▼これだけ多種多様な仕事がさまざまに錯綜していると、どうしても、目の前に現場があったり、目の前の義務をどうしても果たさなければいけない仕事が優先になる。
たとえば、何か月も前から開催が決定している講演はどうしても実行しなければいけないし、生放送のテレビ番組なども、その場その場でとにかくこなしていく。
ただ、ぼくの本業はあくまで、ひとりの物書きであることと、シンクタンクの社長・兼・首席研究員であることの、ふたつだ。
後者のシンクタンク「独立総合研究所」(独研)を、ぼくの個人事務所と誤解している人がいまだに、たとえばテレビの世界にもいらっしゃる。
初めての就職をどこにするか考えているような若い世代のなかに、あるいは政府機関や自治体のなかに、とても正しく理解してくれている人も増えてきた。
一方で、誤解もまだまだ多い。誤解は、マスメディアの中に多いかな?
ありのままの独研は、株式会社組織のシンクタンクとして政府、自治体、企業から公明正大に委託を受け、国家の安全保障、あるいは自治体の進める住民(国民)保護、さらには企業の危機管理や新しい広報体制づくりといった実務に携わっている。
それから「東京コンフィデンシャル・レポート」(TCR)という会員制のレポートを発行している。もう300号に近づいている。
政府、自治体、企業から委託された調査・研究は、社員・スタッフ(上席研究員、主任研究員、研究員、専門研究員、それに総務部員)が全員で取り組み、ぼくも首席研究員として関わる。
東京コンフィデンシャル・レポートは、取材・情報収集と執筆をすべてぼくひとりで行い、配信は、独研の総務部が行っている。
株式会社であるのは利潤の追求のためではなく、どこからも補助を受けずに自立するためだ。
NPOやNGOにしないのは、税制上の優遇を受けるより国にふつうに税金を支払っていきたいからだ。
金融界にも常にフェアにものを言えるように無借金経営を続けていて、苦しいには苦しいけど、ぼくの講演料もテレビ・ラジオの出演料もすべて独研の収入としてぼくには一切、入らないようにしていることもあり黒字経営を維持して社員にボーナスも支給している。
1円の補助も借金もなく自立するということを、今のところは確保している。
シンクタンクは、基本的な収入が1年に1回しか入らない仕組みになっている。収入(売り上げ)の中心になる『調査・研究の委託費』は、年度末に一括して支払われるのがふつうだからだ。
そのために、独研のように補助も借金もない経営を続けるには、たくさんの困難と課題があって、ぼくにとっては、ここでも優先しなければならない仕事が多い。
となると、結果的にいちばん影響を受ける、つまりは後回しにせざるを得ないのが、物書きの仕事だ。
物書きの仕事のなかでも、目の前に締め切りが迫っていて、遅れると、その雑誌に穴が空いてしまうような原稿は優先して、こなしている。
たとえばコラムを連載している「フィナンシャル・ジャパン」、ときどきリクエストに応じて書いている「VOICE」などの原稿だ。
(ちなみに次号の「フィナンシャル・ジャパン」には、ぼくと木村剛さんの対談が掲載され、次号の「VOICE」には北朝鮮のミサイル連射をめぐる原稿が載ります)
そして優先せざるを得ない原稿には、古巣の共同通信のためにいまだに週に3本を書いている定期原稿、さらには新米の事件記者だったときから実に27年間も続けている週刊誌のための定期原稿(週に2本)も、含まれている。
この2種類、週に計5本の定期原稿はいずれも、ぼくの名前が出ない匿名原稿だ。
記者の時代には匿名原稿が当たり前だった。
しかし今は逆に、名前を出す原稿がふつうだ。この週に5本の原稿は、ぼくの歩みに逆行している。
そして毎週5本を送稿するためには、取材も執筆もたいへんに重い負担になるから、独立総合研究所では総務部の秘書室からも、研究本部の研究員たちからも「社長、この5本の原稿をやめてください」という希望がとても強い。
社員の声にはなるべく耳を傾けたい。それなのに、なぜ続けているか。
共同通信のための原稿は、ぼくを育ててくれた共同通信への恩返しのきもちが強い。
週刊誌の原稿は、何度か「もはや無理です」と打診したけど、長い付きあいの編集者が「どうしてもお願いします」とおっしゃるので、突き放せない。
しかし、この週刊誌の原稿はいずれ、見直さなきゃいけないとは思っている。
