Our World Time

うわわ

2012年12月21日 | Weblog


▼まるで気づいていなかったのですが、アマゾンの「BEST OF 2012 年間ランキング」の「ノンフィクション・歴史・政治ほか」部門で、赤本こと、「ぼくそこ」こと、「ぼくらの祖国」(扶桑社)が第6位にランキングされています。(集計期間: 2011年12月1日~2012年11月30日)


▼読んでくださった、みなみなさまに、あらためて深く頭を垂れてお礼を申しあげます。
 今後も、少しづつ少しづつでも、できれば読み継がれていけばなぁと、正直、祈るような気持ちです。


▼去年の年末は、サンフランシスコでの学会(AGU)参加中に、ほんとうに苦しい思いをして、この「ぼくそこ」を脱稿しました。
 ことしは、明日以降あたりから、いくらかは書く時間が取れそうです。

 物書きは、一定以上の生産をしてこそ、プロの物書きです。
 現状では、プロの名が泣きます。

 ゆうべ、新たにお付き合いが深まりつつある新潮社の編集者のかたがたと食事をしていて、それを痛感もしました。
 ことしの年末年始には、文学への復帰もまた、実行していきます。

よくあることですが…

2012年12月21日 | Weblog


▼こんな書き込みがありました。

~先日の「ザ・ボイス」にて、「9月に発表された(日本の)経常収支がはじめて赤字になった」とご発言されましたが、これは事実に反します。
時事ドットコムによれば、「財務省が8日発表した2012年度上半期(4~9月)の国際収支速報によると、海外とのモノやサービスの取引状況を示す経常収支の黒字額は前年同期比41.3%減の2兆7214億円となった。」と、あります。
経常収支の黒字額が減っただけでは円安の説明はできませんよね。
どこかで訂正をお願いします。~


▼お書きになった方のハンドルネームは記しませんが、あなたの基本的な間違いです。
 上掲の発表は、季節調整前の発表です。
 ぼくの触れたのは、季節調整値を入れた、9月の経常収支です。
 季節調整済みの数字のほうが、国際収支の実態をよりありのままに示すというのが経済を考えるときの常道です。

 また、ぼくが申したのは「9月に発表された…」ではなく、「9月の…」です。発表は11月です。財務省が11月に、9月の季節調整済みの経常収支を発表したのです。
 さらに、ぼくが語ったのは円安の根っこにある要因のひとつであって、それで円安傾向のすべてを説明しようとしたのではありません。


▼上掲の書き込みでは、時事電を根拠にされていますから、参考記事の例を以下にお示しします。これはロイター電の引用です。他の記事などの引用は常に最小限度にしたいので、今回のことに直接、関連する部分の抜粋です。

[東京(11月)8日 ロイター]財務省が(11月)8日に発表した9月の国際収支で、季節的な変動要因を除外して算出した季節調整済みの経常収支が1420億円の赤字と、初の赤字に転落した。
(中略)…9月の季節調整済みの貿易収支は9774億円の赤字、貿易・サービス収支は1兆2886億円の赤字と、ともに現行統計開始以来最大の赤字を計上。特に貿易赤字額は「原数値」が過去最大の赤字を記録した今年1月の7056億円も上回る水準へ膨らんでいる。季節調整の「くせ」だけで一時的に赤字へ転落したとは言い難い。(後略)
(ロイターニュース 基太村真司)


▼ぼくの発信について、まったくの勘違いや誤解が生じること、それがすぐエスカレートして「訂正せよ」という要求になること、いずれもさほど珍しくないので、ふだんは、いちいち取り上げません。
 ただ今回は、同じような誤解がほかの方にも起きる可能性があるな、と思いました。
 なぜなら、財務省の発表ぶりも、一般への発表としては、やや不親切だからです。
 そこで、お応えしておきました。
 今回の書き込みだけを特段、問題にしているわけではないので、書き込まれた方もご心配なく。


にんげんの志

2012年12月19日 | Weblog


▼今朝(12月19日水曜の朝)の朝刊テレビ番組欄でお気づきの方もいらっしゃるでしょう。
 きょうの関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」のぼくのささやかな持ちコーナー「青山のニュースDEズバリ」に、次期首相の安倍晋三さんがナマ参加(出演)します。

 安倍さんは今、側近議員らに「テレビ番組への出演をすべて控える。政権発足の準備に専念したい」と指示していて、そのなかの、まことに異例な「アンカー」への参加(出演)です。
 これは関西テレビによる交渉の結果ではありません。関テレと他のすべてのテレビ局との今後の関係のためにも、それはあえて明言しておきます。
 ぼくが直接、安倍さんと電話で交渉しました。

 それは、ひとつには拉致事件への取り組みが、政権交代が確実になったあとも一切、語られていないからです。
 安倍さんにそれを聞きますと、「語りたいが、記者が誰も質問すらしない」という答えでした。
 ぼくが総選挙の開票当日に参加(出演)した関西テレビの選挙特番では、安倍さんと直接、掛け合いをする機会がありませんでしたから、きょう19日水曜のぼくのコーナーでナマの掛け合い、やり取りをしたいと、ぼくから安倍さんに提案していました。


▼正直、安倍さんがOKするかどうか、強く期待はしましたが、確信はなかったです。
 しかし安倍さんは、NHKや、東京の民放キー局(全国放送のテレビ局)への参加(出演)を今のところ、すべて断っているさなかに、一地方局である関テレに出てくれることを決断し、電話でそれをぼくに伝えてくれました。
 きょうは東京の安倍さんと、大阪の関テレ報道スタジオのぼくとを、ナマで繋ぎます。

 アンカーはいつも、たとえば拉致被害者の有本恵子ちゃんのご両親も、いつも熱心に視てくださっています。
 また、安倍さんのこの行動が、北朝鮮や中国、アメリカへの正しいメッセージにもなります。

 ぼくは、電話の向こうの安倍さんに、にんげんの志というものの大切さを感じました。



日曜の烈しい総選挙が終わって…  (*日々の点描 オン・ボード その6)

2012年12月18日 | Weblog
…きょう12月18日火曜に発売された「新潮45」(新潮社発行の論壇誌)に、ぼくが久しぶりに書いた論考が載っています。
 タイトルは、以下の通りです。

 深部に潜む次の危機
   橋下、石原を繋いだ「脱天皇」

 よろしければ読んでみてください。
 いま、その18日早朝の新幹線のなかです。


▼12月16日の投票日は、東京都内の自宅近くで投票を済ませたあと、空路、大阪へ。
 政党の首脳、幹部陣、若手らと電話たくさん。
 夜8時に投票時間が終わってまもなく、RKB毎日放送(福岡)のラジオ選挙特番に電話でナマ参加(出演)。小選挙区制の問題点と、民意の賢さについて話す。

