小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑨

2014-07-16 08:11:53 | Weblog
 昨日のブログに続いて論理的思考法から入る。昨日の論理的思考法については「水平思考」についての私流の方法論を述べた。それを自衛権問題について考察すると、こういうことになる。
 ① A国とB国が、隣接あるいは近隣の間柄であり、しかも領有権などをめぐって利害関係が対立しているか複雑な場合、AとBは相互に自国の防衛のための抑止力としての軍事力を保持する権利(自衛権)は、国連憲章51条によって認められている。たとえばインドとパキスタン、イスラエルと近隣のアラブ諸国は歴史的にそういう関係だったし、最近では中国とベトナム、中国とフィリピンが一触即発の状態になっている。
 ② そういう状態にある2国間で、BがAを敵視していなくても、Cという第三の国がBを「悪の根源」と一方的に決めつけ、しかもCが世界一の軍事大国だった場合、BがAの脅威に対抗するためではなく、CのBに対する敵意と軍事力を脅威に感じ、「国家存立」のための抑止力として、核武装や高性能のミサイル開発など軍事力を強化したとする。
 ③ その場合、AはBの軍事力強化を、自国に対する脅威と見なす国際法上の「権利」があるだろうか。Bは、あくまでCの脅威に対する抑止力を世界に向けて発信し続けている。Bは、従来はやはり軍事大国であるD 国の庇護下にあり、経済・外交関係においても密接な関係にあった。が、Dが自国の国益のためにBとの距離感をしだいに置くようになり、Bにとっては有事の際、Dをどこまで頼りにできるか不透明な状態になってきたとき、Bが国民生活を犠牲にしてまで「自国の存立」のための抑止力として、軍事力を強化したとした場合のBを制裁できる国際法は存在しない。
 ④ しかもBの自衛のための軍事力の保持の限界を、国連憲章は規定していない(「核不拡散条約」より「国連憲章」のほうが国際法としては優先される)。核武装しようが、ミサイルを持とうが、BがCの核やミサイルを脅威と見なす以上、国際法に違反した行為とは言えない。とくに「核不拡散条約」によってCが核やミサイルの保持を国際社会で認められながら、CがBの核やミサイルなどの軍事力強化を国際社会に対する挑戦と見なして軍事的・経済的な圧力や制裁を強化し、Aにも同一歩調をとるよう求めている状況下において、それでもBは自国の存亡を「天の運」に委ねるしか許されないのだろうか。
 ⑤ 実際Cは自国が原爆を投下したり、ナパーム弾や枯葉剤の有効性を検証するために他国の紛争に軍事介入して、その国の国民を実験材料にしたことを、いまだに謝罪していない国である。日本のメディアと同様、自国の軍事行動は「つねに清く正しい」のだから、反省も謝罪もする必要性を認めないのだろう。そのくせ他国に対しては非人道的行為を何十年にもわたって執拗に責める権利だけは保持している点も、日本のメディアと同質である。
 ⑥ そうした状況下で「抑止力」のために核やミサイルを保持したBの軍事力を「脅威」と見なす「権利」を正当だとすれば、Bの軍事力に対抗して自国の安全保障のための抑止力を高めるためにAは自国の「抑止力」を強化する「権利」があるどうかは、政府の閣議決定で決められるほど軽いものだろうか。しかも、その「抑止力」の行使が、国民の生命や生活に甚大な影響を及ぼす可能性が濃厚な場合、政府には国民の総意を問わずに一握りの大臣たちの話し合いによって閣議決定し、国の安全保障政策をいとも簡単に180度転換できる権利まで、国民は政府に与えているという認識を、全国民が共有していると言えるのだろうか。
 ⑦ 一方Bの軍事力強化はCの脅威に対抗するためであって(実際Bは国際社会に向かってそう主張し続けている)、Aがことさらに「脅威」を強調するのは、「ためにする主張だ」と考えることも論理的には可能である。実際過去の歴史を紐解くと、国際法上認められた「ためにする主張」を唯一の根拠として軍事力の強化を互いに競い合う軍拡競争は、人類の歴史が始まって以来、ずっと続いてきたし、現在も続いている。
 ⑧ そういう「論理」に立てば、AがBの軍事力を「脅威」と主張して、「抑止力のために」同盟国であるCとの軍事的協力関係を強化すれば、BがAとCの軍事同盟強化をどう感じるか。とくに敵対関係にある(少なくともBがそう思っている)Cの「警察権」強化に、Aが軍事的協力を行うことを閣議決定し、アジアの緊張状態に対するスタンスを明確にしたら、Bにとっては脅威が増大すると考えるのは自然である。
 ⑨ ましてCが「世界の警察」を自負する軍事大国で、国連憲章が認めていない他国の内紛に軍事介入したり、あるいは根拠のない核兵器の存在を口実に他国を攻撃したりするような国でありながら、財政難などの国内要因で世界に及ぼす警察力が弱体化し、Aがそれを補うために軍事的同盟関係の強化に踏み切れば、Cと敵対関係にあるBにとって脅威がますます増大すると考えることは、Bの立場に立てば当然である。
 ⑩ そうなればBは新たな脅威に対抗するために、さらなる抑止力の強化に踏み出さざるを得ず、そうなれば今度はAがBの抑止力の強化をさらなる脅威と見なさざるを得なくなる。「その場合は、脅威と見なさない」などとAが考えるわけがない。当然Aはさらなる自国の安全保障策(Bの軍事的脅威に対抗する抑止力)としてCとの軍事同盟の強化や自国の個別的自衛力の強化に踏み切らざるを得ない。そうしなければ、最初にBの軍事力を「脅威」と見なして軍事力を強化した理由(口実と言い換えても差し支えない)との論理的整合性が取れない。

「負の連鎖」はこうして始まる。そして、いったん始まったら、行き着くところまで行かないという保証はない。公明党は「集団的自衛権行使容認の条件に歯止めをかけた」と主張しているが、それはアメリカが期待しているような集団的自衛権行使を、中国や北朝鮮が脅威に感じず、軍事力のさらなる拡大をしないことを前提にした場合に初めて成り立つ論理であって、先に述べたような「負の連鎖」が始まったら、「歯止め」など事実上意味をなさなくなる。集団的自衛権行使容認の閣議決定に反対した朝日新聞と毎日新聞は、そうした論理的視点に立って主張しているだろうか。

 朝日新聞は「戦後日本が70年近くかけて築いてきた民主主義が、こうもあっさり踏みにじられるものか」「法治国家としてとるべき憲法改正の手続きを省き、結論ありきの内輪の議論で押し切った過程は、目を覆うばかりだ」「『(憲法を)改めるべきだ』という声はあっても、それは多数に達していない」「他国への武力攻撃に対し自衛隊が武力で反撃することは…自衛隊が『自衛』隊ではなくなることを意味する」「首相は…『国民の命を守る責任がある』と強調した。だが、責任があるからといって、憲法を実質的に変えてしまってもいいという理由にはならない」と主張した。
 毎日新聞は「行使の条件には『明白な危険』などと並び『わが国の存立』という言葉が2度出てくる。いかようにも解釈できる言葉である」「孤立を避け、米国に『見捨てられないため』に集団的自衛権を行使するのだと、政府の関係者は説明してきた。だがそれは、米国の要請に応じることで『国の存立』を全うするという道につながる」「米国に『見捨てられないため』集団的自衛権を行使するという日本の政治に、米国の間違った戦争とは一線を画す自制を望むことは、困難である」

 2紙の基本的スタンスは微妙に違う。朝日新聞が「実質改憲」という視点で批判しているのに対して、毎日新聞は「米国の間違った戦争に巻き込まれる」という視点で反対している。
 まず朝日新聞の主張から検証しよう。安倍総理は一貫して「憲法解釈の変更」と言っているが、朝日新聞が主張したように「解釈変更」が可能な限界を大きく逸脱していることは間違いない。最高裁の砂川判決は「個別的自衛権」として自衛隊の存在は「憲法に違反していない」とした。そのため自衛隊の「実力」の行使は、「専守防衛」に限定され、その保持できる「実力」も「専守防衛のための必要最小限」とされている。
 が、これまでの「集団的自衛権」についての政府の「定義」は「自国が攻撃
されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」である。だから、「集団的自衛権は憲法の制約によって行使できない」というのが政府「見解」であり、その政府「見解」を国民が受け入れた結果、国民の総意として定着している。この視点が非常に重要なのだが、なぜかメディアは理解できないようだ。メディアと政治家以外は100%、容易に理解できることしか私は書いていない。
 安倍内閣は、前段である「政府定義」を変更せずに、後段の「政府見解」の「日本も国際法上『固有の権利』として保持しているが、(他国を守るために実力を行使することは)憲法の制約によってできない」という部分だけ変更しようとしている。「国際情勢の変化」を口実にして。
 なお、いまはどうか分からないが、少なくとも今年春までは外務省北東アジア局は「安倍総理は従来の集団的自衛権についての政府の定義を無視しており、そのことを国民に説明していない」ことを明確に認めていた。
 公明党との協議の結果、現段階では「集団的自衛権」の行使は事実上「個別的自衛権」や「警察権」で対処できる限定が加えられたため、かろうじて政府の定義の範囲にとどめたと解釈できなくもないので、外務省北東アジア局も考えを変えている可能性はある。しかし限定そのものが極めてあいまいであり、とりあえず「集団的自衛権」を行使できる事例がいくつか述べられているが、肝心の中国の海洋進出による南西アジア諸国との領有権をめぐる紛争が火を噴いたケースは、個別的事例として俎上に上げられていない。アジア太平洋地域における最大のリスクなのにだ。
 北朝鮮の核やミサイルは、他国を侵略できるほどのものには至っていず、「挑発」と考えるのは論理的に無理がある。北朝鮮は必死になって、自国を攻撃したら「これだけの抑止力を持っているぞ」と国際社会にアピールしたいだけ、と考えるのが合理的である。
 ただ、そういうカードをちらつかせたため、それをアメリカに攻撃の口実にされ、米英連合軍によって壊滅された国もある。イラクのフセイン政権がそうだ。核を含む大量破壊兵器など持っていなかったにもかかわらず、あたかも保持しているかのごとき言動を国際社会に振りまいて「抑止力」を誇示しようとして、それがアメリカのイラク攻撃の絶好の口実を与える結果となった。
 北朝鮮も、あまり抑止力を高めるために多くのカードを切りすぎると、アメリカに口実を与えるだけという結果になりかねないことを考えた方がいい。
 もっともアメリカ国内には厭戦気分が高まっており、イラク戦争でめちゃくちゃにされたため生じたイラクの内紛を解決するための責任を、アメリカは本来免れ得ないのだが、アメリカの国内世論の反発が大きく、自らの戦争責任を果たすことすらできない状態になっている。
 アジアの緊張緩和についても、アメリカは実際に紛争が生じたときに「警察権」を行使できるような状態にはなく、せいぜい「張子の虎」に過ぎない日本を含むアジアに張り巡らしている米軍基地網が、紛争の抑止力になることを神様に祈るしかできない状態になっている。誤解を避けるためにあえて書いておくが、私はアジアの米軍基地の軍事力が「張子の虎」だとは言っていない。基地そのものが「張子の虎」だと言っている。あるいは「竹光」と言い換えてもいい。そのことを、一番理解しているのは、ひょっとしたら安倍総理かもしれない。
 そもそも閣議決定は、「集団的自衛権」についてのこれまでの政府が踏襲してきた「定義」は変えずに、「固有の権利として日本も保持しているが、憲法の制約によって行使できない」という「見解」の部分だけを「憲法解釈の変更によって行使できるようにする」というものである。その「定義」と「見解」の境目を曖昧にすることによって安倍総理は「集団的自衛権行使容認」を憲法解釈の変更によって可能にしようとしているのだ。このあたりの論理的解釈になると、中学生程度の理解力では難しいかもしれない。
 新聞の発行部数では読売新聞に負けているが、メディア志望の有能な学生の
就職先人気は朝日新聞のほうが高い。が、知識で考えることが「有能」とされている日本社会では、就職試験でも学生の論理的思考力を確かめようとはしない。だから朝日新聞には、現行憲法を守るというスタンスでしか考えることができないような人間ばかり集まってしまう。朝日新聞がいくら憲法9条をタテにとって閣議決定を批判しても、所詮犬の遠吠えでしかない結果に終わるのも無理はない。
 なぜ「有能」な人材の宝庫とも言える朝日新聞の記者たちがそうした国際関係を論理的に理解できないのか、そのことが、私には理解できない。実際、「集団的自衛権」問題に取り組み出してから、私のブログにコメントを寄せた読者はたった一人しかいない。「学校で芦田修正のことなど教わらなかった」というものだ。私も学校教育では教わっていない。日教組に対する共産党や旧社会党の影響力が強く、とくに日本国憲法について「平和憲法」といった幻想を生徒たちに押し付ける教育をするためには芦田修正を説明するのは都合が悪かったのだろう。
 現に朝日新聞ですら社説で比較的最近まで「平和憲法」と現行憲法を定義づけており、私はブログで痛烈に批判したことがある。私の批判を受け入れたわけではないと思うが、現在朝日新聞は「(現行)憲法の平和主義」という表現で統一するようになった。この表現なら正しいし、私も憲法を現在の日本が国際社会に占めている地位にふさわしい、国際の平和と安全に貢献できる憲法に改正すべきだと主張しているが、その前提として現行憲法の平和主義の崇高な理念は尊重し、維持すべきだとも主張している。そのうえで、現行憲法9条の改正は、平和主義の理念を維持しつつ、国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全のために日本はどういう貢献をすべきかを、国民の総意によって決めるべきだと主張している。
 私が1992年に『日本が危ない』を書いた時には、インターネットなどない時代だったから、憲法制定時の事情を調べるのに、何回図書館通いをしたことか。それが今では机の前でインターネットを開くだけで欲しい情報はほとんど手に入る。朝日新聞の論説委員は憲法制定過程をインターネットで調べたことがあるのだろうか。調べていたら「日本国憲法には9条がある。戦争への反省から自らの軍備にはめてきたタガである」などと言うデタラメを書けるわけがないはずなのだが。
 あっ、ごめん。朝日新聞の論説委員室の爺さんたちは、パソコン操作ができない連中ばかりだったんだっけ…。少なくとも私より若いはずだが…。

 次に毎日新聞だ。閣議決定に盛り込まれた「明白な危険」や「わが国の存立」
という言葉に「いかようにも解釈できる言葉だ」と噛みついた。いい線をいっている。ただ、論理がそこで立ち止まってしまったのが、残念。
 はっきり言えば、いかように解釈するかはそのときの政府の権限である。安倍内閣が国際情勢の変化を脅威と考え、抑止力を高めるための政策を行うのは、やはり政府の権限だ。その政策の実行には法律の制定や改正が必要な場合は、国会で審議して承認されなければならないが、閣議決定そのものは政権の自由である。もっとはっきり言えば、公明党の協力がなくても多数決で閣議決定は出来た。選挙協力の腐れ縁のために、安倍・自民党執行部は公明党の主張をほとんど丸呑みして全員一致の閣議決定に持ち込んだのだ。
 私が毎日新聞の主張について「いい線をいっている」と書いたのは、「いかようにも解釈する権利」を政府が持っていることを理解した点だ。そこまで理解できたのなら、中国や北朝鮮の権力も日本の抑止力の強化に対抗して、自分たちも抑止力を高めないと自分たちの安全保障が危うくなる、と解釈する権利を持っていることに、なぜ思いが至らなかったのか。
 そう中国や北朝鮮の政権が解釈して、さらに日米同盟による脅威に対して抑止力を高めれば、それが日本にとってはさらなる新たな国際情勢の変化であり、脅威の増大と政府が解釈すれば、それは直ちに抑止力を高めるための口実になる。すでにその「負の連鎖(スパイラル)」の原理は、このブログの箇条書きの箇所で私は明らかにしている。
 毎日新聞の論説委員が書いた「米国の間違った戦争」とはどういう戦争のことを指しているのか不明だが、戦争に「正しい」も「間違った」もない。勝てば「正しい戦争」であり(官軍)、負ければ「間違った戦争」である(賊軍)。日本は先の大戦で負けたから責任をいつまでも問われ、勝ったアメリカは世界史上例を見ない大量虐殺行為を行った責任は問われない。それが国際社会の常識だ。残念だけども。

 ここまで書き続けて、正直疲れ果てた。が、気分はいま見ている窓の外の朝の風景のようにさわやかだ。家を一歩出れば、暑さに弱い私にとっては不快指数100%の地獄が待ち受けているはずだが。
 ここまで延々と述べてきた私の論理はだれにも否定できない。安倍政権ができることは、せいぜい無視することだけだ(安倍さんは私のブログは読んでいないと思うが、首相官邸にはしばしば通知している)実際、私が電話で話したメディアの人たちも法律の専門家も、私の論理の正しさを認めている。これまで誰からも反論を受けたことがない。反論の余地がないほど単純で、中学生でも理解できる明快な論理だからだ。なのに、メディアの主張は変わらない。なぜならメディアはつねに清く正しく、部外者によって主張を変えさせられることは、自分たちにとって大変な恥になるからだ。
 そういえば「恥」というのは日本独自の文化だ。世界に通用する概念ではない。「恥」にまつわることわざは、日本には数えきれないほどある。
 戦時中の軍総司令部は日本軍兵士に「捕虜となって生き恥をさらすより死して名を残せ」といった趣旨の戦陣訓を強要した。米軍の攻勢に抵抗手段を失った日本兵が「天皇陛下、バンザイ」と叫びながら岸壁から次々に飛び降り自殺した、この文化に、日本はいつまでしがみつくのか。
 まだ先の大戦は、終わっていない。
 長い間、私の「集団的自衛権」問題についての考察ブログに付き合って下さった読者の皆さんに、心からお礼を言いたい。「日本が戦争に巻き込まれない」ためではなく、「日本が国際とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に、安倍政権が行おうとしている集団的自衛権の行使がどういう事態をもたらすか」を読者諸氏も真剣に考えてほしい。最後に、現行憲法は、国民の総意によって成立したものではないことを、改めてご理解いただきたい。(終わり)

集団的自衛権――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑧

2014-07-15 06:21:38 | Weblog
 昨日のブログでは、集団的自衛権行使によって日本の安全保障力が強化されるか、を論理的に検証した。私が歴史的事実を、私自身の主張に組み入れる場合の方法論がお分かりいただけただろうか。私は、ことさらに自分の主張にとって都合がいい「事実」だけを採用する、つまり「木を見て森を語る」ような、無数の事実の中から都合がいい
事実のみ取り出して主張の論拠にするといったご都合主義的手法は一切行っていない。
 実は日本のディベート教育などでよく行われるやり方なのだが、「木を見て森を語る」といった論法が、結構説得力を持ってしまうことがある。こういう論法を別名「例証主義」とも言うのだが、事実そのものはねつ造した「事実」でなければ否定できないから、つい説得させられてしまう。そういう結果になるのは、学校教育が「知識習得」に重点を置いているためではないかと、私は思っている。
 中国や北朝鮮の軍事的挑発行為自体は誰も否定できない事実だから、それを「脅威」と感じ、「脅威に対抗するための手段を構築する権限」を、時の政権が行使することは憲法違反でもなんでもない。憲法の制約によって、国家と国民の安全が脅かされる事態に対処できないと考えるのはアホである証拠だ。

