Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

「違憲」の歴史過程を「闇に葬る」のか

2015-09-28 | Weblog
他国を攻撃した敵への武力行使を認める「集団的自衛権」の行使容認は、明らかに「違憲」である上、実施されれば戦後の安全保障政策を大きく転換させるもので、今月成立させられた安全保障関連法の一番の問題点である。
内閣直属機関で、審査事務=政府が作る法令案の審査と、意見事務=内閣に対する法的な助言を主な役割とする「内閣法制局」は、積み重ねられてきた法解釈との整合性を重視した厳格な審査をすることから、「法の番人」と呼ばれてきたという。
毎日新聞によれば、これまで40年以上も「集団的自衛権」を違憲と判断し、政府の憲法解釈として定着させてきていたはずのこの「内閣法制局」が、解釈変更を巡り閣議前日の昨年6月30日、内閣官房の国家安全保障局から審査のために閣議決定案文を受領。閣議当日の翌7月1日には憲法解釈を担当する第1部の担当参事官が「意見はない」と国家安全保障局の担当者に電話で伝えた、という。
依頼されて翌日回答?
たった一日で判断?
しかもこの検討過程は公文書として残されていないという。
横畠裕介長官は今年6月の参院外交防衛委員会で、解釈変更を「法制局内で議論した」。衆院平和安全法制特別委では「局内に反対意見はなかったか」と問われ「ありません」と答弁している。
法制局が今回の件で文書として保存しているのは、安倍晋三首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の資料、安保法制に関する与党協議会の資料、閣議決定案文の3種のみで、横畠氏の答弁を裏付ける記録はないという。
たった一日で「法制局内で議論した」とはとても思われない上、意思決定過程の記録を行政機関に義務づける公文書管理法の趣旨に反するというのは、専門家でなくてもわかる理屈だ。
「集団的自衛権行使は憲法上許されない」とする1972年の政府見解では、長官以下幹部の決裁を経て決定されたことを示す文書が局内に残っているという。
公文書管理法では「意思決定に至る過程や実績を検証できるよう、文書を作成しなければならない」としているが、それが「ない」わけだ。
富岡秀男総務課長は「必要に応じて記録を残す場合もあれば、ない場合もある」「今回は必要なかったということ。意図的に記録しなかったわけではない」と説明しているという。
しかし、「違憲」の審議の内容について「闇に葬る」意志は明らかで、「誰も責任を取らない」ための措置であり、逆に、実は「違憲」であることを、彼ら自身がわかっていたということの証左ではないか。

今月25日、「市民有志」による「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の続行を求める申し入れ」が行われたが、安保法制は成立したとは言えないし、採決が無効であることは、こうして様々な方面から確かめられていくはずだ。
同「申し入れ」にあるように、「採決が行われたとされる同日16時30分頃の委員会室の模様を参議院のインターネット中継やテレビの中継・録画で視る限り、鴻池委員長席の周囲は与野党議員によって何重にも取り囲まれ、委員長の議事進行の声を委員が聴き取れる状況になかったことは一目瞭然です。また、委員長も動議提出の声を聴き取り、各委員の起立を確認できる状況になかったことは明らか」である。そしてそのとき総理大臣もまた、その場から逃げ去って、いなかった。
実際、速記録でも「議場騒然、聴取不能」と記されるのみ、議事進行を記す委員長の発言も質疑打ち切り動議の提案も、記されていない。参議院規則が定めた「議長は、表決を採ろうとするときは、表決に付する問題を宣告する」(第136条)、「議長は、表決を採ろうとするときは、問題を可とする者を起立させ、その起立者の多少を認定して、その可否の結果を宣告する」(第137条)という表決要件を充たしていないことも明らかである。
そもそもまだ地方公聴会の報告さえ行われていない。自民党の佐藤正久筆頭理事が「記録を止めて下さい」と委員会の進行を一旦ストップさせていた上での、委員会メンバーではない自民党議員や秘書らによる鴻池委員長への「スクラム包囲」だった。
手順も、記録も、合法的でない。
「採決」を「撤回しろ」ではなく、「成立していない」ことを認めさせなければ、おかしい。
しかし賛同署名およそ3万2000筆の「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の続行を求める申し入れ」提出に対して鴻池事務所側は、受け取りを拒絶したという。
自信があるならなぜ不意打ちで「採決」したのか。なぜ記録を残さないのか。疑問に対して説明を果たし、議論で応じようとしないのか。

もしもこの「採決」に抗議して、全野党議員が総辞職していたら、この法案は通らず、国会も立ち往生し、ひょっとしたら選挙に持ち込めたのではないか、という意見もある。
それが可能なのかどうかは私にはわからないが、なんとかしてブレーキをかけなければ、引き返すのが容易でない事態になってきているのは確かだ。