 そして、夜8時14分から深夜まで、関西テレビの選挙特番に、愉しい緊張感をもって参加(出演)。終わってすぐ、関テレの17日月曜のニュース用にコメント撮り。
 そのあと、ニッポン放送ラジオ(東京)の選挙特番に、電話ですこしナマ参加(出演)。

 ホテルで、わずかに仮眠したあと、早朝からふたたび政党の首脳、幹部陣、若手らと、今後のことをめぐって電話たくさん。
 そして伊丹空港から空路、帰京…ではなくて、逆に西の福岡空港へ。
 年配のタクシー運転手さんの相当にローリングするタクシー車内で、疲労と睡眠の極端な不足のために珍しくすこし気持ち悪くなりつつ、RKB毎日放送に到着。ディレクターの用意してくださった昼食のおいしさに、ちょっと元気になる。
 このSディレクターは、博多のライブハウスで一緒に、ライブをやってくれたミュージシャンでもある。

 そして、今度はテレビ番組にナマ参加(出演)。
 番組では、ベテランキャスターの仕切りで初当選の自民党議員おふたりらと議論。
 福岡、博多も好きです。


▼そのあと福岡空港から羽田へ。
 自宅に一瞬だけ戻って、顔をごしごし洗い、目が醒めることを祈りつつ着替えて、赤坂のTBSへ。
 タクシーでTBSに着いたとき、次期総理からの電話があり、拉致事件への取り組みをめぐって印象深い話があった。それを受けて、廊下の隅っこに立って、あちこちに電話。協力を惜しまない、良心的な政党人がいて、若手の彼に胸のうちで深く感謝する。
 これは、19日水曜の関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」のぼくのささやかな持ちコーナー「青山のニュースDEズバリ」で取り上げる予定。

 TBSでは、質問に何でも答えるという番組の収録。
 自由な質問に、ぼくなりに経験も総動員して答えるというのは、視聴者にとって、ささやかには意味があるだろうなと、参加している。ほかにも回答者のかたが沢山、いらっしゃるところなどなどが、日本文化チャンネル桜(CS放送)の「青山繁晴が答えて、答えて、答える」とは違うけど、ぼく自身の志としては、いつもまったく同じです。
 
 この収録がなんと、局に午後6時50分ごろに入って、深夜1時ごろまでだったか、とにかく長時間の拘束となった。
 この番組は何度も参加しているけど、こんなことは初めてだ。

 きょう18日が、早朝5時の自宅出発だったし、ちょっと影響した。
 未明1時半過ぎに、ようやく帰宅したものの、ほとんど仮眠すら取れず、そのまま駅に向かう。
 そして今、新幹線は名古屋に着きます。
 ここで乗り換えです。
 やれやれ、いくらか荷物を重く感じる。
 いつもは荷物が重いと、鍛錬になると本気で喜んでいるんだけどね。
 ジムも長いこと、行っていないなぁ。

 ふひ。


▼さてさて、みなさん、投票お疲れさまでした。




投票日の、晴れた朝に

2012年12月16日 | Weblog



▼きのう夜、ぼく自身の想像を超えてしまった無茶ら苦茶ら日程のなか、大阪から帰京してきた。
 きょう西暦2012年12月16日の、憲政に残るだろう総選挙のあと、関西テレビの選挙特番に、いつも通りに参加(出演)するから、そのまま大阪にいれば体は楽だった。
 だけど今回の選挙期間中は、期日前投票をする時間すらまったくなかったので、いったん帰京しないと、投票ができない。

 おのれは投票しないでおいて選挙特番に顔を出したりするのは、サイテーだ。這ってでも帰京したかった。
 ぼくの周りは、独研(独立総合研究所)の研究員も、家族も、友だちも、知人も、次から次へと風邪やノロウィルスにやられている。
 それでも誰からも、ぼくにはうつっていない。ところがゆうべ、飛行機内という密室で、強力なウィルスらしき気配が、ぼくの鼻と口と目に襲いかかってきたのが分かった。
 こういうとき体内から、「待ってましたっ」と何かが、免疫力のような何かが迎え撃つ気配を、ありありと感じるときがある。
 ゆうべは、そうだったにゃー。
 まさか、いま、斃(たお)れるわけにはいかないから。
 ぼくも、いつかは斃れる。みんなと別れる。
 しかし、いまは、その時機ではないらしい。

 ふひ。


▼ほぼ寝る時間が取れないまま、いよいよ投票日の夜明けが近づく。
 まずは、寝ていた青山繁子(ポメラニアン)に「繁子、行くぞ」と声をかける。
 まさか、投票にじゃないですよ。
 繁子には残念ながら投票権がないし、わんこを投票所に連れて行くなんてことをするはずもないし、そもそも投票所はまだ開いてはおりませぬ。

 朝の散歩です。
 散歩に連れて行ってもらうのは、繁子のたいせつな権利です。

 一歩、外へ出ると、手袋を忘れたことに気づいた。
 しかし、抱っこしている繁子のおなかが、あったかい。
 繁子は、ことしの夏の暑さとずいぶん闘って、一時期、弱っていた。そして、背骨につらい部分があることが、レントゲンで分かった。それ以来、どんな小さな階段も越えさせないように、散歩エリアが平らになるまで、しっかり抱っこしている。
 繁子は、地上に降りる時をわくわくして待ちながら、いつもよか高い目線で見える世界を愉しんでいる。

 そして、柔らかい草地を選んで繁子を降ろすと、もう、涙が出るくらい元気いっぱいに、子供だったときとちっとも変わらずに駆けだして、いつもの赤いリードをちいさな軀(からだ)でぐいぐい引っ張る。


▼そう、そうです。
 この繁子を護ることを、誰か遠くの友だちに頼みますか?

 たがいに嘘をつかない友だちは、とても大切だけれど、愛する者はおのれで護る。
 散歩中の繁子に大型犬が、ふつうではない興味を示せば、まず、強烈な眼力(めぢから)を送って、抑止力にする。
 リードを付けない愚かな飼い主も遺憾ながらいらっしゃるので、抑止力、すなわち戦いを起こさないための抑止力をまず常に使う。
 それでも、繁子にとって安全な距離を破って、リードのない大型犬が近づいてきたり、ましてや、こちらに走り出してきたら、瞬時に繁子を抱きあげて両腕に抱え込んだうえで、満身の怒りで、こちらも、ぐいぐいと近づく。
 それで、たいていの大型犬は、上げていたしっぽを急に垂れて、繁子に気づかなかったふりをするかのように、方向を変える。

 方向を変えなかったら?
 これまでは一度もなかったけれど、あれば、戦う。ぐいと近づきながら、実は、大型犬といえども柔らかい腹を蹴りあげる準備はしている。ささやかに空手道を学んだことはある。

 もしも逃げ出したら、襲われる。
 もっと正しく言えば、飼い主にリードを間違って付けてもらえずにいる、かわいそうな大型犬に、間違った戦いをするきっかけを、こちらから与えてしまう。
 逃げ出したら、飼い主にフェアに、かつ冷静に注意する機会も失われる。

