Our World Time

冬のニューオーリンズ

2009年01月26日 | Weblog


 苦しい夜明けまえに、わけもなく落ち着き払って、思う。
 ぼくの最初と最後は、物書きだと。

 見えないものを書くのが、物書きだ。
 ぼくは、物語を紡ぐより、眼の前の現実とぼくなりに戦ってきた。
 そしてやがて、現実を物語に叩き込む。

 あらかた書いたら、水辺に椅子を置いて、しかし、滅多に座らない。
 水に逆らって泳ぎ、水に従って泳ぎ、はるか上流の山の水源まで泳ぎ、遠く下流の海の潮まで味わい、たまに、水辺の椅子に戻ってくる。

 あの南のニュー・オーリンズにも、場違いな冬は来る。
 その肌寒いミシシッピ河畔に濡れて立つように、今のぼくはある。

 そしてぼくは、夏の匂う日本の川辺に帰ってくる。
 あっさりと書く。らくに書く。夏の少年が、小川に魚とりの丸い網を入れるように、書く。







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みなさん、こころから、明けましておめでとうございます。

2009年01月06日 | Weblog



▼小林一茶に「めでたさも 中くらいなり おらが春」という句があります。
 ぼくは子どもの頃から、この句と、一休和尚さんの「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という歌がおなじ気持ちの表現に感じます。

 そうか、お正月というのは、死ぬときにまた一歩近づくことなんだ。
 小学生の時からずっと、そうやって、胸の奥深くでちらりと考えていました。
 と言っても、ただの子ども、ガキですよ。
 ただの子どもなりに、家族と一緒にお正月を祝いながら、ふと、そのような孤独な思いもしていたということですね。みなさんもきっと、そういう記憶があると思います。

 共同通信の記者として、ペルーで日本大使公邸人質事件を取材していた時あたりから、死生観を深く考えるようになりました。
 ペルーから帰国して、記者を辞め、三菱総研の研究員になり、そして独立総研(独研)を仲間とともに興して今に至る日々のなかで、お正月はやっぱり、何が何でもめでたいのだという気持ちが強くなりました。

 親からテロリストに売られた少年や少女が、フジモリ大統領(当時)指揮下のペルー国家警察軍に、たとえば現場でいったん生きて逮捕された少女であっても、すべてその現場で殺されたという現実に直面し、それから、日本でいえば町内会で隣りあうひとびとが旧ユーゴ戦争で互いに殺戮しあった亡骸が一面、埋め尽くすサッカースタジアムのピッチをうろうろ歩き、イラクでアメリカ軍の戦車砲とテロリストの手製爆弾の双方に向かいあったりしているうちに、とにもかくにも生きて新しい年を迎えられるのは、この人間世界では、ずいぶんとマシなことなんだと思うようになったからです。

 だから今、みなさんには、こころから、明けましておめでとうございますと申しあげます。


▼さて、現在はGMT(グリニッジ標準時)で1月6日火曜の午前4時55分、寒いロンドンにいます。
 ホテルの窓から、ビッグベン(国会議事堂)の時計の丸い光が凍てついてみえます。

 欧米諸国は、クリスマス休暇が長い代わりに新年が明けてのお休みはふつう短くて、政府関係者などには1月1日だけが休みで、2日や3日からそれなりに動くひとも少なくありません。
 だから年明けに欧米に出張するときは1月2日に出発することが、これまで多かったのです。

 しかし今回は、1日早く元旦に、日本を出発しました。
 そのわけは、こんどの英国入りは、老いた母に、昭和史を深いところで左右した日英関係のその相手、大英帝国をみせてあげたいことが大きな目的だったからです。
 母はそもそも、意外な話でしょうが、86歳になる現在までただの一度も海外を見たことがなかったのです。

 ぼくの生家は古い時代から兵庫県にあり、明治維新のあとは代々、繊維会社を経営してきました。
 しかしぼくは三人兄弟の末っ子だったために、母から「おまえは一切、何も相続できない。自分の力だけで生きていきなさい」と、ほんとうに小さい子どもの頃から繰り返し、形を変えて言われ続けて育ちました。
 ぼくは、当時としてはかなりな高齢出産での子どもでしたし、父も母も大切に育んでくれましたが、この「自分の力だけで生きよ」ということでは、徹底的に厳しく育てられました。

 このことに深く感謝しています。
 おかげで、自立心がささやかながら鍛えられました。

 家業は、父が現役社長のまま67歳で亡くなったあと、それまでの代と同じように長男である兄が継ぎ、母もその兄がケアしてきたのですが、一昨年の新緑のころに、事情があって、末っ子のぼくが東京に引き取ることになりました。

