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清涼の風 その1

2010年01月11日 | Weblog



▼よく晴れた1月7日の木曜、靖国神社(正式には靖國神社)に新年の正式参拝をいたしました。
 21年前のこの日の朝6時33分、夜が明ける直前のとき、昭和天皇が崩御されました。その日と重なったのは日程調整の結果の偶然ですが、感慨は深いものがありました。

 ぼくの胸のうちには、参拝したくとも、いろいろな事情で参拝できないかたがたの代わりとしても参拝する気持ちがありますから、きょうは、ありのままの時系列で、すこし詳しく様子を記していきたいと思います。

(この参拝記は、ほんらいは参拝の翌々日の1月9日土曜にアップしようとした一文です。しかし、「急告」と題した一文を先にアップしなければならなくなり、本日11日まで文章の仕上げが遅れました。「急告」をめぐる事どもがいったん決着してからアップしようかとも考えましたが、やはり参拝からあまり日を置かないうちに公開しておきます)


▼この日、靖国神社から指定をいただいた時刻の午後12時半に、独研(独立総合研究所)の社有車をぼくが運転し、秘書とともに、靖国神社の北門から境内に入りました。

 この参拝は、個人としての参拝ではありません。独研の代表取締役社長・兼・首席研究員としての参拝です。
 もちろん独研は純然たる民間のシンクタンクですから、公人としての参拝ではありません。ただ靖国神社は、不公正な内政干渉の対象となっていますから、それに対する日本国民なりのひとつの意思表示として、社有車を用い、玉串料を社費から拠出し、靖国神社に正式参拝するのです。

 日本は、ほんものの民主主義を創る努力を国民が重ねている国民国家ですから、みずからのお考えで参拝をしない日本国民がいらっしゃることも、当然ながら、そのままに認めます。
 たとえば、敬愛するわが母は旧津山藩の武家のひとですが、日本キリスト改革派教会のキリスト教徒でもあり、母の考えとして靖国神社に限らず神社には参拝しません。仏教徒だった亡き父が健在で、ぼくが高校生まで生家にいたとき、お正月には着物の正装で一家で氏神さまに参拝していたのですが、家長としての父をふだんは意を尽くして尊重する母は、そのときだけは父に従わず、お参りをしませんでした。信念に基づく、一貫したふるまいとして、むしろ尊敬します。
 同時に、ぼくがみずからの考えで靖国神社へと参拝する、それも正式参拝をする以上は、どのような立場での参拝なのかを明確にしたいと思いました。
 また、独研は、時の政権のあり方などに影響されない客観的な調査・研究をおこなうシンクタンクです。靖国神社については、国際社会で確立されている国際法からして、その国の戦没者の弔いかたや宗教施設のあり方への、外国からの干渉は、いかなる国へのいかなる国からの干渉であっても不公正な内政干渉であるという判断に立ちます。
 ぼくが今回、独研社長として正式参拝するのは、その判断を代表しています。

 それ以上の考え、たとえば靖国神社の護持が私的であってはならないとする考えなどは、ぼく個人の考えであり、独研の公式見解ではなく、また独研の任務でもありません。
 前述したように、独研は、何かの思想を打ち出すための団体などではなく、客観的なシンクタンク、研究機関だからです。独研の研究本部は、社会科学部、自然科学部、教育科学部の3部門を、小さくとも擁していますが、いずれも「科学」の名を冠しているのは建前ではありません。
(だから、ぼくの立場を、独立総合研究所・代表と表記するのは、大きな間違いです。独立総合研究所・社長です。独研は、団体ではありません。何度言っても理解されないことが多いですが…)

 それから組織の長が、公的に組織を代表することと、個人の思想を深めることを両立させるのは、自然にして正当なことです。


▼ぼくはふだん靖国神社に、こうした形ではなく、もうすこし簡略に参拝することもあります。
 そのときは本殿に上がっての参拝(昇殿参拝)をすることはなく、拝殿(靖国神社の正門から真っ直ぐ突き当たりにあり、靴を履いたまま参拝できます)に、二礼二拍手一礼をおこなって参拝します。

 しかし今回は、年の初めに当たることと、ことし5月に、この靖国神社で講演を行う予定となっていること、また靖国神社に合祀されている栗林忠道・帝国陸軍中将(正式には大将)と、その指揮によって硫黄島(いおうとう。いおうじま、ではありません)で戦われた先人たちに、「わたしたち国民のなかに硫黄島の戦いと、敗戦後の硫黄島の現状について認識が深まっています」との報告を申しあげたかったために、正式参拝を事前に靖国神社に要請しました。

 事前調整は、ぼくの盟友のひとり、岳(おか)一隆さんが手伝ってくださいました。岳さんは、伝承にしたがえば、およそ1880年もの永い歴史を持つ日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう/滋賀県近江八幡市)の禰宜(ねぎ)です。かつては靖国神社の若手神職でした。


(靖国神社の公式HPにある境内の図をご覧ください。http://www.yasukuni.or.jp/precincts/images/map.jpg


▼さて、まずは到着殿に着き、ご案内役の権禰宜(ごんねぎ)松本聖吾さんの出迎えを受けました。
 松本さんは靖国の崇敬奉賛(すうけいほうさん)課長で、笑顔が若くて明るい、中堅の神職です。上記の岳さんとは、靖国での同期生ということです。

 到着殿に上がり、事前に入っていた独研の自然科学部長と合流しました。
 ちなみに、この自然科学部長(Phd/博士)は、熊本大と組んでの海洋環境改善に実績があり、また東大と組んでの海洋資源開発、とくにメタンハイドレートの先進的な探査法で国際社会に知られる最前線バリバリの女性科学者ですが、霊的なものを現実に感受することが珍しくありません。

 そして、独研のぼく、自然科学部長、総務部秘書室員の3人で、靖国神社の京極高晴・宮司(ぐうじ)、それにおふたりの権宮司(ごんのぐうじ)らとお茶をいただきながら、しばらく和やかに懇談しました。
 まことに蛇足ながら、宮司は靖国神社の頂点に立つひとです。
 権宮司はそれに続く高位の神職で、靖国には権宮司がお二人いらっしゃいます。

 京極宮司は、穏やかで、それでいてどこか決然とされていて、深い覚悟を静かに秘めたお人柄のひとです。
 去年の6月に、第10代の靖国神社宮司に就任されました。但馬豊岡藩(兵庫県)の藩主だった京極家の第15代当主で、旧華族のかたです。東大法学部卒業後に日本郵船に入られ、関東曳船社長などを務められ、神職経験のない民間企業出身者の宮司です。
 去年、ぼくが大阪護国神社で、つたない講演をしたときにお会いし、接するだけで、自然にこちらの背筋が伸びる、それも堅苦しく伸びるのではなく、柔らかい気持ちで伸びるような雰囲気のかたです。
 わたしたちの靖国神社のトップがこういうお人柄なのは、みなさん、うれしいですね。

 大阪護国神社では、講演のまえに応接室で懇談しているとき、壁にさりげなく貼ってある地図に、日本の領土がきちんと、北は千島列島全島すなわち占守島までと、南樺太が含まれているのを見つけて、ぼくが旧島民のかたがたのためにも、こころから喜んでいると、京極宮司もともに喜んでくださった、胸に残るちいさな記憶があります。

 そのときも魂が晴れるような、澄んだ日本晴れだったのですが、靖国神社で再会した1月7日も、天候がよく、こころのうちで天に感謝しました。


▼ぼくは京極宮司や権宮司に、いつも考えている個人的な考えをすこし、お話ししました。
 それは靖国神社は、国際社会のむしろ常識に従って、国家国民によって護持されねばならず、国家護持が実現すれば、内閣総理大臣の参拝はもちろんのこと、天皇陛下の行幸も自然に実行される可能性が生まれるということです。

 おのれの利益のためではなく子々孫々のためにこそ戦い、命を捧げられた先人や同時代人を、私的に弔うという国は世界に、ぼくの知る限り、敗戦後の日本国以外にはありません。
 アメリカでも中国でもどこでも、国家が弔い、称え、感謝する施設を持っているのは、誰しもご存じの通りです。

 それが、親中派の福田さんや鳩山さんは言うまでもなく、中国にも公正な姿勢を持ちたいという考えの安倍さんも麻生さんも、遺憾ながら首相当時には参拝できないという異様な情況となっているのは、中曽根さんに最大責任があると思うとも、話しました。

 これに対して、宮司らがどうおっしゃったかは、ここには記しません。おっしゃっていたことは、きわめてフェアな、自然なお話でしたから記しても何の問題もありません。
 しかし、あくまでも内々の懇談でしたから、そのお言葉をそのまま記すことはしませんし、話の全体の紹介もしません。
 ただ、安倍さんがひとりの国会議員としては熱心に靖国神社を支えているという趣旨のお話はありました。