 ぼくは、ほんとうは大型犬も大好き、だーいすきだ。
 なにせワニでも好きなぐらい、動物が好きだから。
 いま小型犬を飼っているのは、住宅事情と、それと単なる偶然だ。

 だから戦いたくない。腹など決して蹴りたくない。
 たまたま、ぼくと家族が、繁子と出逢って、愛している。愛する者を護るためには、間違った戦いをする者を、その戦いをやめさせる範囲内で、真っ正面からみずから戦う。
 間違った戦いをしようとした者が、それをやめれば、真心をもって慈(いつく)しむ。

 ぼくが長年、憲法改正、すなわち俺たちの憲法は俺たちで創ろうと、非力ながら呼びかけてきたのは、たとえば、こういうことです。


▼今朝はまず、1月のヨーロッパ渡航に備えて、国際運転免許を取りに行く。 
 これも今日取っておかないと、間に合わない。
 そして、その帰りに、投票だ。
 有権者のひとりとして、オリジナルな民主主義を持つ国、日本の唯一の主人公である、わたしたち有権者のひとりとして、拉致被害者を最後のひとりまで取り返すためにも、領土と、そこに暮らし働く(たとえば魚やアワビをとる)同胞の生活者を護り、あるいは、そこにかつて誠実に暮らしていた同胞の生活を取り戻すためにも、ぼくは憲法を最大争点として、投票する。

 投票が終わると、すぐに大阪へ出発する。
 そして、投票を終えられたみなみまさまと、番組を通して、お会いしましょう。


*上の写真は、美しい日本晴れの投票日の早朝、東京港の向こうに、たおやかに輝く、われらの富士山です。
 下の写真は、お馴染みの、青山繁子です。ただし、いつもとは、ちょっと違う表情でしょう? 一緒に泊まったホテルの部屋に、朝陽が差し込んできて、ようやく目が醒めはじめたときの繁子であります。
 いずれの写真も、重くなるだろうけど、縮小しないでオリジナルのままアップしてみました。重さで開きにくいひとには、ごめんなさい。


不肖ながら、ほんのすこしだけ、かけらだけ、日本を背負って

2012年12月09日 | Weblog


*日々の点描 オン・ボード その5
【12月4日火曜/続き】







▼サンフランシスコの街中のホテルにチェックインし、先にシスコ入りしていた独研(独立総合研究所)の戦う自然科学部長、青山千春博士と、研究員とに合流する。

 シスコと日本は、時差が実に17時間ある。要は、世界でいちばん、日本との時差が激しいところだ。
 だからシスコに入ると、時間が大きく逆戻りして、12月4日火曜の夕刻になっている。つまり、東京都内で連続講演をやっていた時間に、いわばタイムマシーンのように戻る感覚だ。

 別の見方をすると、日本での新しい時間が、おのれの今いる場所よりずっと先にどんどん進んでいくことになる。
 こういう海外出張というのは、毎回、かなり苦しい面もある。
 日本での複雑な仕事の局面がそれぞれ先へ、先へ進んでいくから、常に、現地での仕事に合わせて海の向こうの日本に対処せねばならないから。

 …と言ってもまぁ、慣れてはいるから、ストレスは、ほぼない。
 それより、とにかく海外に出て、感覚がリフレッシュされていて、なんやら快適だ。


▼シスコに着いてすぐ、明日の朝にはもう、資源や地震、環境といった地球科学をめぐる世界最大の学会、AGU(地球物理学連合)のオーラル・セッションで、口頭発表をしなければならない。
 発表時間はみな、15分間に制限されている。
 なにせ世界中から、2万人を超える第一線の学者と研究者が、どっと詰めかけている。

 ふつうは、その15分間をフルに話してしまうのではなく、最後に質問を受ける時間を残す。
 その質問タイムを作るためにも、予行演習がやはり必要だ。


▼国際学会でいつも、すこし驚くことがひとつある。
 学者・研究者のなかには、質問を封じるために、15分を超過気味に話すひと、あるいは質問者をサクラで用意しておいて、あらかじめ分かっている質問だけを受けようとするひとがいる。

 ぼくは最初、そんなことは分からなかった。
 学者の世界で生きてきたのではないからだ。
 しかし、狭い学者の世界で良心的に生きようとしているひとたちと、ご飯を食べたり酒を酌み交わしているうちに、そうしたことをよく聞き、やがて、実際の学会発表で「ああ、この発表が質問封じなんだなぁ」」と分かったり、「これはサクラの質問かな」と思うときが出てくる。
 そうしたとき他の学者に聞くと、「あれは、もちろん、そうですよっ」という明快な返事だ。

 うーむ、何のための学問、何のための研究なのか。
 そして、うーむ、こういう学者は、すくなくともぼくは日本からの発表者以外には、見たことがない。
 アメリカやヨーロッパからの学者は、質問を待ち構えていて、短い時間であっても意味のある質疑、議論を自在に展開しているひとが多い。
 英語力への不安もあるのかもしれないけど、日本社会で、保身や虚栄が先行していて、本来の目的を見失うことが少なくないことと関係があると考えるほかない。

 独研(独立総合研究所)がふだん、日本の既得権益の勢力から受けている圧力や嫌がらせなどなどと、根っこは同じだろう。
 だからといって、日本にがっかりするのでは、全くない。
 戦う目標が、より、はっきりして、やる気が余計に満ちてくる。
 無理をしているのでは、ありませぬ。
 なんだか、すがすがしい気分すらする。人間、何をやればいいのか分かることほど、気持ちのいいことはない。


▼当たり前だけど、ぼくは質問を受けたいので、ボリュームたっぷりの発表内容がコンパクトに収まるように、まずは、独研シスコ3人組で、内容を再検討する。
 しかし青山千春博士も、研究員も一方で、ぼくが事前準備を克明にやるより、自由な余白をむしろ残しておき、本番の集中力を高めるタイプだということが、よーく分かっている。
 だから過剰な介入は、しないでいてくれる。
 あっさりした打ち合わせを終えて、ぼくは、一度だけ声に出して、発表をひとり、やってみた。

 オーラル・セッションで発表する学者・研究者は誰でも、あらかじめAGU事務局に提出してある文字と画像を、発表会場でプロジェクターに大きく映し出すのだけど、その画面にはない補足、というより根っこにある核心を、その場で自然に話したい。
 なぜか。
 画面をなぞるだけの発表だと、聴いている側は関心が薄れてしまう。寝ちゃう人もいる。
 なにせ、次から次へと15分ごとに発表が続くのだから。


▼AGUは完全な自然科学系、理系の学会だけど、ぼくの発表内容は前回(2010年)も今回も、理系と文系、自然科学と社会科学の境界線を考えている内容で、AGUもその意義を認めてくれて事前審査を通り、発表予定が公式登録されている。

