カラオケの「無理やり一曲歌わせる」人と、日本人的な同調圧力について その2

2017年07月19日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 「愛国心」に「自己の相対化」は必要だと私は思うんだけど、この作業を嫌う人は多い。

 わかりやすいところでは前回も言ったカラオケで、

 「一曲だけでも」

 と嫌がる人に無理強いするのは、もちろんのこと好奇心でも親切心でもなく、

 「自分が熱狂しているところを、横にいて冷めた目で見られたくない」。

 そんな心根の表れなのだ。だから、

 「そうできないように、おまえも同じ穴のムジナになれ

 こういう命令なのである。だから、むこうはむやみと必死に「おまえもやれ」と押しつけてくる。
 
 自分の熱狂に「興味がない人」がいることが不安だから。

 これは突き詰めていくと、思った以上に根の深い問題で、極北まで行けば、たまにある体育会系の集団レイプ事件とかも同じ心理であろう。

 この手の事件を調べると、よく体育会系が裸を好む傾向にあるとか、軍隊における捕虜虐待などと比較して、


 「同じ罪や恥を共有することによって、集団内の絆を深める」


 などと解説されたりするが、そういう「アップ」な部分とともに、「強要」することにより「相対的視野」を防ぐ「ダウン」の効果もあるのだろう。

 具体的にいえば「密告」や「脱走」を封じるためだ。

 「罪人」は裏切ることができない。そうすると、自らが糾弾されるから。

 おまえが言っても、説得力ねーよ、と。

 一番効果的な忠誠心の確保だ。「おまえも同罪だぞ」と。他人事みたいな目で見るなよ、と。

 昔の中国のマフィアは、仲間に皆と同じ刺青を入れさせたそうだが、そういうことなのである。

 「絆」に興味がない人を、同じ罪を負わせることにより、取りこんで「排除」するわけだ。

 カラオケと同じ。だからこれは、特に「体育会系」の問題でもない。まあ、体育会系はより圧が強い傾向はあるだろうけど、われわれだって日常でやっているではないか。

 「空気読め」

 日本人が愛し、ある意味ではこの国の秩序の根幹を形成し、同時に大いに悩まされ、民族病ともいえる「同調圧力」という言葉。

 これも、まさにその相対化の忌避のあらわれであるといえよう。「こっちは多数派。だから正しいのだ」という「マジョリティーの数の暴力」で責めたて、同化を強要する。

 「愛国」でも「飲み会の誘い」でも「サービス残業」でも「運動会でクラス一丸」でも「伝統の継承」でも、「みなと同じようにふるまえ」「和を乱すな」というのは、そういう人がいると、みな


 「自分たちがやっていることは、はたから見ればおかしいのではないか?」

 「自主的にふるまっているつもりだけど、本当はイヤだっていう本音をむりやり変換しているだけではないか?」

 「もしかしたら他にはもっと楽しいことがあって、自分だけ損してるのでないか?」

 
 そうやって、心の平安を乱されるからだ。

 このザワザワ感は単なるイヤな気分ではなく、解消するのに「他者への干渉」が必要なことから、おそらくは「いじめ」「差別」「隔離」、果ては戦争や虐殺にすらつながる、あなどれない感情だと個人的には思っている。

 小難しい理屈よりも、わかりやすいと思ったのは、ミステリ作家である芦辺拓先生のあるツイート。

 「歴史好きは大学で歴史を学ばないほうがいい」というブログ記事に対して、


 「好きなことは仕事にするな」「好きな相手とは結婚するな」に続いて「好きなものは学問として学ぶな」ですか。もうええかげんにせぇよ。そんなに他人の人生が楽しかったり面白かったりするのがいやか

 
 とつぶやいておられたが、まさにしかり。

 もちろん、芦辺先生も答えはわかって言っているのだ。

 「いやか」と問われれば答えはこうだろう。

 「イヤに決まってんじゃん!」
 
 「自分の意志」で同調圧力に乗っからない人は、単なる拒否の不快だけでなく、今の自分よりも「他人の人生が楽しかったり面白かったりする」のではないかというおそれを喚起させる。その意味で、人の幸福感を損なう。

 「ふーん。でも、こっちはこっちで、もっと楽しくやってるけどね。ま、がんばってよ」

 とか思われたくない。軽く見られたくない。妄想かもしれないけど(実際、多くは妄想なのだろう)「今の自分より、より良い世界を自由に生きる人」など見たくない。

 ましてやそんな連中に、「なんでそんなことやってんの?」という冷めた目で見られたくない。自分はマヌケではないのだ。

 ゆえに、「排除すべき敵」。

 「相対化の忌避」とは、こういうことなのである。

 「よりよいかもしれない、よそさん」がいたら、そら何らかの手段で「つぶしにかかる」という心理が働くのは、当然といえば当然だろう。

 とにかく人は、「相対化」をこばむというのは、子供のころから強く感じていることだった。

 ただ個人的には、だからといってそのことで他人に干渉したり、生き方を否定したり、同調圧力で「相手の幸福値を減らそう」とする行為は「みっともないな」とも思う。

 ほっておいてやればいいのに。自分の自信の無さや、エゴイスティックな心の平安のために、他者の足をひっぱるのって不毛だし、ましてやそこに「正義」「愛」「一体感」「場の空気」なんていう、一見美しく聞こえる「恫喝」を持ちこむのは、それこそ卑怯未練というものだ。

 人になにかを強いることによってではなく、自らが心から愛してる、信じていると言えるだけの「意志」と「知性」を身につけたとき、はじめてその人のなにかを「愛する」心が尊ばれるのではないか。

 よそさんの視点も内包し、「おまえも歌え」なしの愛こそが、真の大人の愛である。

 私はそう思っているのである。





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