Our World Time

夜の光

2006年06月26日 | Weblog



▼みなさん、ご無沙汰しています。
 いまタイのバンコクにいます。
 6月26日の月曜、タイ時間未明0時半すぎ、日本時間未明2時半すぎです。
 タイの母なる流れ、チャオプラヤ河を、夜の稲妻がときどき青白く照らし、激しい雷雨が河面(かわも)と大地を叩いています。

 6月22日の木曜早朝に都内を出発、その日の夕刻にバンコクに着いてから、まず車で4時間半ほど南下した地に入りました。
 その地域には、国王が滞在されています。

 その地で2夜を過ごし、バンコクに戻り、ここでも2夜を過ごして、もう今日の月曜夜には日本へ向けて出発するという、短い旅程です。

 日本を出発する前は、北朝鮮がテポドン2号の発射準備を整えたとメディアで報じられた時期でしたが、すくなくとも当分は発射しないと踏んだうえでの、出発でした。
 もっとも、発射はまだだという確証があったのではありません。もしもタイ滞在中に発射してしまえば急遽、帰国することになっていました。
 幸い、タイ訪問中に、発射はありませんでしたが、さぁ、問題はむしろこれからです。
 テポドン2号の騒ぎは、それが発射されてもされなくても、北朝鮮の独裁が崩壊していく過程の一つとして起きているからです。


▼バンコクで嬉しかったことの一つは、長い友と再会したことです。
 この友だちは今、朝日新聞のアジア総局長としてバンコクに赴任しています。
 ぼくが共同通信に入って、初任地の県警本部記者クラブで一緒になり、医学部不正事件の取材などで競い合って以来の、ほんとうに長い友だちです。

 彼は、結婚式の引き出物が「日本国憲法」という本だった護憲派、ぼくは改憲派、というより「わたしたち自らの手で、わたしたちの最高法規をつくろう」という立場ですが、立場の違いが友情に水を差したことは一度もありません。

 それは、たとえば中国や韓国に、その軍部にすら、ぼくと本音の討論、いや「闘論」ができる友だちがいるのと、ちょっと似ています。


※写真は、なんだか不思議な写真のようにみえるでしょうが、シャム湾(タイランド湾)で夜、テロリストや海賊に備えて警戒するタイ海軍の艦艇です。
 バンコクから車で4時間半ほど南下した地点で、撮りました。
 海浜に立って、遠い沖合を、携帯電話のカメラで撮ったのです。

 これら艦艇は、テロや海上犯罪にちゃんと備えていることを見せるために、みずからを明るい光で照らしています。
 シャム湾は、タイのチャオプラヤ河やベトナムのメコン河といった大河が注ぎ込む、浅く、そして広大な湾です。
 この湾の水はやがて、南シナ海へつながります。




六本木から、北の大地へ

2006年06月11日 | Weblog



▼きょう6月11日の日曜は、午前中にテレビ朝日へ。
 午後0時半ごろから「サンデー・スクランブル」に生出演して、ドイツのワールドカップ・サッカーでのテロリズムの脅威について話してほしいという依頼だ。

 ざっと打ち合わせをして、スタジオ内で待機していると、前のコーナーが延びて、とても時間が短くなる。
 ある程度は予想していたけど、予想以上だったから、ミュンヘン五輪でのテロとの関連やAWACS(空中警戒管制機)まで飛ばしている警備の実際を語りながら、自分の話しぶりが早口になるのが心配だった。

 あっというまに番組終了、スタジオを出るとすぐに車に乗って、雨のなかを羽田空港へ出発する。
 羽田から講演先の青森に向かうのだ。

 見送ってくれたディレクターが「すみません、時間が無くなってしまって」とおっしゃったけど、「いやいや、それが生放送ですから」と答えた。
 本心だ。

 車のなかで、同行している独研(独立総合研究所)の秘書さんに「早口だった?」と聞くと、しばらく考えて、「いえ、大丈夫でした」。
 とても公平なひとなので、『この人が言うなら、きっとその通りなのだろう』と、ちょっと安心する。


▼羽田空港で、すこし時間があったから、昼ビールを呑んで、たのしく食べる。
 空港で時間があるなんて、滅多にない。
 ほとんど飛行機の機中で人生が過ぎていくような、この頃だけど、空港も風のように通り過ぎるだけのことが多い。
 だから、なかなかに嬉しかった。

 機中では、モバイル・パソコンを開いて、原稿を書こうとするが、なかなか進まない。
 きのうの土曜日、体調があまりに悪かったこともあって原稿がまるで進まず、かなり暗い気持ちになった。
 その続きだなぁ、と考える。
 ぼくは、なんだか根っこから疲れているなぁ、どうすればいいのかなぁとも思うが、休むわけにはいかない。
 前へ走りながら、走り続けながら、どうにか工夫かなにかをして、おのれのエネルギーを蘇らせたい。


▼青森空港に着き、出迎えてくれたかたと、秘書さんの3人でタクシーに乗る。
 車窓に広がる北の大地は、ほんとうに森が青々と、美しい。

 沖縄出身の秘書さん、というか沖縄電力から研修で来ている秘書さんは、林檎をかたどったガードレールから、冷んやりとした空気まで愉しんでいるようすだ。
 その人生への姿勢、えらいなぁ、と思う。
 こちらも明るい気分になる。