 日本海のメタンハイドレートによって、日本国だけではなくアジアに希望をもたらすためには、どんな科学的アプローチと社会的アプローチを実践するかという内容だ。
 どんなアプローチが考えられるか、という評論風の発表じゃない。
 いま実際にどう具体的に実践しているか、それをどう現実に発展させるか、という発表だ。

 だから聴衆にちゃんと聴いてもらわねばならない。
 資料の読み上げのような硬直した発表には、したくない。


▼ひとりでの予行演習は、一度だけにして、あとは頭を自在に遊ばせて、単なる読み上げをいかに脱するかを、考えていくうち、どんどん朝が近づいてきた。
 時差ぼけの影響は、正直、ある。
 かつて1日1国というスケジュールで、ひとり、世界を廻っているころは、時差ぼけもまったく感じなくなっていた。
 今は、日本で欠席しにくい仕事が増えているから、そんなことできない。
 たまにしか海外に出ないから、かつてよりずっと、時差ぼけが出てくる。
 しかしまぁ、これも、まさしく想定内。さしたることはない。


▼シスコに到着していきなり、こうしてパソコンに向かい合っていると、やはり思い出されるのは、去年に同じクリスマス・シーズンのシスコで、「ぼくらの祖国」(扶桑社)を学会と同時進行で、渾身で、ほんとうはね、ふひ、死ぬ思いで仕上げていたときのことだ。
 あの苦しさは、もう二度と嫌だけど、あの集中力は物書きとしても、もう一度、発揮したいな。
 AGUでの発表が早期に終わるということは、物書きとして、日本とは違う環境でリ・スタートできそうだということでもある。

 うん、だから、わくわく。
 日本で進行中の総選挙も、憲法がすくなくとも議論はされている初めての総選挙だから、わくわく。

 ダブルわくわくは愉しい。
 ただし、AGUの発表が終わったらすぐに、まずは、独研が会員に向けて配信している「東京コンフィデンシャル・レポート」を仕上げて、シスコから送らねば。
世界も日本も、この瞬間もどんどん動いているのだから。


*写真は、■シスコの夜のケーブルカー通り。■AGU会場のもの凄い学者と研究者の群れ。■そして、ぼくも発表する会場の前で学者・研究者が発表予定を熱心にチェックしている。どの発表を聴くか選ぶのも大切だ。■貼り出された発表予定。世界の人々とともに、ぼくの名もあります。なかったら、えれーことだぎゃ。■ふんふん、ちゃんとあるなぁ、ひと安心という感じ。


都心を駆け抜け、太平洋を越える(*また眠くてフラフラ、誤字が幾つも。それを含めて直しました)

2012年12月07日 | Weblog

*日々の点描 オン・ボード その4

【12月4日火曜 続き】


▼午後2時半に、Y秘書とタクシーに乗り込み、東京・蒲田へ。
 ちょっとかわいい感じの地元ホテルに着く。
 メガバンクの主催で、東京大田区の技術力の高い中小企業の社長さんたちが集まってくださっている。
「こいつに何が分かるのか」という感じの?厳しいまなざしから、期待いっぱいの、わくわくなさっている眼まで、どれも真っ直ぐに受け止めて、そして何となく会場の空気を、むしろアットホームに身近に感じて、講演する。

 舞台から降りて、戦う中小企業のかたがたの眼の奥をのぞき込むようにして、ぼくなりに気を込めて、日本経済の新しい希望を、ほんとうに声を枯らして、下手くそなりに語った。


▼後半から、どんどん空気が変わってくるのが分かる。
 いちばん厳しいまなざしだったかたが、いちばん優しい表情に変わられている。
 ぼくは、ぼくよりずっと年長のかたでも、ずっと若いかたでも、関係なく、みなさんの肩をひとりひとり抱きながら、ハグしながら話したい衝動に駆られる。
 中小企業こそ、技術に賭ける志が高い。日本経済の宝そのものだ。ぼくは全身で応援したい。

 次の講演に移動する予定時間を超えて、懸命に話すうち、Y秘書が会場隅で、これも彼女なりに必死にサインを送っている。
 今日は最後に国際線の飛行機の出発時間が迫ってくるのだから、彼女が心配するのも当然だ。
 多忙な社長さんたちが延長時間も含めて、真剣に最後まで聴いてくださったことに、感謝しきれない気持ちで、終了。


▼講演会場から本気で疾駆して、タクシーに飛び乗ると、まずは潰れた喉に、ペットボトルの水を染み通らせる。効果は、ほとんどなし。のど飴も食べる。わずかに効果。
 隣の席のY秘書や、前席の運転手さんに話しかけると、ガラガラヘビのような声になってしまっている。
 ふひ。
 今夜はガラガラヘビの講演かな。あのね、お祭りのお化け屋敷の講演じゃないんだから。

 タクシーは今度は、六本木ヒルズの豪華なホテルに着く。
 ある巨大な投資会社が主催して、年に一度だけおこなうイベントだそうだ。
 機関投資家のなかでも日本を代表するようなところとか、個人投資家でもランキングでトップ級だけを招いて開く、感謝イベントという。

 講演が始まるまえに、名刺交換をしつつワインを飲む。渋みが効いてて、おいしい。
 そのまま別室に移動し、食事の出ているテーブルに聴衆が座られ、ぼくは講演を始める。
 ワインが効いて口も軽く、と言いたいところだけど、まったく影響はない。それほど、やわにできてはいない。

 酔いはなくとも、ワインの素晴らしい渋い味わいは残っていて、ちいさなちいさな幸せは感じる。
 講演は、力のあるひとびとへの話だけに、厳しい指摘をどしどし盛り込んだ。

 日本経済のエリート群の一角と言えるひとびとは、最初は淡々と、後半は、ひとことも聞き漏らすまいという秘めた熱意が伝わってくるように、真摯に聴いてくださった。


▼資金ショートに苦しむ人も多い中小企業から、潤沢な資金の投資先に悩む強力投資家へ、同じ日に話するのは、あまりない機会だ。
 ぼくにも、よい勉強になった。
 声は、タクシーのなかでも、講師控え室でも、完全に潰れていたけど、講演本番を始めると、不思議に、ある程度は艶(つや)が甦ってくる。

 この講演会も、可能な限り延長し、ぼくはもちろん、ほとんど何も食べずに、またタクシーに飛び乗り、Y秘書と羽田空港の新しい国際線ビルへ。


▼後者の講演会の主催者が渡してくださったお弁当を、空港で、ぼそぼそと、すこし食べる。Y秘書が買ってきてくれたアイスクリームが、よき幸福でありました。
 そして出国ゲートへ。
 ここしばらく、来る日も来る日もY秘書と日帰り強行軍をこなしてきたので、出国ゲートで、思わず胸いっぱいに感謝の気持ちが沸きあがる。
 仕事だから当たり前?
 うん、その通り。
 しかし、苦労人の彼女は、機嫌、不機嫌の波はちらりともみせずに、ぼくのくだらない冗談に本気で、マジで笑い転げながら常にアテンドしてくれるのは、ほんとうに助かる。

