Our World Time

ミニ報告(続の続)

2011年02月23日 | Weblog
生と死のリアルタイム その3

▼いま2月23日水曜の未明1時すぎ。
 大腸癌を、おそらくは転移の寸前で、切除することができた手術から7日目に入りました。
 都内の大病院のベッドの上にいます。ぶるーまうんてん・おん・ざ・べっど。

 きのう、術後6日目の22日火曜、夜7時すぎに、初めて病院の外へ出ました。
 もちろん執刀医(副院長)の許可を得て、寝間着じゃなくスーツを着て。
 傷口に分厚い5重のガーゼを当て、切腹した患者専用の腹帯(ふくたい)を巻き、そうするとズボンの前フックがなかなか掛からなくて、ちょっと汗。

 病院から、有楽町(東京・千代田区)マリオン11階の朝日ホールへ。
 東京青年会議所(JC)主催のシンポジウムで、安倍晋三・元総理の講演のあと、ぼくと理事長の奥山卓さんのふたりで対談。すべて東京JCの企画です。
 とにかく声を出すと、腹の内の傷が、痛むこと痛むこと。
 看護師さんによると、ぼくの発声法は完全に腹式呼吸だそうで、要は腹筋を使って声を出しているから「そりゃ、青山さんの場合は、声を出せば出すほど痛むのは当たり前です」(担当看護師さとこさん)とのこと。

 しかし対談で声を出さねば、対談になりませぬ。
 この公開対談は、もちろん手術前から決まっていた予定で、東京JCの諸君は、それぞれが若手企業人として忙しい日々のなかで徹夜も重ねながら準備してきたことは、ありありと想像できます。
 それに平日の遅い時間に集まってくださった一般聴衆のかたがたに、聴きとりにくい声は出せません。

 だから、まさしく腹を決めて、なるべくふだん通りに腹から声を出しました。
 痛みは我慢できるけど、どんどん背中が曲がる。自然に背中を曲げて、体を丸めて、耐えようとしているらしい。
 しかし執刀医もおっしゃっていた。「傷口が開いてしまうことだけは、ありません」。んなら問題ない。実害は、ない。

 39歳の奥山理事長の仕切りは、予想以上にじょうずで、問題提起も豊かです。
 10年後、そして20年後の、このぼくらの祖国をどんな国にしておくべきか。憲法はどうする、自衛隊か国民軍か、中国との経済関係をどうする、教育をどうする、そして産油国が動揺するなかエネルギーと資源は、これまでの「日本はいつまでも資源小国という思い込み」のままでいいのか。
 ひとつひとつの問題提起に、声に祈りを乗せて、つたないながらに、お答えしました。

 そしてぼくは、たとえば「1票の責任というのは、投票当日に無事に1票を投じれば、それで良いかのように総務省、旧自治省が国民にアピールしているのは間違いです。せっかくの小選挙区を生かして、身近になった候補者に、たとえば憲法をこうしなければ、わたしはあなたに投票しない、逆に、憲法をこうするのならば、必ず投票すると告げるといったことをはじめ、ただ投票日に有権者というだけではなくて、ひとりひとりが日本の最終責任者として、それぞれの信念に基づいて候補者に選択を迫る行動をとる、それを含めての、1票の責任ではないでしょうか」といった話をいたしました。

 最後は冷や汗も出ていたようだけど、気になりませんでした。(奥山さんは、舞台の上で気にしてくれていたようです…ありがとう,こころから)
 正直、気にするどころじゃなかった。
 この聴衆のかたがたと、出逢い、一緒に祖国を考えるのは、ただの一度切りかもしれない。来てくださった人々は、どのひとも、人生の二度と帰らない時間を費やしています。
 それに東京JCの諸君の志と誠実な努力にも、非力なりに応えたかった。

 病院への帰り道、腹は牙をむくように猛然と痛んだけど、夜10時前に病室に戻り、ベッドの上でパソコンで仕事をするうち、つまり無言でいるうちに、次第に、この頃の平均的な痛みに戻りました。
 オッケー。


▼きょう水曜日は、朝7時16分ぐらいから、RKB毎日放送の「スタミナ・ラジオ」生放送に携帯電話で参加(出演)します。
 そして夕刻には、関西テレビの報道番組「スーパー・ニュース・アンカー」のレギュラーコーナー「青山のニュースDEズバリ」を、関テレの東京支社からナマでやります。

 二度、声を使うわけだけど、公開対談ほど腹筋を使うはずはないから、心配はしていません。
 それより、放送の内容です。海外を含めてEメールと携帯電話の取材を続けます。