 青森市の中心部にある、講演会場のホテルに着く。
 講演そのものは明日の月曜だ。
 今夜は、主催者のかたがたと懇談会がある。

 その懇談会のまえに、貴重な、休み時間があった。
 つまり、今ですね。
 ホテルの部屋で、ひとり、楽な格好でいる。
 これは、こころから貴重な時間だ。

 あぁー、助かるなぁ。
 わずかな時間でも、仕事がまったく切れ目なく続くのと、わずかでも切れ目があるのとは、大違いだ。


   ……………………………………


 写真は、そのホテルの部屋の窓から、携帯電話で撮った八甲田山です。
 薄曇りのなかにあるし、遠いから、わかりにくいでしょうけど、北の地の素晴らしい山の気配を、できれば感じとってください。




どなたもOK

2006年06月10日 | Weblog



▼サウジアラビアのおみやげは、関西テレビの番組を見ることのできない地域のかたでも、どなたでも、当然ながら応募できます。

 応募サイトからうまく応募できないかたも、要は以下の電子メールを送れば、たぶん大丈夫です。

(宛先) present@ktv.co.jp
(メール・タイトル) 青山さんのお土産プレゼント
(本文) ※何も書かないで、送ります。空(から)メールです。上記のタイトルだけを入れて、本文には何も書きません。



ぼくのおみやげを、みなさんの誰かに

2006年06月09日 | Weblog



▼みなさん、関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」のホームページを訪れていただくと、ぼくが2月の中東出張のとき、サウジアラビアで買い求めたおみやげが、無料で手に入るかもしれません。

 よかったら、http://www.ktv.co.jp/anchor/present.htmlにアクセスして、応募してください。


▼サウジアラビアの首都リヤド、そのど真ん中にあるマーケットで買いました。
 まわりには、宗教警察の本部、サウド王家がサウジの統一へ勝利したメモリアルの砦などがあります。

 したたかな店員さんとの交渉は、出張に同行した独研(独立総合研究所)の研究員ふたりがもっぱら引き受けてくれました。
 サウジでは女性はすべて、アバーヤ(イスラーム教世界で女性が着る、マントのように全身を覆う着物)を身につけなければなりませんから、ふたりともちゃんとそれを着ています。
 サウジという国はそもそも、女性が入国するのがなかなかに困難な国です。
 それだからこそ、ぼくは積極的に女性研究員を同行します。
 彼女ら研究員にとって、かけがえのない貴重な体験になるし、サウジという国にとっても、ささやかな、良い意味のショックではないかなと思うのです。



報道2001、そして、遙かなる黒部の谷

2006年06月05日 | Weblog




▼週半ばにフジテレビから、6月4日日曜朝の『報道2001』に安倍晋三さんと一緒に出てほしいという連絡があったとき、ほう、国会の閉幕まえにメディアで存在をアピールすることも始めるんだ、新しい首相になるために早め、早めに仕掛けていくんだなぁと、あらためて思った。
 いま開かれている通常国会は、6月18日に閉幕する。

 官房長官というポストはふつう、とても動きにくいポストだ。
「首相に何かあった場合に備えて首相官邸から離れない」、「首相を支える黒子に徹して、自分をアピールすることを優先させない」ということが、ほんらいは官房長官には求められる。
 特に、国会の会期中は、ほんとうは絶対の原則と言っていい。
 安倍さんも、それは百も承知だろう。

 そのうえで、あえて国会の会期中に、自分の存在と主張をアピールすることに踏み切った。
 なぜ、それをするか、それをできるか。
 背景の第一は、実は、小泉さんの決心だろう。

 小泉さんは、国会を延長することを拒絶した。
 教育基本法の改正案のような重大な法案を、この国会に出しているのだから、小泉さんにぴったり寄り添っているはずの武部勤幹事長も、小泉さんの出身派閥のボスのはずの森喜朗・元首相も、いや、おそらくはほぼすべての与党議員が「延長は必要だ」と考えていただろう。
 それを小泉さんは、たった一人で、覆してしまった。

 6月にアメリカを訪れて、日米首脳会談をやる。
 7月には、ロシアで初めて開かれるサミットに出る。
 8月は、旧盆を中心に議員がみな選挙区に帰らねばならず、国会を延長するにしても、どうせ7月いっぱいぐらいなんだから、こういう日程を考えたら、首相は延長をしたくなかった…というようなことが新聞には書いてある。

 ぼくは、日米首脳会談も、サミットも、ほぼ関係ない、小泉さんはそんなことで国会の延長を拒絶したのじゃないと思っている。
 ずばり、小泉さんは、安倍さんにメッセージを送ったと考えている。
「おまえよ、官房長官だからといって動かないでいたら、逆転されるぞ。国会の延長を俺があえてやめさせるから、早めに仕掛けろ」
 小泉さんは、安倍さんに次の首相になってもらいたいと思いを定め、官房長官という束縛を超えて動けと、背中を強く押しているのだ。

 延長されることの多い通常国会、そして実際に重要法案を抱えるこの通常国会、それをあえて延長しないことの是非は、やはり問われなければならない。
 ただ、事実として、小泉さんはそうまでして安倍さんの背中を押している。
 安倍さんとしては、応えないわけにはいかないだろう。


▼ぼくは、この土曜と日曜に、独研の役員・社員のうち4人と黒部ダム(日本アルプス立山連峰の、黒部川第四ダム。通称『くろよん』ダム)を見るという、大切な予定がすでに組まれてあった。
 独研の社員には、帰国子女が多い。
 かれらは、子ども時代や思春期をアメリカで生きてきたから、英語がネイティヴで国際的な視点は豊かに身につけているけど、日本の誇りというべきものに触れる機会が少なく育っている。

