Our World Time

永遠の呼び声

2011年04月24日 | Weblog
▼2011年4月24日・日曜の未明1時55分、宮城県の南三陸町から帰宅しました。
 4月22日金曜の朝に自宅を出発し、福島第一原発の破壊的な構内に入り、日本復興の拠点を目指す仙台市に泊まり、そして津波の激烈な襲撃を受けた南三陸町を歩くという足かけ3日の行程は、これでひとまずは終了しました。

『生還した』という思いが、ほんのすこしだけ、胸をよぎります。
 それは、ただひとつ切りの命を奪われた、あるいは行方が知れないままの、およそ3万の魂を思えば、あまりに大袈裟な感慨です。
 それを恥じつつ、癌の手術や何やらから退院して間がない体力が、ほんらいの4分の1も戻っているだろうかという現状では、いくらかはそう感じてしまいます。


▼まずは、こころを開いてぼくを迎えてくださった、さまざまなひとびとに、夜明け前の東京から深い感謝を捧げたく思います。

 福島第一原発の、名誉と栄光のためではなく、祈りのためのように黙々と責任を果たされている多くの作業員のかたがた、現場で仁王立ちになり最前線の責任をすべて一身に引き受けている吉田昌郎所長。
 息を呑む津波被害の荒野で、家族を探し続け、またみずからの人生再建のために耐えて戦う生活者のみなさん。
 一筋の光の差すような表情で、深甚な被害を詳しく教えてくれた佐藤仁町長、日本の政治家にも良心というものがあることを感じさせてくれた小野寺五典代議士、小野寺事務所の地元担当として被災者とともにある齋藤不可史秘書。
 ほんものの復興のために日本の役所の何が間違っているかを具体的に語ってくれた、地元の海を望む名門ホテル「観洋」の女将、阿部憲子さん。
 行方不明者のうち157人(4月23日現在)ものご遺体を、頭がくらくらするほどに膨大な瓦礫のなかから取り戻した、陸上自衛隊の第40普通科(歩兵)連隊の自衛官の清潔感あふれる将兵のみなさん。
 その連隊を率いる、こころ温かな中村裕亮大佐(一等陸佐という意味不明の名称ではなく、国際社会の常識のとおりに大佐と呼びます)。
 漁業への変わらない志で、ぼくをむしろ逆に励ましてくれた、宮城県漁協・志津川支所の漁師のみなさん。

 そして、仙台からはぼくに終始、同行してくれた山田亮ディレクター(インターネット・テレビ「青山繁晴.TV」の制作ディレクター)。

 それから、誰よりも何よりも、声も姿も喪ったまま気配でぼくに沢山のことを語ってくれた、死者の魂。

 感謝を捧げ、また、お騒がせしたことを深くお詫びしつつ、ぼくの、ささやかな責務を果たすために一命を捧げ切ることを、あらためて誓います。


▼写真は、もっとも胸に深く刻まれた現場のひとつです。

 ここは、南三陸町の役場があったところでした。
 ふつうの役場と、その隣に「防災庁舎」が建っていました。
 津波が襲来したとき、前出の佐藤仁町長は、およそ30人の職員と一緒に素早く、隣の防災庁舎に退避しました。

 そして防災庁舎の3階から、さらに屋上まで駆け上がりましたが、その高い屋上をも大津波はくまなく襲い、フェンスにつかまっていた職員たちは流され、さらわれて二度と還らず、たまたま高い鉄塔につかまった町長ら8人だけが生き残りました。

 ふつうの役場は、もう何も残っていません。
 コンクリートの土台だけが空しく、剥き出しになっていて、そこには滅茶苦茶に破壊された自動車や、遠い沖合の海から運ばれた漁具や何やかやが乗っかり、それらに女性のワンピースや、男性用のジャンパーなどが絡まりあっています。
 服は、民家のクロセットにあったような衣服だけではなく、着ていた人間から波が脱がせ、人間は裸にしてさらっていったのではないかという気配の服もあります。

 防災庁舎は、壁も窓も床も天井も喪われ、ただ赤い鉄骨だけが残り、そこに波がぶつけた、役場とは無関係のものが数えきれず、ぶら下がっています。

 そうしたさなか、防災庁舎の2階からは、「津波です、津波が来ます、早く逃げてください」と防災無線放送で町民みんなに呼びかけ続ける、若い女性の声がありました。

 南三陸町役場の危機管理課職員、遠藤未希さん、25歳です。
 そして遠藤さんは、そのまま波に呑まれていきました。いまだ還りません。

 ぼくは、強い雨のこの土曜日、その現場を5度、6度と訪れました。
 訪れるたびに、手向(たむ)けられた小さな花束を見つけました。
 そのうちのひとつ、白い花束が、写真の下にあるのが、みなさん、見えるでしょうか。
 遠藤さんの、みずからは逃げずに「早く逃げてください」と呼びかけ続けた声が、あぁ、聞こえるでしょうか。


現場入りを続けています

2011年04月23日 | Weblog
▼いま、仙台市内のホテルにいます。2011年4月23日土曜の夜明けです。
 きのう4月22日金曜に、福島第一原子力発電所の構内に入りました。

 この、ちょうど1週間前の4月15日金曜に、福島第一原発の正門から20キロ圏内、30キロ圏内の、住民が消えた地域を歩き、そして原発正門に至ったとき「中に入りますか」とも尋ねられましたが、『作業できない人間がまだ入るべきではない』と考え、辞退しました。

 その後、「原子力委員会の原子力防護専門部会の専門委員、および原子力新政策大綱策定会議の委員の立場で、青山さんが望めば、構内に、もう入れる段階です。ただし当然、構内は放射線量が高いので、それを諒解されることと、正式な防護服とガスマスクなどの装着、事後のスクリーニング(被曝検査)が不可欠です」という話が、良心派の政府当局者からありました。
 そこで、複数の当局者・関係者としっかり協議したうえで、「構内に入ります」という意思を示して、具体的な調整を急ぎました。

 ぼくの知る限り、原子力委員会は、委員も、ぼくのような専門委員も、20キロ圏内や30キロ圏内に入ろうとせず、ましてや福島第一原発の構内には入っていません。
 マスメディアも、あるいは学者も同じです。
 ほんらいは、現場を踏まないままに論じるとことは、本道ではないと考えます。
 作業に迷惑をかけないことを確認できるのなら、現場の真実を、身体で知るべきです。
 他人を批判するのではなく、ぼく自身の生き方の問題でもあります。


▼きのう、福島第一原発の構内では、免震重要棟に置かれた「緊急時対策本部」で、作業員のみなさんと話し、それから所長の吉田昌郎さんと、じっくり時間をかけて議論をしました。
 それから、車で1号炉、2号炉、3号炉、4号炉に向かい、目を疑うほどに建屋が破壊された4号炉の横で、車を降り、その真下に立って、これまで映像などではまったく見たことがない破壊箇所、あるいは逆に持ちこたえている箇所を、しっかりと見ました。

 そのあと車に戻り、津波が直撃した、海に面する破壊箇所を見ていき、汚染水を移送しているホースや、移送先の建物なども見ていき、対策本部に戻ってふたたび吉田所長らと意見を交わしてから、構内をあとにしました。

 そして自衛官、警察官、すべての作業員の拠点となっている「Jビレッジ」(もともとはJリーグのサッカー練習施設、福島第一原発から20キロ)で、防護服やガスマスク、手袋、足袋などを手順に従って処分し、スクリーニングを受け、さらに防護服の下に着ていた私服や靴もすべて処分し、郡山駅に向かいました。
 線量計による、ぼくの被曝量は、143マイクロシーベルトでした。
 20キロ圏内や30キロ圏内を見ていったときは、23マイクロシーベルトだったから、それよりは充分に高い。ただし構内としては、予想よりずっと低かった。


▼そして、郡山駅から東北新幹線で仙台に向かったのですが、福島から先はまだ復旧していなくて、福島から在来線に乗り換え、混んだ暑い車内に立つこと1時間あまり、それでもどうにか、迷惑にならないようにモバイルパソコンを使って会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポート)を書き続け、小雨の仙台に着きました。


▼きょうの土曜日はこれから、津波被災地の南三陸町に向かいます。
 終日、自民党の若手良心派代議士、小野寺五典さんらと被災地を回って、夜には漁業者のひとびとの話を聴き、日曜の夜明け頃には東京に戻りたいと考えています。


