前回(→こちら)に続いて、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』のお話。
この本を読むと、今まで当たり前だった日本が、
「なんか、ウチらって変じゃね?」
そう感じられてきて、困惑すると同時に、すこぶる興味深い。
同時思うことは、
「これで困惑する自分は、何やかや言うても日本人なんやなあ」
前回、私は自分に体育会系的要素はないと書いた。精神論や根性も苦手であるとも。
そんな私ですら、本書を手に取るまで「千本ノック」に、たいして疑問を持たなかった。
それどころか、「ゴロの心」も「甲子園で燃え尽きることが美談」という非人道的な欲求にも、その他ここに書かれている各種の
「日本独特の勝手な思いこみ」
を、100%ではないが、それなりに受け入れていたのだ。
たしかに疑問もあるけど、「日本って、そういうもんや」と。
でもそれって、本当に「常識」なの? そう思ってるの、自分たちだけじゃね?
その、ちょっとした思考の転換。これは、「第三者的視点」なくしては、決して手に入れられないものの見方ではあるまいか。
この本を読んで私は、まさに蒙が啓かれる思いであった。「日本人」と「ガイジン」の、個別のエピソードもそれ自体おもしろいが、それよりもなによりも、
「どんなに自分が『常識』『当たり前』と思っていることも、よそさんからみたら『おかしなこと』かもしれない」
というテーマが、すばらしく心に刺さった。
ものごとを複眼的に見ること。このことによって、世界はより厚みを増してくる。理解の深度が変わってくる。「変」と切り捨てていたことの中に、あらたな思想を見出せる。
なんというおもしろさ。
たとえば、今でいうなら、ワールドカップなどサッカーの大きな大会でよく出てくるネタに、こういうものがある。
「アフリカのチームは勝つために呪術を使う」
多くの場合、これを、あたかもアフリカの後進性のように笑い話にしているが、よその国から見ると、わが大日本帝国スポーツ界の、
「必勝祈願のお参り」
「護摩業でメンタルをきたえる」
という行為も十分「日本は勝つために、呪術に頼っている!」と感じるそうだ。
はー、そら思いつかん。もし「未開国」のスポーツ選手が、オリンピックにそなえて、その土地の宗教的スポットをおとずれたりしたらどうか。
そこで神官に謎の呪文を唱えてもらったり、キャンプファイヤーをし、全身に火ぶくれを作りながら「精神のトレーニング」なんて言おうものなら、きっと我々は「おもしろニュース」として取り上げるにちがいない。
でも、やってること、よそさんから見れば一緒なんやなあ、と。
少なくとも私は外国人から見たら「呪術」に見える「お参り」や「護摩業」を、さほどおかしなこととも思わない。
誤解をしないでほしいが、私は別に
「外国人が言っているからエライ。日本野球(日本文化)はダメだ」
といっているわけではない。
それは外国を踏み台に、「一眼的な日本観」をさかさまにしただけで、あいかわらず同じようなことを言っているだけにすぎない。
「千本ノックはすばらしい」
というのと、
「千本ノックはナンセンス。外国人だって、そういってるぜ」
という意見は、言葉がちがうだけで、「知性の深度」では、さほど変わらないのではなかろうか。どっちもどっち。
この本で学ぶべきことは、どっちがえらいとかではなく、外国人がいってるからこうすべきとか、逆に「ガイジンが上から目線でえらそうに」とか、そう怒ることでもない。
文化というのは、どれだけその人にとって絶対的なことでも、他者の視点により相対化される運命をまぬがれない。