 ここは欧米ではなく東洋の日本だから、誤解を受けることもあるだろうけど、出国ゲートで握手とハグをして、感謝をありのままに伝える。空港では、ぼくが誰だか割と気づかれることもあって、しっかり、じろじろと見られる。
 しかし、思ったままの行動は変えない。

 Y秘書は、たまたま、まだ24歳で、見かけも中学生か高校生のようだから、たまに「青山さんが女性連れでいる」という眼や、ささやきも耳に入ることがある。
 大阪のお好み焼き屋で、関西テレビの打ち合わせ前にY秘書と食事をしていたら、大阪のダイナミックな女性軍団に「あ、青山さんが、女連れでご飯食べてるわ」と口々に叫ばれたことがある。
 ぼくらは吹き出して、一応ぼくは、「あのー、うちの正社員の秘書なんですけど」と言ったが、すると「いやぁ、ヒショやってヒショ、ぎゃはは」と返されたので、もう気にする気分にもならず、かまわないので、そのままにした。
 あとで、Y秘書に「今ごろ話が百倍になって、千里(せんり)に広がってるぞ」と言うと、Y秘書は平然と笑っている。
 Y秘書は大阪生まれ、大阪育ちの近畿大学卒業生だ。卒業の時に、法学部長から優等表彰を受けている。
 ぼくが「ヤング大阪おばちゃん」と呼ぶと、平気で「はーい」とちゃんと明るく返事をする。
 お好み焼き屋のおばちゃんたちも含めて、たいしたものです、大阪の女性たち。バイタリティと天真爛漫な明るさが気持ちいい。

 さて、ぼくはゲートでY秘書と別れ、セキュリティ・チェックを受けて、出国した。
 ラウンジで仕事をしていると、すぐに搭乗時間。
 羽田専用かな、とも思える機材は、狭くて、仕事にするにもトイレに行くにも臨席のひとに気を使う。
 あまり映画も見ずに、仕事を続け、すこしうつらうつらすると、もう9時間半近いフライト時間が過ぎ、見慣れたサンフランシスコ湾が近づいてくる。


▼アメリカに入国すると、ロビーで待っているはずの出迎えの運転手さんがいない。
 どう探してもいない。するとドライバー、一般の客と紛れて、スマホだかタブレットに夢中になっていた。
すでに料金は日本から振り込んでいるのに、ぼくの名を記したプレートを広げることすら、していない。
 悪意はないとも言えるが、労働モラルのあまりの低さに、「この男のためでもあるよね」と考えて、しっかりと厳しく注意した。
 背の高い白人の彼は、あっさりと謝った。すなおで、いい人柄だと思う。ただ、うーん、この人柄の良い、のんびりぶりがまた、ちょっと逆に働いて、まあ、同じことを繰り返すだろうな。

 それでも、タクシーはシスコの高速を順調に走り出した。
 今回のシスコは西海岸、8月に行ったボストンは東海岸。
 気候も、ひとびとの気質も違うのに、なぜか、ぼくには似て見える。
 なぜだろう。
 クラシカルな佇(たたず)まいもある街のせいか、ほのかな海の香りのせいか。

 Y秘書と同年配の若さで、まったく思いがけず「ガンかもしれない」と医師に告げられたひとの様子が何も分からないままなので、このごろいつも胸の奥でぼくはひとり、沈んで考えている。
 ぼくは、次の日本に必要な人材だと、本気で感じている。能力も人柄も、その哲学も。日本人には、こんなに将来のあるひとがいる。
 そのことに、女も男も関係ない。
 シスコを歩いていると、ボストンに深い縁のあるこの人材の前向きな、積極性いっぱいの気持ちのよい言葉や立ち居振る舞いが思い出される。
 天よ、この人材を、どうか支えてください。

 のんびり屋運転手さんの、つまり、ちといい加減なところのあるアメリカ人運転手さんのタクシーは、最後は、好人物らしく穏やかにホテル玄関に着いた。
 街はもうクリスマスカラーで満ちている。

 みんなに、みんなに、よいクリスマスが来ますように。

さぁ「ぼくそこ」を生んだシスコへ。しかしその前に… (眠気で分かりにくい文章があり、直しました)

2012年12月06日 | Weblog
*日々の点描 オン・ボード その3

【12月3日月曜 続き】


▼未明から明け方へ向けて、予定外に本を読み終えてしまった。
 それは、この世に現れた、滅多にない尊い書物だ。
 急逝なさった流通ジャーナリストの金子哲雄さんが、稀な異種の肺ガンの告知を受けてから、現世を去るまでを、みずから、一歩一歩その足取りを来世へ固めていくように綴られた本だ。
 金子さんが最後の一呼吸を吸って、もはや吐き出さず、ふっと違う世界へ転じられた、その瞬間は、奥さまが、たとえようもないほど端正な筆致で描かれている。

 誰しも、この書を読むひとは、その生涯を通じて忘れられない本になるだろう。
 金子さん、みんなが読んでいますよ。よかったですね。報われましたよ。これからもずっと報われますよ。


▼明け方に近く、短い仮眠をとる。
 金子さんの本で、夢のなかは、いっぱい。

 ある若い、素晴らしい人材から「ガンの可能性を医師に言われました」とだけ聞いて…その後に音信不通になっているひとがいて、夢のなかで探し続ける。

 ぼくは去年の2月に大腸ガンを手術した。しかしガンはあまりに様々で、おのれの体験から軽々に推し量ってはいけない。ぼくが死に直面したのは、手術のあとの腸閉塞であって、ガンそのものはⅠ期で、そのⅠ期のなかでもごく初期だった。

 正直、おのれの今後より、周りのたいせつなひとたちに次から次へと起きるガンの告知や、あるいはガンをめぐる精密検査の決定に、浅い仮眠のなかで、うなされていた。


▼夜明けのあと、おのれの体を励まして起き出し、AGU(地球物理学連合)の発表の準備や、会員に向けて発信しているレポート(東京コンフィデンシャル・レポート)の執筆を続ける。
 そのなかで総選挙をめぐってEメールと電話が、ひっきりなしに繰り返される。

 そして午前11時前、きょうもY秘書とともにロータスで羽田へ。
 羽田から福岡へ向かう。
 ロータス・サウンドが、心身の淀みをきれいにしてくれる。ほんとに好きだな、ドライヴィング。

 夕刻から、RKB毎日放送の選挙特番の生放送に参加(出演)する。
 福岡が本拠の老舗(しにせ)放送局、RKB毎日とのおつきあいが、ラジオ番組への電話参加(出演)は、実は記者時代から続いている。
 今は、毎週水曜朝に、人気キャスター中西一清さんの「スタミナラジオ」に電話参加している。
 しかしテレビは、これが初めてだ。