▼いまの段階の最大の恐怖は、実は、発声で腹筋を使うことではなく、咳が出たときの強烈無比、残忍至極の、腹の痛みです。
 重症肺炎をどうにか治して、しかし咳だけは残ったまま、手術に入ったから、術中と、術後34時間の地獄の痛みの時には出なかった咳が、いまは、か~な~り、出るのです。
 その痛み、発声して出る痛みの比じゃない。
 看護師さんの親身のアドバイス通り、咳が出始めると、お腹を押さえて咳き込むようにしているのだけど、まったく効かない。ダイレクトに響きます。

 つまり、天はいろいろな試煉を与えてくれているわけです。



 写真は、この病院に入院した初日の2月16日水曜午後5時11分、すなわち翌朝の手術の15時間ほど前です。いつもなら関西テレビの「スーパー・ニュース・アンカー」生放送で、レギュラーコーナーの始まりぐらいですね。
 病室の窓から、淡々と「最期の夕陽かもしれないね。それは、それで、よい」と思いつつ、静かに眺めました。

 きのう術後6日目の朝、久しぶりに、日本の日の出に向かって手を合わせて祈ることができました。
 それが嬉しかった。
 そして、朝陽も夕陽も、大好きです。
 まさしく生と死を、日々、語っているからでもあります。
 癌手術のおかげで、生と死のリアルタイムを過ごすことができるのは、魂の幸福です。

 

ミニ報告(続)

2011年02月19日 | Weblog
生と死のリアルタイム  その2


▼いま2月18日金曜の午前2時すぎ、腹を開いて大腸癌を切除する手術が終わって16時間ほどが経過しました。(*)
 悪夢のような激痛の時間は過ぎ去って、ぐるぐる世界が回る目眩(めまい)は続いているものの、新しい力を感じ始めています。

 手術前夜は、どうしても終えておかねばならない仕事、それも無償の仕事だからこそ裏切れない仕事をひとつひとつすべて完遂して、ほぼ朝になりました。
 朝、診察に来られた執刀医(副院長)は、苦笑しつつ、「ま、これから麻酔でぐっすり眠ってもらいますから」」とおっしゃい、まわりの看護師さんたちの緊張感がそれで一瞬、ほぐれたようでした。
 ダンディで余裕のある感じの副院長は、『日本はやっぱり適材適所で(政界以外は)良い人材がいらっしゃるんだなぁ』と思わせるようなひとです。
 このブログは読んでらっしゃらないと思うから、お世辞じゃありませぬ。

 そして2月17日木曜の午前8時半、点滴をぶら下げて歩いて手術室へ。
 朝一番の手術室の大きなドアの前には、何人ものクランケ(患者)が一列に並びます。
 ぼくなんぞよりもはるかに深く、長く難病に苦しんでおられる気配のかた、じっと目をつぶる車椅子の高齢のかた、看護師さんと一見は明るく話している若いひと、それぞれが同じ巨船に乗り合わせて、戦いの始まりです。

 ぼくは若い事件記者時代に、医事記事を並行して書いていたときがあるから、手術室は初めてじゃないけど、この病院の手術室の広いのには感嘆しました。
 そのなかのひとつの手術台に乗り、体を横たえると、まず脊髄への麻酔注射です。
 ぼくの受けたのは硬膜外麻酔という熟練の技が求められる麻酔術で、脊髄の中の硬膜の一歩手前で針を寸止めし、麻酔薬を注入します。脊髄の中の硬膜を破ってしまうよりも、患者には恩恵があると言われています。

 この注射を受けるためには、思い切り体を丸めます。
「さぁ、丸めてください」と声がかかって、両足を抱え込み、生まれたばかりの小鳥のように首も丸め込みます。アルペンスキーの抱え込みにも似ていて、体の柔らかいぼくには難しくはない体勢です。
 麻酔医と看護師さんから「これは、やりやすい」、「うんと曲がりましたね」と声があがるなかで、ぼくは胸の内で『生まれてくるときの胎児の姿勢にいちばん似ているな。ぼくはこうやって生まれてきたんだ。お母さん、ありがとう』と、呟いていました。

 この硬膜外の脊髄注射は、あまり痛くないと聞いていたのだけど、これが意外に痛かった。しかも何度も繰り返されます。しかし、てきぱきとうまくいっている雰囲気でもありました。
 それが終わると、仰向けに四肢を伸ばして、ちょうど拷問台に磔(はりつけ)になるように固定されます。
 そして全身麻酔です。静脈麻酔薬の注入と合わせて、マスクが近づいてきます。このマスクを顔に被ったら、もう、あっという間です。ぼく意識を失ったのでしょう。呼吸も止まり、人工呼吸に切り替わったのでしょう。自分では何も分かりません。


▼そして気がつくと、病室のベッドに戻っていました。
 全身に、さまざまな管(くだ、まちがっても、かんではありません)パイプやら針やらが刺さってはいますが、なにやら快適な気分です。
 つまり麻酔がまだ適度に効いているのですね。