▼福島第一原発の構内では、さまざまな年代、とても若いひとから、いったんは定年で退いていたかたまで、そしてさまざまな会社(東電、東電の関連会社と協力会社、東芝、日立、ゼネコン各社)に属する作業員のみんなの、士気の高さ、手抜きをしない作業・労働のモラルの高さ、眼の光の強さ、落ち着いた姿勢に、こころから感嘆し、感謝しました。

 所長の長身痩躯の吉田さんは、「こんな最前線にようこそ来てくれました」とまず、何度か繰り返しておっしゃり、率直な深い苦悩をも含めて、真正面から議論に応じてくれました。
 逃げない姿勢が、胸に残りました。







その予兆

2011年04月19日 | Weblog
▼ぼくはふだん、おのれが顔を出しているテレビ番組は、ほとんど視ません。
 もともと日本の現状のテレビ番組に、胸のなかで確固たる疑問があるうえに、自分が話しているところなんて気持ちが悪い。

 したがって「TVタックル」も、あまり視ません。
 ぼくが視なかったTVタックルを、独研(独立総合研究所)の秘書さんが熱心に視てくれて、「社長の発言がほとんどカットでした」と憤激していたりして、ぼくはただ苦笑していました。
 ずっと以前、何年も前に、国内出張先のホテルで原稿に疲れてパソコンを離れ、ベッドの上で足を伸ばしてテレビをつけたら、たまたまTVタックルの始まりで、何気なく視ていました。
 するとぼくの発言が実際、きれいに、ほとんど全部と言っていいほど削られていて、ちょっと驚き、あぁ秘書さんの言っているのはこれなんだね、とまた大苦笑したことがありました。
 笑っている顔はなぜか画面にやたらと出てきて、テレビを視ていた人は『なぜ笑っているだけで発言しないのか』と思っちゃったのかなぁと考えたら、案の定、ぼくに不満をぶつけるメールや書き込みが、ずいぶんと来ました。
 テレビ番組に、ではなくて、「何で発言しないのか」とぼくを叱るメールが大半でした。
 ふひ。


▼ただし、TVタックルは1時間45分から2時間ぐらいたっぷり収録して、放送は実質40分ぐらいだから、参加(出演)されたひとは、ぼくに限らず、特定のひとを除いて「発言が放送されない」という感じを持たれていると思います。
 ぼくだけのことじゃ、ありませぬ。
 生放送でない限り、こうしたことはどんな番組でも、つきものです。


▼さて、ゆうべ4月18日夜のTVタックルは、珍しく、番組の最初から最後まで視ました。
 これも珍しく、まぁまぁまともな時間帯に自宅で食事していたこともあったし、福島原子力災害の現地に入った翌日の収録だったこともあります。

 そして、いちばん強く感じたのは、ぼくの発言うんぬんよりも、『このままでは日本国は、大震災のあとにずっと悪くなる』という深い危機感でした。

 ぼくは、初対面だった武田邦彦教授とのやりとりのなかで、「日本の自主資源を確保しようとして原子力発電に取り組んだのは断固、正しかった」と発言したうえで、しかし、その原子力発電にある巨大なリスクを正面から直視する姿勢も、克服する取り組みも失われていったことに問題がある、という趣旨の発言に続けたのでした。

 その後者の部分だけ、ちらりと片言(へんげん)がオンエアされて、前者の部分は全カットでした。
 前に述べたように、収録テープの全体の3分の1ぐらいしか放送できないのだから、番組としては、どこをどうカットして繋げるかに苦心惨憺しているわけで、カットされたからどうのこうのではなく、ぼくのつたない発言ではありますが、その真意がとらえられていない、そこに危機を感じます。
 この番組のカットぶりが間違っていると言うより、日本の社会全体が、そのような方向にどっと向かっていることが背景にあります。
 それこそが、このままでは大きな、深い問題に繋がります。

 原子力の灯火も活用して、独立国家としての日本の自前のエネルギーを確保しようとしたことは、無残な福島原子力災害があってなお、断固、正しい。
 しかし、そのほんらいの志が、あっという間に既得権益と化し、リスクは見ないことにして目をつぶり、地元対策の難しさに「とにかく安全だということにしよう」と、良心的な技術者すらおのれの胸中の問いかけを黙らせ、その積み重ねが、福島原子力災害を招いた、その事実を真っ直ぐにフェアに見なければなりません。

 それが、たとえば風力発電にしておけばよかったと、これまで一度も主権国家・日本の自前エネルギーの確保など考えたこともなかった、日本をそう好きでもないひとびとが声高に言う予兆を、ゆうべのタックルを視ていて、はっきりと感じました。
 昨日の発言者にそれがあったという話じゃない。
 社会の空気に寄り添うに敏感な日本のテレビ界が、そのような番組づくりに邁進していく気配を、たとえば、ぼくの発言をどのように切って、ぼくの発言意図とは違う方向に繋ぎあわせて編集していくか、おそらくは、ぼくの発言意図と根本的に違うことに気づかないままに、そのように編集していく。
 その気配を感じました。

 ぼくの発言の真意を意図的に曲げようとしたした編集では、決してない。
 番組をかばうのではない。意図的じゃないからこそ、よけいに根深いということです。


▼風力発電と太陽光発電、バイオマス発電について、数年前の段階で、デンマークやドイツを訪ね、政府の環境省の当局者たちと議論し、発電の現場を回り、技術者の証言を聞き、市民の声を聴き歩きました。

 たとえばデンマークの政府当局者のひとりは、駐日デンマーク大使館に勤務した経験を踏まえて、「青山さん、日本を風車だらけの国にしないでください。デンマークではどこへ行っても、どんな自然と触れあおうとしても、人工の風車が回って視界に入り、海にも人工の風車が林立し、たくさんの街や村で風車の発する低周波の音に苦しむ人がいる。日本のあの美しい自然に、風車を並べ過ぎたりしないように、日本の政府と国民に伝えてください。日本の人口と工業力に必要な電力を、もしも主として風力で賄おうと思ったら、山中にも風車を並べ立てて、その維持管理のために、山にも道をたくさん切り開かねばならない。デンマークは人口550万人なのに、風力でもバイオマスでも賄いきれず、スウェーデンの原子力でつくった電気を一部とはいえ買っている現実も実は、あります。あなたは自由な立場と聞いているから、こうやって会って、ありのままに話しました。どうぞ、私の証言を活かしてください」とおっしゃった。

 帰国後、ぼくは講演会で幾度か、この証言を、時間がないなかで紹介し、「風力も太陽光も太陽熱も活かして、さらには地熱なども活かして、原子力、火力、水力とも合わせて、ベストミックスの電源をつくり、火力には日本の史上初めての充実した自前資源であるメタンハイドレートを活用し、総合して、アメリカなどが握る国際メジャー石油資本や、それと結託した中東の独裁者たちに支配されない、主権国家日本、独立国家日本の自主エネルギーをつくりましょう」という趣旨の訴えを、聴衆のかたがたに、下手くそな講演なりに伝えてきました。

 そして原子力発電については、内包するリスクが巨大であることを直視し、その克服に取り組むことが不可欠だと、これは実務として問題提起してきましたが、非力にして、その取り組みは不充分なまま、福島原子力災害を迎えました。

 たとえば平成16年に、国民保護法が施行されたあと、若狭湾の原発にテロ攻撃があったというシナリオで、住民の避難と、警察・消防・自衛隊の対処を総合的に実働で試すという画期的な訓練が行われました。
 このとき、ぼくは独研の研究員たちと、現地で訓練効果を検証する実務に取り組みながら、「ようやくリスクに向かいあう日本になっていくのか」と感激したのでした。

 ところが、その後に、国民保護法の世界にも既得権益の側がどっと入ってくると、このような試みは影を潜めていきました。
 独研は、ほとんど関われないようになりました。

 今回の福島原子力災害が起きて、自治体の首脳陣や、原発立地の地元のひとびとが「非常事態が起きた時どうする、という訓練などやったことがない。安全ということになっていたから」と次々に話すのを聞いて、あらためて愕然としました。

 やはり既得権益の側は、あの若狭湾の試みを、これは意図して、萎(しぼ)ませていったのだということを痛感しました。
 原子力を日本の自主エネルギーの一角に据えるには、特有の巨大リスクを直視して、リスクを極小にしておくことが絶対不可欠なのに、無念です。


