雪月花 季節を感じて

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遊洛とはずがたり 四 『平家物語』 をたずねて

2008年08月15日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 四 『平家物語』 をたずねて

 『平家物語』が好き。八年前の五月、放火による大原寂光院の本堂焼失という衝撃的なニュースは忘れない。再建されたお堂を拝するべく、旅のおわりに平家滅亡後の建礼門院の隠棲地を訪ねることにした。


 三尾は京の町からそう離れていず、「京に田舎あり」の感がつよいが、大原はいまなお「かくれ里」の趣きがある。車道がなければ、黒木をかついだ大原女が歩いていてもおかしくないようにおもわれる。

 乗客のほとんどはバスを降りるといっせいに三千院をめざす。が、わたしたちは反対方向の寂光院へ。谷川づたいにみやげ物店のつらなる三千院の参道とちがい、青田も清々しい田舎道をすすむと、「宮内庁管轄」と大きく書かれた建礼門院大原西陵の入口にたどり着く。まずは建礼門院の御陵に一礼。そして、緑陰をもとめるように寂光院へ向かう。

 『平家物語』灌頂の巻に描かれた寂光院は初夏だ。「庭の若草茂り合ひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮き草波にただよひ、錦をさらすかとあやまたる‥」の名文は、冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり‥」と呼応するように無常観をただよわせるが、庭の草木は八百年前の当時とさほど変わっていないのではないか。無常とは、人の世のことにすぎないのだろう。
 後白河法皇の大原御幸は史実であるかどうかさだかではないようだが、“日本一の大天狗”といわれた後白河法皇こそ、平家を滅亡させた張本人ともいえるのだから、この侘びずまいに法皇をお迎えしたときの女院のお気持ちを考えると、こころが痛む。

 青苔のゆたかさにすぎた歳月をおもいつつ、いったん寂光院を出、そこからさらにいくらか道をのぼったところに今回の目的地はあった。イノシシよけとおもわれる金網扉を開けて山道に入り、すぐ左手の石段をのぼりきったところに、薄幸の女院を支えた侍女たちのささやかな墓石が四基、肩をならべるように立っているのである。
 それはもうちいさな墓石で、すっかり風化しており、いったい四つのどれが阿波内侍(あわのないし)・大納言典侍(だいなごんのすけ、平重衡の妻)・右京太夫(うきょうだいぶ、平資盛の恋人)・治部卿局(じぶきょうのつぼね、平知盛の妻)のものなのかさえ分からない。杉木立につつまれ、あたりは晴れた日の昼間でもうす暗い場所で、手入れのゆきとどいた寂光院の境内とは対照的。それだけになおあわれで、自然手を合わせ、しずかに冥福を祈る気持ちになる。

 建礼門院徳子とその侍女たちは、人生の絶頂と地獄をわずか数年の間に経験した。建礼門院だけではない。当時を生きた者たちは、みな平家の栄枯盛衰を目の当たりにし、この世の闇を実体験したのである。それをおもえば、平忠度や女院が遺した和歌だけでなく、『新古今和歌集』、西行の足跡、『方丈記』に『徒然草』など、すべてその根底を『平家物語』と同じ無常観が流れていることにあらためて気づく。かれらは、たんにおもうに任せない世をはかなんで歌の道にすすんだり、美の世界に没頭したのではない。そこには、この世の地獄を生き抜くための命がけともいえる「諦観」があり、闇をつけぬけた一種の明るささえ感じられるのである。このことを忘れては、中世という時代の本質を見誤るとおもう。死を見すえ、なお生を謳歌する諦観。これが、その後もずっと日本の文化の底流となっているのではなかろうか。


 大原の里は、しば漬け用の茄子の仕込みに忙しそうであった。
 三千院にてお写経を納め、大原の里をあとにした。
 

 <追記>
 帰京後、寂光院の略縁起に目をとおしていたら、「翠黛山(すいたいさん)には、阿波内侍をはじめとする五人の侍女の墓地群が所在する」とあるのに目がとまった。はて、五人? 四人ではなかったの? と不思議におもい、すぐに寂光院に問い合わせてみた。すると、寺の縁起によれば、五人とは、阿波内侍・大納言典侍・師典侍(そちのすけ、平時忠の妻)とその娘(名は不明)・治部卿局だという。つまり、右京大夫の代わりに、師典侍とその娘が加わっているのだ。墓石もちゃんと五つあるそうで、師典侍の娘の墓石はほかの墓石の前か後ろにあって、ちょっと分かりにくいらしい。気づかなくて残念だった。
 じつは、五人のうち、女院に最後まで仕えたのは阿波内侍と大納言典侍の二名だけだったと、奈良本辰也氏はその著書 『京都百話』(角川ソフィア文庫 ※)に書いているし、女院は晩年になって大原の里を出られ、京にもどって崩御されたという説もある。謎は深いが、謎は謎のままにしておこうとおもう。



北観音山 @ 河原町通り
 後祭の先陣を切る曳山・北観音山。御神体は楊柳観音と韋駄天像、鳴滝産の真松をいただき、後部に柳の枝をつけ、山の装飾品も繊細かつ華麗で見ごたえがあります。浴衣と小物の意匠、お囃子と音頭の息のピッタリ合った調子もたいへん美しいです。曳き子さんたちが草鞋で足を傷めないよう、足袋型のストッキング?を用意していたことに感心しました。
 毎年祇園会についてご教示くださるまさおさんが、新町六角に通うようになってから来年で十年?でしょうか。記念年に向け、すでに六角会では新年会が行われたそうです。宵山の日、日和神楽を待つ祇園囃子の中で、「わたしたちが死んでも、祇園祭はずっと生きつづけるんですよね」というまさおさんの奥さまのお言葉が印象的でした。
 今年も有難うございました ^^



※ 『京都百話』 は さくら書房 で紹介しています。