 前にもブログで書いたが、私は記憶力が、自慢するわけではないが人並み劣って弱い。「人並み優れて」という言い方はしばしばされるが「人並み劣って」という言い方は、初めて目にしたという方も少なくないのではないだろうか。「天は二物を与えず」という言い方もあるが、この格言は裏返せば「天は一物しか与えない」つまり「一物は与えてくれる」ことを意味する、と私はポジティブに考えるようにしている。
 確かに私は若いころヘーゲルの弁証法は勉強したが、きわめて難解で、意味がさっぱり分からなかったことを正直に告白しておく。が、社会に出てからエドワード・デ・ボノの『水平思考』を読んで、その分かりやすさに脱帽したことをいまでも記憶にとどめている。ボノがヘーゲル論理学を参考にしたかどうかは知らないが、「水平思考」は典型的な弁証法的思考力を養う方法だということが理解できた。
 水平思考とは、分かりやすく言えば、既成の価値観や知識に依存せず(「頼らず」ではなく「依存せず」が重要)、ジグゾーパズルをはめ込むような方法で主張の体系を構築する方法である(というのが、私流「水平思考」の方法論)。
 私はしばしば、幼な子のような素直さで、あらゆることに疑問を持つことの大切さをブログで書いてきた。国民がそういう思考力を身に付けることが、実は権力にとっては最も脅威なのだ。はっきり言って中国や北朝鮮の核よりも脅威といって差し支えない。国民の感情を意図的に煽ったり、「木を見て森を語る」ような手法で世論を誘導することが不可能になるからだ。
 まだ、物心もつかないような幼な子に、じっと見つめられた経験が誰にでもあると思う。心の奥底を見透かされているような恐怖感に襲われたことは誰でも経験していると思う。その幼な子のような目で、頭の中からすべての既成概念や観念を取り払い、いったん頭のなかを真っ白にして、権力が主張する個別的事例を幼な子のような素直な気持ちで考えると、あらゆることが透けて見えてくる。これが「水平思考」の効果である。
 私の場合、子供のころから記憶力が抜群に劣っていた。今でもそうだが、人の名前、人の顔、本当に覚えられない。フィットネスクラブやゴルフ場で、しばしば「知り合い」と顔を合わせることが多いのだが、私には見覚えがないの
で私のほうから挨拶することはほとんどない。相手から頭を下げられて、あわてて頭を下げたら、その人が挨拶した相手は私ではなく私の背後にいた人だったりして、バツが悪い思いをしたことがしばしばある。もちろん何度も顔を合わせている人の顔や名前は覚えているが、それほど頻繁ではないケースは頭脳のメモリが記録を拒否しているのかもしれない。
 一度見て、絶対に忘れないのは、やはり男だから美人である。歳が歳だから、スケベ心があるわけではないのだが、いくつ歳をとっても美人とは飲み友達くらいにはなりたいと思う。これって、やっぱりスケベ心のうちかな…。だとしたら、死ぬまでスケベ心は治らないな。
 実は昨日フィットネスクラブで昼職を顔見知りの同年代の女性たちと一緒になり、そんな戯言(ざれごと)を話していたら、彼女たちも口をそろえて「私たちもそうだよ。テレビのドラマを見ていても、やっぱりイケメンには心をときめかせるもの」と言っていた。男も女も同じかと思った。
 そんなことはどうでもいいが、「天も一物は与えてくれた」おかげで、記憶力に弱点があるため、問題解決に当たって知識に頼ることができず、その結果、論理的に物事を考えるしか、問題を解決できない人間になってしまった。非常に分かりやすい事件について私の水平思考による論理を駆使してみる。元兵庫県議員の野々村竜太郎が起こした事件である。
 この事件に関連して多額の切手を金券ショップで購入していた議員が10人以上いることが判明した。議会側は記者会見でその事実は認めながら「適正に処理されている」としか言わず、疑惑そのものを否定した。記者は必死になって食い下がったが、どこまでも平行線をたどった。
 やはり昨日、沖縄返還時の密約の公開について最高裁での判決が下った。最高裁は公開要求自体は否定しなかったものの、「政府が密約文書はもう残っていないと主張している以上、密約が現在も存在することを証明する義務は原告側にある」と、事実上原告の公開請求を退けた。この判決は不当だと原告側は記者会見で怒りをぶつけたが、私もこれほど重大な密約文書が破棄されているとは一概に信じがたいが、逆説的に言えば、いつ密約が漏れ出すか、また漏れた
ときのリスクを考えたら、政府が密約文書は小さなメモリに保存し、文書その
ものは本当に破棄した可能性のほうが高いとも考えられる。
 兵庫県議会の問題を水平思考で考えてみよう。私が記者だったら、こういう質問をぶつける。
「県議会が村社会で、かばい合いの世界だということは、我々の世界が同じだから理解はできる。しかし、食品メーカーがスーパーで販売している菓子袋に異物が混入した事件が生じたと考えてみよう。それが一つだけだったら、新しい菓子と交換して一件落着になる。が、10袋に異物が混入していたら、間違いなく全品を回収し、すでに購入した消費者には多額の広報費を投じて回収への協力を呼びかける。それが民間企業の責任であり、モラルだ。菓子の数は数十万になる。県議会議員は何人いるか? 確率からしたらとんでもない確率になる。県議会が解散したら県政が滞るから、半数ずつ改選して県議会の一新を期すべきだと思う。そのとき前議員が立候補した場合、すべての政治活動費を1円に至るまで公開することを有権者は要求するだろう。県議会は県民の信頼を回復するためにもそうすべきだ。そうでなければ県民の県政に対する信頼は永遠に損なわれる」
 こう私から追及されたら、県議会も根拠を示さずに「適正に処理されている」などと逃げることはできなかったはずだ。こういう思考方法が「水平思考」であり、弁証法的考え方なのである。論理というのは、これほど単純なものはないと言っても差し支えない。日本は江戸時代から儒教的教育方針で「知識詰め込み」を重視してきたため、どうしても知識に頼ろうとする。だから「森を語るために木を探す」という無意味な努力を重ねることになる。
 
 行使支持派新聞の主張について続ける。「限定容認」についての主張だ。この問題については、各紙に多少の隔たりがある。読売新聞は「行使の範囲を狭めすぎれば、自衛隊の活動が制約され、憲法解釈変更の意義が損なわれてしまう」と主張した。はっきり言えば、読売新聞は「安倍政権は公明党に妥協しすぎだ」と言いたいようだ。
 それに対して日本経済新聞は慎重な姿勢を表明した。「アジア太平洋に安全保障の協力網を作る。この枠組みで中国と向き合い、協調を探っていく」「だからといって、安倍政権の議論の運び方に問題がなかったわけではない」「政府は行使の要件について『国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』場合などと定めた。慎重派の公明党との妥協を急ぐあまり、『過度に、制約が多い内容になってしまった』との批判がある」「実際の行使に当たり、『何をどこまで認めるのか』といった議論は、ほとんど深まらなかった」
 産経新聞は読者層が限定されていることを承知しているからだろうか、ズバリ自衛隊の実力行使について大胆な主張をした。「自衛隊が国外での武器使用や戦闘に直面する可能性はある。自衛隊がより厳しい活動領域に踏み込むことも意味すると考えておかねばならない。どの国でも負うリスクといえる」「反対意見には、行使容認を『戦争への道』と結びつけたものも多かったが、これはおかしい。厳しい安全保障環境に目をつむり、抑止力が働かない現状を放置することはできない」
 日本経済新聞はやや慎重な言い回し方だが、読売新聞と産経新聞は公明党との妥協で行使の条件をかなり「個別的自衛権」や「警察権」で対応できるほど限定してしまったことに不満なようだ。いずれにせよ、支持派の主張は重要な二つの問題をあえて無視した。私が「あえて」と書いたのは、それほどバカではないだろうとの「敬意」の表明である。でも、本音ではバカだと思っているが…。
 一つは安倍総理の説明の中に「湾岸戦争やイラク戦争のような(日本の安全が脅かされるおそれがない)遠い国での戦争に参加するようなことはありえない」と行使の地域を限定したことに対する評価である。中国の海洋進出によって既にベトナムとの間は一触即発状態にある。が、アメリカと同盟関係になく、かつては戦火を交え、ナパーム弾や枯葉剤などの実験材料にされたベトナムとしては、「世界の警察」であるアメリカには支援を頼めない。アメリカも口を出すつもりはないようだ。そんなもんだぜ、アメリカという国は…。
 が、いったんフィリピン政府の要請により基地を撤去したアメリカだが、フィリピン政府が中国との紛争に備えてアメリカに再び「来てください」と頼んだら、フィリピンはアメリカの同盟国でもあるから、「待ってました」とばかり米軍を派遣した。
 安倍総理が主張する国際情勢の変化によるリスクは、日本よりベトナムやフィリピンのほうがはるかに大きい。中国とベトナムが戦火を交えるようになったときアメリカは「知らんぷり」をするかもしれないが、フィリピンと中国との間に紛争が生じればアメリカはフィリピン防衛のために軍事行動に必ず出る。その時アメリカは日本に「集団的自衛権」の行使を要求してくることは間違いない。
 フィリピンは地球の反対側にあるような遠い国ではない。安倍総理の地域限定論によれば、フィリピンは行使の地域的範囲内だ。アジアで火を噴く一番可能性が高い、この地域での「集団的自衛権行使」について支持派新聞は「あえて」語ろうとしない。なぜか。
 次に、安倍政権が中国や北朝鮮の軍事的挑発行為を「脅威」と感じて「集団的自衛権」を行使するというのなら、当然そうした日本の軍事力の強化を中国や北朝鮮は「脅威」と感じるだろう。少なくとも、感じたふりをしてさらに軍事力を強化することは間違いない。つまり中国や北朝鮮に軍拡の正当性を、わざわざ安倍政権は提供したようなものだ。
 そのとき日本の政権をだれが掌握しているかにもよるが、安倍総理の論理によれば日本政府も「脅威」を感じなければならないし(少なくとも感じたふりをしなければならない)、さらに日米軍事同盟を強化しなければならない。それがまた中国や北朝鮮にとっては「脅威」の増大になり、…。もうそれ以上書かなくても読者はお分かりのはずだ。
 つまり、「限定容認」の「限定」が際限なく拡大されていくことは論理的に考えれば必至だ。支持派新聞は安倍政権が公明党との妥協で行使の範囲が狭められたことに不満のようだが、そんな心配することはない。安倍政権はもう「負の連鎖(スパイラル)」の扉を開いたのだから、あとは支持派新聞が何も言わなくても、日本はいずれ核まで持つようになるって…。
 そのとき、政権はおそらく堂々と正論を主張する。「核不拡散条約は、国連憲章違反だ。核大国の米英仏露中(国連安保理の常任理事国でもある)が他国攻撃のためではなく、自国防衛と抑止力のために独占的に保有する権利を国際社会に認めさせ、5大国以外の自国防衛と抑止力のための核開発と保有を禁止するがごとき条約は、国連憲章51条が全加盟国に認めている個別的自衛権を否定するもので、かくのごとき核大国のエゴは我が国としては到底承服しかねる」と。
 この論理に、核アレルギーの感情論では到底対抗し得ない。論理的には核大国の米英仏露中も、反論できない。核不拡散条約が、5大国の核による自国の防衛権と抑止力のための核開発・保有を認めているからだ。そこまでの権利は国連憲章のどの条文も認めていない。日本国内で、核アレルギーの払しょくのために、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞が総力を挙げざるを得なくなる時が必ず来る。もちろん、3紙の論説委員諸氏は、そうなることを百も承知だろうね。

 明日は反対派の主張を検証する。

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑦

2014-07-14 06:18:27 | Weblog
 全国紙5紙の社説の検証をするまでもなく、先週まで書いてきたブログで、メディアがまったく「集団的自衛権行使」が何を意味するか、どういう結果を招くかが読者はお分かりになったと思う。私も毎日のようにいろいろなメディアの読者・視聴者窓口の方に、中学生でも理解できるようわかりやすくお話ししてきた。誰一人として、私の考え方を否定する人はいなかった。全員が肯定した。
 面白いことに、あまりにもわかりやすく説明したので(ブログも中学生でも理解できるよう平易に書いてきた)、メディアの方たちは自分でもそう考えていたかのように錯覚され素直に肯定されたことだ。私のほうは、議論して理解してもらうつもりだったのだが、返ってくる答えは「そう思います」「その通りです」で、こちらとしては張り合いがないことおびただしかった。「勉強になりました」「ロジカルな主張で感心しました」「これからブログを読んで勉強します」と、私を嬉しがらせてくれる方もいたが、そういう方は少なかった。
 では、私の主張がメディアの報道に反映されたかというと、そうは簡単にいかないのがメディアのメディアたるゆえんである。それまでの報道姿勢(主張と言ってもいい)を一変させるわけにはいかないのだ。なぜなら「メディアはつねに正しいことしか主張しない」ことに「なっている」からである。

 公明党・山口代表が閣議決定後に行った発言を読売新聞は捏造した。そのことを朝日新聞お客様オフィスに伝えたところ、「分かっています」と間髪を入れず、答えが返ってきた。よく知っているな、と感心したが、私は「いくら村社会で相互批判はしないことになっていても、この捏造は日本の将来を危なくする。これだけは黙認してはならない」と伝えたが、もちろんお客様オフィスに記事の編集権があるわけではない。やはり朝日新聞は読売新聞の捏造記事を黙認した。黙認するということは、朝日新聞も読売新聞の捏造を認めたということを意味し、そうなると朝日新聞は自らの報道記事の訂正記事を出す責任がある。とは、メディアは考えてないことにしているようだ。日本の将来を危うくすることより、かばい合いの世界を守ることのほうがお家の大事なのだろう。
 実はこうしたメディアの立ち位置は、集団的自衛権行使を憲法解釈の変更によって可能にしようという安倍総理の立ち位置と同じである。朝日新聞が読売新聞の捏造記事を問題にしたら、読売新聞は朝日新聞が吉田清治の捏造「ノンフィクション」である『私の戦争責任』を過大に評価して、それが訂正されないまま、従軍慰安婦の「日本軍による強制性」が国際評価として定着してしまったことの責任を追及されることは必至だからだ。
 やれば、やり返す。脅威を感じたら、相手が脅威に感じるほど軍事力の強化を図る。自国の安全性を高めるということは、そういうことを意味する。当然相手の国は、「お返し」に脅威を感じたことにして、その脅威に対抗するための軍事力を強化する。そうなると、自国はさらに相手に脅威を感じさせるだけの軍事力の拡大を図らざるを得なくなる。そうしたら相手は…。このスパイラルを、私はブログで『負の連鎖』と書いてきた。この論理を否定するメディアの方は、集団的自衛権行使支持派にも一人もいなかった。すでに歴史が証明しているからだ。同様に、朝日新聞が読売新聞を批判したら、読売新聞に朝日新聞はやり返される。そう思うと、ライバル紙を批判したら、自らの立ち位置が危うくなる。
 つまり、論理的にはメディアも政府も立ち位置は同じなのだ。政府の主張を鵜呑みにしてはならないのと同様、メディアの主張も鵜呑みにするととんでもないことになる。ただ違うのは、メディアは政府の主張に対しては批判する権利(言論の自由)があるが、政府にはメディアを批判する権利がないらしいのだ。ちょっとでもメディアに対して閣僚クラスの政治家が批判がましいことを言ったら、メディアはたちまち「言論の自由に対する弾圧だ」と金切り声をあげる。そのくらいメディアは偉いのだ。総理をひれ伏させるくらいの権力を持っているのだから、たぶん天皇陛下より偉いのだろう。
 もちろん読者は新聞販売店に対して、「新聞を読ませていただくため、お願いですから購読料を支払わせてください」と、土下座してお願いしなければいけないのだ。本当は…。新聞をとっておられる方は、「◌◌新聞をとってやっている」などと思いあがることは、天皇陛下を足蹴にするよりいけないことなのだ。だから、ポストから新聞を取り出す時も、跪(ひざまつ)いて深々と一礼し、押し戴くように新聞を取り出す習慣を身に付けなければいけない。もちろん新聞を読むときも、お茶を呑みながら、などと言う失礼極まりない態度で読んではいけない。おそらく早晩、新聞を読ませていただく際の作法が法律で定められることになるだろう。

 公明党・山口代表の閣議後の発言はこうだった。
「与党協議では、他国のためだけでなく、日本国民の生命、自由、権利を守るための限定的な行使容認であり、閣議決定案以上のことは憲法改正でなければできないことを確認するなどの歯止めを勝ち取った」
 この発言が、一字一句事実だったことは、私は公明党事務局に電話で確認している。この発言は当日NHKがニュース7で武田アナウンサーが「代行アナウンス」したもので、その内容はネットのNHKオンラインで公開されたものを私がプリントした。だから武田アナウンサーの発言内容は一字一句NHKが責任を持たねばならない。
 その山口発言を読売新聞はこう捏造した。ただし、記者会見での発言を捏造すると、いくら何でも、と気が引けたのか、新聞記事ではこう書いた。
「意見が一通り出たところで(※公明党の地方代表者会議でのこと)、山口代表は閣議決定案について『他国防衛ではなく、自国防衛であるという目的が明確になった』と歯止めを求めた成果を強調した」
 閣議決定後の記者会見での発言が問題化するのを消し止めるため、読売新聞はあえて公明党内部での説明発言にすり替えて山口代表の発言を捏造した。どこが捏造か、お気づきだろうか。
 山口代表は、「他国のためだけでなく」と、「他国のためにも」集団的自衛権を行使することを安倍総理との密談で了解したことを意味する。でも、この説明は間違っていないのだ。集団的自衛権とは「自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する」つまり「密接な関係にある国のため実力を行使する」ことであり、だからこれまで「憲法9条の制約によって行使できない」としてきたのである。その政府見解に従えば、山口代表は「他国のためにも」実力を行使するとコメントしたのは、従来の政府見解を踏襲したものにすぎず、自民党執行部の「集団的自衛権行使容認のために憲法解釈を変更する」という方針に完全に沿っており、読売新聞がわざわざ発言内容を捏造する必要などなかったはずだ。
 が、読売新聞は「他国防衛ではなく、自国防衛であるという目的が明確になった」と発言内容を捏造した。「他国防衛ではなく、自国防衛のために実力を行使する」ことが目的だったら、すでに砂川判決によって自国防衛の権利としての実力の保持と行使の合憲性は確定している。その権利は、言うまでもなく「集
団的自衛権」ではなく「個別的自衛権」である。読売新聞はこの捏造の訂正記事も出さずに読者をごまかせると考えているようだ。読売新聞の読者は小学校低学年のこどもが大半なのだろうか。それならそれで、漢字にはかつての新聞のように振り仮名をつけた方がいいよ。
 なおNHKは昨日(13日)午後9時からの『NHKスペシャル』で集団的自衛権行使容認の閣議決定に至る舞台裏に迫る番組を放送した。それはいいが、山口代表の発言については読売新聞が捏造した内容に変更した。つまりNHK報道局が武田アナウンサーの「代行アナウンス」より、読売新聞の捏造記事のほうを信用したということを意味する。
 だが、NHKはこの番組で、地方の公明党幹部が支持層(はっきり言えば創価学会員)から相当突き上げを食っているシーンもいくつか紹介した。私が、この連載ブログの⑤(10日投稿)で書いたように、自公の選挙協力で活動するボランティアの実態は創価学会員であり、彼らが納得しなければ選挙協力も画餅に帰する。山口代表の苦労も「水の泡」と消える。本題に戻る。

 まず行使容認の支持派新聞の社説から検証する。
 読売新聞は「米国など国際社会との連携を強化し、日本の平和と安全をより確実なものにするうえで、歴史的な意義があろう」と主張した。日本経済新聞は「日本、そしてアジアの安定を守り、戦争を防いでいくうえで、今回の決定は適切といえる」と主張した。産経新聞も「日米同盟の絆を強め、抑止力が十分働くようにする。そのことにより、日本の平和と安全を確保する決意を示したものでもある」と、述べた。本当か?
 あらかじめ書いておくが、私はこれまでのブログで、一貫して「憲法解釈の変更」自体は批判して来なかった。ただ、安保法制懇の報告書の、憲法解釈の変更はこれまでもあった、という主張は真っ赤なウソだと指摘してきただけだ。憲法の判断は最高裁判所が下すべきことであり、政権が勝手に解釈できることではないということしか主張していない。ましてや六法全書など手に取ったこともない私が、憲法解釈云々を声高に主張できるほどの知識を有してはいない。
 また閣議で何を決定しようが、それで国の政策が決まるわけではないから、同様に閣議決定が国の軍事政策を決定できるわけでもない。もし、安倍執行部の当初案を閣議決定していたら、間違いなく全国各地で弁護士連合会や憲法学者、市民団体による訴訟が提起されていたであろうが、この段階での訴訟は無理だ。もし提起できるとすれば、公明・山口代表の「他国のためだけでなく」という言葉尻を捉えて憲法違反だと主張する以外に方法はないが、閣僚でもない一政党代表の言葉尻で訴訟に勝てる見込みはまずないと思う。
 ただ、今後国内関連法の整備を図って行く中で、違憲法案を国会が可決したら、そのときが訴訟提起のチャンスになるが、おそらく内閣法制局の徹底的チェックが法案作成の過程で入るだろうから、果たして違憲と主張できるような法整備に至るかどうかは極めて疑問だと思う。
 米政府は日本の閣議決定を有頂天になって歓迎しているようだが、あまり期待しすぎると、そのあとに間違いなく訪れるだろう「失望感」との落差が大きくなりすぎる。「可愛さあまって、憎さ百倍」ということわざもある。日本への期待が外れたときの反動が怖い。
 実際問題として訴訟を起こしても裁判で勝てる見込みがないとすれば、私の論理で行使容認反対派の朝日新聞や毎日新聞が世論を喚起できるだけの主張を展開し、野党だけでなく与党のかなりの議員たちが閣議決定を認めないという姿勢で8月14,15日の予定されている国会での多数派を占める以外に方法はない。日本が再び「危ない道」に踏み出すかどうかの瀬戸際だ。いつまでもこれまでの主張との整合性の維持にこだわって「反対のための反対」では世論は動かない。メンツを捨てていただく以外に方法はない。