 手術は予定の2時間半よりずっと早く、1時間45分ほどで終わりました。
 そして、看護師さんから「先生(執刀医)が、青山さんのご家族に、手術は成功、転移はなし、とおっしゃっていましたよ」と告げられ、ぼくは、その看護婦さんの優しい声にも、すべてに感謝しました。

 実は、転移は心配されていたのです。
 ひとつには、これまでこの事実は一切、伏せていましたが、ほんとうは、癌は早期ではあっても全くの初期ではなく、粘膜から静脈への浸潤を起こしていました。

 もうひとつには、癌の発見から時間が経ちすぎました。
 ぼく自身、『せっかく癌を発見しておきながら、講演会のようにキャンセルすると主催者がきっと茫然自失になるほど困るような仕事はどうしてもキャンセルできずに、すべて完遂してしまった。これが、ぼくの癌には致命的かもしれない。しかし、ぼくにはその生き方しかできないのだから、万、やむを得ぬ』と、繰り返し考えてました。

 執刀医もすこし心配そうな表情でしたが、「静脈に浸潤したからといって、直ちに転移するのじゃない。血液によって癌細胞が全身にまき散らされるというイメージは俗説、間違いです。問題は、リンパまで行っているかどうかです。青山さんの免疫力の強い体質などを考えても、リンパには行っていないでしょう」とおっしゃっていました。
 ただ同時に、執刀医の表情には、不安も浮かんでいました。ぼくの社会的立場や、信念を理解すると、もはや止められないが、しかし…という表情でもありました。

 その事実があったので、「遺書ならざる遺書」もここにアップし、この「生と死のリアルタイム」もアップしたのでした。全身麻酔の万が一のリスクに、きちんと備える以外に、これがありました。
 だから「転移なし」という第一報は、事情を知る人間みんなにとって、なにより朗報でした。
 もちろん、これはお腹の中を見た第一報であって、詳しい病理検査、組織検査を待たねばなりませんが。
 癌は、ぼくのリンパには届いていなかった。浸潤していた粘膜やら静脈と一緒に、体外へ去って行きました。それは真実です。


▼そして、手術から、そうですね2時間ほどの間は、苦痛がほとんど無かったのです。
 術後の診察に来られた執刀医に、「どうですか」と聞かれて「快適です」と答えて、またまた苦笑されたほどでした。
 パイプに管に針だらけの全身で、快適とは、そりゃないですよね。ふひ。

 切開した傷のある腹から体液を出すドレーンが2本、おしっこに行けない泌尿器から尿を出すカテーテル、食べられない食べ物の代わりに電解質を入れる点滴、抗生物質を入れる点滴、痛み止めを入れる点滴のそれぞれの管が腕に計3本、鼻には酸素マスク、それから口の中と、右足に何かの管が入っている。
 自分で分かっただけで、これだけ。他にも何かあったかもしれない。
 ぼくは、どちらかと言えば自然児の体質で、ふだんは体に何かが入っていたり、くっついているのが苦手で、ブレスレットのたぐいはおろか時計もしたくない。だから、この管にパイプに針は、それはかなり辛かった。
 それでも全体としては、「快適だなぁ」が実感だったのです。ひどい苦痛を覚悟していましたから。

 ところが昼を過ぎて、午後1時前後でしょうか、凄絶な、言葉にならないような痛みが始まったのです。
 ちょうど腹を開いたところ、その奥のほうの体内を、あらためて、切っ先鋭い大型ナイフで好きなようにそこらじゅうを刺し回ったり、掻きまわされるような痛みで、そこを中心に、左腰の全体が、たとえようもない痛みに包まれました。
 痛み止めの点滴の間隔を縮めても、薬そのものを強くしても、何をしてもまったく効かない。
 ぼくはちょうど2年前に、スキージャンプで墜落して、同じ左腰の骨(横突起)を5本すべて、引きちぎるように骨折した時を思い出しました。
 そのとき、この世で最悪の痛みだと思ったけれど、どっちがほんとうの最悪かなぁ、こっちかなぁ、あっちかなぁ、なんてことを頭の隅で考えながら、呼吸までやや困難になり、高熱は発し、もう、むちゃらくちゃら。

 それでもね、失恋と同じで時間が助けてくれる、人類の智恵を集めた医学が助けてくれる、何人もの看護婦さんと医師が助けてくれる。
 いちばん赤黒い泥のような苦痛の時間から、10時間ぐらい経った今は、こうやってベッドの上で半身を起こして、パソコンが打てるようにまで、なったのです。

 もちろん、半身を起こしていると、痛い。パソコンを打っていると痛い。
 だけど看護婦さんも「寝たきりでいると筋肉が固まって、よけいに痛いですから、少々は無理をしてもいいですよ、やってください」とスイセンしてくれるので、みなさん、忘れてしまわないうちに手術前後を記しました。
 決して、看護婦さんに隠れてやっているのでは、ありませぬ。