 福岡に着き、タクシーで局へ。
 テレビ局というのは、不思議なほど、局によって何もかもやり方が違う。しかしラジオディレクターのSさんが丁寧にアテンドしてくださったこともあって、まったく問題ない。快適だ。

 Sさんとは、こないだ、博多のライブハウスで、ギター・デュオのライブをやった。
 聴衆は、独研の「インディペンデント・クラブ」(IDC)の会員のみなさん。
 聴衆がもう入り口で待ってらっしゃるなかで、初めて音合わせと練習をわずかにやるという無茶ぶりだったけど、ミュージシャンでもあるSディレクターに助けてもらった。


▼さて、生放送が始まると、居並ぶ7党(12党のうち参加は、福岡県で小選挙区の候補者を擁立していることなどの条件に合う7党)の政治家たちと、子育て、景気、金融政策、、メタンハイドレート、原発政策などなどを、ぼくなりに考え、考え、議論した。
 ぼくと一緒に、政治学の泰斗の高名な学者と、サンデー毎日の編集長のお二人が参加されていた。

 番組の最後にキャスターから、「さ、青山さん、今日のまとめを」と問われた。
 街頭インタビューの有権者が、世代を超えて「領土問題」「外交」を総選挙の最大の争点に据えている人が何人もいて、目の前が開けるように明るい気持ちになったことを、ありのままに話した。


▼番組が終わると即、福岡空港に向かい、Y秘書とおいしい博多ラーメンを食べて機内へ。
 24歳のY秘書は、これが福岡初上陸だった。
 あっという間の日帰り出張だけど、楽しそうに仕事をしてくれるので、救われる。


▼帰京して仕事部屋に入ると、今日ももう夜10時を回っている。
 朝までに、AGUで発表する内容の仕上げを終えねばならない。
 遅れたら、AGU事務局への登録ができなくなり、口頭発表がドタキャンになってしまう。

 荷物のパッキングを少しづつやりながら、頭をなるべく自由自在に遊ばせるようにして、発表内容を仕上げていく。
 残念ながら、自宅へ戻って青山繁子、ポメラニアンの繁子ちゃんと触れあう時間はない。繁子当番を引き受けてくれた次男に任せる。
 出国までに、入院中の母を見舞いたかったけど、それも無理。
 ちと、つらい。


【12月4日火曜】

▼ほぼ徹夜のまま、朝9時半に、RKB毎日放送「スタミナラジオ」の収録を電話でやる。
 すこし疲労の影響があって、話しぶりはいつもよりさらに下手だったけど、なんとかリスナーに伝えるべきを伝えようと努める。

 今週は、北朝鮮のミサイル発射準備のために、野田総理の思惑が外れた、という事実を話した。
 総選挙の投票日までに、北朝鮮との「拉致をめぐって再調査」というナンチャッテ裏合意を、表に出して発表する手はずを進めていたのが、北朝鮮の突然のミサイル騒動で潰れたのだ。
 この再調査は拉致被害者に有害だから、妙な動きが結果的に避けられたとも言えるし、同時に、拉致事件が総選挙の重大争点に浮上する機会も生まれなかったとも言える。

 収録のあと、耐えがたい眠気をふり払い、おのれを励まし励まし、AGUの発表内容を完成させた。
 これで、わたしたちの祖国を資源大国として、アジアと世界に新たに貢献できる国になる道筋の、最初の一歩を世界の学者にアピールする試みができる。
 アピールする、なんて僭越なことは申しませぬ。
 とにかく試みることだけは、できそうだ。

 重い荷物のパッキングも終わった。
 さぁ、シスコだ。

 去年12月のシスコは、AGUへの参加とともに、「ぼくらの祖国」をどうしても年内に脱稿せねばならない、年内脱稿ができなければ出版自体が取りやめになるという、ぎりぎりの断崖絶壁のような日々だった。
 ほんとうに苦しかった。刻々、苦しみ抜いた。

 ことしは、それはない。
 ただ、別の見方をすれば、あれからちょうど1年、新しい本を出していないということだ。
 これでは、プロの物書きの名が泣く。
 ことしのAGU出張では、みんなが寝静まった夜中に、小説の仕上げに着手したい。もう7年か8年か、あと少しの仕上げをせずに置いていた短編小説だ。


▼「ぼくらの祖国」(扶桑社)は、かろうじてロングセラーの一角に踏みとどまって、読み続けられている。
 先日に、高木健治郎さんという大学の先生が、Eメールをくださり、なんと「ぼくらの祖国」をゼミで使っていますという連絡をいただいた。

「ぼくらの祖国」を教育の現場で活かしてください、という僭越だけど切なる願いを、かつてこのブログで記したら、びっくりするぐらいの積極的な反響があった。

 だけど、実際には、小学校から大学まで、話だけは出て、具体的にはまとまらず実現していない。
 祖国を教育現場で語ることには、まだまだ強い抵抗もあるようだ。
 そのなかの高木先生からの知らせ、疲れがすこし遠のくぐらい、嬉しかった。

 この方のブログには、その詳しい授業内容が、克明に、誠実に記録されている。


▼パッキングのあと、会員制レポート「東京コンフィデンシャル・レポート」を書き続けていたら、もう午後2時半が近づいてくる
 2時半に出発して、今日は都内の講演に回り、なんと講演をふたつ遂行してから、深夜の羽田に行き、零時過ぎの深夜便で、シスコに向かう。

 ちょっと頭がくらくらするような日程だ。
 中央突破しかありませぬ。ふひ。


サンフランシスコに向かう前に (続)

2012年12月06日 | Weblog
*日々の点描 オン・ボード そ の2
【12月2日・日曜 続き】

▼琵琶湖畔の高島市(滋賀県)に入り、講演会場の前で、タクシーをY秘書と降りようとすると、陸上自衛隊の将校が出迎えてくれた。
 この街には、戦車大隊がいる。第3師団と第10師団の精鋭だ。きょうは、その基地(今津駐屯地)の設立60周年と、「あいば野自衛隊協力会」40周年の記念すべき日に、招かれた。
 会場には、高島市の西川市長と、ふつうの市民も沢山いらっしゃる。自衛官は、婦人自衛官もとても多く、内心で応援エールを送る。
 自衛隊の司令は、独研(独立総合研究所)で研修を受けた自衛官が就任なさっている。凜々しく、そして、穏やかだ。
 いつものように舞台から飛び降りて、みなさんのなかを歩きながら、ぼくなりに懸命に話す。


▼前半は、やはり自衛隊のあり方をめぐることに、重点を置いた。
 たとえば、この総選挙で、野党第一党が「憲法を改正し自衛隊を国防軍にする」と公約した。
 それを見て、多くのマスメディアと、それから政治家が「自衛隊の名前を変えること」の是非を声高に語っている。
 名前を変える?
 名前を変えるために憲法を改正する?
 それが争点?