▼そして今、日本を好きでもないひとびとが、福島原子力災害を機に勢いづき、特にテレビの世界で、その一色になっていく気配、予兆を、ゆうべの放送に感じたのでした。
 日本国がやっと目覚めつつあった、その希望が、潰されてはならない。潰してはならない。
 その責任も、強く感じました。

 責めるのは、おのれ自身でなければならない。
 問うのは、おのれ自身でなければならない。





 正直、たった一日でも、ぽかんと休んでみたいですけどね。
 しかし、一日で体力が戻るわけもないし、耐えているうちに戻ってくるでしょう。
 尿路結石も、重症肺炎も、早期大腸癌も、腸閉塞も、すでに、いちばん苦しむ峠は越えた坂ではあるのですから。

 きょうの東京の夜明けは雨、それでも繁子(ポメラニアン)をすこしだけ散歩に連れて行きました。
 雨を窓からみながら繁子と目顔で話していると、すこし濡れても繁子は外の空気を味わったほうが、ストレス解消になると思いました。
 室内犬の繁子は、雨にちょっとびっくりしながら、まだ暗い商店街のひさしの下では元気いっぱいに駆けて、ぼくは嬉しかった。

 そして、被災地でぼくの回りに集まってきたわんこと猫を今朝も、思いました。

 まもなく、日本政府の情報当局者と早朝に会い、福島原子力災害をめぐって意見と情報を交換するために、出発です。
 繁子は、お留守番。


今夜9時からの放送で、ある程度は、出てくるかも?しれません  (すこし書き足しました)

2011年04月18日 | Weblog
▼もう4日前になるけれど、4月15日金曜に、福島原子力災害の現地に入ってきました。

 事前に関係当局と協議し、諒解を得たうえで、ひとりで独研(独立総合研究所)の社有車を運転し、山越えで、まず政府が「屋内退避、自主避難」としてきた30キロ圏内に入り、やがて「避難指示」となっている20キロ圏内の入り口で警察官による検問所に着き、通過の許可を得たうえで、中に入り、人が消えた村や街で車から降りて歩き、取り残された犬や猫としばしの時間を過ごし、運転に戻って、やがて福島第一原発の正門に到達。

 そこで、作業員のかたたちの話を聴き、また正門を背にして、放射線量を含めてあたりの様子を調べ、これまで平時の原発調査で見慣れた、高い排気筒をこれまでとは違った気持ちで見上げました。


▼福島第一原発から、20キロ圏内に入ったひとは実際はある程度、いらっしゃる。
 まず住民のかたがたが、たいせつな用件や、あるいはどうしても必要な忘れ物を取りに行くために、検問所で警察官と話しあったうえで、入られている。
 ただし、ごくごく少数の住民です。

 それからジャーナリストのひとびとも何人か、入っている。どのようにして入ったのか、それをぼくが直接に聞いたジャーナリストはひとりもいないから、詳しくは知らない。
 仄聞(そくぶん)した限りでは、検問所で警察官を「説得」するようにして入ったということでした。

 ぼくはジャーナリストでは、ありませぬ。
 テレビ番組でも講演会でも「ジャーナリスト」や「評論家」として(勝手に)紹介されることが珍しくないけれど、それは現在のぼくの職業ではありません。

 共同通信の記者を20年近く、務めていたあいだはジャーナリズムのただ中で日々、仕事をしていました。
 しかしペルー事件をきっかけに45歳で共同通信記者を辞めるとき、「以下、余生なり」と心に決めると同時に、ただ一度しかない命の残りは、実務家として生きると、おのれなりに決しました。
 そこで、シンクタンクの三菱総合研究所に入り、国家安全保障などの実務に携わりはじめ、たとえば原子力施設のテロ・サボタージュによる巨大なリスクと対抗するための実務も開始しました。
 1998年、平成10年のことです。

 そして三菱総研で4年3か月を働くうち、日本には、旧財閥や証券会社、銀行といったところの紐(ひも)の付かない、自由にして公正な実務に徹するシンクタンクが必要だと痛感し、日本で初めての独立系シンクタンクとして独立総合研究所(独研)を、資金ゼロの状態からかろうじて、少数の仲間とともに創立しました。
 この独研も、日本社会の思い込みで「青山さんの事務所」と呼ばれることが日常茶飯事だけれど、ぼくはジャーナリストでも評論家でも、タレントでもないので、個人事務所は持っておりませぬ。
 独研は、いかなる補助金も受けないために、また癒着をつくらないために、自立した株式会社組織のシンクタンクです。
 既得権益の側から、潰そうとする画策は水面下では苛烈そのものです。
 また、それを知って知らずか匿名のひとびとによる、現実とかけ離れた中傷誹謗、嫌がらせも激しく、それから何よりおカネがなく、この4月に創立からもう10年目に入りましたが、よくぞここまで生き延びてきたと、正直、こころの底から思います。
 なぜ生き延びているのか。
 社員たちの志と努力に加えて、ごくごくささやかであっても天命がある、果たすべき使命が、かすかにでもあるからではないか、それしか思い当たりません。

 その小さな天命のひとつが、日本国に、自主エネルギー、すなわちアメリカを中心とした先の大戦の勝者が握る国際メジャー石油資本などに支配されない、独立国としての自前エネルギーを確立することです。
 自前のエネルギーが無かったために、負ける戦争までせざるを得ず、自国民だけで300万人を失ったのですから。
 その敗戦を真正面から超克するためにも、自主エネルギーを確保することこそ、祖国を甦らせる正道だと、今も変わらず考えます。

 その一環として、日本でかろうじて自主、自前に近いエネルギーといえる原子力(※ウランを輸入せねばならないけれども、石油や天然ガスと比べてずっと国際メジャー資本やアメリカの支配力が弱い)をめぐっては、独研の代表取締役社長・兼・首席研究員であるぼくは、内閣府の原子力委員会の原子力防護専門部会で専門委員を務めています。
 また経産大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会で「核セキュリティWG(ワーキンググループ)」の専門委員を務めています。

 かつては政府も電力会社も「原発にはリスクがない」という間違った、ウソの前提に立っていました。
「いや、リスクが厳然と存在する。特にテロやサボタージュによって冷却を止められれば、原子炉が安全に自動停止してもメルトダウンに至ることがあり得る」と12年前の1999年、平成11年から問題提起しました。
 まだ三菱総研の研究員だった時代です。

 意外にも、政府内部でも電力会社内部でも、ごく少数ながら関心を持ってくれる良心的なひとがいました。
 アメリカで9.11同時多発テロが起きる2年前のことです。
 テロへの問題意識も社会に薄く、耳を傾けるひとが、どんなに少なくても存在することに、ぼくは日本社会に希望を感じました。それは今も変わりません。

 とはいえ、大多数からは無視される情況でもあり、命を削ってでも訴えることを、まったくの非力ながらも続けているうちに、たとえば2006年、平成18年に原子力委員会にテロ・サボタージュによるリスクを専門的に扱う「原子力防護専門部会」が新設され、その初代の専門委員のひとりとなりました。
 これは自民党政権の時代ですね。
 しかし民主党政権になっても、この専門部会は続いていて、ぼくの立場も変わっていません。
 政党色とは関係なく、国家と国民を原子力へのテロ・リスクから護る実務だからです。
 ぼくが記者を辞めるとき(共同通信を辞めると言うより、記者という職業を辞める意識でした)、実務家を志したのには、そういうこともありました。
 政党や権力の思惑に左右されない、時代を貫いていくフェアな仕事が必要です。

 一方で、このように初めて原子力防護専門部会は設置されても、たとえば冷却システムの問題をいくら提起し続けても、具体的にはほとんど改善されず、そしてついにテロリストより先に大津波が、その弱点を突いてしまいました。
 おのれが非力であることにも、重大な責任があります。

 原子力専門部会が設置されたということは、「防護せねばならないほど巨大なリスクが原子力発電には実在する」ということを、やっと初めて日本政府が認めたことであり、それは、たいせつな一歩だったのです。
 ところが、ぼくの民間人としての非力も含めて、それを生かし切れず、「冷却が失われた場合」に備える有効な改善を実現できないまま、もう一度申しますが、テロリストや北朝鮮の工作員の代わりに、あるいはその前に、3.11の大地震と大津波の襲来による「冷却喪失」を迎えてしまいました。
 自然災害への防災は、ぼくの分野ではありませんが、そんなことで責任は免れません。
 生涯にわたって背負い続けねばならない十字架であり、命が続く限りの責務が生まれました。