▼懇談しているうちに、定められた時刻となり、室内にて玉串料を納めたうえで、靖国の祭務部長の坂明夫・禰宜の先導をいただき、ぼく、自然科学部長、秘書の順に縦に並んで、廊下に出て、参拝へ向かいました。
 一方、京極宮司は、22年前のこの日に崩御された昭和天皇の御陵(東京都八王子市の武蔵野陵)へと向かわれました。そこで祭祀がおこなわれるのです。

 ぼくは廊下に出た段階で、不思議な血がかすかに沸きたつのを体内に感じました。
 いくらか緊張し、すこしだけ昂ぶった気持ちと言ってもいいのですが、その表現だけでは足りません。
 ありのままに申した方がいいですね。英霊が、それも、素晴らしく澄みわたったようすでいらっしゃる英霊が、靖国のお社全体を包むような大きさで、出迎えてくださるのを、ありありと感じました。

 ぼくら3人は、まず浄めの水で口をすすぎ、手を洗います。
 そして拝殿の内で、本殿を望む場所に立ち、お祓いを待ちます。
 ぼくらの前にいらっしゃる白装束の神職が、お祓いの前の祝詞(のりと)をあげていらっしゃいます。

 そのときです。
 拝殿の内に、風が吹き渡りました。
 1月7日です。ことしは、温暖化が嘘のような寒い冬です。そしてこの日、とくに例外的に暖かかったわけでもありません。
 それなのに、ぼくの一身を巻くように吹き渡る風が、まったく冷たくないのです。しかし生ぬるいわけでも、ありません。
 清涼の気、そうとしか言いようのない、これまでに一度も味わったことのない風でした。
 淡い水色の色もありました。その色の、長く薄い晒しというのか、天の衣というのか、形あるものが縦横に翻るような風でした。

 それに一身を包まれながら、ぼくの体内に、全身が生まれ変わるような気配と、永遠のような決心が結ばれました。

 そして、ぼくら3人は頭を深く下げ、お祓いを受けました。
 このあと、本殿へ向かいます。
 本殿から、拝殿のまえで(昇殿はせずに)参拝されている多くのかたがたがみえます。そのほうに向かって、頭を下げました。そのかたがたにとっては、はてな? なぜ、あの人はこちらに礼をするのかな? だったと思いますが。


▼本殿は、その背後に、霊璽簿奉安殿(れいじぼ・ほうあんでん)があります。
 霊璽簿は、靖国に合祀された246万6千あまりの御霊(みたま)の名が記されています。

 本殿内部の正面に、大きな澄んだ鏡、神鏡があります。
 そのうえには、靖国神社の名を命名された明治天皇のご真筆の額があり、「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」と詠まれた御製(天皇陛下の詠まれた歌)を、くっきりと読むことができます。
 靖国とは、靖国神社のホームページに「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められた名であると、明記されています。

 独研の3人のうち、ぼくと自然科学部長のふたりが、神職に促されて、神鏡の御前に進み出て、それぞれに玉串を神道の定めに則って捧げ、二礼二拍手一礼をおこないました。

 ご存じのかたが多いと思いますから蛇足になりますが、靖国神社には遺骨などはありません。
 闇の夜に、戦没者のお名などを筆書きして、「人霊」を上記の「霊璽簿」、すなわち名簿に移します。
 次に、鏡にこの「霊璽簿」を写すことで、「人霊」が「神霊」となり、仕事も年齢も性別も昔の身分も一切関係なく、みな神さまとして平等に祀られているのです。
 これが、わたしたちの文化です。一神教(いっしんきょう)の概念で言う「神」や「宗教」とは、根源から違います。

 これにて、正式参拝そのものは完了です。
 その場で、先導役を務めてくださった祭務部長の坂明夫禰宜から、すこし鏡や霊璽簿、あるいは明治天皇のご真筆の額などについてお話をうかがいました。
 昨年10月の深い夜に、新たに名の分かった戦没者を霊璽簿に移す合祀祭に参加させていただいたことを、その場で思い出していました。このときも、前述の盟友、岳さんが調整してくださったのです。
 さまざまな寡黙な愛国者とのご縁で、この年頭の正式参拝をおこなうことができ、先ほどの清涼の風もいただきました。

 ふたたび坂禰宜の先導で、到着殿に戻るのですが、ぼくは正直、去りがたく、本殿の廊下に出たとき、鏡をはじめとする本殿と、その背後の霊璽簿奉安殿に向けて、深く、こころから深く一礼をしました。

 去りがたい気持ちを思い切るように、長い廊下と階段を経て、到着殿へ戻っていきます。
 冒頭の写真は、その姿を、松本権禰宜が撮ってくださいました。ぼくは、おのれで見ても正直、晴れ晴れとした顔をしているように思います。自然科学部長はちょうど柱の陰です。そのうしろに、秘書Aが続いています。

 写真は最初は、独研の秘書が撮る予定だったのですが、撮って良いところと、そうでないところを間違ってはいけないので、「私がすべて撮りましょう」とおっしゃる松本権禰宜の好意に甘えました。

 こうした長い廊下と階段を、導かれて歩き、靖国神社という造営のたたずまいを全身で感じているとき、もうひとつ思うのは、日の本という邦の、しっとりと気持ちの良い湿りも帯びた、清潔さです。
 神社という、日本国民の誰にも馴染みのあるこの建物は、その内部に入ると隅々まで、世界のどこを歩いてもない独創的な気配と美しさに満たされています。
 控えめでいて圧倒的な荘厳、木造建築の真髄が尽くされていて、それでいてまことに素朴な、虚飾のない、簡素な居心地のよさ、そうしたさまざま異なる要素が、見事にぴたりと矛盾なく統一されています。

 神の棲む造営は、ほんとうに世界中で見てきました。
 誰もが知る、バチカン公国の巨大なシスティナ礼拝堂から、イラクで戦火とテロに焼かれたモスク、中国内陸部の乾いた風の舞う道教寺、ラオスのメコン川沿いに小さな仏のいらっしゃる洞窟まで、それぞれに生涯、忘れがたい、尊い印象があります。
 靖国の造営は、そのどれとも似ていない。それでいて同時に、そのどれとも響きあう。
 わたしたちが先人とともに2千年を超える歩みで築いてきた文化とは、どのようなものか。それが、ありのままに心と身体に、沁みてきます。

 廊下の途中で、巫女さんたちから盃をいただき(ただし、運転するぼくは形だけです。お酒そのものはいただいていません)、いよいよほんとうに参拝完了です。
 しかし、ぼくにはまだ、やるべきことがありました。





清涼の風 その2

2010年01月11日 | Weblog



 まだ、やるべきこととは、靖国神社に合祀されない、いわゆる賊軍とされたかたがたの御霊と、それから外国人の戦没者の御霊のいらっしゃる場所への参拝です。
 靖国神社の拝殿の向かって左側に、他の場所とはまったく気配の違う一角があります。
 そこには元宮(もとみや)と鎮魂社があります。
 元宮は、靖国神社の出発点となった、小さなお宮です。そして鎮魂社こそ、合祀されざる御霊のお宮です。

 独研の自然科学部長は、以前にこの鎮魂社に参ったとき、凄まじい気配を感得して気分が悪くなったことがあります。
 だから事前には靖国神社に、「鎮魂社はわたし一人で参拝します」と伝えていたのですが、この日、自然科学部長は、独研としての正式参拝であることを考えたのか、「わたしも参ります」とみずから、さらりと述べました。

 ぼくら3人は、到着殿の玄関で、権宮司らにお別れを告げ、松本権禰宜らおふたりの案内で境内を行きました。
 境内には、さまざまな参拝客がいらっしゃって、旗を立てた団体のかたから、ひとりで来ているらしい若いひとまで、ちょっと嬉しくなるような多様さです。
 とくに若いひとが少なくないのは、心強い。

 さて、元宮と鎮魂社の鎮座する一角の門前に達すると、参拝客は誰もいません。
 誰でも入れます。しかし、ぼくはこれまで参拝客に会ったことがない。今日もいませんでした。

 そこが何であるか、ご存じないひとも多いからなのでしょうが、ほんとうの理由は、足を向けにくい、足を向けても、その門をくぐりにくい、独特の強い気配が漂っているからかもしれません。

 この門は実際、ぼくも自分の背中を押すようにしないと入れません。
 この日も含めて明るい、晴れた日でも、必ず雨の日のように陰っている門と、その内側です。

 松本権禰宜から「この門を開いたのは、まだわずか3年余りまえのことです」という説明もありました。
 その門をくぐり、まず元宮に参って二礼二拍手一礼をおこない、靖国神社創建への道を開いてくださったことに感謝を捧げました。
 秘書は背後で待機し、ぼくと自然科学部長のふたりで行いました。

 それから、いよいよ鎮魂社への参拝です。
 ぼくのその場の判断で、自然科学部長は秘書とともに背後で控えることとし、ここは、ぼくひとりで参ると宣しました。自然科学部長は、この門内に入っただけで良しとすべきだと判断したからです。それぐらい、ただならぬ雰囲気がここにはあります。