 歴史の検証は何のために必要か。「慰安婦問題」のようなバカバカしい議論を、
事実の検証で決着をつけるためではない。
 かつて第1次世界大戦後の1919年に国際平和の実現を目指して国際連盟が設立された。日本は日清、日露、第1次世界大戦での勝利によって米英仏などと肩を並べて常任理事国として中核的役割を果たした。実際、日本は自らの「国
益」とあまり関係がないヨーロッパの紛争についてはきわめて公平な主張をして国際連盟の中核的存在になっていった。
 その国際連盟で、世界の平和と安全を高めるため列強間で軍縮のための試みが何度か行われた。最初の軍縮会議は22年11月から約3か月にわたって開催されたワシントン会議である。ただ、この会議は国際連盟の正式な承認を得ずに行われた。この会議での決定事項は日英同盟を破棄して日米英仏4か国によるアジア太平洋地域における各国の権益を保証することと、この4か国にイタリアを加えた5か国の主力艦の保有量を制限することだった。
 この会議で締結されたワシントン海軍軍縮条約の締結が、日本国内の軍国主義勢力と平和主義勢力との政治的主導権争いを一転させることになる。この会議で日本の主力艦の対米英比率で6割とされたが、実は日本政府は代表団に対して逐一譲歩条件を暗号電で指示していた。政府が指示した譲歩の限界が対米英比率6割だったのだが、アメリカ側はその暗号電を傍受・解読していた。つまり最初から手の内を見抜かれていた交渉で、日本は赤ん坊のようにあしらわれたと言ってよい。なお、当時はGDPや対GDP比という概念はなかったが、列強各国の経済規模に占める海軍規模の比率は、それでも日本が突出していた。が、予定していた最低案で日本代表団が調印したことに、国内の軍国主義勢力が一気に攻勢に出る。が、この時期はまだ平和主義勢力のほうが国内世論の大勢を占めており、メディアもまだ軍国主義礼賛姿勢一辺倒には転じていない。
 問題はこのワシントン会議は国際連盟が正式に招集した会議ではなく、その会議で締結されたワシントン海軍軍縮条約自体の国際法上の有効性が当初から疑問視されていた。また、ワシントン海軍軍縮条約は主力艦に限定された条約であり、巡洋艦などの建造数に対する制限は行われていず、日本を含めて列強は巡洋艦の建造競争に突入していく。そのため29年6月に国際連盟がロンドン海軍軍縮会議を招集し、1年余に及ぶ軍縮会議を行った結果、日本は提案していた対米7割にほぼ同じ6.975割という妥協をアメリカから引き出すことに成功した。が、重巡洋艦保有率が対米6割に抑えられたこと、また潜水艦保有量が希望数に達しなかったことで、海軍内部で軍国主義勢力が一気に攻勢を強める契機になった。
 メディアは、先の大戦で、陸軍は好戦派、海軍は平和派、といった歴史認定をしているが、陸軍も海軍も一枚岩ではない。現在の防衛省内部でも、安倍執行部の支持派と批判派が水面下で主導権争いをしているはず、というジャーナリストだったら当然持つべき発想をなぜ持てないのか、私にはそうした単純思考能力しか持っていない人たちがメディアの主導権を持てること自体が不思議でならない。
 ちなみに国際連盟が第2次世界大戦を防げなかったことから国際連合(国連)が結成されたかのような説明が中学や高校での歴史教科書などでされているが、結果論としては事実だが、別に国連が世界的紛争を防止してきたわけではない。国際情勢が大きく変化して大国による植民地獲得競争ができなくなったこと、旧日本軍がアジアの植民地を次々に開放したことが契機になって、列強の食い物にされてきたアジアやアフリカ、中東諸国が次々に独立運動をはじめ、それらの国の「民族自決権」行使を列強も認めざるを得なくなった結果にすぎない。
 さらに言えば、国際連盟の規定では総会の決議(多数決)が最高の意思決定手段だったが、国連は安保理があらゆる権能を有し、安保理には常任理事国として拒否権を持つ5大国が絶大な権限を有しており、民主的な機関としては国際連盟にはるかに劣る。
 はっきり言えば5大国が国際社会に君臨することを明記したのが国連憲章である。なぜそうなったのか。おそらく憲章が成立した45年6月には中国はまだ蒋介石の国民党が代表であり、ソ連は圧倒的に不利な立ち位置にあって、ソ連が強引に常任理事国の拒否権を米英に呑ませたのではないかと想像している。その辺の経緯を明らかにしたら、間違いなくノンフィクション賞が取れる。

 2.26事件はロンドン海軍軍縮会議のわずか5年半後の1936年に生じた。ロンドン海軍軍縮会議での日本の「弱腰外交」に対する批判を盛り上げ国民世論にまで軍国主義思想を広めたのが、ほかならぬメディアだった。言っておくが、当時のメディアは新聞だけと言ってもいい。NHKの前身である東京放送局が設立されたのは24年、翌25年3月には仮放送を始めたが(ラジオ)、庶民には高根の花であり、世論形成は「新聞の思うがまま」の時代だった。新聞が軍国思想を蔓延させていなかったら、おそらく2.26事件も起きていなかった。
 どの国でも、他国を侵略するために軍備を増強するなどと主張したケースは、過去にも現在も、おそらく一つもないはずだ。先の大戦で日本がアジアに侵攻したときも、ヨーロッパ列強の植民地支配からアジアの諸国と国民を解放するという大義名分を口実にした。
 また他国の軍事力が「脅威だと考える」のはどの国でも政府の特権であり、「脅威である」と国民を説得できれば軍事力増強の正当な理由になる。本当に中国や北朝鮮が日本を標的にした軍事力の強化ではなくても、「日本が脅威にさらされている」と政府が判断して、メディアもそれを支持すれば、ロンドン海軍軍縮会議以降の日本の軍国主義への急傾斜と同じ結果が生じる。
 日本で生じることは他の国でも当たり前のことだが、生じる。集団的自衛権行使容認を中国や北朝鮮が脅威に思うのは間違いだ、とでも安倍総理は本気で思っているのか。行使容認支持派のメディアは、「日本の安全性が高まる」と主張するが、日本の安全性が高まれば、そのことが直ちに中国や北朝鮮にとっては脅威の増大になり、さらに中国や北朝鮮は自国の安全性を高めるために軍事力を強化せざるを得なくなる。当然、日本の安全性は、集団的自衛権行使を憲法解釈の変更によって一時的に高めたとしても、さらに新たな脅威に対抗するため行使の限定容認の制約を外さなければならなくなる。もちろん、行使容認派のメディアは、百も承知で安倍政権の軍事政策を支持していくのだろうよ。  

 ことのついでに書いておくが、これから集団的自衛権行使容認に伴う国内関連法案、自衛隊法や周辺事態法など20を超える法律の改正作業に入らなければならない。その法案改正作業は、当然ながらアメリカの顔色をうかがいながらの作業になる。アメリカを失望させるような範囲に国内法の改正が留まったら、閣議決定はアジア諸国の緊張を高め、返って日本の安全保障をより不安定なものにしただけ、という結果を招きかねない。
 しかしアメリカの期待に添うような法改正を行うとしたら、おそらく憲法に抵触しかねないものになる。日米安全保障条約も再改定せざるを得なくなるだろう。国民の総意を問わずして国会の多数決で安倍内閣は憲法改正まで突き進むつもりなのか。
 そうだとすれば、自衛隊にクーデターを起こさせ、非常事態状況を作り出して大統領制を敷くしかない。そこまで安倍さんは覚悟しているのだろうか。言っておくが、これは夢物語ではない。ほんの数十年前にドイツのヒトラーはクーデターにも頼らず、合法的に独裁政権を作り出すことに成功した。当時のドイツは後進国ではなく、相当民度が高い国だった。日本で、そういうことはありえないと考えているメディアほど、実はその道への水先案内人の役割を果たしていることに、気付いているのか、いないのか…。(続く)




集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑥

2014-07-11 05:21:59 | Weblog
「集団的自衛権」問題についての私の考察の最後だ。私はツィッターやフェイスブックはやっていないので、私の考察に共感してくださった方は、このブログをツィッターやフェイスブック、あるいはほかのSNSやメディアを利用して読者層の拡大に協力して頂けないだろうか。昨日のブログでも書いたが、私はこの作業で1円の対価も得ていないし、今後も得るつもりはない。読者が増えればメディアも私のブログを無視できなくなるし、メディアが変われば政治も変わり、日本も変わる。
 今月17日で74歳になる私にはもう物欲も金銭欲も名誉欲もない。ただ、将来の日本を背負ってもらわなければならない若者たちが、自己中心的基準や知識を頼りに物事を考えるのではなく、純粋な論理的思考力を唯一の手掛かりに、将来の日本という国の在り方に取り組んでほしいという思いだけでブログを書いている。もちろん私のブログ読者が増えれば、広告が貼り付けられるようになるかもしれないが、たぶんその広告費は広告代理店とブログのサイトを運営しているgooに入る仕組みになるはずで、私はそのことには一切関与しない。
 私はブログ記事をワードで書いて貼り付け投稿し、ワードで書いた原本はプリントアウトしているので、パソコンで私のブログ記事を読み直すことはしていない。そのため読者が増えたらどんな状況になるか、私には分からない。もし不適切な広告が貼り付けられるような事態が生じたら、何らかの対策をしなければならないので、そのときはコメントで連絡していただきたい。

 さて読者諸氏は、「集団的自衛」「集団的自衛権」「集団的自衛権行使」のそれぞれの意味合いを論理的に考えて頂いただろうか。実はメディアも政治家も学者も、その区別をせずに自分たちの主張にとって都合がいいように使っている。意識して使い分けている方もゼロとは言わないが、集団的自衛権問題を論じる人たちは、その言葉の厳密な定義を無視して使っている。
 かく言う私自身が、昨年8月に初めて集団的自衛権問題についてのブログを書いて以降、この問題に取り組むたびに新しい疑問を持ち、その疑問を解決するために思考を重ねてきた。この三つの用語の使い分けが必要だという意識を明確に持ったのも、6月18日から3回にわたって投稿したブログ『最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ』を書き終えた後、昨日のブログの冒頭で書いたように自民が舵を大きく切ったことの意味を考えた中で、ふと気づいた疑問だったのである。
 そして、私がたどりついた論理的解釈はこうである。つまり結論を先に述べてしまうことにした。その方が、いま起きているいろいろな事態について、読者自身が論理的に理解しやすくなると思うからだ。

「集団的自衛」……仲間同士、共同で仲間を守り合おう、という意味。つまり、仲間のうちどこかの国が他国から攻撃されたら、その仲間の国ををみんなで守ろうという「共同安全保障体制を作る」のが「集団的自衛」の本来の意味。NATOや旧ワルシャワ条約機構がそれに当たる。

「集団的自衛権」……国連憲章51条によって加盟国に認められた「固有の権利」。国連憲章は、国際紛争を武力によって解決することを禁止している。が、その大原則を破って他国を武力攻撃する国が出た場合、国連憲章はその国に対して外交・経済・通信などあらゆる「非軍事的(制裁)措置」を行ってもいいよ、という権能を安保理に与えている(第41条)。が、そうした制裁では解決できなかった場合は、やはり安保理にあらゆる「軍事的(制裁)措置」をとることを認めている(第42条)。が、安保理には拒否権を持つ5大国(米英仏露中)が常任理事国として君臨し、41条や42条による制裁を行うことが事実上困難だということがあらかじめ予想されたため、国連憲章が作成される過程でラテンアメリカ諸国の主張を受け入れる形で、共同防衛(集団安全保障)の権利が認められた。

「集団的自衛権行使」……国連憲章51条は、「個別的自衛権」(自国の軍隊で自国を防衛する権利=自然法と解釈されている主権国家が持っている当然の権利)や「集団的自衛権」の行使については、勝手にやってもいいよとは認めていない。国連憲章は安保理に国際紛争解決のためのあらゆる権能の行使を認めており、安保理の権能が加盟国の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」より優位にあることを前提にしている。そのため国連憲章51条は「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という期限付きで加盟国に行使を認めている権利である。

 このように論理的に三つの用語を理解できれば、安倍・自民党政権が強行しようとしている「集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更」が、どう屁理屈をこねても国連憲章が認めているものとはまったく違うということが、読者には手に取るようにご理解いただけたのではないだろうか。
 安倍・自民党執行部は、当初は従来の「集団的自衛権」についての政府見解を踏襲したうえで、その権利を行使できるように憲法解釈を変えるというスタンスだった。従来の政府見解は、読者には目にたこができるほど書いてきたが、改めて書くと「自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」で、「国際法上(※国連憲章のこと)、固有の権利としてわが国も保持しているが、憲法9条の制約に
よって行使できない」というものだった。
 そもそも、そんな解釈は国連憲章をどう読んだらできるのか。国連憲章が認めている「集団的自衛権」は、すでに書いたように「共同防衛(集団的安全保障)」の権利であって、集団的安全保障条約の締結国間で認められている権利である。そうした共同防衛体制を構築していないのに、勝手に「密接な関係にある他国が攻撃されたら自国が攻撃されたと見なす」権利など、国連憲章が認めるわけがないことに、メディアや政治家、学者はまだ気が付かないのだろうか。
 そもそも終戦直後に憲法制定に当たって吉田茂内閣が作成した政府原案(現行憲法は政府原案をベースに、いわゆる「芦田修正」が加えられたもの)をめぐる国会論議で、共産党の野坂参三議員との間で、こういうやり取りがあった(1946年6月28日。芦田修正が加えられる前)。

 野坂「戦争には侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」
 吉田「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」

 現行憲法は、政府原案が修正されることによって「個別的自衛権」までは憲法9条は否定していない、と自衛隊の合憲性が認められている。その代わり自衛隊法で、自衛隊の行動範囲が「専守防衛」であり、その目的のための「必要最小限度の実力(※戦力のこと)」しか持てないことになっている。
 国会での吉田答弁は、自衛権をも否定してはいるが、「近年の戦争は多くは国家防衛の名において行われたることは顕著な事実」であることは疑う余地がない。現在もイラクやウクライナにおける紛争に、アメリカやNATO、ロシアが不必要な介入をしているのも、それぞれの「国益」にかかわる事態だからだ。
 そもそも国連憲章が認めている自衛権は、「個別的」であるにせよ「集団的」であるにせよ、他国から不法な武力侵害を受けた場合にのみ行使できる権利であって、一国の国内紛争に他国が介入する権利など、どの条項も認めていない。泥沼化したイラク紛争は宗教対立に民族対立が複雑に絡み合ったケースであり、現在のイラク政府がアメリカに軍事的支援を要請する権利もないし、またアメリカもイラク政府の要請に応じる義務(権利?)も国連憲章は認めていない。
 また、ウクライナの紛争もようやく実態が分かってきた。現在のポロシェンコ大統領の立ち位置はかなり微妙である。ロシアと米欧が対立したのは、クリミア自治共和国のウクライナからの独立を問う住民投票であった。
 そもそもウクライナは旧ソ連邦の構成国家の一つだったし、国境をヨーロッパと接しているという意味においても重要な軍事的位置を占めていた。ソ連邦の解体によってウクライナは分離独立し、ウクライナ国内の核基地も撤去された。が、ロシアにとってはウクライナは重要な「同盟国」のはずだった。実際独立後もウクライナ政府はロシアとの友好関係を築いていたし、経済関係も緊密だった。
 が、2004年の「オレンジ革命」によって初めてウクライナに親欧米派のユシチェンコ政権が誕生し、NATO加盟の方針を打ち出したことから、ロシアにとっては重大な軍事的脅威をまともに受ける可能性が生じた。そこでロシアはそれまでウクライナに特別価格で提供していた天然ガスの価格を国際市場並みに引き上げるという経済的制裁を発動し、2006年の総選挙でユシチェンコ政権に代わって親ロ派のヤヌコーヴィチ政権が誕生、ロシアとの友好関係が復活した。
 が、ウクライナ全体としては親欧米派が多く、住民投票の結果としてEUとの経済連携協定を結ばざるを得なくなった。その調印をヤヌコーヴィチ大統領が昨年11月に拒否したことで、親欧米派市民による反政府デモが首都キエフで発生、警察との衝突で多数の死傷者を出したことで、今年2月にヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、親欧米派の暫定政権が新大統領選出までの政権運営を担うことになった。この事態をロシアは「クーデター」と非難し、ロシア系住民(※人種的にはロシア人と思われる)が6割を占めるクリミア自治共和国が住民投票を実施し、ウクライナからの分離独立とロシアへの編入を決め、ロシアもクリミアの編入を認める決定をした。
 クリミアがロシアの領土となると、ロシアがクリミアに核も含めた強力な軍事基地を建設することは当然考えられる。そうなるとEU諸国にとってはウクライナがNATOに加盟しても、かえってロシアの軍事的脅威が高まることになる。そこでEU諸国が同盟国のアメリカを巻き込んで「クリミアのロシア編入は認められない」として経済制裁に乗り出したというのが混乱の経緯である。一方ロシアが直接関与したかどうかは分からないが、ロシア系住民が約4割を占めるとされる東部2州がやはりウクライナからの分離独立を求める活動を始めた。その勢力が暫定政権の軍隊と武力衝突にまで発展し、そうした混乱の中で大統領選挙が行われ、現在のポロシェンコ政権が発足した。
 いま現在、米欧は振り上げたこぶしの持って行き場に困惑している。ポロシェンコ政権が東部2州の自治権を拡大するなどの条件を提示し6月21日には1週間の停戦を軍に指示した。ロシア系住民がポロシェンコ政権に歩み寄って武装解除すれば、ウクライナの内紛はこれで一件落着ということになったのだが、親ロシア派も一枚岩ではない。
 親ロシアは内部での主導権争いがあるだろうし、ポロシェンコ大統領の「ア
メとムチ」に応じる勢力と、あくまで分離独立を主張する勢力との対立がある
と思われる。メディアがそういう論理的視点でウクライナ情勢を取材し分析すれば、親ロシア派は最終的にはポロシェンコ大統領の説得に応じざるを得なくなることは予測できるはずだ。おそらくポロシェンコ政権はクリミア問題を事実上棚上げしてしまうであろうし、そうすることによってロシアともヨーロッパとも友好な関係を築く方針を打ち出すのではないか。
 ヨーロッパ諸国も実はウクライナ経由でロシアからの天然ガス輸入にエネルギー源のかなりの部分を依存しており、本音はロシアとあまり事を構えたくない。が、アメリカを2階に上げておいてはしごを外してしまうと、今度は米欧関係に溝が生じる。そうなった場合に米欧間の仲介役として期待されるのがアメリカ最大の同盟国イギリスだが、イギリスはEUともやや距離を置いた立ち位置にいるうえ、ロシアからの天然ガスの供給は受けていない。ウクライナの内紛でロシアと事を構えたくないというのが本音だろう。
 他国の国内紛争に「自国の国益が脅かされる」として介入する構図は、いまも昔も変わらない。そうしたご都合主義的な「国益重視」は、かつて吉田総理が国会で答弁したように「戦争の多くは国家防衛権の名において行われる」現実に変化はない。ただ昔と違うのは、すぐにドンパチを始めるというわけには、だんだんいかなくなりつつあるという国際情勢の変化がある。
「世界の警察」を自負してきたアメリカも、イラクの内紛に軍事介入に踏み切れないのも、アメリカ国内で「なぜ関係のないことにアメリカ人がいつも先頭で血を流がさなければならないのか」という世論が強まりつつある状況も、国際情勢の変化を反映していると言えよう。
 そもそもアメリカの国際的威信が失われだしたのは、ベトナム戦争以降である。それまではアメリカが世界の警察としてふるまうことに、アメリカ人も国際世論もさほど違和感を覚えていなかったと思う。が、ベトナム戦争でアメリカがアメリカ史上初めて敗北したという現実を前に、アメリカに対する国際的評価も大きく変化し、国内世論も激変した。アメリカ国内では「反戦運動」が広まり、徴兵制も廃止されることになった。
 湾岸戦争は、イラクによる突然のクウェート侵攻に端を発したケースであり、ある意味では国連憲章42条が初めて適用されたと言ってもいいと思う。国連憲章42条が本来想定していたのは「国連軍」だったはずだが、冷戦下で米ソがことごとく対立して国連軍が結成されることはなかった。そのため湾岸戦争においては、クウェート政府の要請に応じて国連加盟国有志が「多国籍軍」を結成し、イラクに対する軍事的制裁に乗り出した。またこの行為は、考えようによっては、やはり初めて国連憲章51条に基づく「集団的自衛権」が行使されたケースと言ってもいいかもしれない。
 が、このケース以外にアメリカや旧ソ連が「集団的自衛権行使」を口実に他
国に軍事介入したケースは、すべて国連憲章に基くものではない。ベトナム戦争も然り、2001年の9.11事件(同時多発テロ)に端を発したアフガニスタンのタリバン政権への攻撃も、9.11事件そのものがアフガニスタン政権による戦争行為ではないにもかかわらず、アメリカは勝手に「個別的自衛権」を行使してタリバン勢力をアフガニスタンから一掃しようとした。このときイギリスはアメリカとの同盟関係によってタリバン攻撃に参加した。
 このケースを国連憲章51条に当てはめて考えると、アメリカがイギリスに共同攻撃を要請した行為がアメリカの「集団的自衛権行使」なのか、それともアメリカの要請に応じたイギリスのタリバン軍攻撃がイギリスによる「集団的自衛権行使」なのか、どちらが集団的自衛権を行使したのか、メディアや政治家、学者は論理的整合性がある説明を行う必要がある。
 まして湾岸戦争で敗北したイラクだが、イラクのフセイン政権は合法的に存続した。フセイン政権が存続できたのは、多国籍軍が中途半端な状態でイラク・フセイン政権と和平してしまったからでもある。が、9.11事件の発生で国際世論がアメリカへの同情に傾いたのを好機として、湾岸戦争以降とくに問題を起こしていなかったにもかかわらず、当時のブッシュ大統領が2002年の年頭教書演説でイラク、イラン、北朝鮮を名指しで「悪の枢軸」と非難し、9.11事件の直後ということもあって国際世論はアメリカに同調気味になった。当初アメリカはイラクの大量破壊兵器保持の疑問を口実に、国連にイラク制裁行動を提案し、日本も根拠なくアメリカに同調したが、国連での決議は成立せず、2003年3月、アメリカとイギリスが国連の決議を得ずにイラクへの戦争を始めた。これが「イラク戦争」であり、その目的はフセイン殺害にあった。
 さあ、安倍さん、「イラク戦争のような戦争には参加しない」理由を論理的に説明してよ。
 安倍さんは「中国や北朝鮮の軍事力の強化」を「脅威」と考えている。その「脅威」を「集団的自衛権行使」によって排除するという。もっともらしく聞こえるが、「集団的自衛権行使」による日米軍事同盟強化は、中国や北朝鮮にとっては「脅威」にならないと、安倍さんは考えているようだ。「日本が戦争を仕掛けることはない」からだ。が、安倍さんがそう主張するのは勝手だが、中国や北朝鮮は鵜呑みにせず「脅威」と感じるかもしれない。本当は感じていなくても、感じたふりをして自国の軍事力の強化の口実には、間違いなくする。明治維新以降の歴史は、そういう「負の連鎖」によってつくられ、日本はアジアに拭い消すことができない「負の遺産」を残した。
 さあ、安倍さん、「集団的自衛権行使」が「負の連鎖」を生じないことを論理的に説明してもらいたい。できるかな、あんたの頭で…。