 そして、この小さな記録の最後に、ぼくがいちばん呆然としたことがありました。
 いまパソコンで日付を確認したら、2月18日金曜ではなく、19日の土曜日です。
 そんな馬鹿な。ぼくが入院したのは、ふだんなら大阪に出張して関西テレビの「スーパーニュース・アンカー」の生放送に参加(出演)している水曜で、手術したのは、その翌日の木曜日、17日だ。
 今日はそれから一夜、明けたのだかから、18日金曜日。そのはず。

 しかし携帯電話で確認しても19日土曜、ネットの新聞を見ても19日土曜。
 うーむ。ぼくは実際には、まるまるもう一日、あの赤黒い苦痛の中にいたのです。
 だから、この書き込みを書き始めたのは、18日金曜午前2時過ぎではなく19日土曜の午前2時過ぎ、手術から16時間じゃなくて40時間だったのです。(*)

 苦痛との戦いは、最悪の時間が10時間ほどだったのではなくて、実に、34時間ほどでした。
 それがまったく分からないほどに、もがき苦しんだようです。意識は終始、きちんとあったのです。
 まぁ、痛みなんて、くぐり抜ければ、ただの思い出、だからこそまたスキーもしたいのですから。


▼写真はいずれも、最悪の苦痛のときではなくて、ぼくが手術室から帰った直後のものです。痛みが始まる前です。
 なんか顔色はいいですよね。
 危機に対抗して、命の力がどっと湧き出ていたのかもしれません。
 父母に、あらためて魂から感謝しています。

ミニ報告

2011年02月17日 | Weblog
生と死のリアルタイム その1


▼いま夜10時半、都心の大きな病院の一室にいます。
 きょう2月16日の午前、入院しました。看護師さんのひとりが「いよいよですね」と、すこし緊張した笑顔でおっしゃったのが、こころに残りました。

 窓から、寝静まっていく、この病院の一角がみえます。
 ぼくだけのことではない、というより、ぼくの病などまったく比べものにならないほど深い、重い病と、戦っているひとびとの呼吸が感じられるのです。
 薄明るい窓や、ただ暗い窓が並ぶ、夜の大病院は、生と死を乗せた巨大な船体が、闇夜の海を静かに進んでいくようです。


▼ゆうべは徹夜のまま朝を迎え、朝6時45分から自宅で15分おきに大量の下剤を飲んでいくことから、ぼくの小さな戦いは、始まりました。
 その中でラジオ出演を準備し、生放送に電話で参加するのは、なかなかスリリングでありました。なにせ、いざとなったら超プライベート・ルーム、つまりトイレから携帯電話でリスナーに語りかけるわけですから。

 このラジオも、万一の場合は最後になるから、ふだんと違って「子々孫々に、どんな祖国を手渡していくか」について建国記念の日(紀元節)を例に、お話ししました。
 幸い、超プライベート・ルームからではなく、自宅の窓辺でお話しできた。

 ラジオが終わると、てんやわんやで入院の荷物作りをして、病院へ。
 さまざまな承諾書、つまり万一のときは死もあり得る手術だと承知して受けるという承諾書への署名やら何やらの手続きから、かなり強い麻酔も使った大腸の内視鏡検査や、レントゲン撮影、採血に次ぐ採血といった術前検査までをどんどんこなしながら、執刀医(外科・副院長)の開腹手術の懇切丁寧なブリーフィングをはじめ、主治医、病室担当の看護師、手術室担当の看護師、薬剤師、栄養士などなどの訪問と問いかけに次から次へと応えていきます。
 そして、そこに実は、さまざまな仕事が錯綜して押しかけてくる。
 検査の影響でお腹の痛みや強烈な張りを、ほんとうはかなり痛切に感じながら、腸の切除に備えてもう50時間以上、まったく何も食べていないから、ふらふらで、それを補うための点滴がずっと続く。ゆうべの徹夜の眠気も押し寄せる。
 明日の手術のあとは、呼吸を再開するのも、起き上がるのも、練習が必要ということで、担当看護師さんが熱心に指導してくれて、腹の傷をかばいながら、いかにして腹の痛みを最小限度に抑えてベッドから起きるかの練習をも繰り返す。
 ただ寝て回復を待つのではなく、あえて動いて早い回復を図るのが、この病院をはじめ医学界の趨勢です。ぼくには、ぴったり合っています。

 正直、前日からこれほど複雑に忙しいとは思わなかったけれど、夜になるにつれ、人生のひとときにこの場所にいることが、なんとなく面白く、まぁ信じがたいことに聞こえるだろうけど、どこか楽しくもある。

