Our World Time

いま…

2006年01月29日 | Weblog



…カタールの首都ドーハにいます。
 ペルシャ湾のみえる巨大な部屋にひとりいて、ちょうど夜が明けてきました。

 ベランダに出てみると、ひんやりした風の向こうに、淡いエメラルド・グリーンの海が広がっていました。

 このドーハで開かれる、「中東戦略会議」に、これから出席します。
 日本からは、高村正彦・元外相、久間章生・元防衛庁長官、国際協力銀行(JBIC)の幹部、そして一民間人のぼくの4人が、カタール政府から公式招待されました。

 ドーハへの直行便が飛ぶ関西国際空港から、ここまでは12時間あまり。
 機内で、講演旅行を完遂していったことなどを書き込みましたので、またあとで、このサイトへアップします。

 写真は、出発まえ、関空のロビー内で仕事をしているときです。
 パスポートの左上の電話は、国際携帯電話ですね。
 つまらない写真でごめんなさい。

 さぁ、朝風呂に入って、会議に備えなきゃ。





ぼくなりの奇跡

2006年01月18日 | Weblog



 きょう1月18日朝、岐阜県大垣市のホテルでの苦しい夜が明けると、声が出ない。
 それでも声を振り絞って、RKB毎日放送(福岡)のラジオ番組に電話出演する。
 この出演は毎週水曜朝のレギュラーで、「ニュースの見方」というコーナー。キャスターの中西一清さんは、このコーナーに「目からウロコ」という別な名前を付けてくれた。
 きょうはイランの核開発について話し、そのあと、新幹線の岐阜羽島駅近くの耳鼻科病院に向かった。

 同行している研究員Rが判断よく、早朝からホテル・フロントと相談して、病院を見つけ出してくれた。
 このRは、沖縄電力からの研修生だ。研修生と言っても、沖縄電力の会長秘書を務めたキャリアも持つ実力派。
 独研には、このほか防衛庁からも出向者がいる。

 ドクターは、「この腫れあがった喉では講演などとても無理です。それどころか、ふつうの日常会話もいけません。つまり声を出してはいけません」とおっしゃる。
「講演はキャンセルできません、主催者にも、聴衆の方々にも迷惑がかかりすぎるから」と、小さなしゃがれ声で答えると、ドクターは苦笑しながら「お仕事の事情はわかりますが、医師としては、講演は当面すべてキャンセルしてくださいとしか言えません」。
 それでも、もちろんキャンセルは一切、できない、しない。
 ドクターは、それ以上、診てくれなかった…。
 ふひ。
 でも、ちゃんと薬は出してくれました。
 効けばいいけどなぁ。

 岐阜羽島駅から新幹線で、大阪へ。
 関西テレビで毎週出ていたおかげで、なんだか大阪に来るとホッとする。

 素晴らしく大きな会場に、たくさんの聴衆がいらしている。
 きょうは因幡電機の「親栄会」という半世紀以上の伝統を誇る会のための講演だ。
 因幡電機は、一般の消費者にはすこしなじみが薄いかも知れないけど、電気、電子、空調などの第一級商社で開発製造も行っている。
 聴衆は、その因幡電機とビジネスのあるメーカーの役員が主体で、北海道から沖縄まで、ほんとうに沢山いらしている。

 ぼくは、いつもの第一声が出るかどうか、心配だった。
 第一声と言っても、文字にすると「みなさん、こんにちは」という、ただのあいさつ言葉だけど、いつもは声の張りに、聴衆の方々への思いを込めている。