 写真は、鎮魂社へ入るまえの、深い一礼です。
 ここだけが鳥居がないのです。
 しかし、鳥居がある場所と同じように、深い礼をさせていただきました。

 写真は、そのときの様子です。もちろん松本権禰宜が撮影してくださいました。

 そして鎮魂社のまえに進み出て、二礼二拍手一礼をおこない、魂が鎮まりきらない気配を感じつつ、後ろに下がりました。

 そして、ここへ同道くださった靖国神社のおふたりに、「ぼくは、賊軍とされるひとびとも、祖国のためであると信じて戦ったひとびとであるのなら、合祀されるべきだと考えています」と語りかけました。
 靖国の側からは「神道の考えでは、いったん祀られた御霊は、永遠にここにおられます。青山先生のお考えはよく承知していますから、何か別の方法で、祀ることができないか考えているところです」という趣旨の表明がありました。(先生という尊称は、ぼくが記すのはあまりに僭越ですが、先方がおっしゃったままに記録します)

 この「いったん祀られた御霊は、永遠にここにおられます」という神道の考えを無視するように、占領軍からA級戦犯とされたひとびとを「分祀せよ」という考えが、政治家から、自由民主党内も含めて、一部とはいえ強く主張されてきました。
 神道の施設である靖国神社に、神道の考え、信仰のあり方と異なるふるまいを政治が強制することなどできません。
 そもそも神道で言う「分祀」とは、祀られたところから御霊を切り取ってしまうことを指すのではなく、祀られたところの御霊はそのままで、下世話な表現を許してもらえば、いわばお裾分けのように各地にも祀ることです。A級戦犯の分祀論は、単に政治家の勉強不足から出ている側面もあると思います。

 そして、祖国のためにこそ亡くなったひとを公平に祀るという根本的な考えを思えば、靖国神社ご自身も、賊軍とされているから別に祀るということは克服していくべきではないか、というのが、ぼくのふだんからの問いであり、この日も、そのまま申しました。
 案内を頂いたから言わない、お世話してもらったから言わないのではなく、ふだんと同じことを言わねばなりません。
 靖国神社の側が、きちんと誠実にお答えくださったことに感謝します。

 ぼくは、民主党中心の現政権が考えているような「靖国神社に代わる、無宗教の国立戦没者追悼施設」の建設には、真っ向から反対です。
 しかし同時に、靖国神社の現状がこれで良いとは思っていません。
 まず、京極宮司にも申しあげたように、靖国神社を私的な施設にしておくのではなく、国家と国民による護持が不可欠です。
 そのうえで、東京・九段の地域全体を再整備し、前述したように一神教の概念による「宗教」と言うよりも日本の伝統文化の根っこである神道、あるいは西欧的な概念ではくくれない民俗的信仰である神道による靖国神社を、中心施設にしつつ、仏教、キリスト教、イスラーム教をはじめとする多彩な宗教による戦没者慰霊施設を創建し、特定の宗教に依らない千鳥ヶ淵戦没者墓苑もその地域に包摂し、前述した母のようにキリスト教徒であっても、どのような立場のかたでも、祖国を愛し、祖国のために一命を捧げたかたがたへの永遠の敬愛を捧げることのできる地域を造るという考え方を持っています。
 ただし、その目的のひとつは、靖国神社を弔いの中心に据え直すことにあります。
 自民党の中川秀直さんなどの唱える「千鳥ヶ淵戦没者墓苑を拡充して大公園にする」という考えに、もしも靖国神社の役割を小さくする狙いが隠されているのなら、それには正面から反対します。

 そして、もしも靖国神社の国家と国民による護持が実現するのなら、その際には、遊就館(靖国神社の境内にある戦争博物館)の展示も見直し、なぜ日本が戦争に敗れたのか、後世のわたしたちと子々孫々にフェアに明示されるべきだとも考えています。
 たとえば零戦についても、戦争の初期には勝利をリードしたけれども、人間(パイロット)の守りが手薄である弱点を見抜かれてからは、むしろ敗北の理由にもなり、それを改革したいと設計者やパイロットから切実な改善案が出ているのを海軍軍令部が無視したことを、ありのままに明示すべきです。

 ぼくがかつて新潟での講演でこれを述べたとき、講演のあとの懇親会で、「私は零戦のパイロットでした」というかたが、ぼくに話しに来られました。
 高齢で小柄ながら、背筋のきりりと伸びた素晴らしい雰囲気のかたでした。そして「あなたの言うとおりだ。あの戦争の、ほんとうの総括はまだ終わっていません」と決然と、おっしゃいました。


▼元宮と鎮魂社に別れを告げて、その域の門を辞去し、すべての参拝が終わりました。

 胸の内でほっとしつつ、松本権禰宜らに、心からのお礼を申してお別れし、独研の3人だけで、境内を広く散策しました。
 松本権禰宜らからは、もっとご一緒してもいいんですよ、という様子も感じられましたが、それはあまりに申し訳ないと思ったのです。

 まずは、一般参拝客と同じく、お守りやお神籤(みくじ)を買い求めました。
 ぼくは、新年早々には、自宅近くの小さな神社に初詣をしています。それはビルの屋上にある、あまり知られていない神社です。
 そこで引いたお神籤には、「世のために人のために尽くせ」とありました。そして、靖国神社で引いたお神籤には「困難が続くが、踏ん張り続ければ、前途は明るい」という趣旨がありました。いずれも、その通りだと思います。

 それから、3人で焼きそばと甘酒(運転するぼくだけはお水です)をいただき、遅い昼ご飯にしました。
 この日に同行した秘書のAは、もともと靖国神社などにきちんとお参りをしている34歳の、志ある女性です。正月三が日にお参りしたときは人で埋まっていたことなどを話してくれました。

 ぼくは、社有車を駐めた場所に戻りつつ、自然科学部長に、淡い水色の清涼の風、真冬で、しかもそう暖かい日でもなかったのに寒くなかった不思議な風のことを聞いてみました。
 彼女は感じなかったそうです。そして感じなかったことをむしろ当然のこととして、感じた者の責任について、さらり触れるように「それは、そういうことだったんでしょう」と言いました。


▼さて、これにて、ささやかな参拝記は終わりです。
 最後にみなさんに付け加えておきたいことが、いつつ、あります。多いですね。

 ひとつ。
 この靖国神社には、沖縄戦の白梅学徒看護隊をはじめ学徒看護隊の少女たちも合祀されています。
 しかし、前述の神職、岳さんの努力で、沖縄の白梅の塔で敗戦後初めてと思われる祭祀が昨年に行われたとき、ぼくの敬愛する中山きくさん、すなわち白梅学徒看護隊の生き残りのお一人であり、学徒看護隊の弔いのために長年、努力をされてきたかたは、同じ学徒看護隊の生き残りのかたがたと話しあわれた末に、その祭祀には参加されませんでした。
 ぼくはそれを残念に思いますが、同時に、中山きくさんらのお気持ち、お考えもこころから尊重します。
 だから、この参拝記でも、本文では触れませんでした。この付記には、少女たちへの尽きない思いも、明記させていただきます。

 ふたつ。
 靖国神社のほんらいの表記は、靖國神社です。
 ぼくはふだん旧字体を原則、使いません。こうした参拝記だけ急に使うのはおかしいのと、靖国神社の公式HPでも、新字体、旧字体が併用されていますから、この参拝記は新字体で通しました。
 しかし靖國神社という文字の深い落ち着きは、ほんとうに捨てがたいものがあります。

 みっつ。
 ここまで記したような正式参拝、すなわち本殿にあがる昇殿参拝は、申し込まれれば誰でも、できます。
 特定の人間の特権ではありません。
 この、小さな参拝記で関心を持たれたかたがもしもあれば、日本国民、外国人を問わず、もちろん考え方のいかんを問わず、靖国神社の公式HPの「昇殿参拝のご案内」をクリックすれば、いかに障壁なく昇殿参拝ができるか分かっていただけるでしょう。
 10人以上の団体による昇殿参拝は、事前の申し込みが必要ですが、それ以下のグループや個人は、その時に思い立って申し出られれば、どなたでも昇殿参拝ができます。

 よっつ。
 みっつめに連なって、広く知っていただきたいことは、靖国神社がほんとうはどんなところか、昇殿参拝をされれば、日本国民、外国人を問わず、もちろん考え方のいかんを問わず、理解されるひとも多いだろうということです。
 それは明治天皇が詠まれた御製(お歌)のとおり、祖国と世界よ、安かれという場所なのです。
 ぼくが自衛隊に代えて、日本の永い歴史で初めてとなる国民軍の創設をかねてから主張しているわけも、まったく同じです。
 戦禍を引き起こさないためにこそ、それから拉致のような国家テロをも二度と引き起こさないためにこそ、必要なのです。

