Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

映画の記憶と「遡行」

2013-10-09 | Weblog
秋の燐光群新作『ここには映画館があった』は、映画に、殊に映画館に関するものである。
夏の盛りに取材の一環として大阪・九条の映画館シネ・ヌーヴォの景山理さんにお話をうかがい、その時にいただいた「映画新聞」バックナンバーの分厚い合本に能う限り目を通そうとして、とばし読みではあるが、先日、終わりまで行った。
過去を振り返る時、二十代のある頃までは、「あれはあの映画があった年」というふうに記憶が甦るという、私の脳内の仕組みがあるのだが、この合本のフォローする範囲は、私がほとんど映画雑誌等を読まなくなった時代のものであり、映画について言語レベルで考える領域があまりなく、従って、沈んでいた記憶を別な角度から見直すような不思議な手応えがあり、その意味で、ああ、ここにも確実に一つの「時代」があったのだと思いつつ頁を捲っていった。ある意味、感慨深い。記憶の中で、ある未整理な記憶の束が、きちんと「過去」になっていくというか……。

ここしばらく芝居をあまり観ていない。帰国してからはほとんど余裕がない。もちろん、ヨーロッパツアーの間も含めて、少しは観ている。しかしどうにも私の中で感想が像を結ばないものが多い。すべてがそうとは言わないが、「観劇体験」というふうに思えないのだ。
それらの劇たちに責任があるのかどうかはわからない。舞台を観ていて、なるほどとも思うし、巧みだと思うこともある。微笑ましいものや応援したいものもないわけではない。ただ、一本の劇ではなく「場面集」に見えてしまうことがしょっちゅうなのだ。私のゲシュタルトが何かの事情で傾いているのかもしれない。
ステージングや俳優が優れていると思うものがないわけではない。しかしそれらを「示されている」という印象のほうが勝るのだ。こちらの職業意識が邪魔するのかもしれない。ステージングは「手口」に思えてしまうし、時として俳優たちが「自分」や「自分のやっていること」を見せよう見せようとしているように感じられてしまうのだ。まあ、言ってみれば、「自分売り」が劇に勝っている俳優が多いのだろう。時に、本人がそれしか眼中にないから揺らぐ部分がないように見える演技もある。世の中にはそれを「安定感」と思う人もいるだろうし実はそのほうが多いのかもしれないが、私には退屈だし、嘘だとしか思えないのだ。
私は「世界」を観たいのだが、最近の劇場ではしばしば「世界」が提示されていないように感じられるということか。私が不感症になっているのかもしれない。

その意味では岡田利規『遡行 変形していくための演劇論 』(河出書房新社)は、読書というより「体験」に近い手応えがあった。それが「同時代」ということなのかもしれない。描かれていることは他者の出来事であるにもかかわらず、岡田流の十年余の「遡行」には、「映画新聞」バックナンバーが私に喚起させるものに近い、記憶の束を揺らす何かがあったのだ。
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