 そのなかで夕刻、看護師さんが、にーこにこと、明るい笑顔で花を抱えて病室に入ってきました。
 会員制レポートの会員から3者連名で、思いがけず花を贈ってくださった。添えられたカードも印象深い。
 夜、来週に講演再開の第1号になるシンポジウム(東京青年会議所例会/2月22日火曜夜7時から9時/有楽町朝日ホール/安倍晋三元首相が講演され、ぼくは奥山卓・東京青年会議所理事長と対談します)の打ち合わせで、東京青年会議所の幹部の面々が、病室にお出でになった。こちらは、おいしそうなジュースの詰め合わせを、これも思いがけずくださった。ジュースも飲んじゃいけない完全絶食のさなかだから、正直、苦しいほどに飲みたかった。
『手術を乗り切って、このジュースを思い切り飲もう』と思わせてくれたから、ベストのお見舞いです。ありがとう、こころから。
 ただし、みなさん、お見舞いはこれでもう充分。あとはすべてお気持ちだけをいただきます。


▼みなさんの励ましを、どっと溢れるように、この地味ブログにいただきました。
(*この地味ブログへのコメント欄は、閉鎖しているのではなく、いただいたコメントの公開を一時的に保留にしているだけです。いずれは公開します。ただし、公開しないでね、と書いてあるコメントは決して公開しませんから安心なさってください)

 その励ましには、ぼくは必ず応えます。
 そして、いまもしも生を終えるのなら、2つ大きな後悔が生まれてしまいます。ひとつは、ぼくの背骨をつくってくれた母に先立つこと、もうひとつは、物書きとしてまったく不充分な足跡しか残していないことです。
 ここで死ねば、「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」(PHP)が絶筆になってしまいます。あとは仕上げだけの「ぼくらの祖国」(扶桑社)を必ず、刊行せねばならないし、書きかけのいくつもの小説を世に問わねばなりません。
 そもそも早期の大腸癌は、予定通りであれば、何らの問題でもありませぬ。

 執刀医(副院長)が、上述のブリーフィングで「この手術1回で完治します」と断言なさったことにすこし驚き、深く感謝しました。
「あと、どれぐらい発見が遅かったら、手遅れでしたか」と聞いてみると、「半年ですね」と、これも明言されました。
 人間ドックを一度も受けようとしなかったぼくに、手遅れにならないうちに癌を発見させてくださった天と、諦めずにずっと受診を薦めてくれた独研(独立総合研究所)の歴代の秘書さんたちに、こころの底から感謝します。

 執刀医の断言も、「アクシデントが無かったら」ということであり、死をも受け容れる覚悟はできています。腹は、すとんと定まっています。

 しかし、励ましてくれたみなさんと、母と、現役社長のまま医療過誤で無念の死を遂げた父と、そして仕上げと出版を待つ原稿たちのために、手術と術後に、ぼくなりの最善を尽くします。


▼「遺書ならざる遺書」その2も、いずれアップします。
 そして、この「生と死のリアルタイム」も、並行してアップしていこうかなと思っています。ただし、可能であれば…ですが。

 冒頭の写真は、そのお花とジュース、ぼくの腕は点滴の針が入っています。
 枕元には、無償の仕事のペーパーです。至急に仕上げねばなりません。
 ぼくは…疲れたひどい顔ですが、静かな戦いの顔でもあります。


その1

2011年02月16日 | Weblog
遺書ならざる遺書 その1

 2月15日火曜 深更に帰京する新幹線車中にて


▼ぼくは大腸癌です。
 世にささやかながら発信している立場ですから、ここに公表します。

 ただ、早期の大腸癌ですから、手術して大腸を10センチほど切除し、入院からわずか1週間で退院し、即、すべての仕事に復帰します。

 この2月15日の夜から、16日水曜の夜明けまでに、さまざまな至急の仕事(と言っても大半は無償の仕事)をひとつひとつ完遂してから、早朝いつも通りにRKB毎日放送(福岡)のラジオ番組に電話で参加(出演)し、午前10時、都内の病院に入院し、17日木曜にお腹を開いて手術、その翌週に退院します。

 手術に、特に問題はありません。
 ただ、痛み止めのための硬膜外麻酔(脊髄への麻酔)と、それから全身麻酔をおこなって開腹しますから、死亡の可能性はあります。
 きのう2月14日の月曜に、重なり合う仕事のあいまに大急ぎで病院に行き、麻酔科の診察を受けました。術前のプロセスの始まりです。
 診察室での会話の一部をちょっと、忠実に再現してみましょう。