 いつつ。
 この小さな参拝記は、いずれ書物用に書き直して、ことしに出したい新刊に盛り込みます。
 たとえば、ことしPHPから出版を予定している天皇陛下というご存在をめぐる新書です。これは、まずPHPの論壇誌「VOICE」への集中連載で始まり、それが完結してから、もう一度、筆を入れたうえで、新書にまとめることになる見通しです。
 それから、扶桑社から出版を予定している「ぼくらの祖国」にも入れたいと思っています。
 もちろん、2冊はそれぞれの内容にふさわしいよう書き分けをします。


▼最後の最後に、参拝記とは別のお知らせを記しておきます。
 4月スタートを予定しているネットTV、ネットラジオの試験版の最新アップが、予定通り1月8日金曜にありました。
 ネットTVがhttp://www.youtube.com/watch?v=a6Y8OF3ACI0、ネットラジオがhttp://www.voiceblog.jp/yuukidesu/です。
 これまでの試験版への多数のアクセスに感謝しています。試験版アップも、あと2回だけです(1月15日金曜、22日金曜)。
 よろしければ、最終回まで、どうぞ。



急告

2010年01月09日 | Weblog



▼1月8日夜から9日未明にかけて、平沢勝栄代議士の公式HPに、以下のような「緊急コメント」がアップされました。

「1月6日の関西テレビ『スーパーニュースアンカー』で、独立総合研究所代表の青山繁晴氏が、”北朝鮮の拉致問題絡みの話で山崎拓氏と平沢が昨年12月に小沢一郎氏と極秘会談をもった”とコメントしていました。
しかし、私に関しては全くの事実無根で極めて心外です。
直ちに、青山氏に抗議及び訂正文を申し入れたところ1月13日(水)の放送で当然のことながら訂正する旨の確約を得ました。 平沢 勝栄」

 これは事実に反します。
 そこで直ちに、1月9日未明2時に、平沢さんの公式HPにある「ご意見・問い合わせ」フォームによって、平沢さんに以下のメールを送りました。

「平沢さん、簡潔に申します。わたしは平沢さんから電話を受けたとき、『水曜日の放送で、事実ではないとする平沢さんの言い分を述べる。紹介する』と申しましたが、『訂正する』とは、ただの一言も申していません。
実際に放送では、平沢さんの言い分を確実に紹介しますが、訂正ではありません。記述は正確にお願いします。HPの記述を、まさしく訂正していただきたく思います。 1月9日未明2時」


▼事実関係を正確に、フェアに記しておきます。

 平沢代議士からは、1月7日木曜の夕刻に、電話があり「小沢さんとは最近、会っていない。初当選から10年目ぐらいに、人の紹介でメシを食べたことがあるぐらいで、付き合いはない。山拓さんと小沢さんが拉致をめぐって、どうしているのかは知らない。何かの動きをしているのかもしれないし、そりゃ、いろいろあるのかもしれないが、私は関与していない。放送の後、国賊だと非難するメールなどが来て、極めて迷惑している。心外だ。何で国賊なのかな。拉致に触るのがいけないと、いうのかな。しかし拉致問題は解決しなきゃいけない。拉致でいろいろ動きがあるようなのは事実だが、実際に成果の出る可能性があるのは、あなたの放送でやっていたような小沢さんたちのルートではなく、ある大手メディアを通じたルートだ。今、それが動いているんだ」という話がありました。

 わたしが「その大手メディアとはどこですか」と聞くと、「それは言えない」ということでした。
「朝日新聞ですか」と聞くと、「違う。どこかは言えないが、金正日と直接に繋がるルートだ。だから充分に(解決の)可能性がある」との答えでした。
 わたしがさらに「金正日総書記と繋がるルートということは、平壌に(日本のメディアとしては)唯一、支局を置いている共同通信ではないですか」と聞くと、「言えない」という答えでした。

 わたしは、これらの平沢さんの話について、小沢さんと会っていないと否定されていることを含めて、「来週水曜日の放送で、述べましょう」と話しました。
 訂正ではありません。

 放送などの発信で取りあげた当事者から、反論があった場合は、できるだけきちんと紹介すべきだという、発信者におのずから存在するルールとマナーに従うために、平沢さんの「迷惑である」という抗議、「事実ではない」という反論、「(平沢さんの解釈・定義による解決の)可能性があるのは大手メディアによるルートであり、小沢さんたちのルートではないと思う」という説・言い分を紹介するのです。
 平沢さんから否定の電話があったことは、複数の情報当局者に直ちに伝えましたが、情報当局者たちの見解は変わりませんでした。
 こうした場合、「会った、会わない」は水掛け論にもなりかねませんから、双方の見解をそのまま紹介し、平沢さんについては、事実ではないという反論だけではなく抗議もあったことをフェアに述べねばなりません。

 平沢さんからは、もう一度電話があり、「先生のホームページなどで、言ってくれないか」という要望がありましたが、わたしはそれをお断りし、「水曜日の放送で述べます」と答えました。
 平沢さんは電話で「事実ではない」とは何度も言われましたが、「訂正していただきたい」といった「訂正」を含む言葉自体、一度も使われませんでした。
 上述したように、再度の電話でも平沢さんは「ホームページなどで、言ってくれないか」とおっしゃったのであり、ここでも「訂正」ということ自体、おっしゃっていません。

 したがって、わたしとしては水曜日の放送で淡々と公平に、平沢さんからの抗議、反論、言い分を紹介するのであり、それまで、この個人ブログなどで記す予定は、平沢さんご本人に申したとおり、全くありませんでした。
 平沢さんも、再度の電話の際に「私は私で自分のホームページで言い、先生には水曜日の放送で言ってもらう、と、これで行きましょう」とみずから確認され、このときも「訂正」ということはおっしゃっていません。
 前述したように、わたしも申していません。

 ところが、それから2日ほど経って平沢さんのHPにアップされた内容では「訂正を確約」となっていますから、ここに急告として、事実関係を記しました。


▼平沢さんの電話でうかがえるのは、やはり、「拉致問題の解決とは何か」ということについての根本的な見解の相違です。
 わたしは、どこでもいつでも申しているとおり、「最後の一人まで帰ることだけが解決であり、一人でも見捨てたら、日本は国民国家でなくなる」という見解です。

 平沢さんは、もともとはTVタックルなどで「北朝鮮の体制を変えないと、真の解決はない」という考えを語られ、その点では、わたしと一致していました。
 しかし、今回の電話にある「大手メディアを通じて金正日(総書記)と直接、繋がるルートで解決へ」といった話をお聞きすると、実際には、金正日総書記にとって生きて返すのが都合の悪い被害者は永遠に帰ってこない交渉方法を、実質的に支持されているようにも感じます。

 平沢さんは、2004年に自民党山崎派の一員となられ、その年の4月に山拓さんと共に中国の大連で北朝鮮高官と拉致をめぐって極秘交渉したことが、あまりに有名です。

 わたしとしては、やり直しや編集のきかない生放送で、平沢さんや山拓さんと、何が拉致問題の解決なのか、いま何をすべきかについて、視聴者・国民のまえでありのままに議論することを、この際、提案したく思います。
 平沢さん、いかがですか。あなたは、受けてくださる気もします。
 もしも実現するときは、ぜひとも、山崎拓さんにも加わっていただきたいですね。



念のため

2010年01月07日 | Weblog



▼関西テレビの報道番組「アンカー」(水曜)の『青山のニュースDEズバリ』というコーナーを毎週、全文、克明な文字起こしをしてくださっている大阪の女性に、「ぼやきくっくり」さんがいらっしゃいます。

 その、敬愛するくっくりさんによると、ぼくの個人ブログのうちコメント欄がなぜかパソコンで読めないそうです。
 へぇー、そんなことがあるのかと、ちょっと驚きつつ、これを知ったために以下を念のために、ここに書き込んでおきます。


▼以下は、コメント欄にアップされた、やりとりです。
 上記の通り、そのコメント欄がパソコンに表示されない人もいるそうなので、念のため、ここにもアップしておきます。


▽まず、次の書き込みがコメント欄にありました。


なんか変 (Unknown)
2010-01-07 01:14:22
1/6の放送で朝鮮総連も外国人参政権について実現を求めてるって言ってますが、民団は賛成で総連は反対だったはずですよね。


▽これを拝読して、コメント欄に次のように書き込みました。


なんか変 (Unknown)という書き込みをされたかたへ (青山繁晴)
2010-01-07 03:15:35

 ふだんは、ここにぼくがコメントすることは原則ありませんが、事実関係に関することなので、念のため記しておきます。


▼朝鮮総連が公式には外国人地方参政権に明確に反対していることは、もちろん、その通りですが、ぼくはそれを『建前』ないし『したたかな戦術的反対』と考えています。
 その戦術のなかには、民団との違いを出す意図もあると考えます。

