Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

【ネタばれ注意】どうやら私だけが誤読しているらしい映画『スリー・ビルボード』

2018-02-15 | Weblog
【ネタばれ注意】

ほんとに、映画を観ていなかった。
年末、魔が差して、新宿で『オリエント急行殺人事件』をオールナイト上映で観ようとしたが、最初のタイトルが出た時点で眠ってしまい、気がつくとエンドロールが流れていた。寒空の中、始発で帰宅した。
先日、『リタイアメン』ツアーを終えたタイから帰国便の飛行機内、機内のオンデマンド上映で『オリエント急行殺人事件』を選べたので、今度は眠らずに観ようと決意し観ていたが、さすがにその朝五時出発だったためか、ジョニー・デップが殺される前に寝てしまい、目覚めて後半だけ観て、終わってからまたジョニーが殺されるまでの前半を観て、順序は不規則なものの、なんとか一通り全部を、観た。ケネス・ブラナーが楽しそうにポアロを演じているというだけの映画であった。かつてのシドニー・ルメット監督版『オリエント急行殺人事件』を封切りで観て、ジョルジュ・ドルリューの音楽に陶酔し当時の名優達の競演に興奮した身としては、物足りないどころではない。1976年、岡山グランドという映画館では、その旧版『オリエント急行殺人事件』と『ゴッドファーザーPARTⅢ』の二本立てというクレイジーな(併せて5時間半という)番組での上映だった。この映画館はリバイバルの『明日に向かって撃て!』と当時無名のトビー・フーパー監督のできたてほやほや新作『悪魔のいけにえ』を二本立てするという素敵なクレイジーさを持っていた。
で、そのタイから帰国便の飛行機で私の隣の席にいた清水弥生が、「あー『スリー・ビルボード』やってる。でも帰国して映画館で観るから観ない」と私が呟いたのを聞き捨てにせず、こっそり『スリー・ビルボード』を観て、着陸前から「面白かった」を連発したのである。そもそも日本にいる多くの知人友人たちからも『スリー・ビルボード』を観た評判は伝わってきていた。そもそも『スリー・ビルボード』の脚本・監督マーティン・マクドナーの二十代でのデビュー戯曲『ビューティークイーン・オプ・リナーン』なんかを日本で一般に知られる前からフォローしていた身としては、なんだか「ちぇっ」という気分にさせられていたのだ。当時苦労して『ビューティークイーン・オプ・リナーン』日本初演を実現した立石凉子さんの活動を応援していたということもあった。
ま、いい。とにかく、帰国したらまず『スリー・ビルボード』を観なくちゃ、ということだったのである。期待大なのも当然だ。

で、帰国翌日にもう『ブラインド・タッチ』の稽古を始め、三日後、その日の稽古が終わったものの、これもいろいろとお誘い頂いていたのも含めて何か夜の部に芝居を見に行くのはタイミング的に微妙に遅すぎて、吉祥寺オデオンに駆け込み、バレンタインデーに相応しい映画かどうかは知らぬまま、なんとか『スリー・ビルボード』最終回の鑑賞を果たしたのである。

本題に入る。


『スリー・ビルボード』。

最初の三十分はもう、ここしばらくのどんな映画よりも映画としての活力に満ちていた。文句のつけようもない出来映えと思われた。
その後もいろいろと面白い。さすがであった。
コーエン兄弟監督『ファーゴ』を思い出した。主演者と音楽が同じである。アメリカの片田舎の犯罪劇。あの映画へのオマージュの要素もあるのだろう。

しかし。

後半、物語は乱走しているように思われ始めた。もちろん、確信犯であるとわかるところもある。それは了解している。
が、どこか馴染めなくなってきた。
本来はそういう規格外れの乱走じたいは、決して嫌いじゃないはずの私であるにもかかわらず、だ。
シナリオライターの荒井晴彦さんもあまり納得していないらしい、と聞いた。

