カラオケの「無理やり一曲歌わせる」人と、日本人的な同調圧力について 

2017年07月18日 | ちょっとまじめな話
 「愛国心」は自国文化の相対化から生まれる。

 というのは、以前(→こちら)話した私なりの「国を愛する」ための重要事項である。

 相対化というとこむずかしそうだが、平たく言えば、

 「よそさんから見たら、こう見える」

 という視点を持つことであり、その過程を経ずして「国を愛そう」なんて言っても、ただの偏狭なナルシシズムにすぎず、北朝鮮のニュース映像とさして変わらないのではないかといいたかったわけだ。

 こういう話をするとよく、

 「そんな視点いらないよ! 日本人なんだから、日本を愛するのは当然でしょ。なんで外国人の話なんて、聞かなきゃならないの?」

 そう言って反発されたりすることもあって、

 「ほら、やっぱり『愛国』とかいうヤツは偏狭で、怖いんだよ」

 とか拒否反応を示す人もいるかもしれないけど、自分で「相対的視点」とかいいながら、私としては彼らの気持ちもわからなくはないところもある。

 愛国にかぎらず、人は自分が偏愛しているものを、第三者的視点で見られることに警戒する生物なのだから。

 「もしかして、自分たちのやってることって、端から見たらマヌケじゃね?」

 と疑わされるのが怖いから。

 だから愛国心(だけでなく、宗教でも流行ものでもなんでも、なにかを支持する行為)とかっていうのは、ときとして声高で、押しつけがましいものになる。

 基本的に、「熱狂的な支持」=「はたから見るとマヌケ」だから。それがバレたら、目も当てられない。

 これは国を愛することをおかしい、といっているのではなく、そもそも「愛」とか「信仰」「熱狂」というのは、興味のない人からしたらマヌケなもの。

 宗教がからむ紛争や議論、暴力的なフーリガン、アイドル好きの熱狂や宝塚ファン独特の「しきたり」、バブル時代のはしゃぎっぷりなどなど、あげていけば枚挙にいとまがないく、愛国心もまたそこから逃れることはできないのだ。

 だからみな、それを見たくないし、見せようとするやつを憎む。モノマネ芸人を、マネされた本人が嫌がるように。

 いい悪いは別にして、わりと自然なことだとは思う。

 「マヌケが嫌だから、相対化されたくない」

 という心理を、一番わかりやすく体験できるのが、カラオケボックスという存在。

 そこでの「あるある」である、「カラオケ好きは、無理やり人に一曲歌わせる」というのが、まさにそれであろう。

 自分が気持ちよく歌いたいけど、それをクールな視点で見られると(もしくは「見られている」と妄想がわくと)、

 「あたしって、一人で気持ちよくなって、もしかしてマヌケで迷惑って、内心思ってる?」

 そんなザワザワした気持ちになる。

 だから、彼ら彼女らは意識的か無意識かは知らないけど、「おまえも歌えよ」と強要する。

 カラオケが苦手なタイプ(私もそう)には今ひとつ理解しがたいこの行為で、その分自分が一曲でも多く歌えばいいのにと思うけど(実際そうしている人がいるのは「自分に自信がある」「開き直ってる」「そもそも気づいてない」のどれかであろう)、「相対化をこばむ」という視点から見れば、逆にものすごくわかりやすくなる。

 みな、言うまでもなく「歌ってほしい」「キミの声が聞きたい」わけでもない。わざわざ数分の自分が歌うチャンスを棒に振ってまでせまってくるのは、

 「冷めた目で見るなよ。おまえも歌って、オレたちと同じ『マヌケ』になれ

 という命令なのだ。


 (続く→こちら



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