▼よく晴れた1月7日の木曜、靖国神社(正式には靖國神社)に新年の正式参拝をいたしました。
21年前のこの日の朝6時33分、夜が明ける直前のとき、昭和天皇が崩御されました。その日と重なったのは日程調整の結果の偶然ですが、感慨は深いものがありました。
ぼくの胸のうちには、参拝したくとも、いろいろな事情で参拝できないかたがたの代わりとしても参拝する気持ちがありますから、きょうは、ありのままの時系列で、すこし詳しく様子を記していきたいと思います。
(この参拝記は、ほんらいは参拝の翌々日の1月9日土曜にアップしようとした一文です。しかし、「急告」と題した一文を先にアップしなければならなくなり、本日11日まで文章の仕上げが遅れました。「急告」をめぐる事どもがいったん決着してからアップしようかとも考えましたが、やはり参拝からあまり日を置かないうちに公開しておきます)
▼この日、靖国神社から指定をいただいた時刻の午後12時半に、独研(独立総合研究所)の社有車をぼくが運転し、秘書とともに、靖国神社の北門から境内に入りました。
この参拝は、個人としての参拝ではありません。独研の代表取締役社長・兼・首席研究員としての参拝です。
もちろん独研は純然たる民間のシンクタンクですから、公人としての参拝ではありません。ただ靖国神社は、不公正な内政干渉の対象となっていますから、それに対する日本国民なりのひとつの意思表示として、社有車を用い、玉串料を社費から拠出し、靖国神社に正式参拝するのです。
日本は、ほんものの民主主義を創る努力を国民が重ねている国民国家ですから、みずからのお考えで参拝をしない日本国民がいらっしゃることも、当然ながら、そのままに認めます。
たとえば、敬愛するわが母は旧津山藩の武家のひとですが、日本キリスト改革派教会のキリスト教徒でもあり、母の考えとして靖国神社に限らず神社には参拝しません。仏教徒だった亡き父が健在で、ぼくが高校生まで生家にいたとき、お正月には着物の正装で一家で氏神さまに参拝していたのですが、家長としての父をふだんは意を尽くして尊重する母は、そのときだけは父に従わず、お参りをしませんでした。信念に基づく、一貫したふるまいとして、むしろ尊敬します。
同時に、ぼくがみずからの考えで靖国神社へと参拝する、それも正式参拝をする以上は、どのような立場での参拝なのかを明確にしたいと思いました。
また、独研は、時の政権のあり方などに影響されない客観的な調査・研究をおこなうシンクタンクです。靖国神社については、国際社会で確立されている国際法からして、その国の戦没者の弔いかたや宗教施設のあり方への、外国からの干渉は、いかなる国へのいかなる国からの干渉であっても不公正な内政干渉であるという判断に立ちます。
ぼくが今回、独研社長として正式参拝するのは、その判断を代表しています。
それ以上の考え、たとえば靖国神社の護持が私的であってはならないとする考えなどは、ぼく個人の考えであり、独研の公式見解ではなく、また独研の任務でもありません。
前述したように、独研は、何かの思想を打ち出すための団体などではなく、客観的なシンクタンク、研究機関だからです。独研の研究本部は、社会科学部、自然科学部、教育科学部の3部門を、小さくとも擁していますが、いずれも「科学」の名を冠しているのは建前ではありません。
(だから、ぼくの立場を、独立総合研究所・代表と表記するのは、大きな間違いです。独立総合研究所・社長です。独研は、団体ではありません。何度言っても理解されないことが多いですが…)
それから組織の長が、公的に組織を代表することと、個人の思想を深めることを両立させるのは、自然にして正当なことです。
▼ぼくはふだん靖国神社に、こうした形ではなく、もうすこし簡略に参拝することもあります。
そのときは本殿に上がっての参拝(昇殿参拝)をすることはなく、拝殿(靖国神社の正門から真っ直ぐ突き当たりにあり、靴を履いたまま参拝できます)に、二礼二拍手一礼をおこなって参拝します。
しかし今回は、年の初めに当たることと、ことし5月に、この靖国神社で講演を行う予定となっていること、また靖国神社に合祀されている栗林忠道・帝国陸軍中将(正式には大将)と、その指揮によって硫黄島(いおうとう。いおうじま、ではありません)で戦われた先人たちに、「わたしたち国民のなかに硫黄島の戦いと、敗戦後の硫黄島の現状について認識が深まっています」との報告を申しあげたかったために、正式参拝を事前に靖国神社に要請しました。
事前調整は、ぼくの盟友のひとり、岳(おか)一隆さんが手伝ってくださいました。岳さんは、伝承にしたがえば、およそ1880年もの永い歴史を持つ日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう/滋賀県近江八幡市)の禰宜(ねぎ)です。かつては靖国神社の若手神職でした。
(靖国神社の公式HPにある境内の図をご覧ください。http://www.yasukuni.or.jp/precincts/images/map.jpg)
