いました。
 年度末の苦しみのなかを、やってきて良かったなぁとも、思ったのです。

 写真は、シミュレーションが始まるときの報道スタジオです。
 左から、村西アナ、ヤマヒロさん、このシミュレーションで室井祐月さんの役をするスタッフ、そしてモバイル・パソコンを開くぼくです。
 みんなまだ、台本に目を落としていますね。

 このセットはまだ、3月までの元の報道番組のままです。
 新番組の本番になると、ぐんと変わります。



枯れないブーケ、魂のなかに生きつづける花束

2006年03月26日 | Weblog



 3月25日土曜の午後1時半ごろ、自宅近くのプールへ。
 TVタックルの収録があるから、どうにか目を覚ましたい。

 ロッカー・ルームで顔をみると、うーむ、凄い。
 疲れた感じとか、眠そう、なんて段階を、はるかに通り越している。
 ぐしゃぐじゃ。

 もう迎えの車の来る時間が迫っているから、あまり泳げないけど、20分ぐらい泳ぐと、身体も頭も目覚めていくのが分かる。

 自宅へ戻り、迎えの車に乗ってテレビ朝日へ。
 きょう収録のタックル(放送は3月27日の月曜夜)は、いつもと違ってスペシャル版。夜7時から10時前まで放送するようだ。
 ぼくは、その後半だけに出るから、収録も後半だけ。
 だから、いつもと違って、途中から入るわけで、いつもよりさらに議論(…あるいはタックル名物、怒鳴りあい)に入るのが簡単じゃない感じ。

 それでも、たまに、これだけは黙ってはいられないという場面があって、そこでは自分を励まして、声を張りあげた。
 ただし、編集で残っているかどうか、それは分からない。

 テレビ朝日から帰宅すると、すぐに、PHPの論壇誌『VOICE』に掲載される原稿、「シミュレーション米軍撤退」(仮題)のゲラ直しに取りかかる。
 タックルの収録は、それなりに疲れるので、あーあ、休みたいな、ぐーっと眠りたいな、と思ったけど、なにせ、きのう書き込んだように実に234行もの分量を削り込まなきゃいけないし、それを必ず今夜中に終わらねばならないし、残念ながら、腰を伸ばしてる時間もない。

 きょう午後のテレビ収録も、今この深夜というか未明のゲラ直しもすべて、同時代を生きるみんな、みなさんへ、日本国民へ、伝えるべきを伝えるという本来の目的に集中するよう、そこだけに魂を絞りこみたい。



 写真は、講演を聴いてくださった方から、いただいたブーケです。
 2月に中東出張を中断して、往復1万7000キロほどをわたって兵庫県小野市で講演したときに、思いがけず、小学校の同級生たちが控え室を訪ねてきてくれました。
 それから、高校生のときの女ともだち(…と言っても手をつなぐことすら想像もしなかったし、デートというのもしたことがないけど)、昔とびっくりするぐらい変わらないひとも、控え室に現れた。わぁー。

 その二組の方からいただいた、ふたたばの花束なのです。
 講演が終わったあと、大阪の定宿のホテルに宿泊したとき、ホテルに頼んで、一緒に大きな花びんに活けてもらった。

 講演でも、テレビでも原稿でもいつも同じです。
 おのれがどうみえるかとか、そんな意味のちいさな私心にとらわれずに、同時代を生きる仲間に、世代も性別も仕事も、仕事のあるなしも関係なく、みんなに、みなさんに伝えるべきを伝える。
 そのことに集中して、これからも、ささやかに力を尽くしたいのです。尽くし切りたいのです。

 今は、2006年3月26日日曜の午前3時09分。
 ただ一度切りの命の時が、こうして誰の上にも刻まれていきます。二度と帰りません。



すべて、じぶんのせい

2006年03月25日 | Weblog



 何度か書いたと思うけど年度末、3月は毎年、シンクタンクにとっては地獄の季節です。
 すべての調査・研究プロジェクトの大部、大冊の報告書が締め切りを迎えるから。

 だけど、地獄というのは、そのただなかにいると、地獄だからこそ滑稽なことが起きる。起きてしまうのです。

 ここ数日、調査・研究プロジェクトの報告書の執筆・総チェックに加えて、いろいろな原稿の締め切りがどっと来ています。
 そのなかで、PHPから出ている論壇誌『VOICE』から依頼された「シミュレーション米軍撤退」(仮題)という原稿では、もともと集めていた情報に加えて、たくさんの当事者取材、たとえばアメリカ軍騎兵部隊の中佐といった人たちへの電子メール取材を補足し、それから書き出しの1行目から、考えに考えて推敲しつつ、すこしづつ書いていました。

 だけでも、研究プロジェクトをはじめほかの原稿も待ったなし、それから、シンクタンク社長としての打ち合わせや交渉、それに決断のためにじっと考えること、さらに若干のテレビ・ラジオ出演もあって、VOICE原稿の執筆は、遅々として進まない。

 VOICEの編集者は、辛抱強く待ってくれて、締め切りを何度も後ろへずらしてくれる。
 それに助けられつつ、でも、原稿は呻吟します。
 そして、ほぼ原稿全容の見通しがついた3月23日木曜日の深夜、翌24日金曜日の朝8時まで、最後のデッドラインの締め切りを延ばしてくれました。

 さぁ、あと8時間近くもある、これで大丈夫と思いきや、凄まじい眠気も手伝って、1行1行に苦吟してしまう。
 それに、なぜか、なぜなのか、いつもより原稿の枚数がなかなか増えていかない。書いている割には、枚数が増えていかない。
 どうしてかなー、と思いつつ、気のせいだと考え直しては、書いていく。やっぱり枚数は、なかなか増えない。