ストレスと疲労から、両手のひらを真っ黒な水疱が覆う「異汗性水泡」という変わった症状が出たとき、定期原稿のうち、伝統ある華道団体の美しい機関誌「花泉」の連載コラムを休ませてもらって、そのままになっている。
編集長に敬意を抱いていることもあり、ほんとうは復活させたいけど、物理的にとても難しい。
編集長からは「最後に一度、読者へのメッセージとして書きませんか」という打診があったと理解しているので、いずれ、それだけは実現させたい。
そして、これら物書きの仕事のなかで、優先度が極端に低くなっているのが、ノンフィクション単行本新作の執筆と、小説第2作の執筆だ。
ノンフィクション単行本は、2004年5月に「日本国民が決断する日」(扶桑社)を出版してから2年以上、新作を出せていない。
小説は、2002年8月に文藝春秋が純文学の単行本「平成」を出してくれる幸運なデビューを果たしたのに、その後4年、ただの1作も発表していない。
ノンフィクション単行本の出版、純文学の執筆、いずれも物書きの仕事として、ほんとうは圧倒的に大切な仕事だから、ぼくは胸の内でとても悲しい。
悲しいと言っているうちに、ぼくの命が燃え尽きてしまう可能性が加速度がついて高まっているから、ここを思い切って転換したい。どうにか工夫して、大転換したい。
ノンフィクション単行本の新作も、小説第2作も、実は、相当なところまで書き込んでいる。
その完成が、いつまでもできないで居る。
これを、命をどれほど削ってもいいから、完成させることから、再出発だ。
それに、ぼくを支えてくれている読者、視聴者から要望のあった「子どもたちのための本」の企画も、出版社と相談してすでに具体化しているから、これも確実に書いていく。
▼「相当なところまで書き込んでいるのに、完成させていない」のは、実は、この個人ホームページの書き込みにも言える。
途中まで書きながらアップしていない書き込みが、ずいぶんと溜まってしまった。
きょうは、そのうちの一つを、どうにか完成させて、以下にアップしておきます。
【日々の現場】
▼世界の問題児、そしてわたしたちの隣人でもある北朝鮮が、弾道ミサイルの連続発射を始めたのは、7月5日の未明。
ぼくは、出張先の大阪のホテルで第一報を知った。
ホテルから電話と電子メールで、日本と諸国の関係者とやりとりを重ねながら、朝7時15分ごろ、毎週水曜日に電話でレギュラー出演しているRKB毎日放送(ラジオ)の「スタミナラジオ」という番組に、生出演した。
午後3時まえには、いつもの水曜日より1時間ほど早く、関西テレビに入った。
午後4時55分から、関西テレビの新しい報道番組「アンカー」に生出演した。
いつもの「青山のニュースDEズバリ」のコーナーもなくして、ほとんど全編、ミサイル一色になり、ぼくと一緒に出演するコメンテーターも、いつもの室井祐月さんではなく、関西大学の李英和教授となった。
視聴率は、同じ時間帯で民放トップの14.8%(瞬間値)を記録した。
もちろん、ぼくは視聴率のために出演しているのじゃない。
だけど、視聴率が高ければ、一緒に苦労しているスタッフのみんなの苦労が報われる。
それにぼくは、この新しい報道番組「アンカー」にある『関西に本物の報道番組をー』という志をとても大切に思っているから、番組が挫折しないで、育っていってほしい。
だから、たくさんの人が視てくれたのは嬉しかった。
生出演のあと、7月6日の放送用にコメントを収録し、最終便で東京へ帰った。
▼7月6日木曜日となり、ほぼ夜を徹してミサイルの再発射を警戒しながら、夜明けまでに、古巣の共同通信のための原稿を書き、早朝にテレビ朝日へ向かった。
朝8時すぎからテレビ朝日系の「スーパー・モーニング」に生出演し、そのあと独研(独立総合研究所)へ。
安全保障の実務もメインの仕事であるシンクタンク、独研の社長・兼・首席研究員としての仕事をしてから、新幹線に乗り、小田原へ向かう。
小田原で下車し、車で箱根へ向かう。
天下の険と呼ばれる箱根の山道は、深い霧に満ちている。
まるで、これからの東アジアの運命のようだと思いながら、車内で「読売ウィークリー」と、ほかに1誌からの電話取材に答えつつ、講演会場に到着した。
かねて予定されていた自販連(日本自動車販売組合連合会)の常任理事会での講演に臨む。
各地の自動車販売会社のなかでも、大手の社長や会長らが集まる、少人数の会合だ。