▼さて、まずは到着殿に着き、ご案内役の権禰宜(ごんねぎ)松本聖吾さんの出迎えを受けました。
松本さんは靖国の崇敬奉賛(すうけいほうさん)課長で、笑顔が若くて明るい、中堅の神職です。上記の岳さんとは、靖国での同期生ということです。
到着殿に上がり、事前に入っていた独研の自然科学部長と合流しました。
ちなみに、この自然科学部長(Phd/博士)は、熊本大と組んでの海洋環境改善に実績があり、また東大と組んでの海洋資源開発、とくにメタンハイドレートの先進的な探査法で国際社会に知られる最前線バリバリの女性科学者ですが、霊的なものを現実に感受することが珍しくありません。
そして、独研のぼく、自然科学部長、総務部秘書室員の3人で、靖国神社の京極高晴・宮司(ぐうじ)、それにおふたりの権宮司(ごんのぐうじ)らとお茶をいただきながら、しばらく和やかに懇談しました。
まことに蛇足ながら、宮司は靖国神社の頂点に立つひとです。
権宮司はそれに続く高位の神職で、靖国には権宮司がお二人いらっしゃいます。
京極宮司は、穏やかで、それでいてどこか決然とされていて、深い覚悟を静かに秘めたお人柄のひとです。
去年の6月に、第10代の靖国神社宮司に就任されました。但馬豊岡藩(兵庫県)の藩主だった京極家の第15代当主で、旧華族のかたです。東大法学部卒業後に日本郵船に入られ、関東曳船社長などを務められ、神職経験のない民間企業出身者の宮司です。
去年、ぼくが大阪護国神社で、つたない講演をしたときにお会いし、接するだけで、自然にこちらの背筋が伸びる、それも堅苦しく伸びるのではなく、柔らかい気持ちで伸びるような雰囲気のかたです。
わたしたちの靖国神社のトップがこういうお人柄なのは、みなさん、うれしいですね。
大阪護国神社では、講演のまえに応接室で懇談しているとき、壁にさりげなく貼ってある地図に、日本の領土がきちんと、北は千島列島全島すなわち占守島までと、南樺太が含まれているのを見つけて、ぼくが旧島民のかたがたのためにも、こころから喜んでいると、京極宮司もともに喜んでくださった、胸に残るちいさな記憶があります。
そのときも魂が晴れるような、澄んだ日本晴れだったのですが、靖国神社で再会した1月7日も、天候がよく、こころのうちで天に感謝しました。
▼ぼくは京極宮司や権宮司に、いつも考えている個人的な考えをすこし、お話ししました。
それは靖国神社は、国際社会のむしろ常識に従って、国家国民によって護持されねばならず、国家護持が実現すれば、内閣総理大臣の参拝はもちろんのこと、天皇陛下の行幸も自然に実行される可能性が生まれるということです。
おのれの利益のためではなく子々孫々のためにこそ戦い、命を捧げられた先人や同時代人を、私的に弔うという国は世界に、ぼくの知る限り、敗戦後の日本国以外にはありません。
アメリカでも中国でもどこでも、国家が弔い、称え、感謝する施設を持っているのは、誰しもご存じの通りです。
それが、親中派の福田さんや鳩山さんは言うまでもなく、中国にも公正な姿勢を持ちたいという考えの安倍さんも麻生さんも、遺憾ながら首相当時には参拝できないという異様な情況となっているのは、中曽根さんに最大責任があると思うとも、話しました。
これに対して、宮司らがどうおっしゃったかは、ここには記しません。おっしゃっていたことは、きわめてフェアな、自然なお話でしたから記しても何の問題もありません。
しかし、あくまでも内々の懇談でしたから、そのお言葉をそのまま記すことはしませんし、話の全体の紹介もしません。
ただ、安倍さんがひとりの国会議員としては熱心に靖国神社を支えているという趣旨のお話はありました。
▼懇談しているうちに、定められた時刻となり、室内にて玉串料を納めたうえで、靖国の祭務部長の坂明夫・禰宜の先導をいただき、ぼく、自然科学部長、秘書の順に縦に並んで、廊下に出て、参拝へ向かいました。
一方、京極宮司は、22年前のこの日に崩御された昭和天皇の御陵(東京都八王子市の武蔵野陵)へと向かわれました。そこで祭祀がおこなわれるのです。
ぼくは廊下に出た段階で、不思議な血がかすかに沸きたつのを体内に感じました。
いくらか緊張し、すこしだけ昂ぶった気持ちと言ってもいいのですが、その表現だけでは足りません。
ありのままに申した方がいいですね。英霊が、それも、素晴らしく澄みわたったようすでいらっしゃる英霊が、靖国のお社全体を包むような大きさで、出迎えてくださるのを、ありありと感じました。
ぼくら3人は、まず浄めの水で口をすすぎ、手を洗います。
そして拝殿の内で、本殿を望む場所に立ち、お祓いを待ちます。
ぼくらの前にいらっしゃる白装束の神職が、お祓いの前の祝詞(のりと)をあげていらっしゃいます。
そのときです。
拝殿の内に、風が吹き渡りました。
1月7日です。ことしは、温暖化が嘘のような寒い冬です。そしてこの日、とくに例外的に暖かかったわけでもありません。