 黒部ダムは、原子力発電もまだ実現されていない時代に、日本の自主エネルギー源をなんとか確保しよう、急峻な山を持つ日本の特色をどうにか生かそう、という志を持ったひとびとが造りあげた。
 工事では、実に171人もの男たちが亡くなっている。
 そのひとりひとりに、ご両親や奥さん、子どもたちが居たのだ。

 ぼくは記者時代、共同通信大阪支社の経済部に属した当時に、この黒部ダムを訪れた。
 同じ工事に従事したひとびとが、重いツルハシを肩に、犠牲者に祈りを捧げるレリーフ(慰霊碑)が、20年を経てなお、こころの奥にしっかりと刻まれて残っている。

 この現場を、独研の帰国子女たちに、どうしても見せたかった。
 独研は、日本のエネルギー安全保障を、主要な仕事の一つにしているから、独研の社員・スタッフはみな、エネルギー安全保障の専門家であるか、あるいは専門家として育つ途上にある。

 観光に行くのじゃないから、関西電力の協力を得て、やや危険な場所を含め専門家が歩くべきルートを踏破するプランを組んであった。


▼だから、ふつうのテレビ出演なら、恐縮ながら断っていただろう。

 しかし、安倍晋三さんがメディアへの積極的な登場をする場面であるなら、この日曜の『報道2001』は、日本が誰を次の首相に選ぶかという選択に関わる。
 ちょっと大袈裟にも聞こえるだろうが、日本だけではなくアジアの命運をも左右する選択に、一端としては関わることになる。

 だから、独研の秘書室から「社長、どうしますか」と聞かれたとき、即座に「出演するよ」と答えた。
 もともとのプランでは、土曜に長野県の松本に入り、黒部に近いホテルで関電の関係者と懇談して、そこに宿泊、明けて日曜にダムを踏破することになっていた。

 関電の関係者の誠意に応えるためにも、土曜のプランはそのまま実行して、懇談のあと独研のほかの役員・社員は予定通りに宿泊し、ぼくはひとりで最終列車で東京に帰り、翌朝早くの番組に出ることにした。

 6月1日木曜の夜に、お台場で、フジテレビのディレクターたちと簡単な打ち合わせがあった。
 安倍さんが日曜だけじゃなく、土曜からたくさんのテレビ番組に出ることを、そのとき聞いた。

 ぼくは正直、頭の中でちらりと、「安倍さんが発言し、議論する番組がそんなにあるのかぁ。それじゃ、ぼくが土曜に黒部ダムのすぐ近くまで行きながら、わざわざトンボ帰りしなくてもいいのじゃないかな」とは思った。
 だけど、ほかの人や、ほかの番組がどうであれ、ぼく自身がオファーを受けて、ぼく自身が加わる番組のことを、考えるのが筋だ。

 それに『報道2001』は、プロデューサーも、チーフ・ディレクター(フジテレビではチーフ・ディレクターをPDと呼ぶ)も、ぼくの記者仲間だったひとだ。
 木曜夜に打ち合わせたPDは、ぼくと防衛庁記者クラブで一緒だった。
 防衛庁記者クラブでは、ぼくのいた共同通信と、彼のいるフジテレビがたまたま背中合わせに机があったためもあり、身近なつき合いをしていた。
 ともに対潜哨戒機P3Cに乗って、オホーツク海を北方領土へ飛んでいった記憶が昨日のことのようだ。

 そのPDの顔を見ながら、「安倍さんがそんなにたくさんの番組に出るなら、ぼくは予定通りに黒部に行ってもいいよね」とは、とても言えません。言えませんというより、そんなことは言いたくない。

 木曜夜の打ち合わせで、フジテレビのPD、それから女性の若手ディレクターと、ぼくのあいだで一致したのは「総理候補としての安倍さんに、日本国民が求めているのは、理念なき日本が理念を築きあげていくことを含めて、根本的なことに着手してほしいということだ。若さは、まさにそのためにある。ちまちましたことではなく、そのことを安倍さんに番組で聞いていきたいね」という考え方だった。


▼6月2日金曜、父の命日の深夜になって、フジテレビから「村上ファンドへの強制捜査という新しい動きがあるから、番組の冒頭にそれをやる。安倍さんと外交・安全保障を議論する時間が短くなる」という連絡が入った。

 ああ、これは根本的な話をする時間はないかもなぁとは思った。
 それでも、もはやこの段階だから「やっぱり黒部ダムに行こうか」なんてことは、まったく考えなかった。

 番組本番で時間はなくなるだろうとは思ったけど、土曜の朝にかけて徹夜をし、在日米軍再編のおさらいや、靖国神社をめぐる歴史的な、公平な事実のおさらいをやり、それから、アメリカの関係者らと電子メールで情報と意見の交換をした。


▼6月3日土曜の早朝になった。
 夜が明けてから、わずか30分ほどの仮眠をした。短い仮眠から起きるのは、泥のなかから這い出すようで、ほんとうに苦しいですね。それはもちろん、ぼくだけじゃなく、誰でも同じだと思う。

 なんとか仮眠のベッドから脱出して、朝の新宿駅にたどり着き、独研から黒部へ向かうメンバー、役員と社員のうち3人、それに沖縄電力から研修・出向でやってきているひと(研修中は、独研の社員)の計4人で集合した。

 新宿から特急に乗り、モバイル・パソコンを開いて仕事をしているうちに、さすがに眠り込む。
 隣席の独研・役員の話では、いびきをかいていたそうだ。
 それでも短い眠りで、うっすらと目覚め、またモバイル・パソコンで仕事を続ける。