 金曜の朝8時になり、編集者から電話。
 当然、脱稿しているはずが、まだ未完!
 編集者だけじゃなく印刷所も校正スタッフもみな、待機してくれているのに。

 やむを得ず、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ方式で書き進めます。
 ちぎっては投げ、というのは、記者時代によくあった「1分1秒を争って早く出さないといけない時には、未完でも、書けたところから、どんどんデスク(いまは編集者)に投げていく(送稿していく)」という、やり方。
 そして、求められている分量、400字詰め原稿用紙まであと4枚半になったとき、編集者から電話。

「あのー、ゲラ刷りにしてみますと、もうとっくに25枚を超えていますよ」

 えっ。
 あ、一太郎ソフトの書式設定を間違えたかな。
 調べてみると、やっぱり。
 400字詰めにちゃんと直してみると、もう34枚になっているぅ。

 眠気のせいなんだろうな、きっと。
 14枚分を、ゲラから削らないといけない。
 一字一字に心血を注いで書いてきたし、全体の構成から、文章のどの部分、どの場面、どの情報も削れない原稿になっている。

 だけど、削らねばならない。
 要はすべて、自分のせいだから。
 送られてきたゲラを見ると、実に234行も削り込まないといけないや。

 よけいに書いちゃったと分かったあと、独研の社長室でうとうとしていると、富豪が現れて、そのよけいに書いた分を高く買うよ、譲ってほしいと熱心に申し出てくれて、横にいた誰か優しい女のひとが「よかったね」と言ってくれた。

 顔をあげると、夢でした。
 社長室を出て、思わず夢の話をすると、『徹夜仲間』の研究員たちが、吹きだしていました。

 明日24日の土曜日は、TVタックルの収録だけど、きっと眠い顔で出ます。
 今回のタックルは、スペシャルで、夜7時から放送が始まる。
 だけど、ぼくは後半だけに出ます。何時ごろかな。8時半ぐらいから、かな。よく分かりません。



 写真は、独研の社長室シリーズの続きですね。
 天井の灯りは落として、フロアライトだけの明かりで撮ってみました。
 執務机の向かい側の壁です。
 右側のちょっと黒っぽく写っているのは、打ち合わせ用のテーブルですね。実際は、ダークブラウンです。

 明かりや飾り棚の上のほうには、たとえば、ベトナム戦死者の名が刻まれたメモリアル・ウォール(ワシントンDC)の写真などが掛けてあります。




歩きだす

2006年03月20日 | Weblog



 自宅書斎のカーテンが、窓ガラスとの間に光をため込むように明るくなり、3月20日の朝になりました。
 世界で初めての大規模な化学テロが、この日本の首都で起きた地下鉄サリン事件から11年、アメリカ軍がイラク戦争を始めてから3年、春分の日を翌日に迎えたこの日は、わたしたち日本国民も世界も記憶せねばならない日です。

 きのうはフジテレビの「報道2001」に参加したあと、ジムへ。
 躯(からだ)を造りなおすための新しいトレーニング・メニューに取り組む初日だったけど、中東出張ですっかり、なまったあとだから、ほんとうにキツかった。
 睡眠不足も加わって、胸の内では、もう投げだそうかとなんども思ったけど、トレーナーの励ましも効果的で、どうにかメニュー通りに最後までやりきりました。
 鍛錬のあと、プールでわりあい軽く泳いで調整し、スポーツマッサージを受けて、ひさびさにすっきりしました。

 新しい鍛錬メニューに取り組みはじめて、じぶんの躯が、瞬発力はあるけど意外に筋持久力に乏しいことが自分で分かったのです。
 アルペン・スキーヤーだった時代は、下半身に集中して鍛えていたけど、いまは全身をバランスよく向上させた筋力をつけていきたい。
 世界の転変にかかわっていくならば、強力な体力を維持し、充実させることは、ぼくが、みずからしっかりやらねばならないことです。
 それに躯を造りなおすことは、鍛えているときは辛いけど、ときどき愉しい。

 実は、ジムで番組出演者のひとりとお会いして、背筋トレーニング中のそのかたと、にっこり挨拶。
 鍛えている人は、いますねぇ。


 今回の「報道2001」は、中国特集。
 テレビ局は、局によって、番組によって、やり方や雰囲気がさまざまに個性があります。
 この番組は、本番の前に、出演者がそれぞれ個室で備える普通のスタイルじゃなく、出演者の全員が同じ部屋で歓談します。誰にも、現職大臣であっても、個室はありません。
 報道番組らしいスタイルかも知れませんね。
 早朝の番組だから、コーヒーを飲んだり、旧交を温めたり、初めてのかたと名刺を交わしたりしていると、あっというまに生放送の本番です。

 スタジオは案外、コンパクトです。
 ぼくが出た番組のなかでは、もっとも狭い。
 画面では、とても広く見えるから、プロフェッショナルなスタジオ美術とカメラワークに感嘆します。
 そのカメラそのものも、見慣れた大型カメラは少なく、コンパクトなカメラが多くて、すこしだけ驚きました。

 ぼくを含めたゲスト・スピーカーは、4人。
 中国に近い立場が2人、このごろの中国に厳しい立場が、ぼくともうひとりの2人となっていたけど、わりあいフェアな議論ができたように思います。

