道徳は人間関係を円滑にするための技術だ
そう考えれば、つまり道徳は、自分が生きている社会の中で、都合良く生きていくためのひとつのルール。あるいは都合良く生きていくための術(すべ)でしかないということになる。
道徳と良心を混同してはいけない。
道徳と良心は別のものだ。
芥川龍之介がいったように「良心は道徳を造るかもしれぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造ったことはない」のだ。
だから勘違いしないでほしい。良心は技術だなんていっているわけではない。俺はあくまでも道徳の話をしている。
たとえば、道徳の教科書で、小学一年生に真っ先に教えるあいさつにしても。
朝、誰かに会ったら、「おはようございます」とあいさつをしましょう。あいさつをすると自分も相手もいい気持ちになる。円滑な人間関係のためには、まずあいさつを覚えましょうというわけだ。
それは間違ってはいない。俺も、弟子にはあいさつと礼儀だけは、厳しく教える。
だけどそうするのは、弟子を良心的な人間にしよとしているからではない。
芸人として生きていくには、円滑な人間関係は欠かせない。だから、あいさつはきちんとしなきゃいけないと教える。それは弟子の良心となんの関係もないことだ。
良心は人間にとって大切なものだと思うけれど、あいさつをいくらしたって、良心が発達するわけではない。
たしかに、朝誰かに会って、「おはよう」とあいさつをかわすのは、いい習慣だと思う。気持ちのいいあいさつをされると、なぜだかわからないが、世界がその分だけ優しくなったような感じがする。
外国に行ったときに感じるのは、特に欧米人は、日本人より頻繁にあいさつをかわすということだ。ホテルなんかで、朝すれ違うとき、ぜんぜん知らない同士なのに、「モーニング」なんて声をかけあう。エレベーターに乗り合わせても、目が合うと「ハイ!」なんていう。
あれは悪くない。「さすが外国人。日本とはちがうなあ」と、はじめて外国に行ったときには思ったものだ。
だけど、よく考えてみれば、あれは一種のメッセージというか、自分の身を守るための技術なんだと思う。握手というのは、元々は右手には武器は隠し持っていませんよと相手に伝えるためだという話があるけれど、欧米でのあいさつはそれに似ている気がする。
あいさつをすることで、「自分は危険人物じゃないですよ。泥棒でもないひったくりでもない、普通のいい人ですよ」ということをお互い伝え合っているのだ。
エレベーターの中であいさつをされたときに、何も言葉を返さず、笑いもせず、じっと相手を見つめたら、たちまち不穏な空気が流れるに違いない。「あれ、こいつは危険な人間かもしれない」と、身構える奴もいるだろう。危ない目にあわないように、エレベーターを降りてしまう人だっているかもしれない。
つまり、欧米では、見知らぬ人間は、基本的には自分の危険を及す可能性のある人間だというのが前提で、そうではないということを相手に示すために、あいさつをしているんじゃないだろうか。いや、あくまでも俺がそう感じるということだけど。
日本でのあいさつの意味は、ちょっと違う気がする。
日本人にとってのあいさつは、相手を知っているとか、自分は相手よりも目下だとか、目上だとかを確認するためにするものという意味合いが強い。だから、見知らぬ相手とは、基本的にはあいさつをかわさない。日本は治安がいいから、通りの向こうから歩いてくる人間を警戒する必要がないっていう事情もあるだろうけれども。
日本でも場所によっては見知らぬ同士でも、あいさつをかわす。
たとえば、山登りなんかですれ違うとき。人里離れた山奥で、見知らぬ人間がやってきたら、誰だって警戒するだろう。その警戒をとくために、山じゃ知らない同士でもあいさつをかわあすんじゃなかろうか。もちろんそうすることで、同じ山に登っている仲間だっていう愛情をかわしたり、互いの無事を確認するためのひとつの技術だ。
そう割り切ってしまった方が、子どもたちも道徳の授業をもう少し真剣にきくようになるかもしれない。良心を育てるために、道徳の授業があるわけではない。
道徳を、身につけるのは、人生を生きやすくするためだ。
(注)私も北野武氏の話の方が、文部省の道徳教科書より、数段、説得力があると思う。
