「助っ人ガイジン」日本を語る ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』

2017年07月03日 | ちょっとまじめな話
 「愛国心」は自国文化の相対化から生まれる。

 というのは、前回(→こちら)話した私なりの「国を愛する」ための重要事項である。

 相対化というとこむずかしそうだが、平たく言えば、

 「よそさんから見たら、こう見える」

 という視点を持つことであり、その過程を経ずして「国を愛そう」なんて言っても、ただの偏狭なナルシシズムにすぎず、北朝鮮のニュース映像とさして変わらないのではないかといいたかったわけだ。

 なぜにて私がそう言った複眼的視点が大事だと思ったかといえば、ひとつはこないだも話した「海外旅行」の体験だが、もうひとつ、ある本の存在がある。

 それは、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』。

 野球について書かれた本は数多あるが、この本のユニークなところは、当時のボキャブラリーでいう(今も?)「助っ人外人」を取り上げているところ。

 といっても、「阪神のバースは史上最強」とか「一番のダメ外人はグリーンウェル」みたいな、ファン目線の楽しい野球談議をするわけではない。

 この本が画期的だったのは、「外人」をあつかう視点が、われわれとまったく逆だったこと。

 そう、ふだん我々が批評する対象だった「ガイジン」選手が、日本在住のアメリカ人であるボブさんの綿密な取材に応えて、

 「外国人選手から見たら、ここがヘンだよ日本野球

 について語るという、まさに「文化の相対化」をテーマにした、野球という枠を超えた比較文化論なのである。

 「日本にはベースボールと違った『野球』という競技がある」

 との名言というか、捨て台詞を残して日本を去ったボブ・ホーナーといった、「日本を理解できかった」選手から、ウォーレン・クロマティ―、レオンとレロンのリー兄弟のような、こちらで「レジェンド」ともいえる実績を残した「優良ガイジン」まで、実に幅広い。

 中身といえば、日本野球へのリスペクトありグチありで、いちいち興味深いんだけど、これが読んでいて、ものすごく不思議な気分になるのだ。

 なんというのか、彼ら「ガイジン」の視点から語る日本と日本プロ野球というのが、ものすごく「変」なシロモノだから。

 いや、実際は変でもなんでもなく、むしろ日本人の目から見たら彼らが違和感を感じるところは、こちらからしたら「常識」なんだけど、それを一度「外国人の目線」というフィルターに通してみると、「あれ?」と首をかしげたくなる。

 これって、なんかおかしくね? と。

 たとえば、日本の野球界には「千本ノック」という伝統がある。

 私が通っていた学校でも、野球部はそれこそ毎日やっていたし、昭和の野球漫画にはかならず、ボロボロになるまでノックを受けるシーンがある。

 日本人にとっては、ごくごく普通の練習法。まさに「常識」だが、外国人選手から見ると、これが実に「クレイジー」だという。

 ただただ黙々と単調なノックを受けるだけで、果たして練習になってるのか。それで守備を向上させることよりも「ノックを受ける」ことの方が大事なようで、ひたすらマシンのようにゴロを処理する。

 疲れてゼーゼーいってるのに「千本」終わるまでノックする。そんなバテた状態で練習しても身につかないし、変な形で体が覚えてしまって、むしろマイナスではないか。

 あまつさえ、ノックを終えた監督が、

 「これであいつも、ゴロの心がわかっただろう」

 と悦に入っている。

 え? ゴロの心って、なに?

 ほとんどスピリチュアルの世界だ。わけわからんなーと。

 アメリカと日本を比較して、こういった「つっこみ」が延々と入るわけだ。

 いわれてみて私は、急に自分の足場がぐらつくような不思議な感覚にみまわれたのを憶えている。

 あれ? そう? まあ……そうか……。

 あー、言われてみれば、変なんやなあ、と。

 たしかに「千本ノック」をはじめ、日本の精神主義や「練習のための練習」は改善点も多いところであろう。

 私自身、体育会系のノリが苦手であるし、こういう意味不明の根性論はなじめないが、あらためて「外国人」に語られると、うなずかざるをえないところがある。

 ここでポイントとなるのは、私がこういったことに、「本を読んで初めて変だと思った」こと。

 これは「外国人がいうから正しい」とかそういうことではなく、

 「もともと千本ノックがおかしな風習だと思ってたけど、そんな私ですら外国人にあらためて指摘されるまでは、本当の意味では心の底から『変』だとは実感してなかった」。

 ここなのである。

 本の中では他にも、応援団の熱狂、浪花節が支配する甲子園、通訳の苦労、メジャーに行きたかった男のトラブルなどなど、そのどれもが、

 「われわれにとっては普通だけど、外国人からしたらハッキリと『変』なこと」

 で埋めつくされている。しかもその「つっこみ」が、いちいちそれなりに理にかなっている。

 にもかかわらず、そしてそもそも「日本独特の村の掟」に違和感のあった私ですら、それをそれなりに受け入れていた。

 なぜ? どうして?

 それが「こっちでは、ふつう」だったからだ。

 読み進めると、こちらの「常識」と、むこうの「困惑」が交錯して、しだいにわけがわからなくなってくる。

 なんたって、「常識」と「変」がぶつかり合っている舞台が、「同じ事象」なのだから。

 それが、同じことに向き合ってるのに、視点が逆になるだけで、こんなにもわかりあえず、おたがいがおたがいを拒否し合う。そうして、頭をかかえることになる。

 日本になじめない「ガイジン」と、「ガイジン」を理解できな日本人。

 いったい、正しいこと言ってるのは、どっち? と。

 いや、もしかしたら、どっちもが同じくらい「正し」くて、どっちもが同じくらい「間違って」いるのかもしれない。

 で、この本を読んで私は、つくづく思わされたのだ。

 「自分は日本人なんだなあ」と。


 (続く→こちら




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