 ぼくは中国を30数回、訪れています。
 中国共産党関係者にも、人民解放軍の関係者にも、こころをひらいて議論できる友人がいます。
 それだからこそ、言うべきこと、伝えるべきことは、タブーをつくらずに、きちんと話したい。
 中国の友人たちにとっては、「あいつと会って議論すると、怒鳴りあいにもなるけれど、日本がほんとうは何を考えているかが、嘘なく分かる」という存在でありたい。
 それは中国に対してだけではなく、アメリカにも韓国にもヨーロッパ諸国にも、どこの国々対しても、まったく同じです。


 さぁ、朝の光のなかを、原稿の執筆を続けます。

 次のテレビ番組は、3月27日放送のTVタックルになる予定です。
 関西テレビの新しい報道番組は、4月6日の木曜日が出演初回になります。
 ぼくの担当は、水曜日なんだけど、初回だけはアメリカ出張と重なるので、木曜日にずらしていただきました。

 独研の本社で、この週末も泊まり込むようにして研究プロジェクトの報告書原案づくりに取り組んでいる若い研究員たち、それから、この地味なブログにわざわざ立ち寄っていただくみなさんに、きょうも光の一日がありますように。


 写真は、報告書作りでもっとも苦労を重ねているひとり、シアトル育ちの若き主任研究員が、デンマーク出張のときにコペンハーゲンで撮ってくれた一枚です。
 この出張のときの写真は、前にも何枚かアップしましたね。
 今朝の気分にいちばん近いのが、これです。

 コペンハーゲンは、通りからすこし中へ入ると、このようにカラフルでいて落ち着いたアパートメントが並んでいます。
 ぴたりと隣り合わせでくっついて、それでいて、それぞれが個性豊かです。
 そして生活感と、童話のような感覚が、さりげなく同居しています。

 この、ちょっと不思議な世界から、気負わずに歩きだしていきたい。
 そういう気分です。

 写真はちっちゃいですが、もしもよおく見ていただくと、ぼくは左足を踏み出して歩き始めています。




朝から朝へ

2006年03月18日 | Weblog



 いま2006年3月18日土曜日の朝、6時42分。
 自宅の書斎のカーテンの向こうに、東京港の明るい光が感じられます。
 ベランダのある部屋から、ちらりとだけ空をみあげたら、やっぱり青く澄んでいました。

 今朝も、なんとねぇ、徹夜明けです。
 これじゃまるで、このブログは徹夜日記。
 ちょっとまえには、まるで闘病記だったこともあるけど、まぁ、大丈夫。

 きのう17日金曜日は、なかなか凄まじい日でした。
 朝7時、徹夜明けのまま、顔を洗う時間もなくタクシーに乗り、羽田空港へ。
 揺れる車中は、モバイル・パソコンで原稿執筆。
 独研から配信している会員制レポート『東京コンフィデンシャル・レポート』の第272号の仕上げです。
 しかし終わらず、パソコンを脇に挟んでタクシーを降り、空港のチェックイン機に駆け寄って、ANAの大阪行きにチェックイン。

 空港のラウンジの洗面所でようやく顔を洗い、また執筆。
 飛行機に搭乗すると、猛スピードで各紙の朝刊を読み、ベルト・サインが消えると、すぐにモバイル・パソコンの電源を入れて、ふたたび執筆。

 伊丹空港に到着してタクシーに乗ると、車中で執筆。
 そして、エネルギー企業の本社へ着くと、同行の独研社員がトイレに行っているあいだにも、執筆。
 そして、この企業の中堅幹部と会う。
 独研のある誠実な研究員が、残念ながら思いがけず引き起こした、想像を絶する失敗について、つらい協議。
 この企業とは、記者時代から20年以上もかけて、利害なき友情を育んできた。それが一瞬の失敗で壊れそうです。
 謝罪すべきは謝罪し、しかし、先方の誤解であることはきちんと、誤解であると述べました。天はすべてを見ていらっしゃる。真っ直ぐに対応するだけです。

 そのあと、この企業の別の幹部である、永いつきあいの友人と昼食。
「青山さん、今回の件だけじゃなく、最近は社員の引き起こすことで悩みがいくつもあるんじゃないですか」と彼は言う。
 この人は、むかしから深い思いやりのある人だ。さすがに、よく分かるんだなぁと内心で、感嘆して顔を見る。
「独研が大きくなって、しかも青山さんは講演をはじめ外を飛び回らなきゃいけなくて、ご自分で直接やれない、社員に任せなきゃいけないことも増えているのでしょうから、必ず通過すべき過程ですよ」と、彼は続けました。
 そのとおりだ。社員がもっと楽しく仕事できるように成長させつつ、この過程を乗りきって、『次の独研』へ向かいたいな。


 その企業を出ると、大阪で定宿にしているホテルへ。
 しかし今日は部屋には入らず、まっすぐにプール&サウナへ。
 このあと、読売テレビの『激テレ★金曜日』に生出演するけど、徹夜を重ね重ねているから、プールで泳いですっきり目を覚ましたかった。
 と言うより、それをしないで出演したのでは視聴者に失礼と思うほど、ひどい顔になっている。

 しかし、仕上げ途中の『東京コンフィデンシャル・レポート』272号をどうしても仕上げて配信したかったから、裸にはなったけどプールには入らず、サウナの椅子でパソコンを打ち続ける。
 そして、仕上げを完了し、電子メールで独研へ送る。
 さぁ、これであとは、独研の総務部から会員へ配信してくれる。

 大急ぎで、競泳パンツをつけ、スイミング・ゴーグルを持って、プールへ。
 10分だけ怒濤のように泳いでから、まるで水中発射の人間ミサイルのようにプールから飛び出して、浴室へ。
 これもまた大急ぎで、髪を洗い、ひげを剃り、駆け足でロビーへ降りて、タクシーに乗り、読売テレビに向かう。