 そして、出ました。
 いつもに、まぁ近い第一声が出た。
 そのあとも、どうにかこうにか声は、出ました。
 ああ、これは、ぼくにとって奇跡だった。

 1時間半の講演時間を、さらに20分、延長して懸命に語りかけ、どうにか講演はきょうも無事に終わった。
 演題を、「この国の主人公が自立する」とした講演だった。

 そのあと懇親パーティーへ。
 崩れ落ちそうになりながらも、出席した以上は最後までいようと、みなさんと名刺を交換し、質問にすべてお答えした。

 そして、伊丹空港への車に乗ると、もう身体が一変している。
 講演どころか、懇親パーティーどころか、座っていることもままならない、声はもちろん、ほとんど出ない。

 ある意味、感嘆した。
 つまり気力だけで、持たせているんだなぁ。


 写真は、舞台の袖で、出番待ちのぼくです。
 同行の研究員Rが撮ってくれた。



前へ、前へ

2006年01月18日 | Weblog



 岐阜県の大垣市での講演と、講演後の懇親パーティも、力を尽くして、とにもかくにも終えることができた。

 ただ、とうとう声が潰れてしまった。
 きょうは、大垣信用金庫の主催する「新春講演会」だった。大垣信金のクライアントである企業の経営者のかたがたと、それから、一般の方がたくさん来られていた。
 講演会のチラシを、信金の各店舗に置かれていたそうで、広い層のみなさんと出逢うことができた。

 それなのに、声がほぼ完全に潰れてしまって、自分で講演しながら、自分の声に思えなかった。
 しゃがれ声で聞き苦しく、申し訳なかった。

 懇親パーティでは、地元企業の若い二世、三世社長から創業者社長まで、多くのかたと名刺交換をし、質問をお受けした。

 講演も、パーティも、ほんとうは体調最悪のなかでのこと。
 講演では、ぎゅっと気力を集中させているから、それが終わると、どうしても緩み、どっとほんとうの体調が出てしまう。
 パーティでも質問をお受けしているのだから、気力を保つようにしたけれど、身体は正直で、酒がまったく呑めない。受けつけない。
 ぼくは、ふだんは一升半ぐらいまではいけるけど、きょうは、コップ一杯の焼酎が呑めなかった。

 よれよれでホテルの部屋にはいると、さぁたいへん、また例の恐怖の『がたがたがた震え』に襲われた。
 つまり、おそらくは39度を超えた、ひょっとしたら40度に達しているような高熱が講演中から出ているから、すべての日程が終わると、その熱の影響がドドドドと、出てきてしまう。

 しばらくは、震えながら寝ていたけど、あんまり苦しくて寝ていられない。そこで、パソコンを立ち上げ、原稿を書きながら、その合間に、これを書き込みました。
 ふひ。

 写真は、新幹線の岐阜羽島駅で降りて、迎えの車に乗り、揖斐川の橋をわたるとき、山に沈もうとしていた夕陽です。

 きょうは午前中に、在日イラン大使館を訪ねて、大使とまず1時間、ふたりだけで話し、そのあと独研から二人(若き秘書室長と、沖縄電力から研修できている研究員)も加わって、昼食会に臨み、それから東京駅に向かった。
 会談も昼食会も、素晴らしく実りが多かった。

 やっぱり、直接に顔をみて話すことは大切だなぁ。
 いま核開発問題で世界に注目されているイランの駐日大使と、きょう話しあった中身は、僭越なことを申して恐縮だけど、日本とイランと、そして世界のためにも意味があったと思う。
 その中身を、ここにはちょっと具体的に書けないけど、独研が公的機関から受託している研究プロジェクトに活かします。






 

別に闘病記じゃないけどね

2006年01月17日 | Weblog



 それは突然にやってきた。

 ゆうべ1月16日の夜、8時45分福岡発のANAで羽田空港に戻り、帰宅した。
 高い熱と、内臓が噴き出すような咳と、躯の奥の中心を地獄に引っ張られるような疲労は、あった。
 だけどまぁ、しばらくはこんな体調で仕方ないやと、わりとあっさり考えて、必要最低限の仕事をしていた。

 それでも明日を考えると、さすがにこれ以上、無理はできないなと、眠ることにした。
 めずらしー。

 そして、トイレットに入った瞬間、全身ががたがたがたと激しく震えだした。
 まるで乱気流に呑み込まれた小さな飛行機のように、すさまじく震える。
 同時に、全身から血が引いて、凍えるように寒い。
 歯も噛み合わない、足が踊るようにばたばたする、肩も胸も腹も、がたがたがたがたがた。