 長野県の松本駅に着き、関電の関係者と待ち合わせる。
 関電本社の広報から、ぼくが深く信頼する女性の中堅幹部、それから爽やかな若手の男性社員の2人が来てくれていた。
 東京で、ぼくの住まいを出て駅に歩くときには雨粒も肩に降りかかったけど、松本に着くと青空が広がりはじめている。
 眠気も疲労も、ほんとうは深くて深くて深いけれど、青空で、気持ちも晴れ上がる。

 みなで小型バスに乗り込み、黒部ダムに近づきながら、たとえば安曇野のガラス・ミュージアム(正式には安曇野アートヒルズ・ミュージアム)に立ち寄る。
 真っ赤なベネチア・グラスを手に取ると、光によって表情が美しく変化し、買う予定はなかったのに思わず買ってしまった。
 この夏、住まいの近くに、原稿を書く部屋を新しく確保する予定なので、そこに飾ろうと思う。
 もともとは食器なので、高くはない。
 手のひらに載せると、ほどよい軽さだ。大きめのお椀のようなシェイプで、氷菓子のようなデザートを入れるのが、本来の使い方だそうな。

 それが飾ってあった棚の向こうには、安曇野の自然が透けて見えていて、その光が美しかったのかも知れない。
 東京で置いてみれば、この美はないのかも知れないと思って、買わずにいったんは去った。
 だけども、忘れがたい赤い色だ。ぼくは、青も黄色も好きだけど、赤が好きなのだ。


▼黒部ダムに近いホテルに着き、懇談会までのわずかな時間に、露天風呂につかる。
 湯のうえに葉っぱや、それから小さな虫さんまで、いろいろなものが浮かんでいるけど、そこが自然でむしろ良くて、すっかり生き返った。

 懇談会では、日本のエネルギーのこれからやら、なんやら、生々しい話まで含めて楽しく盛りあがった。
 盛りあがったあとに、ぼくだけはタクシーに乗り、遠い道を、長野新幹線の駅へ向かう。
 真っ暗な車中では、もうモバイル・パソコンは開かず、眠る。
 しかし、かえって首が凝りに凝って、疲れてしまった。

 最終の長野新幹線は、がらがら。
 モバイル・パソコンで仕事をしながら東京に着き、自宅へ戻ると、すぐに日付が変わって日曜に。
 朝早い番組だから、すぐに眠ろうと思いつつ、情報の収集をしているうちに夜が明ける。

 苦しくて短い仮眠をして、熱い風呂に入り、どうにか頭と身体を目覚めさせて、早朝の静かな都内をフジテレビに向かう。


▼6月4日の日曜朝7時15分ごろ、フジテレビに着くと、ちょうど安倍さんも到着だった。
 朝のあいさつを交わしていると、すぐに生放送が始まった。

 まずは村上ファンドについて元・東京地検特捜部長が語るコーナーがあり、次に安倍さんと、評論家の竹村健一さんや三宅久之さん、それにMCのおふたり(黒岩祐治さん、島田彩夏さん)が年金や消費税を議論するコーナーになる。

 ぼくは、外交・安全保障のコーナーが始まるのを、スタジオ隣の控え室で待つ。
 ぼくのほんとうの専門は、国家戦略の立案だ。
 共同通信から三菱総研に移るとき、外交・安保から政治・社会、金融・経済までを包含した国家戦略を立案するための研究員となった。
 記者としても、政治記者になるまえに、事件記者、司法記者から経済記者の経験を積んだ。
 だから本音を言えば、年金や消費税についても議論はしたいが、その仕切りは当然ながらテレビ局に全権があるから、控え室のモニターで興味深く議論を見ていた。
 そして、予定の時間を過ぎて、消費税の議論が続く。
 つまり、外交・安保の時間は、さらに短くなった。
 これもまぁ、予感はしていた。


▼出番になり、スタジオへ。
 すでに時間は短縮されていたし、あとにはまだ、社会保険庁改革を与野党議員が議論するコーナーが待っている。
 だから、このコーナーのために残されている時間がいくら短くても、引き延ばしてはいけない。

 そのことを頭に入れつつ、「国民に伝えるべきを伝える、その本来の目的に集中しよう」と、いつものように自分に繰り返し語りながら、着席した。

 黒岩、島田両キャスターの、きびきびした仕切りで、安倍さんはまずアメリカ軍の再編をめぐって「抑止力の維持と負担の軽減」を語った。
 これは従来の政府の説明と同じだ。つまり、官房長官としての発言だ。

 そこで、ぼくから「新しい首相になるかも知れない人として語るべきときが、安倍さんに来る。抑止力とは、なにからどう抑止するのか、その理念を示さねばならない。負担の軽減も、たとえば沖縄の普天間基地を同じ狭い沖縄の名護に移転して終わりにするのではなく、沖縄にいつまでも大量の基地を置いていていいのか、たとえばぼくの住む東京に移転することも検討しようというように、国民それぞれが負担を分担するべきではないのかということを次期総理候補として語ってほしい」という趣旨で発言した。

 また「安倍さんは、中国に対して是々非々の立場だと、わたしは理解している。中国の膨張する軍事力のどこが問題で、だからアメリカと協力して抑止する、という説明も必要だ」という趣旨を述べた。