大リーガーから見たら日本は変かもしれないが、こっちだってアメリカを見たら変なところはたくさんある。
すなわち、すべての文化文明は、よそさんからみたら「変」であるということなのだ。そして、それは怒ることでもないし、劣等感を感じることでもない。
もちろん、それで他者を「劣った文化」などとおとしめ、悦に入るのもナンセンスだ。どっちも「変」なんだから。
で、それが「普通のこと」なのだ。だから、われわれもそれを「普通に」受け取ればいい。そのことを、ボブさんの『和をもって日本となす』は教えてくれた。
本書に出会って以来、私はあらゆる事象を信じなくなった。
別にニヒリストを気取っているわけではない。そうではなくて、世の中の「当たり前」や「常識」にいったん「待てしばし」が入るようになったのだ。
だれかが信じていることというのは、もしかしたら、そのだれかの半径数メートルの範囲でしか「当たり前」でないかもしれない。それが世間でまかり通っているのは、それが「正しい」からでなく、その人が
「数が多い」「声が大きい」「戦争に勝った」「今たまたま流行っている」
その程度のことのせいかもしれない。
それがわからないと、人は簡単に視野狭窄になる。
西欧の植民地主義も、アメリカのジャスティスも、ISのテロも、世界の大きな暴力の背景に「相対的視点の欠如」があるような気がする。
私はなにかを愛することを愛する。でもそれが、「よそさんの目」を排した、自己愛の集積しかないとしたら、ちょっとゴメンこうむりたい。
この文章を書くにあたって、『和をもって』を、もう一度読み直してみようとネット書店でさがしていたら、そこのレビューで、
「自分たちが偉いと思いこんだ大リーガーの『上から目線』に腹が立つ」
とあって、つい苦笑いしてしまった。
あー、これこそが「相対化の忌避」であるなあと。
人は他人の呪術は笑うけど、自分がやってることを「呪術じゃん」と指摘されると怒る。ちょっと、フェアではない気がする。
先も書いたが、この本から学ぶべきところは、別に
「外国人がこう言っているから直せ」
ということではない。たしかに「上から目線」に感じることもないわけではないが、そこじゃなくて、何度も言うが、
「よそさんからは、そう見える」
ということなのだ。彼らの意見が「正しい」から聞くのではない。「視点がちがう」から聞くのだ。
オランダのあるラジオ局には、こんなのポリシーがあるという。
「この世には絶対理性は存在しない、すべてが正しく、すべて誤っている」
そう、世界には数学以外100%はない。だから、大事なのは自分の変に「変じゃない!」と向き合わなかったり、「おまえの変を直してやる!」と押しつけたりすることではなく、どっちも変なのだから、それをせいぜい自覚して、「愛される変」を目指すのがよいのではなかろうか。
おたがいに、ね。
(「カラオケと同調圧力」編に続く→こちら)
この本を読むと、今まで当たり前だった日本が、
「なんか、ウチらって変じゃね?」
そう感じられてきて、困惑すると同時に、すこぶる興味深い。
同時思うことは、
「これで困惑する自分は、何やかや言うても日本人なんやなあ」
前回、私は自分に体育会系的要素はないと書いた。精神論や根性も苦手であるとも。
そんな私ですら、本書を手に取るまで「千本ノック」に、たいして疑問を持たなかった。
それどころか、「ゴロの心」も「甲子園で燃え尽きることが美談」という非人道的な欲求にも、その他ここに書かれている各種の
「日本独特の勝手な思いこみ」
を、100%ではないが、それなりに受け入れていたのだ。
たしかに疑問もあるけど、「日本って、そういうもんや」と。
でもそれって、本当に「常識」なの? そう思ってるの、自分たちだけじゃね?