▼その原子力委員会・原子力防護専門部会の専門委員として、また独研の社長・兼・首席研究員という実務家として、福島原子力災害の現地には、発生の当初から、胸の内では強く強く「入りたい」と願いました。
 胸を焼くように、内心では、願ってきました。

 しかし、ぼくは技術者ではなく、現地で作業はできません。
 その作業の邪魔になるような現地入りだけは、厳に慎まねばなりません。
 政治家(政治屋)でもジャーナリストでも評論家でもないのだから、よけいに、現地入りについておのれを律さねばなりません。

 そのうえで、先週4月13日水曜の朝に「もしも青山さんが、職務のために入られるのでしたら、今週内しかないかもしれません。新たな規制強化も、場合によっては考えていますから」という話が、ぼくの信頼する良心派の政府当局者から、ありました。
 その情報が政府当局者から積極的に寄せられたのではありません。
 迷惑をかけずに、いずれは現地入りすることを、ぼくが模索している意思を伝え、それに対する当局者のフェアな答えのなかに、その情報もありました。

 そこで週内に現地入りする考えを決め、関係先への連絡と協議を具体的に始めました。
 原子力委員会の専門委員の立場を振りかざすのではなく、検問所をはじめ現地で任務に当たる警察官に余計な仕事を増やすのではなく、発電所の構内で戦う東電と関連会社、東芝、日立の名も無き社員・労働者に迷惑をかけるのではなく、同時に、国民が知るべき「避難を強いられた土地」の実際を、現地で掴む。
 そのための協議です。
 ちいさな志を理解してくれるひとも、関係者のなかに、何人もいました。ありのままに申して、嬉しかった。


▼そして、政府当局者と電話で話した4月13日の夕刻になり、「水曜アンカー」(関西テレビの報道番組「スーパー・ニュース・アンカー」の水曜版)の生放送が始まるまえ、顔合わせのとき、「今週中に福島第一原発の正門を目指します」と伝えました。

 無事に入ることができたら、水曜アンカーという機会でも、視聴者・国民に内容を伝えたいと思ったからです。
 テレビ界では、福島第一原発の正門から40キロ圏内に入って取材しないという申し合わせになっているそうですが、ぼくはテレビ局の一員ではなく、芸能事務所などにも一切、属していませんから、そのような縛り、自主規制は関係ありません。
 ただ、関テレの報道部には事前にお話ししておくのが、仁義でもあると考えました。

 すると、取材経験の豊富な、信頼するディレクターのひとりが、にこにこと「青山さんは特別な、凄い防護服を持っていますもんね。だから行くんでしょう」と言ったので、驚きました。
 ジョークかと思ったけど、まったく本気で言っていたから、ぼくは不思議に思い、「防護服なんて何も持っていないよ。それはどこから出てきた話?」と聞き、そして「防護服は着ません。このままで行きます」と言いました。

 ほんとうに、そのつもりでした。
 避難を指示されている地域であっても、放射線量が蓄積すればまったく別問題ですが、しばらくのあいだ居たからといって倒れるような線量ではないことを知っていたからです。
 それに、その地域の住人で、牛に水をやったり忘れ物を取りに帰ったりで、避難地域に入っているかたがたが、防護服は着ていないらしいことも聞いていたから、自分だけ安全を固めていくことはしたくなかった。
 放射線量を計るための線量計は、身につけるけど、防護服もマスクも何もしないことをいったん決めていました。
 防護服を着ない代わりに、訪問が終わったあとに、スクリーニング(被曝調査)を受け、その調査で仮に何も出なくても、身体を洗ってから帰京するつもりでした。
 これは自己防衛ではなく、環境や、ぼくに接する人に、少しでも余計な放射性物質をもたらすことをしないためです。


▼しかし、関係当局などと協議しているとき、「最低限の防護服を着ていただくのが条件です」という話になりました。
 そこで、この点だけは考えを変えたうえで、準備を急ぎました。


▼そして現地入りの日程を探りましたが、先週内で、終日、時間をとれる日がまったくありません。
 やむを得ず、4月15日金曜日を選びました。

 この日は、午後1時半に東京・四谷で、経済人と会う予定がありました。
 独研が完全会員制で配信している東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)の法人会員として信頼するひとだから、予定変更などはお願いしたくなかった。
 そのあと午後3時半に、独研の本社で、出版人から「会って話をしたい」ということで入れた面会の約束があり、午後4時からは、CS放送の「日本文化チャンネル桜」の「青山繁晴が答えて、答えて、答える」の収録が予定されていました。

 となると、夜が明けて、あたりが見えるようになる段階ですでに現地にいて、そして午前の遅くない段階で現地を出発せねばなりません。
 帰路の最後に直面するだろう都内の交通渋滞も含めて、どんな障害があっても極めてスムーズに移動、つまり車を運転して帰ってこなければなりません。

 現地の道路には激しい陥没も確実にあるだろうし、現地の検問所などに、「事前協議で諒解がある」という連絡が、ほんとうに入っているかどうか、スムーズに通過できるかどうか分からない。
 しかし、「ほんとうにできるか」とは、考えませんでした。

 どうしても無理と分かれば、アポイントメントをドタキャンしないことを優先し、どれほど無念でも途中で引き返す。
 それであれば、とりあえずは決行できます。


▼現地入りの前に、ほんとうは1回でも充分に眠りたかった。
 腸閉塞での入院から3月19日の土曜に退院してから、一度も、満足に眠ったことがない。
 869年の貞観津波以来の大震災と、福島原子力災害のさなかだから、それはやむを得ません。
 しかし現実問題として、体力が3分の1ほどしか、まだ戻っていないから、一度だけでもゆっくり眠ってから行きたかった。

 実際には、それはまるで無理な相談でした。
 4月15日金曜日の、午前2時40分、一睡もしないまま、独研の社有車(と言っても実際は法人リースの車だから、リース会社のものですね)を運転し、都内を出発しました。
 ひとりです。
 イラク戦争の戦地に入ったときをはじめ、リスクや危険の可能性があるときには、独研の社員も家族も、誰も同道させません。
 それが、ぼくなりの原則です。

 ふだんは、ほとんどの場合、独研の秘書か研究員が常に同行しているけれども、リスクのある地域にはひとりで行きます。
 友だちや、社外の、つまりぼくが社長としての責任を持っている範囲の外での同志というべきひととは、そういうところに行くことは将来、あり得るかもしれない。
 しかし、今のところは、それもしたことがありませぬ。

 節電のために真っ暗に近い首都高速を走っているとき、ウインドガラスの正面に亡くなったかたと、いまだに行方の分からない、3万人とも考えられるひとびとの魂の重みがどっと、のしかかるのを感じました。

 そうか、原子力災害によって生活を狂わされたひとびとだけではなく、すべての震災犠牲者が待つ土地に行くのだと、天から教えられたように感じました。
 2001年9月11日の同時多発テロのあと、ニューヨークのセントラル・パークから、アルカーイダの乗っ取った飛行機2機がツインタワービルを破壊した、その現場に向かうために、長い時間を歩いているとき、わっと、のし掛かってきた犠牲者の魂と同じ気配を感じました。

 それが、「生涯でもっとも長い半日」の始まりでした。


▼現地で何を見たか、福島第一原発の正門で作業員のかたがたと何を話したか。
 それは、できるだけ詳しく、ぼくの撮影した動画とともに4月20日の午後4時48分からの「水曜アンカー」で伝えたいと願っています。
 ただし、これはぼくの番組ではなく、ぼくは、いつも申すように、ただの一参加(出演)者に過ぎませんから、勝手はできません。どこまで伝えられるかは、まだ分かりません。

 また、同じ日のRKB毎日放送の「スタミナラジオ」でも、時間の許す限りは話したいと考えています。
 さらに、前述したように、現地入り当日の帰京後の「チャンネル桜」の収録でも、これは井上ディレクターの質問に答える形で、ある程度すでに詳しく話しました。
 いずれ放送されますし、誰でもご覧になれるユー・チューブにもアップされます。

 ただ、チャンネル桜の収録になったとき、凄まじい疲労がどっと押し寄せて、みなさんから頂いた質問を読んでいるうちに、眠りこけて、はっと目を覚まして、また読むうちに、またまた眠り込むという有様。
 ほんらいの体力の3分の1では、この日、もう限界をはるかに超えていました。
 実は、収録を中止し、次回にしようかという話も、井上さんたちと何度もしました。
 しかし、身体が潰れてもドタキャンをできるだけしない原則を、どうにか貫いて、3回分の収録を終えました。
 実際は、4回分でした。1回分に、情報源のひとりから「話してもいいです」という確認を取っていない情報が最後にちらりと含まれたことに気づき、その収録分は捨ててくださいと、井上さんたちにお願いしたからです。
 だからもう、収録は3回分ともぼろぼろ。
 聞き苦しかったり、伝え切れていないところはどうぞ、赦してください。