 引き取ったあとは、たとえば江戸前のとびきりおいしいお寿司を食べてもらうことや、いくつかの夢をそれなりに実行してきたのですが、海外をみせるという夢はなかなか実現できませんでした。

 母は、東京に移ってきた時には、もはや歩けなくなっていたからです。
 その母をまず、ぼくが会員として通っているスポーツジムの会員にし、専属のトレーナーについてもらって歩行練習を始めました。
 病気で歩けなくなったのじゃないし、病院で同じ高齢者のなかでリハビリをするよりも、ジムで若い人のあいだで励むほうが、母は気持ちがいいだろうと考えたのです。

 ぼくの信頼するトレーナーは最初、『これはどこから手をつけていいのか』と悩んだそうです。
 とてもゆっくりではあっても、すこしづつ足が動くようになってきました。
 といっても車椅子の生活ではありますが、家屋の中の短い距離なら、何かに掴まりながら歩くこともできるようになりました。
 実際、母は素晴らしい努力をしています。
 ジムだけではなく、帰宅してからも、トレーナーからもらった宿題のエクササイズを欠かさず続けています。
 それでも、安心して海外へ連れて行けるまでには、なかなか回復しません。

 一方で、ぼくの日程は「激しい」という表現がぴったりくるほどに、ますますタイトになり、母を海外へ連れて行くことは、やはり無理かなとも思いました。

 それでも、ぼくの家族の強力にして明るいバックアップがあり、今回、車椅子ごと英国に連れて行く決心をしたのです。
 それから、ぼくの現在の仕事や立場からすると、まったく仕事から離れる日というのは1年のうち、ただの1日もあり得ないので、最小限度の仕事をしつつ、主には母に海外を安心して体験してもらうことを考えて、日本社会との共通点も少なくない英国行きを選びました。
 時期も、寒い時期ではありますが、諸事情からして、もう今しかありません。

 母を支えるために、大学院生の息子をはじめぼくの家族が2人も、自分たちの予定を犠牲にしつつ同行してくれています。


▼ぼくの母は、ぼくを育てていたころ、毅然と背中を伸ばしたひとでありました。
 文学に造詣もあり、世のことどもを真正面から視ようとするひとでもありました。

 しかし、ぼくは末っ子として18歳で家を出て、近い京都や大阪の大学は選ばずに東京の大学へ行き、就職も、転身も、生家の世話になることなく生きてきました。
 学生時代も、社会人になってからも、どんなに忙しくても、生家にはときどき帰り、親に顔を見せるようにはしてきました。
 それでも、何十年間も、親のふだんの生活ぶりを知らずに来たわけです。

 数十年ぶりに向かいあった80歳代半ばの母は、歩けないだけではなく、いくぶんか、別のひとでもありました。
 ぼくの読者のなかに、まりあっちさんというハンドルネームの女性がいらっしゃって、ひたむきに介護の仕事を続けておられます。
 そのかたの日記を読むのが、まえから好きなのですが、その日記におりおり触れられている高齢者の人格変化というものが、ぼくの母にも、すこし表れています。

 いまの世には、高齢になった家族の深刻な人格変化に塗炭の苦しみを味わっているかたがたも、ほんとうに沢山いらっしゃいます。その苦しみに比べれば、ある意味まだ甘い、さしたることのない変化だと考えますが、はっきりと表れてはいます。


▼母のプライバシーを守るために詳しく書くことは決してしませんが、どんな戦地に行った時も、この英国行きほどには苦闘ではなかったですね。

 母の変化がそれほどに、ひどいという意味ではなく、自分ひとりで自在に戦えばいいのであれば、戦地にいてもどこにいても、さほど苦しくはないのです。
 だけど、みなさんのなかに分かってくれるひとは多いと思いますが、身内のことに神経をすり減らしながら日本と異なる環境と、時差のなかで、いくらか仕事もして、というのは、なかなかに難事です。

 ぼくにとっては、18歳までの自分が抱いていた母のイメージがいくらか変えられてしまう、思いがけない日々でもあり、この感覚だけは、しっかりサポートしてくれる家族にも全部は、やむを得ないこととして、分かりません。
 ぼくが知らなかった母の数十年は、いったいどんな日々だったのかとも思いますが、なによりもやはり年齢、老いというものの、誰にも訪れる凄まじい力なのでしょう。