 話に聞くマラリアにかかったみたいな震えだ。
 びっくりしてベッドに飛び込むが、まったく止まらない。
 これはひょっとして、明日の日程をこなせないか。中東の大国の大使との会談をキャンセルしたらたいへんだし、岐阜県大垣市の講演をキャンセルしたらたいへんだし、その翌日の大阪の講演も、ドタキャンしたら主催者がどんなに困るか、聴衆のかたがたも、きっとがっかりするだろう。
 その翌日には「官民合同セミナー」で講師も務める。
 こんな予定をみな、ドタキャンしてしまう、それは悪夢だ。

 まさか、そんな悪夢を…と思いつつ、とにかく全身が飛び跳ねるように、がたがたがたと震え続ける。





 そして、今朝、1月17日午前5時半に目が覚めた。
 全身に重い汗をかき、震えはぴたりと止まっている。
 ぼくの気力と基礎体力は、ドタキャンの悪夢を振り払おうとしている。

 ふだんにない、小さな工夫、たとえば冷たい水を飲まずにお湯にするとかさ、はは、そんなことは工夫と言えないかも知れないけど、ぼくは絶対にみなさんに迷惑をかけない、ドタキャンしないぞ。

 ぐぐおー。
 ふひ。

 写真は、今朝の手のひらです。
 かつては、この手のひらを水泡があっという間に埋め尽くしたこともあった。
 異汗性水泡という耳慣れない病気で、ストレスと疲労が原因とのことだった。
 いまでも時々、前駆症状のむず痒さに襲われる。
 だけど、水疱は一つも姿を現さない。
 ほら、ちゃんとキーボードも打てそうだよね。

 異汗性水泡やら、鼻血やら、全身のがたがたがたやら、たぶんぼくの肉体は必死でサインを送っているのだろう。
 だけど、このまま真っ直ぐ突き進む。
 魂の道を、真っ直ぐ。
 必要な仕事はすべて引き受け、完遂するぞ。
 肉体は、もっと鍛える。

 そして、目が覚めたのは、阪神淡路大震災から11年、あの午前5時46分の直前だった。
 ことしも祈りが、被災地にひろまった。
 その祈りを、神戸生まれのぼくも深く共有しつつ、祈りでは達成できないリアルな生の課題に取り組むのが、ぼくと、それから独立総研のみんなの天命だと、あらためて思った。







縮めた指

2006年01月16日 | Weblog



 ゆうべ深夜、いやきょう1月16日未明に、ベッドに入ったら、がたがた震えるぐらい寒い。
 エアコンを30度にしても、おんなじ。
 からだから、熱が奪われてる。

 きのう1月15日の午後に神奈川県・綾瀬市で、国民保護をめぐって講演し、東京に戻る相鉄線の車内が、とてもとても足元を寒く感じる。
 ふだんなら、もちろん大丈夫。
 だけど、そのとき、「これは身体がとうとう反乱を起こしそうだな」と頭の隅で思った。

 相鉄線、JRと乗り継いで、夜に自宅に帰り、仕事をしていると、鼻血が噴き出た。
 廊下に知らないうちに落とした、血の滴をみて、ああ、これはさすがに限界まで疲れているなと思った。
 それでも、それから7時間ほど仕事をしてベッドに入ったら、がたがた震えだしたわけだ。

 きょう16日の朝になり、ベッドを這い出して、半死半生で迎えの車に乗った。
 独立総研の主任研究員、通称ヒロと羽田空港で待ち合わせ、福岡へ。
 福岡県と国がひらく「福岡県国民保護フォーラム」で講演をし、さらにパネルディスカッションの司会をやることになっている。
 もちろん、絶対にドタキャンはできない。