それなのに、ぼくの一身を巻くように吹き渡る風が、まったく冷たくないのです。しかし生ぬるいわけでも、ありません。
清涼の気、そうとしか言いようのない、これまでに一度も味わったことのない風でした。
淡い水色の色もありました。その色の、長く薄い晒しというのか、天の衣というのか、形あるものが縦横に翻るような風でした。
それに一身を包まれながら、ぼくの体内に、全身が生まれ変わるような気配と、永遠のような決心が結ばれました。
そして、ぼくら3人は頭を深く下げ、お祓いを受けました。
このあと、本殿へ向かいます。
本殿から、拝殿のまえで(昇殿はせずに)参拝されている多くのかたがたがみえます。そのほうに向かって、頭を下げました。そのかたがたにとっては、はてな? なぜ、あの人はこちらに礼をするのかな? だったと思いますが。
▼本殿は、その背後に、霊璽簿奉安殿(れいじぼ・ほうあんでん)があります。
霊璽簿は、靖国に合祀された246万6千あまりの御霊(みたま)の名が記されています。
本殿内部の正面に、大きな澄んだ鏡、神鏡があります。
そのうえには、靖国神社の名を命名された明治天皇のご真筆の額があり、「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」と詠まれた御製(天皇陛下の詠まれた歌)を、くっきりと読むことができます。
靖国とは、靖国神社のホームページに「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められた名であると、明記されています。
独研の3人のうち、ぼくと自然科学部長のふたりが、神職に促されて、神鏡の御前に進み出て、それぞれに玉串を神道の定めに則って捧げ、二礼二拍手一礼をおこないました。
ご存じのかたが多いと思いますから蛇足になりますが、靖国神社には遺骨などはありません。
闇の夜に、戦没者のお名などを筆書きして、「人霊」を上記の「霊璽簿」、すなわち名簿に移します。
次に、鏡にこの「霊璽簿」を写すことで、「人霊」が「神霊」となり、仕事も年齢も性別も昔の身分も一切関係なく、みな神さまとして平等に祀られているのです。
これが、わたしたちの文化です。一神教(いっしんきょう)の概念で言う「神」や「宗教」とは、根源から違います。
これにて、正式参拝そのものは完了です。
その場で、先導役を務めてくださった祭務部長の坂明夫禰宜から、すこし鏡や霊璽簿、あるいは明治天皇のご真筆の額などについてお話をうかがいました。
昨年10月の深い夜に、新たに名の分かった戦没者を霊璽簿に移す合祀祭に参加させていただいたことを、その場で思い出していました。このときも、前述の盟友、岳さんが調整してくださったのです。
さまざまな寡黙な愛国者とのご縁で、この年頭の正式参拝をおこなうことができ、先ほどの清涼の風もいただきました。
ふたたび坂禰宜の先導で、到着殿に戻るのですが、ぼくは正直、去りがたく、本殿の廊下に出たとき、鏡をはじめとする本殿と、その背後の霊璽簿奉安殿に向けて、深く、こころから深く一礼をしました。
去りがたい気持ちを思い切るように、長い廊下と階段を経て、到着殿へ戻っていきます。
冒頭の写真は、その姿を、松本権禰宜が撮ってくださいました。ぼくは、おのれで見ても正直、晴れ晴れとした顔をしているように思います。自然科学部長はちょうど柱の陰です。そのうしろに、秘書Aが続いています。
写真は最初は、独研の秘書が撮る予定だったのですが、撮って良いところと、そうでないところを間違ってはいけないので、「私がすべて撮りましょう」とおっしゃる松本権禰宜の好意に甘えました。
こうした長い廊下と階段を、導かれて歩き、靖国神社という造営のたたずまいを全身で感じているとき、もうひとつ思うのは、日の本という邦の、しっとりと気持ちの良い湿りも帯びた、清潔さです。
神社という、日本国民の誰にも馴染みのあるこの建物は、その内部に入ると隅々まで、世界のどこを歩いてもない独創的な気配と美しさに満たされています。
控えめでいて圧倒的な荘厳、木造建築の真髄が尽くされていて、それでいてまことに素朴な、虚飾のない、簡素な居心地のよさ、そうしたさまざま異なる要素が、見事にぴたりと矛盾なく統一されています。
神の棲む造営は、ほんとうに世界中で見てきました。
誰もが知る、バチカン公国の巨大なシスティナ礼拝堂から、イラクで戦火とテロに焼かれたモスク、中国内陸部の乾いた風の舞う道教寺、ラオスのメコン川沿いに小さな仏のいらっしゃる洞窟まで、それぞれに生涯、忘れがたい、尊い印象があります。
靖国の造営は、そのどれとも似ていない。それでいて同時に、そのどれとも響きあう。
わたしたちが先人とともに2千年を超える歩みで築いてきた文化とは、どのようなものか。それが、ありのままに心と身体に、沁みてきます。
廊下の途中で、巫女さんたちから盃をいただき(ただし、運転するぼくは形だけです。お酒そのものはいただいていません)、いよいよほんとうに参拝完了です。
しかし、ぼくにはまだ、やるべきことがありました。