 日本経済新聞が昨日の朝刊1面トップでスクープ記事を流した。北朝鮮が拉致生存者30人のリストを作成したというのだ。が、菅官房長官が「未確認」と日本経済新聞の報道を否定した。喜びが、一瞬で消えたのは私だけではないだろう。しかし、今回の北朝鮮の拉致問題に対する取り組みは本物だ。北朝鮮は国際的孤立(実際には北東アジアでの孤立)から脱却するための最後のカードを切ってきた。
 今まで唯一の友好国だった中国からも冷たくあしらわれるようになり、北東アジアでの孤立から抜け出す最後のカードが拉致被害者の調査だ。「北朝鮮はどこまで本気か」などという疑問を持ち、調査機関の人選を見て北朝鮮の「本気度」を計るという発想そのものが非論理的だ。
 実際、このカードを切りそこなったら、金政権は崩壊するという危機感を北朝鮮は持っている。北朝鮮が本気で調査をして、横田めぐみさんをはじめとする日本政府認定の17人の拉致被害者を含む、拉致疑惑を持たれている人たちの現状を徹底的に調べることに疑いを抱く余地はない。
 むしろ問題は、北朝鮮が「本気度」を証明するに足るだけのデータ(生存者リストを含む)を出してきたとき、必ず日本に対して新しいカードを切ってくる。どんなカードになるかは分からないが、おそらくアメリカがOKしないようなカードになることは覚悟しておかなければならない。
 そのとき安倍総理が「政府は国民の生命に責任を持つ」という言質を国民に与えたことを、実際の行動で証明しなければならなくなる。場合によっては安倍政権の命取りになる可能性すらある。そのことを、政治家もメディアも分かっていない。このブログを読んで、北朝鮮の「本気度」とその目的が理解できないジャーナリストは、去れ。(続く)

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑤

2014-07-10 06:55:37 | Weblog
 メディアの報道によると、この夏にも集団的自衛権行使についての国会論議を、衆参で各1日ずつの短期論議で安倍政府は閣議決定を正当化するようだ。
 当初、集団的自衛権行使は憲法改正で行えるようにすべきだとし、自民執行部との協議に応じる姿勢を見せていた公明執行部をけん制していた創価学会本部も、公明・山口代表の説得に応じて閣議決定を了承したようだ。「厳重な歯止めをかけた。アメリカの戦争に日本が加担するようなことはさせない。今公明が連立から離脱すれば、自民党政権の足かせが完全に失われることになる」と、山口代表は創価学会本部を説得したようだ。
 そのため公明党地方代表者会議で猛烈な突き上げを受けた山口執行部を、今度は創価学会本部がかばう姿勢を見せだした。その結果、公明の地方組織も態度を軟化させたが、公明党の選挙活動は基本的に創価学会員が担っている。その末端の創価学会員が、今までのように一枚岩で選挙活動に力を注ぐ気持ちになれるかどうかは、まだ分からない。私は創価学会とは無縁なので情報はネットに頼るしかないが、来春の統一地方選挙で創価学会員の自民党公認候補に対する応援活動の実態を見るまで何とも言えない。
 一時は山口代表が「自分が辞めればいいんだろう」と腹をくくった発言をするほど、公明執行部内でも集団的自衛権行使問題での意見は割れていたようだ。が、自公連携の歴史は長く、いまでは「一心同体」とも言える選挙協力体制が構築されている。いま自民との連立を解消して選挙協力体制も解消するということになると、小選挙区制の下ではいくら創価学会の組織力が強いと言っても、強力な他党との連携なしには国政選挙は戦えない。結局山口代表の粘り勝ちといったところか。
 また、自民内部でも安倍=高村ラインの強硬派が、野田総務会長らの慎重派を抑えて政権基盤を完全に確立したことの表れかもしれない。ただその辺は、私は政治家との付き合いもないし、情報源はメディアに頼るしかないので、自民内部の派閥抗争の状況についてはまったく分からない。ただ、自民が一枚岩の政党ではないこと、また派閥自体もカネと人脈で維持されているだけで、派閥が政策面で一枚岩でないことも常識として分かっているだけだ。ただ、将来の総理候補とみられている野田聖子総務会長が、一時、安倍総理の独走に待ったをかけるような発言をしたことがあったが、その後自民内部での表立った執行部批判の声はメディアでは紹介されていない。だから、可能性として安倍総理の権力基盤である党内右派が主流勢力として固まってきたのかもしれない、と思っているだけだ。
 ただ、高村副総裁が砂川判決の「新解釈」で集団的自衛権行使容認説を唱え出したあたりから、私がブログで書いたように(いつ書いたかは覚えていない)、それまでの安倍=石破ラインから安倍=高村ラインに集団的自衛権行使容認体
制は移行したようだ。本来副総裁というのは、影武者のような存在で、政治の表舞台に出ることはほとんどない。実際、副総裁としての権限は何もなく、空席のことも少なくない。
 副総裁として知名度が高かったのは「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちたらただの人」の名言で知られる大野伴睦氏と、ポスト田中角栄総裁として自民の最左翼系とみられていた三木武夫氏を新総裁に指名した椎名悦三郎氏(いわゆる「椎名裁定」)くらいだろう。高村氏が率いる高村派も自民では小派閥で、党内の影響力もさほどではない。が、総裁選で一貫して安倍氏を支持してきたことによる「論功行賞」として、名誉職にありつけたという見方が強い。

 私は「安倍総理が目指している懸案」として、「憲法改正」と並べて、さりげなく「日米安全保障条約の改定」と書いたが、そういう話が現段階でどこからも出ているわけではない。メディアもそうした推測は一切していないし、与野党含め政治家からもそうした発言はまったく出ていない。にもかかわらず、私はなぜそういう断定的な書き方をしたのか。
 単純に、論理的結論として安倍総理は祖父の岸信介元首相が行った日米安保条約の改定と同様、日米安保条約の再改定を目指しているとしか考えられないからである。なぜなら、現行の日米安保条約は周知のように、アメリカにのみ日本を防衛する義務があり(有事の際、実際にアメリカが自国の国益に反してまで日本を守ってくれるかどうかは別)、日本にはアメリカを防衛する義務はないことになっている。そういう関係を「片務的」といい、集団安全保障体制(たとえばNATOのような)によって相互共同防衛を条約によって約束している関係は「双務的」という。安倍執行部が目指している集団的自衛権行使容認の個別的事例の中に、限定的とはいえ米艦防護や、米国に向けて発射されたミサイルを迎撃するという行為が憲法解釈の変更によって可能になるとすれば、日米安保条約も限定的ながら「双務性」を必然的にもつことになる。米政府が公式に発表した見解ではないが、政府高官が「日本の集団的自衛権行使容認」を歓迎する発言を繰り返しているのは、アメリカ国内の世論が「他の同盟国はアメリカのためにも血を流してくれているのに、日本はカネしか出さない」という、安保条約の片務性に対する反発が国内で相当根強いことを意味していると考えてよい。
 アメリカ国内の対日感情については最近のメディアは一切調査もしていないし、仮に調査をしていても報道していない。だから、推測でしかないと言われればその通りなのだが、あくまで論理的な推測の結論である。世界最大の民間調査会社の米ギャラップ社は30か国以上に調査機関を擁し、それぞれの友好国間、あるいは敵対視している国同士の相手国に対する国民感情の世論調査を定期的に行っているはずだが、その結果もメディアは無視しているようだ(あるいは記事の扱いが小さくて私が見落としているのかもしれないが)。

 これはアメリカの勝手といえば言えないこともないのだが、1970年代後半からアメリカでは「産業空洞化」が急速に進んだ。当時のアメリカは軍事・経済力だけでなく、あらゆる分野で技術力も世界のナンバー1だった。単に国内の生産物を海外に輸出するだけでなく、アジアや南米の「発展途上国」(当時はそう呼ばれていた)に対する産業支配力を強めるという国家戦略が背景にあった。もちろん海外進出したアメリカ企業は、企業の戦略として人件費が安上がりな「発展途上国」に生産拠点を移した方が、より国際競争力が高まるという計算があった。それはエレクトロニクス産業で一時は世界を制覇した日本が、人件費の安上がりな韓国に、次いで中国に、そして今はアジア諸国に「安い労働コスト」を求めて生産拠点を移した結果、その分野での国際競争力を失っていったのと同様、アメリカも重要産業の国際競争力を失っていった。アメリカの失敗を日本は学ぼうとしなかったと言われても仕方あるまい。
 ただ、アメリカの産業空洞化と日本のそれとはかなりのタイムラグがあった。技術というのは、基本的に生産現場からしか生まれない。日本が半導体の生産拠点を韓国に移していった時、基礎技術の研究拠点を国内に残しておけば技術的優位性は失わないと、勝手に思い込んでいたようだが、生産現場と直結しない研究所で生まれる技術はしょせん実用的レベルで国際競争力を持ち得るものにはならない。実際エレクトロニクス技術はアメリカで生まれ、日本が育て、花を咲かせたのは韓国、という結果を見れば歴然である。
 いずれにせよ、産業空洞化に伴って技術も空洞化していったアメリカは、日
本産業界にとってこの上ない「おいしい市場」になった。とりわけ石油ショックが日本産業界にとって神風になった。「資源ゼロ国」の日本と、「資源大国」でもあるアメリカとでは、石油ショックの衝撃度に天と地ほどの差があったからだ。「省エネ省力」「軽薄短小」を合言葉に、世界の頂点に君臨したエレクトロニクス技術を武器に、日本産業界は一気に国際競争力を高めていく。その結果、アメリカとの間に経済摩擦が激化することになった。なかでも自動車産業がその象徴だった。アメリカはガソリンがぶ呑みの大型車中心の生産体制を変えられなかったのに対して、日本はもともと国内市場の中心だった小型車で米国市場を席巻し始めた。
 これは日本にとって僥倖としか言いようがないことだが、ヨーロッパ諸国の自動車市場も小型車中心だったのに、なぜ日本車の一人勝ちになったのか。実は半導体の生産には「純水」という混ざりものを含まない水を大量に必要とする。日本や韓国の水は、石灰分などの混ざりものが少なく、低コストで純水を作ることができる。ヨーロッパでエレクトロニクス技術が育たなかったのは、ヨーロッパの水は混ざりものが多く、純水の生産に適していなかったという事情による。そのうえヨーロッパの自動車技術は伝統的に高スピード化を目標にしてきた。経済的合理性を重視してエレクトロニクス技術によるエンジン制御の効率化などの向上に総力を注いだ日本メーカーの感覚と、ブランド力に依存してきたヨーロッパ・メーカーの感覚の違いかもしれない。あるいは、アメリカ市場で日本車が勝利を収めた背景には、ひょっとするとヨーロッパ文化に対するアメリカ人の反発が底流にあったのかもしれない。
 それは逆の意味でも言える。ヨーロッパ、とくにイギリスやフランスは軍事的にはアメリカと同盟関係を結んでいるが、経済や文化の面ではアメリカに対する反発や警戒心が非常に強い。たとえば映画文化はフランスが生んだという歴史的背景もあって、ハリウッド映画はヨーロッパではなかなか受け入れられなかったし、映画文化を守るためにテレビにも当初は拒絶反応を示していた。
 ヨーロッパで最初にテレビ放送を始めたのはイギリスだが、敗戦国日本より遅れて、というのも唖然とするような本当の話だし、また放送方式(アナログ放送の時代)もアメリカが開発したNTSC方式は採用せず、フランスを除くヨーロッパはほぼ当時の西ドイツが開発したPAL方式を採用した。なぜかフランスはPAL方式を採用せず、独自のSECAM方式を開発、ロシアはSECAMを採用した。フランスがPAL方式を採用しなかったのは、先の大戦でナチス・ドイツに占領された恨みが、骨の髄まであったのかもしれない。またNATOの重要なメンバーでありながらフランスは旧ソ連時代からロシアとは西側では唯一友好的関係を結んでいた。また中国との関係も良好で、フランスは中国に相当の武器を輸出している。ヨーロッパの食文化にはない醤油もフランスではかなり前から隠し味の調味料としてしょうゆを使用するようになっているが、その醤油は中国からの輸入品が主流である。だから甘っぽくて私の口には合わない。

 そういう話にあまり深入りするのは止めよう。ただ物事を論理的に考えようとするときの方法として、何度も書いてきたように「単眼思考」ではだめだということだけわかっていただければ、それでいい。日本の小型車がアメリカ市場を席巻した経緯を複眼思考で理解していただくためにちょっと横道にそれた
というだけのことだ。
 そのとき生じた日米経済摩擦の中で一気に表面化したのが、日本に対する「安保タダ乗り」論だった。「日本は自国の防衛をアメリカに委ねておきながら、経済戦争でアメリカを脅かしている」というのが、その内容である。まだソ連の共産主義体制が崩壊する以前のことで、アメリカはアメリカの防衛上にとっても日本の米軍基地は重要な役割を占めていたのだが、「ジャパン・バッシング」の嵐の前には、そうした理性的判断をアメリカ人に求めるのは無理だったのだろう。
 安保条約に基づく日米地位協定では、日本側負担は基地を米軍に提供するだけで(基地所在地の所有者に対して支払う地代は日本政府の負担)、それ以外の経費はすべて米国が負担することになっていた。が、日本が高度経済成長を遂げる一方、アメリカは冷戦下における軍事費増大、とくにベトナム戦争後の財政難、そこに輪をかけた産業空洞化で基地の維持費に苦しむようになった。そうした背景の中で1978年から「思いやり予算」と位置付けた、在日米軍への「政府カンパ」が行われるようになり、その額も年々増大していった。2007年度の日本側負担は総額で6092億円、米兵1人当たり約1800万円に達しているという(その後の負担額はなぜか公表されていないようだ。あまりにも膨大になりすぎて公表しないことにしたのかもしれない。そうした状況に「特定秘密保護法」が加わったら…)。
 が、メンツのためかどうかは知らないが、米政府は日本からいただいている「思いやりカンパ」については米国民に明らかにしていないようだ。その結果、日米経済摩擦が生じたときに「ジャパン・バッシング」の柱として「安保タダ乗り」論が米国内の世論を形成していったという経緯がある。
 では、そういう反日感情がいまのアメリカに渦巻いているから、米国のご機嫌取りをしなければならない状況に今の日本があるかというと、そんなことはありえない。安倍総理は国際情勢の変化を「集団的自衛権行使容認」の理由として上げているが、国際情勢の変化として上げている理由が間違っている。
 確かに中国の海洋進出の活発化や北朝鮮の軍事力の強化は無視していいというわけではないが、本当にそれが日本の脅威と言えるようなものなのかと考えると、極めて疑わしいと言わざるを得ない。現に日中の関係は、尖閣諸島問題を除けばいがみ合わなければならない問題は何一つと存在しない。むしろ「集団的自衛権」行使容認で中国の日本に対する警戒心が高まり、それが組織的な反日感情に転化しかねず、早くも中国からの撤退を考慮し始めた日本企業は少なくない。そうなれば、日本の抑止力の重大な要素が失われることを意味することを理解しているメディアも政治家も学者、評論家も、私以外には誰もいない。純粋な論理的考察というのは、このように書くとだれも否定せず、自分もそう思っていたと勘違いしてしまうほど、自然に誰の頭にも素直に受け入れられる結果をもたらす。「集団的自衛権」行使は重要な抑止力の一つを失うことになるというのは、私のオリジナルな主張だということを、この際はっきりさせておく。
 日本政府は尖閣諸島については「領土問題は存在しない」という立場を採っているが、中国がばかばかしいこじつけで自国の領有権を主張するなら、国際司法裁判所で堂々と領有権の所在の決着をつければいいだけの話だ。そうした場で、日本とも中国とも特別な利害関係のない第三国に公正な判断を仰げば、間違いなく日本の領有権が国際的に確定するはずだ。
 オバマ大統領が「尖閣諸島は日米安保条約5条の範囲だ」と恩着せがましい主張をしてくれたが、その見返りにアメリカの「警察権」の補完的役割を約束するための「集団的自衛権行使」を、お返しとしてオバマ大統領に差し上げるとしたら、日本にとってあまりにも不平等な「物々交換」ではないか。実際、オバマ大統領の発言によって中国は尖閣諸島への野望を諦めたかというと、むしろ警戒飛行中の自衛隊機に中国戦闘機が異常接近するなど、逆効果すら現実化している。
 そういう挑発を繰り返している中国機に、沖縄米軍基地の戦闘機が中国の挑発行為を阻止するためにスクランブル発進してくれたことなど一度もない。日本政府も、沖縄の米軍基地総司令官に、中国の挑発行為に対して「自衛隊と協力して中国の挑発阻止の行動に出てほしい」と頼むことすらできないではないか。はっきり言って、沖縄の米軍は絶対に尖閣諸島防衛には動いてくれない。もし尖閣諸島防衛に動いてくれるとしたら、それはアメリカの国益に重要な影響がある、と判断した場合だけだ。現に、イラクのフセイン大統領を、根拠もない「核疑惑」を理由に殺害する目的のために起こしたイラク戦争で、結局イラクが核など持っていなかったことが判明したのち、フセインなきイラク国内で、宗教や民族対立によって生じた紛争の責任すら取れないではないか。
 そんなアメリカを当てにするために「集団的自衛権行使」という、これまでは憲法9条の制約によって「行使できない」とされてきたのを、論理的根拠も示さずに「行使に限定条件を付けるから、従来の政府見解を変えることができる」などと言う、屁理屈にもならない理由で「行使容認」を閣議決定して、アメリカからどんな見返りを安倍総理は期待しているのか。
 昨日のブログの最後にも書いたが、「脅威」の連鎖反応が生じることは必至であり、中国や北朝鮮に軍拡の口実を与えるという結果を招いたことなど、露ほども感じない総理を抱いた日本国民は、大変幸せだと思う。これは皮肉ではなく、中国や北朝鮮が日米関係の軍事同盟化を脅威に感じて軍拡をさらに強化すれば、当然日本にとっては重大な脅威が増大することになるから、国内の軍需産業や関連業界は空前の好景気に沸くことにだろうし、そのうえ輸出までできることになるのだから、日銀の金融政策に頼らなくても日本経済は高度経済成長期以来の好景気時代が到来するからだ。
 