講演の予定だけは、何があってもキャンセルしたくない。
講演の主催者は、講師を決め、会場を決め、聴衆を募り、そのほかもろもろの煩雑な準備の末に、講演の当日を迎える。
講演を聴くひとびとも、いろいろな予定を工夫して、楽しみに講演の日を迎えるひとが多い。
それを考えれば、キャンセルなど簡単にできない。
この講演は、ミサイルが発射されて、最初にひとびとと直接に対話する場になった。
ぼくは、すべての講演で、つたないなりに命を燃やす思いで、こころを尽くしてお話しをしている。
この箱根でも、北朝鮮というテロ国家の間違いを指摘するだけじゃなく、北朝鮮というアジアの隣人を鏡として、わたしたちの祖国のほんとうの姿を見つめることを中心に、お話しした。
講演が終わると、これも事前に予定されていたとおり、懇親会に出席した。
懇親会だけはキャンセルする手もあっただろうが、ミサイル発射の直後だけに、講演を聴いてくれたかたがたは質問をしたいだろうと考え、予定通りに出席した。
懇親会では、ミサイルとは無関係に「靖国参拝なんて、やめた方がいいでしょう?」という質問も出た。
ぼくは、テレビ番組などでも述べているとおり、「小泉首相の参拝は、中国と韓国に対して、ノーと言うべきはノーと言うメッセージとして、明確に支持します。同時に、靖国神社のあり方は、今のままでよいとほ思いません。たとえば遊就館を見た若い人は、きっと、わたしたちの国がなぜ負けたのか分からないでしょう。まるで勝ったかのような展示になっているからです。真っ直ぐ、真ん中から、わたしたちの国を見ることのできる靖国神社であるために、公的管理にすべきです」と答えた。
しかし質問されたかた、つまり日本の優れた経済人の一人は納得されず、「参拝しても、得はないんだから、やめればいいんだ」と一貫して述べられた。
お腹もすいていたけど、質問に答えながら口をもぐもぐさせるわけにいかない。だから講演のあとの懇親会ではいつも、ほとんど何も食べない。
懇親会の最後まで、質問を受け続け、そのまま箱根の山道を戻って、小田原駅へ。
同行してくれていた秘書室のR(沖縄電力から研修で来ている、きりっとしたフェアで優秀な人材)が、山道をアップダウンする車の中で一生懸命に煩雑な連絡業務をやってくれて、きっとそのためだろう、駅で何度も吐いたのが、ほんとうに可哀想だった。
彼女も空腹だった影響もあるのだろう。ぼくが食べないからといって食べないでいることはないのになぁ。
▼夜遅くに帰京し、翌7月7日金曜の早朝に自宅を出て、羽田空港へ。
羽田で、エース研究員のNと待ち合わせ、一緒に長崎空港へ。
長崎空港から、朝鮮半島をにらむ最前線の佐世保軍港へ。
アメリカ海軍の当局者と議論し、佐世保市の当局者らと湾内を視察・調査した。
翌7月8日土曜には、佐賀県に入り、武雄市で開かれた「国民保護フォーラム」(佐賀県の主催、総務省の後援)で講演。
夜に佐賀市へ移り、翌7月9日の日曜は、佐賀市で開かれた同じ「国民保護フォーラム」で講演。若い、志のある人が武雄、佐賀と連続で聴いてくれたことがうれしかった。
深夜に帰京。
翌7月10日月曜は、ふたたび早朝に自宅を出て、羽田から福岡へ。
何か月も前から決まっていた「民放連賞ラジオ報道番組部門の審査」に出席、最優秀賞などを選ぶ。
審査会のあとの懇親会で、若手の記者、ディレクターらを、こころから励まして、深夜に帰京。
翌7月11日火曜は、早朝に自宅を出て、テレビ朝日系「スーパーモーニング」に生出演。
テレ朝から羽田へ、そして大阪へ。
大阪で、公共企業体の幹部と協議し、夜から未明まで、関西テレビの報道部と打ち合わせ。
翌7月12日水曜は、朝から公共企業体の別の幹部と協議し、午後、関西テレビに入り、午後4時55分から放送の「アンカー」に生出演。
夜遅くに帰京。
翌7月13日木曜は、午前から政府機関の幹部と協議、午後には帝国ホテルで毎日新聞の岸井成格さん、東京大学大学院教授の伊藤元重さんとパネルディスカッションに参加。関西経営者協会が主催し、2000人の聴衆を集める、伝統ある大きな集まりだ。
ディスカッションのあと懇親会にも出席して質問を受け、夜、独研に帰って、テレビ朝日系「TVタックル」のコメント撮り。
撮影は、いつものように長時間になるが、TVタックルのディレクター陣は皆よく勉強されている(社交辞令は抜き。ほんとうに、しっかり勉強されている)ので、気持ちよく質問に応じることができる。