 車中で、独研の研究員たちに電話をかけて打ち合わせをし、政府機関に提出する予定の報告書の原稿をみる。

 読売テレビに着くと、一息をつく間もなく、メインキャスターの宮根さんや、ディレクターや、ほかの出演者・パネラーと打ち合わせが計3回。
 そしてすぐ、スタジオに入って、生放送が始まった。
 PSE法(電気用品安全法)の問題から始まって、自民党参院議員の桝添さんや、勘のいい(社交辞令じゃありません)タレントのかたがたや、気鋭の弁護士さんたちと、トーク。

 桝添さんは、PSE法を支持なさった。ぼくは「天下の悪法」とあえて指摘した。
「古い電気製品の事故によって亡くなるような事故が起きないようにしたい、その志は正しいが、それだからこそ検査を電機メーカーと民間検査機関に任せてしまう現行の法の内容には、その点だけでも疑問がある…(中略)…この4月から制度を動かしてしまうのではなく、せめてもう1年、猶予して、法改正を含めて、わたしたち国民に相談すべきだ」と述べた。

 これ以外にも、岩国の住民投票、ライブドアとUSENなどなど、かなり盛りあがったトーク、あるいはディベートにはなったと思う。

 生放送中に、芸能のコーナーになったとき、スタジオを出て控え室へ戻り、モバイル・パソコンを立ち上げて報告書の原稿をみて、独研の研究院と電話で協議する。
 いくら忙しくても、生放送の途中にスタジオを抜け出して、こんなことをするのは初めてだ。

 かなり長時間の生放送が終わると、すぐタクシーで空港へ。
 揺れる車中は、モバイル・パソコンでメールチェック、伊丹空港に着くとラウンジで執筆。機中では、さすがに、ぐぅーと眠りに引き込まれるが、なんとか自分を励まして眼をこじ開け、やっぱり執筆。
 ああ、眠りこけたかった。
 羽田空港に着いて、自宅へ向かうタクシーでも執筆。

 独研でなくて、自宅へ戻ったのは、もちろん、もう夜10時近かったこともあるけど、いくらかでも眠りたかったから。
 ところが、メールをチェックするうち、研究員のひとりが社内向けに送ったメールをどうしても放っておけなくて、独研へ電話しているうちに、夜が更けていくというより、夜明けが近づく。

 その電話が終わると、独研の別の研究員(上席研究員)に無理にでも起きてもらい、電話で独研で頑張って徹夜態勢でいる研究員たちとやりとりをさせ、そのやりとりの中身をチェックし、それやこれやが終わると、ますます夜明けが近づく。

 いくらなんでも、もう仮眠ぐらいはとらないと、と思うが、19日の日曜朝に出演するフジテレビ『報道2001』のディレクターから電話打ち合わせの依頼が来ていることを考える。
 ふつうに考えれば、ディレクターはきっと仮眠中だけど、番組で使うVTRをつくるために急いでおられるのかも知れないなぁ、電話しようかどうしようかと迷う。
 しかし、やっぱり放っておけなくて、電話をかけ、恐縮ながら仮眠から起きていただき、たっぷりと打ち合わせる。


 そして、こうやって、完全な朝になりました。


 写真は、去年の春に撮りました。
 靖国神社に近く、無名戦士の墓のある千鳥ヶ淵で、独研の社員たちと花見をしたときの、夜桜です。
 帰国子女のおおい社員たちが、祖国の凄絶なほどに美しい桜に、深い印象を持ってくれたようで、うれしかったのです。

 寒かった冬の去る、ことしの春もまた、新しい気持ちで、独研のみんなと、わたしたちの桜を見たいと思っています。




夜の雨は

2006年03月16日 | Weblog



 いくらなんでも、まさか、というほど徹夜続き。
 洗面所で顔をみるたび、眠そうなこと、疲れていること、ちょっと驚かないでもありません。

 だけど、今夜のように早春の雨が降っていると、ものを書くには、むしろしっくりする夜です。
 夜の雨は、街を歩くにはちょっと嫌なときもあるけど、部屋でものを書くときには、味方かな。
 近くで応援してくれるような熱い味方じゃなくて、遠くからクールに、さりげなく知らん顔で応援してくれる味方のイメージ。
 社長室のドアを出ると、研究本部の社会科学部で、今夜も主任研究員や専門研究員らが4人ほど徹夜態勢です。
 ぼくと同じように研究員たちも、春の雨に、なんとなく気持ちがしっとりと落ち着いていればいいなと、思うのですが、言葉には出しません。

 春の雨なんて、それから夜の雨なんて、文字には書けるけど、口に出しては言えないよ。
 言葉というのは、面白いですよね。


 こないだは、赤い椅子から社長室のドアを見た写真をアップしてみました。
 じゃ逆の写真、ドアから椅子を見た写真もあればいいな、というかたも、ほんの少数ながらいらっしゃるようなので、お応えしました。

 独研の社長室の半分ぐらいが、映っている感じかな。
 広い社長室じゃないけど、すごく狭いのでもない。この写真の感じよりは、広いです。
 手前左には、社内の打ち合わせや、来客とのお話に使うテーブルと椅子の一部が、映っていますね。
 これもインドネシア製で、素朴な木でできたテーブルにガラスが嵌め込んであり、ガラスの下は短冊のような感じのバンブーが敷き詰めてあります。
 椅子は、ラタン(籐)の椅子ですね。