 ここまで書いてきて、メディアの方もかなり「目からうろこが落ちた」ので
はないだろうか。単眼思考ではなく複眼思考で「集団的自衛権」問題を考察すると、今まで見えなかったことが見えてくるということがお分かりいただけただろうか。政治家の発言も、公明党の山口代表のようについ安倍総理との密談の中身をぽろっと漏らしてしまうこともある。
 NHKはそうした発言を録画による「生発言」ではなくアナウンサーが「代行アナウンス」するといった手法は、通常はとらない。おそらくNHKの報道部門で、山口発言をどう扱うかについての相当、意見の対立があったと思われる。極めて政治的に問題になる発言だったからだ。
 NHK報道部門の意見対立は、政府寄りのスタンスをとる体制派と、視聴者に真実を伝えるべきだという良識派の、「集団的自衛権行使」についての相容れない対立だったはずだ。それは安保法制懇の位置付けについてもあった。当初「政府の有識者会議」と位置付けたとき、私はふれあいセンターの上席責任者に抗議の電話をした。上席責任者は私の抗議を認め、報道部門に伝えると応じた。その結果、いったん「政府の」というオーソライズした位置付けをやめたが、体制派の巻き返しが功を奏したのだろう、再び「政府の」というオーソライズした表現に戻した。
 私がまた猛烈な抗議の電話をした時、電話に出た上席責任者は「本当ですか」と確認したうえで、「どうしてだろう?」と首をひねっていた。が、その後も武田アナウンサーの発言だけでなく、テロップでも「政府の有識者懇談会」とオーソライズした位置付けが続いた。その都度、私は抗議の電話をしてきたが、とうとう良識派が勝利を収めたのだろう、「安倍総理が設置した有識者懇談会」という、文句のつけようがない位置付けをするようになった。その間BPO(放送倫理・番組向上機構)にも私はNHKが政治的中立性を欠いていると訴えたが、BPOはこの件に関しては動かなかった。私が書いたブログ記事をFAXしたのだが、意味を理解できなかったようだ。
 こうした経緯に私自身が直接かかわってきただけに、今回の山口発言をどう
扱うかについても内部の意見対立が相当あったのではないかと思っている。山口代表の発言を録画で放送していれば、その瞬間「集団的自衛権行使」は吹き飛んでしまう。あくまで報道機関として録画の生発言を放送すべきだとする良識派と体制派との対立の結果、妥協の産物として武田アナウンサーが「代行」するという姑息な手段をとることになったと思われる。すでにブログで書いたように、私自身が公明党事務局に電話した山口発言の内容を確認しているので、武田アナウンサーの「代行アナウンス」を根拠にせず、読売新聞の記事を「捏造」と決めつけることができたのだ。読売新聞はNHKの報道が「代行」だったので、これ幸いと「でっち上げ発言」を作った。つまり吉田清治の捏造「ノンフィクション」小説の『私の戦争犯罪』と同じことをやったのだ。
 昨日、朝日新聞が「集団的自衛権」問題についての全国紙5紙に東京新聞を加えた6紙の社説の比較検証記事を書いた。自紙の社説を否定するわけがないので、こういうやり方はあまりフェアとは言えない。比較検証するなら、私のように純粋にロジカルに分析できる社外の人に紙面を提供すべきだろう。
 とりあえず、私自身の「集団的自衛権」問題についての考察は、明日で終える。全国紙5紙の社説検証は来週月曜日に行う(できれば1回で済ませたいと思っている)。明日はこの問題の「本丸」に切り込む。この連載ブログを始める直前に書いたように、この問題を論理的に考察する最大のポイントである「集団的自衛」とは何を意味するか、「集団的自衛権」とは何を意味するか、最後に「集団的自衛権の行使」とは何を意味するか、という問題を解明する。
 読者は、もう一度私が駆使してきたような論理的考察で、この三つの概念がそれぞれ意味していることを考えてほしい。もう「目からうろこが落ちている」人はかなりいるはずである。というのは、このブログはどれだけ私の論理的考察を理解してもらえるかを、複数のメディアに電話で確認しながら書いてきたからだ。
 正直私自身驚いたのだが、「北朝鮮の核は国連憲章が認めている固有の権利の一つである個別的自衛手段の一つだ。核不拡散条約は5大国のみに核保有を個別的自衛手段として認め、他の国の個別的自衛手段を禁止するというのは国連憲章上、どう屁理屈をこねても認められないはずだ」という主張に、私が電話した人全員が同意してくれたことだ。
 私は、その方たちに「あなたは今まで、そう考えていなかったでしょう」とまでは追及しなかった。そこまでしなくても、そうした論理的思考による考察をメディアがするようになれば、私はそれだけで1円の対価も得ていないこのブログを書き続けてきた目的は達成できるからだ。そんな人間が、日本にも一人くらいいてもいいではないか。

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。④

2014-07-09 06:37:56 | Weblog
 なぜだかわからないが、昨日のブログの訪問者・閲覧者が激減した。東京女子医大の内紛事件を冒頭に書いたため、「今日は集団的自衛権問題をパスしたのだろう」と思われたのかもしれない。もしそうだとしたら「本題に入る前に、ちょっと書いておきたいことがある。東京女子医大の内紛に興味がない方は読み飛ばしていただいてもいい」と断り書きを書いておくべきだったと反省している。まことに申し訳ないが、そう勘違いされた方は、東京女子医大事件を書いた後、今日のブログにつながる重要なことを書いているので、改めて昨日のブログを読んでから今日のブログを読んでいただきたい。私のミスで二度手間をおかけして申し訳ないが、ほかに理由が思い当たらないので、その旨を今日のブログのまえがきとして書かせていただいた。

「日本が戦争に巻き込まれる」という誤解があります。そういったことは絶対にありません。抑止力を高め、日本の安全を守るためのものです。――安倍総理は「国民への説明」で、そう強調した。が、本当にそうだろうか。二つの問題を巧みにすり替え、一つの問題であるかのような「振り込め詐欺」もどきの説明ではないだろうか。
 確かに日米関係を日米軍事同盟化することによって一時的には戦争の抑止力が高まるかもしれない。アメリカは「日米同盟」がこれまでの片務的なものから双務的なものに代わると解釈している。だからこそ「集団的自衛権行使を憲法解釈の変更によって可能にする」という閣議決定を高く評価し、歓迎の意を表している。アメリカがそう信じ込んでいる間は、日本防衛へのスタンスは強化されるであろう。そうなれば、安倍総理が「説明」したように、日本の抑止力は一段と強化される可能性はかなり高い。
 が、その一方で「日本が戦争に巻き込まれる」というのは誤解だとも「説明」している。日本が戦争に巻き込まれることがないなら、アメリカにとって「歓迎すべきメリット」は何もないことになる。今回の閣議決定で、1972年に政府が行った答弁の中での集団的自衛権についての解釈は、「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」だった。その解釈に基づいて政府は「日本も固有の権利として保持しているが、憲法の制約によって行使できない」としたのが当時の政府見解だった。その従来の政府答弁のもととなっていた集団的自衛権解釈の変更について、閣議決定は何も触れていない。ということは集団的自衛権の解釈は従来の政府答弁を踏襲していると見なさざるを得ない。
 しかし、安倍政権は「憲法解釈の変更」によって集団的自衛権を限定つきではあるが、行使できるとした。その根拠にしたのが、安倍総理が設置した安保法制懇の報告書である。報告書は、こう述べている。

 憲法9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」としていたのを(※これはウソ。後述)、1950年代には「自衛のための抗争は放棄していない」とした(※これもウソ。根拠が示されていない。こんな説明は、ウィキペディアだったら絶対に採用されない)。(中略)70年以降、政府は、憲法は自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じていないが、その措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきであり、集団的自衛権の行使はその範囲を超えるものであって、憲法上許されない、との立場を示すに至り、政府の憲法解釈は、今日まで変更されていない。

 この憲法解釈の歴史的経緯についての記述は、まったくの嘘八百である。すでにそのことはブログで書いたことがあるので、読者から「今まで国民に憲法
の教育をしてこなかった。(芦田修正すら教えないから)誰も議論にしないとい
うことですね」というコメントをいただいている。で、改めて現行憲法制定過程を箇条書きで振り返っておこう。

1 46年2月8日、日本の憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)が大日本帝国憲法を多少手直しし、GHQによっていったん完全解体された日本軍の再建を明記したうえで、戦争をしたり和睦する場合は帝国議会の承認を必要とするとした原案を作成、GHQに提出した。この改正案は天皇の統帥権をはく奪することで日本が丸裸にされることを回避しようとしたためと考えられる。

2 これをGHQが却下。当時のアメリカは「リメンバー・パールハーバー」を対日戦争遂行の大義名分にしており、マッカーサーも「日本憎し」の対日感情に凝り固まっていた。当時のアメリカ国内の「リメンバー・パールハーバー」の反日感情は日系アメリカ人をも敵性米国人と見なして強制隔離政策をとり、日本の敗戦が決定的になっていた時期にもかかわらず広島・長崎に原爆を投下したほどであった。その反日感情のすさまじさはナチスのユダヤ人弾圧をさえ超えた世界戦争史上、空前のものだった。それに比べれば、今日の韓国の「リメンバー従軍慰安婦」の反日感情など赤子の空腹泣きに等しい。
 マッカーサーは日本の憲法改正に関与していたGHQのホイットニー民政局長にマッカーサー三原則を示して「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」という文言を憲法に盛り込ませるよう指示した。

3 このマッカーサーの指示に対し、ホイットニーは「自衛権まで奪うとなると、日本が独立を回復したのちの日本の防衛義務をアメリカが負い続けなければならなくなる」と反発、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する……」という文言を憲法条文に入れることを拒否、自衛権についてはまったく触れない憲法草案を作成し、日本政府(吉田茂第1次内閣)に示した。このGHQ案は二つのチームが別個にそれぞれ日本政府と文言をすり合せながら作成したとみられる。というのは、二つのGHQ案が提示されたのは3月2日と5日で、6日には早くもGHQ案を盛り込んだ日本政府の「憲法改正草案要綱」が発表されているからだ。日本政府はGHQ草案を丸呑みしたのではない。「アメリカに押し付けられた」という「誤解」をことさらに強調している極右の人たちは、ためにする主張をしている。私は主権国家としての尊厳と責任を明記した憲法に、国民の総意で改めるべきだと考えているが、極右の人たちとは基本的立場が違う。

4 3月6日に発表された政府の憲法改正草案要綱は、大日本帝国憲法と同様、文語体で書かれていた。それを口語体に改め、多少の語句修正を施して政府原案として発表され、天皇直属の諮問機関(事実上の最高意思決定機関)である枢密院に諮詢されたのが4月17日。このときの政府原案が現行憲法のベースになったが、GHQ案と同じく戦争の放棄と戦力の不保持はうたったものの、自衛権と自衛手段については一言も触れていなかった。そのため帝国議会では自衛権と自衛手段についての与野党間の激しい論争があった。

5 枢密院がいったん政府原案を可決したため吉田内閣は6月25日に帝国議会衆議院に政府原案を上程、衆議院に「帝国憲法改正小委員会」(芦田均委員長)が設置され、政府原案に対して細部にわたる検証作業を開始した。その間も衆議院では与野党間で激しい論争が行われていた。その過程についてはウィキペディアより私が92年7月に上梓した『日本が危ない』の方が詳細なので、その個所を転記する。

 吉田首相は国会での日本進歩党・原夫次郎議員の「自衛権まで放棄するのか」との質問に答え、「第二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と、明確に自衛権を否定している(6月26日)。
 この吉田答弁に猛反発したのが、今日では護憲を旗印にしている社会党と共産党。まず共産党の野坂参三議員が「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」と噛みついた。吉田首相は次のように答弁した。
「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」(28日)
 社会党の森三樹二議員も「戦争放棄の条文は、将来、国家の存立を危うくしないという保障の見通しがついて初めて設定されるべきものだ」と主張した。これに対して吉田首相は次のように答弁した。
「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として、相当の制裁が加えられることになっております」(7月9日)

 これが国会に政府原案が上程されたときのやり取りである。このやり取りを根拠に、安保法制懇は、「憲法9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には『自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したとしていた』」としている。まったくの捏造説明である。この帝国議会でのやり取りの時点では、まだ新憲法は制定されていず、大日本帝国憲法がまだ有効のときである。だから、憲法改正の手続きも旧憲法の規定に沿って行われ、天皇直属の枢密院での可決と天皇の裁可が必要だった。当然、自衛権どころか天皇の統帥権すら喪失していない時で、読売新聞の捏造に匹敵するほどの悪質な歴史の捏造と言わなければならない。そこまでやらないと、安倍政権は「憲法解釈による集団的自衛権行使容認」の「正当性」を主張できなかったことを、読者はよーく頭に刻み込んでおいてほしい。
 とくにメディアは歴史認識の方法論として、フェアに検証することの意味を改めて考えてほしい。何らかの主張をしたいために、都合のいい歴史的事実の一部だけ切り取って、その「事実」をもって歴史認識の「正当性」を主張するといったやり方は、もういい加減にやめてほしい。メディアがそういうことを繰り返すから、国民も誤った歴史認識を持ちかねない。韓国や中国に付け込まれる原因を作ってきたのはメディアだという認識を持ってほしい。
 なお、この歴史の捏造は安倍総理も熟知していたはずだ。安倍総理の了解なしに、安保法制懇が勝手に歴史を捏造した報告書を提出できるわけがないからだ。それに元総理で、現在安倍内閣の閣僚でもあり、吉田茂氏の孫でもある麻生太郎氏が、祖父の回顧録を読んでいないはずもない。
 アメリカは朝鮮戦争に突入したとき、日本を独立させるための講和条約のすり合わせを行う中で、日本に再軍備を強く要請した。が、吉田首相は警察力強化のために(というのは、駐留米軍兵士は根こそぎ朝鮮戦争に動員されて、日本は丸裸状態になっていた)、警察予備隊(のち保安隊を経て自衛隊に発展)の創設こそ認めたが、本格的な再軍備は「やせ馬に重い荷物を負わせるようなもの。日本は国力を養うことが先決」として拒否している。日本のリーダーとしての重い責任をかみしめた姿勢だ。今の政治家とは重さがまるで違う。
 吉田内閣は戦後、壊滅状態に陥った日本の産業界を立て直すために、思い切った財政政策を採った。「傾斜生産方式」というのがそれで、当時の基幹産業である鉄鋼と石炭の生産力回復にすべてを注ぎ込むという財政政策を採ったのである。この大胆な財政政策を吉田首相が採っていなかったら、日本産業界復興の分岐点になった「朝鮮動乱特需」に日本産業界はありつけなかった可能性がかなり高いと私は考えている。
 吉田首相について私は、戦後日本が生んだ最高の総理だったと思っている。が、その財政政策による日本産業力の奇跡的回復を「功」とするなら、日本が独立を回復したとき、再軍備はともかく憲法改正に手を付けなかったことも再評価されるべきであろう。少なくとも憲法改正のための発議要件だけでも吉田首相はハードルを低くしておくべきだった。憲法を国民の手に取り戻し、国民の総意が反映できる憲法に改正できる状態だけは整えておくべきだった。それを怠ったのが、吉田首相の「罪」の部分である。
 NHKは今秋、吉田茂伝をドラマ化するようだが、吉田首相をヒーローとして扱うだけでなく、その「功罪」も明確にしてもらいたい。私たち国民が、憲法に対してどう向かい合うべきかの重要な歴史の検証になるからだ。
 吉田氏も、のちに回顧録『世界と日本』でこう書いている。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあると言ってよい」
 これ以上の説明は不要だろう。新憲法制定過程の検証に戻る。
 衆議院本会議で憲法政府原案をめぐる激しい論戦が繰り広げられている間、「帝国憲法改正小委員会」での審議は9条をめぐってマッカーサーの承認も得られ、日本が独立したときの自衛権回復の意図を盛り込むための条文修正作業が7月25日から8月20までの約1か月に13回もの会議を開いて行われた。その作業の結果、ようやく新憲法9条の修正案(いわゆる「芦田修正」)がまとまり、8月24日には衆議院本会議で芦田氏が修正の意図を説明、衆議院、貴族院の可決を経て枢密院に10月12日に諮詢、29日に天皇が裁可して11月3日に新憲法が公布され、国民に周知するための期間(6か月)を置いて翌47年5月3日に発効した。5月3日が「憲法の日」として祝日になったのは、そういう経緯で新憲法が発効に至ったからである。来年以降、5月3日は「屈辱の日」として長く国民は記憶にとどめなければならない。
 少なくとも、新憲法を天皇が裁可した46年10月29日以降、政府が憲法9条の解釈を変えたことは一度もない。言っておくが、警察予備隊が保安隊になり、自衛隊になったのは憲法解釈の変更によってではない。日本の経済発展によって防衛力の整備に多額の予算を投じることができるようになり、それに伴った自衛力の強化にふさわしい呼称に変えただけで、憲法9条の解釈とは無関係である。何を根拠に安保法制懇は歴史的事実を捏造し、また安倍総理もそのことを承知しながら、なぜ「憲法解釈変更の正当性」の根拠にしたのか。
 私は一貫して、日本が国際社会に占めている地位にふさわしい国際社会への貢献をしなければならない時期に来ていると主張している。特にアジア太平洋地域の平和と安全に日本がどういうスタンスで寄与すべきかは、国民的議論を経て国民自身が決めるべきだと主張してきた。
 私自身は、アメリカの「警察権」頼みでアジア太平洋の平和と安全を守るという過去から脱却すべきだと思っている。別にアメリカを仲間外れにしようというわけではなく、アメリカも含めてアジア太平洋諸国による集団安全保障体制の構築に、日本は全力を挙げて取り組むべきだと考えている。出来れば中国
や北朝鮮も仲間に誘いたいとすら思っている。
 その結果、アジア太平洋の平和と安全の確実性が飛躍的に高まれば、日本は仲間の国々の了解を得て、日本の戦力を本当の意味で必要最小限に抑え、浮いた防衛コストは新興国や貧しい人々に仕事と生活の機会を作ることに使う。特に、そうした国々の教育制度の充実と、それらの国が国際競争力を持てる産業の育成に全力を挙げる。
 そう日本が訴え、仲間の国々が同意してくれたら、それが私たちの親や祖父母、さらにその親たちが国際社会の平和と安全を乱した過ちの最大の償いになるのではないか。そのとき、日本は世界で最も平和で安全で、世界から尊敬される国になる。メディアは安倍総理の片棒を担いで、いたずらに国際情勢の変化による日本の安全保障の「危機」を声高に主張すべきではない。

 過去の不幸な歴史についてのフェアな検証作業はこれからも続けるべきだが、そのためには中韓といくつかの歴史的事実についてのやり取りに終始していたのでは、いつまでたっても中韓との本当の友好関係は回復しない。木を見て森を見ないような作業は歴史認識とは言えない。まず歴史認識の方法論について中韓と真摯に話し合い、日本がなぜ軍国主義に走ることになったのか、当時の国際情勢の中で日本が列強に植民地化されないために採った国家戦略が誤っていたのか、そこから歴史を検証しなければいけない。
 「世界の奇跡」と言えなくもない、ほぼ平和的に実現された政権交代の明治維新を成功させた巨大なエネルギーは、「尊王攘夷」という四字熟語だったとされている。が、実際には「尊王=攘夷」ではなく、「勤王」思想が長州藩の過激派によって「尊王」思想に転化され、それが倒幕運動につながっていった。
 そうした革命運動のいわばスタートラインは、徳川幕府が屈辱的な条件で鎖国体制を解除して列強に門戸を開いたことに対する、復古主義者たちの激しい反発として燎原の火のごとく広まった「攘夷」運動だった。その先駆けをしたのが、「勤王」を藩是としてきた水戸藩士たちだったため、「勤王」と「攘夷」が結び付き、そうして広がった「勤王攘夷」の運動(勤王派は討幕までは目指していなかった)を、京都の朝廷の有力公家たちを取り込んだ長州藩の過激派が、倒幕運動に転化すべく、巧みに「勤王」を倒幕(政権交代)を意味する「尊王」にすり替えることに成功して実現したのが明治維新である。
 司馬遼史観に汚染させていると、最大の倒幕エネルギーだった「攘夷」思想が、なぜ維新が成功した途端「煙のように消えた」のかが理解できなくなる。そもそも「煙のように消えた」ことにすら気づかないのは歴史に対する五感障碍者と言わざるを得ない。
 明治維新の真実をそう理解しないと、政権交代が実現した途端に新政権が、
革命運動のスタートラインだった「攘夷」をいとも簡単に投げ捨て、列強との友好関係を密にして列強近代国家から最新の軍事技術と最新の産業技術を導入して日本近代化への道を歩み出した理由をフェアに検証できない。
 歴史学者(司馬遼太郎氏らの歴史小説家も含めて)は、明治維新の革命エネルギーを「尊王攘夷」としながら、なぜ政権交代が成功したとたん、「攘夷」が煙のように消えたことすら検証していない。「攘夷」が煙のように消えたのはなぜか…子どもだったら間違いなく持つだろう素朴な疑問(子供が持つ疑問はものすごく論理的ですよ。既成観念に汚染されていないからです)を、なぜ彼らは持とうとしないのか。いや、「持てないのか」と書く方が正確だろう。
 言うまでもないことだが、明治政府の日本近代化戦略の合言葉は「富国強兵・殖産興業」だった。最近世界遺産としてユネスコから認められた富岡製糸場は、「殖産興業」政策の象徴だった。近代化を成し遂げた日本が、どうして列強と競って植民地獲得競争に乗り出したのか。その過程でメディアはどういう役割を果たしたのか。それを解明するのがフェアな歴史認識の方法論である。枝葉末節の些細な「事実」にこだわり続けていたら、何度も何度も新しい「河野談話」をでっち上げていかないと、中韓との友好関係を築くことができなくなってしまう。念のため、「勝てば官軍、負ければ賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」といった歴史認識の方法論から脱却しないと、日本はいつまでも「一億総懺悔」を続けなければならなくなる。
 