 ヒロは、防衛庁から独研への出向者だ。
 おせじ抜きで、ナイスガイです。

 福岡に着くころには声が出ない。
 だけど、麻生・福岡県知事とあいさつをしたり、総務省・国民保護室長の青木さんや、武居・福岡県副知事らパネルディスカッションのパネラーたちと打ち合わせで、出ない声を、出し尽くす。

 こりゃ、きょうの講演はやばいぞと内心で思いつつ、講演のために舞台へ。
 1時間20分の講演を、10分さらに延長して、死力で、声と思いを振り絞り、ようやくに終了。
 激しく咳き込みかけるのは、どうにか気力でとめたけど、自分でもびっくりするような高熱が出ていた。
 暑いからと、上着を講演の途中で取ったのだけど、ほんとうは暑いのじゃなく、躯の内側の熱だった。


 主任研究員のヒロが「社長、素晴らしかったですよ」と言ってくれたので、めまいで立ってられないような高熱のなかで、一瞬だけ生き返った。
 ヒロは、決してお世辞は言わない。
 彼に以前、「あなたは防衛庁にいるときも、まさしく正直者だろう? 中央官庁の世界では、正直者ゆえに損をすることもあるだろうけど、ほんとうは、あなたのかけがえのない財産だから、そのままずっと正直者でいたほうがいいよ」と言ったことがある。

 その正直ヒロが、ほめてくれるのだから、こりゃ、うれしい。

 そのあと、パネルディスカッションに臨む。
 油断すると、激しい咳が出て、パネラーの発言を邪魔しちゃいかねない。
 きもちを集中し、集中し、1時間40分、良いディスカッションになるように、ぼくなりに力を尽くした。

 国民保護への取り組みは、わたしたち日本国民の希望になりえる。
 そして、そのためには、わたしたちこの国の主人公ひとりひとりが自立していたい。

 講演とパネルディスカッションが終わり、パネラーとの懇親会へ。
 常識的にはパスして、早いフライトで帰るのだろうけど、ひとのご縁の大切さを考えて出席し、グラスと盃を傾けた。
 だけど、さすがにいつもの酒量は全然ない。すこしばかりを呑んだ。
 それでも、限界を超えに超えて、死体のようになって空港へ。

 いま福岡空港で、これを書いているのです。
 東京へ帰って、あすはまず中東の大国の駐日大使と、ふたりだけで会う。
 そのあと、独研の研究員たちと、その大国の大使館員たちと、昼食会。
 そして、次の講演のために、新幹線で岐阜県大垣市へ向かう予定だ。

 だから、今夜のうちに、どうしても東京へ帰らねばならない。
 ほんとうはね、このまま、この空港ラウンジで、ごろりと横になりたい。
 写真は、その憧れの「ごろ寝」を、せめて指で演じてみました。
 縮めた人差し指が、この身体というわけですよ。

 そんな空港の待合室でも、こうしてモバイルパソコンを開いているのでアッタ。
 ふひ。




みな、ただひとつの、いのちかぎり

2006年01月15日 | Weblog



みなさん、あまりに遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
この地味なサイトに来てくださるかたがたに、新しい一年の幸運がありますように。


 いま、2006年1月14日の夕刻6時まえ、滑走路に雪の山ができている富山空港にいます。
 きょうは富山県が主催し、国(内閣)が講演して開いた「国民保護シンポジウム」で基調講演をつとめました。
 写真は、その冒頭のあたりです。
 ぼくなりに必死です。
 会場にはかつてなく多くのセキュリティ・ポリス(SP、特別な訓練を受けた警察官。制服ではなく背広を着ています)たちが、万一にそなえる警備・警護のために配置されていることには、気づいていました。

 シンポジウムは、ぼくの講演のあと、パネル・ディスカッションになりました。
 ちょっと珍しいケースですが、ぼくは参加せず、一般の聴衆のかたと一緒に聞かせていただきました。
 このパネル・ディスカッションの最後に、車いすの障害者のかたから質問が出ました。
 いくつかの意味を込めた質問だったと思いますが、ひとつには「一人暮らしの私に、雪おろしの手伝いさえ来ません。それなのに、ほかのとき(テロなど)に、ほんとうに助けに来てくれるのですか」という趣旨もあったと思います。
 パネル・ディスカッションには、ぼくは参加していませんから、ぼくが答えることはできません。