 それから、東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)の会員には、もっとも詳しく記録をまとめているところです。
 遅くとも、明日の午後までには、会員に配信できると思います。
 このレポートには、写真も添えます。


▼それから、今夜4月18日月曜の夜9時から放送されるテレビ朝日系列「TVタックル」でも、きのう土曜日の収録では、かなりお話ししましたから、放送されるかもしれません。
 ただし、今夜のタックルは生放送の部分はなく、収録を編集したものですから、どこまで実際に放送されるのかは、まったく分かりません。
 過去には、収録での発言がほとんど放送されないことが複数回あり、誇張でなく95%カットされたこともありましたから、今夜も分かりません。
 いつも申すように、それはテレビ局の正当な編集権です。


▼この個人ブログではとりあえず、もっとも印象の強かったことを、象徴的に挙げておきます。

・特に、20キロ圏内から原発の正門までは、生活感がそのまま残る村と街に、人だけが居なくて、そんな恐ろしい光景は、亡骸が転がり、肉片が民家の壁の跡にこびりついていたイラクの戦地にもなく、桜がみごとに咲き乱れているのが、ほんとうに悲しかった。
 ここを「戻れない村」、「戻れない街」にしてはならない、そのためには懸命に寄与しようと、こころ深く、あらためて意を決しました。

・正門と、その付近で話した作業員はみな、素晴らしく落ち着いていて、目の光りも強く、話しぶりも確信があって、感動しました。
 わたしたちの祖国は、宰相や大臣や、官僚機構の首脳陣や、電力会社の首脳陣には頼むに値しない、私心のひとびとも多いけれども、現場、最前線で戦う国民は、気持ちが澄みわたるほどに私心なく、頼もしいこと、それが希望です。

・ぼくが胸のすこし下に付けていた線量計の計測値は、夜明けから午前11時まえごろまでの積算で、23マイクロシーベルトでした。
 数値としては、やはり大きくない。
 ただし、専門家の端くれとして『確実に放射性物質が漏れ続けている』ということを、むしろ強く実感しました。
 漏洩を1日でも早く、ではなく、1分でも早く止めて、あの静まりかえった村や街に、ふたたび明るい声が響くように、みなで、国家と国民全体で戦いたいと考えました。
 エネルギーや原子力に対する姿勢や考え方がどれほど違っていても、「あの地が、かけがえのない古里であったり、たいせつな生活や仕事の場であるひとびとに、やがて、戻ってもらう」、この目標については、一緒に連帯して戦いたいと、考えました。


▼その線量を確認したうえで、身に付けていた防護服やマスクなどを正しく処分して、ときおり、あえて大気に晒していた顔と、そこから放射性物質が及んだかもしれない髪の毛を、よく洗い、社有車の内と外も洗浄し、そのほかにも環境や、ぼくに接するひとに、いかなる意味でも余計な放射性物質が加わらないための措置をすべて徹底的に済ませたうえで、帰京しました。

 福島第一原発の正門に通じる道は、高速道路が通行停止になったままです。
 下の道には、いろんなルートがありますが、最短は、かなりシビアな山越えルートです。
 かつて山岳ラリーで練習した技術を、ひさしぶりに思い出しながら、全身で走りました。
 サーキットに復帰していることも含め(…といっても、去年の秋からまったくサーキットには行けませんが)、趣味のつもりで再開したことでも、思いがけず、仕事に本質的に役立つことがあるなぁと、それも思いました。


▼ひとつ、蛇足なことを申すのを赦してください。
 20キロ圏や30キロ圏の立ち入り禁止、ないしは立ち入り制限は、法に基づいて行われていますから、専門家としての知見があり、事前に関係当局に立ち入り目的を明らかにして諒解を得られるひと、それ以外は、どうぞ立ち入りを試みないでいただきたいと、ぼくからもお願いいたします。

 ぼくには何の権限もありませんから、これは個人的なお願いに過ぎません。
 ただ、この個人ブログの記述を、制限区域への立ち入りの参考とはなさらないでください。
 専門家のかたで、職務や責務のための立ち入りをお考えのかたは、どうぞ、関係当局によく相談なさってください。
 ただし、優れた専門家のかたであっても、そのときの情況や条件などによって、関係当局が諒解しないこともあり得ると思います。それは関係当局が判断することであって、ぼくが言うことでは、ほんらいはありませんが、この個人ブログに記したことを「入れる」という根拠には、どうぞ、しないで頂きたいと、伏して、こころからお願いします。





取り急ぎ、お伝えします

2011年04月13日 | Weblog
▼きょう4月13日水曜の関西テレビの報道番組「アンカー」は、大震災の発生後初めて、「青山のニュースDEズバリ」コーナーが復活します。


▼番組そのものの開始は、震災前より5分早まって、午後4時48分です。
 これは今回だけではなく、恒久的な、時間変更です。
 つまり、5分間、番組が長くなったわけですね。

 大阪の定宿ホテルで今、高層階にいて、アンカーの生放送のために福島原子力災害をめぐってEメールと携帯電話で、情報と意見の交換をしています。
 たったいま目前の窓の外に、桜の花びらが3枚、風に運ばれ、こんな高いところまでやって来てくれました。
 広大な被災地と、福島第一原発の最前線の、その春を、思わずにはいられません。

今夜

2011年04月11日 | Weblog
▼大震災と原子力災害のさなかにあって、思うことのひとつは、私心を脱することが、おのれ自身への戒めとしても、どれほど大切であり、ご自分が私心に囚われていることに気づくことすらないひとが、どれほど無残なことを平然となすかということだ。


▼おととい4月9日の土曜、久しぶりに「TVタックル」のスタジオ収録のためにテレビ朝日へ出向いた。

 放送は、きょう4月11日月曜の夜7時から9時48分まで。
 つまり、いつもより2時間、早く始まる。「春の3時間スペシャル」と銘打ってある。
 ぼくはあまり地上波のテレビを見ないので知らなかったけれど、TVタックルも震災後に放送をしばらく休んでいて、震災発生からちょうど1か月に当たる今日の放送が、震災後としては初回だという。

 このように時間を延長した「スペシャル」というバージョンも、年に何回かやっているらしいけど、ぼくはいつも参加(出演)するわけでは全くないので、ふだんはどういう放送内容だったか、あまり知らない。
 こんなぼくの知る限りではあるけれど、今夜は、TVタックルという長寿番組始まって以来のことがある。

 それは放送の後半は、ナマ放送になる! ことだ。

(生放送が初めてではなかったら、ごめんなさい。前述のようにぼくは番組について無知だから、かつては生放送もあったのかもしれません)


▼番組の女性ディレクターが、独研(独立総合研究所)の総務部と日程調整をするときに「青山さんが、TVタックルはぼくの発言を95%カッとしたりする、と講演会で言ってるから、いっぺん生放送でやろうということになりました」と話したという。

 TVタックルが生放送ではなくて、事前に収録して、編集していることは、視聴者の多くがご存じのことだろうし、番組も別に無理に隠してはいないと思う。
 ぼくがこの番組に関わるときは、コメントだけを独研の社長室で収録する場合と、テレビ朝日に出向きスタジオで議論に加わって収録する場合がある。

 講演会のあとの懇親会などで「タックルはコメント(前者)だけでしょう」と言われることが良くあるけど、実際は後者(スタジオ参加)も、数としては結構ある。
 ぼくは、わりと最近まで、この番組に2年ほど全く顔を出さない時期があった。しかし、その時期には独研社長室でのコメント収録もなかったわけだ。

 そのコメント収録は、2時間以上にわたるのもふつうで、放送されるのは30秒から、長くて1分半か2分ぐらい。
 そのほかのぼくの話は、番組のディレクターたちがVTR全体の流れを決めたり、番組で何を取り上げるかを決めるのに活用している。
 そうやって番組作りにいくらか寄与していても、それは表には、もちろん一切あらわれない。
 しかし、それで完全にOK。
 この番組は、たいへんに人気があるそうで、つまりは沢山のかたがたが視る番組が正しい内容になっていくことに、ぼくのコメント収録がほんのすこしでも貢献できるなら、意味があるからだ。