政府は防衛省の外局として「防衛装備庁」を10月1日に発足させるという。
1800人体制で、陸・海・空の自衛隊が別々に行っている防衛装備品の研究開発や調達、輸出を一元的に管理し、コストの削減を図るものだという。
自衛隊の部隊運用業務は内部部局の運用企画局を廃止、自衛官中心の統合幕僚監部に集約する組織改編を行うことも決めた。自衛隊運用の意思決定を早めるのが狙いだとしている。
中谷防衛相は記者会見で「新たな組織の下で、防衛省・自衛隊がより能力を発揮し、適切に任務を遂行できるようになる」と語った。
防衛省の平成27年度予算案には、設置の背景が次のように書かれている。……活発化する周辺国の活動への抑止力・対処力の向上、新たな脅威に対応するための技術的優位の確保、防衛装備の国際化、限られた防衛需要の下での、我が国の防衛生産・技術基盤の維持・育成、調達の適正性・透明性確保のための調達のあり方の検討。そして、厳しい財政的制約の下での防衛力整備、装備品の高度化・複雑化に伴う単価上昇への対応、中期防達成のための実質的財源7000億円の確保と、「カネ」の問題が重要であると、告白している。
「武器経済」としてのプロジェクト管理を強化できる体制の構築が必要とされていた、というわけだ。

武器輸出を認める「防衛装備移転三原則」は、昨年四月に閣議決定されている。
そして、民間企業の武器輸出を推進するため、防衛省が武器輸出事業に貿易保険の適用を検討している現実がある。
貿易保険は支払う保険金が巨額で民間保険会社では引き受けられない取引が対象で、独立行政法人が扱っているが、保険金支払いのために積み立てた資金を超える支払い請求があっても、国の特別会計を使って請求に応じられる体制を整えているという。国が補填した分は相手国政府などの債務となるが、債務返済が不履行になった場合は、最終的に国が背負うことになる。
つまり、保険金支払いで赤字運営になると国が不足分を補填する仕組みになっているというのだ。相手国の戦争や内乱などで輸出代金が回収できなくなったり、投資先が事業継続できなくなったりした場合が想定されている。防衛省装備政策課は「国として武器輸出政策を推進するには、企業を支援するさまざまな制度を整える必要がある」と説明しているという。

武器取引で生じる企業の損失を国民の税金で負担する?
武器輸出はもはや「国策」であり、防衛装備移転三原則から「集団的自衛権」、武器提供「支援」により、企業ばかりを設けさせる仕組みが完備された、ということでもあるのだ。
もはや政府にも企業にも「国民の理解は得られない」という不安はないのだろう。やった者勝ち、の厚かましさである。

武器輸出三原則がなくなることを、当時、ちょっとしたマイナス要因だが取り返せる、くらいに軽く見ていたとしたら、この国が「経済」で動いているという現実を、甘く考えていたことになる。

人間よりも、国土の安全より、「経済」が大事。
今年8月11日、川内原発再稼働強行の日に合わせ、宮沢経産大臣は停止中の原発に対する自治体への交付金減額を表明した。
毎日新聞によれば、原発の稼働率などに応じて自治体への交付額が決まる電源立地地域対策交付金制度について、経済産業省は、安全確保を目的とする停止中は稼働率を一律81%とみなして交付する現在の規定を見直し、東京電力福島第1原発事故前の稼働実績(平均約70%)に基づいて原発ごとにみなしの稼働率を定め、停止中の交付額を引き下げる方針を固めた。2016年度分から見直すという。
みなし規定は原発事故を受けて停止中の全国の原発についても適用されており、減額を恐れた自治体から今後、再稼働を求める動きが強まる可能性があるというが、理不尽すぎないか。
川内原発再稼働により、今後、「再稼働した原発」と「停止中の原発」を差別化し、「公平性確保」を保たねばならないのだそうだ。
民主主義には、「公平」「不公平」の考え方が適応されるべきところと、そうでないところがあるはずだ。
原発はあるだけで危険だし、稼動せずに維持するためだけでも、周辺に負担をかけるものだ。
自治体の「交付金頼みの財政」を批判することも必要かもしれないが、そのような関係性を作ってきた国の施策自体に責任がある。
「武器」と「原発」を輸出したい国家による、再稼働への露骨な圧力は、許されるべきではない。

一方、法務省が「第5次出入国管理基本計画」を決定。
保護すべき外国人を受け入れる新たな仕組みを検討するほか、就労目的で申請を繰り返すケースには在留を認めないなど、厳しい姿勢で臨んでいる、という。
初めから偏見に満ちていて、限りなく「移民受け入れゼロ」を目指しているこの国の態度である。

「積極的平和」は、「移民を受け入れること」にこそふさわしい言葉だ、という意見もあり、それは頷ける。
しかし日本国民の意識は、調査によると、「受け入れ人数を増やした方がいい」19.9%に対して、「受け入れ人数を減らした方がいい」が43.3%だという。たぶん、この国で「移民」というものの意味づけと実態が浸透していない中での調査なのだということは、わかる。
しかし、お寒い限りだ。

「リベラル」に見える人でさえ、「国益」というコトバを使っていて違和感を感じていないように見えることが、増えてきた。
本義的な意味で「平和」を語るとき、それが「世界の平和」であることは、自明でなければ、おかしい。憲法九条は、その原則を踏まえて存在するものだ。
「集団的自衛権」に反対するのも、そこが出発点である。
それを「お花畑」とか言っている人たちは、そうした自分の「リアル」を信じて、人間どうしが「殺し殺される」関係を、是認していくのだろう。

写真は、以前にも登場したメルヴィル人形。
過去の表現者に私たちの現実が見られている、晒されている、という感覚は、私には、時々、ある。
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