 原稿を打っているぼくは、楽な格好をしています。
 テレビのコメント撮りがあるとか、フォーマルなお客さんがいらっしゃるとか、そういうときは、背広に着替えることが多いですね。

 いまは夜11時半過ぎです。
 これがもっと遅い時間になると、もーっと、くだけた、もうめっちゃ、くだけた格好になります。
 だから、独研の社員のみんなは、そういうぼくに、もう慣れっこ。
 みんな、ごめんね。
 だけど、ほんとうのぼくは、ら~く~な格好が好きだから、がまんしてくらはい。

 今夜は、こないだとちょうど逆。
 社長室のぼくは、一滴もアルコールを呑んでいません。水だけを、ときどき呑みます。
 特に理由はないのです。今夜は、そういう夜。
 社長室のドアの向こう、研究本部に居残って頑張る研究員たちは、応接室でみんなですこし呑んでから、仕事に戻ったようです。

 それも、いいよね。








早春の夜の、執務デスクです

2006年03月14日 | Weblog



 きのうの書き込みで、運動靴の写真をアップしたら、ぼくのたいせつな読者のHさんから「靴よりも、青山さんの脚の影に目がいきました」というメールが来た。

 ひゃあ、よく見ておられるナァと感心したのでありました。
 その通り、携帯電話で写真を撮っている、ぼくのジーパンをはいた脚の影が映りこんでいます。

 そこできょうは、ちと、サービス映像です。
 といっても色っぽい映像とか、そういうのでは残念ながらありません。
 今夜も徹夜に突入していく今、2006年3月13日月曜の夜11時半、その独研(独立総合研究所)の社長室です。

 えー、TVタックルという番組で、ぼくが赤い椅子にすわって、ささやかなコメントをしている場面を見たことのあるひとも、いらっしゃると思います。
 その赤い椅子から、社長室の出口、ドアの方向を見た視点なんですよね。
 開いたドアの向こうには、独研の研究本部の社会科学部や、自然科学部があり、総務部(秘書室と経理室)があり、応接室もあります。

 独研は、セキュリティのために本社のあるビルの写真とかを公開しませんから、その意味では、これはサービス映像のつもりなんです。


 画面に映っている机の上は、机全体のちょうど3分の1ぐらいかな。
 昔から、大きな机で書きたかったから、独研が最初の本社から二つめの本社に移転したとき、木製の大きな机を入れました。

 左から、愛用のデスクトップ「プリウス」です。その右はバイオ・ライト、ライトの下に見えているのは、実はただの雑草を、小さな円いガラスの容器に入れています。
 秘書さんが毎日、水を換えてくれているので、つやつやと生きています。

 この雑草は、独研が、前の本社所在地だった汐留(東京都港区)にいたとき、近くの浜離宮を歩きながら、みなで打ち合わせをしたとき、生えていた草なのです。
 なんとなく楽しかった打ち合わせの記憶を残したくて、雑草をほんの一本だけ摘んできたら、とても捨てる気になれなくて、一緒に生きています。
 円い水の中に、驚くほどしっかりと根を張っています。


 その奥は、石から水の流れ出る小さな室内噴水です。インドネシア産です。
 ミニ噴水の下は、同じくインドネシア産のライト。いずれも安価なものですが、好きです。
 その右横は、これもインドネシア産の飾り棚。
 日本国内や世界の各地をまわりながら、ちょこっと買った想い出の品を置いています。
 たとえば、シリアの岩山にある原始キリスト教の教会で求めたキリスト像、それから真夏の軽井沢でふと買ったクリスタルのりんご。
 サンフランシスコの水族館で売っていたサメのぬいぐるみ、ワルシャワでみつけたシューベルトの手の彫刻もあります。
 気鋭の女性イスラーム学者からいただいた、招き猫なんてのもあります。


 さて机の上に戻って、時計が三つ並んでいるのは、左端が東京、まんなかがバクダッド、右端がワシントンDCの現在時刻です。
 その横は、オーディオのスピーカーの一つ、その横は、いつも肌身離さず持ち歩くモバイル・パソコン「ムラマサ」です。
 社長室に戻ったときは、こうやって、デスクトップに接続して、デスクトップの外付けハードディスクとして使うのです。とても便利です。


 その手前、おいしそうに並んでいるのは、左端が、お酒のグラス。
 沖縄電力がくださった、南大東島(沖縄本島から東へ360キロにある島)のサトウキビからつくったラム酒と、グレープフルーツ・ジュースをミックスしています。
 沖縄電力から研修で独研へ来ている、秘書・兼・研究員のRがつくってくれました。

 その右は、大ぶりなグラスいっぱいに張った、水。
 ぼくは一日に、ずいぶんたくさんの水を飲みます。
 みなさんにもきっと、そういうかたは多いですよね。

 その右が、そのラム酒のボトル。
 シンプルな薄いガラスに、南国色のラベルが貼ってある。なかなか、いいです。

 ボトルの手前が、グレープフルーツ・ジュース。これはどこでも売っているやつ。
 その横は、見てのとおり、アイスクリームです。
 今夜はたくさんの研究員が徹夜しているので、ぼくがちょい財布をひらいて、みなのためにアイスクリームやら飲み物やらを買ってきてもらいました。
 そのうちの1個ですね。
 呑みながら、ときどき、このアイスクリームで口を冷やしてる。


 そして、下敷きになっているのが、ある政府機関から渡された重要書類、というわけです。
 あ、下敷きになっているのは、たまたまですよ、たまたま。
 この政府機関から委託された、とてもたいせつな研究プロジェクトの報告書の締め切りが来ているのも、今夜みなが徹夜している理由の一つです。