 そのあとに、安倍さんがかつて「日米同盟は血の同盟」と述べたことをめぐって、ぼくは「国民にミス・メッセージになってはいけないから、あえて申したいが、アメリカの(政府や軍の)関係者で、この血の同盟という表現を、アメリカ軍と一緒に自衛隊が戦う同盟と理解している人は(ぼくの知る限りは)いない。あくまでも、日本の憲法と法律の許す範囲内で、後方支援を中心にアクションをしてくれる同盟という意味で理解している。まだ、その範囲内だ」と指摘した。

 最後に靖国神社のトピックに移り、ここでも発言しようと思ったが、三宅さんの発言もあり、次のコーナーが待っていることも考えて、発言を控えた。
 黒岩さんが「青山さんは、どう思いますか」と尋ねたときに、ほかの出演者が答える場面もあったが、その発言を制止して自分が発言することもしなかった。

 いずれも、時間がどんどん短くなった今日のコーナーを考えると、おおむねは、やむを得なかったと考えている。
 それでも、自分の発言をもっとコンパクトに、もっと視聴者、国民にわかりやすくできたはずだと、いつものように自分を責めずにはいられなかった。

 テレビ番組に参加するとき、放送の前には、なるべく母に電話するようにしている。
 この超絶多忙の生活では、母に会うこともほとんど出来ない親不孝者でいるから、せめて画面を通して顔を見せるときは、知らせておきたい。
 だけども、番組が終わったあとは電話をしない。
 母は、まことに率直なひと、遠慮のない視聴者だから、正直言って、ぼろくそに言われるのが怖いからだ。
 あるとき、これを古い知人に言うと、そのひとは噴き出した。「うんうん、よく分かる」と、ほとんど腹を抱えて大笑いした。

 だけども、きょうは珍しく番組のあとに母に電話してみた。
「あんたの話は、分かりやすかったよ」という短い答えが返ってきた。
 自分自身への不満は変わらないけど、ちょっと、いやかなり、ホッとした。


▼番組のあと、帰宅すると、凄まじい疲れと眠気が襲ってくる。
 それでも、週に一度はなんとか行くようにしているジムへ行き、バーベルとダンベルを挙げた。
 ぼくの身体は運動しないと、どうにも辛い状態になる。
 苦しくても動かしておいたほうが、あとで助かる。

 こんな状態でバーベルもダンベルも挙がらないのじゃないかと思ったけど、意外に、しっかりと挙げられた。
 内心で、すこしだけ、うれしかった。

 鍛錬のあと、ジムのバスルームでで湯につかりながら、遙かな黒部の峡谷を思った。
 みんなが、ぼくらの祖国のこころに気持ちよく触れていることを、願った。


  …………………………………………………………………


※写真は、黒部ダムの建設に捧げられた171人の命の慰霊碑です。
 関西電力のホームページから借りました。著作権は、関電にあります。
ぼくは今回は行くことが出来ませんでしたから、残念ながら、ぼくの携帯で撮った写真はないわけです。



思いを遺して逝った、父へ

2006年06月02日 | Weblog



▼いま、独研(独立総合研究所)の社長室、6月2日の金曜、午後3時45分。

 金曜の夕暮れが近づく時間…かぁ。
 記者時代はそれなりに、こころがほっと寛いでいく時間帯だった。

 記者の仕事も忙しくて、ふだんは午前1時や2時まで『夜回り』取材をし、朝も遅くとも6時半にはもう、『朝駆け』取材に出ていた。
 それでも週末が近づくと、ほっとしていた。
 週末も日曜は、取材対象の閣僚たちがテレビ番組に出たり、講演したりで、仕事が多かったけれど、土曜日はどうにか休める週も多かったから。

 いまは、週末は一切、関係がない。
 共同通信を去って、組織でおこなう記者の仕事を辞めてから8年半、ここまで1日の休みもなく、きた。

 でもね、記者時代より、はるかにストレスは減ってる。
 記者は、若手の記者だと、上にサブキャップ、キャップ、デスク(1人じゃなく、かなりの数)、部長と、直属の上司だけでも何人も何人もいる世界だ。
 いまは、おのれが代表取締役社長だし、研究員としても首席研究員なので、上司はいない。

 上がいないということは、実は、なかなかに大変でもある。
 たとえば文章を書くと、記者のときは上司たちがチェックを重ね、さらには編集局から原稿が出ていったあとに整理本部でチェックが入る。
 書き手としては、それなりの安心感があるわけだ。

 ところが今は、誰もチェックしてくれない。
 もちろん本であれ、雑誌への寄稿であれ、編集者と校正者のチェックは入るけど、基本的には、書き手の文章を尊重するから、間違いは決して許されない。

 それでも、自分の思うように書ける今の立場は、素晴らしい。
 ストレスが少ないと言うより、ストレスの質がまったく違う。

 シンクタンクの経営者としても、トップでいることに、たまぁにゾッとする。
 ぼくが経営判断を誤れば、独研はきっとみるみる傾き、社員たちの運命が傾く。
 空恐ろしいような気持ちに、ふっと襲われることがある。


▼父は、ぼくが共同通信に入るとき、うれしそうに祝福してくれた。
 そして、ちらりと、「ほんとうはお前は、会社に使われるよりも、会社を率いる方が向いとるぞ」と小さな声で言った。

 きょうは、その父の命日だ。
 父は、日本が明治維新によって近代国家になった直後から今まで、いちおう続いている繊維会社の現役社長として、実は、医療ミスによって突然に亡くなった。