 そこでシンポジウムが終わったあと、このかたのところへ行き、「ご質問をしっかり受け止めました。忘れませんよ」とお話ししました。
 そのとおり、ぼくの命がある限りは、そのあいだは、決して忘れずに、ほんとうの国民保護が実現するように、ただの一民間人として、ふんばります。


 おとといの1月12日は、出雲空港に降りたって島根県松江市で講演し、山陰の各地から集まったエネルギー関係のかたがたと懇談し、雪の宍道湖畔で泊まり、きのう1月13日の早朝に出雲空港からJALに乗ろうとして、JAL社内の思わぬ連絡ミスで飛行機に乗れず、空港で2時間、待ちぼうけをしたあと、ようやく後発便で羽田に着き、次の講演先に無事に時間内に着けるのかどうか、もし着けなかったら栃木県知事をはじめとする栃木県庁のひとびとが回復不能な困難に直面することになるし、栃木県下や関東各地から集まってくれた聴衆のかたがたが無駄足になってしまうと、気を揉んでストレスの固まりになりながら、東京駅に向かい、東北新幹線にぎりぎりで飛び乗って、宇都宮市に無事に着き、「栃木県民防災の集い」で講演し、県庁の担当のかたが驚くほどたくさんの人々が集まってくれたことに、こころから感謝し、講演が終わるとすぐに再び東北新幹線に乗って東京駅に戻り、そこから羽田へ戻り、富山へ飛び、富山城まえのホテルの部屋で吹雪をみながら、ほぼ徹夜で仕事をし、そして、きょうの講演でした。

 さきほど富山空港のテレビのニュース番組で、この「富山県国民保護シンポジウム」が報道され、ぼくの顔が映され、待合いの乗客のかたに「自分で見て、どうですか」と聞かれました。
 はは。
 ぼくは、内心で思ったままに、「気持ち悪いです」と答えました。
 謙遜でもなんでもなく、もともとかっこ良くないうえに徹夜明けの顔ですからね、ろくでもない顔でした。

 これから東京へ帰ると、あす1月15日の日曜日には神奈川県綾瀬市、16日の月曜には福岡市、17日の火曜は岐阜県大垣市、18日の水曜は大阪で、それぞれ講演し、19日の木曜は午前が陸上自衛隊幹部学校、午後が防衛庁の上級幹部(文官)研修でそれぞれ講義、そして20日の金曜は神奈川県・湘南で、中央省庁の審議官や企業の役員による「官民合同セミナー」で講演します。

 それでも、ぼくは講演や講義が本職ではありません。
 本職は、シンクタンクの社長と、物書きです。
 その本職には一日の休みもありませんから、すべてが待ったなしの同時進行です。
 客観的にみて、かなりタイトなスケジュールとは言えるでしょうね。

 だけど、そのスケジュールだからといって、さほどは疲れません。
 疲れるのは、前述したような人為的トラブルで飛行機に乗れなかったりするようなことです。あるいは、移動を重ねれば重ねるほど、日本人のなかに、自分の都合だけを考えていたり、それによってやや異様にイライラしていたり、したがってまったくマナーを失っていたり、そういう人が驚くほどに増えている、その哀しい事実にたびたび接することに疲れます。

 だけども、そうしたストレスも、自然に薄れ、消えていきます。
 ぼくがこうした日々に心するよう努めているのは、ただひとつです。私心を去れ、ほんらいの目的に生きよ。

 あす日曜はまず、ジムへ行き、バーベルを上げ、それから米軍の厚木基地のある綾瀬市へ向かいます。
 そして、さ来週には、中東へ旅立ちます。
 みなさんに、幸あれ。