 まさか。


▼世界の主権国家の防衛力、軍事力に何があるか。
 それはネガティヴ・リストだ。
 将兵は、国民と国家を護るためには、いつでも何でもやらねばならない。制服を着用して任務に就いているときも、制服を脱いで休暇で故郷に帰っているときも。
 そのうえで「これだけはしてはならない」というリストを持っている。たとえば、もはや降伏して捕虜になった敵兵を傷つけたり、殺害してはならず、虐待も許されない。戦わざる市民や難民への攻撃も、できない。ジュネーヴ条約とその追加議定書にあるとおりだ。

 ところが、世界で自衛隊員だけが、これと真逆なものを持たされている。
 それはポジティヴ・リストだ。
 すなわち、「これだけは、してもいいよ」リストなのだ。
 防衛省設置法とか、自衛隊法とかに盛り込んである条項だけ、行うことができて、たとえばイラクに派遣された自衛隊員は、そのときだけ通用するイラク特措法がさらに加わって、そこにある条項だけ行うことができた。

 新潟の海岸近くで、13歳だった横田めぐみちゃんが北朝鮮の工作員に襲われているとき、休暇で帰っていた自衛官がたまたまその現場に遭遇したとする。
 もちろん、実際にはそうした自衛官の遭遇はなかったのだが、仮にそれがあったとして、自衛官が工作員を素手で倒し、めぐみちゃんを護り、めぐみちゃんは北朝鮮に拉致されることなく、その後も日本で中学高校、そして大学を卒業し、望んだ仕事に就き、幸せな結婚もし、子育てもしたとして、一方で北朝鮮工作員が倒れるときに、たまたま後頭部を打って死亡したとすると、自衛官は、少なくともいったんは殺人容疑で逮捕され、裁かれることになる。
 日本以外の諸国では、この自衛官はヒーローになるが、日本では、刑法犯である。
「休暇中でも、かつ防衛出動が閣議決定されていないときでも、自衛官は国民が危機にあれば国民を救う」ということが法に盛り込まれていないので、つまり「これだけは、してもいいよ」リストに載っていないから、救ってはならないのだ。
 この事実があるからこそ、北朝鮮の工作員たちは、やすやすと多くの日本国民を日本の領土内で拉致していったのだ。


▼また、たとえば自衛官がイラクの地でテロリストに向かい合い、テロリストがRPG7というロケット弾を発射しているさなかに、自衛官は「えーと、これは反撃して良かったんだっけ。やってもいいよリスト(ポジティヴ・リスト)に入っていたんだっけ?」と自問自答せねばならない。
 笑い話ではない。

 実際に、イラクに派遣された自衛隊の宿営地には、何度もロケット弾が撃ち込まれた。
 自衛官が死ななかったのは、偶然に過ぎないし、自衛官たちは、ロケット弾を撃ち込まれながら、反撃することを許されなかった。だから何度も撃ち込まれた。
 独研(独立総合研究所)は、自衛隊幹部学校から研修生を毎年、ふたり受け容れている。
 その研修経験者も、イラクに派遣された。
 ぼくは、彼らの出発前に、いったん、別れの水盃(みずさかずき)を交わした。
 上記のような恐ろしい真実があるからだ。

 ぼくは、敬愛する自衛官たちがイラクに入る前、すなわち戦闘下のイラクにひとりで入った。
 そして、この戦地に「ポジティヴ・リスト」、すなわち「してもいいと厳密に(いや、ほんとうは形式的に)指定されたことだけしかできない」というリストを背中に背負わされた自衛官を送り込むことの無茶ら苦茶らぶりに、寒気を覚えた。

 まったく非武装の民間人のぼくですら、イラク戦争で少なくとも三度、間近な死に直面した。
 自衛隊は武装している。テロリストも、諸国の軍も、まさか日本の将兵だけ、世界にただひとつの奇っ怪なリスト、現実離れした制約を背負っているとは夢にも思わない。普通の将兵と同じように見なして、攻撃もすれば、助けも求めるのだ。

 諸国の軍の、たとえば佐官といった高級将校や将軍のなかには、自衛隊の想像を絶する不可思議な実情を知っている人も、稀には、いる。
 しかし、前線の将兵は、そんなこと知りゃしない。
 ましてや、テロリストは、委細かまわず、攻撃してくる。


▼憲法を改正し、自衛隊を国防軍にするというのは、上記のような、あまりに愚かしいことを正して、日本の防衛力に国際法に基づく、正当そのものの権利を付与し、それによって、二度と自国民が北朝鮮の工作員ごときに拉致されて人生を奪われないようすることだ。
 名前を変えることじゃない。

 あるいは、自国の領土に韓国の大統領や警備隊という名の侵略兵や、自国の領海に中国の偽装漁船や公船という名の海軍偵察船やら、それやこれや無法の輩(やから)が不法に入ることを、もはや許さないということにも繋がっていく。

 マスメディアも政治家も、争点をすり替えるな。
 わたしたち有権者こそは、核心をそらさずに、真っ直ぐ考え、議論し、投票したい。

 ぼくは、かつて青年会議所(JC)の憲法セミナーで講演したあと、JCの諸君との懇親会で乾杯を頼まれたとき、思わず、「おれたちの憲法はおれたちで創ろう!乾杯」と叫んだ。
 青年たちは、どっと喝采し、口々に「そうだ!」と声をあげ、ぼくは日本国が前へ進む予感がして、こころの底から嬉しかった。
 こういう立場の有権者も、そして、現在の憲法を一字一句変えるなという立場の有権者も、「国防軍の公約」を機に、活き活きと議論したい。
 その機会を奪おうとする、すり替えは、最低だ。


▼…といった話をしてから、拉致事件をどうやって解決するかの問題提起や、メタンハイドレートをめぐる希望のことを話したりしているうちに、どんどん時間がなくなり、とうとう「この時刻に会場を出ないと、新幹線に間に合いません」とY秘書から言われていた時間を、過ぎてしまった。

 それでも、硫黄島の英霊のかたがたと、沖縄の白梅の少女たちのことも、たとえ一言二言でも話したかった。
 わずかながら、それにも触れて、ようやく講演を打ちきって、いや終えて、タクシーに飛び乗ったとき、Y秘書の口から「もう、どうせ間に合いません」という言葉が漏れた。


▼そして、以前にもこうやって新幹線に遅れたとき、どれほど、しんどい思いをして東京に帰ったかを、ふたりで思い出した。

 それでも運転手さんは、なんとか間に合わせようと最善の努力を尽くしてくれた。
 しかし、京都は紅葉の季節がまだ続き、日曜の道路は混んでいる。
 京都駅に着いたときは、ちょうど新幹線が発車した、その時刻だった。
 ぼくは足が速いけど、Y秘書も速い。ふたりとも、2分もあれば間に合ってみせると意気込んでいたから、がっくり。
 まぁしかし、駆け込み乗車はいけないしね。