 この番組が放送される月曜の夜9時というのは、共同通信の記者時代にテレビを視ていたことがない。だから記者を辞めるまで、TVタックルなんて、聞いたことも視たこともなかった。
 共同通信を辞めて、三菱総研に移り、いくらか自由な立場になって安全保障をめぐる対談本を出したら、TVタックルのベテラン男性ディレクターのSさんという誠実なひとから「話を聴きたい」という連絡があり、番組の存在を初めて知った。
 それが平成13年11月のことだから、考えてみればもう9年半になる。
 もっとも前述したように、2年ほどブランクがあるから実質7年強ぐらいだけど、わりあい長いお付きあいだ。


▼この番組で正直、すこし困るのは、スタジオ収録で発言したことを、ほとんど放送しないことがあることだ。
 独研でのコメント収録をわずかしか放送しないのは、前述したようにまったく構わない。
 ところがスタジオ収録のとき、ぼくが笑っている顔などを流すだけで、発言は実際、95%ほどをカットしてしまったこともある。
 視聴者から「なぜ発言しないのか」「なぜ、反論しないのか」というEメールや書き込みが溢れたときも一度や二度じゃない。

 もっとも、こうしたことは、生放送以外のテレビ番組では常に、つきものだ。TVタックルだけのことでは、全然ない。
 ただし、95%もカットされたのは、TVタックル以外にはない。
 ぼくだけが勝手に言っているのなら、思い違いの可能性もあるけれど、スタジオ収録に同行した独研の秘書さんが「社長は、あれほど話されていたのに、放送では、まったく消されていましたね。なぜですか」と憤慨したことが、これも一度や二度じゃなかった。

 もちろん、発言がかなり放送されたこともある。数少ないけど。ふひ。
 ぼくは番組の編集に干渉しない主義だけれど、放送される回によって違いがありすぎるから、ディレクターに「どんな基準ですか」とだけは聞いてみたことがある。
 すると「担当ディレクターによって、そういう奴もいるんですよ。(青山の話は)カットしたがる奴が」という、とても率直な答えだった。この、なかなかカッコいい率直さが、タックルのいい面のひとつでもある。

 ディレクター個人個人のことまで、まさか干渉しない。何があってもそこまで干渉しない。その「奴」が誰なのかも、一切聞かなかった。だから、もはやぼくは、このことに関心を失った。

 しかし、TVタックルの特徴のひとつは、このディレクター陣が、びっくりするぐらいよく勉強していることだ。
 テレビ番組は、それが報道番組であっても、思わず凍りつくぐらいディレクター陣が勉強していないことがある。多々、ある。
 しかし関西テレビの報道番組「アンカー」と、このTVタックルだけは、そういうことがない。
 TVタックルのディレクターたちは「この番組は、もともとエンターテインメントなんですけど…」と、ぼやきながらも、ほんとうに勉強している。
 さっきの「(青山の話は)カットしたがる奴」であっても、そうだろうと思う。タックルに勉強していない人は居ないから。

 だから2年のブランクを経て、ふたたび「来てくれませんか」とオファーがあったとき、発言のカットがどうであれ即、OKした。
 そして今回、「話をカットされると青山さんが言うから、いっぺん生放送でやってみます」という話が、独研の総務部に来たとき、ぼくは思わず、あははと笑った。
 震災後に、あははと笑ったのは、たぶん初めてだ。

 もちろん、現実には、ぼくの発言をカットするとかしないとかよりも、4月10日に統一地方選があるから、その結果を受けて11日に放送するには、生放送でないと間に合わない、それが生放送を取り入れる理由だろうとは思う。
 しかし、女性ディレクターのユーモアのセンスが、ちょっと楽しかった。


▼そういうわけで今夜の放送は、前半が、土曜日に収録した分、後半がナマ放送という、他のどの番組でも滅多にないユニークな構成になっている。

 その土曜のスタジオ収録は、3時間以上に及んだけど、今夜の放送の前半は実質的に1時間10分とか15分とかだから、いつものように編集でバッサリとカットされる。
 だから、ぼくの発言も多くはカットされるだろうけど、それは、これまでに申したように、もうどうでもいい。

 おとといのスタジオ収録で、ぼくが胸のうちで強いショックを受けたのは、参加(出演)者のなかで、まことにまことに申し訳ないけど、私心にひたすら突き動かされているとしか思えない言動のひとが、複数、複数です、いらっしゃったことだった。(レギュラーのかたがたではありませぬ)

 この大震災のさなかに、いやむしろ大震災だからこそ自分を売り込みたいとか、番組の中で目立つ存在でいたいとか、そういった類いの私心も、ときおり感じられてならなかった。


▼そのことは、もうこれ以上は申さない。
 ぼくは限りなく悲しかった。
 しかし、視聴者それぞれが判断なさることだ。
 それに、3時間を超えて収録されたテープが1時間10分か15分ぐらいに編集されるのだから、どのように放送されるのか分からない。


▼そのこととは、また別に、今回はわりと喜怒哀楽のあったスタジオ収録かもしれない。
 進行中の福島原子力災害において菅政権、なかでも首相官邸の問題のために、あるいは宰相である菅直人さんの私心に端を発して、排水循環システムの構築が人災として遅れに遅れ、その結果として、ほんらいは不要だった低レベル放射性物質を含む水の大量海洋投棄を行ってしまったことをめぐって、前総務大臣の原口さんと激しい口論になり、いつものようにスタジオ内に冷たい空気が漂った。
 これは、まさしくいつものことなので、まったく問題ない。
 嬉しかったのは、こころの友の宮崎哲弥さんが、隣の席から大噴火して、援護射撃してくれたことだった。
 宮崎さんは、友だちだから噴火したのじゃない。
 彼も、深奥に迫るために取材に取材を重ねて、同じ怒りを共有していたのだろう。

 原口さんは、スタジオに来れば批判をひとりで浴びることは承知で来ていた。それはエライと思う。
 震災の前から、民主党批判が強まるにつれ、TVタックルがいくら出演依頼をしても民主党議員はみな、逃げ出すというトンデモ現象が起きているそうだから、逃げ出さないのはエライ。
 それに、原口さんはふだん野心満々な政治家だけれど、この日は、そんな感じはしなかった。ぼくの怒りに真正面から立ち向かって、怒ってくれた。

 ただ、官邸の誰の何が、まともな作業進展を阻んでいて、それを与党の幹部議員としてどうするのか、はっきりと聞きたかった。
 宮崎さんが「それは無理だよ」と、あとで言っていたし、ぼくもそれは分かる。
 しかし、正直、やりきれない怒りが爆発した。今も、やりきれない。


▼スタジオ収録ではそのあと、実際に気仙沼で被災された漁業者と、風評被害に苦しみ抜く会津の女性旅館経営者が、参加された。
 ぼくは終始、そのお話を集中して聞き、そのあいだ、ひと言も発しなかった。
 独研のスタジオ同行者があとで、「社長、どうして発言しなかったんですか」とぼくを追及したけど、ごめん、とても発言する気になれなかった。

 都内も被害は出た。7人ものかたが、ひとつしかない命を落とした。独研も自宅も、いくらかの被害はあった。しかし東北の苦しみとは、あまりにも、あまりにも比べものにならない。
 安全な都内で、大震災を克服するための仕事とはいえ、仕事をしている立場では、じっとひたすら話をお聞きして、胸に叩き込むしかないと考えていた。ありのままの証言を胸に叩き込み、おのれの、ささやかな責務を果たしたいと考えていた。

 この現地からの証言者おふたりに、「政府を当てにするな。自分でしっかりやるのが第一」という趣旨で意見される番組参加(出演)者が何人もいらっしゃったのにも、驚いた。
 しかし、それは、ぼくも私心とは呼ばない。こころからの意見を、被災者たちに伝えただけなのだろう。
 しかし、ぼくにはできませぬ。永遠に、できませぬ。
 やはり、ぼくには日本のテレビは向いていないと思う。


▼政治家はもうひとり、小野寺五典さんが参加していた。
 小野寺さんは、自民党の若手代議士で、外務副大臣も務めた。
 実家は、気仙沼の旅館だ。選挙区も、もちろん、気仙沼。
 出身大学が、青山千春博士と同じ東京水産大学(現・東京海洋大学)、つまり青山千春博士の後輩ということもあって、親しくしている。