 麻酔医  「全身麻酔では、意識がなくなります。呼吸も止まります」
 あおやま 「じゃ、死人と同じですね」
 麻酔医  「そう、死人と同じ…あ、いや、心臓が動いてますよ、心臓が」
 あおやま 「あ、心臓、確かに。しかし、この(患者が手渡される)注意書きには、20万例に1人は死亡する、と書いてありますね」
 麻酔医  「うん、日本はまだ少ないほうですがね、どうしても20万回に1回は、目 が覚めなくて亡くなってしまう。だけどまぁ、ほかの国に比べれば、まだ少ないほうですから、ね?」
 あおやま 「ええ、少ないほうでしょうね。その20万回に1人がぼくでも、天命ですから、先生、問題ないですよ」

 ぼくは共同通信の若手記者のころ、事件取材のあいまに国立大学の医学部を回り、医事記事も書いていた時期があります。それを思い出しながら、このすこし珍妙な会話を、いくらか楽しみました。

 楽しみながら、あらためて、おのれの死に備えて覚悟を定め直しました。
 実際に、ぼくが20万例の1つになることは、もちろんあり得ます。自分だけが特別ということは、まったく考えません。違う統計では10万例に1人が亡くなっているという数字もあります。全身麻酔という人類の偉大な智恵のなかに、死は確実に潜んでいます。
 そして何より、生まれてこの方、意識をすべて失い呼吸も止まるという経験はありません。人生が、すべてが、不意に喪われるという、世界でありふれた出来事に自分も、少なくともいったんは近づくのが現実です。

 したがって、遺書を、この地味なブログに書き置いていくことにしました。
 ただし、アクシデントが無ければ、たったの1週間で全仕事に復帰するのですし、その短い入院中も、実は仕事はゼロではありません。
 だから、遺書ならざる遺書、遺書にはなれない遺書です。

 けれども、かりそめに書くのではありませぬ。いたずらで書くのでもありませぬ。
 仮にも、親から、ご先祖から、祖国からいただいた、かけがえのない命にまつわる書きものですから。
 そこで、これまで決して書かなかったことを含めて、書き留めていきます。


▼去年11月の1日と2日に、生まれて初めて、人間ドックに入りました。
 そのとき大腸の内視鏡検査でポリープが3つ、見つかり、うちひとつは腸内をほとんど塞ぐほどに大きかった。不思議でした。快便の日々だったからです。
快食快便ではなかった。食事はきわめて不規則で、カップ麺だけの時もあります。残念ながら快食ではなかった。けれども何をどう食べても、最後は快便だった。こんなに巨大で醜いポリープに占領されながら、ぼくの腸はいったいどうやって、あんな快適な新陳代謝をつくり出すのだろうかと、不思議でした。
 そして、ポリープの一部組織の検査では、悪性ではなく良性だという結果が出ました。

 しかしぼくは、ありありと、子供時代の記憶を呼び戻していました。
 小学校の高学年のころ、『ぼくは大人になると、大腸ガンになるだろう』と、ふと考えたのです。なまなましい予感でした。

 ポリープがあまりに大きいので、良性でも取っておこうということになりましたが、入院・手術のできる日程がなかなかとれません。
 ようやく年末の12月27日から29日まで入院し、このときは開腹せず、レーザーで切除しました。
 切除したポリープのうち、ひとつはあまりに巨大であり、念のため小さなポリープ2つも併せて、本格的な組織検査に出すことになりました。
 まだ若い優しい医師は「こうなると癌の可能性も高くなりましたが、きっと癌ではないと思いますよ」と話し、1月11日にその結果を聞くことになりました。

 こうして癌の宣告の予感のなかで、大晦日も、お正月も過ごしました。
 ぼくの家系は、父方も母方も長寿家系で、癌になったひとは皆無に近いのです。老衰か事故死が大半です。ぼくは国内A級ライセンスを取り直してサーキットに戻っていたりしていますから、一族の誰もがぼくの事故を心配し、ぼくが癌になるとは、夢にも思ったひとはいないでしょう。
 癌の宣告を受ける予感と、「いや、一族に癌はいない」という事実のあいだで、しかし、ぼくは思い悩むことは一切無かったのです。
 これが最後の正月かもしれないと、胸の奥深くで思いながら、こころは澄みわたるようでした。死に向かいあうことで、余計なものが削ぎ落とされ、むしろ晴れやかな気持ちを味わいました。

 ぼくは家庭で武家教育を受けましたから、死をいつも意識し、子供の頃は死ぬのがとても怖い子供でした。
 それを超克する道程が、ぼくの人生でもありました。
 死を超克する道のりで、私(わたくし)を脱するという境地に出逢ったのです。
 その歩みが嘘ではなかった、おのれに嘘をついているのではなかったと、この静かな気持ちのお正月で確信し、それが嬉しかった。

