近くの区立図書館で発見した、図書除菌機。
コロナ期なので間接接触も気になる、という方。
図書館で本を借りて読むのにも、誰が触った本かわからないから触れない、あるいは、古本は触れないから読めない、と思われている方。
そういう方が、身近にいました。
そういう皆さんには、この機械の存在は、朗報です、ということになるのかな……。
コロナ期だけのものなのかどうかは、わかりませんが……。
近くの区立図書館で発見した、図書除菌機。
コロナ期なので間接接触も気になる、という方。
図書館で本を借りて読むのにも、誰が触った本かわからないから触れない、あるいは、古本は触れないから読めない、と思われている方。
そういう方が、身近にいました。
そういう皆さんには、この機械の存在は、朗報です、ということになるのかな……。
コロナ期だけのものなのかどうかは、わかりませんが……。
私が今、二十代の人たちの劇団でなるべく欠かさず観ているのは、コンプソンズ。
彼らももうすぐ二十代でなくなってしまう。時の経つのは早いものだ。
皇室のことなど取り上げた「アイコ、セブンティーン」を観たときは、この世代でこういうのをやってくれる連中がいるんだ、と嬉しかった。
最新作は、劇小劇場で見た。二階の搬入口を使っていた。
下北沢の街、小劇場の世界を描いた劇。彼らが生まれる前からここで芝居をやっている私は、本当に旧世代になってしまったな、と、感慨深い。
ユーモアに回収していく部分もあるふだんに比べて、じりじりとした気持ちを隠さない。これからどこに向かうのだろう。
新国立劇場で三好十郎作『斬られの仙太』上演中である。
多くの人が『斬られの仙太』の名前を知っているのは、日本戯曲史上最多上演回数を誇る(らしい)清水邦夫作『楽屋』の中で、登場人物の一人がその一場面をなぞってみたりするからである。しかしどんな話なのかを知っている人も少ないのではないか。
『楽屋』を観た多くの人が、『斬られの仙太』を大衆演劇の演目と勘違いしてしまうのだが、『斬られの仙太』は、新劇の範疇であろう。
清水さんがお亡くなりになったまさのそのときに『斬られの仙太』がものすごく久しぶりに上演中であるということは、偶然にしてもできすぎている。
新国立劇場版『斬られの仙太』は、幾らか刈り込んでいても四時間二十分の大作だが、それは少しは停滞する場面はあるものの、すっきりも見られるようになっている。
その進行のテンポに貢献もしているが、印象的なのは、舞台造形である。
ほぼ全面の八百屋舞台(傾斜している)のことは誰もが言及するが、じつは、舞台最前部の蹴込み部分が土手状になっていて、そこも人が立てるようになっていて、そのすぐ奥はいったん人が隠れられるように低くなっている。この立体構造が、使い出があるし、効果的なのだ。
で、この方式は、私が『バートルビーズ』で開発したものと同様だ。この形状は、じつは「遠近法マジック」が使えるのだが、『斬られの仙太』では、その使い方はしていない。劇場が大きいこともあるが、新劇なので不条理感は追究しなくていいということもあるのだろう。
それにしても新国立劇場の今期のシリーズ名(?)らしい「人を思うちから」というフレーズ、センスないし(寒気がするレベルの人もいるだろう)、宣伝のやり方としてもひどくはないか。だって、ポスターに、タイトルよりも遥かに大きな字で書かれているのである。
そりゃ劇の中に思いやりの心もあるだろう。だが、他に多くの視点がある。時代と人間を冷徹に見る目もある。それが社会性というものだ。なにもかも「人を思うちから」にまとめられてしまった日には、ださすぎるし、現実を見る目が曇る。
観てよかったとは思うのだが、歴史の中で『斬られの仙太』という戯曲がどう位置づけられているのか、描かれている課題は、戯曲の中ではどういうもので、それを現在上演するときにはどう認識しあるいはどう転じたのか、といったことが、求められて然るべきるという気はするのである。
緊急事態宣言で千秋楽がなくなる。
ひどすぎないか。
言いなりになりすぎていないか。
やらせてあげればいいじゃないの。
昨日深夜のことである。
たまたま打ち合わせが長引いて夜中にこの間一緒に仕事というかトラブル解決をしている某君と電話でずっと話していた。これはそもそも遅い時間からの電話だったが、あまりに遅くなっていた。まあ、それでも必要な話だった。だいたい話は終わった。
そこに割り込んでくる電話があった。
誰からかと思うと、そんなにちゃんと話したことはまだない、有名な俳優の名が表示されているのである。Facebook友達ではあるから、Messengerだ。