 民主党や公明党が外国人地方参政権法案の成立を強力に進めることの背景には、民団だけではなく、朝鮮総連および北朝鮮が居ることは間違いのないことだと判断しているからです。
 逆に言えば、朝鮮総連および北朝鮮が建前や公式見解だけではなく本気で猛反対しているのなら、民主党や公明党の動きは、大きく鈍るはずです。
 民主党や公明党の支持基盤のなかに、在日のかたがたの勢力があるのも客観的事実ですが、それは民団だけではなく朝鮮総連も強固な基盤のひとつです。

 いまは建前ないし公式見解で反対していても、外国人地方参政権法が成立してしまえば、朝鮮総連および北朝鮮も必ず、その果実を手にすると判断しています。

 こうした判断は、ぼくだけのものではなく、ぼくの知る限りでは日本の公安当局もそのように分析していますし、識者のなかにも、ぼくのように直接的に表現するかどうかは別にして、同じ見解を持つひとは、これもぼくの知る限り、少なくありません。

 ぼくと交流のない識者でも、たとえば有名な記者の阿比留瑠比さんは「総連は今のところ、参政権付与には反対の立場を表向きとっているようですが、その裏では違う動きをしている可能性は十分にありますね。いわゆる本音とタテマエの使い分けで」とブログに記しておられます。


▼民主党が今後、小沢一郎幹事長を中心にして、早ければこの通常国会にも外国人地方参政権法案を出してくるときは、「国交のない国(北朝鮮等)の出身者は参政権付与の対象にしない」という条項が加わる可能性が高いと考えます。
 小沢さんは自由党時代にすでに、こうしたことを公に標榜していましたから。

 しかしこれも、北朝鮮と日本の国交を、拉致事件が未解決であろうが何だろうが進めてしまうための仕掛けのひとつだと、ぼくは考えています。
 すなわち「韓国出身者には地方参政権が認められたのに、北朝鮮出身者には認められない不公平を早く解決するために、国交を急げ」ということが、日朝国交をとにかく急がせる理由付けのひとつにされるだろうと思います。


▼ただし今回のコーナーでは、「朝鮮総連は公式には、あるいは建前では、外国人地方参政権に明確に反対しているが、ぼくの見解としては、その本音では…」という一言があったほうが、分かりやすかったと思います。

 これは常に悩む課題です。いつも時間が足りないうえに、今回のコーナーには、ほんとうはふたつの大きなテーマ(小沢幹事長に特捜がついに任意での事情聴取を求めた、というテーマと、民主党が水面下で拉致をめぐって北朝鮮と接触しているというテーマ)を盛り込んだので、どうしても説明が完全にはやれない部分が出てきます。

 民主党と北朝鮮の極秘接触3ルートについても、いちばん時間を割いて話すべきだったのは、3つめの「小沢さんと山拓さんらが12月に極秘会談していた」という件でしたから、1つめの副幹事長と朝鮮総連のルートの説明はなるべくコンパクトにしたかったのです。

 今回も関心を持ってコーナーを視ていただき、ありがとうございました。
 いつも下手くそな語りなので、こころ苦しくも思っています。


▼以上です。
 外国人地方参政権に反対する見解を打ち出している朝鮮総連にとっては苦々しい限りでしょう。
 また、その公式見解をそのまま信じる考えのひともいるでしょう。
 われらの民主主義のなかで、その考えももちろん尊重しつつ、これは、あくまでも自由な発信者としての、ぼくの判断と見解です。




ぼくらの祖国  その1

2010年01月05日 | Weblog
(※年明け早々、すこしサービスが過ぎて、制限文字数を超えてしまいました。この書き込みは2回に分かれます。画面通り、上から下へ読んでいってください)



▼みなさん、明けましておめでとうございます。

 新しい年が来たということは、生きとし生きるものにとって命の限られた時間が一年分、過ぎていったということです。
 早く大人になりたいと思う若いひとには、一年が早く過ぎてよかったと思うひともいるだろうけど、年齢の気になるひとには、あぁ、めでたいどころじゃないな、また一年が過ぎてしまったと思うひとも沢山いるでしょう。
 しかしそれでも、ぼくは、みなさんのすべてに、明けましておめでとうございますと申したい。

 なぜなら、生きとし生きるものは、年齢とまったく関係なく、いつ何時、命が失われても不思議じゃない。若くて、やりたいことが一杯あって、元気そのもののひとが一瞬にして、かき消えるのが、ほんとうのこの世界ですから。
 仕事柄いくつかの戦地を歩いた体験からしても、その思いが胸の奥にいつも、どこでも、ありますから、とにもかくにも一年を生き抜くことができて、その結果として新しい年を迎えたのは、どなたにも、ほんとうにお祝いを申したいことだなぁと、考えるのです。


▼さて、そのうえで、ぼくにとっては心のうちが、かつてないほど辛い年末年始でありました。

 昨年、民主主義によって政権交代を実現しながら、わたしたちの祖国は、一体どんな政治になっているでしょうか。

 自由民主党が、創価学会の力なども借りながら、半世紀を超えて実質的な一党支配を続け、その垢が、たとえば既得権益というかたちで溜まりに溜まり、それを超克する道の第一歩としての政権交代であるはずです。

 ところが現職総理の脱税という世界にも例を見ない犯罪あるいは犯罪の疑いが露見しながら、その脱税総理が「国民の圧倒的多数が辞めなさいと言わない以上はこのままでいい」という趣旨を平然と記者会見で述べて職に留まり、世界に恥を晒し、その総理を公然と顎で使う与党幹事長は、沖縄を含む日本の島々や海を実質的に手中にする動きを着々と進める独裁国家の国家主席に、およそ140人の与党議員を拝謁させ、寸秒の握手をありがたく押し頂く姿を世界に晒すという朝貢外交をなし、その帰途には、「在日外国人に地方参政権をプレゼントする」とすでに約束している韓国大統領を訪ねて、その会談内容を国民に一切、明かさないという二元外交、独断外交をなしている。

 その幹事長はまた、あろうことか、その立法府の与党議員たちに「法律は作るな。選挙区を回ってろ」と立法府の機能を壊す指示を公然となし、議員たちはそれも唯々諾々として聞き、特にお気に入りの女性議員だけが特例として立法を許される。
 そして幹事長は、自民党全盛期の派閥ボスそっくりに自邸で新年会なるものを催して、副総理をはじめとする閣僚も、国会議員も、テレビ局の現職記者と報道番組プロデューサーをはじめとするジャーナリストも、大集合し、正座して幹事長のお話を拝聴し、一斉に大拍手を送り、お酌をさせていただき、立法を禁じられた議員が反論を述べるでもなく、国民に発信するジャーナリストが疑問を直にぶつけるでもなく、赤い顔で、屋敷を出てくる。
 その幹事長も、現職総理と同じく、カネをめぐる深刻な疑惑に包まれている。

 昨年夏の総選挙で、日本が良くなることを願って民主党に投票した有権者が望んだ「新しい政治」が、これなのでしょうか。

 ここはぼくの個人ブログです。テレビやラジオの番組、ネットTVやネットラジオという公に発信する場でもなければ、客観的な機密情報が身上の会員制レポートでもありませんから、個人的なことをすこし申しますと、ぼく自身は、昨夏の総選挙で民主党には投票しませんでした。
 それを知っている身近な友だちで、やはり民主党に投票しなかった男がぼくに、電話で「ざまぁ見ろ、っていう気分だよ」と言いました。
 ぼくは思わず黙り込んでしまった。そんなことを言う気分には、とてもなれない。

 自民党支配の半世紀の政治がいかに汚かったか。
 既得権益という四文字に隠されている汚濁は、どれほどに深いか。どれほどにアンフェアか。
 それは政治記者として現場をみてきたけれど、日本では初めてとなる独立系のシンクタンクを創立して、もっと生の現場に踏み込んでからは、みているどころか、その自民党政治が作り上げた既得権益の側から、不当に、強欲に、理不尽に、こっそり潰してしまおうという凄まじい圧力を受け、たった今も受け続けているから、これまでの自民党政治にノーを突きつけた有権者の気持ちが、よおく分かる。ざまあみろ、なんて、とんでもない。

 新政権は、有権者のまっとうな願いをどうしてこんなに踏みにじるのか。
 それが胸に食い込む。
 怒りとも悲しみともつかない、何とも言えないつらさが、胸を噛む。

 ネットTVの試験版第1回で述べた「政権交代は断固、支持します」という考えは、今もまったく変わりません。
 たとえば政権交代を機に、自由民主党はみずからを深く省みて、生まれ変わらねばならない。既得権益と腐敗だけの問題だけじゃない。半世紀以上も政権を握りながら、憲法の改正ひとつ、実現できなかった。
 第二次世界大戦で敗れた国は、もとより日本だけではなく、ドイツをはじめ西欧にも東欧にも北欧にも存在するが、国軍ないし国民軍の存在を許されない国は、日本だけであり、敗戦後の日本には国家警察すら存在しません。(皇宮警察は国家警察だ、と反論した警察幹部もいますが、そんな話ではありません。統一された指揮系統のもと、国民を直接に実力で護る、国家の警察部隊のことを指しています。日本には自治体警察の部隊しかないのです)