そう考えれば、つまり道徳は、自分が生きている社会の中で、都合良く生きていくためのひとつのルール。あるいは都合良く生きていくための術(すべ)でしかないということになる。
道徳と良心を混同してはいけない。
道徳と良心は別のものだ。
芥川龍之介がいったように「良心は道徳を造るかもしれぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造ったことはない」のだ。
だから勘違いしないでほしい。良心は技術だなんていっているわけではない。俺はあくまでも道徳の話をしている。
たとえば、道徳の教科書で、小学一年生に真っ先に教えるあいさつにしても。
朝、誰かに会ったら、「おはようございます」とあいさつをしましょう。あいさつをすると自分も相手もいい気持ちになる。円滑な人間関係のためには、まずあいさつを覚えましょうというわけだ。
それは間違ってはいない。俺も、弟子にはあいさつと礼儀だけは、厳しく教える。
だけどそうするのは、弟子を良心的な人間にしよとしているからではない。
芸人として生きていくには、円滑な人間関係は欠かせない。だから、あいさつはきちんとしなきゃいけないと教える。それは弟子の良心となんの関係もないことだ。
良心は人間にとって大切なものだと思うけれど、あいさつをいくらしたって、良心が発達するわけではない。
たしかに、朝誰かに会って、「おはよう」とあいさつをかわすのは、いい習慣だと思う。気持ちのいいあいさつをされると、なぜだかわからないが、世界がその分だけ優しくなったような感じがする。
外国に行ったときに感じるのは、特に欧米人は、日本人より頻繁にあいさつをかわすということだ。ホテルなんかで、朝すれ違うとき、ぜんぜん知らない同士なのに、「モーニング」なんて声をかけあう。エレベーターに乗り合わせても、目が合うと「ハイ!」なんていう。
あれは悪くない。「さすが外国人。日本とはちがうなあ」と、はじめて外国に行ったときには思ったものだ。
だけど、よく考えてみれば、あれは一種のメッセージというか、自分の身を守るための技術なんだと思う。握手というのは、元々は右手には武器は隠し持っていませんよと相手に伝えるためだという話があるけれど、欧米でのあいさつはそれに似ている気がする。
あいさつをすることで、「自分は危険人物じゃないですよ。泥棒でもないひったくりでもない、普通のいい人ですよ」ということをお互い伝え合っているのだ。
エレベーターの中であいさつをされたときに、何も言葉を返さず、笑いもせず、じっと相手を見つめたら、たちまち不穏な空気が流れるに違いない。「あれ、こいつは危険な人間かもしれない」と、身構える奴もいるだろう。危ない目にあわないように、エレベーターを降りてしまう人だっているかもしれない。
つまり、欧米では、見知らぬ人間は、基本的には自分の危険を及す可能性のある人間だというのが前提で、そうではないということを相手に示すために、あいさつをしているんじゃないだろうか。いや、あくまでも俺がそう感じるということだけど。
日本でのあいさつの意味は、ちょっと違う気がする。
日本人にとってのあいさつは、相手を知っているとか、自分は相手よりも目下だとか、目上だとかを確認するためにするものという意味合いが強い。だから、見知らぬ相手とは、基本的にはあいさつをかわさない。日本は治安がいいから、通りの向こうから歩いてくる人間を警戒する必要がないっていう事情もあるだろうけれども。
日本でも場所によっては見知らぬ同士でも、あいさつをかわす。
たとえば、山登りなんかですれ違うとき。人里離れた山奥で、見知らぬ人間がやってきたら、誰だって警戒するだろう。その警戒をとくために、山じゃ知らない同士でもあいさつをかわあすんじゃなかろうか。もちろんそうすることで、同じ山に登っている仲間だっていう愛情をかわしたり、互いの無事を確認するためのひとつの技術だ。
そう割り切ってしまった方が、子どもたちも道徳の授業をもう少し真剣にきくようになるかもしれない。良心を育てるために、道徳の授業があるわけではない。
道徳を、身につけるのは、人生を生きやすくするためだ。
(注)私も北野武氏の話の方が、文部省の道徳教科書より、数段、説得力があると思う。