時刻を観ると、しかし、朝四時である。深夜というのは嘘で、もう早朝である。
朝四時の急襲である。
某君にことわって切り、かかってきた電話に出た。
その俳優氏は、多少は酒も入っているのだろうが、口跡は相変わらず鮮やかで、ハイテンションである。考えてみると今日本でいちばんハイテンションな俳優のような気がする。
こちらもハイテンションになる。一杯くらいしか飲んでいないのだけど。しかも何時間も前にである。
話は面白い。
だが、しかし、朝四時である。
だからこそ面白いのかもしれない。
どうやら、初めてちゃんと話したような気がしない。お互いにである。
俳優氏は、言いたいことがいっぱいあるのである。
こちらも話しているうちに元気になる。
楽しく話し、朝五時になる前には電話を切らせてもらったが、さて。
まるで現実の出来事のような気がしない。
その俳優氏の「なりすまし」であることは、まあ、あり得ない。だって、真似しがたいハイテンションである。
なんだかまるで、本当のことじゃないみたいな時間が過ぎていったのである。
その人は、もちろん、私が書いた清水邦夫さんの訃報を見て、電話をかけてきたのである。
ああ、これは、お通夜なんだ、と当たり前に思った。
書かなくてはならないものがいっぱいある。
さらに増えていく。
それでも今夜もZoom会議だった。みんなもやることがあるのに会議に出てくれている。ありがたい。
しかし、さすがに限界である。
書かなくてはならないものが増えていく。
とにかく書いていくだけである。
書かねばならないし、書きたいはずだ。
私は書く。そうだ。ハイテンションをいただいたのだ。
若松武史さんも亡くなられてしまった。
天井桟敷という劇団は、他の劇団に比べてほんとうに特異だった。
十代の頃、寺山修司さんに憧れていたのだと思う。じつは映画『草迷宮』のオーディションを受けて最終面接(だと思う)までいったが、通ったのは三上博史さんだった。完成した映画を観て(傑作だ)、こんな恐ろしいものに出なくて助かったと思った。すごいのである。若松さんはこの映画や『さらば箱舟』も印象的だが、なにしろ映画は『サード』だろう。あの映画で彼は天井桟敷らしいことはまったくしないのに、圧倒的に映画のリアリティーを引き揚げていた。あの洗濯物の場面のぼそっとした喋り方は、忘れられない。
その後私が音響のスタッフをしていたとき、客席で観る体力がないからと、寺山さんが調光室でオペをする私の隣で芝居を観たことがある。お亡くなりになる一年くらい前のはずだ。その直前にもお話ししたことがあって、私は寺山さんに名前を憶えられていたことじたいに感動したはずである。
若松さんは天井桟敷のスターであった。武勇伝はよそから山のように聞いた。じっさいにお目にかかると穏やかな大人の方だった。
私の書いた戯曲に主演で出てくれたこともある。流山児★事務所創立20周年記念公演ファイナル、日本・インドネシアコラボレーション企画Vol.1『戦場のピクニック・コンダクタ』というやつだ。
オリジナルの『ピクニック・コンダクタ』は、もともと1991年に燐光群で上演したもので、大友良英さんが生演奏をしてくれて、巻上公一さんと私が主演だった。もともと音楽劇の要素はあったが、それを大幅に改訂したのである。タイトルは、『戦場のピクニック』と『ピクニック・コンダクタ』を掛け合わせたもので、インドネシアのミュージシャンも入った。
演出は流山児祥さん、音楽・生演奏は、Yennu Ariendra (インドネシア)+KONTA 、Muhammad Arif Purwanto(インドネシア) 。出演は、若松武史さんの他に、KONTA、塩野谷正幸、ヒロインは美加理、といった豪華キャストである。そして、青年劇場の代表を退いたばかりの瓜生正美さんが特別出演、当時八十歳だというのに、かつて軍隊で覚えのある匍匐前進まで披露してくださった。
若松さんが自分のせりふを喋ってくれるだけで嬉しかった。肉体の速度と内面の巡りのズレのようなものが、彼の持ち味だった。
ラストシーンのせりふは今も覚えている。
「いま、音楽がはじまる」だ。
https://www.ryuzanji.com/r-pic.html
エイプリルフールに週に一度特上うなぎを食べると書いてしまったため、私のもとにはうなぎ情報が寄せられてくるのである。
シナリオライター・劇作家の伴一彦さんが送ってくださった。
うなぎ男疑惑が晴れる日は来るのか?!