 たいせつ、という意味は、わたしたち日本国民の安全や安心を創るために、ほんとうにたいせつ、ということです。
 1年半まえに施行された「国民保護法」をめぐる研究です。


 実はこうやって、ちょこっとお酒を傾けつつ徹夜仕事をするのは、とても珍しいのです。
 このラム酒だけではなく、社長室には、さまざまな支援者、友だち、読者、視聴者から贈っていただいたお酒が並んでいます。
 シャンパン、日本酒、泡盛、アイリッシュ・クリーム、ワイン、ウオッカ、焼酎と、なんでもありです。

 だけど、社長室では、ほとんど呑みません。

 今夜は、みなの疲労を思ってRが、何も言わずにつくってくれたのです。
 それなのに、ぼくは、若い研究員からは、彼らがひとくち舐めただけで、グラスを取りあげちゃいました。
 だってね、まだお酒がそう強くなっていない人が、これで眠くなって眠ってしまったら、後悔するのは本人ですから。

 と、いうわけで、ぼくだけ、社長だけが、まだグラスを机の上に置いています。
 うん、ずるいよね。
 だけど、まぁじっさい、ぼくは酔わないから。
 とは言いつつ、もちろん研究員たちに気が引けるので、ちょこっとだけです、呑むのは。


 ほんとだよ。




「書く」ことは、肉体労働です

2006年03月13日 | Weblog



 このまえ山形県で講演したとき、庄内平野に、春の気配を感じた。
 東京よりずっと北なのに、月山(がっさん)が深い雪に輝いているのに、早春が姿も音もなくそこに来ている気配だった。

 そしてここ二日ほど、東京にも、その早春が降りてきている。
 弥生三月は、胸の奥にあたらしい思いが息吹く。

 だけど、一方でこの三月は、独研のすべての社員・スタッフにとって地獄の季節だ。
 というより、シンクタンクはどこも同じだと思う。
 日本という国は、いつに始まった委託研究のプロジェクトも、かならず三月末、つまり年度末に完了し、委託元に報告書を出さなきゃいけない。
 だから三月は、報告書の仕上げと、報告会の開催がどっと集中する。

 そういう時期に備えるためにも、ふだん、どんなに忙しくてもジムへ週一回は通って、バーベルやダンベルを挙げている。トレーナーの用意してくれたメニューにしたがって、体を造っていく。
 そのあとはプールで泳ぐ。大きな泳ぎになるように心がけて、フリーとブレストを泳ぐ。

 以前は、仮眠に充てていた時間を、ジムとプールでのトレーニングに変えた。
 無茶なようだけど、それをやり出してから、体調は明らかによくなった。



 一月下旬から、中東への短くはない出張に出ていたあいだ、もちろんジムへは通えなかった。
 泊まるホテルにジムやプールがあることも多いけど、出張はいつもアポイントメントや打ち合わせでいっぱいだから、とても行けない。
 中東は、お酒が飲めない分、ふだんには飲まない甘い清涼飲料水を、けっこう飲んでしまう。
 それにぼくは、大酒飲みでいて甘いものも大好きなので、中東のめいっぱい甘いお菓子もたくさん食べてしまう。

 というわけで、中東から帰国すると、いつも身体がなまって、重くなる。
 ことしは、特にひどい。
 帰国直後から例年よりさらに多忙になっていて、身体を動かす時間がまるで作れないからだ。

 そこできょうの日曜日、仕事の山にあえて目をつぶって、ジムとプールでトレーニングを再開してきた。
 トレーナーは「しばらくは、リハビリですかね。バーベルもダンベルもウェイトを落としましょう」と言ったけど、ふだん通りのウェイトとメニューでやってみた。
 どのメニューも、後半にちょっと苦しくなったから、身体はスタミナが落ちている。だけど、筋力そのものは意外なことに、それほど落ちていなかった。

 そして帰宅したあと、体調がすこし良くなっていることに気づいた。
 さぁ、これから自宅の書斎で徹夜だぁ。
 独研では、若き主任研究員Jも、海外出張から帰国したばかりなのに徹夜して奮闘している。



※写真は、久しぶりに履いた運動靴。
 ジムのロッカールームで、撮りました。
 くたびれた、汚い運動靴の写真でごめんなさい。
 だけど、ちょい実感がにじみ出ているかな、トレーニングの。



 

3月は「書く」季節にしたいな

2006年03月07日 | Weblog



 徹夜明けです。
 独研の社長室で徹夜をするのは、もちろん日常茶飯事です。

 まず、未明3時45分に、配信が遅れている会員制レポート『東京コンフィデンシャル・レポート』のうち、1本を配信しました。

 配信のために、こんな時間まで残ってくれていた総務部員に、こころから感謝しつつ、彼女をタクシーへ送り出し、ぼくは、独研のワシントン駐在員から送ってきた安全保障に関する報告書ドラフトのチェックに入りました。

 いま午後3時まえ、まだ、それが終わらないんだなぁ。
 早く終えて、東京コンフィデンシャル・レポートの、仕上げ直前の数本を早く完全に着地させて、辛抱強く配信を待っていてくださる会員のみなさんへ、配信したいっ。

 3月は、年度末ということもあって、すこし講演のペースは穏やかになる。
 年度末だから、独研が政府や自治体、企業から受託している平成17年度の研究プロジェクトがすべて、報告書の提出締め切りを迎えます。
 その執筆と完成に、独研をあげて取り組んでいるけど、同時に、質の高い東京コンフィデンシャル・レポートを1本でも多く配信し、そしてノンフィクション、フィクション両方の書きかけのままの原稿を、なんとか完成させて編集者に渡したい。