 そして1月11日を迎え、若い医師の無言の顔をみた瞬間に、結果が分かりました。
 医師は、ぼくの顔を正視できないほどに、うなだれ、悲しそうに「残念ながら癌が見つかりました」と告げました。
 ぼくは、またも不思議だった。患者にいちいち感情移入していては、医師の体が持ちません。そんなことはしない習慣がついているはずなのに。
 医師はまるで、ご自身を励ますように「でも早期ですから、問題はありません。転移も無いと考えています」と言葉を続けました。
 この医師が、ぼくのささやかな発信をご存じなのかどうかは、知りません。ぼくは何も話していませんから。

 ぼくは、ただ淡々と、この癌の宣告を聞きました。どうやって入院・手術の日をひねり出すか、それだけを考えていました。
 なぜか。1月、2月は、とりわけ講演会が多かったのです。講演をやるための営業活動は基本的にしません。テレビ番組への参加(出演)とまったく同じで、向こうから自然にやってくる話を受けるだけです。
 講演もテレビも、独研(独立総合研究所)とぼくの本分、本来の仕事ではありませんから。
 それでも、この頃はほぼ毎日、講演会があり、そして講演するぼくは毎日のことでも、主催者は1年ほど前から準備し、チラシにぼくの名を刷り込み、苦労して配り、聴衆を集めています。
「ひとつの講演もキャンセルしない」、そう決めていました。主催者の労苦に違いはないからです。

 そして、今度は開腹手術を執刀するベテラン外科医の診察を受けて、手術日を決めねばなりません。
 しかし、その外科医の診察を受ける日が作れない。
 ことは急を要しています。その外科医の次の診察日に、必ず受診するように病院側から強く求められ、やむを得ず、公職の原子力政策・新大綱の策定会議に遅れていくこととし、1月14日金曜の朝に、外科医の診察を受けました。

「手術を3月以降にできませんか」
 そう聞いてみると、外科医は「見つかった癌を取らないまま3月なんて」と驚き、ぼくのお腹を調べて、「青山さんは腹に脂肪がついていないから、開口部を小さくできる。ふつうは最短でも2週間の入院が必要だけど、このお腹なら、1週間に入院を縮められる。その代わり、入院を急いでください」とおっしゃった。
 たまたま2月の半ばに、オランダでの講演などのために海外出張をする期間が、1週間、取ってありました。
 このオランダでの講演は、幸い、まだ告知もチラシ作りも始まっていなかったとのことで、かける迷惑は他よりは小さく、主催者のかたがたが深く理解してくれて、この海外出張を取りやめた1週間に、ようやく入院・手術を押し込むことができました。
 それが2月16日からの1週間なのです。


▼これ以外に、去年の夏から脇腹の痛みに襲われつつ我慢し、12月1日水曜の関西テレビ「スーパーニュース・アンカー」の生出演の際に、痛みが最高潮に達し、番組を気合いで終えたあと、救急病院へ行き、尿路結石と分かりました。

 それから、1月14日の夜から、実に10日間、夜には42度や41度まで体温が上がる高熱を発し、朝にはどうにか熱を下げて仕事を遂行するという地獄のような繰り返しとなり、ようやく近所の開業医に診てもらうと、重篤な肺炎で、そして敗血症による多臓器不全で急死する一歩手前だったそうです。

 かの偉大なヘレン・ケラーになぞらえるのは、あまりに僭越ですが、まぁ実際、癌を加えた三重苦だったわけですね。ふひ。
 尿路結石と、肺炎は、押さえ込みました。
 2月16日からが、最後の戦い?です。


▼人間ドックからは実に3か月半を経て、ようやく、この腹に巣くった癌細胞を切除します。
 この間に転移したら、とは、ぼくも考えました。

 しかし、さまざまな講演会や、公(おおやけ)の会議、それらを準備されてきたひとびとの労苦を、どうしても無にはできなかった。
 これがぼくの生き方だから、やむを得ません。

 癌だけではなく脳卒中や高血圧すらいない長寿家系、そのなかでも格段に体力があることを一族のみなが知っているぼくが、ただひとり、なぜ癌になったのか。
 劣化ウラン弾によって汚染された戦地を歩いたからか、尋常ならざるストレスのせいか、それは分かりません。
 分からないし、詮索するつもりもない。誰のせいでもなく、ぼく自身の招いたことだからです。

 さて、この遺書ならざる遺書に書き留める、「今までは決して書かなかったこと」とは、上記のことではありません。
 それは、「その2」以降に書いていきます。


▼きょう2月15日火曜は、大阪の守口門真青年会議所(JC)の招きで、青年諸君と、広く市民のかたがたのために、夜7時から講演しました。
 講演時間が短かったから、ぎりぎりまで、いや、ぎりぎりを超えて、話し、問いかけ、一緒に考え、そして最終の新幹線に何とか間に合ったとき、新大阪駅で、みごとに転んでしまいました。
 手術に備えて、何十時間も絶食していますから、ぼくなりに死力を尽くした講演のあと、実はふらふらでした。