自分が誘引しているだけなのだが!
うなぎ蒲焼きに顔認証されるのは私のせいではないぞ!
どうしても、思い出せないコトバがあって、悶々とするときがある。
今日は、「トーンポリシング」。
どういう意味かは、調べてみてね。
とは言わず、説明すると、
「何かに対して怒りと共に意見を表明することに対して、怒っている態度だけを取り出して批判して、話の内容を聞こうとしないこと」
という意味ではないかな。
友人の新聞人は、「発言内容よりも発言様態を槍玉にあげることですかね」と返してきた。
そう。それが、トーンポリシング。
怒り、というか、強く言わなければならない場面は、人間にはどうしても、あるかもしれない。
その全てを、強く言ったことだけをとりあげて、「ハラスメント体質がある」として、非難をかわせるとは、思わない方がいい。
夕方、文学座アトリエへ。
多くの新進演出家を輩出している文学座だが、女性新人が多い。
クォーター制とかの意識の問題でなく、実力なのだろうと思う。
また一人、新人。
水野玲子さん演出の「SEVEN・セブン」。
さいきん燐光群にもよく出ていただいている鬼頭典子さん。昔に私が文学座に書き下ろした「みみず」に出演の山崎美貴さん、他に、高橋紀恵、、頼経明子、梅村綾子、柴田美波、といった皆さん。
作:ポーラ・シズマー、キャサリン・フィロウ, ゲイル・クリーゲル、キャロル・K・マック、ルース・マーグラフ、アナ・ディヴィエール・スミス、スーザン・ヤンコヴィッツ
それにしても、夕景の文学座アトリエは、絵になるなあ、と、久しぶりにおうかがいして思うのであった。
うなぎ蒲焼きに顔認証される男、坂手洋二です。
さいきんはエイプリルフールでうなぎを週に一回食べると予告するという「四月バカ」をかますと、いろいろと波紋がありました。真に受けられたり、叱られそうになったり。
しかし、私は、うなぎに縁のある男、では、まったくないのです。
さて、井の頭通り沿いを通っていると、いろいろと様変わりがある。
大昔に昼のランチタイムに2、3回入ったことがあるだけの老舗の天ぷら屋があったが、数年前にあっさり潰れた。
その少し隣に「うなぎ」があった、ここは一度も入ったことがない。未体験のまま、潰れた。
そして、「うなぎ」屋の看板は、裏返された。(写真)
「うなぎ」を裏返すということに、何かしら象徴的なことを感じる、なんてことは、ない。
ただ、裏返された平仮名が、なんにしても不条理である。
うなぎ蒲焼きに顔認証された話
↓
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/22d9edac6b7cd9461ff6642751761e80?fbclid=IwAR20S2lCyxRaai07IU7YQ3olsN5W55hBgpTTkeeJ0VIpKkKmvp2cXQ_mVzc
ときには夕焼けを見る。
『生きる』の志村喬でなくても、
夕焼けがあることを忘れていたわけではなくても、
あかい部分が狭い夕焼けでも。
夕焼けには有り難みがある。
四半世紀前に最寄りだった駅ビルの屋上なんだけど。
というか、あの頃には駅ビルがなかったんだけど。
Facebook、数十時間の謎のアカウント停止状態を経て、現在は復活しています。
数時間前に、急に復旧されました。
添付は七日に来たもの。
この段階ではすぐ復旧できて、停止させられはしなかったのですが。
Messengerがないと連絡取れない人が多くて、焦りました。
ネット環境、SNSの便利さを享受していると、じつはそれなしにはやっていけなくなっているという恐ろしい現実を思い知りました。