ベルトルト・ブレヒト『ガリレオの生涯』と枝雀落語で泣いてしまった男 その2

2016年04月24日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 「泣ける話」に泣けない私が、桂枝雀師匠の落語を聞いて、なぜかブワッと涙が吹き出してきた。

 爆笑噺で大号泣。これには厚切りジェイソンならずとも「ホワイ、ジャパニーズピーポー!」だろうが、私には妙な癖があり、小説でも映画でもお芝居でも、ハイレベルな芸の上に成り立つ楽しいもの、笑えるもの、愉快なものに接すると、感動のあまり泣いてしまう。

 学生時代、ビリー・ワイルダー監督の『あなただけ今晩は』を観て、そのあまりの楽しさに深夜ボロボロ泣いてしまったし、近鉄小劇場で観たアラン・エイクボーン『パパに乾杯』(原題『Relatively Speaking』)も、劇場を出たあとオイオイ泣いてしまった。

 エイクボーンのお芝居など、本当にただの喜劇というか、ストーリーだけ取り出すと

 「若い恋人グレッグとジニーは結婚することになるが、グレッグが「キミのお父さんにあいさつに行きたい」といいだしたからさあ大変。実は彼が恋人の父親だと思いこんでいるのはジニーの浮気相手であり、しかも妻子持ちの男。ジニーはあの手この手でグレッグをごまかそうとするが……」

 という、いわゆる「ウェルメイド・プレイ」であり、泣く要素などまったくといっていいほどないコメディーだ。

 それでも泣いた。あまりの感動で号泣して、次の日の公演も観に行ったくらいだ。

 でもって、また泣いた。隣の席にいた人は、「コメディーやのに、なんやこの人?」と、さぞや不気味に感じていただろうが、それでも止めることができなかった。

 レイ・クーニーの『ラン・フォー・ユア・ワイフ』でも泣いた。二ール・サイモンの『映画に出たい!』でも泣いた。フランツ・モルナールの喜劇でも。

 それと同じ涙が、枝雀師匠の落語を聴いて吹き出してきた。

 その理由はなんなのかと嗚咽しながら想像してみると、それはやはり「生きることの苦痛の軽減」についてのことではないか。

 創作や表現というのは、なんのために存在するのか。

 すぐれた詩や小説、マンガに映画に舞台に絵画、喜劇悲劇、漫談落語。こういったものの役割といえば、人によっては自己表現の手段であり、また商売でもあるが、それよりもなによりも

 「だれかを幸せにすること」

 である。

 歌でもダンスでも、コントでもものまねでもいい。この世にある創造物はみなすべて、どこかにいる誰かを幸せにするために存在する。

 もっと散文的にいえば「生きることの苦痛の軽減」のためだ。

 ベルトルト・ブレヒトの『ガリレオの生涯』で、ガリレオ・ガリレイは弟子にこう問う。

 「すぐれた科学技術の役割とは何か?」

 真理の追求か、それとも金と名誉か、否、違う。答えは、


 「科学の唯一の目的は、人間の生存のつらさを軽くすることにある」


 これはおそらく、人間が開発するもの全部が同じ解答を持っているのだろう。詩も、音楽も、喜劇も、哲学、数学、家族も性愛も嘘も真実も、そのすべてがひとつのゴールに向かって走ることを決められている。

 私が無信仰なうえ、あれだけの戦争や悲劇を起こしているにもかかわらず、宗教をどうしても否定できないのは、それがもっとも人にとって根源的な「生きるつらさ軽減アイテム」だからだ。

 そのことに思いをはせるからこそ、私は喜劇で泣く。笑いというのは、宗教に続く、もっとも強力な「生きるつらさ軽減アイテム」なのだから。

 枝雀師匠はそのパワフルでどこまでも楽しい落語でもって、圧倒的な量の笑いを生み出す。その爆弾でも破裂したような笑い声の、なんと幸福そうなことであることよ。

 笑いというのは、素晴らしき人生を生み出す錬金術だ。そのはなれわざを、あざやかに演じてみせる。
 
 かつて松本清張先生はおっしゃった。


 「われわれ推理作家がすべき仕事というのは、結局だれかの眠れない夜をなぐさめることなんですよね」



 言っていることはみな同じだ。

 私もまた多くの物語や音楽に、眠れない夜をなぐさめられた。

 生きることのむずかしさを、解決はしてくれなくても、その心にしっとりと沁みこみ、痛苦を少しだけやわらげてくれた。私の涙は、それへの感謝と崇拝のためにある。

 私もそれにあやかりたい。そして、その数えきれない幾多の夜の恩返しがしたい。

 人が生きる目的は、だれかから受け取ったバトンを、それを待つ次の人へと渡していくことだ。

 だから私は今日も、だれも読まないであろう笑かし文章を書いて、見も知らない誰かの夜のために、せっせと更新を続ける。





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