 ぼくは、共同通信の大阪支社・経済部から、東京本社・政治部に上がったばかりで、その夜、政治部記者となって初めてポケットベルが鳴った。

 さぁ、何が起きた、何を取材するのかと勇んで、政治部デスクに電話すると、筆頭デスク(当時)が、ぼそっと「アオヤマクン、オトウサンガ、ナクナッタヨ」と言った。

 ぼくは、なんのことか分からない。
 は? と聞き返すと、忙しいデスクは「だっからぁ、お父さんが亡くなったんだよ」と、いくぶん大きな声で言って、がちゃっと電話を切った。
 ぼくは公衆電話のなかで、呆然と立ち尽くした。
 身体が弱かった父は、このときも確かに入院はしていたが、死ぬかも知れないなどという状況ではなかった。
 政治記者になって、初めて本社から受けた連絡が、仕事の指示ではなく父の死の知らせというのは、あまりに想像を絶していた。

 翌日、新幹線に乗って、兵庫県の実家へ向かう途中、車中で、アイスクリームを買った。
 ああ、おやじは、アイスクリームが好きだったなと思うと、初めて、どっと涙があふれてきた。
 おやじと対立ばかりして、喜ぶことは何もしなかった、死んでしまったら、もうアイスクリームを買うことだってできない、おやじ、ごめんと、父の死の実感が初めて込みあげてきて、胸を突かれた。

 父は、ほんとうはマスコミが大嫌いだった。
 会社の女工さん(昔の言葉。今で言えば、工場の女性従業員)が失恋して自ら命を絶ったことを、全国紙の2紙に「会社の労働条件が厳しくて命を絶ったのではないか」と書かれた。
 父は、そのことに怒るよりも、社長の自分に一度も直接取材がなく、さらには、新聞に『工場長の談話』というのが出ているのに、その工場長も一度も取材を受けたことがなかったことに、激しく怒った。

 ぼくが、とても幼いころの話で、ぼくには何も記憶がない。
 しかし、父はその怒りをたまに甦らせて、マスコミが嫌いだと言っていた。

 そのマスコミに、ぼくが就職した。
 ぼくは3人兄弟の末っ子で、ほんとうに小さなころから繰り返し、、「お前だけは、一人で、自分の力だけで生きていかねばならないよ。家からは何も、もらえない」と父と母からいつも聞かされて育ったから、おのれの仕事を自分で選んだ。

 そのことには深く感謝している。
 ぼくに自立心があるとしたら、父と母から「末子(まっし)のお前は家を出ていく。お前一人だけで、生きねばならない」と言われ続けた家庭教育のおかげだから。

 しかし、ぼくが、その「一人で生きる道」としてマスコミへの就職を目指したために、マスコミを批判する父と、激しくぶつかった。
 怒鳴り合いになったことも、ある。

 父は、ぼくが実際に、共同通信に内定すると、こころからのお祝いだけを言ってくれて、ほとんどマスコミ批判を口にしなくなった。
 ただ、「ほんとうは、お前は人に使われる立場じゃない方がいいのに」とだけ、付け加えたのだ。

 今ぼくは、社員・スタッフ20人規模の会社のトップを、不肖ながら務めている。
 父が先祖から受け継いできて、そのあとは、ぼくの兄が継いだ繊維会社はもちろん、はるかに規模が大きい。
 それから、共同通信も、社員2000人だ。

 独研は、小さな規模のシンクタンクだけど、おのれ自身の力を尽くして創立した。
 先祖は敬愛しているけれども、力は借りたくなかった。そのとおり、借りずに、今こうしている。

 そして、どんなに超絶多忙でも、宮仕えだった共同通信・記者や三菱総研・研究員の時代よりストレスのぐんと減った今の立場に、感謝している。
 いま思う、「人に仕える立場は向かないよ」という父の言葉は正しかった、と。


▼同時に強く思う、お父さん、ぼくは、人に仕える立場を24年も経てきたからこそ今どうにか最終責任者を、非力ながら務めていられるのです、と。


▼こんどの日曜、6月4日の朝に、フジテレビ系列の「報道2001」に出ます。
 官房長官の安倍晋三さんらと、アジア外交について議論する予定です。


   ……………………………………………


▼写真は、お正月に京都の嵐山に立つ父と、当時の会社の役員2人と、父に付いていた運転手さんです。
 左から2人目が、父。

 毎年、新年には京都へお参りする習慣が会社にあったころの写真です。
 ぼくは、生まれていたとは思うけど、とても小さいころです。はっきりは分かりません。

 この写真は、年の初めの新鮮な、それでいて静かな雰囲気が感じられて、好きです。
 ぼくは朝、父の遺髪にお水を捧げ、祈りを捧げてから、出ていきます。
 そして、疲れ果てていても、どうにか生きて帰宅すると、父の遺髪にお水を捧げ、感謝をのべます。

 亡くなってから大切にしても駄目だ、生きているあいだに衝突ばかりしていたおまえは悔いろ、と、おのれに呟きながら。



なぜ

2006年06月01日 | Weblog



▼いま5月31日水曜の深夜、というより6月1日木曜の未明、2時すぎだ。
 大阪出張から帰ってきた。

 毎週水曜には、大阪の関西テレビが4月からスタートさせた新しい報道番組「ANCHOR」(スーパーニュース・アンカー)に出演している。
 その水曜アンカーには、『青山のニュースDEズバリ!』というコーナーがある。
(※このコーナー名は、気恥ずかしいです。しかし関テレのスタッフが、一生懸命に頭をひねって考えた名前ですから)