 それは、北朝鮮が最小限の武力で日本国民の誘拐・拉致をやすやすと行い、中国が海軍力で尖閣諸島や沖ノ鳥島のあたりを平然と侵し、脅(おびや)かすことのできる重大な、決定的な背景となっています。
 この事実が象徴するような敗戦後の秩序を、作り、延々と維持してきたのは、まさしく自由民主党です。
 これで保守党を名乗れるのでしょうか。

 これまで、おおむねはうまく行ってきたから、これでいいや、というのが古い自民党政治の実像であり、その根深い甘えと思い込みは、政権交代を経なければ、変わるはずがない。

 民主党を中心とした新政権が、総理も与党幹事長もカネにまみれ、奇怪な独裁型の政治や外交を行うから、自民党も、それを批判する「野党らしい野党」でいれば良いと勘違いしています。

 ほんとうは、おのれの祖国を愛するという万国に共通する普遍の土台に立ち直し、そのうえで政党はまず理念と哲学を掲げ、それを具体化するための政策を競うという、まっとうな民主主義を造るための政権交代でなければなりません。
 民主党も自民党も、現状では、それにあまりに遠い。
 あまりに情けない。
 なぜ、こうも歪み、こうも理念を欠き、こうも安直なのか。

 ぼくはふだん、特にテレビやラジオの番組では、視聴者・国民がみずから新しい希望を持ち、それぞれの日常の立場で行動なさるために問題提起することを、ほんらいの目的と考えています。
 だから、こうした内心の怒りと悲しみは、ぼくなりに懸命に抑えています。
 視ているひとにとっては、そうはみえないかもしれませんね。カメラの向こうに間違いなくいる視聴者に、ほんとうは間近に近寄って、眼を覗き込んで、肩を抱いて、つたないなりに話しかけたい気持ちで話しているから、感情がこもっているようにも、みえるかもしれない。
 だけど、もしもぼくが心の内をすべて露わにしながら話していれば、それはもはや番組じゃない。
 だから実は抑えています。それに、気持ちをすべて剥き出しになどしていれば、説明すべきを説明する時間が必ず、なくなります。

 番組というものは、常に時間との戦いです。テレビ番組としてはまことに異例の長時間、30分を超える時間を用意してくれた、今はなき番組「ぶったま!」(関西テレビ)でも、やっぱり時間との戦いでした。
 ネットTVでも今のところ、時間の制約は厳しくて、試験版の第1回でも「政権交代にはたいせつな意義がある」と強調したところで終わらざるを得ませんでした。
 その先にある真意は、上に述べたとおりです。


▼ぼく個人にとっても、ことしほど苦しい年末年始はありませんでした。

 例年、年の初めは海外に出張し、その新しい年の世界の空気を肌で感じようとするのですが、ことしは行きませんでした。

 ひとつには、昨年12月にサンフランシスコでの国際学会に出席し、2月には別の海外出張も予定されているので、見送りました。
 独研(独立総合研究所)は、既得権益に寄り添うのではなく真正面から戦っていますから、経理・財政は日常的に厳しく、他の研究員の海外出張も考え合わせると、コストを絞らねばなりません。

 もうひとつには、滞留しているさまざまな本の原稿を、年末年始のアポイントメントがぐんと減る時期に進めたかった。
 海外に出ると、その国で人に会い、その国の政治経済、そして自然を見ることを最優先して時間を費やすから、原稿は進みません。
 ところが、せっかく国内にいたのに、原稿書きの不調に苦しみ抜いて、どん底でした。

 そうしたなか、激しい背中痛が起き、月に3度ほどバーベルを挙げているジムのトレーナーに見てもらうと「原稿を書くために背中を丸めてキーボードに屈み込み続けているから、背中が耐えきれなくなった」ということでした。
 なんらの原稿も生み出せず、背中の痛みだけ生み出した。ふひ。
 海外の空気も吸わず、原稿も書けず、内心で世に鬱々と苦しみ、背中痛だけつくった年末年始であります。

 やはり、さすがに今年はどこかで、心身をいったんリフレッシュさせないといけないなぁ。
 ぼくが共同通信を依願退社したのが、平成9年、1997年の大晦日、12月31日付でした。
 翌日の平成10年、1998年の元旦、1月1日付で三菱総研に入社してから、きょうで満12年と5日、ただの1日もオフ、休みがない月日を過ごしてきました。
 共同通信の記者だったときも、めちゃらくちゃらに忙しかった。未明の3時半ごろに夜回り取材から帰宅して、1時間半後の朝5時には、朝駆け取材のために東京・九段の衆院議員宿舎などへ出かけていくのです。自宅では、立ったまま眠りながらシャワーを浴びるだけでした。
 それでも、たとえば首相官邸詰めの共同通信記者は11人いて、全メディアのなかで最多、外務省でも最多でしたから、交代要員がいるのです。だから忙しくても、政変や昭和天皇が吐血されるといった事態がない限りは、夏休みも正月休みもありました。
 ぼくはダイバーだし、乗馬もするし、4輪のレーシング・ライセンス(国内A級)もあり、記者当時はサーキットに復帰はしていなかったけど、スポーツでかなりストレスを解消できていましたね。

 しかし三菱総研に移り、そのあとに独研を創立してからは、交代する人がいませんから、まずは夏休みなどがなくなり、プロの物書きとしても出発したから、アポイントメントのない日でも必ず大量の原稿執筆があり、専業の物書きのかたとは違ってふだん書く時間がないので、アポのない日こそ必死でパソコンに向かいあわねばならなくて、1日の休みもなくなったわけです。

 その12年間も、それの前の記者時代も、ぼくがいくら疲れていても「その通り、疲れているね」と言ったことのない、つまり下手な同情をしたことのない身近な人が、この年始に、「ほんとうは休みたいんだねー」と初めて言いました。
 ぼくは思わず、「そう、最低でも3か月間ずっと、休みたい」と答え、「じゃ、休めば?」と返されて、休めない現実をむしろ実感しました。ふひふひ。

 この身近なひとは、身近なだけに、ぼくの心身の基礎体力をよーく知っているので、ぼくが永遠不滅だと思い込んでいるところもある。
 やっぱ、ぼく自身が判断し決断して、今年の目標のひとつを、12年プラスアルファぶりの完全休暇を、そうだなぁ、ミニマムなら1日、マキシマムで1週間ほど、取ることに置きましょう。

 原稿を書くというのは、ほんとうは心身の芯から凄まじくエネルギーを絞り出す作業です。この疲労ぶりでは、年末年始になったからといってそれを簡単にやれるはずはない面はありましたが、基本的には、ぼくの意志が弱く、あまりに弱く、どん底に沈んだのです。

 しかしあさって6日水曜から、関西テレビの報道番組「アンカー」も再開します。
 どん底に落ちたことをむしろ逆手にとって、より初心に返って、視聴者への責任を果たし尽くせるよう戦いたいと思います。
 ほんとうの希望は、絶望から生まれる。
 それが、ふだんの信念のひとつですから。


▼関西テレビと言えば、きのう4日に「爆笑!こうなる宣言2010」が放送されました。
 これは毎年、年末に収録される番組で、ことしも12月27日の日曜に収録がありました。したがって、ずいぶんと編集が入っています。

 いつも申していることですが、編集権はテレビ局にあります。
 それを承知で番組参加(出演)をOKしているのですから、よほどのことがない限り、抗議はしません。
 過去に一度だけ、在京テレビの有名番組で、靖国神社などをめぐって、ぼくの発言が逆さまになるように捏造した驚くべき編集があり、そのときだけは抗議の声をあげました。
 発言の意図がちゃんと伝わらないのは日常茶飯事で、発言しているぼくが下手くそであることも謙虚に考えねばならないけど、メインキャスター(あるいはメインキャラクター)の発言をひとつひとつ厳しく批判しているのに、真逆に、賛同、賛美しているかのように意図的に編集するのは、我慢の限界を超えています。というより、視聴者のためにも抗議せねばならない次元です。
 ただし、このケースは、局による編集というより制作会社の編集だったと考えています。

 関西テレビでそのような経験をしたことは、ありません。今回の「爆笑!こうなる宣言2010」も同じです。
 ただ、ぼくとしては、なるべく放送して欲しかった部分が落とされている箇所は、あります。この個人ブログでそれを補うのは、自由だと考えますから、すこし書いておきます。

 たとえば、鳩山総理がほんとうは辞めるべきだと述べたところでは、番組収録の直前に、最高検察庁の当局者と電話で議論した部分がすべて省かれています。
 憲法75条に「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない」という条文があり、それに触れて「総理大臣も大臣の一人だから」などと話したところまでは放送されたのですが、肝心のそのあとの話がカットされました。
 放送時間がないからだと思います。