 今日のブログの最後に、「脅威」について書く。安倍総理は中国の海洋進出とりわけ尖閣諸島近辺での軍事的挑発行為や、北朝鮮の核やミサイルを「日本の安全にとっての脅威」と感じているらしい。だから「日本を取り巻く国際情勢の変化」に対応して「集団的自衛権」の行使を憲法解釈の変更で容認したいと主張している。
 だが、日本が「集団的自衛権」を行使してアメリカとの軍事同盟を強化したら、中国や北朝鮮にとっては「無視できない重大な脅威」が生じることになる。中国や北朝鮮がその「脅威」に対抗して、さらに個別的自衛力の強化を図ることは間違いない。そのくらいのことは安倍さんも政治家だから、分かっているはずだ。「軍拡競争」はそうして拡大していくことは、歴史が証明している。「集団滝自衛権行使」の範囲の「歯止め」が、中国や北朝鮮の軍拡に応じてどんどん失われていくのは歴史の必然でもある。(続く)




集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。③

2014-07-08 04:55:28 | Weblog
 やっぱり権力争いだったのか。東京女子医大の医療事故のことだ。私は6月11日に投稿したブログ『混合医療解禁は日本の医療技術を飛躍的に高めるチャンスになる。私は条件付きで賛成する』で、その可能性を指摘した。過去のブログの中間で挿入した記事を見つけることができたのは偶然である。毎日いろいろな問題を取り上げていると、タイトルか書き出しの部分で書いていないと、いつブログで書いたのか思い出すのは困難だからだ。その個所を転記する。
「今月、東京女子医大病院で、2歳の男児に人工呼吸中に投与してはならないプロポフォールを麻酔科医が過剰に投与し、男児が急死した事件があった。その医療過誤をあえて公表したのは同大の医学部長だった。本来医療過誤を隠すべき立場にある医療部門の最高責任者だ。その行為をメディアは「勇気ある行動」とほめたたえたが、私は非難するわけではないが、医学部長が医療過誤を公表したのは権力闘争の表れとみている。それほど純粋な医者だったら、権威ある医大で医療部門のトップになれるわけがないからだ。
 ただ、この内部告発の意味は大きい。力によって内部の不祥事を闇に葬ろうとした場合、権力を失いかねないということを医療の世界に明らかにしたことだ。東京女子医大の理事長は、引責辞任を免れない。もし免れるとしたら、何らかの方法で医学部長を懐柔するしかない。が、医学界にこれだけ大きなショックを与えた事件を、うやむやにしたら、医学部長は理事長ともども社会的信頼を永遠に失うことになる。そのくらいのことは医学部長も心得ているとは思うが…。」
 昨日、理事長が反撃に出たことが明らかになった。6日に緊急理事会を招集し、医学部長を解任した。解任理由は「無責任な言動を繰り返した」ことだそうだ。そんな解任理由を社会が認めるとでも理事長は思っているのか。この医療過誤を医学部長が公にしたことについて、私は医療過誤を犯した責任者としての純粋な良心からの行動とは思っていないとブログで書いた。だが、その行為が権力争いから出たものだとしても、病院経営の最高責任者が自ら責任をとらず、医学部長を解任して権力の座に居座り続けようとする構図は、醜さを通り越している。『白い巨塔』を書いた山崎豊子氏が存命していて、この権力争いを知ったら、どう書くだろうか。
 本題に戻る。

 集団的自衛権問題は、単純に同盟国間の軍事同盟の在り方だけで考えるべきではない。確かに、安倍総理が主張するように、日本の安全保障力高まるだろう。アメリカ政府が歓迎していることは、その証左と言えないこともない。
 だが、どんな変革でもメリットだけではない。確かに日米の関係は、「集団的自衛権」が行使できるようになれば、アメリカの一部に今でもくすぶっている「安保ただ乗り」といった反日感情は薄らぐだろう。が、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性も生じる。
 これまでは憲法の制約によって、個別的自衛権以外の実力の行使は認められていなかった。個別的自衛権は、言うまでもなく日本が不法に攻撃されたときに自衛隊がその「実力」によって外敵を排除する権利で、主権国家が国連憲章によらずとも持っている固有の権利である(自然法として人類の歴史が始まって以来普遍の原理として確立されてきた権利)。
 が、集団的自衛権は昨日のブログでも明らかにしたように、集団安全保障体制を構築している国(それが同盟国であり、集団と書いたが2国だけでも認められる)が、有事の際に同盟国に支援を求めることができる権利であって、その国から支援を求められた同盟国はその国とともに共同防衛する義務が自動的に発生する性質を持っている。同盟とはそういう関係であり、アメリカにとって最も頼りになる同盟国のイギリスはつねにアメリカの戦争に参加してきた。が、いまイギリスではアメリカとのそういう関係に対する国民の反発がかつてないほど高まっている。アメリカ国内でも、アメリカだけが持っていると自負してきた「世界の警察」権の行使に疑問の声が高まりつつある。そのためアメリカ自身が「警察」権を行使できない状況になっているのが現実である。
 イラクの内紛がますます激化する中で、イラク政府から反政府武装集団への軍事的制裁を求められても、イラク政府のために米兵の血を流すことに国内での反発が強く、せいぜい軍事顧問団を派遣するという、イラク政府にとってはほとんど助けにもならないことしかできないのが現実だ。
 オバマ大統領が安倍政権に、日米安保条約の片務性を解消して双務的なものに改めるよう要請してきた背景には、そうした事情がある。
 いま、政府は国内関連法(自衛隊法や周辺事態法など)の改正に向けて動き出した。が、国内関連法の改正だけでは済まない。その先に、アメリカが日米ガイドラインの変更、さらに日米安全保障条約の改定を要求してくることは必至だ。日米防衛協定を双務的なものにしなければ、安倍政権が行った「憲法解釈の変更による集団的自衛権の限定行使の容認」は、安倍総理が強調しているような具体例の範囲だったら、アメリカにとって何の意味も持たないからだ。
 が、いくらなんでも日米ガイドラインや日米安保条約の改定によって日米関係が、限りなく米英軍事同盟に近い形にして、それも「憲法解釈の変更」で行おうとすれば、国民も騙されてことに気が付かないわけがない。安倍政権は一瞬にして崩壊することは必至だ。
 では、憲法を改正して日米安保条約を双務的関係に改定するという方針に安倍政権が転換したら、やっぱりそういうことかと「集団的自衛権行使容認」のペテン性が誰の目にも明らかになり、やはり安倍政権は一瞬にして崩壊する。
 国民の間には、憲法改正への理解が相当高まっていた。「左」寄りとみられていた朝日新聞や毎日新聞も、いまは「護憲一本やり」の姿勢ではなくなっている。維新やみんなも憲法改正に前向きだし、「平和の党」を自負する公明党の「生みの親」である創価学会ですら「集団的自衛権問題は憲法改正で行うべきだ」と、憲法改正の話なら前向きに対応すると公式メッセージを発表していたくらいだ。そうした状況をすべて破壊してしまったのが、安倍政権だ。憲法改正ははるか遠くに遠のいてしまったと言える。
 さらに安倍総理は、「集団的自衛権」の行使をどういう場合に行うのか、考えていることがさっぱり分からない。少なくとも閣議決定に同意した公明党の山口代表は「他国のためだけでなく」と、「他国(※実際にはアメリカ)のためにも」行使すると記者会見で発言し、いまだにその発言を撤回していない。が、安倍総理は「日本国民の安全を守る責任を果たすため」と、公明党以上に行使の条件を厳しく限定するかのような発言をしている。いったい、どっちが正しいのか。少なくともアメリカは閣議決定の内容を山口発言と理解している(理解していることにする必要が米政府にはある)。もうすでに閣内不一致が明らかになっているのに、そのことへの説明責任を果たしていない。読売新聞が山口発言を白を黒と言いくるめるような捏造発言を記事にしてしまったから、これ幸いと頬被りするつもりなのだろうか。
 安倍総理はこうも言っている。「湾岸戦争やイラク戦争のような戦争に自衛隊を派遣するつもりはない」と。その意味も明確に説明していない。遠い国でのアメリカの戦争には知らん顔をするが、日本に飛び火しかねない南シナ海において国際紛争が生じ、アメリカが「警察権」を行使したり、同盟国の一つであるフィリピン政府に要請されて米軍が中国と軍事的衝突をした場合は、「近い国」での戦争だから日本に明白な危険が迫っていると判断して、アメリカの要請に応じて自衛隊を派遣するつもりなのか。なぜメディアの記者は「湾岸戦争やイラク戦争のような…」と安倍総理が記者会見で発表したとき、「では南シナ海で紛争が生じたときはどうするのか」と質問しなかったのか。
 また「日本国民の生命を守る責任がある」との発言に、「近い国での紛争に日本人が巻き込まれて生命の危機にさらされたときは、自衛隊を出動させて日本人の生命を守ると聞こえるが、遠いイランやペルーで日本人の生命が脅かされても、遠い国での出来事だから知ったことではないとも聞こえる。日本国民の生命を守る地域の限界はどこまでなのか」と、なぜ記者は追及しなかったのか。
 こうしたケースについて、私は1992年7月に上梓した『日本が危ない』のま
えがきでこう書いている。前にもブログに転載したので、覚えている方は読み飛ばしてもらってもいい。

 正直なところ、私は湾岸戦争と旧ソ連邦の解体に直面するまで、日本の安全や防衛問題について深い関心を抱いていたわけではない。
 戦後40数年の間(※現時点では70年近く)、日本は自ら軍事行動に出たこともなく、また他国から侵略されることもなく(※この本を書いた時点では竹島問題は浮上していず、韓国に武力侵略されていることを知らなかった)、見せかけの平和が続く中で経済的繁栄を遂げてきた。私はそういう状態が今後も長く続くに違いないと、無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。日本とアメリカとの結びつきは政治的にも経済的にも強固であり、日米関係に突拍子もない異変が生じない限り、日本の安全は世界のどの国よりも保障されている、と信じて疑わなかった。
 だが、湾岸戦争と旧ソ連邦の解体は、そんな勝手な思い込みをアッという間に打ち砕いてしまった。
 まず湾岸戦争。イラクが突如、クウェートに侵攻し、日本人141人が人質にされた。経済大国日本の海外駐在ビジネスマンが、テロリストの標的にされる事件は最近、頻発しているが、いかなる犯罪とも関係のない日本人の、それも民間人の生命が他国の国家権力の手によって危機にさらされるという事態は、戦後40数年の歴史で初めてのことだった。
 このとき日本政府は主体的な解決努力を放棄し、ひたすら国連頼み、アメリカ頼みに終始した。独立国家としての誇りと尊厳をかけて、人質にされた同胞の救出と安全に責任を持とうとするのではなく、アメリカやイギリスの尻馬にのってイラクへの経済封鎖と周辺諸国への医療・経済援助、さらに多国籍軍への資金カンパに応じただけであった。
 私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
 海部首相が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなかったに違いない。
 もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わん
やである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。
 私の、本書における基本的スタンスは、この一点にあることを、前もって明
らかにしておきたい。

 安倍総理の口から、一言でもかつて自民党政府が日本人141人を見捨てたことについて心から国民に謝罪し、二度とそういう過ちを繰り返さないためにも憲法解釈の変更によって「集団的自衛権」の行使をも認めてもらいたい、と心底から訴える言葉が出ていれば、今日の大混乱は生じていなかったと思う。というより、「安倍さん」の頭の中には、このときの事態に対する深い悔恨など、露のかけらにしたいほどもなかったことが、集団的自衛権の説明によって明らかになったと言えよう。
 なお、この本を上梓した直後、朝日新聞の防衛担当編集委員・田岡俊次氏から自宅に電話を貰った。「初めて防衛問題について書かれたにしては、よくまとまっていると思うが、危険な要素もある」との指摘を受けた。当時の朝日新聞は護憲一本やりで、田岡氏も湾岸戦争のとき毎週のように田原総一郎氏がキャスターをしていた『サンデー・プロジェクト』に出演して、護憲の立場からコメントしていた。当然、彼が「危険だ」と指摘した部分は海部政権のスタンスを批判した箇所で、護憲の視点で読むと、私の本が説得力を持ちすぎているため「危険」と感じたのだろう。
 1時間以上の長電話になったが、私のとどめの一言「では、人質にされた日本人のたった一人にでも、万一のことがあったとき、田岡さんは日本政府がどうすべきだったとお考えですか」と質問をぶつけた。田岡氏はしばらく沈黙した後「その答えはありません」と、まことに正直にお答えになった。その問題に対する答えを持っていない人が、よくもしゃあしゃあとテレビで偉そうなことが言えるものだ、と私はただただ呆れただけだ。
 が、田岡氏は朝日新聞を退社後はフリーの軍事ジャーナリストとして「自衛隊擁護・自主防衛・武装中立・米国追随からの脱皮」論の論客に転向した。ま、少しは湾岸戦争当時に比べればまし、と思う人もいるようだが、とんでもない話だ。田岡氏の現在の主張を現実化するには、自衛隊の核武装が絶対必要条件になる。アメリカの「核の傘」から抜け出して自主防衛の軍事力を保持するためには、日本が核武装する以外に方法はない。そういうことが分かって田岡氏は護憲派から武装自主防衛派に転向したのだろうか。いつも答えを用意せずに、思いつきで「…論」を展開しているとしか思えない。
 権力は、どんな権力も一応「国と国民の権利と安全を守る」と約束する。が、「国の権利と安全」と「国民の権利と安全」が常に一致するとは限らない。権力者にとって「国の権利と安全」は、「権力および権力を支えている機構の権利と安全」を意味しており、だから「国民の権利と安全」とはしばしば衝突する。ベトナム戦争がその典型的な例と言っていいだろう。
 ベトナム戦争でアメリカの軍事産業は史上空前の利益を上げ、それに連なる組織が権力基盤となって米政府を支えた。その一方で数十万の米兵の命が失われた。アメリカで徴兵制が廃止されたのは、このベトナム戦争の意味が厳しく国民から問われた結果である。
 利害が衝突するのは「国と国民」の間だけとは限らない。いま世界を揺るがしているウクライナやイラクの内紛は、「国民同士」の利害の衝突である。多民族国家、多宗教国家では、しばしばそういう事態が生じる。
 ウクライナでは旧政権の権力基盤だったロシアの経済支援(旧政権時代、ロシアは国際市場価格の半額程度の低料金で天然ガスをウクライナに供給していた)が打ち切られたことで親欧米派の暫定権力が生まれた。あるいは旧政権の腐敗を親欧米派から追及されて旧政権が失墜して暫定政権が誕生、親欧米路線を明確にしたことに反発したロシアが経済的支援を打ち切ったという見方もできる。いずれにせよ、親欧米暫定政権がNATO加盟の方針をちらつかせたことで一気にロシア系住民が多いクリミア自治共和国政府が分離独立を問う国民投票を行い、ロシアへの編入に至った。
 さらにクリミアに同調したウクライナ東部2州の住民が住民投票を行ってウクライナからの分離独立を決めたが(東部2州はロシア系住民が約4割を占めていると言われている)、クリミアのような自治共和国ではないため住民投票で分離独立を行使する権利は国際法上も認められていない(かといって否定しているわけでもない。そうしたケースを国連憲章は想定していなかっただけだ)。
 結局、暫定政権のもとで行われた大統領選挙で、親欧米派のポロシェンコ氏が勝利し、国際社会が正式と認めるウクライナ大統領になった。新政権はNATOへの正式加盟する一方、東部2州には自治権の拡大によって融和政策をとろうとしている。予断は許さないが、ロシアも東部2州のロシア系住民への軍事支援は控えており、混乱は収束に向かうと思う。
 世界はいま大きく動きつつある。かつてのように、米ソが大国の「権利」として他国の国内紛争に軍事介入する「権利」を、自国の利益を守るという口実で行える状況ではなくなりつつある。現にEU諸国の大半と同盟関係にあるアメリカも、クリミア自治共和国の分離独立に際して国連憲章41条による「非軍事的措置」としてロシアに対する経済制裁にいち早く乗り出し、安倍政権にも足並みを揃えるよう要請したが、事実上クリミア自治共和国のロシア編入は黙認された状態になっている。振り上げたこぶしを、アメリカはどういう大義名分を付けて振り下ろすのだろうか。また自国の国益であるロシアとの友好関係の確立による北方領土問題の解決や北東ロシアとの経済協力関係の強化を犠牲にしてまで、アメリカの要請に渋々応じた安倍政権は、どうやってロシアとの関係を修復するつもりなのか。そうした問題についてもメディアは責任を果た
しているとは言えない。
 肝心のEU諸国が、いまアメリカのウクライナへの介入に有難迷惑(はっきり言えば「お邪魔虫」)と思っている。アメリカはEUとの友好関係を強化するために、ロシアへの経済制裁を始めたが、アメリカはロシアの天然ガスをはじめとする資源を必要としていないが、ヨーロッパはロシアからの天然ガス供給がストップすると国内産業が大打撃を受ける。「頼みもしていないのに、勝手にしゃしゃり出てロシアをかえって硬化させてしまった。とんだドラ親父だ」と口には出さないが、そう思っている。だからEU諸国はいま、アメリカ抜きでウクライナ紛争の平和的収拾に乗り出しているのだ。ポロシェンコ大統領が「アメとムチ」政策で東部2州のロシア系住民を懐柔しようと必死になっているのは、アメリカよりEUを頼りにしている証拠だ。なぜメディアはそういう論理的思考力を働かせないのか、私には不思議でならない。論理的思考力を持っていない人は直ちにメディアから去ってほしい。
 