 この小野寺さんが私心なく、また自民も民主もなく、どれほど現地で奮闘しているかは聞き及んでいたから、スタジオに入る廊下で会ったとき、その顔色がすこし元気になっていたことが、こころから嬉しかった。
 収録が始まる前の立ち話で、震災前に、ぼくらがたまたま気仙沼の知友を訪ねて「ほや」をご馳走そうになった話をすると、小野寺さんはたちどころに、「あ、それは○○さんのおうちでしょう」と言い当てた。
 小野寺さんは、まさしく地元の人だ。
 その○○さんの実家である網元の古い大きなお宅も流され、小野寺さんの実家の旅館も壊滅した。

 この小野寺さんが、土曜日の収録中に、二度ほど涙ぐんだ。
 それを自分の言葉のおかげかと思った参加(出演)者もいるようだけど、それはたぶん違う。
 ごめんね、小野寺ちゃん、勝手に言ってしまうけど、ほんとうは逆だよね。
 何でこんな時に自分を売り込みたい人がいるのかと、それも悲しくて、万感こみあげたのじゃないだろうか。

 収録の後半に、ぼくの真向かいに座った小野寺議員と、何度か目線を合わせると、彼はほんとうに悲しげな眼で、ぼくにひそかに語りかけてくる気がした。「もっと、きちんと話したいのですけどね。そのために、あえて現場を抜け出して、ここに居るのですけどね」、そう、眼が語っているように思えた。


▼さて、この収録分がどのように放送されるのか、それはいつものようにまったく事前に分からない。
 しかし、たけしさんをはじめ、番組そのものには、しっかりと志が感じられた。ぼくは社交辞令は言わぬ。

 その志のひとつとして、原子力災害後の日本の希望のひとつとして、日本に良質なメタンハイドレートが存在していることを、ほんの少しながら、最後に取り上げてくれた。
 その話をするとき、もう収録予定時間が過ぎてしまっていたから、ぼくは、ありのままに申して、かなり急いで、はしょって話した。
 すると、ちゃんと聞いてくれた三宅久之さんが「だけどね、それを研究し開発している人はいるのかね」という趣旨でぼくに質問された。

 三宅さんは、ぼくが評論家ではなく実務家であること、独研(独立総合研究所)がぼくの個人事務所ではなく、提言をする財団法人や社団法人でもなく、あくまで実務に取り組む株式会社組織のシンクタンクであることを、おそらくまったくご存じないのだろう。
 だから、ぼくが資源とエネルギーの実務者として国際学会で発表したりすることも、まったく想像されないのだろう。
 それはそれで無理ないと思う。日本では発信者と実務家がバラバラのことが多いから。

 それをとっさに感じつつ、ぼくは、ほんらい言うべきことを言わなかった。言えなかったぼくの責任だ。
 ほんらいは、「独立総合研究所も学者のなかで良心的なひとと連携して取り組んでいる」とか、「青山千春博士こそ、もっとも良質な日本海のメタンハイドレートを発見した研究者であり、メタンハイドレートの簡便で安価な(つまりカネをかけなくて済むからこそ既得権益のひとびとが喜ばない)探査方法を開発し、国内特許はもちろん、アメリカ、オーストラリア、ロシア、中国、韓国の国際特許を持っていながら、ただの1円も特許収入を得ていない」とか、それはなぜかといえば『中国や韓国など外国が、その技術を自国が創造したかのように振る舞って、日本は使うなと、近い将来にもしも言い始めたらフェアな国益を損ねる』というのが特許を取った最大の理由だから…などなどの話をフェアに、ありのままにすべきだろう。
 それを一切、できなかった。

 というより、そういう、おのれも関係するような話は一瞬で全部、封じ込めて、違う話をした。
 日本以外の諸国では、こうはならない。
 その話が事実かどうかだけが、問題にされて、それが発言者の会社の関係する話だろうが、プライベートでは配偶者にあたる研究者の話であろうが、まったく関係ないからだ。
 ぼくは国際社会とも仕事をしていても、こうした場面では、まったく国際基準を貫くことができない。ろくに発信できない人間になる。
 ぼくはもう無理だけど、次の世代、次の次の世代には、こんなふうに息苦しい社会が、誰でもありのままに自分たちのオリジナルな成果をすなおに胸を張って発信できる社会になってほしい。
 そのように風が通る社会に変える努力をこそ、ぼくはささやかに続けたい。


▼3月19日に退院してから、そろそろ1か月が近づいてくるけど、体力はまだ3分の1ほどしか戻っていない。
 二度まで命を救ってくれた自宅近くの名開業医によれば、「全身麻酔をしているから当然です。そのとき全身の機能がいったん停止したんだから、体力が戻るには少なくとも数か月かかる。くれぐれも無理をしないで」ということだ。

 土曜日の収録も、2時間を超えるあたりから、内心ではかなりの疲れを感じた。
 しかし、これを機会に躯を作り直すことに、あたりまえだけど、取り組んではいる。手始めに、仕事場のマンションの高層階の階段を歩いて上り下りしている。
 わざわざ言うまでもなく、もちろん節電にもいくらかは、なる。

 階段室をいくと、階ごとにひび割れがあり、震災の威力があらためて感じられる。それを感じるためにも、今の体力ではかなり苦しい上りも、踏みしめて登っている。





※ところで、この地味ブログへの書き込みに、「体調が悪いと言い訳をするな」というものがありましたが、ぼくがどなたに言い訳をする必要があるのでしょうか。
 ここはぼくの自由な庭であり、体調のことも書きます。

 これで思い出しましたが、「入院のあいだに受けた放射線量が160ミリシーベルト(16万マイクロシーベルト)」とあるが、間違いではないか?文科省HPによるとCTスキャン1回につき、放射線量は6.9ミリシーベルト。単純にCTスキャン(※レントゲン撮影は放射線量がより低いため省略)で160ミリシーベルト浴びるとすれば、23回ほど受ける計算になるから、さすがの鉄人の青山さんでも無理では? 放射線治療を受けたのかもしれないけど、とかく放射線に敏感にならざるをえない時期だから」という趣旨の書き込みもありました。
 もちろん間違いでも何でもありません。
 入院先の放射線技師に、きちんとお願いし、放射線量を計算して出してもらった数字だし、合計3週間の入院中に受けたCTスキャンは、おっしゃる23回よりも多いです。24時間以内に、複数回にわたって受けたことも、一度ではありません。
 それを過剰な医療被曝と批判する医師もなかにはいるだろうけど、特に腸閉塞は、命に関わっていたから、お腹の中を正確に把握することが優先されていたと考えます。
 ある外科医が「お腹をもう一度(切り)開いて、中を見るしかない」と主張する切羽詰まった場面もありました。
 ぼくはそれを、苦しかった息の下から即座に断り、そのためにCTスキャンを重ねることにもなりました。CTスキャンの多用のほうが、はるかに良い選択だったと今でも考えます。

 大腸癌のために腹を開いて、15センチ、腸を切り取って、そのあとの難行苦行をようやく凌(しの)いできて、それをもう一度、開けられたらたまらない。医療被曝がどなたにも、いつでも絶対安全とは、まさか言わないが、すくなくとも今のぼくが二度、腹を切られるより、ずっとはるかに害がない。
 ほんとにその場で、こう考えることができました。正直、あのとき意識がちゃんとあって良かった。

 放射線技師は「少なくとも160ミリシーベルト以上」と回答したのが、正確な書き方であり、間違ったのでも誇張したのでもなく、ありのままに、しかしなるべく穏やかに書いています。
 つまり、実際に受けた放射線量は、もう少し多かったでしょう。CTスキャン以外に、レントゲン撮影も山ほどやっていますから。塵(ちり)も積もれば山となる、ですね。

 そして、このブログに、これも正確に記したとおり、癌は早期で、転移も無かったですから、放射線治療は一切、受けていません。

 さらに芋ヅル式に思い出すと、「私が直腸癌だったときと、青山さんの話が違う。ウソじゃないか」という趣旨を、いくらか激しいトーンで書き込まれた方もいらっしゃいました。
 ぼくはおのれの症例について、医師が実際に述べたことだけを記しています。
 ぼくの早期癌の部位は、直腸ではないし、症例は、共同通信で医学記事を書いていたときの経験からしても、大まかには同名の病気でも人によって大きく異なりますし、医師の措置や見解もまったく異なります。