 収録で、ぼくがそのあと話したのは、「検察の当局者に先ほど電話で話したのは、『この75条の後半には、これがため訴追の権利は害されない、とあるのだから、総理の訴追を諦めて上申書にすり替えるのではなく、二人の秘書だけではなく総理についてもすくなくとも立件・起訴できるところまで容疑を固めて、鳩山総理自身に、みずからの訴追を同意して公判でフェアに争うのか、それとも訴追に同意せず自分を守るのか、明確でオープンな選択を迫って、国民の法治の存在を見せるべきではなかったか』ということです。検察の当局者は、あくまで個人的感想、と断ったうえで鳩山総理が国民に人気があることも気にした、と非常に率直に話しました」という趣旨でした。

 また大阪府の橋下徹知事と対話・議論したところでは、関空(関西国際空港)の利権擁護への疑念も生まれることを指摘したあたりが、すべてカットされています。
 あるいは、出演者のかたから「国政には?」という趣旨のフリップが掲げられたとき、知事は一兵卒の議員からやるつもりはないだろうが新人議員か非ベテラン議員にして総理へのストレートな道があり得る状況なら転身するのではないかと話し、その流れで、小沢さんの手法や新人議員への感覚は実は古きも古い、という趣旨を話したところもカットされています。


(その2へ続く)

ぼくらの祖国  その2

2010年01月05日 | Weblog
(承前/その1から続く)

 カットはこうしたところだけではなく、たとえば時間が足りなくて全くの舌足らずになってしまった経済の話はすべてカットされていますから、特に検察や小沢さんの話を避けたということではないだろうと思います。
 要は、収まり具合をみて、バランスよく残すことに苦心した跡のある編集ぶりです。
 関テレだから擁護しているのではありません。そんなことはしません。ちなみに、関テレと独占契約していると誤解されることが少なくないのですが、ぼくは一切の芸能プロダクションなどと関係を持ちませんから、そんな契約はありません。どこのテレビに出ようと自由ですが、たまたま現在は関テレが多くなっているというだけのことです。

 世の中からさまざまに誤解や曲解は受けます。それは世の常ですから、むしろ甘んじて受けるべきなのですが、テレビ番組への参加(出演)に関しては特に、ほんとうに多いですね。
 ネットであれだけ蔑視されているテレビですが、みんなの関心はまだまだ強いんだなぁと実感します。新聞や雑誌に寄稿した記事では、誤解を受けるなんてこと自体が、あまりないですからね。

 ついでに言えば、中国の四川大地震のとき関テレの番組内で、関テレの現地特派員と生中継で繋がって「○○さん、青山繁晴です」と呼びかけたら、「大物のつもりでいる」とネット上で、書き込まれたことがありました。○○記者と選挙取材を一緒にやって苦楽をともにしたことがあり、音声の状態が悪い状況の中でもぼくと分かるように名乗ったのだし、また、彼が知友であってもなくても、質問しているのが誰か分かるように名乗るのは当たり前ではないでしょうか。

 こういうのを思い出すと、たとえば、ぼくが三菱総研にいたというだけで「防衛利権と深い繋がりがある」という趣旨を平気で書き込まれたりしたのを思い起こします。ぼくがいつ、どこで、どんな防衛利権に預かったのですか。その利権とまさしく戦っている仕事の、何を知っているのですか。

 ぼく自身も肝に銘じねばならないのは、ひとはどうやら、おのれの隠れた欲求に合わせて、世のことども、世に棲むひとを曲解するらしいという教訓です。

 ぼくも似たようなことをやっていないか、自戒し、発信するときにいつも事前に、深く考えるようにしています。
 誤解や曲解がいけないのは、被害を受ける当人の名誉を不当に傷つけるだけではなく、間違った情報を広く流布する怖れがあるからです。だから誤解や曲解を、ほんとうに誠心誠意、避けなければいけませんね。

 話が逸れました。
 元に戻すと、この番組は「爆笑!」と銘打っているとおり、ほんらいは芸能・お笑い中心ですから、ぼくの堅い話にあれだけ時間を取っていること自体が、かなりの踏ん張りではないでしょうか。
 それは関テレと言うより視聴者の踏ん張りでもあると思います。


▼さて、早くアップしたいと思いつつ、年末年始も上述したように原稿に必死で、なかなか時間がとれなくて書けないでいた、いくつかのことを、書き込んでおきます。


▼まずは、4月に新しく始まるインターネットTVの「青山繁晴.TV」(あおやましげはる・ドット・ティーヴィー)の試験版は、予定通り毎週金曜にアップされています。
 1回目(12月18日)はhttp://www.youtube.com/watch?v=PuWsRxO8qL0でした。2回目(12月25日)は、http://www.youtube.com/watch?v=vzZJsQr_-Mkで、3回目(1月1日)はhttp://www.youtube.com/watch?v=eT_o31vzCuIです。
 またインターネット・ラジオの試験版、「やっと話せる青山繁晴の深ーい話」も同じように毎週金曜日にアップされています。
http://www.voiceblog.jp/yuukidesu/

 TVもラジオもアップされる度に、独研(独立総合研究所)の公式HP にURLが載りますから、よろしければ活用してください。
http://www.dokken.co.jp/


▼これらネットTVとネットラジオについて「検索しても出てこないよ」という心配を、昨年中に多くのひとからEメールや書き込みでいただき、協業しているプロデュース会社に問い合わせました。
 意外にも、YouTubeは検索でヒットするようになるのに時間がかかるそうですが、プロデュース会社がYouTubeに働きかけてくれたことが奏功してか、もうかなり前から検索でヒットするようになっています。

 ぼく自身が試してみると、YouTubeのトップ画面で、「青山繁晴」と入れても、「青山繁晴.TV」と入れても、試験版の「青山繁晴のココだけ話!」というタイトルを入れても、いずれも、現在アップされている試験版が、検索の1ページ目(第1回、第2回の分)と2ページ目(第3回分)に出てきます。

「青山繁晴.TV」というタイトルの動画は、今はありませんから、念のため。
 それは4月から本番が無事に始まった場合のタイトルです。

 ネットラジオの方は、グーグルに「青山繁晴」と入れてみると、検索結果の1ページ目に「やっと話せる青山繁晴の深ーい話」というタイトルが出てきます。


▼このネットTVとネットラジオの収録の様子を、この機会にありのままに記しておきます。
 収録は、先に書きましたように昨年の12月7日月曜の午前、3時間を使って、一気に行いました。

 このネットTV、ネットラジオの仕事は、これまでの仕事の上にオンする形で始まりましたから、午前の3時間を空けるためには、その分の別の仕事を前夜に済ませておく必要があります。
 というわけで徹夜となり、頭の回転ぐあいを良くしようと熱い朝風呂に入っていると、自宅を出る時間がぎりぎりになりました。
 そして渋滞が予想よりもずっとひどくてタクシーがなかなか進まず、都内の小さなスタジオに着いたときには20分を超える大遅刻となってしまいました。
 最初から大失敗です。

 インタビュアーの川崎さちえさんとは初対面で、こりゃ、きっと不機嫌でいらっしゃるだろうナァと思いつつ、部屋に入ると、川崎さんはとても温かく迎えてくれ、ぼくのお詫びをさらりと受け容れてくれて、ホッとしました。
 川崎さん、そして心配をかけたプロデュース会社のスタッフのみなさん、あらためて、ごめんなさい。

 部屋は、ほんとうはラジオ番組の収録用だと思います。狭い一室で、マイクを置いた机を挟んで向かいあうスタイルのスタジオです。
 ここで、音声だけじゃなく動画を撮らねばならないから、ぼくと川崎さんが、ほんらいは1人用の片側スペースに2人並んで座ることになり、女性ですから、肩などが触れないようかなり気を遣いました。

 収録は、すべて自由に行ったわけではありません。
 プロデュース会社のディレクターが、10ほどのテーマを決め、それに沿って作られた台本に基づいて川崎さんは、ぼくに質問していきます。

 ただし、ぼくがどう答えるかについては、まったく台本も何も作られてはいません(仮に作られていても恐縮ながら無視します)。
 ぼくがその場で頭に浮かぶまま、自在に話しています。

 それでも1点だけ、縛りがあって、それは時間です。
 プロデュース会社のディレクター陣は「ネットで動画を人が集中して視てくれるのは6分ぐらいまで」という考えを持っていて、1つのテーマについて10分、収録し、それを6分に編集するという方針です。

 ぼくは、たとえば講演では、最短で1時間半、ふつうは2時間から2時間半、長い時間が許されている場合は4時間、ぶっ続けで話します。
 おのれの意識としては、自分は決して話すのが上手でも得意でもなく、そして本業でもなく、ぼくはひとりの物書きです。
 だけど話す以上は、根っこの哲学にかかわることから、現場の具体的な事実まで、必要な最小限度の質と量を確保して、それによって聴衆のかたがたにご自分で考えていただくためのきっかけ作り、問題提起をしたいと考えていますから、それぐらいの時間があっという間に過ぎます。