 ぼくは前に、同じように講演を延長したために、名古屋駅で、新幹線のドアに挟まれたことがある。
 とっさに、おのれより、手に抱えていたモバイル・パソコンを護ろうとして手の甲を突っ張ったら、新幹線のドアの力は恐ろしいほどに強く、手の甲の骨が折れるかと思った。
 さすが、猛速で走る新幹線、素晴らしいドアだと感心したけど、すでに車内にいたY秘書は、ぼくが潰されるんじゃないかと本気で心配したようだった。
 もちろん、ぼくが悪い。幸い、ぼくは無事だった。

 そのY秘書は素早く、改札口の係員と交渉し、係員のすすめで、すぐあとの新幹線に飛び乗った。意外にすいていて、ふたりとも、ホッとした。
 Y秘書に「タクシーの運転手さんが責任を感じていたりしてはいけないから、すぐに、問題なく次の電車に乗れましたよと、電話してくれ」と言うと、彼女は、ぼくが言う前から良く分かっていたようだった。
 まだ24歳の若さだけど、苦労して育っているから、人の心が良く分かる。


▼都内の仕事部屋に帰り着くと、もう夜の10時を回っている。
 明日は、福岡のRKB毎日放送テレビの選挙特番の生放送に参加する。
 これも日帰り出張。
 先日からずっとずっと毎日、日帰り出張が続いている。
 すこし体を休めないと生放送のバトルで頭が回らないと思った。

 そのまえに、仕事部屋の洗濯ものを洗わなきゃ。
 それに、まもなくサンフランシスコへ出発し、資源や地球科学、宇宙をめぐる世界最大の学会、AGU(地球物理学連合)で口頭発表するのだから、寝ないで仕事するのなら、その準備を優先させなきゃ。
 しかし、まずは青山繁子、ポメラニアンの繁子ちゃんとすこし遊んであげなきゃ。

 先にシスコに出発した青山千春博士から、「出がけに繁子が、遠出に気づいて、泣き叫んだ」というEメールが届いていた。
 繁子は、ことし夏の暑さでいったん、すこし弱っていたけど、涼しくなってから、元気全開。9歳になっても、子供時代とおんなじだ。
 そこで、仕事部屋を出て、自宅に帰る。
 繁子が飛びついてきて、ものすごいぺろぺろ攻撃。
 しばらく一緒に遊んでから、モバイル・パソコンで、まずは、独研(独立総合研究所)が配信している会員制レポート「東京コンフィデンシャル・レポート」(TCR)の続きを執筆する。
 繁子は、ぼくの太ももに頭を預けて甘えている。


【12月3日月曜】

▼日付が変わって、次男が久しぶりに帰ってきた。
 美大を出て、いまはゲームの制作の仕事をしている彼は、たいへんに忙しい。けれども、今回も繁子の世話をする当番を引き受けてくれた。

 そこで、繁子を彼に預けて、未明の街を、仕事部屋に戻る。
 TCRの仕上げと、学会準備にかかろうとして、そのまえに郵便物をチェックする。

 その郵便物のなかに一冊の本が入っている。
 なんと、流通ジャーナリストの金子哲雄さんが、みずからの死への歩みを綴った本だ。
 金子さんの奥様が送ってくださった。
 この書は放っておけなかった。
 すぐに手に取り、読み始める。

(続く) *写真は、恐縮ながら、ぼくの足、パソコンのコード、そして繁子

サンフランシスコへ向かう前に

2012年12月04日 | Weblog
*日々の点描 オン・ボード その1

【西暦2012年/平成24年/わたしたちの大切なオリジナル・カレンダー皇紀2672年12月2日・日曜】

▼気がつけば、未明3時過ぎ。仕事の電子メールに最低限の返答をしているだけで、もう、魔物の時間だ。
 いつの間にか仕事の範囲が想像を超えて広がっているから、国内と海外からやって来る、お仕事メールはジグソーパズルのようだ。なんとなく宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出す。
 もちろん、「注文の多い料理店」の中身は関係ない。タイトルからの連想だけ。

 小学校の低学年から高校を卒業するまで、日本と世界の童話という童話を読み漁った。
 中学の頃、童話には大きく分けて、ヒューマンなものと、幻想の世界のものと、ふたつあると考え、「両方とも好きだけど、ぼくはヒューマンな作品の方がもっと好きだなぁ」と思った。
 ところが、宮沢賢治の作品群だけは読めば読むほど、幻想的で、テーマが良く分からない作品のほうが、好きになった。その代表のひとつが、「注文の多い料理店」だった。今でも、山猫がドアの小窓から覗いている挿絵をありありと思い出す。

 メールへの回答だけで時間が過ぎるのはちと、がっかり。ぼくは、もっと書きたい。メールへの返答は欠かせないから、もっと集中力を高めるしかないなぁ。


▼うとうとと、少し仮眠すると、もう朝。
 独研(独立総合研究所)総務部の秘書室第2課(同行担当)の YO 秘書がやって来る。
 独研は、週末には社員を休ませる方針だから、ふだんの日曜出張は、取締役の青山千春博士(自然科学部長)が同行する。
 だけど今週は、サンフランシスコで例年通りに開かれる、世界最大の資源・地球科学をめぐる学会のAGU(American Geophysics Union/地球物理学連合)が迫っているから、青山千春博士は独研・自然科学部長として論文の仕上げに忙しく、とても同行は無理。
 そこでYO秘書の出番になった。彼女はもう事前に、振替休日をとっている。

 ロータス・エリーゼを運転し、Y秘書と品川駅へ。
 新幹線で京都へ。
 車中は、ぼくもY秘書も品川で買った駅弁を楽しんで食べてから、、仕事、仕事。
 ことしのAGUでは、独研は、ぼくも含めて3人が発表する。ぼくは英語で口頭発表をする。だから準備を急ぎたいけど、まずは、出発前に次から次へと講演をこなさねば。
 京都からタクシーで滋賀県の高島市へ向かう。

 懐かしい琵琶湖の水面(みなも)が穏やかで、山の紅葉も美しい。
 共同通信の京都支局時代に、よく琵琶湖に来た。
 共同通信の夏の保養所に両親を招待したら、母は「暑くて寝られない」と文句を言いつつ笑っていた。繊維会社の社長だった父は、「まぁ、こんなもんだろう」と言って、さっさと寝息を立てていた。
 母は、現在はぼくたちが介護し、たった今は入院中だ。父は、現役の社長のまま、医療ミスで急逝した。
 ぼくの心身を強く生んで、育ててくれた父と母。顧みても、顧みても、父を喪ったことを心の底で諦めきれない。

 次第に高島市が近づいてきた。
(続く)