 この地味ブログは、言い訳のためにも、誇張した話をするためにもあるのではなく、人様は傷つけないようにギリギリ努力しつつ(だからスタジオ収録の時に、どなたに私心を感じたかも明かしません)、おのれのことはなるべく、ありのままに記していく。
 それだけのブログですから、できれば、ありのままに受け取ってくだされば、いくらかは、しあわせです。


男はつらいよ、発信もつらいよ

2011年04月06日 | Weblog
▼いまは4月6日水曜の午前4時になるところです。夜明けが近づいてきます。
 トリスタンとイゾルデの前奏曲を片耳で聴きながら、この未明も、会員制レポートの仕上げに取り組んでいます。いま朝に昼、それに夜のふつうの時間帯も、書く時間がありませぬ。
 時間は、平時よりもさらに、ほんとうにどんどん飛び去りますね。原子力災害の鎮静も、被災地の復興も、まだくぐるべき入り口すらくぐり抜けていません。
 窓から、明かりの消された暗い、異様な首都高速を、いつもよりずっと少ない車が行き来するのが遠くに見えています。

 きのうの昼、ネットテレビの「青山繁晴.TV」(あおやましげはる・ドット・ティーヴィー)に、3月20日の日曜に行われた講演会の模様の一部をアップしました。
どなたでもご覧になれます。

 3月11日午後2時46分に、運命の大震災が発生して以来、「震災や原子力災害をどう考えているか、会員制レポート以外にも広く発信してほしい」という声を多くいただきました。
 しかし関西テレビの報道番組「アンカー」は、フジテレビの特別番組のために放送中止となり、講演会などもほとんどが中止となり、またぼく自身が大腸癌の手術後に起きた腸閉塞のためにまだ入院中だったこともあって、なかなか思うに任せませんでした。

 そうしたなか、前代議士の西村眞悟さんが、みずから企画された講演会について中止するか開催するか、じっくり考慮されたうえで開催を決意され、ぼくも予定通りに大阪・堺の会場ホールに向かいました。
 3月19日の土曜に最終的に退院した、その翌日のことです。

 西村さん、そして前航空幕僚長の田母神俊雄閣下がそれぞれ憂国の講演をなさったあと、ぼくも,つたない講演をいたしました。
 ふだん講演では、平均2時間半ほど話しますが、この日は、西村眞悟事務所から「40分間で」と告げられていました。
 そして、ぼくの講演のあとに、ぼくが不肖ながらコーディネイターを務めて西村さん、田母神さん、元海上保安官の一色正春さんによる討論会も予定されていましたから、たいへんに時間が限られた講演だったとは言えます。
 実際の講演は、すこし延びてしまって小一時間あったかもしれません。
「青山繁晴、時事インタビュー with 田母神俊雄、一色正春、西村眞悟」という、ちょっと不思議な講演会の名称になっていますが、これは、上記の討論会のことを指しているのでしょうね。西村眞悟事務所の命名です。

 一色さんからはその後、「講演中に舞台から飛び降りるというような無茶をしないでほしい」という、あたたかな気持ちのこもった手紙が思いがけず届きました。
 あのホールの舞台には、一見したところ階段がなく、しかし時間が短くてもいつものように聴衆のなかに一緒に入って、聴衆を見おろすのではなく同じ立場で話したかったから、ごく自然に飛び降り、また舞台に飛び上がり、また降りることをしました。
 一色さん、大丈夫ですよ、手術の傷は、さして痛んでいません。すこし痒いぐらいのものです。ふひ。

 この講演を、いつも「青山繁晴.TV」の動画編集をしてくれるプロデューサー集団が、YouTubeに収まるように編集してくれました。
 今回のアップは「その1」です。


▼これは3月20日の講演ですから、大震災が起きてまだ、9日目です。視てみようかな、というかたは、あくまでもその段階での講演であることを踏まえていただいて、もしもよろしければご覧ください。

 西村さんの講演などは、西村眞悟さんの公式HPにアップされています。


▼きょう水曜日は、日帰りで大阪に行き、関西テレビの報道番組「アンカー」の生放送に参加(出演)します。
 このアンカーは、震災発生後の最初の週、3月16日水曜は前述のように放送されませんでした。
 その翌週3月23日水曜は、放送はされたものの放送時間がふだんとまったく異なっていて、視てくれた方は、いつもの放送では考えられないぐらい少なく、「青山のニュースDEズバリ」コーナーはありませんでした。
 その翌週3月30日水曜も、ふだんと異なる時間に放送され、視てくれた方は、さらに少なく、コーナーもありませんでした。
 この番組のための情報の収集は、ふだんに増して膨大な時間を費やす作業となっていましたから、3月30日放送の翌日に視聴者のあまりの少なさが分かったとき、さすがに、いくらかは、がっくりときました。

「ネットではいつものように、みんな視ているんですよ」というメールや書き込みもいただきました。感謝しています。
 ただ、ネットには無縁の、たとえばふだんはTVニュースも新聞も見ないというおばあさんが「あのコーナーは楽しみに視てるんですよ」という、ご家族からのメールや手紙をいただくことが、ぼくの支えのひとつでしたからね。

 そして今週4月6日水曜は、生放送の開始時刻は、午後4時48分です。
 ディレクターからの電話によると、4月から、番組開始が従来の午後4時53分から5分早まることになっていた(番組の終了はこれまでと同じ午後5時54分)そうですから、つまり今週からやっと、ほんらいの放送時刻に戻るわけですね。
 しかし、なぜか、コーナーは今週も無いそうです。

 いつも申しているように、番組の構成は、一参加者に過ぎないぼくが干渉することでは全くありません。
 ただ、きのう夜は、ディレクターの電話に思わず聞きました。「放送時刻が戻るのに、なぜコーナーは戻らない?」
 ディレクターは、その誠実な人柄のままに、一生懸命にいろいろ語ってくれました。その中身はここに記しません。公開を前提にした会話ではありませんから、それをそのまま記せば、信義に反します。ただ正直、よく分かりませんでした。

 視聴者からは、テレビ局にも「コーナーを早く復活してほしい」というメールが多いそうです。
 同じ内容のメールや書き込みは、ぼくにも、ほんとうに沢山、来ています。
 それと、大震災という非常時だからこそ、ぼくにはコーナーでじっくり話す責務もあると考えます。だから心苦しいです。
 それでも番組にまったく出ないよりは出る方が、視聴者からの問いかけにいくらかは応えることになるのじゃないかと考えるほかありません。

 震災前は、前日に大阪入りして、コーナーのために長時間の議論をしていました。
 ぼくと独研(独立総合研究所)にとっては、それが日帰りであっても、かかる手間はほぼ同じです。前述のように膨大な情報収集をやりますし、放送前日のゆうべは、かなり長時間の「電話打ち合わせ」で拘束されましたから。
 きょう午前中に、もう一度、電話で打ち合わせを、とディレクターはおっしゃいましたが、それはあえてお断りしました。

 父方にも母方にも、ただのひとりも出ていない癌を、発病し、大腸を切り取り、そのほかに尿路結石や重症肺炎や腸閉塞やらをじっくりと味わい、二度ばかり死に直面して、こうやって生還してから、ひとつ決めたことがあるのです。

 それは、「先方のこの依頼は、あまりにも…」と独研の総務部が嘆いたりするような仕事は、こころを鬼にしてでも、もはや断ろう、ということです。
 それはたとえば、長時間の講演の大部(だいぶ)の講演録の修正を、無償で引き受けて何日も何日も、もっと何日も、その完成に費やして、自分の本来の原稿執筆などが、ほとんどできないということです。
 電話は長時間の電話であっても、それよりは当然ずっとマシですが、時には大きな負担になります。


▼もう会員制レポートに戻ります。
 それにしても、震災のあと、独研のメール送受信に不可解な異変が、頻繁に、執拗に続発しています。
 レポートの配信が何度も遅れました。
 捜査機関による法に基づく調べも、あらためて始まりました。

 福島原子力災害などについて記している内容が、それほどに邪魔になるのかなとも考えますが、どうせ負けはしないから、妨害工作者がもしもいるとしても無駄なことです。
 2000年3月30日に第1号を配信していますから、この4月から、足かけ12年目に入りました。いま仕上げているのが、第503号です。
 500号の峠を越えたときは、ちょっとだけ嬉しかった。

 あ、きれいな夜明けの色になってきた。まもなくRKB毎日のラジオ番組への参加です。
 ほんとは…ねむたい、ただただ、ねむったい。