 話が少しずれるかもしれないが、「核不拡散条約」は非核社会をつくるための条約ではない。勘違いしている方が多いので多少説明しておく。
 はっきり言えば核保有の5か国が、既得権利をお互いに認め合ったうえで、5か国だけが核保有の権利を持ち、ほかの国の権利は認めないという核大国のエゴ丸出しの条約だ。もちろん、核大国の指導者が、子供がおもちゃを欲しがるように、最新の核兵器を欲しがっているわけではない。そんなことはわかりきったうえで、私は「核不拡散条約」の矛盾を指摘している。核を持たない国が、核保有国に脅威を覚えたら、はっきり言って核で自己防衛するのは「個別的自衛権」として国連憲章で認められている。なぜメディアがそういう論理的思考をしないのか、やはり私には不思議でならない。
 核を世界中から廃絶することは、核の被害を受けた唯一の国である日本人の悲願でもある。その悲願を実現するため、核という個別的自衛手段を持つことを禁止することを国連に求める権利と義務が日本にはある、となぜ主張しないのか。アメリカの「核の傘」に守られているから、そう主張できないのか。すべての核大国が既得権利を捨てて、核の力で国際紛争を解決することを放棄したら、核は間違いなく世界中から姿を消す。もし、日本がアメリカの核の庇護から外されたら、いまの国際情勢から考えると、日本は最小限の個別的自衛手段として、否応なく核を持たざるを得なくなることが分かっているのだろうか。現に安倍政権は、いまの日本が脅威にさらされていると主張して「集団的自衛権」を無理やり行使できるようにしたではないか。
 そう考えると、北朝鮮がなぜ核にこだわるのかもわかるような気がする。もし北朝鮮の金政権が、有事の際には中国が核の力で守ってくれるという確信があったら、巨額の費用を投じて核を持つ必要はないはずだ。その確信がなかったら、北朝鮮がアメリカの核を脅威に感じて核を保有するのは、北朝鮮にとっては国連憲章が「固有の権利」の一つとして認めている個別的自衛手段と考えざるを得ない。そうなると、日本が北朝鮮の個別自衛権を否定するような核不拡散条約に調印したことはどう理解すればいいのだろうか。
 誤解を避けるために書いておくが、私は北朝鮮の核武装を支持しているわけでもないし、日本が核武装すべきだなどと考えているわけでもない。純粋に論理的に考えたら、安倍総理の目的である「日本の平和と安全」のための保障をより確実なものにするためには、核不拡散条約の承認を取り消し、米ロ中など核大国の核の廃棄を強く要求すべきだと主張している。その要求ができないのなら、北朝鮮の核武装を非難する論理的根拠がないと言っているだけだ。
 そして北朝鮮や中国の核が日本にとって脅威だから「集団的自衛権」を憲法解釈の変更によって容認するのであれば、北朝鮮や中国の脅威に対する「個別的自衛」手段として日本の核武装を主張している極右の人たちに対する説得力を持ち得ないことを論理的に立証しただけだ。むしろあてにならないアメリカの核を抑止力として維持するために無理やり憲法解釈を変更するより、国連憲章も認め、最高裁も認めた個別的自衛力の強化を図るほうが、まだ国民も納得するだろう。
 私自身の、究極の「国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全」のために日本がどういう貢献をすべきかについての切ない思いは、明日のブログで述べる。(続く)

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。②

2014-07-07 06:06:55 | Weblog
 読者の皆さん。土日の休日、といっても私のブログ読者の大半を占めていると思われるメディアの方たちには、土日が必ずしも休みとは限らないので、ゆっくり私が全国紙5紙社説の論理的検証を行う視点として、あらかじめ明らかにしておいた9つの論点の大半に「あ、そういう視点でこの問題に向き合わなければいけないのか」と気が付かれた方が多かったのではないだろうか。
 メディアの方たちが、なぜこういう視点で集団的自衛権問題に向き合えなかったのか。それは何度も私がブログで書いてきたように、「安倍総理が、従来の政府解釈を変更して、集団的自衛権の行使容認を、憲法解釈の変更で可能にしようとしている」という思い込みに思考が縛られてしまっているためである。そうなると、メディアは必然的に「憲法解釈変更の是非」という極めて狭い視野で集団的自衛権問題に向き合ってしまうことになる。
 ジャーナリストの決定的欠陥は、いったん思い込んでしまったら、あとはその思い込みが目隠しになってしまって、いわば競馬馬のように極めて狭い視野でしか見れなくなってしまう。そういう欠陥はジャーナリストに限らず、多くの人が抱きがちなことだが、いまはその思い込みを修正する手段がある。何かを考えたり書いたりするとき、自分の思い込みが正確かどうかネット検索することだ。
 ウィキペディアの存在は多くの方がご存じだが、しばしば書き換えられていることにお気付きだろうか。一度ウィキペディアで調べたら、その時の解説が「思い込み」になってしまい、同じキーワードでもう一度調べるといったことをされないのではないだろうか。ウィキペディアの解説がしばしば誤っていることは多くの方がご存じだが、かなり頻繁に書き直されていることまでご存じの方は少ないのではないか。
 私は生来、右脳と左脳のバランスが取れていなく、極端に左脳に偏っている。そのため記憶力が若いころから乏しく、中学、高校の友人たちの一部から「天才」扱いされていたが、それは数学や物理のテストの成績はつねに学年のトップクラスだったのに、すべてのテストの平均点は「赤線すれすれ」とまではいかなかったが、いわゆる「優等生」のランクには入れなかった。ただ、得意だった数学や物理も、高校3年になった途端やる気を失った。数学では微積分が教科になり、物理では電気が教科になった。いずれも、大量の公式を、なぜそういう公式ができたのかの理解もできずに記憶し、公式を使って問題を解くテクニックを覚えるのが勉強の目的になってしまったからだ。そうした公式主義の教育で優秀な成績を収めてきた人たちが大手を振って歩くという学歴社会が、メディアの世界でも構築されているからではないかと思う。
 最近、電車に乗っていて隣の席に幼子を抱いた若い女性が座った。目が大きくくりくりした可愛い子だったので、思わず見も知らぬ女性に声をかけた。
「かわいい赤ちゃんですね。いくつ?」と聞いたら、「明日が1歳の誕生日なんです」という。頭がよさそうに思えたので、余計なお世話とは思ったが、私の失敗から「子育ての方針」を教えた。「この子があと2,3年たつと、お母さんにいっぱい『なぜなぜ』と疑問をぶつけるようになります。これは幼い子供が自分の頭で考えようとする最初の行動です。それをうるさがってはダメです。自分も分からないことだったら、いまはネットなど調べる方法がいっぱいある。それでも分からなかったら、『お母さんも今は分からないから一緒に考えようね』と、子供が疑問を持つことを肯定する姿勢を持ってください」と言った。
 女性は「実はこの子の兄がいま3歳で、おっしゃる通り、いっぱい疑問をぶつけてきます。忙しいと、ついうるさいと思ってしまうんですけど、それではダメなんですね」とすぐ理解してくれた。私は「そう、子供が自分の頭で考える能力の成長を止めてしまうことになりかねません。あなたも学生時代にテストのため勉強したことのどれだけをいま覚えていますか? それを考えたら、この子が大きくなったとき、どういう能力を発揮できるようになるかは、いま子供がぶつけてくる疑問に対してどう対応してあげるかで、この子の一生が決まるといっても過言ではないんです」と話した。
 そういう会話をしながら、幼子の頭を撫でていた。幼子が私の目をじっと見つめだしたので、思わず人差し指を出したら、幼子が私の人差し指に手を伸ばして握りしめた。女性はびっくりして「この子はまだ祖父や祖母にもなつかないのに、初めて会った人にこんな態度をとったのは初めてです。嬉しいです」と言ってくれた。赤ちゃんの感性の鋭さは、このくらいある。大人は子供を見くびってはいけない。むしろ、子供が持つ疑問に一緒に向かい合う姿勢が、少子高齢化社会になかなか歯止めがかからない状況で、将来の日本を担ってもらわなければならない子供たちの能力をいかに高め、日本が世界に貢献できる国づくりを支えてくれるように育てるためにはどういう教育をすべきか、どういう子育てをすべきか、制度の問題より「教育」とは何か「子育て」とは何か、という原点に立ち戻って既成観念を超えなければならない。
 幸いこの女性は私の意図を理解してくれて、「今晩でも主人と子育てについて話し合います」と言って、電車を降りるとき何度も「ありがとうございました」と頭を下げながら私の視界から消えた。

 集団的自衛権問題を考える場合も、まず子供のような素朴な疑問を持つ訓練を自ら行うことから始めていただきたい。具体的には従来の政府解釈についての、子どもだったら間違いなく持つはずの疑問を、メディアがなぜ持てなくなってしまったのか、ということからスタートする必要がある。
 その疑問とは、集団的自衛権問題に初めて取り組んだ昨年8月に私が抱いた疑問である。従来の政府見解は「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利で、国際法上、日本も固有の権利として保持しているが、憲法の制約によって行使できない」というものであった。今でも読者の大半はその政府見解に立って考えておられると思う。実際、私が初めて集団的自衛権問題に取り組んだとき調べたウィキペディアも、この説を述べていた。
 私は、なぜ「他国のために行う軍事行動が自衛なのか」という疑問を持った。だからこの見解は普遍的なものなのか、それとも日本政府の独自の見解なのかという疑問を抱いたのである。その疑問点を出発点にすると、日本政府がなぜこんなおかしな見解を国会答弁でしたのかという2段目の疑問を持たざるを得ない。そういうおかしな見解を発表しなければなら内容の事情が、当時の日本にあったのかと考えると思い浮かばない。ウィキペディアで野党のどういう質問に対して政府がこういう答弁をしたのかが分かれば日本独自の見解が当時の政府にとってどうしても必要だった理由が分かるのだが、それも分からない。メディアもいつの政府答弁化は教えてくれるが、なぜ当時の政府にとってそういう見解が必要だったのかの説明は一切ない。
 そう考えると、疑問は3段目に進む。日本独自の見解でないとすれば、集団的自衛権についてのそういう解釈を必要とした世界を動かすだけの力のある国が、戦争を始める際の口実にした可能性が強いと考えざるを得ない。一体、どの戦争で世界を動かすだけの力のある国が「集団的自衛権」を行使したのかが、やはりウィキペディアでは分からない。ソ連のポーランド動乱への介入や「プラハの春」の弾圧、アメリカのベトナム戦争はどう考えても「集団的自衛権の行使」には該当しない。
 たとえば今、ウクライナやイラクで国内紛争が生じている。ウクライナの紛争はどうやら収束に向かいそうな気配だが、イラクの混沌とした状況は予断が許さない。しかし、これらは国内の紛争であり、「密接な関係にある国が他国から攻撃された場合」というケースにも当てはまらないし、まして「自国に対する攻撃とみなす」ことなど、どう考えても無理がある。私はそうやって疑問を積み重ねていく。これが物事を論理的に考えていくための弁証法的手法である。別にヘーゲルの『大論理学』や『小論理学』などの難しい本を読まなくても、子供のように素直な疑問を持つように心がければ簡単にできる思考法だ。
 実は今、ウィキペディアはどう説明しているか。直接ご自身でお調べいただきたいとは思うが、面倒だという方のために私が転載する。

集団的自衛権とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けてい
ない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある。なお、第三国が集団的自衛権を行使するには、宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは、戦時国際法上の中立義務違反になる。なお、「第二次世界大戦後に集団的自衛権を理由に行われたアメリカの参戦などで宣戦布告は行われていない」という俗説があるが、イラク戦争ではアメリカは2003年3月17日に宣戦布告(条件付開戦宣言を含む最後通牒)を発している。

 もう以前のウィキペディアの解説はプリントしたものが手元に残っていないが、私のおぼろげな記憶では6月中旬に書き換えられている。その解説には「正確さに疑問が呈されている」という注釈がついていたが、今日調べた解説にはそうした注釈がついていない。違いはどこにあるか。書き出しの「集団的自衛権とは……国際法上の権利である」とのあとに「と日本国内の一部の法学者や政治家らが主張している権利である」という一文が付け加えられていた。また6月中旬に書き換えられた解説にはなかった「なお『第二次世界大戦以降に…』」の文章は書かれていなかった。現在掲載されている解説には「正確さに疑問が呈されている」という注釈はついていない。
 さらにウィキペディアでは国連憲章51条に加盟国の固有の権利として明記されるに至った経緯についてこう説明がされている。この個所は6月中旬のものと同じである。

1944年にダンバートン・オークス会議において採択され、のちに国連検証のもととなったダンバートン・オークス提案には、個別的又は集団的自衛に関する規定は存在しなかった(※国連憲章に全加盟国が署名したのは1945年6月。10月の国際連合=英語の原文は「連合国」=の設立と同時に発効)。しかしのちに国連憲章第8章(※第51条は第7章)に定められた“地域的機関”(欧州連合やアフリカ連合などの地域共同体のこと)による強制行動には、安全保障理事会による事前の許可が必要とされることとなり、常任理事国の拒否権制度が導入されたことから常任理事国の拒否権発動によって地域的機関が必要な強制行動を採れなくなる事態が予想された。このような理由から、サンフランシスコ会議におけるラテンアメリカ諸国の主張によって、安全保障理事会の許可がなくても共同防衛を行う法的根拠を確保するために集団的自衛権が国連憲章に明記されるに至った。

 現在のウィキペディアにはイラク戦争についてアメリカが宣戦布告した甲斐中について書かれているが、なぜ集団的自衛権の項目に記述されるのか。湾岸戦争の場合は、アメリカとクウェートが同盟関係を結んでいたかどうかは知らないが、イラクが突然クウェートに侵攻し、無防備状態だったクウェートはたちまち中東の軍事大国イラクに占領されてしまった。クウェート政府は当然密接な関係にある国に「助けてくれ」と手を挙げたはずだ。そのクウェート政府の要請に応じてクウェートと密接な関係にある国が軍事支援をしたら、いったい「集団的自衛権」を行使したのはクウェート政府なのか、それともクウェートを助けた国なのか。
 北大西洋条約(NATO)について考えてみよう。この条約の加盟国は相互防衛協定を結んでいる。つまり加盟国のいずれかが他国から攻撃されたら、その国は他の加盟国に軍事的支援を要請する権利があり、要請を受けた加盟国はその国を助ける義務がある。このことについては異論は100%でないはずだ。
 権利と義務はいわば1枚の紙の裏表のような関係にあり(これはヘーゲル弁証法の考え方)、権利を行使するためには反対給付としての義務を負う。北大西洋条約はそういう相互の権利・義務関係を加盟国が認めることで成立している。一方すでに崩壊したが旧ソ連を中心としたワルシャワ条約機構は、北大西洋条約とはちょっと違う。
 北大西洋条約が加盟国間の対等な関係を前提としており、従って加盟国は「他国から攻撃されたとき応援を頼める権利」と「加盟国から応援を頼まれたとき支援しなければならない義務」を相互に持っているが(双務的関係)、ワルシャワ条約機構は旧ソ連邦が加盟国の防衛義務を一方的に持っていた(片務的関係)。それは、たとえば山口組のような暴力団の組織構成を考えれば理解できる。山口組の組織構成は、傘下に○○組といった多数の暴力組織を従えており、○○組は本家の山口組に上納金を納める代わりに、自分の縄張りを山口組に保証・保護してもらう。それと似た関係が旧ソ連とワルシャワ条約加盟国の間にはあった。だから、良し悪しの判断は別にしてワルシャワ条約機構加盟国の政府が反政府運動の高まりで政府が転覆しかねない状態になったとき、旧ソ連軍の戦車が反政府運動を踏みにじったのは、国連憲章上の合理性があるか否かは別として、旧ソ連にとっては正当な権利の行使と言えなくもない。
 もし、そういういびつな権利・義務の関係は、国連憲章が加盟国に認めている自衛権(51条)には該当しないということになると、同様に片務的な権利・義務関係にある日米安全保障条約も国連憲章違反の条約ということになる。この考え方に「異」を唱えられる法学者は一人もいないはずだ。念のため、国連憲章は「国際間の紛争」の解決方法についての原則は示しているが、「国内の紛争」については何の解決法も書いていない。国連憲章の致命的欠陥と言えよう。
 なお、昨年8月29日に私が投稿したブログ『安倍総理は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』で私はこう書いた。

(国連憲章51条の条文では「個別的又は集団的自衛の権利」となっており、「個別的及び集団的自衛の権利」という表記にはなっていないことを指摘したうえで)なぜそういうおかしな表現になったのか。実は国連憲章は戦争を犯罪行為と見なし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対して武力攻撃が行われた場合は、自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国に守ってもらう(これが「集団的自衛」の意味)権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的である。(中略)
 だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係が築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。まず安倍総理自身がこの問題をごっちゃにしている。(中略)日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが防衛する義務を負っていることにより、すでに集団的自衛権を有しているのである(※この表記はブログタイトルと同様正確ではない。「日本は有事の際、集団的自衛権をいつでも行使できる状態にある」と書くべきだった。このブログを書いた時点では、まだ「保持」と「行使」を多少ごっちゃに理解していた)。
 日本人のほとんどは日本とアメリカは同盟関係にあると思っている。とんでもない話だ。(中略)アメリカにとって最大の同盟国はイギリスである。米英の間にどういう条約が締結されているか、私には知る由もないが、おそらく双務的な軍事同盟としての細かい約束事が盛り込まれているはずだ。だから湾岸戦争やイラク戦争にも、アメリカが直接他の国家によって不法に攻撃されたわけでもないのに、アメリカの報復行動にいち早く軍事的協力を行っている。もち
ろんイギリスも議会の承認を経て行っているはずだ。
 日本は勝手にアメリカを同盟国と位置付けているが、アメリカは単なる友好国の一つ(ただし重要な友好国とみてくれてはいると思うが ※そう書いたが、いまは疑問を持っている)と位置付けているはずである。確かに日米安全保障条約は、日本が攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務があると書かれている。アメリカはその義務を負う代償として米軍基地を日本から無償で借り上げ、米兵士の宿舎をはじめ様々な施設を日本に無償で提供させ、さらに日本政府は「思いやり予算」などという屈辱的な財政的支援まで行っている。
 が、日本の米軍基地の大半は、実は日本を防衛するためのものではない。首都圏周辺にもいくつかの基地が配備されてはいるが、これらの基地にどれだけ日本の首都を防衛できるだけの軍事的配備が行われているか、マスコミは報道しようとさえしない。私はかなり前だが、米軍の座間キャンプ内にあるゴルフ場でプレーしたことがあるが、軍事基地としての緊張感はまるで感じられなかった。はっきり言って米兵のための日本における保養地でしかない。
 (※要約)アメリカにとって最重要な軍事拠点は沖縄に配備されている基地群である。もちろん沖縄を攻撃する国があるとは考えられないし、沖縄方面から日本を攻激する国もない。しかし、アメリカにとっては、東南アジアおよび東南海を勢力圏に収め続けるために、沖縄とグアムは最重要な軍事拠点なのである。
 (原文)これまで何度もブログで主張してきたが、やっと憲法96条を改正できる可能性が現実的になりつつある。いまは、とりあえず96条を改正して憲法改正の発議要件のハードルを低くし、日本という国の在り方を国民が自ら決められるようにすることを最優先すべきだ。そうした状況を整備したうえで、日本が国際社会にどういう貢献をすべきかを国民に問い、国民が決める。そういうプロセスを作り上げるのが「政治の王道」ではないだろうか。

 さて最新のウィキペディアには、集団的自衛権の項目で、日米安全保障条約についても触れている。上記のブログを投稿した時点では、この説明はなかったと思う。私のブログを読んで書き変えたのか、それとも独自にそういう結論に達したのかは定かでない。最新のウィキペディアは、集団的自衛権の行使についてこう解説している。

集団的自衛権が攻撃を受けていない第三国の権利である以上、実際に集団的自衛権を行使するかどうかは各国の自由であり、通常第三国は攻撃を受けた国に対して援助をする義務を負うわけではない。そのため米州共同防衛条約、北大西洋条約、日米安全保障条約のように、締約国の間で集団的自衛を権利から義
務に転換する条約が結ばれることもある。国際慣習法上、相手国の攻撃が差し迫ったものであり他に選択の余地や時間がないという「必要性」と、選択された措置が自衛措置としての限度内のものでなければならないという「均衡性」が、国家が合法的に個別的自衛権を行使するための条件とされる。

 憲法解釈の変更などしなくても、日本の安全のための自衛手段として「集団的自衛権」は日米安全保障条約によって保障されていることをウィキペディア最新版は認める解説をしている。
 だが、実際に権利の行使として自国が攻撃されたとき、共同防衛する条約を結んでいる「同盟国」が、条文に従って軍事的支援行動に出るかどうかはわからない。米オバマ大統領が「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条(※日本の領土が攻撃された場合、日米は共同で防衛することを約した条文)の範囲だ」と
言ってくれても、それで尖閣諸島が中国から侵略されないという保証にはなら
ない。現に竹島は日本が主権国家として独立を回復したとたん韓国が武力占拠し、アメリカは韓国に「不法だ」と警告し、さらに竹島に米軍基地を置くことまで日本政府と約束しておきながら、韓国の不法占拠を黙認し続けている。尖閣諸島の防衛にしたって、米中関係の変化によっては、アメリカは日本との約束を反故にすることなど「へ」とも思っていないだろう。(続く)



集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。①

2014-07-04 06:31:46 | Weblog
 お待たせした。全国紙4紙がそろって7月2日に社説面すべてを使って主張した閣議決定についての論理的検証作業を発行部数順(ABC協会調べ)に行う。各紙ごとに検証するのは面倒なので、5紙の社説の重要な個所を引用したのち、比較検証することにする。
 その前に、今月、各メディアが行う定例の内閣支持率調査でどういう数字が出るか、私の予想を述べておく。6月の支持率より軒並み10ポイント以上下落することは間違いない。ただし読売新聞は支持率調査の結果もでっち上げるだろうから2~3ポイント下落にとどめると思う。一度でっち上げ記事を書くと、吉田清治の言動のすべてが信用されなくなったのと同じで、読売新聞自身が山口発言をでっち上げたことについて1面トップで謝罪文を掲載しない限り、事実を知った読者からはそう思われても仕方がなかろう。
 これは朝日新聞が吉田清治の『私の戦争犯罪』をべた褒めしたのとはわけが違う。朝日新聞も過ちは犯したが、意図的なでっち上げではない。朝日新聞のサンゴ礁写真事件も、スクープ熱におかされた個人的な犯罪であり、同列にはできないが、朝日新聞はかなり大きなスペースを割いて謝罪文を掲載したし、カメラマンを懲戒解雇処分にした。
 が、読売新聞の場合は新聞社としての死活にかかわるようなでっち上げ記事だ。一人や二人の尻尾切りではおさまらない。政治部長の首が飛んだくらいでもおさまらない。すでに読売新聞社内で空前の混乱が生じているのではないか。小保方晴子も「口があんぐり」だろう。
 嫌味はそのくらいにして、最大の発行部数を誇る新聞に敬意を表して、読売新聞の社説から要点を引用する。

