Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

『ブレスレス ゴミ袋を呼吸する夜の物語』 パンフレットの「ご挨拶」を紹介します

2022-08-06 | Weblog

『ブレスレス ゴミ袋を呼吸する夜の物語』 パンフレットに記した「ご挨拶」を、紹介します。

 

 

『ブレスレス ゴミ袋を呼吸する夜の物語』は、一九九〇年初演。もともとは『東京ゴミ袋』というタイトルで、映画の企画として準備していた。廣木隆一監督、故・成田尚哉プロデューサーと、中央防波堤外側埋立処理場へシナリオハンティングに行った。監督とシナリオを詰め、後に加藤正人さん、安藤尋さんも加わって改稿を進めていたが、映画化は果たせなかった。俗に言う「バブル」の時代、ゴミ収集作業員の青年が、ピンク色のリボンが巻いてあるゴミ袋を回収しようとして、中に割れた陶器があったため手を切ってしまい、捨てた相手への憎悪に燃えるというプロットは、その時点から、あった。つまりは、青春ドラマ的であった。

演劇化するにあたっては、ゴミ問題を背景に、『リア王』を再生させる試みとなった。八〇年代には「千石イエス」の「おっちゃんの娘たち」の存在に惹かれていた。そして昭和天皇の葬式の日、初めて、東京中の駅から、ゴミ箱が撤去された。オウム真理教事件が露呈する前で、坂本弁護士が失踪したばかりの時期だった。

猪熊恒和、川中健次郎は、初演と同じ役を演じる。初演でムラカミを演じた大西孝洋は、その後、コジマを演じ、再々演ではサカモト、今回は、「パパ」である。今回の座組に初演メンバーが六人いる。私も出演していた。当時は野田秀樹さんや渡辺えりさんなどもそうだったが、自分も出演している作品で岸田戯曲賞をいただくのはよくあることのような気がしていたが、じっさいにはそう多くはないそうだ。

劇場も、初演、再演と同じ、下北沢ザ・スズナリである。キャッチコピーも新たに書かず、あえて初演のままにした。問題意識は継続しているということなのだろうが、時代は、私達の望む方に、進んできたといえるのかどうか。

劇中登場する「伝言ダイヤル」は、いま思えば、インターネット上のネットワークの先取りであるような気もする。SNSの書き込みが瞬時に世界中へ拡散されるように、「パパのお言葉」が、当事者不在のまま広がり、続いていくというイメージだ。

三十二年前の作品を同じ劇団で上演するわけだが、四月から、一部出演者を募集する意味も含めたオープン・ワークショップを、重ねた。結果として、若い人たちにも加わってもらった。古い袋の中に、確実に、「いま」の空気が入ってくると、信じている。

 

……………

 

写真 左から、南谷朝子 山本由奈 三好樹里香 森尾舞 大西孝洋 川中健次郎 滝佑里 遠藤いち花 坂下可甫子 鬼頭典子。

撮影・姫田蘭。

 

……………

 

『ブレスレス  ゴミ袋を呼吸する夜の物語』

初演 一九九○年二月〜四月 下北沢ザ・スズナリ、相鉄本多劇場

再演 一九九二年七月〜九月 下北沢ザ・スズナリ、名古屋、浜松、松本、赤坂、岡山、京都(美術・加藤ちか)

再々演 二〇〇二年九月〜十月 三軒茶屋シアタートラム、べルリン、ライプチヒ、クラクフ、ワルシャワ、可児、滋賀、博多(出演・柄本明、島田歌穂、他 美術・加藤ちか)

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水害の現実を認めよう

2022-08-06 | Weblog

ここ数日、日本列島を襲った水害。その現実を認めよう。

この被害には理由がある。

特別な氾濫、ではない。

地球温暖化のせい、でもない。

理由は明確にある。

 

全国でこんなに多くの水害被害が起きている。

日本という国が、この間の、自然と環境の変化の原因に気づいていない。

日本政府が、対策を講じていない。

 

ひょんなことから私も関わっているこの水害の問題、今、手を打たなければたいへんなことになる。

理由は明確に指摘できる。

 

人災なのだ。

 

この件は、あらためて。

 

写真は、去年5月の球磨川の被災。 

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映画 『Blue Island 憂鬱之島』の、「香港」と「映画」への信頼

2022-08-06 | Weblog

自由・自立を求める市民運動に参加する現在の香港の若者たちに、過去の中国・香港の反体制運動に携わった人たちを演じさせるという、この映画の仕組みに驚かされる。そういうやり方は多くの場合、「思いつき」の域を出ることは難しいように思われがちだ。ところがこの映画は、それが「香港」が舞台だからこそ可能なのだ、と、無理を通す。「本人」と「演じる人」に、確実に、共有するものがあるからだ。

過去・現在の事実を舞台上で演じるという構造を、「演劇」という形で行っている自分からしても、この『Blue Island 憂鬱之島』が、それを「映画ならでは」の形で行っていることに瞠目する。そう、ときに「演劇的」ともいえる素朴な手法さえ、それを「映画」だからこそできるのだ、と、無理を通している。そこが素晴らしい。

この作品の中心にあるのは、「香港」「映画」への信頼、である。

 

「香港は、自ら運命を決めたことは一度だってない」という台詞が、印象的。

皮肉であり、反語でもあるはずなのだが、正面からそのことを受け止めている人たちがいる。それは、「香港」の立ち場が、国際政治の中で位置づけられるものではなく、「香港の人たち=香港」でありたいという、この映画の思想を、この映画じたいが体現している、ということだ。

文化大革命が起こるならと「自由」を求め香港との海峡を泳ぎ渡ることを選んだ、陳克治氏自身の強靱な肉体が、その思いの結晶のように見える。

 

国際合作であり、日本側プロデューサーの小林三四郎、馬奈木厳太郎両氏は近しい人たちなので、ようやく見ることができて、感激である。

 

来月、私の戯曲『屋根裏』が、香港の若い世代によって上演される。もう何度目かである。そんな形で「演劇」として繋がれていることを頼りに、自分なりに「香港」に思いを馳せる。

私自身が香港に行ったことは、一度しかない。もう四半世紀前のことだ。

 

 

 

『Blue Island 憂鬱之島』公式サイト

https://blueisland-movie.com/index.html#staff

 

 

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