「助っ人ガイジン」日本を語る ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 その2

2017年07月04日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)に続いて、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』のお話。

 この本を読むと、今まで当たり前だった日本が、

 「なんか、ウチらって変じゃね?」

 そう感じられてきて、困惑すると同時に、すこぶる興味深い。

 同時思うことは、

 「これで困惑する自分は、何やかや言うても日本人なんやなあ」

 前回、私は自分に体育会系的要素はないと書いた。精神論や根性も苦手であるとも。

 そんな私ですら、本書を手に取るまで「千本ノック」に、たいして疑問を持たなかった。

 それどころか、「ゴロの心」も「甲子園で燃え尽きることが美談」という非人道的な欲求にも、その他ここに書かれている各種の

 「日本独特の勝手な思いこみ」

 を、100%ではないが、それなりに受け入れていたのだ。

 たしかに疑問もあるけど、「日本って、そういうもんや」と。

 でもそれって、本当に「常識」なの? そう思ってるの、自分たちだけじゃね?

 その、ちょっとした思考の転換。これは、「第三者的視点」なくしては、決して手に入れられないものの見方ではあるまいか。

 この本を読んで私は、まさに蒙が啓かれる思いであった。「日本人」と「ガイジン」の、個別のエピソードもそれ自体おもしろいが、それよりもなによりも、

 「どんなに自分が『常識』『当たり前』と思っていることも、よそさんからみたら『おかしなこと』かもしれない」

 というテーマが、すばらしく心に刺さった。

 ものごとを複眼的に見ること。このことによって、世界はより厚みを増してくる。理解の深度が変わってくる。「変」と切り捨てていたことの中に、あらたな思想を見出せる。

 なんというおもしろさ。

 たとえば、今でいうなら、ワールドカップなどサッカーの大きな大会でよく出てくるネタに、こういうものがある。

 「アフリカのチームは勝つために呪術を使う」

 多くの場合、これを、あたかもアフリカの後進性のように笑い話にしているが、よその国から見ると、わが大日本帝国スポーツ界の、

 「必勝祈願のお参り」

 「護摩業でメンタルをきたえる」

 という行為も十分「日本は勝つために、呪術に頼っている!」と感じるそうだ。

 はー、そら思いつかん。もし「未開国」のスポーツ選手が、オリンピックにそなえて、その土地の宗教的スポットをおとずれたりしたらどうか。

 そこで神官に謎の呪文を唱えてもらったり、キャンプファイヤーをし、全身に火ぶくれを作りながら「精神のトレーニング」なんて言おうものなら、きっと我々は「おもしろニュース」として取り上げるにちがいない。

 でも、やってること、よそさんから見れば一緒なんやなあ、と。

 少なくとも私は外国人から見たら「呪術」に見える「お参り」や「護摩業」を、さほどおかしなこととも思わない。

 誤解をしないでほしいが、私は別に

 「外国人が言っているからエライ。日本野球(日本文化)はダメだ」

 といっているわけではない。

 それは外国を踏み台に、「一眼的な日本観」をさかさまにしただけで、あいかわらず同じようなことを言っているだけにすぎない。

 「千本ノックはすばらしい」

 というのと、

 「千本ノックはナンセンス。外国人だって、そういってるぜ」

 という意見は、言葉がちがうだけで、「知性の深度」では、さほど変わらないのではなかろうか。どっちもどっち。 

 この本で学ぶべきことは、どっちがえらいとかではなく、外国人がいってるからこうすべきとか、逆に「ガイジンが上から目線でえらそうに」とか、そう怒ることでもない。

 文化というのは、どれだけその人にとって絶対的なことでも、他者の視点により相対化される運命をまぬがれない。

 大リーガーから見たら日本は変かもしれないが、こっちだってアメリカを見たら変なところはたくさんある。

 すなわち、すべての文化文明は、よそさんからみたら「変」であるということなのだ。そして、それは怒ることでもないし、劣等感を感じることでもない。

 もちろん、それで他者を「劣った文化」などとおとしめ、悦に入るのもナンセンスだ。どっちも「変」なんだから。

 で、それが「普通のこと」なのだ。だから、われわれもそれを「普通に」受け取ればいい。そのことを、ボブさんの『和をもって日本となす』は教えてくれた。

 本書に出会って以来、私はあらゆる事象を信じなくなった。

 別にニヒリストを気取っているわけではない。そうではなくて、世の中の「当たり前」や「常識」にいったん「待てしばし」が入るようになったのだ。

 だれかが信じていることというのは、もしかしたら、そのだれかの半径数メートルの範囲でしか「当たり前」でないかもしれない。それが世間でまかり通っているのは、それが「正しい」からでなく、その人が

 「数が多い」「声が大きい」「戦争に勝った」「今たまたま流行っている」

 その程度のことのせいかもしれない。

 それがわからないと、人は簡単に視野狭窄になる。

 西欧の植民地主義も、アメリカのジャスティスも、ISのテロも、世界の大きな暴力の背景に「相対的視点の欠如」があるような気がする。

 私はなにかを愛することを愛する。でもそれが、「よそさんの目」を排した、自己愛の集積しかないとしたら、ちょっとゴメンこうむりたい。

 この文章を書くにあたって、『和をもって』を、もう一度読み直してみようとネット書店でさがしていたら、そこのレビューで、


 「自分たちが偉いと思いこんだ大リーガーの『上から目線』に腹が立つ」


 とあって、つい苦笑いしてしまった。
 
 あー、これこそが「相対化の忌避」であるなあと。

 人は他人の呪術は笑うけど、自分がやってることを「呪術じゃん」と指摘されると怒る。ちょっと、フェアではない気がする。

 先も書いたが、この本から学ぶべきところは、別に

 「外国人がこう言っているから直せ」

 ということではない。たしかに「上から目線」に感じることもないわけではないが、そこじゃなくて、何度も言うが、

 「よそさんからは、そう見える」

 ということなのだ。彼らの意見が「正しい」から聞くのではない。「視点がちがう」から聞くのだ。

 オランダのあるラジオ局には、こんなのポリシーがあるという。


 「この世には絶対理性は存在しない、すべてが正しく、すべて誤っている」


 そう、世界には数学以外100%はない。だから、大事なのは自分の変に「変じゃない!」と向き合わなかったり、「おまえの変を直してやる!」と押しつけたりすることではなく、どっちも変なのだから、それをせいぜい自覚して、「愛される変」を目指すのがよいのではなかろうか。

 おたがいに、ね。


 (「カラオケと同調圧力」編に続く→こちら




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