で、この終わり方はどうだろう、と、思った。
ただ、私なりに、こう考えればぎりぎり納得できる、という線は、あった。
ところが、日本の観客で、その考え方をしている人は、あまりいないようなのだ。

【以後、本当に、ネタばれ】

それがどういうことかを、簡単に説明してしまえば、新警察署長が最後に登場したさいの、言動のとらえ方である。
新警察署長は言う。元警察官ディクソンが持ち込んだ、「レイプ犯かと思われたアイダホの男」のDNAは、レイプされ殺されたミルドレッドの娘アニーから採取されたものとは一致しなかった、その男は「国家機密」に属する戦争に従軍し、犯行当時には異国にいた、と。
しかしそれは本当だろうか。
新警察署長は、元警察官ディクソンの乱行、人種差別傾向、蒙昧を、僅かの間に知り尽くしている。だからあっという間に免職させてしまう。ディクソンが妄想、錯乱の持ち主であることも知っている。
新警察署長が、そんなディクソンの差し出した「証拠」を、真面目に調べたりするだろうか。彼のすることを虚偽と決めつけて当然だ。酒場で揉めた相手を陥れようとしていると決めつけているだけではないか。とはいえ、ただ門前払いするのも面倒だ、前所長を信奉し自分なりの正義感を持ち愚直でさえある彼に、誠実そうに「虚偽の真実」を伝えれば、それを信じるはずだ、と確信していたのはないか。
だから、「レイプ犯かと思われたアイダホの男」について、調べもしないで無実であると伝え、偽の事情やアリバイを示して、かわすのではないか。
ディクソンは元警察官だけに「レイプ犯かと思われたアイダホの男」の住所などは既に調べている。ただし「DNA鑑定の結果」と「犯行時のアリバイ」は、彼には確かめられないことだ。ならば彼を欺くことは容易だ。
新警察署長は被害者の母親ミルドレッドに言う。「味方はいる」と。それは、彼女を、ディクソンのような輩から守るということだ。そんな彼がディクソンの提供する「証拠」をありがたく受け取り、正当に調べるだろうか。

「レイプ犯かと思われたアイダホの男」は、ミルドレッドのいる店で犯行を仄めかして脅すし、酒場でディクソンに犯行を認めるような発言を思いがけず聞かれたとき、過剰に反応する。とくに後者は真犯人であることを明確に示しているように思われるエピソードだ。真犯人でなければ、手品をしている相手に引っかかれたくらいであそこまでの制裁を加えないはずだ。それをディクソンにはわからない形で観客にはより確信を持ってわかるように説明している描き方だった。普通の物語展開の方法論では、この語り口を使うときには確実に、「登場人物の知り得ない真実を、観客には提供している」はずだ。

ラストシーンは、真犯人である「レイプ犯であるアイダホの男」を、ミルドレッドとディクソンが、遥か遠くまでの長い道のりの先に、殺すであろうことを、示している。
あるいは、殺さないかもしれない。
道々考える、と、言っているとおりだ。

殺さなかった場合は、どうなるか。
復讐すべき相手に寸前まで迫ったのに、新警察署長の言葉を信じて、「同じようなレイプ殺人をしたから殺す」ということに、違和感を感じて、じつは真犯人である彼を見逃した、ということになる。
それはそれで、皮肉な、深みのある結末だ。

しかし、新警察署長の言う通り、「レイプ犯かと思われたアイダホの男」のDNAがミルドレッドの娘アニーから採取されたものとは一致せず、その男が「国家機密」に属する戦争に従軍し、犯行当時には異国にいた、と言うことが真実だとすると、もちろん皮肉な結末ではあるものの、観客にも登場人物にも、ただ、真相は藪の中、というだけになってしまう。
ミルドレッドとディクソンの道行きも、その意外さのみからいろいろとしみじみ感じる、というだけになってしまう。

はたして、それでいいのだろうか。
私には、あの新警察署長がディクソンを欺いたつもりが、「真実」を見逃した、という方が、よほど面白いと思われるのだが。


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