 書いて書いて書きまくって、桜の季節を、みんなと晴れやかに迎えたいナァ。


 写真は、2月、海外出張のシーズンをとりあえず終えるときの写真です。
 中東出張の最後に、アラブ首長国連邦のドバイを再訪し、たいせつなヒヤリングンを重ねたあと、同行した研究員と短い時間だけ、街を歩きました。
 そのときに見つけた、砂漠色のカフェで、研究員が撮ってくれました。
 この研究員は、民間企業からの研修生です。素晴らしい経験になったと思います。

 ぼくの腰かけている緑の長いすに、赤いぼんぼりのような飾りがあるのが、分かりますよね。
 その飾りの向こう、壁のところに、何かがうずくまっているのが、分かりますか?
 これはね、猫。
 ペルシャ猫じゃなくて、アラビア猫ですね(冗談)。

 このカフェでお茶を飲んで、歩いてホテルに戻り、そこからすぐに空港へ出発、このニッポン国への8000キロの帰途につきました。



そういえば

2006年03月06日 | Weblog



 ぼくのつたない書物の『日本国民が決断する日』(扶桑社・刊)が、増刷になりました。
 第一刷の出版が2004年の6月、もはやおとどしのこと、1年9か月も前ですから増刷はとっくに諦めていました。

 ぼくの本はさっぱり売れません。
 そして、わずかな本しか出せていません。
 だから、増刷はこれが初めてです。
 プロの物書きとしては、まことにまことに恥ずかしい次第です。

 それでも、こころから嬉しいです。
 この増刷は間違いなく、ぼくの講演を聴いてくださったかたから「読みたいのに、書店にないよ」という問い合わせが積み重なってのことだと思います。

 ありがとうございます、みなさん。
 独研の社員たちも、驚いたことに寄せ書きをつくって、祝福してくれました。

 ことしは、ほんとうにことしは、どんなに忙しくても、身体がたいへんでも、物書きとして復活する年にも、したいです。



(写真は、その『日本国民が決断する日』が出版されたころ、仕事で青森県を訪れ、大好きな奥入瀬の渓流に短い時間ながら立ち寄ったときに撮ったショットです。
 ぼくは、日本語の文章を書くとき、一太郎ソフトを使っているのですが、一太郎にはリラックス・ビューという楽しい機能があって、文字の背景を選べます。
 そして、ぼくはたいていのときは、この奥入瀬渓流の緑を背景に、文章を書いています。)



死ぬこと、生きること

2006年03月06日 | Weblog



 寒いと聞いていた庄内平野は、東京よりむしろ穏やかに、春の気配を湛えていた。
 その広い平野の一隅でひらかれた「山形県国民保護セミナー」で、ささやかな講演を終えた。
 そのあと県庁や市役所、そして地域の消防団で国民保護の実務を担うひとびととの悩みを聞いて、ぼくなりに力を尽くして答える無償の会合も終えて、夕刻に、庄内空港へ向かった。

 その車窓から、遠く、小さなゲレンデが見えた。きららに光るナイター照明に浮かびあがっている。
 思わず、目を凝らす。
 滑りたいなぁ、そう胸のなかで呟きながら。

 講演会場へ着いたころには白く輝いていた、月山(がっさん)は、もう青い薄闇のなかに沈み込んでいた。

 
 大学生のとき、初秋から冬、春、そして初夏まで、早朝から夜に至るまでアルペン・スキーで斜面を駆けおりることばかりに集中していた時期があった。
 朝は、まだリフトが動き出すまえにスキーを担ぎ、ため息が出るほど登りにくい競技用スキー靴で2時間近く登り、2、3分で滑り降りてしまうこともある。
 それが一日の滑りの、一本目だ。
 夜は、もうナイターのリフトも止まってしまう直前に、最後のリフトに飛び乗って、スキーヤーがいなくなった無人のゲレンデの頂上に立ち、呼吸と心を整えてから、凍った雪面を思いきり滑り降りる。
 それが、一日の仕上げだ。

 そして真夏は、月山に、融けない雪渓を求めてやってくる。
 雪渓は、スプーンカットと呼ばれる状態になっている。氷の表面をスプーンで一面にえぐっていったように、深くはないけど浅くもない凸凹ができている。
 雪というより、黒ずんだ固い別物だ。
 がたがたと激しく振動するスキーの振動を懸命に脚力で抑えながら、滑り降りていくと、下の方は雪渓が融けて水になっている。
 間違ってそこへ突っ込むと、もはや水上スキー、止めようにも止まらない。
 その先には、ごつごつと岩場が待っている。
 スキーを止められないままジャンプしてしまうと、ちょっとコミカルな光景なのに、岩の上に落ちて大怪我、という笑いごとではない悲劇も起こる。

 そこまで練習しても、雪国生まれでないぼくは、ちっとも、うまくならなかった。ちっとも。
 だけど、あのころ自然に鍛えた足腰が、いまのぼくの体力を根っこから、支えている。


 その体力に任せて、まいにち、無理に無理を重ねているけど、あのころのスキー練習と同じように、さっぱり成果は出ていない気もする。
 独研、独立総合研究所は、無借金のまま黒字に転換し、日本で初めての一切ひも付きじゃないシンクタンクとして、充分に成り立っている。
 成り立っているけど、いったい何をしているのか、ほとんど理解されていない気もする。
 知る人ぞ知るで、政府機関、自治体、企業から、改革に関するさまざまな研究プロジェクトを順調に委託されているから、成り立っている。
 だけども、一つの組織、株式会社として成り立つのが、ぼくらの最終目的じゃない。
 ぼくらの祖国と世界をよくすることに、ささやかながら寄与するのが目的だから、理解が広がらないことは、やはり、すこし、つらい。