 ぼくなりに力を尽くして話したせいもあるのか、ふだんに増して今、激しい疲れを感じている。


▼きょうは、5月30日に「アメリカ軍の再編をめぐる政府方針」が閣議決定されたことを取りあげた。

 コーナーは、時間が限られているだけじゃなく、定められた時間内にぴたりと収めないといけない。
 ほかの出演者が、当然のこととして、あるいは必要なこととして、思うままに発言したり、その予定外の質問にぼくがきちんとすべて答えたりする時間も、そのなかに含まれる。
 定められた時間内に、このコーナーを収めないと、番組全体のなかでラインアップされているニュース項目が減ってしまうから、ぼくとしては、我が儘(わがまま)をするわけにいかない。

 そこで柱を、2本に絞った。
 ひとつは、「今回の米軍再編について政府が言い、ほぼすべてのメディアも、それに沿って伝えていることのうち、いちばん大切なことの一つが、あまりにも事実に反している」ということだ。

 政府もメディアも、宜野湾市(沖縄県)のアメリカ海兵隊・普天間基地を、おなじ沖縄の名護市に移転すること、あるいは厚木市(神奈川県)にいるアメリカ海軍・空母艦載機を岩国市(山口県)に移すこと、それらがアメリカ軍再編をめぐる今回の日米合意の中心のように扱っている。

 ちょっと待ってください。
 それは違う。
 たとえば普天間基地について、住宅が密集するなかを海兵隊のヘリが頻繁に離着陸する現状が、住民にとって危険すぎるから日本国内のどこかへ移転することは、1996年の日米合意で決まったことであり、その後に本格化したアメリカ軍の再編とは関係がない。

 普天間の海兵隊の戦闘部隊は、再編されずに、そのまま移るのだし、96年にアメリカが「移転してもいい」を認めたあとは、日本国内のどこに移転するかの問題、つまり日本側の問題になったのだ。
 アメリカと日本の関係じゃない、ぼくら日本国民同士の問題だ。
 10年ものあいだ、日本が国内で解決できなかった問題であって、アメリカとのあいだで紛糾が続いていたのじゃない。

 普天間の問題を、アメリカ軍の再編の問題の中に入れてしまう精神には、「基地を押しつけてくるアメリカが悪い。日本は被害者だ」という意識がどこかに隠れている。
 しかし、普天間の問題ならば、それはもう10年前にアメリカとの話し合いは終わってしまっている。
 アメリカのせいには、できないのだ。

 たとえば、ぼくは日本の防衛にアメリカのサポートは必要だと思っているから、ぼくの住むところに移転してくださいと、何年も前から具体的に提唱している。
 大阪に住む人も、福岡に住む人も、北海道に住む人も、もしも日本だけで日本の安全を護るのではなく日米連携が必要だと思うなら、あるいは現在、事実として必要としているのなら、それから、もしも非武装中立には賛成しないなら、いつまでも沖縄だけに重い負担をおわせ続けるのではなくて、ぼくら日本国民同士の問題として、扱い、解決しなければならない。


▼もうひとつは、ほんものの「アメリカ軍の再編問題」とは、たとえば座間市(神奈川県)にアメリカ陸軍第一軍団司令部が移転してくること、それだということだ。
 第一軍団は、ハイテクノロジーによって世界中どこでも戦える最新鋭装甲車「ストライカー」を持ち、アメリカ軍の「戦争革命」(正確に言うと「軍事技術に関する革命」。RMA)の戦端を走る最強部隊だ。

 ただし、その2万人の兵力が座間にやってくるのではなく、やってくるのは司令部だ。
 しかし、最強ハイテク軍団の司令部を、アメリカ本土(西海岸のワシントン州フォートルイス)から、外国である日本に移す意味は極めて大きい。

 ぼくがアメリカの関係者たちから聞いているのは、ずばり「陸上自衛隊と一緒にやりたい」という本音だ。
 もちろん、すぐに一緒に戦闘行為を行うという意味ではない。
 すくなくとも当面は、いわゆる後方支援(食糧、医薬品、弾薬などの補給、傷ついた兵の救援など)を期待している。

 海上自衛隊はすでに、アメリカの第七艦隊と深く連携している。
 たとえば、イージス艦をはじめ日本の護衛艦は、その戦闘コンピューティング・システムがアメリカ第七艦隊と直結している。
 ぼくは、それを護衛艦の中枢である戦闘指揮所(CIC)で複数回、確認している。

 アメリカは、テロの脅威と戦うため、あるいは北朝鮮に向かい合うため、さらには膨張する中国の軍事力と対峙するために、海や空(航空自衛隊)だけではなく、陸でも深い連携を築きたい。
 なぜなら、日本の自衛隊の戦力は、国民の常識とは裏腹に、ある側面では世界トップレベルに達しているからだ。

 ぼくらの子どもや、その先の世代では、この陸上での日米の軍事連携が、後方支援だけにとどまっているかどうか。
 ぼく個人の予感としては、とどまっているとは、あまり思えない。


▼ぼくは、この第一軍団が座間にやってくることを含めて、「53年目の選択」とフリップに手書きで記した。
 日本は53年前の1953年、当時の吉田茂首相が、アメリカに再軍備を求められて断った。
 それが正しかったかどうかは別にして、はっきりしているのは、それから53年後の今、再軍備を選ぶかどうかにやがて匹敵していくような、大きな選択が行われたということだ。

 にもかかわらず、ほんとうはアメリカ軍の再編とはすでに関係のない、普天間や岩国への移転の問題を大きく扱い、アメリカと日本がもっとも本質的な議論をしなければならない問題は、政府も、少なからぬメディアも、国民の関心を促すことをしない。