読売新聞…「米国など国際社会との連携を強化し、日本の平和と安全をより確かなものにするうえで、歴史的な意義があろう」「集団的自衛権は『保有するが、行使できない』とされてきた。その行使容認に転じたことは、長年の安全保障上の課題を克服したという意味で画期的である」「国連決議による集団安全保障に基づく掃海などを可能にする余地を残したことも評価できる。行使の範囲を狭めすぎれば、自衛隊の活動が制約され、憲法解釈変更の意義が損なわれてしまう」「本来は憲法改正すべき内容なのに、解釈変更で対応する『解釈改憲』とは本質的に異なる」「自国の防衛と無関係に、他の国を守るわけではない。イラク戦争のような例は完全に排除されている」「日米両政府は年末に、日米防衛協力の指針(ガイドライン)を改定する予定だ。集団的自衛権の行使容認や『武力行使との一体化』の見直しを、指針にきちんと反映させなければならない」

朝日新聞…「戦後日本が70年近くかけて築いてきた民主主義が、こうもあっさり踏みにじられるものか」「法治国家としてとるべき憲法改正の手続きを省き、
結論ありきの内輪の議論で押し切った過程は、目を疑うばかりだ」「日本国憲法には9条がある。戦争への反省から自らの軍備にはめてきたタガである」「自衛隊がPKOなどで海外に出て行くようになり、国際社会からの要請との間で折り合いをつけるのが難しくなってきていることは否定しない。それでも日本は9条を維持してきた。…『改めるべきだ』という声はあっても、それは多数にはなっていない」「9条と安全保障の現実との溝が、もはや放置できないほど深まったというなら、国民合意を作ったうえで埋めていく。それが政治の役割だ」「集団的自衛権の行使とは、他国への武力攻撃に対し自衛隊が武力で反撃することだ。それは、自衛隊が「自衛」隊ではなくなることを意味する」「首相は昨日の記者会見でも、『国民の命を守るべき責任がある』と強調した。だが、責任があるからといって、憲法を実質的に変えてしまってもいいという理由にはならない」

毎日新聞…「(太平洋戦争の)開戦の詔書には『自存自衛のため』とあった」「(集団的自衛権)行使の条件には『明白な危険』などと並び『わが国の存立』という言葉が2度、出てくる。いかようにでも解釈できる言葉である。…『国の存立』が自在に解釈され、その名のもとに他国の戦争への参加を正当化することは、あってはならない」「孤立を避け、米国に『見捨てられないため』に集団的自衛権を行使するのだと、政府の関係者は説明してきた。だがそれは、米国の要請に応じることで『国の存立』を全うするという道につながる。日本を『普通の国』にするのではなく、米国の安全と日本の安全を密接不可分とする『特別な関係』の国にすることを意味しよう」「米国に『見捨てられないため』集団的自衛権を行使するという日本の政治に、米国の間違った戦争とは一線を画す自制を望むことは、困難である」

日本経済新聞…「平和を保つために日本は何ができるか。問い直すときにきている」「日本、そしてアジアの安定を守り、戦争を防いでいくうえで、今回の決定は適切といえる。国際環境が大きく変わり、いまの体制では域内の秩序を保ちきれなくなっているからだ」「(日本が)平和を享受できたのは、同盟国である米国が突出した経済力と軍事力を持ち『世界の警察』を任じてきたことが大きい」「ところが、…中国や他の新興国が台頭し、米国の影響力が弱まるなか、米国だけでは世界の警察役を担いきれなくなっているからだ」「米国の警察力が弱まった分だけ、他国がその役割を補い、平和を守るしかない。…アジア太平洋に安全保障の協力網を作る。この枠組みを足場に中国と向き合い、協調を探っていく」「そのためにも、集団的自衛権を使えるようにしておく必要がある。…一国平和主義の発想は通用しなくなった」「だからといって、安倍政権の議論
の運び方に問題がなかったわけではない」「この問題は10年、20年先の日本の行方も左右するテーマだ。政権が交代するたびに路線が変わるようなことは、あってはならない」

産経新聞…「戦後日本の国の守りが、ようやくあるべき国家の姿に近づいたといえよう」「日米同盟の絆を強め、抑止力が十分働くようにする。そのことにより、日本の平和と安全を確保する決意を示したものでもある」「一連の安全保障改革で、日本はどう変わるのか。…自衛隊が国外での武器使用や戦闘に直面する可能性はある。…どの国でも負うリスクといえる。積極的平和主義の下で、日本が平和構築に一層取り組もうとする観点からも、避けられない。…仲間の国と助け合う体制をとって抑止力を高めることこそ、平和の確保に重要である」「憲法解釈の変更という行使容認の方法について『憲法改正を避けた』という批判もある。だが、国家が当然に保有している自衛権について、従来の解釈を曖昧にしてきたことが問題なのであり、それを正すのは当然である。同時に、今回解釈を変更したからといって、憲法改正の確信である9条改正の必要性が減じることはいささかもない。自衛権とともに、国を守る軍について憲法上、明確に位置付けておくべきだ」

 ここまで、全国紙5紙の社説の主張のポイントを引用した。要旨として私が勝手に主張したいことをまとめるのではなく、基本的に私が引用した箇所は原文のままである。原文の前にかっこを付けて挿入した部分は私が、何についての主張なのかを明確にするためで、その部分を原文のまま引用すると長くなりすぎるためにしただけだ。
 私はブログを書く場合(以前、単行本などを書いていた時もそうだったが)、「何を書くか」「書き出しをどうするか」だけ決めたら、いきなりキーボ-ドを打ち始める(原稿用紙の場合はシャープペンシル)。言うなら走りながら考えるタイプで、あらかじめレジメを作っておくといった準備は一切しない。私のブログがしばしば横道にそれるのはそのためで、書いていて何か引っかかることがあったら、すぐネットで検索して調べ、これは重要な問題だと思ったら横道にそれてしまう。本を書いていた時代はネットの広がりはそれほどではなかったし、原稿用紙に向かってシャープペンシルを走らせていたくらいだから、座右の書として『現代用語の基礎知識』『知恵蔵』『イミダス』が欠かせなかった。それでもわからなかった場合は図書館で新聞の縮刷版を片っ端から当たって調べたり、新聞社に問い合わせたりして調べていた。そういう意味では大変な作業だったが、これだけの分量のブログを毎日(土休日は休み)投稿しているので(それもほとんど当日の早朝に)、私をサイトの運営者と思っている読者もい
るようだが、私は運営者ではなく、私自身が一人で書いている。もちろん金銭
的な対価は一切得ていない。
 というわけで、ここまで書いて、すでに4000字に近くなってきた。今日も朝早く出かける用があるので、この続きは来週の週明けにする。誠に申し訳ない。ただ、考えが引用しながら少し(かなりかな?)代わって、単に各社の社説を文章単位で検証することは変更して、すでに書きためていた集団的自衛権問題についての全体的な問題提起も重ねながら社説の検証作業を行いたいと思う。
 ただ、この問題は日本という国のありかたが問われる問題だけに、あらかじめ今日のブログで論点だけ明らかにしておきたい。この部分だけは「走りながら書く」というわけにはいかないので、いったんペーパーで整理してからキーボードに向かうことにする。

① 国連憲章51条が認めている「自衛権」の意味をメディアは正しく理解しているか。
② 国連憲章51条の「集団的自衛権」は、どういう経緯と理由で加盟国の固有の権利として盛り込まれることになったかを、メディアはまったく分かっていないようだ。知っていても、都合が悪いから書かないのか。
③ 集団的自衛、集団的自衛権、集団的自衛権行使、の三つの概念をメディアはごっちゃにしていないか。
④ 憲法9条はなぜ自衛権について曖昧さを残したのか。
⑤ 安倍総理は、なぜ集団的自衛権行使容認を憲法改正ではなく、手っ取り早い「憲法解釈の変更」で可能にしようとしたのか。
⑥ この閣議決定によって自民党の悲願である「憲法改正」は事実上不可能になってしまった。解釈変更が政府の判断で自由にできることになれば、憲法を改正する必要もなくなると考えるのが合理的である。
⑦ 安倍総理は湾岸戦争やイラク戦争に参加したりはしないというが、それは日本から遠いからか。資源問題をめぐって南シナ海で生じている中国とベトナム、フィリピンとの紛争が火を噴いたら、日本に近いからアメリカの「アメリカの国益」のための戦争に参加するのか、それともしないのか。湾岸戦争やイラク戦争は例に出しても、現に生じている南シナ海の紛争についてはなぜ語らないのか、それとも語れないのか(語ると都合が悪いのか)。
⑧ 湾岸戦争のとき、イラク政府(フセイン政権)によって日本人141人が人質にされた。戦後日本人の生命が国家権力によって危機に陥った唯一のケースである。当時の海部総理はこのとき、アメリカ頼み、国連頼みの「おんぶにだ
っこ」で日本人を見放した。安倍総理も、遠い国で生活している日本人の生命
が、犯罪集団ではなく、その国の国家権力によって脅かされても、責任を負う必要はないと考えているとしか思えないのだが。
⑨ ということは、言葉をごまかしながら安倍総理は「日本人の安全を守るため」さらに「抑止力を高めるため」集団的自衛権を行使するのだと言っているが、本音はアメリカ警察力の補完的役割を果たすことが真の目的ではないのか。

 ざっとこれだけのことは最低検証しておかなければならない。1回では検証しきれないことはあらかじめお断りしておく。私があげた論点のほとんどにメディアは気づいていない。週明けから連載を始めるが、読者も私が書いた視点で、改めてこの閣議決定が何を意味するか、ご自分の思考力をフル回転させて考えておいてほしい。その間に読者から「自分はこう思う」というコメントを頂いたら、このブログで紹介させていただく。

号外――閣議決定はやはりオバマ大統領の指示だった。 理研は直ちに解体せよ。

2014-07-03 08:53:55 | Weblog
 今日のブログで全国紙5紙の社説の検証を行う予定だったが、その作業は明日に日延べする。もっと重要なことが2件、昨日明らかになったからだ。一つは当然予測されていた韓国の反発(これもはっきり言えば折り込み済みのジェスチャー)に対してアメリカが直ちに「なだめ」にかかったこと。もう一つは理研のSTAP問題の対応である。

 やはり、というべきか、ちょっと早すぎるのではないか…それではアメリカの関与が見え見えになってしまうではないか、という事態が生じた。ハワイの沖合で行われている多国間軍事演習「リムパック」に合わせて、日米韓の制服組のトップが1日、初めての3者会談を行い、日本政府が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をしたことなどについての意見を交わした(NHK「ニュース7」の報道による)。
 会談したのは日本・自衛隊の岩崎統合幕僚長と米軍のデンプシー統合参謀本部議長、それに韓国軍のチェ・ユンヒ合同参謀本部議長の3人。通常行われる多国間の合同軍事演習に各国の制服組トップが全員顔を揃えるといったことはありえない。日本での閣議決定が動かないという前提で、それぞれ多忙な3人がわざわざ軍事演習の現場であるハワイに集まったということ自体が、安倍政権がどうしても閣議決定を1日にしなければならない事情があったことを示している。
 案の定、3者会談を終えて記者会見に臨んだデンプシー議長は集団的自衛権の行使容認について、アメリカとして強く支持するとしたうえで、「軍の責任者として、何ができて何ができないのかについて話し合った」としたうえで、「話し合いの結果、お互いの信頼を得ることができた」と述べ、NHKによれば「集団的自衛権の行使容認に強い警戒感を抱く韓国側からも一定の理解が得られたという認識を示した」らしい。
 米軍や韓国軍が文民統制の国かどうかは分からないが、日本は完全に文民統制の国であり、自衛隊制服組トップが自分の権限で「軍の責任者として、何ができて何ができないのか」について他国の軍トップと協議することは許されていないはずだ。
 なお制服組とは軍事行動を行う軍の武官のこと。日本の場合、自衛隊制服組トップは陸海空の3自衛隊を統括する統合幕僚長である。制服組に対して防衛事務次官を筆頭とする防衛省内部部局の事務方防衛官僚を背広組と呼ぶ。文民統制(シビリアン・コントロール)の国では、制服組のトップが軍事行動の目的や範囲について「何ができて何ができないのか」を他国のトップとの間で協議したり、決めたりすることは許されていない。もしNHKの報道が正しければ、岩崎統合幕僚長はシビリアン・コントロールの下で行える権限を逸脱した協議を米韓の制服組トップとの間で行ったということになり、当然解任の対象になるような行為である。メディアや野党がこれを無視するようであったら、彼らのリーゾンディテールを自ら否定するようなものだ。ただ読売新聞だけは別だ。公明・山口代表の発言を「黒を白」と言いくるめるほどの、小保方晴子でさえ目を白黒するであろうほどの捏造記事を、意図的に朝刊1面トップに掲載するほどだから、もはや安倍政権のための有料「記事小説」新聞と位置付けるしかない。『私の戦争犯罪』を書いた吉田清治と同格、とだけ言っておく。
 読売新聞のことはともかく、朴大統領としては日本の「軍事大国化」に対する懸念を公式には発表せざるを得ない状態にあることは疑いを容れない。河野談話の作成過程の検証結果を政府が公表したことに反発したのも分かる。
 そもそも、安倍総理はオバマの指示に従いながら、指示がないケースについては、自分がやりたいと思ったことはオバマ大統領の了解をとらずに勝手にやってしまう――そこに日米韓のきしみをかえって増大させてしまう最大の原因がある。
 靖国参拝事件で、日米間の関係が今どういう状況になっているのか、頭が悪い安倍総理には米政府が示した不快感の意味が理解できなかったのは無理がなかったと思うが、認知症患者を自宅では家族が、病院では医師や看護師がサポートするように、安倍総理には頭のいい側近がサポートしてやらないと、何をやりだすかわからない危うさがある。そういうサポートをできる人材が自民党にはいないのか? あるいは煙たい存在は周囲から排除してしまったのか?
 河野談話問題にしてもそうだ。オバマ大統領の了解をとらずに勝手に見直そうとして米政府から「やめとけ」とストップをかけられ、もう検証作業のための有識者の人選まで済ませていたため引くに引けなくなり、河野談話の検証ではなく「河野談話の作成過程の検証」に作業目的をすり替えてしまった。が、安倍総理自身が人選した有識者が有能すぎたため、外交のトップ・シークレットにまで迫り報告書に記載してしまった。それを政府が握りつぶしてしまえば、まだ日米韓のきしみを拡大する事態は避けられたのに、政府が公表してしまった。バカにバカを重ねた「二階建てバカ屋敷」だ。
 だから私は安倍総理が米政府から「やめとけ」と命令されたときに、安倍総理が「河野談話の見直しはしない」と表明し、事実上検証作業を行う意味がなくなったので、「検証作業の目的を変えても無駄だ、有識者会議そのものを解散すべきだ」とブログで書いたのだ。

 今日はそんなに時間がない。もう一つの理研の体質にテーマを移す。
 昨日から理研で小保方晴子がSTAP細胞の検証実験を開始した。4月からスタートしていた検証研究チームに合流するのではなく、24時間の監視付きで一人でやれということのようだ。プライバシーすら無視しかねないカメラ監視と
外部の研究者の見張り付き(不正な実験ができないようにするためのようだ)で期限は11月末までということだが、検証実験の進行状況によっては途中で打ち切られる可能性もあるという。
 小保方と共同研究をしてきた山梨大学の若山教授が共著者としても名を連ねた『ネイチャー』論文に疑惑が見つかったと公表し、論文の取り下げを共著者たちに呼びかけたことが明らかになったのが3月10日のNHKの「ニュース7」であった。若山氏の行為について理研は「研究の本質的な部分については揺るぎないものと考えている」と発表した。その翌日私はブログ『小保方晴子氏のSTAP細胞はねつ造だったのか。それとも突然変異だったのか?』を投稿した。そのブログで私はこう書いた。
「私はこのニュースを見てびっくりして、すぐネット検索してみた。結果はNHKのスクープでもなんでもなく、日本中が大騒ぎし始めた直後の2月中旬には研究者たちの間で『STAP細胞作製研究はねつ造ではないか』という疑惑の声が生じていたようだ」「自然科学の分野における新発見や発明は、再現性の確認が極めて重要な要素を占める。生物学の分野においては『突然変異』という現象が生じることはよく知られている」「今は、なぜ『突然変異』が生じるかの研究がかなり進んでいて、DNAあるいはRNAの塩基配列に原因不明の変化が生じる『遺伝子突然変異』と、染色体の数や構造に変化が生じる『染色体突然変異』に大別されているようだ(※私がこういう書き方をする場合、今後別の性質の突然変異の存在が解明される可能性があると思った時である)。こうした差異が生じる原因を特定できれば、同様の状況を遺伝子や染色体に作用させれば、それは『突然変異』ではなく人工的に同様の変異を作り出すことが可能になるはずだ」「実は農作物の新種改良は、意図的に突然変異を作ることに成功したケースである。種無し舞踏や種無しスイカなども、たまたま突然変異で生じた種無し果物を何世代にもわたって掛け合わせて創り上げたもので、研究室の中のフラスコやビーカーの中で作られた新品種ではない。遺伝子操作による品種改良の最初の商用栽培は1994年にアメリカで発売された『フレーバーセーバー』で、熟しても皮や実が柔らかくならないトマトである」「で、問題はSTAP細胞が原因不明で生じた『突然変異』だったのか、それとも研究者としては絶対に許されない捏造研究だったのか、ということに絞られるのではないかと私は見ている」
 その後も、STAP細胞問題については数回にわたってブログを書いてきたが、いつ、どう書いたかをこのブログで明らかにしていく時間がない。とりあえず、私の記憶に残っていることだけ書く(原文ではない)。
 理研が小保方氏抜きで検証研究を行うことを発表した時点で「小保方氏を外
した検証研究など、意味がない。最初から結論ありきの研究と受け止められる
のは必至だ。小保方氏を研究チームに加えるべきだ」と書いた。
 次に小保方氏が行った記者会見で「私は200回以上STAP細胞の作製に成功している。ただ作るにはコツとレシピが必要で、それは特許の関係で公表できない」と話したことで「突然変異」の可能性は消えたと私は判断した。そして「研究者生命が絶たれようとしているときに特許もへったくれもないだろう。理研に対して自分抜きの検証研究など認められない。私を参加させるべきだと、なぜ言わぬ」と書いた。この時点で「捏造」の可能性が非常に高くなったと私は考えていた。
 さらに、論文作成を指導した笹井芳樹が(※この時点から小保方・笹井を私は犯罪研究者と認定し、以降二人には敬称を付けずに呼び捨てにしてきた)釈明会見を行ったときも「自分は論文作成の最終段階でチームに加わっただけで、研究データはまったく見ていない」と責任逃れをしながら、「STAP細胞の存在を前提にしないと説明できない現象がある」とし、記者からその具体的説明を求められ「STAP細胞はES細胞やips細胞に比べてものすごく小さい。再現研究に成功していても見逃した可能性がある」と問題をそらした回答をした時点で、私は小保方・バカンティ・笹井の3人を犯罪者と見なすことにした。
 その後、第三者による理研改革委員会が「検証研究に小保方を加えるべきだ」と理研に要請し、その要請からかなりたってからようやく野依理事長が小保方を理研に参加させろと支持し、さらに相当たってから理研が組織決定として小保方を孤立状態において検証実験をさせることにした。
 昨日ツイッターで「理研の倫理観にはもう耐えられない」と強烈な抗議をした理研の高橋政代プロジェクトリーダーについても書きたかったが、時間がない。私は、腐りきった理研は解体するしか方法はないといま考えている。
 改革委員会は理研の発生・再生研究センターの解体を提言したが、理研を腐らせたのは長期政権で腐敗体質を構築した野依理事長体制を根底から覆さないと理研の再生はありえないと考えている。ノーベル賞受賞者だからといって人格的にすぐれているというわけではない。いつまでバカバカしい権威にひれ伏しているのか。いい加減にしてもらいたい。