 正直、ネットTVとネットラジオをやらないかという話が最初に来たときは、うーむ、自由なネット上だから、ブチ抜きの話をやれるのかな、と思いました。
 しかしプロデュース会社からは「ネットはむしろ、最後まで視てくれる人を確保するのが、たいへんです」という考えが示され、ぼくも独研(独立総合研究所)もネット番組の制作に関わるのは初めてですから、まずは、その考えを受け容れました。

 そこで、この日の収録は、政治から経済、外交、安全保障から純文学についてまで、10のテーマをそれぞれ10分づつ話すことになったのです。
 アップされている動画の中で、ぼくの目線がときどき川崎さちえさんでもなく正面でもなく、すこし横っちょの方を見ている場面があります。それは「あと●分」という紙を出しているディレクターを見ているのです。
 そして、ぼくはそういう人を単なる「紙出し人」とは決して思わないので、つい、その人にも話しかけるようになっています。たぶん、動画を視るひとにとっては「どっちを向いて話してるの?」という感じもあると思います。

 こうやって一気に撮っていったものを、すこしづつ新年1月22日の金曜まで、毎週金曜日に出していくわけですね。
 ちなみに最新アップの第3回は、テーマとテーマの間の時間に、何気なく雑談で川崎さんに話したものが、そのまま1回分としてアップされています。

 ネットTVでは1回を6分間に縮めてありますから、できればネットラジオと合わせて視聴していただくほうが、ぼくがみなさんに伝えたかったことが、よりそのまま伝わると思います。


▼それから、活発に発言されているジャーナリストの西村幸祐さんと、大人気のエコノミストの三橋貴明さんとぼくの3人による鼎談が掲載されているムック、「反日マスコミの真実2010」(オークラ出版)が年末から発売されています。

 ぼくは、もともとは「反日」という言葉が好きではありませんでした。ひとに一面的なレッテルを貼ることは、しないからです。
 今も好きではありませんが、日本の国内に「反日」という力が存在することは事実であると、実感はしています。
 日本を愛するとは言ってはいけないという教育が実在し、政党が実在し、メディアが実在する。それは、国際社会では信じがたいほどの異様な現実です。

 ただし、このムックの編集や発行に、ぼくが関わっているわけではなく、ただの鼎談の参加者に過ぎませんから、この書のタイトル付けも、ぼくはまったく関与していません。
 このムックに載っている他の記事も、申し訳ない、ひとつも読んでいません。

 鼎談の中のぼくの発言で、ぼくがテレビ出演をめぐって圧力を受けた話があります。
 ぼくの身に実際に起きて、それに対抗してぼくが現実に行動したことだけを述べていますから、知る人は非常に限られています。番組の制作スタッフで知っている人は1人もいないと思います。
 逆に言えば、ぼくに降板を示唆した本人、それから、ぼくから追及を受けた当局の当事者たちしか、その事実を知りません。

 鼎談で述べているとおり、ぼくはテレビが本業ではないから降板はいいけど、当局が圧力をかけているのなら許し難いから、降板を実質的に促された、その翌日に当局側にひとりで出向いて旧知のトップクラス(複数)と会い、強い怒りを述べ、事実関係を調べるように求めました。
 このトップクラスのひとたちは良心派であり、驚いて、調べてくれた結果、鼎談にあるような経緯となったのです。

 ただ一点、注意していただきたいのは、ぼくは「当局」とだけ記していて、どこの政府機関であるかは書いていません。
 ネット上では、それを推測して、ある一省庁の名が書き込まれています。もちろん、その推測も書き込みも全くの自由であり、むしろ全面的に保護されるべき、みんなの権利です。
 しかし、ぼくが鼎談でその省庁を名指ししたというふうになれば、それは事実ではありません。ぼくは、どこも、そして誰も、名指ししていません。
 それは自分を護るためじゃない。はばかりながら、一命を捧げて、非力なぼくなりに戦っているのです。一死一命、いつ死んでもよい。そうでなければ、発信もしません。
 当局と人名を名指ししないのは、これは関西テレビ報道局のフェアな頑張りを、まさしくぼくなりに助けるためであり、また当局内部で誠実に内部調査と叱責をしてくれた良心派に報いるためです。

 どこの誰であれ、民主党だろうが自民党だろうが、テレビ局だろうが当局だろうが、誠実に、フェアに踏ん張るひとなら、ぼくはささやかに助けることもあれば、わずかに報いようともします。


▼最後に、年末の12月21日月曜に、チャンネル桜(日本文化チャンネル桜。スカパーの中にあるチャンネル)で田母神俊雄・前航空幕僚長と対談しました。
 というか、田母神さんがチャンネル桜で、歌手のsayaさんというかたと一緒に「田母神塾」というレギュラー番組を持っておられて、そこにゲストとして臨時参加しました。

 放送は、1月8日金曜と1月22日金曜の2回に分けて行われます。
 2回目に放送されるだろう分は、田母神さんがちょっと意外なことについて「ぜひ、聴きたい」とおっしゃったので、ぼくも話す予定じゃなかったことを長く話してしまいました。
 見苦しかったら許してください。
 田母神さんの眼の奥に、静かな思慮深い色があったのが、とても印象的でした。ご本人には話していませんが…。


▼写真(その1の冒頭)は、東京湾岸の初日の出です。
 この苦しかった年末年始で、ただひとつ良かったのは、史上初めてという「元旦の月蝕」を、肉眼でも望遠鏡でも、魂に残るほどくっきりと、元旦の未明4時すぎから5時まえまで見られたこと、そしてそれから1時間55分ほどあとに初日の出、そして屹立する富士山に両手を合わせることができたことです。

 さぁ、ぼくはほどなく、平成22年、2010年、皇紀2670年最初の大阪出張に発ちます。
「爆笑!こうなる宣言2010」でも正直に申しましたが、ことしほど予測の付かない年もない。
 ぼく自身がさて、どうなるのか分かりません。

 ただ、もしも生きていれば、ネットTV、ネットラジオの4月からの本放送は実現したいと思っていますし、その新事業にも取り組む独研の灯火(ともしび)を絶やさず点し続けるし、もし生きていれば、扶桑社から「ぼくらの祖国」という新刊、PHPから新書版の天皇陛下をめぐる新刊、そしてある老舗出版社に約束している硫黄島をめぐる新刊、さらに、7年越しで書いている純文学の小説新作を、みなさんの前にお出ししたいと考えています。

 書籍をめぐって、多くの方にあらためてお礼を申したいのは、「王道の日本、覇道の中国、火道の米国」(PHP)を買い求められるひとが、いまだ絶えないことです。
 今は、新刊があっという間に売れなくなり、すぐに消える時代。そのなかで、昨年の8月に出版されたノンフィクションが、いまだに動きがあるというのは、例外的です。
 ぼくとしては、時代を超える思い、理念も込めたつもりなので、こころから感謝しています。

 さて、背中痛は、トレーナーの素晴らしい協力もあって、もう治せました。
 今もパソコンの前に屈んでいるわけだけど、痛くない。

 もしも、ことしに命が絶えるのであっても、独研の灯火だけは、後継の誰かに託していきます。日本国には、既得権益から独立した民間の知恵の集積所、シンクタンクが必ず不可欠ですから。
 そして、祖国と世界のために、命をみずから投じなければならない局面がもしもあるとしたら、志をともにするひとを募りつつ、そのひとびとは全力で護りつつ、天命に従うでしょう。
 武士道といふは(余人のために)死ぬことと見つけたり(葉隠)。





今やっていると思います

2010年01月03日 | Weblog



 みなさん、明けましておめでとうございます。

 いま、1月3日の日曜、午後1時20分です。
 12時55分から、関西テレビで「爆笑!2010年こうなる宣言」という番組をやっています。
 例年通り、新年の政治・外交などの動きについては、ぼくが話しています。
 また今年は、大阪の橋下徹知事が来られて、ぼくも含めて番組参加(出演)者が、知事と対話&議論をしています。

 番組は「爆笑!」と銘打ってあるとおり、芸能が中心ですが、ぼくの受け持ったところはたぶん、これから放送だと思います。番組表によれば番組は午後2時45分まで続きます(CMなどを考えると、もう少し前に終わるでしょうが…)。
 番組は昨年末に収録され、ぼくの話がどう編集されているかは、ぼくにはまったく分かりません。
 また今、東京の自宅で原稿執筆の仕事をしていますから、放送も視られません。
 だけど、この番組は、関西地区だけではなく、全国のFNN系列の局などで希望するテレビ局では、放送されていますから、ふだんよりも視られるひとが多いのです。

 放送中のお知らせになってしまいましたが、よろしければ、どうぞ。
 そして、ぼくの話しているところがもう終わっていれば、こころから、ごめんなさい。
 原稿書きに集中していて、事前のお知らせができませんでした。