今日の東京新聞に「筒美京平さんを悼む 田家秀樹」と署名入りの記事が載っていた。末尾に(たけ・ひでき=音楽評論家)の記述がある。彼は、私の三鷹高校時代の同級生である。
「田家」は、多くは「たや」と読む場合が多く、授業初めの出席点呼で、「たや、たや」といつも呼ばれていたので、「たやではありません。たけです」と返事をしていたことが、忘れられない思い出として残っている。
田家君は、中央大学法学部に入ったと記憶していた。当時はとても理屈ぽかったので弁護士にでもなるかと思っていた。ところが、人づてに、今は音楽評論家をしていると聞いて、びっくりしたものだ。
高校時代は、三鷹市に家のある友人の家に集まって、いろいろ話をしていた。話題は、いつも音楽のことだった。私は、ほとんど関心はなかったのだが、いつも脇で黙って聞いていた。当時は、アメリカで一番人気のあったエルビス・プレスリーの話ばかりだったのを覚えている。私は、ほとんど興味がなかったが、あまり、プレスリー、プレスリーと言うものだから、自然と覚えてしまった。
私の高校時代の同級生に、異色の友人がいるのがうれしい。
「田家」は、多くは「たや」と読む場合が多く、授業初めの出席点呼で、「たや、たや」といつも呼ばれていたので、「たやではありません。たけです」と返事をしていたことが、忘れられない思い出として残っている。
田家君は、中央大学法学部に入ったと記憶していた。当時はとても理屈ぽかったので弁護士にでもなるかと思っていた。ところが、人づてに、今は音楽評論家をしていると聞いて、びっくりしたものだ。
高校時代は、三鷹市に家のある友人の家に集まって、いろいろ話をしていた。話題は、いつも音楽のことだった。私は、ほとんど関心はなかったのだが、いつも脇で黙って聞いていた。当時は、アメリカで一番人気のあったエルビス・プレスリーの話ばかりだったのを覚えている。私は、ほとんど興味がなかったが、あまり、プレスリー、プレスリーと言うものだから、自然と覚えてしまった。
私の高校時代の同級生に、異色の友人がいるのがうれしい。
東京新聞は、「菅首相と翁長前知事」と題して、4回シリーズで報道してきた。菅氏と翁長氏は、1970年代に、同じ法政大学に学んだ。菅氏は、横浜市議、衆議院議員、総務相、官房長官、そして首相となった。翁長氏は、那覇市議、自民党沖縄県連幹事長、沖縄県知事と歩んだ人だ。しかし、沖縄辺野古基地建設で、相容れないほどの対立をした。
その違いを、「識者がみた菅政治」として、3人の方が語っている。宮城大蔵・上智大学教授発言を紹介したい。
手練手管で解決図れず
宮城大蔵・上智大学教授
菅氏は政権交代時代の政治家と言える。かっての自民党にはもっと節度があったという声もあるが、それは政権交代に脅かされていなかったから。自民党が野党に転落した強烈な経験があったからこそ、反対派を執拗につぶしていく切迫感のようなものがある。
菅氏は水面下で手練手管を駆使して解決を図るのが政治であり、また揺らいだら負けだと考えている節がある。いくら選挙で沖縄で民意が示されても対応を変えず、諦めを誘う政治手法だ。
国家像がないといわれるが、換言すると戦術はあるが戦略はない。辺野古への移設が自己目的化しており、これだけの巨費を投じ、分断を引き起こす新基地が20年後に本当に必要かという大きな発想がない。
辺野古移設は、こうした菅氏の政治手法とは最も相性のよくない課題であり、沖縄基地問題がこじれている要因だろう。
その違いを、「識者がみた菅政治」として、3人の方が語っている。宮城大蔵・上智大学教授発言を紹介したい。
手練手管で解決図れず
宮城大蔵・上智大学教授
菅氏は政権交代時代の政治家と言える。かっての自民党にはもっと節度があったという声もあるが、それは政権交代に脅かされていなかったから。自民党が野党に転落した強烈な経験があったからこそ、反対派を執拗につぶしていく切迫感のようなものがある。
菅氏は水面下で手練手管を駆使して解決を図るのが政治であり、また揺らいだら負けだと考えている節がある。いくら選挙で沖縄で民意が示されても対応を変えず、諦めを誘う政治手法だ。
国家像がないといわれるが、換言すると戦術はあるが戦略はない。辺野古への移設が自己目的化しており、これだけの巨費を投じ、分断を引き起こす新基地が20年後に本当に必要かという大きな発想がない。
辺野古移設は、こうした菅氏の政治手法とは最も相性のよくない課題であり、沖縄基地問題がこじれている要因だろう。