その、ちょっとした思考の転換。これは、「第三者的視点」なくしては、決して手に入れられないものの見方ではあるまいか。
この本を読んで私は、まさに蒙が啓かれる思いであった。「日本人」と「ガイジン」の、個別のエピソードもそれ自体おもしろいが、それよりもなによりも、
「どんなに自分が『常識』『当たり前』と思っていることも、よそさんからみたら『おかしなこと』かもしれない」
というテーマが、すばらしく心に刺さった。
ものごとを複眼的に見ること。このことによって、世界はより厚みを増してくる。理解の深度が変わってくる。「変」と切り捨てていたことの中に、あらたな思想を見出せる。
なんというおもしろさ。
たとえば、今でいうなら、ワールドカップなどサッカーの大きな大会でよく出てくるネタに、こういうものがある。
「アフリカのチームは勝つために呪術を使う」
多くの場合、これを、あたかもアフリカの後進性のように笑い話にしているが、よその国から見ると、わが大日本帝国スポーツ界の、
「必勝祈願のお参り」
「護摩業でメンタルをきたえる」
という行為も十分「日本は勝つために、呪術に頼っている!」と感じるそうだ。
はー、そら思いつかん。もし「未開国」のスポーツ選手が、オリンピックにそなえて、その土地の宗教的スポットをおとずれたりしたらどうか。
そこで神官に謎の呪文を唱えてもらったり、キャンプファイヤーをし、全身に火ぶくれを作りながら「精神のトレーニング」なんて言おうものなら、きっと我々は「おもしろニュース」として取り上げるにちがいない。
でも、やってること、よそさんから見れば一緒なんやなあ、と。
少なくとも私は外国人から見たら「呪術」に見える「お参り」や「護摩業」を、さほどおかしなこととも思わない。
誤解をしないでほしいが、私は別に
「外国人が言っているからエライ。日本野球(日本文化)はダメだ」
といっているわけではない。
それは外国を踏み台に、「一眼的な日本観」をさかさまにしただけで、あいかわらず同じようなことを言っているだけにすぎない。
「千本ノックはすばらしい」
というのと、
「千本ノックはナンセンス。外国人だって、そういってるぜ」
という意見は、言葉がちがうだけで、「知性の深度」では、さほど変わらないのではなかろうか。どっちもどっち。
この本で学ぶべきことは、どっちがえらいとかではなく、外国人がいってるからこうすべきとか、逆に「ガイジンが上から目線でえらそうに」とか、そう怒ることでもない。
文化というのは、どれだけその人にとって絶対的なことでも、他者の視点により相対化される運命をまぬがれない。
大リーガーから見たら日本は変かもしれないが、こっちだってアメリカを見たら変なところはたくさんある。
すなわち、すべての文化文明は、よそさんからみたら「変」であるということなのだ。そして、それは怒ることでもないし、劣等感を感じることでもない。
もちろん、それで他者を「劣った文化」などとおとしめ、悦に入るのもナンセンスだ。どっちも「変」なんだから。
で、それが「普通のこと」なのだ。だから、われわれもそれを「普通に」受け取ればいい。そのことを、ボブさんの『和をもって日本となす』は教えてくれた。
本書に出会って以来、私はあらゆる事象を信じなくなった。
別にニヒリストを気取っているわけではない。そうではなくて、世の中の「当たり前」や「常識」にいったん「待てしばし」が入るようになったのだ。
だれかが信じていることというのは、もしかしたら、そのだれかの半径数メートルの範囲でしか「当たり前」でないかもしれない。それが世間でまかり通っているのは、それが「正しい」からでなく、その人が
「数が多い」「声が大きい」「戦争に勝った」「今たまたま流行っている」
その程度のことのせいかもしれない。
それがわからないと、人は簡単に視野狭窄になる。
西欧の植民地主義も、アメリカのジャスティスも、ISのテロも、世界の大きな暴力の背景に「相対的視点の欠如」があるような気がする。
私はなにかを愛することを愛する。でもそれが、「よそさんの目」を排した、自己愛の集積しかないとしたら、ちょっとゴメンこうむりたい。
この文章を書くにあたって、『和をもって』を、もう一度読み直してみようとネット書店でさがしていたら、そこのレビューで、
「自分たちが偉いと思いこんだ大リーガーの『上から目線』に腹が立つ」
とあって、つい苦笑いしてしまった。
あー、これこそが「相対化の忌避」であるなあと。
人は他人の呪術は笑うけど、自分がやってることを「呪術じゃん」と指摘されると怒る。ちょっと、フェアではない気がする。
先も書いたが、この本から学ぶべきところは、別に
「外国人がこう言っているから直せ」
ということではない。たしかに「上から目線」に感じることもないわけではないが、そこじゃなくて、何度も言うが、
「よそさんからは、そう見える」
ということなのだ。彼らの意見が「正しい」から聞くのではない。「視点がちがう」から聞くのだ。
オランダのあるラジオ局には、こんなのポリシーがあるという。
「この世には絶対理性は存在しない、すべてが正しく、すべて誤っている」
そう、世界には数学以外100%はない。だから、大事なのは自分の変に「変じゃない!」と向き合わなかったり、「おまえの変を直してやる!」と押しつけたりすることではなく、どっちも変なのだから、それをせいぜい自覚して、「愛される変」を目指すのがよいのではなかろうか。
おたがいに、ね。
(「カラオケと同調圧力」編に続く→こちら)