Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

永井愛「言論表現の自由のよって立つところ」

2015-09-17 | Weblog
日本劇作家協会は8月11日、〈「安全保障関連法案」「集団的自衛権行使を認める閣議決定」の撤回を求めるアピール〉を発表した。
そのアピールを 言論表現委員会がまとめていった背景について、永井愛さんが委員会を代表して、会報のためにインタビューに答えるという形でまとめてくれた文「言論表現の自由のよって立つところ ── なぜ劇作家協会は「安全保障関連法案」に反対するのか。 言論表現委員の永井愛に聞く ──」(聞き手・構成 勢藤典彦)を、いち早く協会ホームページで発表することにした。

まず〈「安全保障関連法案」「集団的自衛権行使を認める閣議決定」の撤回を求めるアピール〉前文・本文を再掲する。
…………………………


 国民的関心の高い「集団的自衛権」ですが、政府案では、先制攻撃をも含む外国軍との一体化を否定せず、憲法9条の専守防衛では否定される「実力をもって阻止する攻撃」を認めています。
 「戦争を止めるには別な戦争が必要である」ことを前提とする考え方は、 外交や、文民的な意見の表出を突き詰めることによって戦争への道を阻むこと、つまり戦争の危機に向けて、言論と「表現の自由」を行使する機会を大幅に奪う可能性があります。
 安倍首相は今年4月、安全保障関連法案を国会に提出する前に、米議会で「夏までの成立」を約束しました。国会論議や国民意見を拒否する行動であり、 手続き的にも言論と表現の自由が尊重されない状況です。
 私たちは表現者として、国民議論を無視する趨勢を阻止する必要を感じ、また、広く観客も含めた演劇に関わる皆さんの理解を求め、以下のアピールを提出することにしました。

…………………………

「安全保障関連法案」「集団的自衛権行使を認める閣議決定」の撤回を求めるアピール

 日本劇作家協会は、昨年7月14日、「集団的自衛権行使を認める閣議決定に抗議し、撤回を求める緊急アピール」を発表しました。
 その末尾で私たちは「この閣議決定に基づく全ての法案提出にも反対します」と表明しました。
 実際、今年7月16日に衆議院で強行採決された「国際平和支援法案」「平和安全整備法案」からなる安全保障関連法11法案は、ほぼすべての憲法学者が違憲と指摘するものです。

 また、2013年に強行採決された「特定秘密保護法」では、国民の知る権利が担保されておらず、政府が「何が秘密なのかを永遠に秘密にできる」内容であり、憲法違反が仮にあっても、それを指摘することすら困難となります。

 過去の議論を無視した憲法の否定や、国民への説明の軽視は、私たち劇作家がよって立つ「言葉」の力を踏みにじることに他なりません。表現者・言論人の取材活動と表現活動を支えるのは、憲法の根本原理たる市民的自由です。
 私たちは表現者として、このたびの強行採決に反対し、一括法案の廃案と、あらためて「集団的自衛権の行使を認める閣議決定」及び「特定秘密保護法」の撤回を求めます。

…………………………

さて、以上のアピールをもとに永井愛さんが語った記事が、「言論表現の自由のよって立つところ ── なぜ劇作家協会は「安全保障関連法案」に反対するのか。 言論表現委員の永井愛に聞く ──」である。
本当に見事なまとめなので、以下から劇作家協会ホームページの該当記事に入れますから、全文をぜひ読んでいただきたい。

http://www.jpwa.org/main/genronhyogen20150917


以下、抜粋

(前略)

まず、この法案は憲法違反だということ。政府が改憲手続き抜きで憲法を解釈で変えていいなら、表現の規制にも歯止めがなくなって、政府に都合の悪い表現や言論が抑圧される恐れが出てくる。立憲主義が崩されると言論表現の自由にかかわってくるというところで危機感を抱きました。それと、アピールの前文でふれていますが、先にアメリカの議会で成立を約束してきて、後から国会の承認を得ようとするなんて、日本の国民主権や言論の場である国会での議論を甚だしく軽視していると言えるんじゃないでしょうか。

(中略)

劇作家の活動、つまり、取材や表現を支える市民的自由を守るために必要な意見の表明は、協会の重要な役割だと考えています。協会がかかわる問題には、政治的なことも多いですが、政治的な不一致があるので沈黙するということはありません。そのために協会は意思決定の方法として選挙による代議制をとっています。ですから、発表されるのは法人としての協会の意見です。これまで10年以上にわたって、協会は劇作家の市民的自由を守るために必要と判断した意見表明を行ってきました。それは会員の皆さんから託された仕事の一つだと考えています。

(中略)

将来的には別の方法も探ってみたい。これは、言論表現委員会内でも、まだすべての委員に共有されている考えではないけれど、「武力行使もしくは武力による威嚇を最終的な問題解決の手段」 とする考え方自体が、「言論表現の可能性をあらかじめ否定するもの」であるとして、憲法を介さないでも、直接関連づけて反対表明できないだろうかと思うのね。
 言論表現というのは、自分が考えたことを「どう思いますか?」と相手に差し出す行為だから、相手とはあらかじめ違っていることを前提にしていますよね。その上で、相手の理性と知性を信頼して共感を求めようとする行為なんだよね。だけど、武力行使っていうのは、その可能性の全面否定。「最終的に人間はわかりあえないかもしれない。だから、恐怖によって押さえつけるか、殺し合いによって降参させるのも止むを得ない」とする考え方で、人間の変化や歩み寄りの可能性を全否定している。それは言論表現行為の前提そのものと先天的に対立していると考えてもいいんじゃないか。だから、「安保関連法案」に対する反対は、単なる政治的意見の表明だと私は考えていないし、この法案が容認する武力行使は、言論表現と実は深いところで相反関係にあると思う。

(中略)

  ジャーナリズムもそうだけど、そもそもすべての言論表現というのは、相手に伝達することによって相手に影響を与えることを目的にしている。知らない情報を共有することによって相手からもフィードバックがある、一方通行ではない双方向を考えてる。つまり、相手から返ってくることにより、こっちがまた新たな情報や発想を得て相手に返す。そういうことを繰り返しながら、私たちは「真理」の発見を求め合っているのではないか。言論表現というのは、お互いの知恵を交換しながら、真理に近づこうとする行為なのではないか。人間は常に真理を求めていて、それを投げかけ、受け取るという双方向の循環の中で新たな知に目覚めていく。言い換えれば、人間は生命を維持するために、真理を求める必要がある。生命維持のための、双方向の知恵の出し合いを永久に遮断するのが武力行使。そんな方向で考えを深めながら、ゆくゆくは現行憲法を引き合いに出さなくても、劇作家として武力行使に反対できないだろうかと私は思うんですけど、どうでしょう?



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