 ぼくは、独研の掲げるたいまつを、次の世代、いまの若き秘書室長や、主任研究員や、研究員や、専門研究員や、ワシントン駐在員らに渡して、バトンタッチして、ひとりの物書きに戻る。いや初めて、ただの物書きになりたい。
 それが、いまの夢だ。

 だけど、理解をもっと広げられないと、若い世代にはまだ渡せない。
 若いということは、まだ力が不充分だということでもあるから。
 渡せるようになるまで、この身体が、果たして持つのかなぁと、このごろの深い、あまりに深い疲労を、身体のいちばん奥に感じて、思う。

 独研が果たそうとしている任務、それが何かを海外のひとびとは、わりあいにすっと、理解してくれる。
 アメリカ、ヨーロッパ、アジアの諸国、そして中東でも、文化や宗教、あるいは立場の違いを超えて、理解してくれる。
 そのうえで、激しく議論もし、別れ際にこころから共感の握手を交わす。

 でもね、遠慮しないで正直に言えば、日本では、なかなかそうはいかない。
 かつてペルーの首都リマで共同通信・政治部の記者としてテロ事件、すなわち日本大使公邸人質事件を取材していたときオープン・カフェで、外信部のリマ支局長と、ときどき話した。
 通り抜けるラテンの風が気持ちよかった。
 極限の緊張に満ちたテロ取材のなかに、そういう小さな奇跡のような時間もあった。

 支局長は、「あおやまさん、わたしは日本人って、意地悪だと思うんですよ。意地悪こそが、キーワードですよ、ニッポン人はね。だから、中南米がこんなにいい加減な国でもね、ここにいると、ほっとします」と繰り返し話していた。
 それをときどき、折に触れて、思い出す。

 だけど、ぼくは、この祖国を愛している。
 仮に意地悪が満ちていても、愛している。


 講演で回っていると、最初はうつむいて、背を曲げて座っていた高齢のかたが、いつのまにか背筋を伸ばし、真っ直ぐにぼくを見て、その眼がほんとうに輝きはじめることがある。
 最初は、なんだか眼がきょろきょろと落ち着かない感じもあった若いひとが、すっきりと真正面から、ぼくを見つめるようになることがある。

 なぜ、そうなるのか、ぼくには、はっきりとは分からない。
 ただ、胸にあらためて浮かぶ言葉がある。

 そうか、命がこのまま果ててもいいよね。
 広くは理解されにくいなぁ、なんて、言ってる場合じゃないよ。
 おまえよ、このまま尽くして尽くして尽くして、死ね。

 声にならない声が、ぼくのなかでそう響いて、首をあげずに頭をあげずに、こころのなかで天を仰ぎみる。

 かみさま、あなたはすべてをご存じです。
 命は、隅々まで、あなたに預けます。どうぞ、意のままになさってください。
 命のつきるまで、なにも願わず、無償の、無意の力を尽くし切る、残りの人生でありたいのです。




(写真は、控え室を出て、「山形県国民保護セミナー」で講演をしているときです。かけがえのない人生の時を割いて来てくださった聴衆のかたがたのなかを回りながら、なんとまぁ、強靱なはずの足と腰がふらついていました。生まれて初めて、かも。
 だけど、聴衆のかたがたには、分からなかったはずです。
 講演に同行して、この写真を撮ってくれた、独研の若き秘書室長、ニューヨーク育ちの大和撫子は、その事実にちゃんと気づいていました、見抜いていました。
 さすが。)




月山が迎えてくれた

2006年03月05日 | Weblog



 みなさん、ほんとうに、ご無沙汰しています。
 いま山形県の日本海側にいます。お米どころで有名な庄内平野です。

 きょうは山形県庁主催の「国民保護セミナー」で講演するために来ています。
 写真は、講演を直前にした控え室で、ぼくが正直、疲労のためにぼんやりしているところを、同行した独研の若き秘書室長が、撮っちゃった一枚です。

 中東出張での異常な疲労と、そのまえの体調不良のさなかの超過密スケジュールの講演旅行、そして帰国後すぐに再開となった同じく過密な講演旅行、それに民主党の危機やなんやかやで激しい水面下の動き…ちょっと自分でも想像を絶する日々が続いています。

 けれども、国民保護は、こうした「まさかテロなんか起こらないだろう。東京ならテロに関係あるかも知れないけど、ここらあたりでは関係ないだろう」という意識がありがちな地域・地方でこそ、大切なのです。

 だから疲労を押して、やって来ました。
 控え室では、こうやってぼんやりしていても、講演の本番では、命を張って、尽くします。
 それぞれの人生の貴重な時間を割いて、来てくださったかたがたへの、ぼくのそれがささやかな志です。

 空港から、この会場へ来るまでのあいだ、雪に輝く月山(がっさん)がみえました。
 ぼくがアルペン競技スキーに打ち込んでいたころ、夏合宿をしていた山です。

 かちんかちんで、ちょっとコンクリートみたいな雪渓からふと下界を見ると、はるか遠くに入道雲がみえました。
 ああ、あの雲に下には夏の海があるんだなぁと、みなで話しながら、黒く固まった雪渓を長い競技用のスキーで懸命に滑っていました。
 昨日のようです。