▼ぼくは番組でこれらのことを話すうち、もっともっと胸の奥から込みあげるものがあり、最後はそれを、まるで叫ぶように話してしまった。

 どうして、いつまでも沖縄のひとびとだけに、負担を強いるのか。

 あの広くもない沖縄本島のなかで、普天間から名護へ海兵隊を移して、それが解決なのか。
 わたしたちの日本国は、太平洋戦争末期の沖縄戦で、女学生をはじめ非戦闘員を戦闘に連れ込むだけではなく、日本軍自身が、日本国民である沖縄のひとびとを殺害した悲劇すら引き起こした。
 その沖縄になぜ、戦後61年を経てなお、この国と国民を護るうえでの重荷を、沖縄だけになぜ背負わせ続けるのか。

 もちろん、青森県の三沢や、神奈川県の厚木、横須賀、長崎県の佐世保のように、沖縄以外にも負担に耐えている地域住民は、少なくない。
 アメリカ軍は日米安保条約に基づいて、日本全国に、総計で135ほどの施設を持っているのだから。

 しかし、アメリカ軍の占用面積でいうと75%が沖縄に集中している。それを、これからも続けていいのだろうか。いいはずは、ないでしょう。
 政府の施策とか、そんなことにとどまる話じゃない。ぼくら日本国民の人間としての品の問題でしょう。

 関西テレビ「ANCHOR」のスタッフと、番組前の打ち合わせをしているとき、かなり活発な議論になった。
 中心スタッフの一人が「大阪には、アメリカ軍、いないからなぁ。基地の移転とか、アメリカ軍の再編とか、どっか遠いところで適当に、うまくやってくださいよという感じや。青山さんはなんで、このテーマで『青山のニュースDEズバリ!』のコーナーをやろうとするのかなぁ」という趣旨で、発言した。

 この率直さを、ぼくは評価する。
 ごまかしの社交辞令で言うのじゃない。
 さすが大阪だと思う。
 偽善に逃げずに、本音をぶつけてくれる。

 この率直さを、本気で歓迎したうえで、ぼくは言わねばならない。
「あなたが、今よりはるかに、はるかに高い防衛費と、ぐんと強化した自衛隊だけで、自分と、自分の家族と、自分の友だちと、自分の仕事と、自分の住む地域と国を護るのではなく、今のようにアメリカ軍と一緒になって護るほうが現実的やで、と思うなら、あるいは非武装中立はやっぱり非現実的やなぁと思うなら、あなたの住む大阪の、たとえば南港に、沖縄の米軍基地の一部でも移転することは本当にできないのか、自分の問題として考えてみるべきではないでしょうか」

 打ち合わせで、こういう思いがあったことも、ぼくの内面に影響したのだろう。
 生放送の本番でぼくは、最後に、いささか叫ぶようだった。
 視聴者のみなさんにとって、見苦しい、聞き苦しい話しぶりになったかもしれない。そう感じられた視聴者のかたには、こころから、ごめんなさい。


▼スタジオには、沖縄電力から独立総合研究所(独研)に出向・研修で来ていて、いま独研の秘書室に所属しているひとがいた。

 ぼくが出張するときには、独研から必ず同行者が付く。
 5月31日は、たまたま、沖縄出身のこのひとだった。
 しかも、これも偶然、まさしく普天間基地のある宜野湾市の出身だ。

 番組が終わって、夕暮れを伊丹空港へ向かう車のなかで、このひとは、やや沈んでいるようにもみえた。
 大阪のひとに、ぼくの話が、そう理解されるとは思えないという様子だった。
「海兵隊が、普天間から、名護に移って、わたしたちと同じ苦しみが、こんどは同じ沖縄の名護の人に移るだけなんだなぁと思うんです」と彼女は、静かな横顔で言った。

 ぼくは、胸のうちで、ずいぶんと、悲しかった。
 いまも、悲しい。

 いま思う、自戒を込めて、思う。
 たとえば、大阪の人が無関心とか、そんなふうにぼくが思っては、おしまいだ。
 たとえば、大阪の人みずからが、そう思ってみるのであれば、それは尊い始まりになるかも知れない。
 ぼくが思ってはいけない。
 そして、実際に、そう思ってはいない。そんな風には思わない。本心から、自然に、そうです。
 ぼくが、スタッフやMC(メインキャスター)や、ほかの出演者と協力して、もっといい番組に、いいコーナーにすれば、いい。

 人に求めるのじゃない。おのれだけに、求めたい。
 おのれの力をただ、尽くしたい。

 肩の力を抜いて、それでいて、力を尽くしきりたい。
 たとえ思わず叫んでしまっても、身体の中心では、しんと鎮まって、力を尽くしつつ、そのまま生き切って、死ぬ。
 ただ、それだけだ。

 さぁ、眠らないで、新しい本の原稿の仕上げを、再開しよう。
 あす朝、いや今朝には、講演会が待っている。
 疲れよ、どっかへ、飛んでけ。


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▼写真は、名護市の辺野古海岸で、撮りました。
 元の案では、ぼくの指がさしている方角の海上に、海兵隊の基地をつくろうとしていたのです。

 ジュゴンの生きる海が失われると、激しい反対運動が続き、その案は頓挫。
 こんどは、海にせり出す部分が小さくて済むように、沿岸部に造ることになったのです。

 沖縄戦のあった、緑の島と、青い海。
 普天間も、名護沖も、名護の海岸も、すべてその同じ島と海にあります。
 そして、ぼくらの祖国の、永遠にかけがえのない一部です。