翌7月14日金曜は、独研で、陸上自衛隊からの研修生2人(いずれも佐官、つまり高級将校)に北朝鮮ミサイル連射への視点について話し、夜には、都内で政府の対テロ部門の高級幹部たちに中東情勢についてレクをした。
翌7月15日土曜は、朝6時に自宅を出て、羽田から大阪へ。
関西テレビ「ぶったま」に生出演し、局から神戸空港へ。そこから沖縄の那覇へ。
初めて使う神戸空港は、小さいけれど、海の明るさを感じる空港だった。
夜、那覇市内で、青年会議所の集まりに、自民党の野中広務・元幹事長と出席。
立場の違いを超えた自由な議論が楽しかった。
翌7月16日の日曜は、那覇で開かれた青年会議所の有志主催のパネルディスカッションに、稲嶺恵一・沖縄県知事、野中さん、小渕優子代議士と参加。
夜、小渕代議士の会合に出てから、深夜まで沖縄電力の信頼する役員らと、胸を開いて話しあった。
おいしい沖縄の海ブドウや海らっきょうをいただきながら。
▼ぼくの沖縄への強い思いは、27年まえ、共同通信の一年生記者だったときに始まる。
社会人になって最初の夏休みに、沖縄へ行くことを選び、南部戦跡を中心に回っていた。
そのとき個人タクシーの運転手さんが、ぼくを新米記者と知って「あなたが記者なら話は別だ。どうしても見せたい場所がある」と言い、連れていってくれた。
そこは、「白梅の塔」だった。
日本軍の看護隊として最前線に連れ出され、日本兵の自爆に巻き込まれたり、みずから命を絶つように仕向けられたり、アメリカ軍に殺された女生徒たちを慰霊する塔だ。
おなじ女生徒たちの慰霊の塔には、「ひめゆりの塔」があり、そこは二度も映画化され、とても有名だ。
ところが白梅の塔は、沖縄の人々にも知られていなかった。
ひめゆりの塔は、沖縄第一高等女学校と師範学校の生徒たちで、白梅の塔は沖縄第二高等女学校の女生徒たちだったことも、関係しているかも知れないと、ある沖縄の人はのちにぼくに語った。
ひめゆりの塔の女生徒たちが、恵まれているなどということは、全くない。凄惨な悲劇は、どこまでも同じだから。
ただ一方で、白梅の塔が忘れられていたことは事実だった。
27年前の白梅の塔は、まだ未整備なところがあり、運転手さんが塔の裏手に回って、鍵も何もかかっていない、錆びた鉄の扉をあっさりと開くと、真っ白な、ほんとうに真っ白な大腿骨や腕の骨や頭蓋骨が、びっしりと、そのなかに詰まっていた。
あの白さは、いまも、ぼくの胸深くにある。
あのような、白きも白い、この世にあるとは思えない不思議な白を、ぼくは生涯を通じて見たことがない。これからも、ないだろう。
その塔の向かって右手には、自決壕がある。
その入り口に立つと、27年も今も、凄まじい霊気がぼくを打つ。
地中深くへ降りていくと、白梅の塔が忘れられ、観光化されていないだけに、沖縄戦の悲劇がそのままに、きょうのことのように、そこにある。
もしも、ぼくが、あの時代に生まれていたら、この悲劇のなかにいたのだ。
自国民を、自国軍が殺害した沖縄戦を、この国で、世界で絶対に繰り返さないために、ぼくは何をしたらいいのか。
その生涯のテーマを、白梅の塔は、ぼくにもたらした。
しかし長いあいだ、沖縄とぼくのご縁は深まりはしなかった。
大きく変わったのは、まだ最近のことだ。
沖縄県庁、沖縄の経済界、青年会議所、あるいは沖縄タイムスから、講演の依頼が来るようになり、その講演で、白梅の塔のことを繰り返し話すと、お参りしてくださる沖縄の人が次第に増えていった。
こうした講演会で出逢ったひとりが、沖縄電力の良心的な役員だ。
みずからも白梅の塔にお参りしてくださった。
そのご縁で、沖縄電力から独研への研修派遣も始まった。
ぼくは、7月16日の日曜夜、この役員と話しながら、今回の沖縄訪問でも白梅の塔にきちんと、17日の月曜にお参りして帰ろうと、考えていた。
…さて、こんなところが、ミサイル連射から10日ほどの、ぼくの「現場」でありました。
※写真は、佐世保の軍港を、公的機関の船から当局者とともに視察・調査しているところです。
みんな後ろ姿で申し訳ないけど、むしろ、それだからアップできるわけです。
水色のシャツを着て、船の手すりにすこし寄りかかって姿勢を低くしているのが、ぼくです。
向こうに見えるのは、海上自衛隊の護衛艦群です。