 物凄い音とともにパソコンを駅の通路に叩きつけてしまい、パソコンはどうやら無事ですが、通信のためのUSBデバイスを壊してしまいました。
 そのため新幹線の車中でネットにつないでアップする予定が不可能となり、アップ時間が遅れました。新幹線を降りたら、至急の仕事がいくつも待っていました。無償の仕事だからといって手を抜くわけにはいきません。
 もうすぐ、夜が明けていきます。
「その2」はいつ、書けるか。なるべく入院中に書きたいですね。退院すると即、至急仕事の大津波が押し寄せてきますから。


その後

2011年02月06日 | Weblog
▼ぼく自身が発信し始めたと誤認されるような、事実上の偽ツィッターが開始された問題は、そのツィッターが消去され、ご本人から真意と経緯を説明し謝罪されるEメールが届きました。


▼ぼくから2月6日日曜の夜明け前に、「えらそうな言い方になりますが、許します」という返信を送りました。

 ただし、そのツィッターが完全に消されるまでに時間を要したことは遺憾です。

 また、その方はEメールのなかで「BOTであるから成りすましに等しい行為にはならない」という趣旨の考えを強調されていました。
 しかし、BOTであっても、わたし自身と誤認されるIDを勝手に取得されたり、自己紹介の欄に、わたしの履歴だけが書き連ねてあったりという事実がありましたから、結果として成りすまし行為に等しくなったという、ぼくの見解は変わりません。

 きのう2月5日の土曜は、独研(独立総合研究所)の秘書室も工夫し協力してくれて、いまの過密日程のなかを苦心惨憺して「原稿執筆に集中できる日」として空けてありました。
 しかし、降って湧いたこの騒ぎによって、会員制レポートの仕上げも、発刊が遅れている「ぼくらの祖国」の改稿も、いずれも、進めることができませんでした。
 この実害が最も大きい。失った時間は二度と取り返しがつかないし、この先、入院と手術も控えていて、その期間を確保するためにも、ずっと厳しいうえにも厳しい過密日程が続きます。原稿執筆日を再び確保することは、いったいいつできるのか、いまはまだ想像もできません。


▼しかし、これらをすべて踏まえたうえで…すなわち消去が遅かったこと、見解に相違があること、回復不能な実害が出たこと、それらを一切合切、踏まえたうえで、本心から、すべて許します。

 この方の善意を、あくまでも信じます。
 また、原稿を進められなかったのは、いかなる事情があろうとも最終的には、プロの書き手であるぼくに全責任があります。それが、仕事というものの永遠の鉄則です。
 さらに、理解者によっても、このようなことが起きるのがこの世の現実であると改めて学ぶことができました。
 ですから、許します。

 そしてほんとうは何よりも、赦し、ゆるしこそが、人間であると考えるからです。



▼もしも、ぼくがツィッターを始めるときは、必ずこの個人ブログで告知します。
 それがないままに、なにか「青山がツィッターを始めたのか」と思わせるようなことがあれば、それは例外なく、すべて偽物ですから、くれぐれもご注意ください。


▼また前述した入院・手術を含めた健康のことについては、2月15日火曜までには、この個人ブログで公表します。

急告

2011年02月05日 | Weblog
▼ぼくは現在、ツィッターは一切、やっていません。発信していません。参加していません。

 にもかかわらず、ぼくと誤解されるIDを勝手に取得され、ぼくが「大学の講義などで話した言葉の語録」として、ぼくが自分で書き込んだと誤解される言葉をツィッターで流している方がいます。

 このことを、ぼくはたった今、知ったばかりです。
 その方の連絡先を探して、強く抗議するとともに、すべての行為を即、やめていただくよう求める作業を同時進行でおこないつつ、このツィッター発信が、事実上の偽物であることを広く告知します。


▼この方は、不肖ぼくの言葉を広めたいという善意で始められたようですが、成りすましに等しい行為であり、また、たとえば大学という限られた場で行っている講義内容を勝手に使うならば、その意味からも問題行為ですし、そのほかのぼくの話を勝手に使うならば著作権法にも違反しますし、さらに、この方は正確にぼくの言葉を引用しているつもりでも、実際は言葉遣いが誤っていたり、ニュアンスが違っていたり、その意味でも誤解を伝えるものであり、全体に、このままでは明らかに犯罪に類する行為になります。

 ぼくは今、この方の善意を信じたいと、こころから願っていますが、ほとんど余っている時間がない、というよりありとあらゆる時間がまったく足りない現状のなかで、このような想像を絶する行為に対して、何よりも優先して貴重な時間を使わねばならず、その意味からも、たいへん実害があります。

 ぼくをとにかく貶めたいという人々から、山のような名誉毀損、事実無根の誹謗中傷がなされているなか、ぼくを理解されているであろう方から、仮に善意とはいえ、このような行為がなされることを、きわめて残念に思います。