 いちばん悲しいのは、わけもなく自分自身を被害者にして、同情を買おうとする気配であったりします。
 武家の出のひととして、あれほどに誇り高かったのにと、悔しくて、内心で血の涙のこぼれる気がします。

 それでも、かつての母を彷彿とさせる感受性の豊かな反応を、異国の風物に接して、みせてくれることも、あります。
 わがままも、旅が終わりに近くなっても、決して悪化はしていないのも、素晴らしいと思います。母も、もちろん初の海外で疲れているのだから、わがままがどっと増幅するはずが、必ずしも、そうではありません。

 わが母は、自分の老いと戦っています。
 みずから目覚めて戦っているところも、確かに、あります。
 それはスポーツジムで懸命に、トレーナーの指示に従って足の上げ下げを繰り返す姿とも重なりますし、かつて毅然と戦う母だった、若い姿とも重なります。

 にんげんは、努力次第で、最後の最後までみずみずしく生まれ変われるのではないかという、かすかな希望も、異国の地での老母をみていて感じます。

 ぼく自身も、かつて出張のあいまに訪れた、白鳥の住む農村のバイブリー村を、母の車椅子を押しながら再訪して、俗化しないそのたたずまいに触れ、時の不思議さにふと思いが込みあげたりしています。


▼仕事のほうで言えば、この英国行きは、ずいぶんと前から計画していたのですが、世界金融危機と、それからイスラエルのガザ空爆、侵攻と重なりました。
 英国だけではなく、ポスト・アメリカ時代の役割を模索して苦しむ欧州の気配を、肌身に感じ、眼と耳に取り込んでいます。

 このことは、まだ仕上げ中の(遅れに遅れて申し訳ない)新刊にも役立つし、アンカー(関西テレビ)などを通じた発信にも、役立つように思います。

 そのアンカーなのですが、新年最初の放送日1月7日水曜には、帰国が間に合いません。
 ぼくとしては視聴者にありのままに事情をお話しして、出演をあっさりお休みしたい気持ちもなくはなかったのですが、視聴者の意見や気持ちを汲んだプロデューサーやディレクター陣の求めに応じて、一緒にアイデアを練りました。
 そして与野党のキーマンから3人を選んで、年末に突っ込んだインタビューをやり、それを再構成して年明け7日にVTRで放送することにしました。

 12月26日金曜の早朝から、27日夕刻にかけて、東京、京都、和歌山と走り回って、3人の議員にかなり長い時間のインタビューを行いました。
 3人とは、麻生総理の腹心中の腹心、内閣官房副長官の鴻池さん、民主党の総理候補のひとり、まえの代表でもある前原さん、自民党で「造反組」と名指されている元首相補佐官の世耕さんです。

 驚いたのは、3人ともずいぶんと思い切った答えを、次から次へと発してくれたことです。
 ぼくは20年ほど記者を務めましたから、インタビュー術には当然、ぼくなりのノウハウがありますが、それよりも、やはり今年が何十年に一度の政治の転換期だから、思い切った答えが出てきたと考えています。

 長時間のインタビューのなかでは、鴻池さんには「国を愛する立場に立つ麻生政権がなぜ、あっさりと国籍法の改変を閣議決定してしまったのですか」ということも聞きましたし、前原さんには「なぜ帰化していない外国のひとに地方参政権を認めたいのですか」ということも聞きましたし、世耕さんには「麻生政権への造反者というのは本当ですか。本当なら、たとえば景気対策についてはどんな代案があるのですか」ということも聞きました。

 長いインタビューを短い時間に再構成するのですから、どこがどう残っているのかは分かりません。
 ぼくは番組スタッフではなく、あくまでもひとりの出演者ですから、編集はディレクター陣の権限です。
 それでも、たとえば国籍法をめぐるやりとりは必ず残してくれるよう、そこを削る意欲満々のディレクターに、強く頼み込み、繰り返して頼み込み、ぼくにできることはすべてやりました。
 あとは、編集権のある人々に任せるほかありません。

 もしもよろしければ、7日の放送をごらんください。
 生放送としては、10日の「ぶったま」(関西テレビ)から再びお目にかかります。

 みなさんの新年に、平安がありますように。
 新年の寿ぎがいささかもなかったガザのひとびとを思えば思うほど、そう願います。

 ぼく自身は、ことしも、おのれの平安を求めることはありません。





(写真は、英国の田園地帯にある小さなティールームの暖炉です。ことしの英国はほんとうに寒い。それだけに、暖炉の炎が、いのちの火にみえました)


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